感性 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想11 カント<下>
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1. 世界の大思想11 カント<下>

116 く、それらの理念が一般に対象をもっているということだけたがって純粋実践的に使われる限りでのみ考えられなければ ならないように、相互の関係において考えられねばならない である。これに実在性を与えるものが純粋実践理性である。 からである。そのほか、心理的にこれらの概念についている そしてそのさい理論理性はそのような対象を範疇によってた もの、すなわち、われわれがこのわれわれの能力を行使する だ考えるというより以上のことをすべきではない、がこのこ に当ってその能力を経験的に観察する限りでついているもの とは、他の場合にはっきり示しておいたように、直観 ( 感 性的であろうと超感性的であろうと ) を求めなくとも、極めすべて ( 例えば、人間の悟性が論証的であり、したがってそ てうまくいく。というのは、範疇はすべての直観から独立の表象は思想であって直観ではないということ、直観が時間 に、そして直観に先だって、ただ考える能力として純粋悟性の中で継起すること、人間の意志がその対象の存在について の中にその位置と起源とをもっているからである。そして範の満足に依存しているということなど、これは最高の存在者 疇は、どんな仕方でわれわれに与えられるにせよ、ただ対象においてはありえないことである ) はその場合抽象される。 かくして、いまわれわれに純粋悟性存在を考えさせる概念の 一般を意味するだけである。そこで例の理念に適用さるべき である限り、範疇には直観における対象は与えられえないけうち残っているものは、道徳律を考えうるためにこそ必要な れども、このような対象が現にあるということ、したがってた ものにほかならない。したがってそれは神の認識ではある だの思惟形式としての範疇がこの場合空しいものではなく、 が、ただ実践的な関係においてである。もしわれわれがそれ こまで拡げるならば、考えるのではなく直観す 意味をもっているということは、実践理性が最高善の概念にを理論的認識冫 おいて確実に現わしている対象によって、つまり、最高善をる神の悟性をうることになる、つまり、対象に向けられてい るけれどもその満足が対象の存在に少しも依存していないよ 可能にするために必要な概念の実在性によって、範疇のため に十分に保証されている。それにも拘らず、この拡張によっ うな意志をうることになる ( わたくしは先験的賓辞のことを いおうとしているが、それはたとえば、存在の量、すなわち、わ て理論的原則による認識が少しも拡張されるわけではない。 つぎに、神、可想界 ( 神の国 ) および不死についてのこれれわれに存在を量として表象させる可能な唯一の手段として の時間の中にはないような持続としてでは決してない ) 。そ らの理念が、われわれ自身の本性からえられた賓辞によって 規定されるとしても、この規定を例の純粋理性理念を感性れは、対象の認識に役だつような概念をそれについてつくる すること ( 擬人観 ) と見ることも、超感性的対象の認識と見ことの全然できない純粋の属性である。そしてこれによって ることもゆるされない。というのはこれらの賓辞は悟性およ教えられることは、それらの属性が超感性的存在者について び意志にほかならない。しかもそれらが道徳律において、しの理論には用いられえないということ、したがって、この側面

