制約 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想11 カント<下>
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1. 世界の大思想11 カント<下>

は、意志が求めると予想される、或る別のものに向けさせら であろうということを意味する。それゆえ、命令は客観的に 妥当し、主観的な原則としての格率から全然区別されたものれている。そしてこの欲求は、行為者自身が自らえた財産以 である。だが、それらの命令は能動因としての理性的存在者外になおほかの助けを予想しているかどうか、或いは年をと るとは隸っていないかどうか、或いはいっか困った場合にど の因果の制約を、結果とこの結果を生むに十分であるという うにか切りぬけうると考えているか、どうかにかかわりな ことに関して規定するか、結果を生むに十分であろうとなか く、その行為者自身に委しておくよりほかない。必然性を含 ろうと、意志だけを規定するかである。前者は仮言的な命令 であり、ただ熟練に対する指図を含むだけであろうが、後者むべきすべての規則の唯一の源となる理性は、なるほど、こ はこれに反し定言的であり、これのみが実践的法則であろの自らの指図に必然性をも与えはする ( というのはこのこと がなければ指図は命令ではないだろうから ) 、けれどもこの う。それゆえ、なるほど格率は原則ではあるが、命令ではな 約を受けている場合には、つ必然性は主観的に制限されているにすぎない。そしてこの必 い。だが、命令そのものは、」 まり、意志を端的に意志としてではなく、求められた結果に然性があらゆる主体に同じ程度にあると予想されうるわけで 。ない。だが、理性の立法のために求められるのは、理性が いいかえれば、仮言的命令である 関してのみ規定する場合、 ただ自分自身だけを予想すべきだということである。という 場合には、なるほど実践的指図ではあっても、法則ではな 。後者は、わたくしが、求められた結果に対してのそましのは、或る理性的存在者を他の存在者から区別する偶然的主 い能力をもっているかどうかを、もしくはこの結果をうむた観的制約なしに妥当する場合にのみ規則は客観的であり、普 めにわたくしが何をなすべきかを間題にするまえに意志を意遍的に妥当するからである。ところで、だれかに向かって、 志として十分に規定し、したがって定言的でなければならな決していつわりに約東してはならないといったとするなら ば、これはその人の意志にのみかかわる規則である、人間が でなかったら、それは法則ではない。というのは、かく 一般にもっかも知れない意図がこの意志によって達せられよ ては、実践的であるべき限りの必然性が、つまり、感覚的な うと達せられまいとかまわない。単なる意欲とは、そうした 制約、したがって、意志に偶然ついている制約から独立でな 批ければならない必然性がそれらの法則に欠けているからであ規則によ 0 て全くア・プリオリに規定さるべきものである。 理る。たとえば、だれかにむかって、年をとってからこまらなそこでこの規則は、もし実践的に正しいとわかるならば、法 則である。というのは、それは定言命令であるから。したが 実いように若いときに働いて、倹約しなければいけないという って、実践的な法則は、意志の因果によって達せられるもの とする。これは意志の正しい、そして同時に重要な実践的指 図である。だがすぐわかることであるが、このばあい意志を顧みることなく、ただ意志にのみ関係する。そして、この

