考える - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想10 カント<上>
486件見つかりました。

1. 世界の大思想10 カント<上>

が、しかしそれにもかかわらずわれわれがそれについて、現統一をその上に基礎づけるような、或るものの理念、また理 象相互の間に存する関係と似た関係を、現象の総括との間に性法則に従うとすべての事物の原因をなすような現実の実体 考えるような或るもの、ということになるのである。 との類比によるほかにわれわれの考えることのできないよう な或るものの理念にすぎないのである。実にわれわれがこの したがってわれわれがこのような観念的な存在体を想定し ても、本来われわれの認識を可能な経験の客体を越えて拡張或るものを、ひろく或る特殊な対象として考えようと企てる するものではなく、単に可能な経験の経験的統一を、体系的かぎり、そして理性の統整的原理という単なる理念をもって 統一によって拡張するのみである。そしてこの体系的統一の は満足せずに、思惟のあらゆる制約を完結することを、人間 ために理念がわれわれに図式を与えるのであり、したがって悟性にとって過大な仕事であるとして断念しようとしないか 理念は構成的原理としてではなくて、単に統整的原理としてぎり、上に述べたように考えざるをえないのである。すなわ 働くのである。けだしわれわれが理念に対応する物、或るもちこのようにあくまで思惟の制約の完成を断念しないこと の、或いは現実的存在体を定立するとしても、それによっ は、かえってわれわれの認識における完全な体系的統一への て、われわれが事物に関するわれわれの認識を、超越的概念意図、それに対しては少なくとも理性は何らの制限をおくも によって拡張しようとすることを意味するものではないからのではないが、この統一への意図と両立することができない である。そもそもこのような存在体が根柢におかれるのは、 のである。 単に理念においてのみなのであって、それ自身においてでは そこでここに生じてくることは、わたくしが神的存在体を なく、したがって単に理性の経験的使用の規準として用いら間 想定する場合、もちろんわたくしはそのような存在体がその れるべき体系的統一を表現するためであって、やはりこの統内部に最高完全性を具えたものでありうることについても、 一の理由が何であるかとか、原囚としてこの統一の基礎をな またそのような存在体が必然的に現実に存在することについ すこのような存在体の内的性質がどのようなものであるかに ても、何ら知るところはないが、しかしこのような存在体を 論ついて、何らかの決定をなすためなのではないのである。 想定する場合には、やはり偶然的なものに関する他の一切の 尹 かくて単に思弁的な理性が神についてわれわれに与えると 問題には満足を与えることができること、また理性の経験的 験ころの、先験的にして唯一明確な概念は、厳密な意味におい 使用において追求せらるべき最大の統一性に関して、理性に て理神論的である。すなわち理性は決してそのような概念に最も完全な満足を与えることができること、しかしこの神的 ついて客観的な妥当性を与えず、理性の与えるのはかえっ存在体という前提そのものに関しては満足を与えることがで て、単にあらゆる経験的実在性が、その最高にして必然的な きないということである。そしてこのことによって、理性の B 704 A676

