が詳しいが、かんたんにするためフォルレンダーに従っておたーから、「誤った、時には悪意さえあるすべての判定を見逃 す」よりほかなかった ( 八六年五月一一十六日ヤコプ (Jakob) 一、八六年一一月十六日 Tübinger gelehrte Anzeigen に出宛書簡 ) 。そういうわけで『純粋理性批判』の第一一版と「実 た『基礎論』への批判。これはフラット (Flatt) によるもの践理性批判』の完成に力を注ぐほかなかった。第一批判の第 ことをいっ であって、カント哲学が「首尾一貫していないー 一一版の序文 (XLIII) でいっているように「時間を節約」せ たものである。 ねばならなかった。そして自分の体系を弁護したり、個々の 二、カルスルエのティッテルの Ueber Herrn Kants Mo- はっきりしないところを明らかにしたりすることは「有能な ralreform. Frankfurt u. Leipzig 1786. である。その批評人々」 ( 同上 ) に委せようと思った。そのかわり自分の計画 の重点は「抽象的な言葉を使いすぎる」とか「すでに一般にを続け「道徳ならびに自然の形而上学を理論ならびに実践理 知られていることをわかり難い言葉を使って新しいようにい 性批判の正しさの立証として」書こうと考えた。おそくとも うーとかいう点におかれている。これにたいしカントは本書八七年一二月の終りには、体系的な書物を書いて諸々の非難に 以下で答えている。 答えようと決めたらしい。このことは第一一批判を早く完成し 三、本書に見えているものである。『基礎論』にたいすようとする決心を、一般に考えられているよりもすっと強く る「真理を愛する、鋭い、したがって少なくとも尊敬に値す促したものと思われる。それゆえ「ただ実践理性の詳しい批 る批評ーである。これはカントが道徳原理について間題にす判のみがこれらすべての誤解を除き、まさにその最大の長所 る前に善の概念を規定していないという議論である。監督教となっている首尾一貫した考え方を、明るい光に照らすこと ができる」 ( 序文Ⅱ ) というのがカントの考えであった。 区長ピストリウス (Pistorius) の批評である。 こういうわけで、この書は普通では考えられないほど急速 四、ヴィッエンマン (Wizenmann) の批評。これはカン にできあがった。『純粋理性批判』の第一一版が印刷にまわさ トがの話で名をあげている唯一のものである。 れた ( 八七年六月 ) 後、その月の一一十五日にはもうこの第一一 これらの批評にたいしカントは始め反駁書を書くつもりで批判が印刷にまわせるまでになっていた。けれども印刷はカ ントの期待に反して手間どってしまった。というのは印刷者 あったらし、 しがビースター (Biester) とかシュッツなどの 人々に止められて考え直したらしい。八六年の夏学期には ( ( レのグルネルト〔 Grune 洋〕 ) が「この書を新しいはっき りした活字で刷ろうと思ったからである。」ところが、活字 「自分の好きな学究的な広汎な仕事」っまりケニヒスペルク ミカエル祭 ( 九月一一 大学の総長の仕事が「そういう時間をほとんどすべて奪っ屋は、「まだそれが間に合っていない、
4 年表 一七七七年国務大臣ツェドリツツの委嘱を受けたメン ( 五三歳 ) デルスゾーンから、ハルレ大学のフリード リッヒ・マイエル教授逝去後の後任として 懇望されたが辞退 ( ツェドリツツはその後 も一度ならずはなはだ有利な条件をもって 懇請したがカントは健康を理由に応じなか った ) 。カントはツェドリツツのこの好意 に感謝し、後年『純粋理性批判』の第一版 および第一一版をともにツェドリツツに献じ ている。 一七八〇年大学評議会委員となる。 ( 五六歳 ) 一七八一年七月『純粋理性批判』公刊。 ( 五七歳 ) 一七八一一年一月十九日『ゲッチンゲン学報」に『純粋 ( 五八歳 ) 理性批判』にたいする批評が匿名で掲載さ れる。 一七八三年『学として現われうべき将来のあらゆる形 ( 五九歳 ) 而上学への序説 9 ロレゴーメナ ) 』発刊。 その付録に、『ゲッチンゲン学報』掲載の 『純粋理性批判」の批評を反駁し、評者に 「匿名をやめる」ことを要求した。これに たいしクリスチャン・ガルヴェが、七月十 三日付書簡をカントに送り、『学報』掲載 の批評がガルヴェの手に成ったものだが、 彼の原文がはなはだしくゆがめられている ことを釈明し、カントはこれにたいして好 意ある返書を送った。