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検索対象: 世界の大思想10 カント<上>
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1. 世界の大思想10 カント<上>

使用である。ところで「或るものが在る」こと、或いは「或として認識されず、単に、被制約的なものを理性が認識する ための、相対的に必然的な、或いはむしろ必要な、しかしそ 肥るものが生起すべきである」、ことが疑いもなく確実であるに しても、しかしそれが制約されてであるにすぎないとすれれ自身として、また先天的に恣意的な前提として用いられる ば、やはりそれに対する或る明確な制約が端的に必然的であにすぎない。であるからもし或る物の絶対的必然性が理論的 認識によって認識さるべきであるとすれば、このような認識 るか、或いはそれが単に任意かっ偶然的に前提されるにすぎ は先天的概念からのみ生じうるのであって、経験によって与 ないかの二つの場合がありうる。前者の場合には制約は要請 えられる現実的存在に関する原因として生することは、決し される (per thesin 主張によって ) のであり、後者の場合には てありえないであろう。 制約は仮定される ()e 「 hypothesin 仮定によ 0 て ) のである。 端的に必然的な実践的法則 ( 道徳的法則 ) は存在するのである 理論的認識は、われわれがいかなる経験においても到達で ^ 0 っ 0 から、もしこの法則が、その拘東カの可能なゆえんの条牛と 6 イきない対象、或いはそのような対象の概念を目ざす場合には CC 00 しての、何らかの現実的存在を必然的に仮定するとすれば、 思弁的である。それは自然認識と対立せしめられるもので、 この現実的存在は要請されたものでなければならない。なぜ自然認識は、可能な経験によって与えられうる対象以外の対 というに、 この明確な制約を導出する推論の出発点たる被制象やその述語には、関係しない認識である。 生起すること ( 経験的偶然的なこと ) から、これを結果として 約者は、それ自身端的必然的なものとして先天的に認識され るものであるからである。道徳的法則についてはわれわれ原因へと推論する原則は、自然認識の原理ではあるが思弁的 認識の原理ではない。けだしもしわれわれが、可能な経験一 は、それが最高存在体の現実的存在を前提するものであるの みならす、また、それが他の観点からも端的必然的であるか般の条件を含むものであるところのこの自然認識の原則を捨 て去り、そしてすべて経験的なものを除去しながら、この原 ら、当然、しかしもちろん単に実践的にであるにすぎない 則を偶然的なもの一般について主張しようとするならば、現 が、このような最高存在体の現実的存在を要請するものであ ることを、将来示すであろう。いまはまだこの推論の仕方に存するものから、それとはまったくちがったもの ( 原囚といわ れる ) へと移りゆくことがどうしてできるのかをこの原則か は論及しない。〔性批黜」に譲る 単に、現存するものが ( 存在すべきものがではなく ) 間題であら推知しようとしても、そのような総合的命題を認める余地 は少しも残らなくなる。否、むしろ、原因の概念も偶然的な る場合には、経験においてわれわれに与えられる被制約的な このような単に思弁的な使用によっ ものは、つねにまた偶然的と考えられるから、この被制約的ものの概念もともに、 ては、すべての意味を失ってしまうのである。その客観的実 なものに所属する制約は、経験によっては端的必然的なもの