2. 世界の大思想10 カント<上>

539 解説 えられるであろうが、そこにあらゆる哲学の基礎をなすもの と共通な何ものかが含まれているからに違いない。そしてそ 解説 のような思想の核心というものよ、、、 し力なる哲学者の場合で カントの生涯 も、多かれ少なかれ、その哲学者の人格と密接につながって いる。思索する主体のない思想というようなものは抽象的な 桝田啓三郎 思想であって、およそ哲学の思想が具体的と考えられるかぎ 新カント学派の驍将ヴィンデル・ ( ントは、一八八三年、そり、その思想はその主体、すなわちその哲学者の人格と切り の「序曲」初版の序で、「われわれ十九世紀において哲学す離すことはできない。もちろん哲学の歴史の上では、その人 格や生涯が重要な意味をもたない哲学者も多い。しかし哲学 る者はすべて、カントの弟子である」と書いている。カント というもののあり方を厳密に考えるならば、生活や人格とま 哲学の復興のとき、というよりも新カント学派の勃興のとき ったく無関係な哲学などありえないであろう。少なくとも、 に書かれたこの言葉は、一一十世紀も半ばを過ぎた今日では、 しかしカントの第一流の思想家にあっては、その思想の魅力は同時にその晢 遠い昔の思い出としてしか響いてこないが 学者の魅力でもあるといってよいであろう。カントの場合も 哲学が残した影響ははかり知れぬほど大きく、意識されてい るといないとにかかわらず、かなり多くの哲学者が今日なおそうであって、カントの諸学説は普通に考えられている以上 に、彼の生活および人格と密接に関係をもっているのであ カントの影響下にある。新しいカント研究が相ついであらわ る。このことについて、ゲーテはその晩年の友ファルク D. ースな れているというばかりでなく、ハイデッガーやャスパ J. Falk にこう語っている。 どの新しいカント解釈の試み、そして彼らの思想におけるカ 「カントは厳格に節度を守る人だったので、この彼のもって ント哲学の摂取の跡を考えるだけで、その一端をうかがうこ とができるであろう。ドイツの文学者フリートリヒ・ヘッペ生まれた傾向に哲学を一致させる必要があったのだ。彼の生 力いかに快ノ、立 7 ルはカントを、同時代のフリートリヒ大王よりもはるかに強涯を読んで見たまえ、そうすれば、カント、、、 力に世界を動かしゆすぶった思想家だと言ったが、カントの時の社会状態と事実はっきりと対照をなしていた彼のストイ シズムのかどを取って力をそぎ、それを調節して世間と釣合 哲学が、およそ哲学というものの存続するかぎり、いつまで わせたかが、すぐにわかるだろう」 も影響を与えつづけるであろうことは疑う余地がない 見方によってはカント哲学の中心ともいえる倫理学あるい そのようないわば永遠の影響力がカント哲学のどこにある のか、それは時代により、また人により、それぞれ異なって考は道徳説において特にそうである。カントの「自律」の思想

3. 世界の大思想10 カント<上>

のは、わたくしは、少しでもわかりにくいために学術語が難かしくされるよ れ ( 物 ) によっては、思想の先験的主観Ⅱ以外の何ものも りも、むしろ多少言葉の美しさを損じてもわかり易い方がよいと考えたから 表象されない。 これはその述語をなす思想によってのみ認識 である。 っ 0 ′ 0 されるものであり、それだけ分離してはわれわれはそれにつ これら四つの要素から純粋理〕心理学の一切の概念が、 いてとうてい少しの概念も持っことはできず、したがってそ 少しも他の原理を認める要なくして、もつばら合成によって の回りをたえずぐるぐる循環するのみである。けだしこのよ 0 1 こっ 生する〔、 。「」〕この実体は、単に内官の対象としては非物質うな先験的主観行じについて何ごとかを判断しようとする 性 (lmmate 「 ialität) の概念を与え、 = 己単純な実体として ためには、われわれはもともとつねにその表象〔嫋、たくし は不朽性 ( ln 。。「「 = 「ま = = 琶の概念を与え、 ) ま〕知的実体用いざるをえないからである。この不都合はこのような先験 としての実体の自同性は人格性 ( p 舅。 n 。一一 ) を与える。以上的主観からは取除くことのできないことである。なぜならば 。 4 に の三つの点は相合して精神性 ( s 耳ぎ巴一 ) を与える〔 0 その意識自体が、特殊な客観を区別する表象ではなく、表象 空間における諸対象との関係は〕物体との交互作用が認識と呼ばれるべきかぎり、表象一般の形式であるからで (Commercium) を与える。したがって合理的心理学は思惟すある。けだしこの形式によってのみ、「わたくしはそれによ る実体を、物質における生の原理として表象する。換言すれって何ものかを考える」ということができるのである。 ばそれを魂 (anima) として、また生動性 (Animalität) の基礎 しかし一般にわたくしがそれによって考えるところの条 として表象する。この生動性が精神性によって制限されると件、したがって単にわたくしの主観の性質であるところの条 き、不減性 (lmmortalität) となるのである。 件が、同時に、すべての思惟する者に妥当するはずであると ところで先験的心理学は、思惟する存在体としてのわれわされること、またわれわれが、経験的と思われる命題に必当 れの本性に関する純粋理性の学であると、誤って考えられて然的かっ普遍的な判断を基づけようとする不遜をあえてなそ いるのであるが、この学の四つの誤謬推理はこれらの諸概念うとすることがありうること、すなわちすべての思惟する者 論に関している。しかしこの学の根柢にわれわれのおくことの如 が、自己意識の宣言によってわたくしについて言われるとこ 鉅できるのは、単純な、それだけでは内容においてま「たく空ろと同じ性質を持っているとされることは、最初は異様に思 虚な、自我という表象以外の何ものでもない。 このような表われるにちがいない。けれどもこのように見なされる原因和 先 象についてはわれわれは決して、それが概念であるというこ は、われわれが物を考える場合にそれに従わざるをえない条 とができず、かえ「てあらゆる概念に伴う単なる意識であ件をなす性質をすべて、われわれが物に先天的必然的に付与 る。がんらい思惟するこのわたくし、或いは彼れ、或いはそせざるをえないところにある。そもそも思惟する存在体につ