「シュルツ著、宗教 の別なくすべての人を道徳学に導く試み、 の批評ーを「書評誌』に発表。 一七八四年プリンツェッシン街にはじめて自邸をも ( 六〇歳 ) つ。『ベルリン月報』に「世界市民的目標 における一般歴史考ーおよび「啓蒙とは何 か、の問いに答える」を発表。 一七八五年「ヘルデル著、人類史の哲学考、の批評ー ( 六一歳 ) を『イエナ一般学芸新聞』に、「月におけ る火山について」「偽版の不当について」 および「人種概念の規定」を『ベルリン月 報』に掲載。『道徳の形而上学のための基 礎づけ』を公刊。 一七八六年ケーニヒスペルク大学総長に補せられる。 ( 六一一歳 ) 「人類史の臆測的起源」および「思想の方 向を定めるとはどういうことか ? 」を『べ ルリン月報』に、「ゴットリープ・フーフ エランド著、自然法の原則に関する試論の 批評ーを「一般文芸新聞』に掲載。「ルー ドウィッヒ・ハインリッヒ・ヤーコプ著、 メンデルスゾーンの黎明の検討、にたいす る若干の所見ーをャーコプに送り、ヤーコ プこれを自著に付して公刊。『自然科学の
のである。しかし趣味判断の特質は、趣味判断が単に主観的妥互の間の主観的合目的性を実例の分析によって解説するため 当性をもつだけであるにもかかわらず、かりにそれが認識根であ「て、所与の表象における合目的性の形式がそうした判 拠に基づき証明によって強取されうるであろうような客観的断の対象の美であることは、上に示されたところである。し 判断であるとしたとき、つねに起こりうるように、ちょうどそ たがって趣味そのものの批判は、客体がそれによってわれわ のようにあらゆる主観の賛同を要求することに存している。 れに与えられる表象に関して、単に主観的である。すなわち 趣味批判とは、所与の表象における悟性と構想力の交互の関 三四趣味の客観的原理というものは可能でない 係を ( 先行する感覚や概念に関してでなく ) 、したがってこ 趣味の原理といえば、ある対象の概念をその制約へ包摂の両能力の調和もしくは不調和を、規則へ還元し、両能力を調 和や不調和の制約に関して規定する術あるいは科学なのであ し、ついで推論によってこの対象の美しいことを推知しうる る。このことを単に実例について示すときそれは技術であり、 であろうような原理が理解されるでもあろう。しかしこれは またそういう判定の可能を、認識能力一般としてのそれらの 絶対に不可能である。なぜならわたくしはこの対象の表象に 能力の本性から演繹するときそれは科学である。われわれが ついて直接に快を感覚しなければならないのであって、快は ここで取扱わねばならぬものは、ひたすら先験的批判として 証明理由からの議論によってわたくしへ押しつけられうるも の後者だけである。それは趣味の主観的原理を判断力の先天 のではないからである。したがって、ヒュームのいう通り、 批評家は料理人よりももっともらしく理窟を捏ねることはで的原理として展開し、その権利根拠に是認を与えねばならな い。技術としての趣味批判は、趣味がそれに則って現実に働 きても、その運命は一様である。批評家は彼らの判断を規定 く自然学的 ( ここでは心理学的 ) な、したがって経験的な規 する根拠を証明理由のカからでなく、一切の指令と規則とを 斥けて、ただ主観自身の状態 ( 快または不快の ) に関する主則を ( それらの規則の可能に関して反省するのでなく ) 趣味の 対象の判定へ適用しようとするに過ぎないのであって、美的 観の反省から期待しうるだけなのである。 にもかかわらず批評家は、われわれの趣味判断を純化し拡芸術の作品を批判するのであるが、科学としての趣味批判は 大するのに資する推論をなすことができ、またなすべき論題そうした作品を判定する能力そのものを判定するのである。 をもっている。しかし、それはこの種の美〔直感〕的判断を 三五趣味の原理は判断力一般の主観的原理であ 規定する根拠を普遍的に使用されうる定式として提示するたⅢ る めではなく ( このことは不可能である ) 、こうした判断にお ける認識諸能力と、それらの働きとについて探究し、それら交 趣味判断が論理的判断から区別されるのは、後者はある表 ( 二二 ) 143 145