2. 世界の大思想11 カント<下>

。われわれの外に存する対象は、「外にーということが空ばならないのである。ヒュームによって「独断のまどろみを 間的規定であり、空間は直観形式である以上、決して物自体打破られた」カントはこうして「先験的弁証論」において従 とは考えられないことはいうまでもないであろう。カントの来の伝統的形而上学に容赦なくその批判の斧をふるうのであ る。 先験的観念論はいわゆる外界の対象の経験的実在性を認めな がら、ただそれは物自体ではなく現象であると考えることに カントによると、古来この種の形而上学が存在したという よってその先験的観念性を主張するものに外ならないのであことは決して偶然なことではなく、人間の認識の本性から生 る。したがって物自体とは決して外界の対象というようなも じてくる不可避的なことなのであるが、それは人間の認識が のを意味するのではなく、経験的世界を超越した世界を意味元来単なる悟性的認識に満足せす、さらに進んで悟性的認識 すると考えられねばならない。 に統一を与えようとする働きを持っているからである。これ がすなわち理性の働きである。この理性の働きはわれわれの 三伝統的形而上学の否定 認識に体系的統一を与えるために必要でもあり有効でもある 、刀 しかし認識の体系的統一が成立するためには、どうして こうしてカントは数学および自然科学において先天的総合 判断が可能であるゆえんを基礎づけることによって同時にわも、それ自身はもはや何ものによっても制約されていない無 れわれの認識が現象界を越え出ることができないという結論制約者を求めてゆかねばならない。なぜなら何かによって制 を得たのであるが、このような立場から見ると、なぜ従来の約されているものについてはわれわれはそれを制約している 合理論的形而上学が誤りであったかという理由も十分に納得ものを問わねばならず、したがって無制約者が見出されるま されることができるであろう。合理論的形而上学はわれわれで体系的統一は完成しないからである。それ故無制約者を求 の認識が現象界に限られるということを洞察せす、超経験的めるということは理性に与えられた課題なのである。だがこ な対象を認識し得ると考えてしまったのである。そしてその のように無制約者を求めてゆくという課題が課せられている ためたとえば霊魂とか世界の本質とか神とかについて単なる ということは、現実に無制約者が存在するということを意味 思弁によって種々の論議を行なってきたのである。しかしすするものではない。ところがわれわれの理性はややもすれば でに見たようにわれわれの認識は感性と悟性の共同によって この無制約者が現実に存在すると考えようとする傾向があ 成立するのであり、感性的直観がないところでは悟性のカテ る。そしてこのように無制約者が実在すると考えるようにな コ丿ーも客観的妥当性を持たないのであるから、合理論的形ると、無制約者というものは決して経験の領域の中で見出さ 而上学のこのような試みは全く根本的に誤っているといわねれるものではないから、理性はここに人間の認識の持っ制限

3. 世界の大思想11 カント<下>

とを認識する。事実、道徳律は自由による因果の法則であ与えることができ、そして理性の超越的な使用を内在的な使 り、したが「て超感性的自然を可能にする法則である。それ用に ( 経験の範囲内で理念そのものによって働く原因である は感性界の出来事の形而上学的法則が感性的自然の因果の法ように ) かえることによってである。 感性界そのものにおける存在者の因果を規定することは決 則であったのと同じであり、そして道徳律は理論哲学が不定 なものとしておくほかなかったものを、つまり、理論哲学に して無制約ではありえなかった。それにも拘らす、制約の全 おいてはその概念が消極的であるにすぎなかった因果に対す系列に対し必然的に或る無制約なものが、したがってまた自 る法則を規定し、したがって始めてこの法則に客観的な実在分を全く自分で規定する因果が存在せねばならない。だか ら、絶対的自発性の能力としての自由の理念は純粋理論理性 性を与える。 ( ) この「えない」という字は原典にはないが、フォルレンダーにしたが の要求ではなく、その可能性に関していうならば、純粋理論 って補っておいた。 理性の分析的原則である。しかし、現象としての事物の原因 の中では、絶対に無制約な因果の規定に出あうことはできな 道徳律そのものは自由を演繹する原理として、純粋理性の いから、経験の中にこの理念にかなう例証をあげることは絶 因果の原理として掲げられるものであるから、道徳律に対す るこの種の信任状は、ア・プリオリなあらゆる弁護に代「て対にできないので、われわれは、他面では本体とも考えられる 限りでの感性界の存在者に適用する場合には、自由に行為す 理論理性の要求を補うのには十分である。それは、理論理性 る原因についての思想を弁護しえたに止まる。が同時にわれ が少なくとも自由の可能性を想定するように強いられている からである、それというのは、道徳律が自らの実在性を理論われの示したことは、現象である限りその存存者の行為がす べて、自然的に制限されているが、同時に、行為する者が理性 理性の批判にとっても満足のいくように証明するのは次のこ とによってである。すなわち、理論理性にとってはその可能的存在者である限り、その因果が自然的に制限されていない 性が理解できないにも拘らず、想定するように強いられた因と見ること、したが「て自由の概念を理性の統制原理とする ことは矛盾でないということである。この原理によってなる 果、つまり、ただ消極的にしか考えられない因果に積極的な 眦規定をつけ加えること、意志を直接 ( 意志の格率の普遍的法ほどわたくしは、そのような因果の与えられる対象がなんで 理則的な形式の制約によって ) 規定する理性の概念をつけ加えあるかを全く認識しはしない。けれども、妨害を取り除くこ ることによってであり、かくして、思弁的に取り扱おうとすとによって、一方では、世界の出来事の説明、したがってまた るならばその理念と共にとんでもないことになる理性に対し理性的存在者の行為の説明において、制約されたものから制 最初に、実践的であるにすぎないにせよ、客観的な実在性を約へと無限に帰っていく自然必然性の機制を公正に扱うが、