4. 世界の大思想10 カント<上>

108 であるが、しかしこれらの対象がその上、思惟の総合的統一自己のうちから必然的にかっ端的に普遍的な規則にしたがっ のために悟性が必要とする条件にもしたがうものでなければ て、続いて生ぜしめるということを含んでいるということで ならないということの断定は、そう軽々に洞察できないからある。なるほど現象は、或るものが通常それにしたがって生 である。というのは、場合によっては現象が、おそらく悟性起する規則のありうることを示す事例を、われわれに与えて にとってそれが悟性の統一の条件に全然したがわないものでくれることはいうまでもない。けれどもその結果するとこる あることがわかり、またそれがすべて混乱したものであって、 が必然的であることは、決してその示すところではない。それ たとえば現象の系列において総合の規則を与えてくれるよう ゆえ、原因と結果との総合にはまた、経験的にはまったくい な、したがって原因結果の概念に相当するような、何ものも い表わすことのできない尊厳性が付着しているわけである。 示されず、その結果この原因結果の概念もまったく空無にしすなわち結果は原因に付け加わるものであるのみならず、厚 て無意味であることも、ありうるかもしれないからである。 因によって定立され、原因から継起するものであるというこ とはいえ現象はわれわれの直観に対象を供するものであろとである。規則の厳密な普遍性はまた、全然経験的規則の性 う。けだし直観は決して思惟の機能を要しないものであるか質とは別種のものであり、経験的規則は帰納によるもので比 らである。 較的な普遍性、すなわち広い範囲に適用されるということ以 もし人々がこの研究の労苦をまぬがれようと考え、「現象外の何ものをもえることはできない。しかるにいまもし純粋 がこのような合法則性を有することの例証は、経験によって悟性概念を単に経験的所産として論じようとするとすれば、 絶えず示されるところであり、これらの例証は、原因の概念純粋悟性概念の使用はまったくちがったものとなってしまう を現象から抽象して、それによって同時にこの概念の客観的であろう。 妥当性を確証すべき機縁を十分に与えるものである」という 亡四 ) とすれば、このような人々は、こうした方法では原因という 概念は全然生じないこと、むしろ原因という概念はまったく 先天的に悟性のうちに基礎づけられているものでなければな 範疇の先験的演繹への移りゆき らないか、それとも単なる妄想として全然放棄されねばなら なし力、いずれかでなければならないことに思いいたらない 総合された表象とその対象とが合致し、相互に必然的に関 ものである。そもそも原因という概念のあくまで要求すると係し、いわば相会しうる場合としては、二つの場合がありう ころは、 << なる或るものがその性質として、なる他のものをるのみである。対象が表象をもつばら可能ならしめるか、そ A91