2. 世界の大思想10 カント<上>

403 て終止することをせずに、この概念から出発して、そこから 現実的存在の必然性を導き出そうとした。しかしこの概念は やはり単に現実的存在の必然性を補足する性質のものにすぎ なかったのである。失敗に終わった実体論的証明なるもの 一 4 ーっ 0 っ 0 0 第五節神の現実的存在に関する宇宙論的証明 ^ 0 ^ 0 キム、、、 がんらいこのようにして生じたのであり、それは自然の の不可能なゆえんについて 健全な悟性にとっても、精緻な学的吟味にとっても、満足す まったく任意に設定された理念から、それに対応する対象べきものを伴うものではないのである。 われわれのいま研究しようとする宇宙論的証明は、やはり そのものの現実的存在をひき出そうとすることは、まったく 絶対的必然性と最高実在性との結合を保持するものである 不自然なことで、単にスコラ的空論の復活にすぎなかった。 しかし前に述べた実体論的証明のように、最高実在性か じっさいもし仮りに実際的存在一般に対して何らか必然的な もの ( 遡源を行なう場合そこを終局点とすることのできるような ) をら現実的存在の必然性を推論するのではなく、むしろ何か一 つの存在体のあらかじめ与えられた無条件的必然性からこの 想定しようとするわれわれの理性の要求があらかじめ存して いなかったとすれば、またもし仮りに理性が、この必然性の存在体の無際限な実在性を推論するものであって、そのかぎ 無条件的かっ先天的に確実たらざるをえないために、できれりすべてを、少なくとも、それが合理的か弁証的かは別とし ばこのような要求に満足を与え、現実的存在をまったく先天て、普通の悟性に対してのみならす思弁的悟性に対しても最 もよく納得されるところの、少なくとも自然な推理の仕方の 的に認識せしめるような概念を求めるように強されなかっ たとすれば、このような仕方に訴えて必然的なものを求めよ軌道にもち来たすものである。がんらいこの自然な推理の仕 うとする試みは、決してなされなかったであろう。ところで方は明らかに自然的神学のあらゆる証明に対しても第一の基 人々はこのような概念を、最も実在的な存在体という理念の本的要点を示すものであって、この基本的要点はつねに人々 うちに求めうると信じた。そしてこの最も実在的な存在体との遵奉して来たものであり、またがんらいつねに人々の意の ままこ、、 冫しるいろ多くの模様によって粉飾され隠蔽されるで いう理念を、すでに他の面からその実際に存在せざるをえな いことが確信され説得されていたもの、すなわち必然的存在はあろうが、今後も遵奉されるであろうものである。ライプ 体というものを、もっと明確に知るために使用したにすぎな ニツツもこれを世界の偶然性からの (a contingentia mundi) 証 いのである。にもかかわらす人々は、理性のこうした自然の明と称したが、今やわれわれはこの証明をとりあげて吟味し ようと思う。 進み行きを隠蔽して、最も実在的な存在体という概念でもっ 第三章 B 632 A604

3. 世界の大思想10 カント<上>

然なし ) との命題は先天的自然法則である。「自然界の必然性 制約のもとに必然的として認識されうるような現実的存在は 約された、したがって理解されう 存在しない。したがってわれわれがそれについてのみ必然性は決して盲目的でなく、」 を認識できるところのもの、しかも知覚に与えられている他る必然性である」 (non datur fatum. 運命なるものなし ) という のも同様である。両者はともに、変化の戯れが物 ( 現象として の状態から原因性の経験的法則にしたがって認識できるとこ ろのものは、物 ( 実体 ) の現実的存在についてではなく、物の状囲の ) の本性のもとに、或いは同じことであるが、悟性の統一 態の現実的存在についてのみである。このことからの帰結とのもとに把握されるための法則である。変化は悟性のうちに して、必然性の基準はもつばら可能な経験の法則、すなわちおいてのみ、現象の総合的統一としての経験に属しうるので 「生起する一切は、現象におけるその原因によって先天的にある。これら両原則は力学的原則に属する。前者は本来因果 規定されているーという法則中に存することとなる。である性の原則 ( 経験の類推のうちの ) からの帰結である。後者は原困 からわれわれは単に、その原因がわれわれに与えられている性の規定になお必然性の概念を、これはしかし悟性の規則に ところの、自然における結果の必然性をのみ認識するのであ属するものであるが、この必然性の概念を付加するものであ り、現実的存在における必然性の標識は、可能な経験の分野る様相の原則に属する。連続性の原理は現象 ( 変化 ) の系列 ()n mundO non datur saltus. 以上には及ばない。のみならすこの分野においてすら、この中に一切の逸脱を許さなかった。 標識は実体としての物の実際的存在については妥当しない。 世に飛躍なし ) 。しかしまた空間におけるあらゆる経験的直観 なぜなら実体は決して経験的な結果として、或いは生起し消の総括のうちにも、二つの現象間のあらゆる隙間や裂け目を 減するものとして見なされることができないからである。必許さなかった。 (non datur hiatus. 間隙なるものなし ) 。けだし 然性はしたがって、因果性の力学的法則にしたがう現象の諸この命題は次のように言い表わすことができるからである。 関係、及びそれに基づくところの、何らか与えられた現実的すなわち「真空を証明するようなもの、或いはまた真空を、経 存在 ( 原因の ) から他の現実的存在 ( 結果の ) へと推理する可験的総合の一部分としてにすぎないにしてもこれを許すよう と。けだし空 なものは、経験中に入り込むことはできない 能性にのみ関する。すべて生起するものは仮言的に淞が 析う条件 〕必然的である。これは世界の変化を一つの法則のもと虚については、それは可能な経験 ( 世界の ) の範囲外では考 分の下で 的に捉える、すなわち必然的な現実的存在の規則のもとに捉え えられるかも知れないが、単なる悟性の裁判権の対象とはな 先 る原則である。そしてこの規則によらなかったならば自然すらない。悟性は単に与えられた現象を用いて経験的認識たら しめることに関する問題についてのみ判定するものであるか ら全然生じないともいえよう。であるから「何ものも盲目的 偶然によっては生じない」 ()n mundo non datur casus. 世に偶ら。空虚は、さらに可能な経験の領域を越えてこの経験そのも リ 281