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33 実践理性批判 原理と意志の道徳性とにそむくものである。つまり、法則の 。というのは、自由な純粋意志の法則は、この意志を経験 あらゆる質料 ( すなわち求められた対象 ) から独立であると的な領域とは全然異なった領域にいれる。そしてこの法則の ころに、だが同時に、恣意を、格率がそうならねばならない 現わす必然性は、自然必然性であるはずはないから、法則 単なる普遍的立法的な形式によって規定するところに道徳の 一般を可能にする形式的制約の中にのみありうる。実践的規 唯一の原理がある。そのような独立は消極的な意味での自由則の質料はすべて主観的制約に基づくのが普通である。この であるが、純粋なそのままで実践的な理性のこのような自己制約はこの規則に理性的存在者のための制限っきの普遍性 立法は積極的な意味の自由である。したがって道徳律は実践 ( わたくしがこれやあれやのものを求める場合に、これを実 理性の自律、すなわち、自由を現わすものにほかならない。 現するためなにをしなければならないかという ) をしか与え そしてこの自由はそれ自身すべての格率の形式的制約であない。そしてそれらの主観的制約は総じて自己の幸福という り、この条件にしたがってこそ格率は最高の実践的法則と一原理のまわりを回っている。ところでもちろん、すべての意 致しうるのである。それゆえ、法則と結びつけられる欲望の欲が一つの対象をしたがって質料をもたねばならないことは 客体にほかならないところの、欲求の質料が法則可能の制約否定できない。けれどもだからといってこの質料が格率の規 として実践的法則にはいってくる場合には、そこから、或る定根拠や制約であるわけではない。というのは、もし質料が 衝動もしくは傾向性にしたがおうとする恣意、つまり自然法制約であるとしたならば、格率は普遍的立法的な形式では現 則への依存という他律が生まれる、が、このようにして決しわされないからである。その理由は、その場合には対象の現 て普遍的立法的形式を自らに含みえない格率は責任を生まな存するという期待が恣意を規定する原因となるであろうし、 いはかりか、純粋実践理性の原理にさえも、したがってまた意欲の基礎となっているのは、或る事柄が現存するというこ 道徳的意向にも反する。たとい、そこから生まれる行為が合 とに欲求能力が依存することでなければならないであろうか 法的であっても。 らである。かく依存することは常に経験的制約において求め ( ) 原典ではこの自由という字は二格になっていて、自律にかかるように られうるだけであり、したがって必然的で普遍的な規則の根 なっているが、ここではナトルプにしたがって、自律と同格と見て訳した。 拠を決して与えないからである。かくて他人の幸福は理性的 存在者の意志の対象でありうるであろう。だが他人の幸福が 格率を規定する根拠であるならば、当然予想されねばならな いことは、他人の幸福の中には自然的な満足があるばかりで それゆえ、質料的な ( したがって経験的な ) 制約を伴って なく、或る人々の間に同感的な気持を起こさせるような欲求 いる実践的指図は決して実践的法則に数えられてはならな