5. 世界の大思想10 カント<上>

てはなれた自己の実際の存在を意識している、ということが 人格の同一性を意味することもでぎない。人格の同一性とい 2 うとき、主観の状態がどのように変易した場合にも、思惟す先天的に証明できるものとすれば、それはわれわれの批判の 前に立ちはだかる大きな、否、むしろ唯一の石となって、われ る存在体としての主観独自の実体がつねに同一性を持っとい う意識が意味されるのであるから。人格の同一性を証明するわれの批判をまったく無用ならしめるであろう。けだしもし には、「わたくしは考える」という命題を単に分析するだけこのようにしてわれわれが一歩をでも感性界の外へ踏み出し たとすれば、われわれは本質体の領域に踏み入ったこととな では果たされず、与えられた直観に基づくところの種々なる り、今やこの本質体の領域においてわれわれがさらに自己を 総合判断が必要とされるであろう。 ( 4 ) いに〕。わたくしは、一個の思惟する存在体として拡大し、増築し、幸運の星の恵ながままにその地を占有する のわたくし自身の実際の存在を、わたくし以外の他の物 ( それ権能をわれわれに拒む者はないこととなろうからである。 ーーわたくしの身体も属する ) と区別する、というのも同じく一 ったい「思惟する存在体はいずれもそのようなものとしては 個の分析的判断である。けだし他の物とは、わたくしから区単純なる実体である」という命題は先天的総合命題である。 別されたものとしてわたくしが考えるものであるからであなぜならこの命題は第一には、思惟する存在体の根柢に存す る。しかしこのわたくし自身の意識が、わたくしに表象を付る概念を越えて、現実的存在の仕方を、考えるという働き一 与するものであるわたくし以外の物がなくても十分可能なの般に付加するものであり、第二には思惟する存在体という概 であるかどうか、したがってわたくしが単に思惟する存在体念に一個の述語 ( 単純性という ) 、経験中にはまったく与えられ として ( 人間であることなしに ) 実際に存在しうるかどうかは、 ることのできない述語を付加するものであるからである。か この命題によってはわたくしの知るところではない。 くては先天的総合命題は、われわれのすでに主張したように、 であるから考える働き一般におけるわたくし自身の意識を可能な経験の対象に関し、しかもこの経験自身の可能なゆえ どんなに分析しても、客観としてのわたくし自身の認識冫 こ関んの原理として、有用かっ妥当なものなのであるが、それば しては少しもえるところはない。考えるという働き一般の論 かりでなく、物一般及び物自体に対しても関与することがで 感覚される対象が存在 きることとなる。このような結論はこの批判全体に終止符を 理的研究が、誤「て客観の形而上学的規定〔 すると独断的に決めう るとす 打ち、旧態に甘んずることを命ずるものであろう。しかし事が ること 〕と考えられるのである。 もしあらゆる思惟する存在体がそれ自身単純な実体であらを仔細に見るならば、この場合危険はさほど大きくはない。 り、したがってこのような実体として ( 上と同じ証明理由から 合理的心理学の手続において行なわれている誤謬推理は、 の帰結であるが ) 人格性を不可分離に伴っていて、物質をすべ次のような三段論法によって示されるものである。

