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検索対象: 世界の大思想10 カント<上>
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1. 世界の大思想10 カント<上>

1 ? 4 内部感官の規定は、われわれが外部感官の規定を空間におい したがって統覚の総合的・根源的統一においては、わたくし て秩序づけるのとちょうど同様にして、時間における現象と は自分自身を意識するが、それは、わたくしが自分に現象す して秩序づけねばならないこと、同時に、もしわれわれが外る仕方でもなく、わたくしが自分自身においてある在り方で 部感官について、われわれが外部的に触発されるかぎりにおもなくて、ただわたくしくが存在するということを意識する いてのみ外部感官によってわれわれが客観を認識するのであにすぎない。 この表象は思惟の働きであって、直観の働きで まよ、。 るということを承認するならば、われわれはまた内部感官に ところでわれわれ自身が認識されるためには、それ ついても、われわれが内部的にわれわれ自身によって触発さぞれの可能な直観の多様を統覚によって統一する思惟の働き れるようにのみ、われわれ自身を直観すること、換言すれのほかに、なお、この多様がそれによって与えられるところ ば、内的直観に関しては、われわれはわれわれ自身の主観をの一定の直観の仕方が必要であるから、もちろんわたくし自 単に現象として認識するが、しかし主観それ自身の本質の面身が一定の存在をなしているということは現象ではない ( い * お から認識するのではないということを承認せざるをえないこ わんや単なる仮象ではない ) が、しかしわたくしが一定の存在 とによって示されるのである。 として限定されることは、内部感官の形式にしたがっての 空間における客観の運動は純粋な学には属せず、したがってまた幾何学物み、またわたくしの結合する多様が内的直観において与えら には属しない。な・せならば、或るものが運動しているということは、先天れる特殊な仕方にしたがって生じうるのであり、かくてそれ 的に認識できることではなくて、単に経験によって認識できることにすぎな によれ。はわたくしが持つわたくし自身についての認識は、わ いからである。しかし運動が空間的に記述されるということは、外的直観一 般における多様を、産出的構想力によって継時的に総合する純粋活動であ たくしのあるがままの認識ではなく、単にわたくしがわたく り、幾何学に属するのみならす、さらに先験的哲学に属する。 し自身に対して現象するがままの認識である。であるから、 * * 内部感官がわれわれ自身によって触発されるということが、どうしてそ 統覚において多様を結合することによって客観一般について んなに難問たりうるか、わたくしにはわからない。注意という活動はすべて これについての例証をわれわれに与えることができる。悟性はこの活動にお 1 の思惟を作り成すところのあらゆる範疇をもってしても、自 いてつねに内部感官を、自己が思惟する結合にしたが 0 て規定し、悟性の総己自身の意識は、まだとうてい自己自身の認識ではない。わ 合における多様に対応する内的直観たらしめる。心が日常どんなに度々この たくしとは別個の客観を認識するためには客観一般を思惟す 活動によって触発されるかは、だれでもみずからの内部において知覚できる ことであろう。 る ( 範疇によって ) だけでなく、やはりわたくしはなお直観を 必要とし、それによってあの普遍的概念を規定するように、 わたくしはまた、わたくし自身を認識するためにも、意識の これに反し、表象一般の多様が先験的に総合される場合、 ほかに、換言すればわたくしが自己を思惟するということの B 157