5. 世界の大思想11 カント<下>

んじ、単なる判定作用と直接に結ばれたものでなければならのとして ) 前提されうる主観的なものへ向けられたものに過 ぬ。したがってまた趣味判断はすべて単称判断である。なぜぎない。ゆえにある表象が判断力のこの制約と合致すること は、あらゆる人に妥当的なものとして先天的に想定されうる なら趣味判断は満足の述語を概念と結合するのではなく、か いいかえれば、快、すなわち感性的対 のでなければならぬ。 えって所与の、個別的、経験的表象と結合するからである。 したがって、趣味判断において判断力に対する普遍的規則象一般の判定における認識諸能力の関係に対する表象の主観 ( 原注一一一 ) として、あらゆる人に対して妥当的なものとして、先天的に的合目的性は、正当にあらゆる人に求められうるであろう。 原注一二美 C 直感〕的判断力の単に主観的根拠に基づく判断に対する普遍 表象されるのは快ではなくて、心情のうちに対象の単なる判 的同意を要求することが正当な根拠をもっためには、つぎのことが認められ 定作用と結ばれたものとして知覚されるこういう快の普遍妥 れば十分である。 ( 一 ) この能力〔判断力〕の主観的制約は、このとき働かさ 当性なのである。わたくしがある対象を快とともに知覚し判 れる認識諸力の認識一般への関係に関するかぎり、すべての人間において一 様である。このことは真でなくてはならぬ、なぜならそうでなければ、人間 定するというときの判断は経験的判断である。しかしその対 は自己の表象を、いな自己の認識をさえ伝達しえないことになるであろうか いいかえれば、その満足を必然的な 象を美しいと見ること、 ら。 ( 一 D 判断は単にこの関係を ( したがって判断力の形式的制約を ) 顧慮し ものとしてあらゆる人に求めうるという主張は、一つの先天 ただけであり、そして純粋である。詳しくいえばこの判断はその規定根拠と して客体の概念をも感覚をも混えたものではない。たとえ後の点に関して誤 的判断である。 謬が犯されたとしても、それは法則がわれわれに与える権能をある特殊の事 例へ正しく適用しなかったことに関するだけであって、これによって、その 三八趣味判断の演繹 機能一般が廃されるわけではない。 純粋な趣味判断においては対象についての満足が対象の形 注 態を単に判定することに結ばれている、ということが許され るならば、われわれが心情のうちにその対象の表象と結ばれ この演繹は、概念の客観的実在性の根拠をしめす必要をも ていると感覚するところのものは、判断力に対する対象の形たないのであるから、はなはだ容易である。なぜなら美は対 態の主観的合目的性にほかならない。ところで判断力は、 象の概念ではなく、趣味判断は認識判断ではないからであ 鰤判定の形式的制約に関していえば、あらゆる質料をはなれてる。趣味判断の主張するところは、われわれの内部に見出さ 断 ( 感覚をも概念をもはなれて ) 、単に判断力一般 ( それは特川れるのと同じ判断力の主観的制約を、普遍的にあらゆる人間 に前提してよいという理由がわれわれにあること、さらにわ 殊な感覚様式へも特殊な悟性概念へも制限されていない ) の 使用の主観的制約へ向けられたものに過ぎない。したがってれわれはこの制約へ所与の客体を正しく包摂したのであるこ と、だけなのである。ところでこの場合は、論理的判断力に また、すべての人間に ( 可能なる認識一般にとって必要なも

