的な有機的組織化の原理のもとに立つ自然の機械的関係が、 異なる概念であって、内的合目的性は、対象の現実そのもの 漠然とではあるが同時に誤認されるべくもなく関与している が目的であるか否かにかかわらす、その対象の可能と結びつ いている。われわれは、有機体が何のために存在しているか となしており、これに関係する物質の能力を、 ( 物質に普遍 的に内在している単なる機械的形成力とは区別して ) 有機体となお問うことができるが、単に自然機構の作用だけしか認 められないような事物についてはこのように問うことがむず における形成衝動 ( 根源的な有機的組織化がいわば一段高い かしい。なぜかというと有機体の場合では、われわれはすで 形成力の指導と指揮を受ける ) と呼んでいる。 にその内的可能に対して、目的にしたがう因果性、すなわち 八二有機体の外的関係における目的論的体系に ある創造的悟性を考え、この活動的能力をばこの悟性を規定 ついて する根拠たるところの意図へ関係づけるのであるからであ る。ただここに例外として、有機的組織の内的合目的性と連 外的合目的性ということをわたくしは、自然のある事物が 関しながら、しかも、その有機体がどういう目的のために存 他のある事物に対して、目的への手段に役立っ場合の合目的 在しなければならなかったかを問う必要がなく、しかもなお 性と解する。ところで内的合目的性をもたずあるいはその可 手段という外的関係において目的に役立つような、外的合目 能のために内的合目的性を前提しないような事物、たとえば 的性がただ一つある。すなわち両性が、種の繁殖に関して相 しいかえれ 土壌や空気や水のようなものも、なお外的には、 互に関係する場合の有機的関係がこれである。なぜならこの ば他の存在者に関係しては、はなはだ合目的的でありうる 場合、われわれはあたかも個体の場合とも同様、何ゆえにそ のである。ただし後者はこの場合っねに有機体、すなわち自 うした一対のものが存在しなければならなかったか、と依然 然目的でなければならない。というのは後者が目的でなけれ 間いうるからである。これに対しては、こうした一対がはじ ば前者も手段とは判定されえないからである。すなわち水や めて、有機的組織をなす一全体 ( 単独の身体のうちに有機的 空気や土壌は山嶽の堆積のための手段とは見なされない。な に組織されている全体ではないが ) を形づくるのであると答 ぜなら山嶽は、目的にしたがって可能であるという根拠を要 鰤求するような何ものをも内にふくんでおらず、したがって山えられる。 ところで、ある事物が何のために存在するのか、と問われ 励嶽の原因は、そうした可能の根拠を要求するものに関して、 る場合に、その答えはつぎのいすれかである。すなわち、そ ( そのものに役立っ ) 手段という述語の下には決して表象さ の事物の存在と産出とは、意図にしたがって働く原因にまっ れえないからである。 たく関係をもっていないと答えられるか ( この場合われわれ 外的合目的性の概念は、内的合目的性の概念とはまったく
そのように変形、形成し、それぞれ所属の場所へ定着させる同じことは、人間が必要のためや娯楽のために利用する植物 についても、あるいは食用にあるいは労役に様々な仕方で使 引ところの原因は、つねに目的論的に判定されねばならないの であって、したがって動物体にあっての一切のものは組織さ用し、その大部分はまったく欠くことのできないような、駱 れたものと見られねばならず、一切のものはその事物〔動物駝、牛、馬、犬等々の諸動物についてもいわれることである。 いずれもそれ自身としては目的と見なされる理由のないよう 体〕自身に対して或る関係をもっことによってふたたび器官 でもあるのである。 な事物については、その外的関係はただ仮説的に合目的的と 判定されうるに過ぎない。 六七目的の体系として自然一般が目的論的に判 ある事物をその内的形態のために自然目的として判定する 定される原理について ことは、その事物の現実存在を自然の目的と見なすこととは まったく異なっている。