2. 世界の大思想11 カント<下>

家と呼ばれる一の組織を構成するためにこうした特性的規定 それと同様にわれわれ を市民に帰することはできない。 は、自然目的と見られるような世界の事物に関して、根源存 在者の囚果性を、技術の製作物とわれわれが呼んでいるある 種の産物の形態の根拠としての、悟性を比論にして考えるこ とはできる ( なぜならこれは、われわれがある原理にしたが 、、世界における自然事物に関して、こうした根源存在者の 概念について、われわれの認識能力を理論的もしくは実践的 に使用するためになされることに過ぎないからである ) 。し かし、世界存在者の場合に技術的と判定されるような結果の 原囚へは悟性が帰せられねばならぬということから、自然と まったく異なる存在者にも、人間について知覚されるものと まさしく同一の因果性が、本性に関して帰せられねばならぬ、 と比論によって推論することは、決してできない。なぜなら このことは、その結果に関して感性的に制約されているよう な原因と、超感性的な根源存在者との間に存する差異それ自 身に触れており、したがってその差異はその超感性的存在者 そのものの概念のうちに考えられているのであるから、した がって後者へは移されえないためである。ーー神の因果性が 悟性〔叡知〕との比論によらなければ ( 悟性は感性的に制約 判された人間以外の存在者については知られない能力である ) カ考えられないという事実自身のうちに、言葉本来の意味にお 断 けるそうした悟性〔叡知〕が神に帰せられてはならぬという ( 原注三七 ) 禁制が存しているのである。 原注三六 ( 性質的意味における〔数量的関係においてでなく〕 ) 比論 Ana10- gie とは、根拠と帰結 ( 原因と結果 ) との間に存立する関係の同一性であ る、ーーーすなわち相似の帰結に対する理由を含む事物または属性それ自体 が、特性的に異なっている ( すなわち問題となる関係をはなれて考えられた 場合 ) にもかかわらず、そうした同一性が成り立っているかぎりにおいて。 たとえば動物の技術的行動を人間の技術的行動と比較する場合、われわれは 前者におけるその行動の根源 ( それはわれわれの知らないものである ) を、 人間のこれと似た行動の根源 ( 理性 ) と比べて、理性の類比物 Analogon と見なすのである、われわれは同時にこれによって、本能と呼ばれる動物の 技術能力の根源が、理性とは実際には特性上区別されていながら、結果に対 して ( たとえば海狸の建造物が人間の建築に比べられて ) 相似の関係をもっ しかし、だからといって、人間が ていることを示そうとするのである。 家を建てるために理性を用いることからして、海狸も理性をもっていなけれ ばならないと推論して、これを比論による推理と呼ぶことはできない。しか し、われわれに直接に知覚されない根源をもっところの、動物の相似な行動 様式が、われわれに直接意識されている人間の行動様式と比較された場合、 われわれは、動物も表象にしたがって行動し ( デカルトの主張のように動物 が機械であるのではなく ) 、また人間の行動との特性的差異にもかかわら ず、類の上では ( 生物としては ) 人間と同じであることをまったく正当に比 論によって推論することができるのである。このように推論する権能をゆる す原理は、われわれが人間と動物とを外部から観察してその行動を比較する かぎりでは、動物をこの点に関して人間と同一の類に数えるという、根拠の 同一性にある。これはひとしい事情 parrat ぎによるのである。同様に、至 高世界囚の因果性も、世界に存するこの原囚の合目的的産物が人間の技術制 作品と比較される場合、ある悟性の比論によって考えられるであろう。しか し世界囚のうちに人間的な属性を比論によって推理することはできない。な ぜならこの種類の推理を可能にする原理、すなわち至高存在者と人間とを、 両者の因果性に関し、一にして同一な類へ含めるための推理の合同 paritas rationis がまさしくこの場合には欠けているからである。世界存在者の囚果 性は、悟性による因果性がそうであるように、つねに感性的に制約されてい るのであるから、これは、事物一般の概念以外に人間とは共通な何らの類概 念をももたないような存在者へ、移されることはできないのである。 原注三七この存在者の世界に対する関係を表象するうえに、この存在者の 概念からの理論的ならびに実践的帰結のいずれに関しても、この禁制によっ