4. 世界の大思想10 カント<上>

自然が統覚というわれわれの主観的根拠にしたがうこと、 純粋悟性概念の演繹 否、それのみならすその合法則性に関してはこの統覚の主観 的根拠に依存すべぎであるということは、まことに甚だ矛盾 した奇異なことのように聞こえる。しかしもしわれわれが、 第三節対象一般に対する悟性の関係と、 この自然がそのものとして現象の総括にほかならず、したが 対象を先天的に認識する可能性と って物自体ではなく、単に心が持っ表象の集合であることを について 考慮するならば、自然を、単にあらゆるわれわれの認識の根 われわれが前節において区分し個別的に述べたところを、 本能力、すなわち先験的統覚中に、換言すればそのゆえにの み自然があらゆる可能な経験の客体、すなわち自然と称され今度は統一的連関的に示そうと思う。経験一般の可能及び経 ることができるような統一の中に見ることは、何ら怪しむに 験の対象の認識の可能なゆえんが基づく三つの主観的認識源 あたらないであろう。そして、われわれはまたまさにこのゆ泉がある。感官、構想カ及び統覚がそれである。これらはそ えにこそこの統一を先天的に、したがってまた必然的なものれぞれ経験的なものとして、すなわち与えられた現象に適用 として認識することができるのであり、もし統一がわれわれして、これを考察することができる。しかしすべてがまた、 の思惟の第一源泉に依存することなくそれ自身において与え この経験的使用をすら可能ならしめるところの、先天的要素 られるものとすれば、われわれはおそらくこのような認識を或いは基礎でもある。感官は現象を経験的に知覚として表象 中途で放棄せざるをえないであろうことについても同様であするものであり、構想力は連想 ( 及び再生 ) として。統覚はこ る。けだしその場合にはわたくしは、このような普遍的自然れらの再生的表象と、この表象を与えた現象との同一性の経 統一の総合命題をわれわれはどこからえてくるべきかを知ら験的意識によって、したがって再認によって。 ないからである。なぜならこのような場合にはわれわれは、 けれども知覚全体には純粋直観が ( 表象としての知覚に関し ては内的直の形式たる時間が ) 、連想には構想力の純粋総合が、 論このような総合命題を自然そのものの対象から借りざるをえ 分ないであろうから。しかしこれが単に経験的に生じうるとさそして経験的意識には純粋統覚、すなわちあらゆる可能な表 れた場合には、そこからは単に偶然的統一以外のものはひき象に一貫した自己同一性が、それそれ先天的にその基礎とし 先 出されないが、このような偶然的統一は、自然と呼ばれる場て存している。 ところでもしわれわれが表象のこのような結合の内的根拠 合に意味される必然的連関に到達するには、はるかに遠いも を、表象がすべてそこに帰せざるをえないような点にまで追 のである。 A116