6. 世界の大思想11 カント<下>

って規則として訳した。 もあるということであろう。けれどもこのような欲求をわた (ß) 原典ではかく könnte と接続法になっているが、ナトルプ、フォルレ くしはあらゆる理性的存在者 ( まして神 ) に予想できるわけ ンダーはこれを直接法に直している。 ではない。それゆえ、格率の質料は残るかも知れないが、そ れは格率の制約であってはならない。というのは、もしそう引 でなかったら格率は法則とはならないであろうから。それゆ 自己の幸福の原理が意志の規定根拠とされるならば、これ え、質料を制限する法則の単なる形式は同時に、この質料を意 は道徳性の原理の正反対である。というのは、そのために 志に付けくわえはするが質料を予想することはしない根拠で は、いままでのべたように、法則となるべき規定根拠を格率 なければならない。質料はたとえばわたくし自身の幸福であの立法的形式以外のものにおくところのすべてのものが数え るとしよう。この幸福は、もしわたくしがそれをすべての人あげられねばならないから。だが、この敵対関係は経験的にー にも与えるならば ( 事実わたくしは有限的存在者に対して 制限された規則を必然的な認識原理に高めようとする場合に はそうしてよろしいのだが ) 、他人の幸福をわたくしの幸福それらの規則間に生ずる敵対関係のように 、こだ論理的であ につつな場合だけ客観的な実践的法則となることができる。 るだけではなく、実践的である。そして、もし理性の声が意 だから、他人の幸福を願うという法則は、このものが各人の 志に関係して極めて明らかで、極めて制しがたいもので、最 恣意に委されているという前提からではなく、自愛の格率に もふつうの人にとってさえ極めて明らかでなかったならば、 客観的妥当性を与える繝約として理性が必要とする普遍性の道徳性を全く破壊することになるであろう。かくして自己幸 形式が意志の規定根拠となるということからのみ生まれる。 福は、頭を悩ますほどでもない理論を固執するために、あの したがって、純粋意志の規定根拠であ 0 たのは対象 ( 他人の天上の声に耳をかさないほどあっかましい学派の混乱した思 幸福の ) ではなく、単なる法則的な形式のみであった。この索においてのみ維持されうるのである。 形式によってわたくしは傾向性に基づくわたくしの格率に法 元来ならば、きみのすきな友人が偽証をあげたというので 則としての普遍性を与え、かくして格率を純粋実践理性に適きみに向かってつぎのように弁解したとする。ます自分の幸 合させるために、制限したのである。その場合には、外から福という神聖な義務にしたがったというロ実をもうける。っ の衝動が付けくわわることによってではなく、かく制限する ぎに、これによってえられる利益をすべて数えあげる。発覚 ことからのみ、わたくしの自愛の格率を他人の幸福に拡げる したあらゆる場合、きみ自身の側から発覚した場合でもだい という責任の概念が生まれうるであろう。 じようぶだと思われるように利巧に立ちまわっていると、 (<) 原典ではこれは質料を受けるようになっているが、ナトルプにしたが 、きみにだけ秘密をうちあけるのはどんな場合にもそれを

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と訂正している。 れは、自然的に、なお道徳律よりも前にわれわれのうちに起 こるものとしての自己愛を、この道徳律に一致するという条 われわれが前の章で知ったことは、道徳律よりも先に意志 件においてのみ制限することによってである。その場合には の対象として現われるすべてのものが、実践理性の最高制約 自己愛は理性的な自愛と呼ばれる。けれども、自負は理性が としてのこの道徳律自身によって、無制約的に善なるものと川 すっかりぶちこわしてしまう。それは、道徳律と一致する前 いう名をもつ意志規定の根拠から除かれるということであ に自尊を要求することがすべて空しいことであり、そうする り、また、格率を普遍的立法に適合させるただの実践的形式 権利を別に与えられてもいないからである。そしてこの法則 は、それ自体にそして絶対に善なるものをまず規定し、ただ と一致するという確かな心もちが個人のすべての価値の第一 ひとりすべての点で善なる純粋意志の格率の基礎となるとい の条件であり ( このことをわれわれはやがてもっとはっきり うことである。ところで、われわれの見るところでは感性的 させるが ) 、これよりも前にうぬぼれることはすべて間違し 存在者としてのわれわれの本性は、欲求能力の質料 ( 希望に であり、法則に反するからである。自尊に執着するのは、感しろ恐怖にしろ、傾向性の対象となるもの ) がまず迫ってき ( cd ) 性に基づいている限り道徳律によって払いのけられる傾向性て、感性的に規定されるわれわれの自己が、その格率による の一つである。それゆえ道徳律は自負をうちのめしてしまのでは普遍的な立法には全然役に立たないにも拘らず、われ う。だが、この道徳律はそれ自体肯定的なものである、つまわれの全自己であるかのように、ますもってその要求を出 り、知性的囚果のすなわち自由の形式であるから、主観的な し、これを最初の本源的なものとして適用するように努める 対抗とは反対に、われわれのもっ傾向性とは反対に、自負をような性質のものだということである。自分の恣意を主観的 弱めることによって同時に尊敬の対象となる。そればかりで に規定する根拠にしたがって自ら意志一般を客観的に規定す はなく道徳律は自負をうちのめす、つまり謙遯な気持にさせる根拠となろうとするこの傾向は自愛と呼んでよろしいが、 るから最大の尊敬の対象である、したがってまた、経験から これが自ら立法するものとなり、無制約な実践的原理となる 出たものではなく、ア・プリオリに認識される肯定的な感情場合には、自負と呼んでよろしい。そこで、それのみが真に の根拠である。それゆえ、道徳律に対する尊敬は、知性的根 ( つまりあらゆる点で ) 客観的であるところの道徳律は、最 拠によってもたらされる感情である、そしてこの感情は、わ高の実践的原理に対する自愛の影響を全く取りのける。そし れわれが全くア・プリオリに認め、その必然性を見ぬくことて自愛の主観的制約を法則とする自負をどこまでも払いのけ のできる唯一のものである。 る。われわれ自身の判断においてわれわれの自負を払いのけ ( ) 原典では SittIichkeit となっているが、諸家がこれを Sinnlichkeit るものは、われわれを謙遜にするものである。だから道徳律 ( cd )

