表象 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想10 カント<上>
484件見つかりました。

1. 世界の大思想10 カント<上>

たとすれば、何びとも現象の多様の表象が継時的にあらわれもかかわらす、これらの表象の対象と見なされ、この対象と、 ることをもってしても、この多様が客観においてどのようにわたくしが覚知の諸表象から抽象するわたくしの概念とが合 結合せしめられているかを推測することはできないであろ致すべきものとされる。それでわれわれにただちに知られる ことは、認識と客観との一致が真理であるから、ここで問題 う。けだしわれわれの取扱いうるのはやはり単にわれわれの となりうるのはただ経験的真理が成り立っための形式的条件 表象だけであり、物それ自体が ( それがわれわれを触発するに用 のみであること、そして現象は、それを他のいかなる覚知か いる表象を度外視して ) どのような存在たりうるであろうかは、 まったくわれわれの認識領域外にあるからである。さて現象らも区別し、かっ多様なものの結合様式を必然的たらしめる が物それ自体ではないにしても、やはりわれわれの認識に与一つの規則にしたがうとき、そのときのみ、覚知の表象と対 えられる唯一のものであるから、わたくしは、覚知において立せしめられ、表象とは区別された表象の客体と見なされる わたくしの持っ多様なものの表象はつねに継時的に与えられことができるのであるということである。現象において、覚 知のこのような必然的規則の条件を含むところのものが客観 るにしても、現象そのものにおける多様に対して、時間におい ていかなる結合が与えられるのかを示さねばならない。それなのである。 それではわれわれの問題に進もう。或ることが生起すると で例えば、わたくしの前に立っている家という現象における いうこと、すなわち或ること、或いは前にはなかった或る状 多様なものの覚知は継時的である。そこで、この家そのもの 態が生するということは、この状態をそのうちに含んでいな の多様がそれ自身においても継時的なのであろうかどうか い現象が先行していない場合には、経験的にこれを知覚する という問題が生する。もちろんこれを肯定する人はないであ ろう。しかし今、わたくしが用いている対象という概念を先圏ことはできない。けだし空虚な時間につづいて継起する現 1 験的意味に高めると、家は全然物それ自体ではなく、単に一実、したがってそれに先立って物のいかなる状態も先行しな い生起などというものは、空虚な時間そのものが覚知されえ つの現象、すなわちその先験的対象の知られていないところ四 ないと同じく覚知されることのできないものであるからであ 論の表象にすぎない。それでは「現象そのもの ( それはやはりそ 析れ自身においては無である ) における多様はどのように結合してる。であるから一つの出来事の覚知とは、いずれも他の知覚 的 いるであろうか」と、うロ 、こよって、わたくしは何を意味に継起する知覚である。しかしこのことは、わたくしが前に 先 しているのであろうか ? ・ここでは継時的な覚知のうちに存家という現象について示したように、覚知のあらゆる総合に するものは表象と見なされるが、しかしわたくしに与えられおいて同様であるから、これをもってしてはまだ出来事の覚 知を他の覚知と区別することにはならない。けれども、生起 ている現象は、それが単にこれらの表象の総括にすぎないに