後者を主張するためには、可能なあ われわれは上に自然事物の外的合目的性について述べた る目的の概念をだけ必要とするのではなく、自然の究極目的 際、それらの自然事物を同時に自然の目的とみて、外的合目 的性を自然事物の存在の説明根拠に使用し、観念上、自然事 (SCOPUS) の認識を必要とし、しかも、そのことは、自然に ついてのあらゆるわれわれの目的論的認識をはるかに凌駕す 物の偶然的な合目的的作用をば目的原因の原理にしたがった るような或る超感性的なものへの自然の関係を含意するので それら事物の存在の根拠に使用することを正当化する十分な 理由を、外的合目的性が与えるものではないといった。たとある。なぜなら自然そのものが現実に存在しているための目 的は、自然を超えて求められねばならないからである。一本 えば河流が国内に住居している人間の間の交通を促進させ、 の草の茎の内的形態ですら、われわれ人間の判定能力に対し 山嶽が住民にとって河流の源泉となり、雨のない季節のため には雪の貯蔵があって河流の源泉が保持され、また陸地の傾て目的の規則にしたがってだけ可能であるところのその起原 斜が水を流れ下らせて陸地を湿潤ならしめないという理由を、証明するに十分である。ところがこの観点を去り、他の 自然存在者による使用だけに着目するならば、すなわち内的 で、直ちにそれらのものを自然目的と考えることはできない のである。なぜなら、地球表面のそうした形態は、動植物界有機組織の考察を見捨てて、たとえば草が家畜に対し、家畜 が人間に対して、どのように生存の手段として必要であるか の発生と維持とに対してたしかに大いに必要なものにはちが というような、外的な合目的的関係だけに着目するならば、 し / . し、刀 しかしことさらその可能のために、目的にしたが った因果性をどうしても想定する必要を感じさせるようなもそもそも何ゆえに人間が存在しなければならないかは知られ ないことである ( この間題はニューホランド人〔今のオース のを、何一つとしてそれ自体に含むのではないからである。
のいずれかである。が、両方共に外的であるかでなければ内か、そのいすれかである。がこのことについてはここでは問 的であるかである。 題にならない。だが、実践的な意味での完全性の概念は物が (d) ナトルプによるとこの形式的という字は、次の行の「いま述べたとはあらゆる目的に役にたっとか或いは十分であるとかいうこと 異なった」のつぎにくるべきであったのが、何かの間違いでここに入ってい である。人間の性質、したがって内的な性質としてのこの完 るのだという。フォルレンダ 1 もこの説に賛成している。意味の上からいっ 全性は才能に、またこの才能を強めたり補ったりするものと てむりのない説である。が、原典通りに訳しておいた。 しての熟練にほかならない。実体としての最高完全性、すな 教育 ( モンテーニュ ) わち、神、したがって、外的な ( 実践的な意図から見られ 外的 た ) 完全性はこの物があらゆる目的一般にとって十分である 市民制 ( マンドヴィーユ ) ということである。だから、いま目的、つまり、これに関連 自然的感情 ( ェビクロス ) してのみ完全性 ( われわれ自身においては内的であるか、神 内的 道徳的感情 ( ハッチソン ) においては外的であるかする完全性 ) の概念が意志の規定根 ヴォルフと 拠となりうるような目的が前もって与えられねばならないと 内的完全性 するならば、だが、実践的規則による意志規定に先だち、こ ストア派 の規則の可能の根拠を含まねばならない対象としての目的 クルーシウスその 、したがって、意志の規定原理と考えられる意志の質料が 外的神の意志他 神学上の道徳学者常に経験的であるならば、したがって、エ。ヒクロスの幸福論 右側のものはすべて経験的であり、明らかに道徳の普遍的間の原理には役にたつが、道徳論と義務との純粋実践原理とし 原理には全然役にたたない。左側のものは理性に基づいてい ては決して役にたちえない ( というのは生の利益に寄与する月 る ( というのは、物の性質としての完全性と実体において表という理由で、才能とこれを助成することとは、あるいはま 象される最高完全性、すなわち神とは共に理性概念によって た、その理念から独立な、実践的な先だっ原理がなくても、 のみ考えられるべきであるから ) 。