態をいいあてている。とはいえ、一体だれがあらゆる道徳の新しい原則を導 (<) 「その」は第一版では自由をうけているが、第二版では概念をうけるよ いていわばこれを最初に発見しようなどと思ったのだろう。これでは、まる うに訂正されている。いずれをうけても意味の上でさしたるちがいは起こら ー . し で、自分以前には、義務とはなんであるかという点で世間はなにも知ってい ないかもしくは全く誤っていたとでもいっているようなものである。けれど ここに、実践理性批判から展開されるこのような純粋実践 も、数学者にとって方式、すなわち、問題を解くためにはどうすべきである かを極めて正確に規定し、誤らせないようにする方式がいかに重要であるか 理性の体系が、この批判の全体を正しく描きうる正しい見地 を知っている人は、すべての義務に関して一般にこれと同じことをする方式 をとくに見誤らせないために、多少とも努力を払ったかどう を重要でないもの、なくてもいいものとは思わないであろう。 かについては、この種の仕事を知る人々の判断に委すよりほ ( 五 ) かない。なるほど、この体系は「道徳形而上学基礎論」を前 真理を愛する、鋭い、したがって同時に尊敬に価する或る 提してはいる、が、それはこの基礎論が義務の原理を予め知批評家の「道徳形而上学基礎論」に対する「そこには善の概 らせまたその一定の方式を示し、そして是認する限りのこと 念が道徳原理に先だって確立されていない ( その人の意見に ( 原注三 ) ( 原注四 ) にすぎない。 これ以外の点では体系はそれ自らによって成立 よれば必要であったのだろうが ) 」という非難に対してはわ する。すべての実践的な学問の分類が、理論理性の批判で行 たくしは分析論の第一一章において十分答えておいた積りであ なわれたように完全にはつけ加えられていないことの正当な る。また同じように、真理を発見しようと心がける意志を見行 理由もこの実践的な理性能力の性質の中に見いださるべきで せてくれた人々 ( 自分の古い体系をもっていて、何が是認さ肥 ある。人間の義務としての義務を、これを分類する目的で、 るべきで、何が非認さるべきであるかはすでに予め決ってい とくに規定することは、この規定の主体 ( 人間 ) が、たとい るとする人々は、自分の個人的意図の邪魔になるかも知れな 義務一般に関して必要な限りにおいてではあるとしても、自 いような説明を全く求めていない ) からわたくしが受けたそ らの現にあるような性質にしたがって、知られる場合にのみ のほかの多くの非難に対しても触れておいたが、今後もそう 可能である。だが、かく規定することは、人間の天性に特別 するであろう。 に関係させすに、実践理性の可能、範囲、限界の原理のみを 原注四わたくしに対してはなお次のような非難があびせられるかもしれな 完全に示すべき実践理性批判の仕事ではない。それゆえ、こ 。すなわち、な・せわたくしが欲求能力とか快の感情とかの概念をも予め説 というのは、そ 明しなかったのかと。けれどもこの非難は当をえていない、 性の場合分類は学問の体系に属することであって、批判の体系 うした説明は心理学において与えられるものとして前提されうべきなのが当 践に属することではない。 然であるから。だが、もちろんその場合の定義は、快の感情が欲求能力の規 実 定の基礎におかれるというふうに ( じじっ普通はそういうふうになりがちの 原注三この書を非難して何かいいたかった或る批評家が、この書には道徳胸 ものだが ) つけられるかもしれない。が、これでは実践哲学の最高原理はど の新原理が少しも掲げられないで、ただ新しい方式が掲げられているたけだ うしても経験的なものに堕するほかないであろう。だがこのことはまず最初 といったが、これはその批評家が恐らく自分で想っているより以上によく事
453 解題 十九日 ) 後一週間たてばどうやらでき上るといっている」現にわたくしが見つけたほどにはっきりしたものを、これほ どにも完全に満足させてくれるものを期待してはおりません ( カント宛八七年十一月 ) 。そういうわけで献本ができ上った でした」 ( カント宛、八八年一月十九日 ) 。 のは、やっとクリスマスになってからであった。 ベルリンの神学者シュバルディング (Spalding) は理論理 では、この第一一批判がその当時の人々にどんな影響を与え性で超感性的なものが斥けられたのを不安に思っていたが、 今安堵した。「ほんとうのありのままの、いよいよ畏敬すべ たかを次にかんたんに書いておこう。