5. 世界の大思想10 カント<上>

・自己の ( もちろんこれも純粋な ) 概念を経験的に使用するのであは関せす、ただ現象として現われた決意の結果や帰結に関す るからである。 るのみである。わたくしを意欲へ駆り立てる自然的理由が幾 そもそもこの理性が原因性を有するということ、少なくとつあろうと、感性的刺戟が幾つあろうと、それらは当為をも もわれわれがみずからこのような原因性を理性において表象たらすことはできず、かえってそれらのもたらすものは、と うてい必然的ではなくてつねに制約された意欲にすぎない。 するということは、すべてわれわれが事を実践するにあたっ これに反して、理性の宣一言する当為は、この意欲に対し基準 て、実行する力に対して規則として課する至上命令的なもの から明らかである。当為とは、理性のうち以外には自然のう と目的、否、むしろ、禁止や信望を提示する。それが仮りに ちのどこにも生じないような、一種の必然性すなわち理由と単なる感性の対象 ( 快適なもの ) であるにしろ、或いはまた純 の結合をいうのである。悟性は自然から単に、何が存在する粋理性の対象 ( 善なるもの ) であるにしろ、理性は経験的に与 か、或いは存在したか、もしくは存在するであろうか、を認識えられるような理由には従わず、現象において示されるとお しうるのみである。自然界の或ることが、そのあらゆるこれりの物の順序を辿りはしない。理性はむしろ十分な自発性を らの時間関係において事実あるのと、ちがったふうにあるべもって、理念に従った独自な順序をみずから作り、経験的な きだということは不可能である。のみならず当為というごと諸制約をこれに合致せしめ、のみならずこれに従って、生じ きは、われわれが単に自然の運行のみに注目する場合には、 なかった行為や、またおそらく生じないであろうような行為 全然無意味である。われわれは「自然のうちに何が起るべきをも、必然的であると宣言する。しかし生じないであろうに か」などと問うことはできない。それはちょうど「円がどのもかかわらず、理性はそれらあらゆる行為について、自分が ような性質を持つべぎか」と問うことができないのと同じでそれに関する原因性を有しうることを前提しているのであ ある。むしろ「自然のうちに何が起るか」或いは「円はどのる。そうでなければ、理性は自分の理念の結果を経験中に期 待しないこととなろうからである。 ような性質を持っているか」と問わねばならないのである。 さてこの問題の論議はこの辺にして、少なくとも、理性が がんらいこの当為なるものは、可能的な行為を表わすもの これに反実際に現象に関して原因性を有する、ということを可能なこ で、その根拠は単なる概念以外の何ものでもない。 し、単なる自然的行為についてはその根拠はつねに現象でな とと想定しよう。そうすると理性は、いかにそれが理性であ ければならない。ところで当為が行為に向けられている場合 っても、やはり或る経験的性格をみずから示さざるをえな でも、その行為はもちろん自然の制約のもとに可能でなけれ い。なぜならすべて原因とは、或る種の現象がそれに従って ばならない。しかしこの自然の制約は決意そのものの限定に結果として生ずるところの一つの規則を前提するものである B576 A548 A549