3. 世界の大思想11 カント<下>

172 り、認識能力 ( 自然の理論的認識の能力 ) に対しては、悟性 的の可能性はそれによって認識せられるからである。 が構成的原理を先天的にふくむ精神能力であり、快と不快の 原注二このように自然の因果を自由による因果からまったく区別すること のうちに人々はさまざまの矛盾があるように称したのであるが、そのうちの感情に対しては、欲求能力の規定にかかわり、このゆえに直 一つは、自然が自由法則 ( 道徳律 ) に従う因果に対して向ける障碍や自然 接に実践的でありうるところの概念や感覚に依存しない判断 によるその促進のことをわたくしが語るとき、わたくしは前者が後者に向か ってある影響を及・ほすのを許容しているのだという非難であゑしかし語らカがそれである。欲求能力に対しては、その由来を問わずお れたことを理解しようとさえすれば、誤解を避けることははなはだ容易であ よそどのような快をも媒介とせずに実践的である理性がそれ る。抵抗といい促進といっても自然と自由との間に存するのではなく、現象 であって、理性は上級能力としての欲求能力へ、客体について としての前者と感性界における顕現としての後者の働きとの間に存するので ある。そして自由 ( 純粋にして実践的な理性の ) の困果すらも、自由に従属 の純粋な知性的満足を同時にともなうところの究極目的を規 した自然原因 ( 人間として、したがって現象として見られた主体 ) の因果な 定する。 自然の合目的性に関する判断力の概念はまだ自 のであって、自然原因が規定せられることの根拠は自由のもとに考えられる 叡知的なもののうちに、とにかく説明されえない仕方でふくまれているので然概念に属するものではあるが、それは認識能力の統整的原Ⅵ ある ( ちょうど自然の超感性的基体を形成している叡知的なものの場合と同 理としてであるにすぎない、もっともこの概念の機縁となる じように ) 。 ある種の対象 ( 自然のあるいは芸術の ) に関する美〔直感〕 悟性は、自然に対するその先天的法則の可能によって、自然的判断は、快または不快の感情に関しては構成的原理ではあ がわれわれにただ現象としてだけ認識せられることについて るが。その調和がそういう快の根拠をふくむところの認識諸 の証明を与え、したが 0 て同時に自然が超感性的な基体をもⅣ能力の活動における自発性が、その効果として、ここに考え っことを指示してはいるが、この基体はまったく未規定のま られた概念〔自然の合目的性の概念〕をば、自然概念の領域 まに残される。判断力は、自然をその可能な特殊的法則の上を自由概念の領域へ連結する媒介たるに適したものとするの から判定する自己の先天的判定原理によって、自然の超感性であって、その調和は同時に道徳的感情に対する心情の感受 的基体 ( われわれの内および外の ) に知性的能力による可規性を促進することになる。つぎに掲げる表は上級能力のすべ 定性をもたせる。ところが理性はその先天的な実践的法則に てを、それらの体系的統一の上から概観することをより容易 ( 原注三 ) よって、まさしくその同じ超感性的基体に規定を与える。か なものになしうる。 原注三純粋哲学におけるわたくしの区分がほとんどいつも三分法的となる くして判断力は自然概念の領域から自由概念の領域への移行 ことを人々は気づかわしく思っている。しかしこれは事柄の性質にあること を可能にする。 なのである。およそ区分が先天的に行なわれるべきものとすれば、それは矛 精神能力一般に関していえば、それらが上級能力として、 そのとき区分は常に二分法的となる 盾律にしたがって分析的となるか、 (quodlibet ens est aut A aut non A. およそいかなるものも、 < でなけれ いいかえれば自律性をふくむ能力として考察せられるかぎ

4. 世界の大思想11 カント<下>

いう述語によって、わたくしはこの存在者自身をいささかも ないのである。 ( たとえば、われわれは神の永遠性を、あら 認識するのでなく、単に、世界における運動の根源を含む或ゆる時間における存在として考えざるをえないが、それはわ るものについての表象を持つだけである。またこの運動の原れわれが、ある量すなわち持続としての単なる存在について 因としてのこの或るものの運動に対する関係は、原因たる事はこうするほかに概念を構成しえないからであるし、また同 物の性状に属することがらについては、他に何ものをもわた様に、相互に外的な事物に関して神の直接の現前を解釈する くしに教えるものではないから、それはそうした原因の概念 ためには、神の遍在をあらゆる場所における存在として考え を全然空虚にのこすのである。その理由はこうである。すなねばならないが、しかしこのような規定のいずれをも、神につ わち、感性界においてしかその客体が見出されないような述 いて認識されたものとして、神の属性に帰することは許され 語をもってしては、それらの述語の根拠を含まねばならぬ或ないからである ) 。意図的な合目的性によってのみ説明され るものの存在へまでは達しえても、超感性的存在者としてのうるような或る種の産物に関する、人間の因果性をば、これ そのものの概念の規定へ、すなわち総てのそうした述語を受を人間の知性と考えることによって規定する場合、わたくし けつけない概念の規定へは達しえないということがそれであはその規定にとどまっている必要はなく、この知性という述 る。したがって因果性の範疇を第一起動者の概念によって規語を、熟知された人間の属性として人間に帰し、それによっ 定しても、神が何であるかを、この範疇によってわたくしは少て人間を認識することができる。なぜなら、直観が人間の感 しも認識するのではない。しかしながらもし世界の秩序を機官には与えられ、悟性によって概念のもとに、さらに規則の 縁として、最高叡知の因果性としての超感性的存在者の因果もとにもたらされること、この概念は共通的徴表を ( 特殊的 性を単に思惟するのではなく、同時に、ここにいわれる概念なものが抽象されて ) 含むに過ぎず、したがってその概念は のこの規定によって超感性的存在者を認識しようとする場合推理的であること、また所与の表象を意識一般へもたらすべ には、あるいはもっと成功を収めるであろう。なぜなら、そのき規則は直観以前に意識一般から与えられる、等々のことを 場合には、空間および延長という煩わしい制約はなくなるかわたくしは知っているからである。したがってわたくしは、 らである。ーー疑いもなく、世界のうちに現われている広大よってもって人間が認識せられるところの属性としてこの属 断な合目的性は、われわれをしてこれに対する至高の原因を思性を、人間に帰するのである。しかし、超感性的存在者 ( 神 ) 惟させ、しかもその原因の囚果性を、叡知によるものと思惟さを叡知として思惟しようと欲する場合、このことはわたくし の理性がある種の見地において使用される場合に許されてい 的せずにはおかない、しかし、これによってわれわれは決して ることであるだけでなく不可避なことでもあるが、しかし知 叡知を至高原因へ属性として帰する権能を与えられたのでは