2. 世界の大思想10 カント<上>

然的に時間関係中に存立する」と。 われわれの主張の教えるところはしたがって、いやしくも もしわれわれが、われわれ自身を内的に直観するわれわれわれわれの感官に与えられうる一切の対象に関しては、時間 の仕方、及びこの内的直観を媒介として表象力におけるあら が経験的実在性、換言すれば客観的妥当性を有するというこ ゆる外的直観をも把握しようとするわれわれの仕方を捨象とである。そしてわれわれの直観はつねに感性的であるか ら、時間の制約下に属しないような対象は、経験においては し、したがって対象をそれがそれ自身においてあるがままに これに反して 受けとるとすれば、時間というものは無に帰する。時間とは決してわれわれに与えられることはできない。 単に現象に関してのみ客観的に認められるものにすぎない。 われわれは、絶対的実在性、すなわち、時間がわれわれの感 なぜなら現象とはもともと、われわれがわれわれの感官の対性的直観の形式と没交渉に、端的に物に対してその条件或い は性質として付属しているものであるかのような、絶対的実 象として想定する物であるからである。しかしわれわれの直 観が持っ感性が、したがってわれわれに固有なかかる表象の在性に対する一切の要求を、時間に対して拒否する。物自体 に帰属すべきこのような特質は、感官によっては決してわれ 仕方が捨象され、物一般が問題とされる場合には、時間はも はや客観的ではなくなる。時間はしたがって、もつばらわれわれに与えられることはできない。したがってこの点にこ われの ( 人間の ) 直観 ( それはつねに、すなわちわれわれが対象にそ、時間の先験的観念性があるのであり、これによって、わ れわれが感性的直観の主観的条件を捨象する場合、時間はま よって触発されるかぎり、感性的である ) の主観的条件である。 そして主観をはなれて、それ自身としては、無である。それったく無に帰し、対象そのもの ( われわれの直篠に対する対象の にもかかわらず一切の現象、したがってまた経験においてわ関係を持たないような ) には実体としても属性としてもかぞえ られることができないのである。しかしこの観念性は、ちょ れわれにあらわれうる一切の物に関しては、時間は必然的に 客観的である。われわれは「すべての物は時間のうちにあうど空間の観念性がそうされてはならなかったのと同じく、 る」とはいうことはできない。なぜなら、物一般の概念に感覚とすりかえられて両者が同じに見られてはならない。な時 ぜなら、感覚の場合には、やはりこれら感覚的述語の付属し は、物を直観するあらゆる仕方は捨象せられているが、しか 性し直観こそ、そのもとに時間が対象の表象に所属するところている現象そのものについて、その現象が客観的実在性を持 っていることが前提されているからである。しかるに空間や 的の本来の条件であるからである。ところでもし条件が概念に 先付加されて、「すべての物は、現象 ( 感性的直観の対象 ) として時間の場合にはこのような客観的実在性は、それが単に経験・ は、時間のうちにあるーといわれるならば、この原則はその的である場合でなければ、すなわち対象そのものを単に現象 十分な客観的正当性と先天的普遍性とを有することとなる。 として見る場合でなければ、まったく棄て去られるのであ

3. 世界の大思想10 カント<上>

に異なる。なぜなら表象の所属する認識力は同一ではないか われわれは、おそらく、ここにあげられた諸概念を比較概念 (conceptus comparationis) と名づけるべきであろう。しかし、 らである。この先験的反省は、もしわれわれが物に関して何 間題が概念の論理的形式にあるのでなく、概念の内容に関すごとかを先天的に判断しようとするならば、何びとも免れえ る場合、すなわち物がそれ自身一様であるか異なっている ない義務である。今われわれはそれに着手しようとするので か、一致しているか対立しているか等が問題である場合にあるが、それによって悟性本来の仕事を規定するのに少なか は、物はわれわれの認識力に対して二重の関係を持つ。すな らぬ光明がえられるであろう。 一様性と差異性。或る対象が度々、しかもその度ごと わち感性に対する関係氤っと〕悟性に対する関係自体 とを持ちうるのである。しかし物がどのように相互連関をな に同じ内的規定 ( 質及び量 qualitas et quantitas) をもってわれ すべきかの仕方は、物が感性に属するか吾性に属するかとい われに示されるとすれば、それが純粋悟性の対象として見ら う、そこに所属するこれらの位置によるから、先験的反省、 れるかぎり、つねに同一であり、数多ではなくてただ一つの すなわち与えられた諸表象とどちらかの認識の仕方との関係物 ( 数的同一 nume 「 ica identitas) である。しかしそれが現象で が、表象相互の関係をもつばら規定しうるであろう。そしてある場合には、概念の比較は全然問題とはならず、概念に関 してはすべてがどんなに一様でありえても、やはりこの現象 物が一様であるか、異なっているか、一致しているか対立し が同時に異なった場所にあるということは対象 ( 感官の ) その ているか等は、概念そのものから単なる比較 (comparatio) によってはただちに決定されることはできす、先験的反省ものの数的差異性の十分な理由となるのである。たとえば一一 (reflexio) を通して、概念の所属する認識の仕方を区別する滴の水について、われわれはその内的差異 ( 質及び量の ) を一 ことによってはじめて決定されうるのである。したがってわ切捨象することができる。そしてそれらが異なった場所で同 れわれはもちろん、論理的反省とは単なる比較であるという 時に直観されるという事実は、それらを数的に別々のものと ことができるであろう。けだし論理的反省においては、与え考えしめるに十分である。ライプニツツは現象を物それ自体 論られた表象がそれに所属するところの認識力はまったく捨象と考えた。しがたって叡知体、すなわち純粋悟性の対象と考 えたのである。 ( 彼はそれらの現象の表象が混濁しているゆえをも 軈され、したがって与えられた諸表象はそのかぎりにおいて、 鰤その座という面からいえば、心のうちにあり、同種的なもの ってそれらに名づけるに現象体の名をもってしたけれども ) 。そして 先 として取扱われるべきであるからである。これに反して先験この場合これは彼の差別不可能の原則 ( 差別不可能即同一の原理 的反省は ( これは対象そのものに関係する ) 表哽相互の客観的な引 principium identitatis indiscernibilium) とはもちろん抵触しょ 比較の可能なゆえんの根拠を含み、したがって比較とは大い いであろう。しかし現象は感性の対象であり、悟性は現象に A264