6. 世界の大思想10 カント<上>

ら「不定に」というのは「諸君の好きなだけ延長せよ」とい くしがどんなに遡ったにしても、その系列をどこかで限界づ う意味にほかならないが、「無限に」というのは「諸君は決けられたものと考える経験的な根拠は見いだされす、したが して延長することを止めてはならないーということ ( これは ってわたくしは祖先のそれそれに、さらに遡ってその祖先 この場合必ずしもその意図ではないが ) であるからである。とはを、必すしもそれを前提するのではないにしても、なお探し いえしかし、ただできるということが問題であるとすれば、 求めてゆく権利があると同時に義務がある、ということがで 無限的前進といういい方がまったく正当である。けだし諸君きるのみなのか。 はその線を無限にいよいよ大ならしめることができるからで それでわたくしは次のようにいおう。「もし全体が経験的 ある。このことは単に前進が、すなわち制約から被制約者へ直観中に与えられている場合には、その内的制約の系列を遡 の進行が論ぜられるあらゆる場合にも同様である。この可能源することは無限に行なわれる。しかしもし絶対的総体性へ な進行は現象の系列において無限に進められるのである。両の遡源がそこからます最初に出発すべき系列の単に一つの項 親からはじめて諸君は代々子孫を産み伝えて尽きることなく だけが与えられている場合には、不定的 ( 三 indefinitum) 背 進んで行くことができる。そしてこの系譜が実際に世界にお。進が生するのみである」と。たとえば一定の限界の間に与え いて進行して止まないことは、十分諸君にとっても考えうる 2 られている質料 ( 物体 ) の分割については、その分割は無限に ところである。けだしこの場合理性は決して系列の絶対的総行なわれる、といわなければならない。けだしこの質料は全 体性を必要としない。なぜならこのような総体性は制約とし部、したがってそのあらゆる可能な部分もろとも、経験的直 て、また与えられたもの ( datum ) として前提されるのでなく、 観において与えられているわけだからである。ところでこの 単に与えられうべき (dabile) 被制約者としてのみ、そして無全体の制約とは全体の部分であり、かっこの部分の制約は部 限に付加せられるものであるからである。 分の部分である、等々であり、そしてこの分解の遡源中には 一つの系列において、与えられた被制約者から制約へと上決して制約のこの系列における無制約的 ( 不可分的 ) 項などは 論 昇してゆく遡源が、どこまで遡りうるかという課題について見いだされないから、分割を中止すべき何らの経験的根拠も 証 弁 は、事情はまったく異なる。「遡源は無限への背進である」見いだされないばかりでなく、継続される分割のもっと先 しうるのか、それとも「ただ不定の範囲にまの項はそれ自身、この継続される分割に先立って経験的に与 とわたくしは、、 先 で ()n indefinitum) 拡げられる背進である」といいうるのか。 えられているのであり、換言すれば、その分割は無限に行な したがって、わたくしは現に生存している人間からその祖先われるのである。しかるに或る人間に対する祖先の系列は、 の系列を無限に遡ることができるのか、それともただ、わた いかなる可能な経験においても絶対的総体性においては与え B541 A513