これもフォルレンダー による。これはカントをめぐる書簡から十分察することができ美しさをもった、正義としてまた合法性としての徳をその きる。 当然の最高王座にすえ、この王座を今でも全く甘たれて占有 最初に熱狂的に感激したのはラインホルトである。「『実践している者共をみな押しのけて下さった」 ( カント宛八八年 理性批判』というこの貴重な贈物について、わたくしは貴下二月八日 ) 。 Ber1inische Monatschrift の編集者ビースター に何と申上げたらいいでしよう。このご寄贈本を今日わたく は「すぐれた、精神をはげましてくれる、心を高めてくれる しは手にいたしましたが、自分ではもう一週間前に一気に読 貴下の「実践理性批判』という輝かしい贈物」 ( カント宛八 み下しておりました。わたくしの現在の沈黙と将来の全生活八年六月十日 ) 。シュッツは「貴著『実践理性批判』はほん とは貴下に負うものでございましよう。もし天がわたくしに とうにわたくしを喜ばせてくれました。そしてこの喜びは、 一人の息子をさすけて下さるとしたら、貴下の御手紙とこの数多くのすぐれた人々がこれを読んだらわたくしと全く同じ ご寄贈本とは、わたくしがその息子に遺すかけがえのない宝ように感すると考えたとき、一層高まって参ります」 ( カン となるでございましよう。この二つはこの息子にとっては父 ト宛八八年六月一一十三日 ) 。同時にシュッツは A11gemeine 親の価値を示す確かな記録として神聖なものとなるでござい Literaturzeitung にのせるはずのレーベルケの批評の写し ましよう。「さらに」わたくしがわたくしの Briefen ま r を、印刷しない内に送った。これはカントに忠告をしてもら die kantische Philosophie の中でこれまでまだ宗教の根本 また寄稿してもらうためである。そしてこれによって 真理の道徳的認識根拠について本格的には説明していないと「聡明な批評家によって犯される最も著しい誤解が啓蒙され る」ようにというのである。そのほかこの手紙には「自由の いうことは、今になって見ると、どんなにわたくしのために しいことだったでしよう。貴下が『実践理性批判』によって範疇表ーⅢの四番目にたいし詳しい抗議が書いてあった。が これにたいしカントは返信を書かなかったし、第二版でも別 太陽をお呼び出しになったところへ、わたくしは弱いラン。フ を灯したかも知れません。告白いたしますが、わたくしは、 にそこをかえはしなかった。また八六年にカント辞典を出版
したエナのシュミット (Schmid) の質間 ( 八九年一一月一一十せんでしたから、はたしてその原則にしたがうものであるか どうかをわたくしは他の人々と共に疑っているものでござい 一日 ) にも答えなかった。またマールブルクのユングーシ ュティリング (Jung-Stilling) は「神が貴下を祝福下さらんます」「多くの点でわたくしは全く一致するというわけには ことを。貴下は神の手にある偉大な、極めて偉大な道具であ参りません。そして詳しい説明を求めましたがえられません ります。わたくしはヘつらっているのではありません。貴下でした。」それにも拘らず、彼は「極めて多くの幸な瞬間を の哲学はルターの改革よりも大きな祝福された普遍的な革命負うべき、カント哲学の勝利に全力を捧げたい」といってい る ( 八九年四月一一十二日カント宛 ) 。 をなしとげるでしよう。というのは理性批判をよく理解した かれこれする間に『実践理性批判』は次第に普及していっ ならば、どんな反駁もできないことがわかるからであります。 したがって貴下の哲学は永遠であり、不変であるにちがいあた。八九年の八月には ( ルトクノホ (). F . Hartknoch) は りません。貴下の有益なお仕事は、神聖であることだけを目第二版を、しかも一一千部出したいといっている ( 六月一一十六 的としているイスの宗教を、その本質的な純粋な姿につれ日カント宛 ) 。そして同時に『純粋理性批判』の第三版を出 て行くでしよう。すべての学問は一層具体的に、純粋に、確したいといっている。「ですからすぐ印刷にかかることがで きるでしよう。そして復活祭にはきっとでき上るでしよう 実になるでしようー ( カント宛八九年一二月一日 ) 。 と。