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としても用いられうる。人間のみが、そして人間と共にすべ 条件が派生するのであろうか。 ての理性的被造物のみが目的それ自体である。つまり人間は それは、人間に自分自身 ( 感性界の一部としての ) を超え させるものにほかならない、つまり、悟性だけが考えうる事自らの自由の自律によって、神聖な道徳律の主体である。ま 物の秩序に、そして全感性界のみでなく、時間の中にある人さにこの自律のゆえにすべての意志は、各個人自身の、この 間の経済的に規定しうべき存在と、あらゆる目的の全体 ( こ個人自身に向けられた意志でさえも、理性的存在者の自律と 一致するという制約に制限されている。すなわち理性的存在 れのみが道徳律としてのこのような無制約な実践的法則に一 致している ) とを同時に支配している事物の秩序に人間を結者は、受動的主体自身の意志から発しうる法則にしたがいえ びつけるものにほかならない。それは人格性、すなわち、全ないようないかなる意図にもしたがうべきものではない。だ から、この主体は断じてただ手段としてではなく、同時にそ 自然の機制からの自由および独立にほかならない。が同時に それは独特な、つまり、自分自身の理性によって与えられた れ自身目的として用いらるべきである。そればかりではな 純粋実践的な法則にしたがう存在者の能力と考えられる。し く、この制約をわれわれが神の被造物としての、世界におけ . たがって、感覚界に属するものとしての個人は同時に可想界 る理性的存在者に関して神の意志に帰するのは当然である。 に属する限り人格性にしたがっているのである。そこで、こ この制約は理性的存在者の人格性に基づき、これによっての れら二つの世界に属するものとして、人間が自分自身の本質み理性的存在者は目的自体であるからである。 を自分の第二のそして最高の規定と関係させて、崇敬のうち 尊敬を呼びおこす人格性のこの理念、すなわち、われわれ に、またその法則を最も高き尊敬のうちに、見ないではいら の本性 ( その使命からいって ) の崇高さをわれわれに示して れないとしても別に不思議ではない。 くれると同時に、この理念に関してわれわれの態度の適応性 (<) 原典は von selbst となっているが、これを nicht von selbst と読 に欠けるところあることを注意してくれ、これによって自愛 むべきだという意見がある。この意見は文章全体の調子からいっても無理で を打ち砕いてくれるところのこの理念は最も平几な人間理性 あろう。 さて、このような起源に基づいているのが、対象の価値をにとってすらもちろんそして容易に認められうるものであ 道徳的理念にしたがっていい現わしている多くの言葉である。ただ普通の程度に正直な人にしても、普通ならば害にも ならない嘘によって、いやな事件から身を引きえたか或るい 理る。道徳律は神聖 ( 犯すべからざるもの ) である。人間はと 実にかく神聖ならぬものではある、が、その人格における人間 は愛すべくまた功績もある友人に利益を与えてやれたかも知 性は人間にとって神聖でなければならない。全宇宙の中で、 れない場合に、ひそかに、自分自身の眠で自分を軽蔑するよ 冫ただそれだけのために、その嘘を思 人々が求めまた支配しうる限りのすべてのものは、ただ手段うなことのないようこ、