2. 世界の大思想10 カント<上>

ある。しかしわれわれは叡知的性格を知らす、かえってそれとである。けだしこの場合には、制約は現象の系列外に ( を示すのに、本来単に感性様式 ( 経験的性格 ) を直接認識せし知的なもののうちに ) あり、したがっていかなる感性的繝約に も、また先行する原困によるいかなる時間規定にも従属しな めるにすぎない現象をもってする。ところで行為は、それが いからである。 自分の原困として、思惟様式に帰せしめられねばならないか * であるから行為の本来の道徳性 ( 功績や罪過 ) は、われわれ自身の行動の四 ぎり、やはりこの思惟様式から決して経験的法則に従って結 それですらも、われわれにはまったく隠されている。われわれはその責任を 果するものではない。したが「て換言すれば、先行する〔勺 この経験的性格のどこまでが ただ経験的性格に関して論じうるにすぎない。 のは純粋理性の制約ではなくて、かえって単に内官の現象に 自由に基づく純粋な働きであり、どこまでが単なる自然に、すなわち気質に基 づく責任のない過失、或いは気質の恵まれた性質に ( 幸運の功績に merito おける純粋理性の制約の諸結果なのである。単に叡知的な能 fortunae) 帰せしめられるべきかは、何びともこれを究めつくすことはでき 力としての純粋理性は、時間形式に、したがってまた時間継 ず、したがってまた十分な正当性をもって判定することもできないのである。 起の諸倒約にも従属しない。叡知的性格としての理性の原因 とはいえやはりこの同じ原因が、他の関係においては現象 性は生起しない。換言すれば、一つの結果を生み出すために、 の系列にも属する。人間はそれ自身現象である。人間の決意 いわば或る時間において、はじまるということはない。けだ は或る経験的性格を有し、この経験的性格が人間のあらゆる しそうでなければ、理性自身、現象の自然法則が因果の系列。 2 行為の ( 経験的 ) 原因をなす。人間をこの性格に合致するよう 8 を時間的に限定するものであるかぎり、この現象の自然法則に規定する制約であって自然の働きの系列中に含まれていな に従属し、そうなると原因性は自然であって自由ではないこ いものは一つもなく、自然の法則に従わないような繝約は一 ととなるであろうからである。したがってわれわれは次のよ このような自然の法則に従うかぎり、時間におい つもない。 うにいうことができるであろう。「理性が現象に関して原因て生起するものについて、経験的に無制約的な原因などはと 性を持っことができるとすれば、理性とは、結果の経験的系列 うてい見いだされないのである。であるからどのような与え を制約する感性の作用が、はじめてそれによって開始される られた行為も、 ( それは現象として知覚されることができるものに 5 ところの能力である」と。がんらい理性のうちに存する制約すぎないから ) 、端的に自分自身から始まるということはでき は感性的ではないから、したがってそれ自身では開始するこ ない。しかしわれわれは理性について「理性が決意を規定す とはできない。したがってその場合には、われわれがあらゆる状態に先立って、この状態自身がそこで規定されるところ る経験的系列においては捉えることのできなかったことが生の他の状態が先行する」とはいうことはできない。けだし理 ずる。すなわち、出来事の継時的系列を制約する制約自身は 性自身は現象ではなく、決して感性のいかなる制約にも従属 しないから、理性のうちには、その原因性に関してすら、時 経験的には制約されないものでありうるであろう、というこ

3. 世界の大思想10 カント<上>

られるところの実体に、それ自身としては、この実体自身の叡知体についてはまったく知るところがないから、「魂は叡 内的感官によって意識を伴って表象されうるところの思考が知体と何らかの点で内的に区別される」と主張することもで ぎな、。 存していることを、十分想定することができる。このように このようにして単純な意識は、われわれの主観がそれによ して一方の関係においては物体的と称される同一のものが、 って複合的存在体としての物質と区別されるための、主観の 他方の関係においては同時に思惟する存在体であることとな るであろう。そしてこの思惟する存在体という思想を、われ単純性を知らしめるものではないのである。 しかしやはり現 われはもちろん直観することはできないが、 しかしもしこの概念が、それの使用されうる唯一の場合、 象として現われる思想の表徴は、これを直観することはできすなわちわたくし自身を外的経験の対象と比較する場合、そ るのである。これによって「魂 ( 特殊な種類の実体としての ) のれによってわたくし自身の本性の独自性や相違点を規定する みが考える」という言い方はなくなるであろう。むしろ通常力を表わしえないとしても、われわれはつねに、考えるわ のように、「人間は考える」すなわち「外的現象としては延れ、すなわち魂 ( 内的感官の先験的対象に対する名称たる ) が単純 長を有する同じものが、内的には ( それ自身においては ) 複合すであることを知る、と称することはできよう。それだからと いってこの言い方はやはり、とうてい現実の対象へ拡張され ることなく単純であって、かっ考える主体である」といわれ て使用されることはできず、したがってわれわれの認識を少 ることとなるであろう。 しも拡張できるものではないのである。 しかしこのような仮説を承認するまでもなく一般に認めう このようにして全合理的心理学はその主柱とともに崩壊す ることであるが、わたくしが魂という語によって思惟する存 る。そしてわれわれはこの場合においても他の場合における 在体自身を意味する場合には、魂は物質 ( 決して物自体ではな と同じく、単なる概念によって ( いわんやわれわれのあらゆる概 くて、単にわれわれのうちなる一種の表象にすぎないところの ) と 念の単なる主観的形式たる意識によっては ) 、可能な経験に関係す 同種であるかどうか、という問い自身がすでに不適当である。 けだし物自体は単に自己の状態を構成する諸規定とは別種のることなしに、知見を拡大できると期待することはできな まして単純性という基本的概念すら、経験中のどこにも 弁性質のものであることは、すでにおのずから明らかであるか 見いだすことのできない種類の概念であり、したがって客観 験らである。 先 これに反してもしわれわれが思惟する存在体としてのわた的に妥当する概念としての基本概念に到達すべき、いかなる 。しよいよもってこの期待は望むべ 3 くしを物質と比較するのでなく、われわれが物質と呼ぶ外的道も全くないにおいてよ、、 くもないのである。 現象の根柢に存する叡知体と比較するとすれば、われわれは