けれども実際には『理論理性批判』の第三版が予告され ブレスラウのエリザベト・ギムナジウムの校長シュンメル (Schummel) は「すでにながいこと思索するドイツの対象た時にでただけで、『実践理性』の第三版には一七九二年と であり、全哲学界を二つの党派に分けた」人を「天国からき書かれている。 た人のように」たたえた。「貴下の哲学が公衆のものとなる だが、ヴェルナ (Wöllner) 治下にあっては、カントの道 時がくるでありましよう。こなければなりません。もちろん徳論は次第に困難な事情におかれていった。すでに八九年の 今はまだきていません。それというのも、ティッテルやゲッ 十一月十五日にはベルリンのキゼヴェッタ (Kiesewetter) ティンゲンの批評家たちですら、貴下を信じられない程誤解は次のように知らせている。つまり、この人の実践理性の講 するかも知れないからですー ( 八九年一二月一一十八日カント 義には始め一一十五人位の、特に商人階級の聴講者が出ていた 宛 ) 。 が、その中へ一人見知らぬ若い男が紛れこんできた。「この ところがエルランゲンのマギステル・アビヒト (). H. 男は逐語的に私の講義を筆記し、その勤勉な儿帳面な態度の Abicht) は八九年四月一一十一一日の手紙で「貴下は「実践理性ためみんなの注意を受けるようになりました。」前に警告を 批判』において、満足の動機に優先の栄誉をお与えになりま うけたことのあるこの講師は、気をつけてこの講義において
解題 カント実践理性批判 lmmanuel Kant 【 Kritik der praktischen Vernunft. 1788. ば、『純粋理性批判』の中にそのようなことが書かれている はずである。がこの第一批判にはそのようなことを暗示させ るものすら含まれていない。第一批判を書いた目的からいっ てもそのようなことは考えられない。 こう考えてくると、始 めから計画して三批判を書いたのではないといって差支えな いであろう。 では『実践理性批判』はどうなのであろうか。これは始め から計画されていたのであろうか。これについても否という 結論が出てくる。なるほど『純粋理性批判』を読むと、『実 樫山欽四郎 践理性批判』の根本思想がすでに或る程度までできあがって いたことがわかる。これだけのことからすれば、第一一批判が カントは『純粋理性批判』 (Kritik der reinen Vernunft) 『実践理性批判』 (Kritik der praktischen Vernunft) 『判断すでに計画されていたといえなくもなさそうである。それば この第一一批判こそカント哲学の中心思想であ カ批判』 (Kritik der Urteilskraft) という三つの批判書をかりではない。 る。それならば、 いよいよ始めから計画されていたと考えて 書いている。このことをそれだけとして外から見ていると、 差支えないように思われる。それにも拘らず、第一批判の中 カントが始めから計画的にこれら三つの批判書を書いたよう には『実践理性批判』という書物を独立に書こうとするよう に見える。だが事態はそんなにかんたんではない。三批判が な意図は全然見えていない。むしろ『純粋理性批判』は体系 全体でまとまりある一つの体系になっているため、当然そこ のために補充を必要とするようなものではなく、それだけで に全体としての計画が始めにあったと考えるのも無理からぬ ことである。だが『判断力批判』の序文を読むと、自分の哲完結した批判の体系をなすものであるように書かれている。 学に体系上のまとまりをつける必要を感じて始めて筆をとっ 少なくともそう見た方が妥当であると思われるように書いて ある。つまり、『実践理性批判』というような書物を書く必 たと感じさせるようなことが書いてある。そうだとすれば、 要と意図とは全くうかがわれない。 この批判書は三つのうち一番後で書かれたものであるから、 体系上のまとまりということは後から考えっかれたことであ そればかりではない。もし始めからの計画であったとすれ って、始めからのことではないといえる。そればかりではな ば、第一批判が出てから、八年もたってやっと第一一批判を出 。もし最初から三批判という体系的な計画があったとすれした理由がわからなくなる。その上、この間に『道徳形而上