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93 実践理性批判 も間題にせず、これにくみしたり、偏愛したりしなくともお のずから見いだされるものと意外にもまったく一致するので ある。著述家たちは、もっと公明に仕事をする決心さえつけ うるならば、あまり誤りを犯したり、むだなことをしたり ( 幻想に基づいていたのだから ) しなくてもすむであろう。 第一章純粋実践理性一般の弁証論について 純粋理性は、理論的に使うことが考えられるにしても或る いは実践的に使うことが考えられるにしても、常に自らの弁 証論をもっている。というのは純粋理性は与えられた被制約 者に対して制約の絶対的総体を求めるから、そしてこの総体 は絶対に物自体そのものにおいてしか見いだされえないから である。だが、すべて、物という概念は直観に関係させられ ねばならないが、この直観はわれわれ人間にあっては感性的 なものでしかありえず、したがって対象は物自体そのものと してではなく、ただ現象としてしか認識されず、被制約者と 制約とのそうした系列の中では無制約者は出あうことは絶対 にできないから、制約の総体 ( したがって無制約者 ) という 理性理念を現象に適用すると、これらの理念が事態そのもの であるかのような ( なぜかといえば、警戒する批判がないな らばそれら理念はいつでも事態と考えられるからである ) 不 可避的な仮象が生まれてくる。けれどもこの仮象は、被制約 者に対して無制約者を前提するという理性の原則を現象に適 用するに当って、理性が自分自身と矛盾することを通じてあ 第二篇純粋実践理性の弁証論

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470 を忘れて、超経験的なものを認識し得ると思い誤ってしまう体的には神である。カントはこれら三つの無制約者を考えよ のである。これは人間の理性にとって極めて自然な誤りであうとする合理論的形而上学の誤りをそれぞれ純粋理性の「先 るといわねばならない。つまりカントによると、理性は元来験的誤謬推理」、コ一律背反ーおよび「理想」と名づけて、そ 悟性認識を統一づけようとするという意味で統制的に使用さの批判を詳細に展開しているが、ここではその一つ一つを述 れるべきものなのであるが、それによって無制約者を構成し べる余裕はない。要するにこれらの誤りに対するカントの批 ようとして、すなわち構成的に使用されると誤りに導いてゆ判は、すでに述べたようにわれわれの認識というものが感性 くというのである。 的直観のないところでは成立しないのであるから、無制約者 こうして理性の構成的使用によって伝統的な合理論的形而というものが直観的に与えられるものでない以上、それにつ いての認識は成り立ち得ないという点に存するのである。 上学が生じたのであるが、カントによると、合理論的形而上 学は三種類の無制約者を考えようとする。それは理性がもと ただわれわれはカントが「一一律背反」の場合に他の場合と もと推理の能力であるから、推理に定言的推理、仮言的推は異なった考え方をしていることに注意するべきであろう。 理、および選言的推理があるのに応じて、それぞれの無制約「先験的誤謬推理」や「理想」の場合には、カントは心とか 者を考えようとするからに外ならない。定言的推理とは「す神という無制約者を考えることは誤りであるとしてこれを単 べての人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。故にソクラテ純に否定しているにすぎないが、「二律背反」の場合には無 スは死ぬ」というような最も一般的な形式の推理であるが、 制約者についての考え方によって必然的に二つの相対立する この推理によって無制約者を求めてゆけば、それ自身もはや立場が生じ、理性は不可避的に背反に陥ると考えるのであ 述語となり得ない主語 ( 主体 ) を求めてゆくということにな る。すなわちわれわれはこの場合、系列全体が無制約者であ り、これは具体的には心という実体、すなわち霊魂である。 ると考えることもできるし、系列全体ではなく、系列のうち 仮言的推理とは「もしであればである。である。故に に無繝約的な第一項が存するとも考えることができるという である」という形式の推理であるが、この推理によって求のである (A 417 》 B 445 ) 。前者のように考えれば無制約的 められる無制約者とは、それ以上何ものをも前提しない前提なのは系列全体であって系列のうちに無制約的な第一項が存 であり、具体的にいうと世界の系列における究極的な倒約でするのではないから、その系列は何らの始めを有せず無限で ある。選言的推理とは「であるかであるかである。である。これに対して後者の場合には無制約的な第一項が存す ある。故にでない」という形式の推理であるが、これによ ると考えられるのであるから、世界の系列は完結的となる。 って求められる無制約者とは一切を包括したものであり、具こうしてカントによると、コ一律背反ーの場合には定立の立