けれども、第一の概念、 自らとの一致を意志の対象と認める場合の神の意志は、われ 理つまり完全性の概念は理論的意味にとられうるし、したがつわれがそこから期待する幸福を通してのみ、意志を動かす因 実て、各自の様式 ( 先験的な ) における各々の物の完全性を意となりうるからである ) 。とするならば、その結果、まず、 味するにほかならないか、でなければ、ただ ( 形而上学的すべてここに掲げられた原理は質料的であるということにな な ) 物一般としての物の完全性を意味するにほかならない り、つぎにすべてそれらは可能な質料的原理を含むこととな 道徳原理に おける質料 的実践的規 定根拠 主観的 客観的 ( 一三 ) ( 一セ ) ( 一八 ) ( 一五 ) ( 一九 )
ればならぬとすれば、この時われわれは有機的物質を、そうて、悟性あるいは理性の構成的概念ではない。しかし、一般 した心霊の道具としてすでに前提していることになるか に目的にしたがうわれわれの因果性との微かな類比の上から それでは有機的物質は毫もよりよく理解されたことにはなら この種の対象〔有機体〕に関する探究を指導し、それらのも さもなければ心霊をこういう建造物〔生物〕のエのの至高の根柢に関して反省すべき、反省的判断力にとって 匠となし、したがって、この生産物を自然 ( 物的な ) と絶縁の統整的概念であることはできる。しかしこれはもとより自 させねばならない。それゆえ厳密にいえば、自然の有機的組 然の知識やまたはそれらの有機体の始源的根柢の知識に役立 織は、われわれが知るところのおよそどんな因果性とも何らっ概念ではなくて、むしろそういう合目的性の原因がそれに ( 原注一一五 ) 類比的なものを持たないのである。自然の美は、単に対象の なぞらえて考察されたところのわれわれの内なる実践的理性 外的直観に関する反省に関係し、したがって単に表面の形状 能力にとってこそ役立っ概念なのである。 のゆえに対象へ付与されるのであるから、芸術の類似物と呼 有機体は、それゆえ他の事物への関係をはなれてこれを単 ばれるのが正当である。しかし、自然目的としてだけ可能 独に考察しても、自然の目的として可能なものとしか考えら な、したがって有機体と呼ばれる事物がもっているような内れないような、自然における唯一の存在なのである。したが 的な自然的完全性は、われわれに知られているどのような物ってそれは、実践的目的ではなく自然の目的であるような目 的能力すなわち自然能力との類比によってもーーーまたわれわ的の概念へはじめて客観的実在性を与え、これによって自然 れ自身が最も広い意味での自然に属しているのであるから、 科学に対して、目的論すなわちある特殊な原理による客体の 人間的技術に正しく適合した類比によってすらも、ーー決し 判定様式への根拠を与えるものであって、この事情がなけれ て思惟されるものでも、説明されるものでもない。 ば目的論を自然科学へ導入することは ( そういう種類の因果 原注二五逆にわれわれは、現実においてよりむしろ観念のうちに見出され 性の可能は先天的にはまったく洞識されないものであるか るある種の結合に対して、上にいわれた直接的な自然目的との類比を借りて ら ) まったく是認されえないことであろう。 光を投ずることができる。たとえば、一つの大きな人民をまったく改造して 一国家を形成しようという近頃企てられた企図に際して、有機的組織という 六六有機体にあっての内的合目的性の判定原理 語が、しばしば行政権制度等に対して、あるいはまた国家全体の倒度に対し てすらはなはた適切に使用されたのである。なぜならそういう一全体にあっ について ては、各成員はもとより単に手段ではなく、同時に目的でもなければならず、 各成員はその全体の可能のために協働しながらふたたび全体の観念をとおし この原理は同時に有機体の定義であって、有機的に組織さ ( 三八 ) て自己の地位と機能との上で規定されていねばならぬからである。 れた自然産物とは、そのうちにおいては一切のものは目的で それ自体における自然目的としての事物の概念はしたがつあると共に、交互に手段でもあるところのものであるといわ