9 解題 あり、一七六五年にはすでに材料がととのえられていたとい 学基礎論』 (Grundlegung zur Metaphysik der Sitten) が 世に出ていることを思うと、そしてここに書かれたことが原う。このことは、ヘルツ (Herz) ヘルダー (Helder) メンデ ルスゾーン (MendeIssohn) などへの書簡を通じて明らかに 理上第一一批判と変りないことを思うと、いよいよ『実践理性 されている。ところがそのような前提から十年にわたる長い 批判』という独立の書物を書くことが、始めの計画ではなか 間の苦闘を経て世に出た『純粋理性批判」は、道徳の形而上 ったのではないかということが考えられる。このような事情 があるので、この第二批判の成立をめぐって今日までいろい 学について何も含んではいなかった。むしろ、批判の仕事は ろな議論が行なわれてきた。が結論的にいえば、「純粋理性この書で完結していて、徹底的に考えぬかれたことになって フォルレンダーもいっているよ 批判』を書くときには、『実践理性批判』はまだ計画されて いる。そればかりではない。 いたものではなく、後になって急に思いついて書かれたものうに、『道徳形而上学基礎論」と『実践理性批判』の中心思 と考えられている。そこで、その成立の事情について書くこ 想はすでに『純粋理性批判』の第一版の中に見えている。っ とにする。部分的には諸家の間に意見の相違はあるが、始めまり、存在と当為を対立させること、自由の理念を基礎とし からの計画ではなく、急に書き上げたものだという点では大て道徳の原理を立てること、理論理性と実践理性を対立させ 体一致しているから、どうしてそうなったかを書いて見る。 ることなどがそれである。特にこのことがはっきり現われて ここではナトルプ (). Natorp) とフォルレンダー (K. いるのは、その先験的方法論の第三章「純粋理性の構成様式」 Vorländer) の意見を参照しながら書くことにする。ナトル においてである。それにも拘らず、ここでは、自然と自由と 。フのはアカデミー版カント全集の『実践理性批判』の解説で の立法、自然と自由との形而上学は区別されているけれど あり、フォルレンダーのは Philosophische Bibliothek の同も、後に現われるべき『実践理性批判』については一言もふ 書の解説である。両者の間に多少意見のちがいはあるが、結れていない。 論は同じである。 それならば第一批判の出た後すぐに「道徳形而上学」が出 ろ、ろ迷った末八五年にな たのかというとそうでもない。いし、 成立の事情 ってやっと『道徳形而上学基礎論』が出たに止まる。ではこ の書は『道徳形而上学』を書くという始めの要求を充たして ナトル。フによれば、『純粋理性批判』は始めの計画では、 自然の形而上学と道徳の形而上学とを含むはずであり、その いないのだろうか。フォルレンダーによれば、少なくともこ うち、道徳の形而上学が先に書かれるはずであったという。 れを書いた時には満足していたように思われるという。なぜ つまり道徳の形而上学については長い間準備されていたので かといえば、この書の序文には「人間の理性は道徳的なもの
一七六四年「美と崇高との感情に関する諸考察」を発 ( 四〇歳 ) 表。「ジルベルシ = ラーグ著、一七六二年 七月一一十三日に現われた火球についての理 論、の批評ーおよびケーニヒスペルクに現 われた山羊仙人コマルニッキに興味をもっ て書いた「頭脳の疾患についての試論」 ( 匿名 ) を『ケーニヒスペルク学事政治新 聞』に掲載。六一一年末学士院に送った「自 然神学および道徳の根本原理の判明性に関 する研究」は当選第一一位となり、第一位の メンデルスゾーンの論文とともに公刊され る。詩学教授ポック逝去 ( 一七六一一年 ) 後 空席であった後任に推されたが辞退。 一七六五年「一七六五年ー一七六六年の冬学期講義方 ( 四一歳 ) 針の報告」を発表。十一一月三十一日付ラム ベルト宛書簡に『純粋理性批判』の萌芽を 示す。 一七六六年ケーニヒスペルク王立図書館副司書官に任 ( 四一一歳 ) ぜられる。数年前からスウェデンに現われ 視霊者と称して数種の著書を著わしていた スウェデンボルクに関して「形而上学の夢 によって説明された視霊者の夢」を発表。 一七六七年マルクス・〈ルツ入門する。 ( 四三歳 ) 一七六八年 ( 四四歳 ) 「空間における方位の区別の第一根拠につ いて」を発表。 