4. 世界の大思想10 カント<上>

来自己意識の能力といっても、直接自己活動的にみずからをくしがいっているのではない。もしわたくしが、現象にかぞ えるべきものを、単なる仮象たらしめたとすれば、それはわ 表象するかのように自己を直観するのでなく、自分が内部か ら触発される仕方にしたがって、だから自分の在るがままに たくし自身の責任であろう。このことはしかし、われわれの ではなく、自分がみすから現象するがままに自己を直観するあらゆる感性的直観を観念性において見るわれわれの原理に のであるからである。 したがうならば起らないことである。かえってこのような感 Ⅲ外界の客観を直観する場合ばかりでなく、心の自己直性の表象形式に客観的実在性が付与されるとき、一切がそれ によって単なる仮象に転ぜざるをえなくなるのである。なぜ 観の場合もまた、両者いずれも、前者は空間において後者は 時間において、客観がわれわれの感官を触発する通りを、換なら、もし空間及び時間が、そう見ることが可能だという意 言すれば、対象の現象する通りを表象するのである、という味で事物自体に見いだされざるをえない性状と見なされるな のがわたくしの主張であるが、わたくしがこのようにいう場らば、そしてその場合にわれわれの捲きこまれる不合理、す 合、これらの対象が単なる仮象にすぎないかのようにいおう なわち、実体でもなく、実際に実体に所属するものでもなく とするのではない。けだし現象においてはつねに客観は、 て、しかも現実に存在するものでなければならないところ 否、われわれが客観に付加する諸性質すら、実際に与えられの、否、その上一切の物が実存するための必然的条件でなけ " たものと見なされるのであり、ただこの性質が、与えられたればならないところの二つの無限なる物と〕が、一切の 対象と主観との関係における単に主観の直観の仕方にもつば 実存する物の除去された後にもなお残存するわけであるか ら依存するものであるという意味で、この対象が現象とさ ら、それによって捲きこまれる不合理をよく考えるならば、 ークリー れ、客観自体としての対象から区別されるにすぎないからであの善良な・ ( が、物体を単なる仮象におとしめたと ある。たとえば、わたくしが物体や魂を定立するのは、それしても、おそらくこれを非難することはできないこととなろ らが現実に存在するための条件としての、空間と時間とにし う。のみならず、かくてはわれわれ自身の存在が時間という たがってであるが、この空間と時間との性質が、わたくしの ような架空物の独立自存する実在性に依存せしめられること 直観の仕方のうちに存し、これら物体や魂という客観自体の となり、時間とともにまったくの仮象に変えられざるをえな うちに存するのではないとわたくしが主張しても、「物体が いであろう。このようなことは、いまだかって何びとも犯さ 単にわたくしの外にあるように見えるにすぎないのだ」と なかった不合理である。 か、或いは「わたくしの魂は単にわたくしの自己意識中に与 車現象の述語は、客観がわれわれの感官に対して持っ関係にしたがって、 えられているように思われるだけなのだーということをわた 客観自体に付加されることができる。たとえば・ハラには赤い色、或いは匂い