現在ある種について見出される形態を構成している多くの部 ないわけである。 原注二九この種の仮説は理性の大胆な冒険と呼ばれてよいかも知れない、 分がまた同様に偶然な、無目的な起源のものでないか否かを しかし最も炯眼な自然探究者たちの間でも時としてそういう考えの頭脳に浮 われわれは確実には知ることができず、そして「有機体にお かばなかった人は稀であろう。なぜならこの思想は、有機体が天然のままの 、ては、種の生殖のうちに維持されるどのようなものも非合 無機物質の機構によって産出されるのを意味するところの自然的発生 gene ・ ratio aequivoca ほどに背理とはいわれないからである。生物の産出は、お 目的的と判定されてはならないーという目的論の原理の適用 よそ有機的なものは他の有機的なものから ( 後者は同じく有機体でも、前者 がはなはだ信頼されえないものとなり、それは原種について と特性上区別されたものである ) しか産出されないかぎり、言葉の最も一般 しか ( しかしわれわれはもはやこうした原種を知らない ) 妥 的な意義においてどこまでも一義的発生 generatio univoca であるであろ う。たとえばある種の水棲動物が次第に沼沢動物に変化し、さらに生殖を幾当しないものとなるよりほかないであろう。 代か重ねたのちに陸棲動物に変化するような場合である。このことは先天的 ヒュームは、一切のそうした自然目的に関して目的論的な に、単に理性の判断においては、矛盾をふくむものではない。ただ経験はこ 判定原理、すなわちある建築的叡知を想定しなければならぬ うした例を示すことがない。経験にしたがえば、われわれが知る生殖はすべ て同名的発生 generatio homonyma なのであって、これは無機的物質から と考える人たちに抗論して、「それならばそのような叡知は の産出とは反対の generatio univoca であるだけでなく、有機的組織その そもそもどのようにして可能なのか、くわしくいえば、同時 ものにおいても産出者とひとしい種類の産物を産出するのであるが、自然に に遂行力をも有する叡知を可能にするような、種々の能力や 関するわれわれの経験的知識が達する範囲ではどこにも異名的発生 genera ・ tio heteronyma は見出だされない。 性質がどうしてそのように合目的的に一つの存在者のうちに 有機体の類に属する一定の個体が偶然にこうむる変化につ会しえたのかとも、ま「たく同じ権利で問いうるであろう」 云せられ、生殖といっている。しかしこの抗議は無効である。というのは、 いて考えても、そのように変化した性質が遺イ 自己自身のうちに諸々の目的をふくみ、そしてそれらの目的 力へ受容される〔生殖質に影響して、遣伝される〕ことが知 られるならば、こうした変異は、種の維持を目指して種のうちによってのみ理解されうる事物の最初の産出に関する問いを に根源的に存在している合目的的素質が機会をえて展開されめぐるすべての困難が基づくところは、こうした生産物にお たものとされるほか、適当な判定の途はない。なぜなら、おける互いに外的な多様の要素が結合される根拠の統一が問わ よそ有機体の内的合目的性は貫徹的なものであるから、自己れることであるからである。なぜなら、この根拠が、単純な 断と同種のものを生殖することは、このような目的の体系にあ実体と見られる産出原囚の叡知へおかれるならば、そうした 問いはそれが目的論的であるかぎり十分に答えられるのであ 半っては未開展な根源的素質に属しないようなものは何一つ生 るが、もしこの原因が単に互いに外的な多数の実体の集合と 殪力へ取り入れないという条件と、きわめて密接に結びつい ていることであるからである。この原理を放棄するならば、 見られる物質に求められるならば、その形成物の内的に合目 ( 四二 )