一七六九年エルランゲン大学からの招聘を一度受諾し ( 四五歳 ) たが、ケーニヒスペルク大学に望みを嘱し て辞退する。「一七六九年がわたくしに大 きな光を与えた。」 ( 後年の覚書 ) 一七七〇年イエナ大学から招聘されたが辞退。神学お ( 四六歳 ) よび数学教授ランクハンゼン逝去し、ブッ クがその後任に移ったため、ブックの後任 として論理学および形而上学正教授とな る。就職論文『感性界および叡知界の形式 と原理について』 ( ラテン語 ) を発表。 一七七一年「モスカティの著、動物と人間との構造の ( 四七歳 ) 身体上の本質的区別について、の批評」を 『ケーニヒスペルク学事政治新聞』に掲載。 一七七三年五月、図書館副司書官を辞任。マルクス・ ( 四九歳 ) ヘルツ宛書簡で、明年の復活祭前後には 『純粋理性批判』完成の見込みを述べる。 一七七四年妹アンナ・ルイーゼ四十四歳で死去。 ( 五〇歳 ) 一七七五年「人類のさまざまな種族について」を発 ( 五一歳 ) 表。 一七七六年哲学部長に補せられる ( その後四回この地 ( 五二歳 ) 位についた ) 。「汎愛学校に関する論」を匿 名で『ケーニヒスペルク学事政治新聞」に 掲載。この年北米合衆国独立。
くしが理論理性に拒んだものの補足を、純粋実践理性とその せ」というのは多分カント自身が書いたものであるか、ある いは少なくともそれに近いものであったろうという。また同可能とによって証明し、理解しうるものとすること、これが、 しかし、つまずきの石となって例の人たちは、無限に不合理 じ年の十一月八日にライ。フチヒのポルン (Born) 教授はカン な道をとり、その人たちには全く味のないように見える批判 トからこの知らせをうけた返事として、「さらにわたくしは 実践理性批判という重要な補遺を今からとても喜んでおりまのあの意見にしたがわないうちに、理論的能力を超感性的な ものまで拡げうると考えるのです」と。これでわかるよう す。これによって貴下は貴下の優れたお仕事を一層立派なも のとなさるでしよう」と書き送っている。またこれに関係の に、体系的な必要も勿論あったけれども、論争的な意味の動 あることであるが、ハマン (Hamann) が八七年の一月三十機が強く働いて、急に『実践理性批判』を書いたといえる。 一日にヤコビ ( Jacob 一 ) にあてて「第一一版には実践理性批判が範疇が現象には適用されるが、可想体には適用されないとい つけ加えられるということをわたくしは新聞で見た」と書い うことや、自由の主体としては自己を可想体としながら、自 ている。 然との関係においては現象と考えることなどが矛盾している という世評、いく度も繰り返された主張、これにたいしまじ それにも拘らず、第二版の中で二つの批判を統一しようと めに答えようとしたことが、道徳形而上学を書くことを止め する意図を、それから二カ月後にはまた棄てねばならなかっ た。フォルレンダーによれば、八七年の一月の始めと思われさせて、急に『実践理性批判』を書かせた直接の動機であ る。ナトルプも、フォルレンダーもこのように考えている。 るが、カントはハマンの訪問を断わっている。それは、批判 の新版が、かんたんに考えて取りかかったけれども、むずか そういうわけでカントは八七年の十一一月一一十八日にはライ ンホルト (Reinhold) にあて「この書では古いものの追随者 しくて困っているという理由による。が八七年一月三十日の ヤコビ宛 ( マンの手紙によれば「次の週には原稿は手を離れたちがわたくしの批判の中に見つけると思いちがいしている ていた」という。それはともかく八七年の春には第一一版が出多くの矛盾がとりのけられます。これに反し、もしその人た が予告された補遺はついていなかった。他方『実践理性ちが自分の古い寄木細工を捨てようと思わないならば、どう 題批判』はその年の六月の終りにはもう殆んど印刷するばかりしても捲きこまれる矛盾をどこまでもはっきりさせます」と にな「ていた。六月一一十五日のシツツ宛の手紙には「わた書いている。以上がこの書の成立事情のあらましである。 解くしの実践理性批判はほぼできあがって、来週印刷のために そこで次にこの書で論争の相手となっているカント批判に ついてかんたんに書いて見る。この点について、ナトルプ 送れる程度になりました」と書かれている。 もフォルレンダーも同じ材料をつかっている。ナトル。フの方 この書簡にはなお次のようなことが書かれている。「わた