6. 世界の大思想10 カント<上>

叡知者の世界は、単なる自然としては感性界と名づけられ 経験に関してすら、もしわれわれが目的をあらかじめかか るにすぎないけれども、自由の体系としてはしかし、叡知的げないとすれば、われわれの悟性をどのように使用すること 世界、すなわち道徳的世界 ( 「 egnum g 「 atiae 恩寵の国 ) と称すができるであろうか ? しかし最高の目的は道徳の目的であ ることができるが、この叡知者の世界における目的のこのよ り、これの認識をわれわれに与えることのできるものはただ うな体系的統一性は、また不可避的に、ちょうどこの世界が 純粋理性のみである。ところでこれらの最高の目的をそな 普遍的必然的道徳法則にしたがうように普遍的自然法則に従え、その導きによるとしても、もし自然がみずから合目冂的 うところの、この大きな全体を構成するあらゆる事物の合目統一性を立てていなかったならば、われわれは自然そのもの 的的統一性へと導き、実践的理性と思弁的理性とを結合せし についての知識を認識に関して、決して合目的的に使用する ことができないのである。けだしこのような合目的的統一性 めるのである。もしも世界が、それを欠いてはわれわれが自 分自身を理性に価するものとは考えないであろうような理性がなかったならば、われわれはさらに理性をさえ持たないこ 使用、すなわちあくまで最高善の理念に基づくものとしてのととなろうからである。なぜならわれわれは理性のための鍛 道徳的な理性使用と合致すべきであるとすれば、世界は理念錬場を持たす、このような概念に質料を提供するような対象 から発したものと考えられねばならない。 これによってあら によって、開発されることもないであろうからである。しか ゆる自然研究は、目的の体系の形式に向かう方向をえ、これしかの道徳的な合目的的統一性は必然的であって、個人の決 が展開した最高の極が物理神学となる。しかし物理神学は、 意性そのものの本質のうちに基礎を有するものであり、した それがやはり道徳的秩序から、すなわち自由の ' 本質に基づき、 がってこの合目的的統一性を具体的に適用する条件を含むと 外からの命令によって偶然にうち立てられたのではない統一 ころの、この自然の合目的的統一性もまた必然的でなければ としての道徳的秩序からはじまるから、自然の合目的性を基ならない。かくてわれわれの理性認識が先験的に高められゆ 礎づけて、これを先天的に事物の内的可能性と不可分離に結 くことは、純粋理性がわれわれに課するところの、実践的合 論 合していなければならない根柢の上におき、それによって先目的性の原因をなすのではなくて、かえってそれの結果であ 験的神学へと導く。先験的神学とは最高の実体論的完全性のるであろう。 験理想を想定して、これを、普遍的必然的自然法則に従って一 であるからわれわれは人間の理性の発展過程においても、 先 切の事物を結合せしめるところの、体系的統一の原理とする道徳的概念が十分に純化され、規定され、かつ目的の体系的 ものである。すなわち事物はすべて唯一なる根源的存在体の統一がこれらの道徳的概念に従って、しかも必然的原理から 絶対的必然性のうちにその根源を有するからである。 洞察されるようになる以前には、自然の知識は、他の多くの B845 A817