5. 世界の大思想10 カント<上>

の異なるところは単に、外的表象が対象を空間において表象らず、極度に異種的であるからである。外的感官においては 四するから、それがいわば魂から分離して、魂の外に浮遊する がんらいわれわれは、外的結果としては場所の変化以外に持 かのように思われるという錯覚をおこさせるものをおびてい っことなく、カとしてはそのカの結果としての空間における ることであるが、しかもそれが直観される場所たる空間すら関係に帰着するところの、単なる努力以外に持っところはな 表象以外の何ものでもなく、同じ性質をもったこの表象に対 しかるにわれわれのうちにおいては、結果とは思想であ 応する形象が、魂の外に見いだされるなどということは決し って、思想のもとでは場所の関係や、運動や、形体、すなわ てありえないのである。いまや問題はもはや、魂と、われわち一般に空間規定は生ぜず、われわれは原因の手引を、内的 れの外にある既知の異種的実体との相互性についてではな感官において示されるべきそれの結果によってはまったく求 く、単に内的感官の表象と、われわれの外的感性の変容との めることができない。しかしわれわれの十分考慮しなければ 結合についてであり、 いかにしてこの両者が恒常的な法則に ならないことは、物体とはわれわれに現前している対象自体 従って相互に結合し、経験として連関するにいたることがで ではなく、、、 し力なる対象かは知られないが、とにかく未知な きるかである。 る対象の単なる現象であること、運動とはこの未知なる原囚 われわれが内的現象と外的現象とを、経験における単なる の結果ではなく、単にこの未知なる原因がわれわれの感官に 表象として、相互に関連せしめるかぎり、何ら矛盾するもの及ぼす影響の現象であること、したがって物体も運動も、と も見いだされず、両種類の感官の相互性を奇異に思わしめる もにわれわれの外なる或るものではなく、単にわれわれのう ようなものもない。しかしわれわれが外的現象を実体化しちなる表象であること、すなわち、物質の運動がわれわれの て、これをもはや表象としてではなく、それがわれわれのう うちに表象を生ぜしめるのでなく、物質の運動それ自身が ちにあるままの同じ性質を持ちながら、われわれの外に独立 ( したがってまた、それによって知られる物質も ) 単なる表象であ 自存する物でもあるとし、しかもそれが相互関係をなす現象ること、最後にこのみすからっくり出された困難は全部次の として示すところの働きを、われわれの思惟的主観に関係せ 問いに帰着するものであること、すなわち、われわれの感性 しめるとすれば、われわれはわれわれの外に起動原因の性格の諸表象はどのようにして、またいかなる原因によって相互 を持つものを持つが、それがわれわれのうちなるそれの結果に結合し、その結果われわれが外的直観と名づけるような直 とは一致しないことになる。なぜなら起動原因は単に外的感観が、経験的法則に従って、われわれの外なる対象として表 いに帰す 官に関係するに反して、それの結果は内的感官に関すること象されることができるようになるのか ? というⅢ となり、両者は一つの主観のうちに合致しているにもかかわるということである。この問題はがんらい、表象の起源を、