5. 世界の大思想11 カント<下>

てのみ生みだされたものである。この感情は行為を判定する ばれねばならない。というのは、道徳律の表象が自愛からは 影響を、自負からは妄想を取りさることによって、純粋実践にも、或るいは、客観的道徳律に基礎を与えるのにさえも役 理性に対する妨害を少なくし、その客観的法則は感性の衝動にはたたないで、この道徳律を自らにおいて格率とする動機 に優越するという表象が、したがって、客観的法則の重みの役に立つだけである。だが、いかなる感覚的感情とも比較 が、 ( 感性によって刺激された意志に関して ) それに対抗すされえないようなこの特殊な感情はなんと呼んだら一層適切 でありうるであろうか。それは、理性の、しかも実践的な純 る重みをなくすことによって相対的に理性の判断において、 生まれるからである。そこで、法則に対する尊敬は道徳性の粋理性の命令にだけしたがうように見えるほど独特な種類の 動機ではなく、主観的に動機と考えられた道徳性それ自身でものである。 尊敬なるものは常に人格にだけ関係し、事物には決して関 ある。それは、純粋実践理性が自分と対立する自愛からすべ ての要求を奪うことによって、いまただひとり影響力をもっ係しない。事物はわれわれのなかに傾向性を、そればかりで ている法則を尊敬させるからである。そこでこの場合注意すはなく動物 ( たとえば馬とか犬とかの ) である場合には愛 べきことは、尊敬なるものが感情に、したがって理性的存在を、或るいは、海とか火山とか野獣とかの場合は恐れを呼び この感情に 起こすが、決して尊敬を呼び起こすことはない。 者の感性にはたらきかけるということであり、この感性を、 したがってまた、道徳律によって尊敬の念を呼び起こされる 比較的近いのは感嘆である、これは感動、驚きとして事物に 理性的存在者の有限性をも前提するということ、そして、最も、たとえば、天高くそびえる山、天体の大いさ、数、広さ、 高の存在者、もしくは、すべての感性から自由な存在者、し多くの動物の強さ、すばしこさなどにも関係する。だが、す たがって感性のためにその実践理性を妨害されるようなことべてこれらのものは尊敬ではない。或る人間はわたくしにと の全くない存在者には法則に対する尊敬は帰しえられないと っては愛、恐れ、もしくはいな、驚きといってもいいほどの いうことである。 感嘆の、対象とはなりうるが、だからといって尊敬の対象と (<) 原典ではこの字は道徳性 (Sittlichkeit) となっているが、これは諸家 なりうるわけではない。その人の気軽な気持、勇気、強さ、 の訂正の通り感性 (SinnIichkeit) とすべきであろう。 他の人々の間にもっている地位からその人の力などはわたく (=) 「この感性を : : : 前提する」という文章の主語は、原典では es となっ ているが、これではなにを指すのかはっきりしない。強いていえば感情を指 しに同じような気持を起こさせることはできる、が、やはり すのであろうが、これでは文意がおかしくなる。そこで、ここではフォルレ そこにはその人に対する内的尊敬が欠けている。フォントネ ンダーにしたがって、 sie に訂正して訳しておいた。 ルは「貴人の前に出るとわたくしはおじぎをする、けれども、 わたくしの精神はおじぎをしない」といっている。これにつ この感情 ( 道徳的と呼ばれる ) はそれゆえただ理性によっ