7. 世界の大思想10 カント<上>

一個の単数であり、同時に論理的に単純な一個の主語を示す 身としては、まだ何ら客観についての悟性概念 ( 範疇 ) ではな ものであることは、もともと考えるという働きの概念中に存 、単なる論理的機能にすぎず、それは思惟に対して何ら認 識の対象を与えるものでなく、したがってわたくし自身をもすることであり、したがって分析的判断である。しかしそれ 認識さるべき対象として与えるものではない。規定する自我は「考える自我が一個の単純なる実体である」という意味で このような意味になるとそれは総合的判断をなすも の意識は客体ではなく、規定されうる自我の意識、すなわちはない。 わたくしの内的直観 ( その多様が、思惟における統覚の統一の普遍 のとなるであろう。実体の概念はつねに直観に関係するもの 的条件に合致して結合されうるかぎり ) の意識のみが客観である。 であり、直観はわたくしにおいては感性的以外のものではあ 実体性に。 ところであらゆる判断においてわたくしは、 りえす、したがってまったく悟性の領域外に、また考えると 関して つねに、判断を構成する関係における限定する主観である。 いう働きの外に存するものであるが、しかしここに「考える しかし「わたくしは考える」という「わたくし」が、考える働きにおける自我は単純である」といわれる場合、ただ という働きにおいてつねに主語として妥当し、また単に考えなのは、もともと考える働きについてのみなのである。直観 る働きに従属する述語のように見なされることのできない或の示すもののうちで、何が実体であるかを識別するためには、 るものとして妥当しなければならないということは、一個のさらにそれのみならず、この実体がまた単純でありうるかど うか ( 物質の諸部分においてのように ) を見わけるためには、他 必当然的命題であり、かっ同一的命題ですらある。しかしこ の命題は、わたくしが客観としてわたくし自身だけで存立すの場合ならば非常に多くの準備が必要であるのに、もしそれ がこの場合にはかくも端的に、貧困この上もない表象によっ る存在体すなわち実体であることを意味するものではない。 これが実体を意味するということになるとそれはきわめて広て、いわば天啓によるかのように与えられるとすれば、まこ とに驚くべきことというべきであろう。 汎な意味を持っこととなり、したがって考えるという働きの 単一性に。 うちには全然見いだされないところの、どこかから与えられ 〕わたくしが多様を意識している場合っねに 論たものをも要求することとなり、おそらく ( わたくしが単に考そこにはわたくし自身の同一性〔同一のわ たくしが〕が存しているという えるものそのものを考察するかぎり ) 、わたくしが一般に ( 考える同一律は、これまた、概念自身の中に存する命題、したがって 酌ものにおいて ) いやしくも見いだすであろうより以上のものを分析的な命題である。しかしわたくしが主観を表象する場合 先 要求することとなる。 つねに意識しうるこの主観の同一性は、主観の直観とは係わ 単純性に。したがって統覚である自我が、どんな考える りはない。主観は、この主観の直観によって客観として与え 働きにおいても、幾つもの主語に分解されることのできない られるのであるから。したがってまた、この主観の同一性は 408

8. 世界の大思想10 カント<上>

31 第二版序 している。すなわちそこでは形而上学は先天的概念〔を取 ゆる対象が必然的にそれにしたがいそれと一致しなければな らないところの、先天的概念として表わされるものであるかⅢ扱うが、それに対応する対象が経験において、それに合致しⅨ ら、ただちにもっと容易な解決法が見いだされるわけであて与えられうるのである。けだしわれわれは思惟法のこうし た変革にしたがうとき、先天的認識の可能なことをまことに る。単に理性によってのみ、しかも必然的に考えられるが、 しかし ( 少なくとも理性がそれを考える通りには ) 経験中に全然よく説明することができ、のみならず、経験の対象の総括と しての自然の根柢に先天的に存する諸法則を、十分証明する 与えられることのできないような対象についていえば、この ような対象を考えようとする試みは ( というのはこのような対ことができるからであり、これらはともに従来の方法をもっ 象はやはり考えられぎるをえないから ) 、われわれが思惟法の変てしてはなしえなかったところであった。しかし形而上学の 革と考えるもの、すなわちわれわれが事物について先天的に第一部門におけるわれわれの先天的認識能力のこの演繹か 認識するのはわれわれ自身が事物の中へ投人するもののみで ら、奇怪な、かっ第一一部門〔弁証がとりあっかう形而上学 あるとする想定の、すぐれた試金石を後で供するであろう。 の全目的にとって一見きわめて不利な結果が生する。すなわ ちわれわれはわれわれの先天的認識能力をもってしては可能 * したがって自然研究者にならったこの方法は、次の点にその本質をもつ。 すなわち純粋理性の諸要素を、実験によって確証され、もしくは否定される な経験の限界を越え出ることはできないという結果である。 ものの中に求めることである。ところで純粋理性の諸命題を吟味するにあた しかもこの可能な経験の限界を越え出るということこそまさ って、特にそれらの命題が可能な経験のあらゆる限界を超えてまであえてな に形而上学の最も本質的な関心事なのであるから。けれども される場合には、その客体について実験することはでぎない ( 自然科学にお けるようには ) 。したがって実験は単に、われわれが先天的に承認する概念 この第一一部門にはまさに、われわれの先天的理性〔働認識に や原則についてのみできることになろう。すなわちわれわれがこれらの概念 襾、すなわちわれわれの先 関して前述の第一部門が下した評イ や原則を処理して、同じ対象を、一方では経験のために感官と悟性との対象Ⅸ として、他方ではこれに反し、やはり対象としてではあるが、せい・せいのと天的理性認識が単に現象に関与するのみで、物自体について は、もちろんそれだけとしては実際それを存せしめるけれど ころ、孤立した、そして経験の限界を越え出ようとする理性のために、単に 考えられるだけの対象として、したがって二つの異なった面から考察される も、しかしわれわれによっては認識されないものとして存せ ようにあっかってである。ところで、もしわれわれが事物をこの二重の観点 しめるのであるという評価の結果が真理であることを、間接 から考察すれば純粋理性の原理と一致し、これに反し、一面的見地に立てば 理性の自己矛盾を避けることができないということが知られるとすれば、実的に証明する実験が含まれているのである。けだしわれわれ 験がこの区別の正当であったことを決定するわけである。 を駆って必然的に経験の限界および一切の現象の限界を超え この試みは望み通りに成功し、形而上学〔 験的論理学冫 ~ メ ここでは先〕こ寸し出ようとさせるものは無制約者であり、理性が一切の被約 その第一部ド〔論 分析〕において一個の学たる確実な歩みを約東者に対立せしめてこの無制約者を物自体の中に求め、それに