6. 世界の大思想10 カント<上>

の ) を媒介として、われわれに対し対象をわれわれの外にあの究明が、概念を先天的に与えられたものとして説明するよ うなものを含んでいる場合には、これは形而上学的であるの るものとして表象し、かっこれらの対象をすべて空間におい て表象する。この空間において、対象の形態、大きさ及び相である。 ) ( 1 ) 空間は外的経験から抽象された経験的概念ではない。 互関係が規定されており、或いは規定されることができる。 内部感官は、それを媒介として心が自分自身を、或いは自分けだし或る感覚がわたくしの外なる物に ( すなわちわたくしが の内部状態を直観するものであるが、この内部感官はもちろそこに存在している空間とは別の場所にある物に ) 関係せしめられ るためには、またしたがって、わたくしがそれらの感覚を相 ん一個の客観としての魂そのものの直観を与えるものではな 。しかしそれはやはり、その下にのみ魂の内部状態の直観互に分離 ~ しまた並存 ) するものとして、したがって単にち が可能であるところの一定の形式である。したが「て内部的が 0 たものとしてばかりでなくちが「た場所にあるものとし 規定に属するすべては時間関係において表象されるのであて表象できるためには、空間という表象がすでに根柢に存し る。時間が外的に直観されないことは、空間がわれわれの内なければならない。それで空間という表象は、経験によって 外的現象の諸関係から借りてこられたものではなく、この外 . しュ / . し なる或るものとして直観されないのと同様である。 空間と時間とは何であろうか。それは実際に存在するものな的経験がそれ自身、上に述べた空間という表象によってはじ めて可能なのである。 のであろうか。それはなるほど単に物を規定するもの、或い はまた物の関係にすぎないとしても、しかし物自体にも、物 ( 2 ) 空間はあらゆる外的直観の根柢に存する必然的な先天 自体は直観されないだろうが、それにもかかわらすそのよう的表象である。われわれは、空間中にいかなる対象も見いだ な物自体にも属するような規定なのであろうか。それとも、 されない、ということは十分考えることはできるがし力な 単に直観の形式にのみ固着した規定、したがってそれを欠、 しる空間も存在しない、という表象は決してつくることはでき てはこれら空間と時間という述語がいかなる物にも付加されない。したが「て空間は現象〔が可能なための条件と見な ることができないような、われわれの心の主観的性質にのみ、 されるもので、現象に依存して規定されるものと見られるべ 性もつばら固着した規定であろうか。これを明らかにすゑためきでなく、必然的に外的現象の根柢に存するところの先天的 に、われわれはまず一空間という概念を究明 ) 一「空間を考表象である。 先察」〕しようと思う。 ( けれどもわたくしが究明 (expositio) と ( 3 ) 〔第一版ではこれが ( 4 ) であり、 ( 3 ) が別に た〕空間は物一般の いう語によって意味するところは、一つの概念に属するもの関係に関する推論的な、或いはいわゆる一般的概念ではな の明晰な ( 詳細でなくとも ) 表象をえることである。しかしそく、一つの純粋直観である。けだし第一には、われわれは単

7. 世界の大思想10 カント<上>

である。そしてこの内的直観は何らの形態をも与えないもの であるために、われわれはまたこの欠陥を類比によって補お うとし、時間継続を無限に進みゆく一本の線によって表象す る。この線においては、多様なものが、一次元のみによって これらの概念からの結論 存するところの一系列を構成するのである。そしてわれわれ はこの線の性質から、時間のあらゆる性質を推論する。ただ (d) 時間は、それだけで自存する或るものではなく、或いは 線の部分は同時的であるが、時間の部分はつねに継起的であ 物に客観的な性質として付属する或るものでもなく、したが って、われわれが物を直観する場合のあらゆる主観的条件をるという点だけを除いて。このことからまた、時間表象がそ 捨象し去っても、なお残留する或るものではない。なぜなられ自身直観であることも明らかである。なぜなら、あらゆる 第一の場合には、時間は現実の対象がなくてしかも現実に在時間関係は外的直観に訴えて表現されるからである。 ( 四 ) (o) 時間はあらゆる現象一般の先天的な形式的条件であ るというような或るものとなることとなろう。第二の場合に 3 る。空間は、あらゆる外的直観の純粋形式であるから、先天 ついては、時間は物自身に付属した性質或いは秩序だという 3 ことになるから、対象を条件づけるものとして対象に先立「的条件としては単に外的現象に制限される。これに反し、一 て存することはできず、かっ総合的命題によって先天的に認切の表象は、それがいったい外界の物を対象として持っと否 とにかかわらず、それ自身として心を規定するものであるか 識され直観されることはできないこととなろう。しかるに、 もし時間が、その下においてわれわれのうちなる直観がすべら、内的状態に属するが、この内的状態は内部直観の形式的 て生じうるところの主観的条件にほかならないとすれば、こ条件、したがって時間に属するものであるから、時間はあら れらのことは十分に成り立つのである。なぜならその場合にゆる現象一般の先天的条件であり、しかも内的現象の ( われ は、この時間という内的直観の形式は、対象に先立って、し われの魂の ) 、そしてまさにそれによ 0 て、間接にはまた外的時 たがって先天的に、表象されることができるからである。 現象の直接的条件である。もしわたくしが、「あらゆる外的 (=) 時間は内部感官の形式にほかならない。換言すれば、 現象は空間中に存し、かっ空間関係にしたがって先天的に規 われわれ自身を、またわれわれの内的状態を、直観する形式に定せられている」と先天的にいうことができるとすれば、わ ほかならない。なぜなら時間は外的現象のいかなる性質でも たくしは内部感官の原理に基づいて、まったく普遍的原理と ありえないからである。時間は形態にも位置にも属せす、反して次のようにいうことができるであろう。「あらゆる現象 対に、われわれの内的状態における表象関係を規定するもの一般、すなわち感官のあらゆる対象は時間のうちに存し、必 A34