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に、そうした能力をも奪おうとしたのもこの理由によること る。したがってその撤廃は無限なものの表出ではあるが、し である。 かもそのゆえに単に消極的に表出されるのほかはなく、しか これに反し、純粋に、精神を高揚させるように、単に消極 もそれが精神を拡大するのである。ユダヤ人の法典のなかで 、、かみ、 も、『汝自己のために何の偶像をも彫むべからず、また上は的に道徳を叙述することは、狂信の危険をともなわない。狂 天にある者下は地にある者ならびに地の下 : : : にある者の何信とは感性のあらゆる限界を超えて何ものかを見ようとす る、 いいかえれば原則にしたがって夢想しようとする ( 理性 の形状をも作るべからず』〔出エジプト記二〇・四〕とある 戒律以上に崇高な個所は恐らくないであろう。この戒律だけによって狂おうとする ) 妄想であるが、この場合は叙述が単 でも、ユダヤ民族がその道徳的盛期に自己を他の民族と比較に消極的であるがゆえにこれをともなわないのである。なぜ ならば、自由の理念の不可測性はあらゆる積極的叙述を完全 したとき自己の宗教に対して感じた熱情や、またモハメッド に遮断するが、しかし道徳律はそれ自体としてわれわれの内 教が人々に感得させるあの誇りの説明となることができる。 まさしく同じことは道徳律とわれわれの内部にある道徳への部において規定の十分な源泉なのであるから、規定根拠をそ の外部に捜し求めることは決して許されないのである。熱情 素質の表象についても妥当する。この表象から、それを感官に 適合させうる一切のものを剥奪すれば、それは冷やかで生気が妄想に比較されうるならば狂信は躁狂と比べられることが を欠く是認しかもたず、人を動かす力をも感動をもともなわでき、躁狂がそのうち最も崇高とは相容れない。なぜならそ ぬであろうと気遣うことはまったく誤っている。事実はまされは穿鑿的で滑稽であるから。情緒としての熱情において構 に逆である。なぜなら、感官が眠前にもはや何ものをも見ず、想力は無拘東的であり、頑固に根ざした沈思的激情としての しかもなお誤認しうべくもなく、払拭し難い道徳の理念がの狂信においては無規則的である。前者は時としてきわめて健 こされているときには、それらの理念の無力を恐れ、形象や康な悟性をも見舞う一過性の偶発事であるが、後者は悟性を 子供染みた仕掛けを借りて理念を助けるより、むしろ無限な錯乱させる病気である。 素朴 ( 無技巧な合目的性 ) とは、いわば崇高なものにおけ 構想力の飛躍を熱情にまで昻進させないように、これを抑制 る天性〔自然〕の様式であり、したがってまた第一一の ( 超感 批することが必要となるであろうからである。宗教をそうした 付属物によ「て豊富に飾ることを諸国の政府がすすんで許容性的 ) 天性〔自然〕であるところの道徳の様式である。われ 判し、かくして恣意によって制限を所属人民の上におき、単にわれは後者についてはその法則を知るだけで、この立法の根 受動的となった人民を容易に処理し得ようがために、人民が拠をふくむところの、われわれ自身の内の超感性的能力を直 こうした制限以上に精神力を拡張する労苦を免ずるととも観することはできない。