9. 世界の大思想10 カント<上>

は一つ以上の原因から生することがありうるからである。で あるから知覚とその原因との関係において、この原因が内的 先験的心理学の第四の誤謬推理に対する批判 であるか外的であるか、したがってすべてのいわゆる外的知 まずわれわれは前提の吟味からはじめたいと思う。われわ覚がわれわれの内的感官の単なる戯れではないかどうか、或 いはそれらの外的知覚がその原因としての外的な現実的対象 れ自身のうちに存するもののみが直接に知覚されうるもので へ関係するものであるかどうかは、つねに疑問のままなので あること、またわたくし自身の実際的存在のみが単なる知覚 の対象でありうることは、わたくしの当然主張できるところある。少なくとも外的な現実的対象が現実に存在していると いうことは単に推論されたものであるにすぎす、それはあら である。したがってわたくしの外に現実的対象が現実に存在 しているということは ( この言葉が知性的意味に解されるかぎり ) ゆる推論の有する危険をおかすものである。これに反して内 決してただちに知覚において与えられることではなく、かえ部感官の対象 ( あらゆるわたくしの表象を伴うわたくし自身 ) は直 って単に内的感官の変様である知覚に対して、それの外から接に知覚され、その実在は何らの疑惑をも蒙らないのである。 したがって観念論者というとき、われわれは感官の外的対 の原因として付加的に考えられうること、したがって推論さ 象が現実に存在することを否定する人を意味するのではな れうることである。であるからデカルトもあらゆる知覚を、 最も狭い意味で「わたくしは ( 思惟する存在体として ) 在る」と く、観念論者とはただ感官の外的対象の現実的存在が直接の いう命題に制限したのは正当であった。すなわち外的なもの知覚によって認識されることを認めないだけなのであり、そ はわたくしのうちには存在しないから、わたくしが外的なもれによって、われわれが外的対象の現実性を、あらゆる可能 のをわたくしの統覚のうちに見いだすことはできす、したが な経験によっては決して十分に確信することができないこと ってまた、本来単に統覚の限定にすぎない知覚のうちにも見を、推論するのである。 いだすことができないことは明白である。 さてわたくしは、われわれの誤謬推理をその欺瞞的仮象の 論したがってわたくしは外界の事物をもともと知覚すること面から示すに先き立って、われわれが必然的に、先験的観念 はできず、かえ「て内的知覚を、或る外的なものがそれの最近論と経験的観念論という一一重の観念論を区別しなければなら 驗原因をなすところの結果であると考えて、わたくしの内的知ないことを、まず注意しておかなければならない。しかしあ 先 覚から外界の事物が現実に存在することを推論しうるのみな らゆる現象の先験的観念論というときわたくしは、あらゆる のである。しかしがんらい与えられた結果から一定の原因へ現象をもってすべてこれを単なる表象と見、物自体とは見な 推論するということは、つねに不確実である。なぜなら結果さす、したがって時間と空間とはわれわれの直観の単なる感