4. 世界の大思想10 カント<上>

念についてもあてはまる。制約の系列は単に遡源的総合自身実際に存在することのない現象に対して適用したことによっ のうちにのみ存するが、あらゆる遡源に先立って与えられたて生ずるものなのである。しかしわれわれはまた逆にこの一一 一個独自の物としての現象において、それ自身見いだされる律背反から、独断的ではなくてやはり批判的で純理的な効用 ものではない。それゆえわたくしはまたいわざるをえないでを導き出すことができる。というのは、もし先験的感性論に あろう。「与えられた現象における部分の集合は、それ自身おける現象の先験的観念性についての直接的証明をもって十 としては有限でもなければ無限でもないーと。なぜなら現象分満足できなかった人があったとすれば、この二律背反によ は何らそれ自身として実際に存在するものではなく、部分は って現象の先験的観念性を間接に証明することである。この 分解をはらんだ総合の遡源によって、かっその遡源におい 証明は次の両刀論法によって成立するであろう。もしも世界 て、はじめて与えられるのであり、この遡源は決して有限な がそれ自身で実際に存在する全体であるとすれば、それは有 ものとしても無限なものとしても端的に全体としては与えら 限であるか無限であるかである。ところが有限であるという れていないからである。ちょうどこのことは、上へ上へと順のも無限であるというのも、ともに虚妄である。 ( 一方は反定 序づけられた原因の系列、或いは制約された実際的存在から立に関して、他方は定立に関して上に述べた証明によって ) 。である 無制約的に必然的な実際的存在へといたる系列についても同 4 から「世界が ( あらゆる現象の総括が ) それ自身で実際に存在す じようにあてはまる。この系列は決してそれ自身その総体性る全体である」ということも虚妄である。このようにしてが に関して有限とも無限とも見ることはできない。なぜならそんらい、現象一般がわれわれの表象をほかにしては無である れは従属的な表象の系列であって、単に力学的な遡源におい ことが帰結されるが、このことこそわれわれが現象の先験的 てのみ成立するものであるが、この遡源に先立って、また物観念性によっていおうと欲したところであった。 それ自体の独立自存する系列としては、決して実際に存在す 以上の注意は重要である。この注意から知られることは、 ることのできないものであるからである。 上に述べた四つの二律背反の証明は幻影ではなくて根本的な ものであったが、それはすなわち、現象、或いは現象をこと かくてその宇宙論的理念における純粋理性の一一律背反は、 それが単に弁証的であって仮象の背反にすぎないことが示さ ごとくそのうちに包括する感性界が物それ自体である、とい れることによって排除される。そしてこの仮象は、単に物そう前提のもとにであったということである。しかしそこから れ自体の制約としてのみあてはめうる絶対的総体という理念導き出された諸命題の間の矛盾は、その前提に誤謬の存する を、単に表象において、そしてそれが系列をなす場合には継ことを暴露し、それによって、物の真の性質が感官の対象た 時的な系列において実際に存在するが、それ以外には決してることにあることをわれわれに発見せしめるのである。した B535 A 507