8. 世界の大思想10 カント<上>

て、触発 (Affectionen) によって生じ、したがって概念は機直接的な表象と多くの表象とを相互に包括する、より高次の 9 能 (Functionen) によって生する。しかしわたくしが機能と表象が用いられ、多くの可能な認識がこれによって一つの認 いうのは、種々なる表象を一つの共通な表象の下に秩序づけ識概〕〈と総括されるのであるからである。そこでわれわ る働きの統一性を意味する。したがって概念は思惟の自発性れは、悟性の働きをすべて判断に帰せしめることができるか に基づく。あたかも感性的直観が印象の感受性に基づくよう ら、悟性は一般に判断する能力と考えることができる。けだ に。そもそもこれらの概念に関しては、吾性はこれによってし悟性は上に述べたところによれば、思惟する能力であるか 判断するということよりほかに、何らこれを使用することは らである。思惟とは概念による認識である。概念はしかし できない。単に直観以外にはいかなる表象も直接に対象に関可能な判断の述語として、まだ規定されない対象について 係することができないから、概念は決して直接には対象に関の何らかの表象に関係する。それで物体という概念は、その 係せしめられず、対象についての何らか他の表象 ( それが直概念によって認識されうる或るもの、例えば金属を意味する。 襯であろうと、それ自身すでに概念であろうと ) に関係せしめられしたがって概念の概念たるゆえんはひとえに、そのもとに他 るのである。判断とはしたがって、対象についての間接的認 の諸表象が包含されていて、それらの諸表象によって諸対象 へと関与することができるという点にある。であるから物体 識、すなわち対象の表象の表象である。それそれの判断に は、多くの概念に通用する概念で、その多くの概念の間でそという概念は可能な判断、例えば「金属はいずれも物体であ の場合対象に直接関係せしめられる一つの与えられた表象をる」に対する述語となる。悟性の機能はしたがって、もしわ 含む概念がはいっている。例えば「あらゆる物体は可分割的れわれが判断における統一の機能を完全に示すことができれ ば、すべてこれを見いだすことができる。このことはしかも である」という判断について見れば、可分割的という概念は 他のちがった概念にも関係する。しかしこれら種々ちがった完全に成就されるということ、それを次の節で明らかにしょ 概念の間で、ここでは特に物体という概念に関係しているのう。 である。しかしこの物体という概念は、われわれにあらわれ る或る種のいろいろな現象お家〕に関係せしめられている。 であるからこれらの対象気お家〕は、可分割性という概念に よって間接的に表象されるのである。すべて判断とはしたが って、われわれの表象の間を統一する機能である。すなわち 対象が認識されるためには、直接的な表象ではなしに、この