7. 世界の大思想11 カント<下>

象による主観の諸力の被規定性と見られるとき、あらゆる人足を与えるものである。 に対する同意の要求だけでなく、同意の命令をもふくむとこ 両者とも、美〔直感〕的な普遍妥当的判定の定義として主 ろの先天的概念に基づく必然性の様態によってとくに区別観的根拠にかかわる。すなわち一方は観想的悟性を利するよ せられ、それ自体としては美〔直感〕的判断力に属するのでうな感性の根拠へ、また他方は感性に対しては反抗している はなくかえって純粋な知的判断力に属し、また単に反省的判 が実践理性の目的には適うような感性の根拠にかかわり、し かも両者は同一主観のうちに結合され、道徳的感情に関係し 断においてではなく規定的判断において、自然へでなくて自 由へ帰せられる。しかしながら、この理念による主観の被規て合目的的である。美しいものはあるものを ( 自然をすら ) 定性はーーしかもここに主観とは感性に障碍を感じつつ、し関心をはなれて愛するように、崇高なものはあるものをわれ かも同時に障碍の克服をとおして、感性への優越性を自己のわれの ( 感性的 ) 関心に抗してすら尊敬するようにわれわれ 状態の変様として自己の内に感じうる主観である しし力を用意させる。 えれば道徳的感情であって、この感情が義務から起こる行為 われわれは崇高なものをこのように述べることができる。 の合法則性を同時に直感〔美〕的に、換言すれば崇高とし崇高なものとは、それを表象することが心情をして自然の不 て、あるいはまた美として表象する ( しかも道徳的感情の純可到達なことを理念の表出として考えるように規定するよう 粋性を失うことなく ) のに役立ちうるかぎり、美〔直感〕的な対象 ( 自然の ) である、と。 文字どおりに取り論理的に考えれば理念とは表出されえな 判断力とその形式的制約とに類縁的なものである。これは、 いものである。しかしわれわれが、経験的表象能力を自然の 快適なものの感覚とこの感情とを自然的に結合させようとす 直観に関して拡張するとき ( 数学的にあるいは力学的に ) 、絶 るならばこのようにはなりえないのである。 美〔直感〕的判断の両種類を以上のように叙述したことか対的全体性の不依存性にかかわる能力としての理性が不可避 的に交渉してきて、感官の表象を理念に適合させようとする ら結果を引きだせば、次の簡潔な定義が出てくるであろう。 美しいものとは単なる判定において ( したがって悟性の概心情の努力を ( たとえ徒労ではあっても ) 呼びおこす。この 念にかなって感官の感覚を介するのでなく ) 満足を与えるも努力と、構想力によっては理念の不可到達であることの感情 断のである。美しいものが、一切の関心をはなれて満足を与えとはそれ自身、われわれの心情が自己の超感性的職分に関し るものでなければならないことは直ちにそれから続いてくて構想力を使用するときの心情の主観的合目的性の表出なの 5 る であって、それはわれわれの主観をして自然をばその全体性 崇高なものとは感官の関心への反抗をとおして直接的に満において或る超感性的なものの表出として考えざるをえなく