5. 世界の大思想10 カント<上>

性的形式にすぎず、物自体としての客観の、独立に与えられ象が外的と称されるのは、それらがそれ自身において外的な た限定或いは条件ではないとする学説を意味するのである。 対象へ関係するからではなく、それらの表象が空間に関係す この観念論に対しては、先験的実在論が対立するが、これは るからである。空間とはそこにおいてすべてのものが外的に 時間と空間とをもって何らかそれ自身として ( われわれの感性並存するが、それ自身は、すなわち空間自身はわれわれのう から独立に ) 与えられたものと見る論である。先験的実在論者ちにあるようなものなのである。 はしたがって、外的現象をもって ( われわれがその現実性を認め この先験的観念論がわれわれの選ぶ立場であることは、す るかぎり ) 、われわれ及びわれわれの感性から独立して実際に でに最初にわれわれの言明したところであった。したがって 存在し、したがってまた純粋悟性概念に従ってわれわれの外われわれの学説においては、物質の現実的存在を、思惟的存 に存するような、物自体であると考えるのである、この先験在体としてのわたくしの自我の現実的存在と同じように、単 的実在論者は本来、後に経験的観念論者の役を演する者で、 なるわれわれの自己意識を証拠として、それによって証明さ 彼が誤って感官の対象に関して、もしそれらの対象が外的対れたものと言明するのではあるまいかという一切の疑念は消 象であるはすだとすれば、それ自身として感官なしにも実際失する。けだしわたくしはやはりわたくしの表象を意識して に存在していなければならないであろうと前提して後、この おり、したがってこれらの表象及びこれらの表象を持つわた 見地から、感官のあらゆるわれわれの表象をもって、対象のくしは実際に存在するからである。しかしがんらい外界の対 現実性を確信せしめるに足りないものと見る者なのである。 象 ( 物体 ) は単に現象にすぎす、したがってまた、わたくしの これに反して、先験的観念論者は経験的実在論者であるこ表象の一様式にほかならず、そしてこれらの表象の対象は、こ とができる。すなわちいわゆる二元論者であることができるれらの表象によってのみ或るものをなし、これらの表象をは のである。換言すれば、単なる自己意識の外に出ることな なれては無にすぎないのである。したがって外界の事物が実 く、またわたくしのうちなる表象の確実性、すなわち「われ際に存在するのは、わたくし自身の実際に存在するのと同様 思う。ゆえにわれ在り」 ( 。。 g ま . 。「 go sum しより以上の何もであり、両者はともにわたくしの自己意識を直接の証拠とし のをも想定することなくして、物質の実際的存在を承認する て実際に存在するが、ただ考える主観としてのわたくし自身 者である。けだし先験的観念論者は、この物質を、のみならすの表象は、単に内的感官にのみ関係せしめられるのに反して、 この物質の内的可能性をも、単にわれわれの感性をはなれて延長体を表わす表象は、外的感官に対しても関係せしめられ は無であるところの現象と見なすのであるから、物質は彼に るという相違をなすにすぎない。わたくしはわたくしの内的 あっては単に一種の表象 ( 直観 ) にすぎず、そしてこれらの表感官の対象 ( わたくしの思想 ) の現実性に関して、推論すること A371

6. 世界の大思想10 カント<上>

し直観それ自身は分割されることができない等々のことであしわたくしが単なる範疇によって「魂は単純な実体である」 というとすれば、実体という赤裸々な悟性概念は、「物が、 る。しかし或るものが単に概念において単純なものとして認 ふたたび他の物の述語となることのない主語それ自体として 識され、現象においては認識されないとすれば、わたくしは 表象されねばならないーということ以上のことを意味するも それによっては実際にはまったく対象の認識を持たす、ただ 本来直観されることのできない或るもの一般についてわたくのではないから、この命題からは何ら常住不変性に関するこ とは導き出されす、また単純という属性がこの常住不変性を しがつくるところの、わたくしの概念の認識を持つにすぎな いのである。わたくしはただ、「わたくしが或るものをまっ付加できるものでないことは確かであり、したがってわれわ れはこの命題によっては、魂が世界の変化において遭遇しう たく単純に思惟する」ということができるのみである。なぜ ならわたくしは実際に、単に「それが或るものである」とい ることがらについては、少しも教えられないのである。もし う以上には何もいうことができないからである。 「魂は物質の単純な部分である」ということができるとすれ ば、われわれは物質から、経験が物質に関して教えるところ さて、単なる統覚 ( わたくし ) は概念における実体である、 に基づいて、常住不変性を導き出すことができ、またその単 概念において単純である、等々、この意味ではかのあらゆる 心理学的定理は否定できない正当性を持つ。にもかかわらす純性に関連して心の不減性を導き出すことができるであろ これによってはやはり、人々が本来知ろうと欲することは決う。しかし心理学的原則 ( わたくしは考える ) における「わた くし」という概念は、これに関して一語をも語るところがな して魂について認識されない。けだしすべてこれらの述語は いのである。 全然直観には適用されす、それゆえにまた経験の対象に適用 しかるにわれわれのうちにおいて思惟する存在体が、純粋 されるようないかなる結果も持っことができず、したがって まったく空虚であるからである。そもそも実体というかの概範疇によって、しかもその各綱のもとにおいて絶対的統一を 念は、魂が独立してそれ自身で存続することをわたくしに教表現するような範疇によって、自分自身を認識するかのよう 論えるものでもなければ、魂が外的直観の一部分で、それ自身に思い誤るのは、次の事情によるのである。統覚はそれ自身範 疇の可能なための根拠であるが、範疇自身は、直観の多様が統 証はこれ以上分割できない、したがって自然のいかなる変化に 覚において統一を有するかぎりにおいて、この直観の多様の よっても生起消減することのできないものであることを教え るものでもない。 このような性質だけが、魂を経験との連関総合を表象するものにほかならない。であるから自己意識一 においてわたくしに知らしめ、魂の起源や来世における魂の般は、あらゆる統一の条件であってしかもみずからは無条件 田的であるようなものの表象である。それゆえ、実体であって、 状態に関して解明を与えうるものであろうが。しかしいまも 4 A402