10. 世界の大思想10 カント<上>

ない。しかしこの「わたくしーという条件は単に形式的条件ような命題は、考えることの可能なゆえんの、一般的かっ先 にすぎず、換言すれば、そこではわたくしが一切の対象を捨天的な条件を立言するような普遍的規則を欠いては、このよ 象するそれぞれの思想の論理的統一にすぎない。しかしそれうな述語 ( 経験的ではないところの ) を含むことはできないであ にもかかわらず、わたくしが考えるところの対象として、換ろう。このように見てくると、思惟する存在体の本性に関し て、しかもこれをまったく概念から判断するところの、最初 言すれば、わたくし自身として、すなわちわたくし自身の無 はきわめてもっともらしく見えた洞察は、その誤りをまだわ 条件的統一として、表象されるのである。 たくしは発見したわけではないがわたくしには疑問となって もし誰かが一般に「考える物とはいかなる性質を持つか ? 」 くるのである。 とわたくしに間うとしても、わたくしは何らこれに対して先 けれどもわたくしが思惟する存在体一般としての「わたく 天的には答えるすべを知らない。なぜならその答えは総合的 でなければならない。 ( けだし分析的な答えはおそらく考えるとい し」に付与するこの属性の根源を、さらにその背後にまで迫 う働きを説明しはするが、しかしこの考えることの可能なゆえんにつ って探求するならば、この誤りを発見することができる。これ いて基礎づけるようなものの認識を拡張せしめるものではないから ) 。 らの属性は純粋範疇にほかならず、それによってわたくしは しかるにいかなる総合的解決にも直観が必要であるが、この決して一定の対象を考えるのではなく、単に表象の対象を規 定するために表象の統一を考えるのみなのである。根柢にお ような一般的課題にあっては、直観はまったく排除されてい るからである。同じように「可動的なものとはそもそもいか かれる直観を欠いて、ただ範疇のみではいかなる概念もわた くしに与えられることはできない。けだし直観によってのみ し卩いに対しても、何 なる物でなければならないか ? 」と、う引 びとも普遍的な意味では答えることはできない。けだしその対象は与えられ、しかる後に対象は範疇に従って考えられる のであるからである。もしわたくしが物を現象における実体 場合不可侵人的延長 ( 物質 ) が与えられていないからである。 ところで右のような問いに対しては、わたくしは一般的に答 であると言明するとすれば、わたくしにはあらかじめ物が直 えることができないにしても、やはり個々の場合においては観されていて、その述語が与えられていなければならない。 「わたくしは考える」という自覚を表現する命題によってこそしてわたくしはこれらの述語によって、常住不変なものと れに答えることができるように思われる。けだしこの「わ変易するものとを区別し、基体 ( 物そのもの ) と、単に基体に たくし」は第一主観、すなわち実体であり、それは単純等々付属するものとを区別するのでなければならない。わたくし が現象において物を単純であると称するとき、わたくしの意 であるからである。しかしそうなればこれらの命題はまった く経験命題でなければならないこととなろう。とはいえこの味するのは、物の直観は現象の一部分であるけれども、しか如