8. 世界の大思想11 カント<下>

長・・・・・・ 413 ~ の属性・・・・・・ 414 , 444 は比論に従ってのみ 考えられる・・・・・・ 5 道徳的主宰者すなわち ~ 感覚 ( Empfindung) 感情の主観的規定としての 8f. 客観的感性的知覚としての ・・・ 9 , → XLIIf ” 4 ~ の純粋性・・・・・・ 40 ~ の遊戯・・・・・・ 211 ー 213 感〔官〕 (Sinn) 内的 ~ ・・・・・・田 , 100, 2 ~ 産出・・・・・・ 351 , 353 ~ 法則・・・・・・→法則 ~ 関係・・・・・・→機構 b) 善における ~ 道徳的 ~ ・・・ 15f. , 120 c) 美における ~ 16 Ⅱ f. 自由な美的 ~ 感性 (Sinnlichkeit) ( 理論的意味で ) 93 , 98f ・・・ 170 ・・・ 10ff. 道徳の ~ 事実としての ~ b) 全体の目的論的 ~ 290 f. 絶対的統一の ~ 目的の ~ ・・・菊 7 ・・・ 307 目的原因の ~ ・ ? 24 100 , 115 , 341 , 3 ( 倫理的意味で ) 114 , 116 , 120 f. , 410 完全性 ( Vollkommenheit ) ~ ~ すなわち客観的合目 的性・・・・・・ 132 質的 , および量的 ~ ・・・・・・菊 ・・・ 45 , 47 , 52 , 69 , 美と ~ 1 田 , 6 相対的 ~ ・・・・・・ 8 神の ~ ・・・ 476 感嘆 (Bewunderung) ・・ 122 感動 ( R ⅱ hrung ) ・・・・・・ , 123ff. 趣味判断は ~ に依存せす ・・・ 37ff. 観念 ( 理念 ) (ldee) ・・・ 192ff. , 239f ~ すなわち理性概念・・・ 引 , 254 ~ の区分・・・・・・ 239 ~ は客観的実在性を有せず ・・・ 169 , 459 ~ は統整的原理として役立 っ・・・・・・ IVf. , 339 , 345 ~ は崇高感を覚醒する・・・ 77 , 95 , 110 , 115f. 善の ~ 自由の ~ 実践的 ~ 474 a) 道徳的 ~ 宗教の ~ ・・・ 114 ・・・ 457 ・・・ 95 , 112 ・・・ 214 , 228 , 9 ・・・ 97 人間性の ~ 超感性的なものの ~ 238 , 241 プラトーンの ~ 〔イデア〕 美的 ~ ・・・・・・→美的 念主義 ( 観念論 ) ( ldealis- mus) 美的合目的性の ~ 共通 ~ ・・・・・・ 1 f. 御察 (Beobachtung) ・・ 感情 (Gefühl) →快 , 不快 ~ と感覚との差異・・・ .. ・ 9 道徳的 ~ ・・・・・・ LVII , 112f. , 114f. , 154 , 264 美の ~ と道徳的 ~ 165ff. 宗教的 ~ ・・・・・・ 478 * 美しい自然に対する ~ 173 趣味の ~ 内的感官の ~ 生命 ~ ・・・ 296 a) 快適なものにおける ~ 関心 (lnteresse) 108 神の偉大さの静朗な ・・・ 154 崇高なものの , 理性をふく 美の静穏な ~ 観照 ( 観想 ) (Kontemplation) ・・・ 161 合目的的心情状態の内的 ~ 2 , 3 自然目的の ~ 目的原因の ~ 405 f. ・・・ 322f. , 324 ・・・ 324 , 観念性 (ldealität) 合目的性の ~ 感官の対象の ~ 観念的 ( 理想的 ) (idealisch) ~ な究極目的・・・・・・ 428 ~ 規範・・・・・・ 67 ~ 〔・・・観念化された〕体系 ~ 合目的性・・・・・・ XLI 機会原因主義 (Okkasiona- ・・・ 252 lismus ) ・・・・・・ 375 機械的 (mechanisch) ~ 演繹・・・・・・ 353 ~ 労働・・・・・・ 392 自然現象の ~ 説明・・・ 387 XIV, 175 , 1 幾何学 (Geometrie) ・・・ 365 , 感官の ~ 感性の ~ 傾向性の ~ 15 f. ・・・ 120f.

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り一層崇高と判断されることになるのである。 進する感情を直接にともない、したがって魅力や構想力の戯 さてこのことから直ちにわかることは、自然のはなはだ多 れと相容れうる。しかし後者 ( 崇高なものの感情 ) は単に間 くの対象がまったく正当に美しいと呼ばれうるにもかかわら 接的に生ずる快であって、すなわち生命力が一瞬間阻止さ れ、ただちにそれに続いてそれだけ一層強く生命力が迸出すず、どのような自然対象を崇高と呼んでも、それは一般に不 ることの感情をとおしてもたらされるのであり、したがって正当な表現をしているということである。な、せならそれ自体 それは感動として、遊戯ではなく構想力のまじめな営みと見に反目的的なものとして把握されるものが、どうして賛同の られるものである。そのためそれはまた魅力とも相容れな表現をもって呼ばれえよう。われわれは、その対象が、心情 。そして心情は、対象へ単に惹かれるのでなく、交互に不のうちに見出されうる崇高の表出に適している、とより以上 断に撥ね戻されるのであるから、崇高なものについての満足にはいいえないのである。なぜなら本来の崇高なものは感性 は、積極的な快をふくむというより、むしろ感嘆か畏敬かを的形態にふくまれていることはできないのであって、かえっ ふくみ、 て理性の理念に関係するからである。そして理念に適合して いいかえれば消極的快の名に値している。 いるような表出はまったく可能でないが、あたかも感性的に しかし崇高なものと美しいものとの最も重要な、内面的な 表出されうるところの不適合性そのものをとおして、理念は 差異はおそらくこうであろう。すなわちここでますーーそう しても差しつかえないように 自然の客体についての崇高喚起され、心情へ呼び出されるのである。たとえば暴風に狂 なものだけを考察すれば、 ( 芸術の崇高なものはつねに自然う大洋は崇高とは呼ばれえない。その眺めは物凄いものであ との一致の諸制約へ制限されるのであるから ) 自然美 ( それるが、もしそうした光景を眺めることによって、心情がそれ は自立的な美である ) は、よってもって対象がわれわれの判自身崇高であるところの感情の状態へおかれねばならぬとす 断力に対していわば予め規定せられているかに見えるところれば、われわれは予め心情を満たすに多くの理念をもってし の合目的性をその形式のうちにともない、したがってそれ自 たのでなければならない。すなわち心情は感性を見捨て、よ り高い合目的性をふくむ理念と交渉するように刺激せられる 体において満足の対象をなす。これと異なり、われわれが理 性的思惟に耽らず単にそれを把握するときに、崇高の感情をのである。 自立的な自然美は、われわれの全悟性能力のうちには見出 断われわれの内に喚起するところのものは、その形式からいっ て、われわれの判断力に対して反目的的でさえあり、われわされない原理をふくむ諸法則にしたがった一つの体系として れの表出能力に不適合であり、いわば構想力へ暴圧を加える 自然を示すところの自然の技巧を、われわれに啓示する。こ ものであると見えようとも、しかしそのことのあるだけ、よ こにその原理とは、現象についての判断力の使用に関する合