7. 世界の大思想10 カント<上>

いるからである。しかしこれら両種の対象が今の場合、相互感性的であるか知性的であるかという直観の仕方には全然関 に区別されるというのは、内官に関してではなくて、単に身しないものであるから、ただそれだけの理由をもってして 体が魂に対して外官によって現象するかぎりにおいてのみでも、もつばら論理的機能にすぎず、したがって単に可能な直 あり、したがって物質という現象の根柢に、物自体として存観の多様を結合する自発性にほかならず、決して意識の主観 するところのものは、おそらく不同であるはすはないというを現象として示すものではない。考えるということによって ことを考えるならば、この難点は消減してしまい、残るのはわたくしがわたくし自身に表象するところは、わたくしがい かにあるかということでもなければ、わたくしがわたくし ただ、一般に実体の相互性はいかにして可能であるか、とい う難点のみであるが、これを解くことはまったく心理学の圏に対していかに現象するかということでもなく、わたくし 外に存し、また読者が根本カ及び能力に関する分析論におい はただ、その直観の仕方を捨家したあらゆる客観一般と同様 て述べられたところから容易に判断するであろうように、 にわたくしを考えるにすぎない。 もしこの場合わたくしがわ れがあらゆる人間の認識の領域外のことでもあることは何ら たくしを思考の主観として、或いはまた考える働きの基礎と の疑いもないところである。 して表象するとしても、この種の表象は実体の範疇を意味す るものでもなければ、原因の範疇を意味するものでもない。 けだし範疇とはもともとわれわれの感性的直観に適用せら 合理的心理学から宇宙論へ移るについての れた、考える働きの ( 判断作用の ) あの機能であり、わたく 一般的注解 しがわたくしを認識しようとする場合に、当然この感性的直 「わたくしは考える」、或いは「わたくしは考えつつ実際に観が要求されるであろうからである。しかるに今わたくしは 存在する」という命題は経験的命題である。しかしそう見るわたくし自身を、しかもただ考えるものとして意識しようと と「このような命題の根柢には経験的直観が存し、したがっする。わたくし自身の自己が直観においてどのように与えら 論てまた考えられた客観が現象としてその根柢に存する。であれているかは、わたくしの問うところではない。そうとすれ ばこのわたくし自身は、わたくしは考える、というわたくし 弁るからわれわれの理論によれば、魂はまったく考えるという にとっては単に現象にすぎないこととなろうが、しかしわた 験ことにおいてすら、現象に変ぜしめられ、かくてわれわれの 先 くしが考えるかぎりにおいては単に現象ではありえないであ 意識自身が、単なる仮象として、実際には何ものにも関係し ろう。単なる思惟におけるわたくし自身という意識において ないこととならざるをえないように思われる。 は、わたくしは存在体そのものであるが、もちろんそれによ 考えるということは、それだけとしてみれば、単に直観が