7. 世界の大思想10 カント<上>

在体の認識のためにはこのような原則を先験的に使用するこ 在的な意味は具体的に理解されるものなのだから。 とを要求される。そしてこのような要求にはわれわれの悟性 ところで世界における物の現実的存在からその原囚へと は全然用意されていないからである。もしも経験的に妥当す 推論される場合には、この推論は自然的理性使用には属せ る因果律が根源的存在体へと導くべきだとすれば、この根源 ず、思弁的理性使用に属するのである。なぜなら自然的理性 使用は物自身 ( 実体 ) をではなく、ただ生起するものを、した的存在体は経験の対象の連鎖のうちに属せねばならないこと がって物の状態を、経験的偶然的として何らかの原因に関係となろう。そうなるとしかし、根源的存在体は一切の現象と せしめるからである。実体自身 ( 物質 ) が現実的存在としては同じく、これまた制約されたものとなるであろう。さればとい ってもしわれわれが結果から原因へと関係づけてゆく力学的 偶然的である、ということは、単に思弁的理性によって認識 されることでなければならないであろう。けれどもまた単に邸法則によって、経験の限界を飛びこえることを承認するとし 、、引ー ( ても、このような手続のわれわれに与えうる概念とよ、 世界の形式、すなわち世界の結合様式や世界の変化だけがド る概念であろうか ? それは最高存在体の概念とははるかに 題であるとしても、もしわたくしがそこから、世界とはまっ 遠いものでなければならない。なぜなら経験はとうていわれ たく別個の原因へと推論しようとするならば、この推論もこ れまた単に思弁的理性の判断であるであろう。なぜなら対象われに、あらゆる可能な結果中の最大の結果 ( その原因の証拠 をなすべきものとしての ) を供するものではないからである。 はこの場合まったく可能な経験の客体ではないからである。 しかしそうなると経験の分野内においてだけ妥当し経験外に単にわれわれの理性のうちに空虚を残さないために、最高完 は使用されない、否、意味さえない原因性の原則は、まった全性とか根源的必然性という単なる理念によって、完全な規 定に対するこの欠陥を充たすことが許されるべきだとして くその使用を破砕されることとなるであろう。 も、それは好意によって許されうることではあろうが、不可抗 ここにおいてわたくしの主張しようとするところは、神学 に関して理性を単に思弁的に使用しようとする一切の試みは的証明に基づいて正当に要求されうることではない。である から物理神学的証明は、それが思弁を直観と結びつけるもの 論まったく無益であり、その試みの内的性質からいって無効無 飛意味であるということ、これに反して、理性の自然的使用の原であることによって、おそらく十分に他の証明 ( そういうもの 的 理はいかなる神学へも導きはしないから、もしわれわれが道がありうるとすれば ) に対して力を与えることができるといえ よう。しかし自分だけでは単独でその仕事を成就できるもの 徳法則を基礎におき手引として用いなければ、理性の神学は ではなくて、むしろ神学的認識のために悟性に準備を与え、 3 どこにも存在することができないということである。けだし 悟性のあらゆる総合的原則は内在的に使用されるが、最高存悟性に対してそのための真直ぐで自然的な方向を与えるもの B665 A63 了

8. 世界の大思想10 カント<上>

の間題 quaestiones domesticae) に関して、今日まだその解決は る、先験的分析論の諸間題を持ち出すことをしない。われわ おそらく見いだされてはいないにしても、一定の解決を要求れが今論じているのは、もつばら対象に関する判断の確実性 し期待しうるということは、最初思われるほど奇異なことで についてであって、われわれの概念そのものの起源に関して ではないからである。 はない。先験的哲学以外にもなお一一つの純粋な理性学がある。 一つはもつばら思弁的内容の学であり、他は実践的内容の学 したがってわれわれは、われわれの理性の範囲の狭いこと であって、すなわち純粋数学と純粋道徳とである。円周率にを嘆いたり、謙譲の自覚をよそおって、世界が永遠以来存在 ついて、いわばその制約を知ることが必然的に不可能だからするか、それとも初めを有するか、宇宙は無限に存在体によ というゆえで、その有理数或いは無理数による十分な精密さ って充たされているか、それとも一定の限界内に包まれたも は不正確だと称されるのを、今までにきいたことがあったろ のか、世界における何ものかが単純体であるか、それともす うか。この円周率は有理数によっては完全に示されないが、 べては無限に分割されねばならないものか、自由による産出 無理数によってもまだ見いだされていないから、少なくともや創造があるものか、それともすべては自然秩序の連鎖につ 完全な解決は不可能だということは、確実に認められると ながれたものであるか、最後に、何らかまったく無制約的で カントの先駆者にして 判断されたのである。そしてラムペレト それ自身必然的な存在体が存在するか、それともすべてはそ / 友人、一七二八ー七七 の現実的存在の上から制約され、したがって外的に依存しそ がこれ〔数 円周率が無理〕を証明した。〔しかし算出の不可能は、関係の 色道徳の一般的原理には不確実なものは何もない。なぜなれ自身偶然的であるかを決定することは、われわれの理性を らその命題は全然空虚で無意味であるか、或いはまったくわ越えたことであると告白したからといって、われわれに課せ れわれの理性概念から流れ出るものでなければならないかでられた理性の問題を少なくとも批判的に解決する責任を、回 あるからである。これに反し自然科学においては無数の臆測避できるものではなかろう。けだしこれらの問題はすべて、 があり、これに関しては決して確実性を期待することができわれわれの思想のうち以外のどこにも与えられえない対象 論ない。なぜなら自然現象はわれわれの概念からは独立にわれに、すなわち現象の総合の端的に無制約的な総体性に関する われに与えられる対象であり、したがってその鍵はわれわれものであるからである。これに関してわれわれが、われわれ のうちに、すなわちわれわれの純粋思惟のうちにあるのでな 自身の持っ概念に基づいては何ら確実なことを言ったり決定 先 く、われわれの外にあり、まさにそのために多くの場合見い したりすることができないとしても、その責めを、われわれ 5 だされず、したが「て何ら確実な解明は期待されないからでに隠されている不可知のことがらに転嫁するわけにはゆかな ある。わたくしはここに、われわれの純粋認識の演繹に関す 。けだしこのような事がらは ( それがわれわれの理念以外のど B510 A482