10. 世界の大思想11 カント<下>

ところで ( 第二に ) 快もしくは不快 ( これは常に経験的に 規則を純粋にするためには、因果 ( 感覚界に属するものとし 認識されるだけであって、すべての理性的存在者に同じよう ての ) を抽象して差しつかえない。 な仕方で妥当することはできない ) の感受性の主観的条件に ( ) 原文は「行為の」と二格になっているが、アディッケスはこれを「行 しか基づかない原理は、この感受性をもっている主観にとっ 為への」と訂正している。 ( cd ) てはその格率とはなりうるけれども、またこの主観それ自身 第ニ節定理一 に対してさえも ( というのは、この原理には、ア・。フリオリ に認識されねばならないような客観的必然性がないから ) 法和 欲求能力の対象 ( 質料 ) を意志の規定根拠として予想する すべての実践的原理は、一般に経験的であり、実践的法則を則となることはできない。それゆえ、このような原理は決し て実践的法則を与えることができない。 与えることはできない。 (d) この代名詞は原文では女性になっていて、なにを受けるかはっきりし わたくしが欲求能力の質料というのは、実現を求められる ないので、ヴィレの訂正にしたがって主観を受けるように訳した。 或る対象のことである。そこで、この対象に対する欲求が実 (ß) これは、原典では女性の代名詞になっているから、そのままとれば格 率を受けることになるが、意味の上からいって、主観を受けるほうが適当だ 践的規則よりもさきにあって、この規則を原理とするための と思われるから、やはりヴィレにしたがってそのように訳しておいた。 条件となるならば、わたくしは ( まず第一に ) この原理はそ の場合っねに経験的である、という。なぜならば、その場合 第三節定理ニ には恣意の規定根拠は対象の表象であり、この表象の主観に すべての質料的実践的原理はそのままでは総じて同じ種類 対する関係であって、この関係により欲求能力は自らを実現 するように規定されるのであるから。ところで、主観に対すのものであって、自愛もしくは自己の幸福の普遍的原理に属 るこのような関係を対象の現実に対する快という。それゆえする。 或る事物の存在の表象からくる快は、この事実を求めるこ この快は恣意を規定しうる条件として予想されねばならな との規定根拠である限り、主観の感受性に基づいている、と 、。或る対象の表象については、それがどんな表象であるに いうのは、この快は対象が現存することに依存しているから しても、快もしくは不快と結びつくか、または無関心である かということはア・プリオリには認識されえない。それゆである。したがってそれは感能 ( 感情 ) に所属して、悟性に え、このような場合には、恣意の規定根拠はつねに経験的で所属しない。悟性は対象に対する表象の関係を概念にしたが なければならない。したがって、その根拠を制約として前提って表現するが、主観に対する関係を感情にしたがって表現 するものではない。それゆえ快は、対象の現実について主観 する実践的質料的原理も経験的でなければならない。