8. 世界の大思想10 カント<上>

4 衵 を完全に集める場合 ( 薬局 ) には、毒薬もこれを欠くわけには みならず、この思弁的関心を実践的関心と合致せしめる唯一 、よ、。われわれの単に思弁的な理性の臆見と自惚れとに の手段をなすような命題を、われわれはつねに想定すること 対する非難も、それ自身この理性の本性によって課せられた ができるのである。反対者に対しては ( 反対者とはここでは、 単に批判者と考えられてはならない ) われわれは判決延期 (non ものであるから、したがってそれは、無視されてはならない liquet) を用意している。これは反対者を困惑せしめずにはお良き使命と意図とを有するものでなければならない。われわ かないものである。がしかしわれわれは相手の報復を拒むも 13 れの最高の関心と結びついている多くの対象があるにもかか のではない。けだしわれわれはたえず理性の主観的格率に支心わらず、天意はそれをあまりにも高くにおいたがために、わ っム -4 ー 持されているが、反対者にはこれが必然的に欠けており、われわれにはほとんどただ、それらを曖昧な、われわれ自身に : れわれはこれの支持のもとに、相手の空しい攻撃を泰然自若 も疑わしい知覚のうちに見いだすことが許されているにすぎ として眺めることができるからである。 ず、それによってはわれわれの探索の眼眸は、満足せしめら このようにして純粋理性の背反論〔なるものは本来何られるよりはむしろ掻き立てられるのみなのであるが、天意は 存在しないものなのである。けだしこのような背反論の闘わそもそもいかなる意図をもってこれらの対象をかくも高くに おいたのであろうか ? このような期待に関して、あえて大 れる唯一の戦場は、純粋神学と心理学との領域に求めらるべ きであろう。がしかしこれらの土地には完全に装備し、恐る胆な決定を下すことが有用であるかどうかは、少なくとも疑 べき武器をたずさえたような戦士はいない。そこに見られるわしい。のみならすおそらくそれは有害でさえあるであろ 戦士は嘲笑と大言壮語とをもって現われうるにすぎす、児戯う。しかし探求的にして査察的な理性を十分に自由な立場へ として笑い去ることのできるものである。それはむしろ、理移し、それによって、何ものにも妨げられすに、自分自身の 性にふたたび勇気を与え、これを鼓舞する見解である。けだ関心するところを行なうことができるようにすることは、つ しもしそうでなくて、理性が、実にそれのみがあらゆる迷妄ねに、また何ら疑うまでもなく有用である。そしてこのこと は理性が自己の洞察に制限をおくことによっても、また理性 を除去する使命を与えられている理性が、それ自身混乱し が自己の洞察を拡張することによっても促進せしめられる。 て、平和も平静な所有も期待することができないとすれば、 しかし他人の手が干渉して、それをその自然の歩みに反し 理性はそもそも何に依拠しようとするのであろうか ? て、強制された意図に向って導こうとする場合には、つねに すべて自然自身によって秩序づけられたものは、何らかの 意図に対して良きものである。毒ですら、われわれ自身の血毀損を蒙るのである。 であるから諸君の論敵をして、ただ理性をのみ云々せし 液中に発生する他の毒を制するのに役立つ。であるから薬品

9. 世界の大思想10 カント<上>

230 くのは現象の観察と分析とであり、これが時とともにどこま につねに外官の現象たりうるにすぎないことはいうまでもな 、。であるからわたくしの有するのはもちろん何ら端的に内でひろく及ぶであろうかはわれわれも知りえない。しかし自 然を超越するあの先験的問題は、よしんば全自然が発見され 的なものではなく、まったく相対的に内的なものにすぎす、 たとしても、やはり決して答えられないであろう。というの それ自身また外的関係から成るものである。しかし物質の端 は、われわれ自身の心を観察するにも、われわれの内官の直 的な、すなわち純粋吾性による内的なものとは、これまた単 なる妄想である。けだし物質は決して純粋悟性の対象ではな観以外の直観をもってするようには、決してわれわれはつく いからである。しかしわれわれが物質と名づけているこの現られていないからである。けだしわれわれ自身の心のうち に、われわれの感性の起源の秘密が存するからである。感性 象の根拠たりうるところの先験的客観は、誰でもそれについ 、しかしそのと客観との関係、及びこの統一の先験的基礎は、疑うまでも てわれわれに語ることはできるかも知れないが なくきわめて深く隠された問題であって、自分自身をすらた 何であるかはわれわれの決して理解するところではないよう だ内官を通して、したがって現象として知るにすぎないわれ な、単なる或るものである。けだしわれわれは、われわれの言 葉に照応するものを直観において伴うもののみを理解するこわれは、このような拙劣な研究道具を、つねに現象であるも とができるのであるからである。もし「物の内部はわれわれの以外のものを見いだすのに用いることはできない。にもか にはまったくわからない」という嘆きが、「われわれに現象かわらずわれわれはやはり、この現哽の非感性的原因を求め て探求しようとするものなのである。 する物が、それ自身において何であるかは、純粋性によっ てはわれわれの理解しないところである」ということを意味 単に反省という働きから発する推論をこのように批判する するものとすれば、このような嘆きはまったく不当であり不 ことが、どのような効用をなすかといえば、この批判によっ 合理である。けだしそれは、人間が感性なくしてしかも物をて、われわれがもつばら悟性のうちで相互に比較している対 認識でき、同時に直観できることを欲し、したがってわれわ象についての一切の推論が無意味であることが明らかに示さ れが人間的認識能力と、単に程度の上からばかりでなく、され、同時に、われわれが主として力説してきたこと、すなわ らに直観という種類の上からもまったく異なった認識能力をち、現象は、物それ自体として純粋悟性の客観のもとには包 持ち、したが「て人間ではなくて、われわれ自身、そういう括されないとはいえ、やはりわれわれの認識がそれによ「て ものが可能であるかどうか明言もできす、いわんやそれがど客観的実在性を持ちうるもの、すなわち、そこにおいて概念 ういう性質のものかも説明できないような存在体であること に対し直観が対応するところの唯一の客観であることが、確 を欲するものであるからである。自然の内奥に向って迫りゆ証されたということである。