9. 世界の大思想10 カント<上>

発見の第一歩によって生じた変革を想起するだけでも、数学させ、或いはトリチェリイが自分に知られている水柱の重さ と同じ重さだとあらかじめ考えた重さを、大気によって支え 者たちにとっては非常に重要なことに思われたに相違ないこ させ、或いはもっと後になってシュタールが或る物をそれか と、したがってその記憶が忘れられていないことを示してい ら除去したりまたそれに加えたりすることによって、金属を る。一一等辺三角形を証明した最初の人 ( それが今日夕レスとい 石天に変化させたり石灰をふたたび金属に変化させたりした われていようと何とよばれていようと ) 、その人に一道の光明が さしたのである。というのはその人こそ、自分が図形においとき、あらゆる自然研究者に一道の光明が射したのであった。 て見たものや或いはまた図形の単なる概念を探索して、いわ彼らは、理性の洞察するものが、理性自身のみずからの計画 にしたがって産み出すものにほかならないこと、理性がます ばそこから図形の性質を学びとるのでなく、自分が概念にし たがってみすから先天的に図形の中へ入れて考えかっ示した恒常不変の法則にしたがう自己の判断の原理をもってあらわ ところのものによって、 ( すなわち構成作用によ 0 て ) 図形の性れるのであり、この理性がみすからの問いに答えるよう自然 質を産み出すのでなければならないこと、また確実に何かをを強制しなければならないのであって、みずからがもつばら 自然によっていわば歩み紐をつけられて歩まされるのであっ 先天的に知るためには、自己の概念に合致するようにみすか ら事物の中へ投入したものから必然的に帰結されたもの以外てはならないことを、理解したのである。なぜなら、もしそう の何ものをも、その事物に加えてはならないことを、見いだでないとすれば、あらかじめ立てられた計画によらない偶然 したからである。 的ないろいろの考察が、一個の必然的法則に総括されるとい うことはないであろうし、しかも理性の求め必要とするのは 自然科学については、それが学の大道を見いだすまでには その歩みはさらに遅々たるものがあった。けだし聡明多才な このような必然的法則であるからである。理性はただそれに ヴェルラムのべ ーコンの提唱が、この発見を一面においては 合致する諸現象だけが法則と見なされうるような、自分自身 惹起し、またそれはすでに発見の途上にあったから他面にお の原理を一方の手にもち、自分がその原理にしたがって工夫 いては促進せしめたのは、わすかに約一世紀半以前のことでした実験を他方の手にもって、自然に向かわねばならない。 あったからである。そしてこの発見もまた、同じく急速に生それはもちろん自然から教えられるためではあるが、しかし じた思考法の革命によってのみ説明することのできるもので教師の欲するとおりを何でもいわされる生徒の資格において ある。わたくしはここでは自然科学を、単にそれが経験的京 「ではなく、証人をして自分が彼らに提出する質問に答えるよ 理に基づくかぎりにおいてのみ考察しようと思う。 う強要する、正式の裁判官たる資格においてである。このよ ガリレイが球に任意の重さをもたせて斜面をころがり落ちうにして、物理学ですらその思考法のかくもすぐれた革命を XIII