9. 世界の大思想10 カント<上>

天的認識源泉は、まさに次のことによって ( それらが単に感性 内部感官の対象 ( わたくし自身及びわたくしの状態 ) については、 の条件であるということによって ) その限界を規定される。すな それが現実に存在するものであることは直接的に意識によっ て明白である、とする観念論が、立ちはだかっているからでわち、それらは単に現象として考察されるかぎりにおける対 ある。外界の対象は単なる仮象であるかもしれない。しかし象にのみは関係するが、物それ自体をば示すものではないと いうことによって。現象のみがそれらの妥当する分野であっ 内部感官の対象が何らか現実に存在するものであることは否 定すべくもない、と彼らは思いこんでいるのである。けれどて、もしわれわれが現象を越え出る場合には、もはやそれら オい。なおまた空間及び時間のこの実在 もそれらの人たちは、外界の対象も、内部感官の対象も、その客観的使用は生じよ れらが表象としては現実に存在するものであることを拒むわ性己は、経験的認識の確実性に抵触するものではな い。なぜならこれらの形式冝蠣〕が物それ自身に属しよう けにゆかないが、それにもかかわらずともに現象に属するに が、それとも単にこれらの物に対するわれわれの直観に必然 この現象とは すぎないものであることに考え及んでいない。 的に属しようが、いずれにしても同様に、われわれにとっ つねに二つの面を有するもので、その一つの面というのは、 て、この経験的認識は確実であるからである。これに反し 客観がそれ自身において考察される場合であり、 ( その客観が 直観される仕方を度外視して。しかしまさにそのゆえにこの客の性て、空間及び時間の絶対的実在性を主張する人々は、彼らが 質は依然として問題として残るのである ) 、他の面とは、この対象それを実体として考えるか、それとも単に属性として考える かを問わす、経験そのものの原理に一致しないこととならざ の直観される形式に注目する場合である。そしてこの形式は 対象それ自身のうちに求められるのでなく、対象がそれに対るをえない。なぜならもし彼らがそれを実体として考えると いう第一の立場をとることに決めたとすれば ( これは通常数学 して現象するところの主観のうちに求められねばならない が、しかしそれにもかかわらず、実際に、また必然的に、こ的自然研究者〔一 ンなど 〕がとる立場であるが ) 、単に現実に存在す る一切のものをみずからのうちに包括するためにのみ存在す の対象の現象に属するものなのである。 る ( しかもみずからは何か現実に存在するものなのではなくて ) とこ 時間と空間とはしたがって、そこから先天的に別々の総合 ろの、二つの永遠無限にして独立自存する架空物 ( 空間と時間 ) 的認識がくみとられうるところの、二つの認識源泉である。 的特に純粋数学が空間及び空間関係に関して輝かしい例証を示を想定せざるをえないこととなるからである。またもし彼 先しているように。すなわち時間と空間とは、両者相合してあらがそれを属性として考えるという第二の立場をとり ( それ らゆる感性的直観の純粋形式であり、そのことによ「て先天は若干の形而上学的自然学者〔 , ライヴ = 〕の立場であるが ) 、空間と時 間とが彼らにとって、経験から抽象された、そしてその抽象 的総合命題を可能ならしめるのである。けれどもこれらの先

10. 世界の大思想10 カント<上>

い。なぜならもし仮りに時間という表象が先天的にその根柢 もの、たとえば・ハラが、経験的な意味で物それ自体と見なさ れている。けれどもそれはやはり色に関しては見る人の眼に になかったとすれば、同時存在とか継起とかは知覚としてあ よって違ってあらわれうるのである。これに反し、空間におらわれもしないであろうからである。時間という表象を前提 ける諸現象の先験的概念は、批判的警告として次のことを教としてのみわれわれは、若干のものが同一の時間に ( 同時に ) える。すなわち空間において直観されるものは総じて何もの存在するとか、別々の時間に ( 継時的に ) 存在するとかいうこ も物自体ではなく、空間は、物に、いわばそれ自身として固とを表象できるのである。 有であるような物の形式ではなく、われわれには対象自体は ( 2 ) 時間はあらゆる直観の根柢に存する必然的な表象であ 全然知られておらす、われわれが外的対象と称するものはわる。われわれは、現象を時間から取り去ることは何の困難も れわれの感性の単なる表象以外の何ものでもなく、この感性なくできるけれども、現象一般に関しては時間そのものをな の形式は空間であるが、感性の真の相関者、すなわち物自体 くすることはできない。時間はしたがって先天的に与えられ は、空間によっては全然認識されす、また認識されることも たものである。時間においてのみ、現象が現実にあらわれる できず、物自体はかえって、経験においては決して問題とさ ということがすべて可能なのである。現象はことごとく消減 れないということである。 するということはありうる。しかし時間そのものは ( 現象が 生じうるための普遍的条件だから ) なくされることはできない。 ( 3 ) 時間に関するこの先天的必然性に基づいて、また時間好 先験的感性論 関係に関する必当然的諸原則や、或いは時間一般に関する公 理の可能なゆえんが生ずる。時間は一次元のみを有する。す なわち別々の時間は同時的ではなく、継時的である。 ( ちょう 第ニ節時間について ど別々の空間が継時的でなく、同時的であるように。 ) これらの原 則は経験からはひき出されえない。なぜなら経験は厳密な普 遍性をも、必当然的な確実性をも与えないであろうからであ る。われわれは単に「普通の知覚によればそうである」とい いうるのみで、「そうあらざるをえないのだ」とはいうこと はできない。 これらの原則は、それによって一般に経験が可 能であるところの規則と見なされるものであり、経験に先立 宀四 時間概念の形而上学的究明〉 ( 1 ) 時間は何らかの経験から抽象された経験的概念ではな ( 三 ) B 46