10. 世界の大思想10 カント<上>

であるから経験の諸対象は決してそれ自身与えられている し空間はもともとわれわれが外的直観と称する直観の形式で あって、空間における対象がなかったならばとうてい経験的ものでなく、単に経験において与えられたものであり、経験 表象は与えられないだろうから、われわれは空間中に延長しをほかにしてはとうてい実際に存在するものではない。月に た存在体を現実に存するものとして想定することができ、ま住民が存しうる、ということは、誰も未だかってその住民を 知覚したことはなくとも、もちろん承認されねばならない。 た想定しなければならないのであり、このことは時間に関し てもまさに同様である。かの空間そのものはしかし、この時しかしそれはただ、われわれが経験を可能なかぎり押し進め 間ともども、そしてこの両者と同時に一切の現象も、やはりてゆけばそういうことになりうる、というかぎりにおいてだ それ自身としては何ら物ではなく、表象以外の何ものでもなけの意味にすぎない。けだし経験進行の法則に従って知覚と く、われわれの心以外にまったく実際に存在しえないもので合致するものはすべて現実的であるからである。したがって 月の住民がわたくしの現実の意識と経験的に関連している場 ある。のみならず、われわれの心 ( 意識の対象としての ) の限 定は時間における種々異なった状態の継起によって表象され合には、それは現実的なのである。よしんばそれがためにそ れ自体としては、すなわちこの経験の進展以外では現実的で るもので、このわれわれの心の内的感性的直観といえども、 ないとしても。 これまたそれ自身において実際に存在するとおりの本来独自 かくて知覚と、この可能な知覚から他の可能な知覚への経 の自己、換言すれば先験的主体ではなくて、われわれには知 られないこの存在体冝的〕が持っ感性に与えられた、単なる験的進展以外には、現実には何ものも与えられていない。け 現象にすぎないのである。このような内的現象が、かかるそだし現象は単なる表象であって、それ自身としてはただ知覚 において現実的であるにすぎず、知覚とは実際に、経験的表 れ自身において実際に存在する事物として現実に存在すると このよ象が現実に現われたもの、すなわち現象にほかならないカ いうことは認めうるところではない。なぜというに、 らである。知覚に先立って現象を現実的な物と称するのは、 うな内的現象を制約するものは時間であるが、時間は何らか 物自体を限定するものではありえないからである。これに反われわれが経験の進行においてそのような知覚に出合わざる し、空間と時間とにおいて現象における経験的真理は十分確をえない、ということを意味するのでなければ、それは何ら 験証されるのであり、空間と時間との両者が、一つの経験にお意味のないことである。がんらい現象がそれ自身で、われわ 先 いて経験法則に従って正しくかっ斉合的に連関している場合れの感官や可能な経験への関係もなしに実際に存在する、と には、経験的真理は夢と似ていてもそれと十分区別されるの いうことは、物それ自体についていうのならば、もちろんい である。 えることであろう。しかし問題は、空間と時間とににおける B521 B 5