10. 世界の大思想10 カント<上>

。後者の場合には系列の端初は存在する。そしてそれは経条件者は必然的といわれる。現象の無条件的な必然性は自然 過した時間に関しては世界の初まりとよばれ、空間に関して必然性と称しうるのである。 は世界の限界と、その限界中に与えられた一全体の部分に関 * 自然とは、これを形容詞的に ( 形式的に ) 解すれば、原因性の内的原理 による事物の諸規定の連関を意味する。これに反し、主語的 ( 質料的 ) に解 しては単純者と、原因に関しては絶対的自己活動 ( 自由 ) と、 する場合にはわれわれは自然という語によって、原因性の内的原理によって 変易的事物の現実的存在に関しては絶対的自然必然性と称さ 徹底的に連関せるかぎりにおける、現象の総括を意味する。前者の意味でわ れるのである。 れわれは液体、火などの自然〔性質〕といって、この語を形容詞的に用い これに反して自然の事物という場合には、持続的存在たる全体を念頭におい * 一つの与えられた被制約者に対する諸条件の系列の絶対的全体はつねに ているのである。 無条件的である。なぜならこれらの条件以外に、それに関してその全体が制 約されうるような条件はもはや存しないからである。けれどもこのような系 われわれの当面の問題である理念を、わたくしはさきに宇 列のこの絶対的全体は単に理念にすぎない。或いはむしろその可能性が研究 宙論的理念と称した。その理由は第一には、世界という語に されねばならない一つの蓋然的概念にすぎず、特に、いま問題である本来の よってあらゆる現象の総括が意味されており、そしてわれわ 先験的理念としての無条件者が、どのようにしてこのような絶対的全体の中 に含まれうるかに関して研究されねばならないのである。 れの理念はまたもつばら現象間における無条件的なものに向 われわれは世界と自然という一一つの表象を用いるが、両者けられているからであり、第二にはまた、世界という語が先 は往々混淆される。世界というのはあらゆる現象の数学的全験的意味では、実際に存在する事物の総括の絶対的総体を意 体を意味し、その大小を問わず、すなわち総合が合成によ 0 味し、われわれは総合 ( それは単に本来条件に向。ての背進のみに よる総合ではあるが ) の完全性をもつばら目標とするからであ て進められると分割によって進められるとを問わす、現象の 総合の総体を意味する。しかしこの同じ世界が、力学的全体る。その上これらの理念が総じて超越的である点から見て、 として見られる場合には、これが自然と呼ばれる。そしてこ引またこれらの理念が客観すなわち現象を種の面から超越する の場合にはわれわれは、空間或いは時間における集合に注目のでなく、も 0 ばら感性界に ( 本質体にでなく ) 関係するにも して世界を量として成立せしめようとするのではなく、現象 かかわらず、その総合をあらゆる可能な経験を踏み越える程 の現実的存在における統一に注目するのである。ところでこ度にまでいたらしめる点から見て、これらの理念がすべて世 の場合、生起ずるものに対する条件を原因といい、現象にお界概念と呼ばれるのは、わたくしの考えからすれば至極適切 なことだといえる。背進がそれを目ざすところの数学的無条 ける原因の無条件的原因性を自由というのであるが、これに 反して制約された原因性は狭い意味で自然的原囚といわれ件者と力学的無条件者という区別については、わたくしは る。現実的存在一般における被制約者は偶然的といわれ、無やはり数学的無条件者の二つを狭い意味で世界概念 ( 大世界