関係における想定であるに過ぎない。 がかかわることによってなのである。しかしこの同じ厩念 は、それの客体を一つの事実として主張することはできな 原注三九信仰の事柄は、そういうものであるからといって信仰箇条なので はない、ー・ーーもし後者によって、それを告白 ( 内的あるいは外的に ) するよ い。なぜなら、義務の必然性は実践〔的〕理性にとって明確 うにわれわれが義務づけられるような、信仰の事柄が意味されるとすれば。 であるとしても、義務の究極目的へ到達することは、究極目 そうした種類のものは自然神学には含まれない。な・せならこれらのことがら 的が完全にはわれわれのカの圏内にないかぎり、ただ理性の は信仰の事柄として ( 事実のように ) 理論的証明に基づきうるものではない のであるから、それは自由な信憑なのであり、また単にそうしたものとして実践的使用のために規定されたものであり、したがって義務 ( 原注四 0 ) のみ主観の道徳性と相容れるものなのである。 そのものと同様には必然的でないからである。 叡知的世界因についての規定的概念を、自然目的論がはな 原注四〇道徳律がその促進をわれわれに課するところの究極目的が義務の はだ豊富に提示するところの自然の諸目的の上に、もっとも 根拠なのではない。な・せなら義務の根拠は道徳律のうちに存し、後者は形式 的な実践的原理として断言的に指導するのであるが、欲求能力の客体 ( 意欲 らしく基礎づけることができたとしても、この存在者の存在 の質料 ) を、したがってどういう目的をも顧慮することはないからである。 は信仰の事柄ではないであろう。なぜなら、こうした存在者 われわれの行為の内的道徳的価値がただそのうちにのみ存するところのわれ は、わたくしの義務の履行のためにではなく、かえって単に われの行為の、この形式的性格 ( われわれの行為が普遍妥当性の原理に服従 すること ) は、完全にわれわれのカの圏内にある。そしてわたくしは、道徳律 自然の説明のために想定されたのであるから、それは単にわ にかなって促進することがわたくしの責務であるような諸々の目的の、可能 れわれの理性に最も適合的な臆見であり、仮説であるにとど 性または非実現性をば完全にはわたくしのカの圏内にないものとして、まっ まるであろう。ところでそうした自然目的論は規定された神 たくこれを抽象し ( な・せならそうしたもののうちに成り立つものは、わたく しの行為の外的価値に過ぎないから ) 、ただわたくし自身の現実の行為にの の概念へ導くものでは決してなく、かえって神の概念は世界 み着目することができる。しかしながら、あらゆる理性的存在者の究極目的 の道徳的主宰者という概念のうちにのみ見出されるのであ ( 義務と調和して可能であるかぎりにおける幸福 ) を促進するという意図は、 る。なぜなら、道徳的主宰者だけが究極目的を告げるのであ それでもまさしく義務の法則によって課せられたものである。ところが思弁 的理性はそうした意図の実現性 ( われわれ自身の自然的能力の側からも、自 って、この究極目的へわれわれ自身も属するものと考えるこ 然の協力の側からも ) をまったく洞察するものではない。むしろ思弁的理性 とができるのは、道徳律が究極目的としてわれわれに課し、 われわれが理性的に判断しうるかぎり、 そういう原困のたすけ したがってわれわれに義務として負わせるものに適合してわ をかりて、神と不死とを想定することなしに単なる自然 ( われわれに内な る、また外なる ) からわれわれの善き挙措のそうした効果を導こうとするこ れわれが挙措するかぎりにおいてであるからである。したが とを、無根拠な空虚なーーたとえその意図は善いとしてもーー・期待であると って、神の概念がわれわれの信憑について信仰の事柄に数え 見なさざるをえない。そして思弁的理性がこの判断について完全な確信を持 られるという特権を得るのは、ひとえに、義務の究極目的に ちえたとすれば、それは道徳律そのものを実践的見地におけるわれわれの理 到達する可能性の制約として、われわれの義務の客体へそれ 性の単なる錯覚と見なさざるをえないであろう。しかし思弁的理性はこの後
なすべての場合に、そういう連関の見出される事情と同じで の悟性を、図形をこえて求める必要がないのと同様である。 われわれはます理性が、そうした道徳的目的論か しかし道徳的目的論のかかわるものは、世界存在者としてある。 の、したがって世界における他の諸事物と結びついた存在者らならびにそれと自然目的論との関係から進んで神学にいた る進展をのべ、その上でこの種の推論の可能性と適法性に関 としてのわれわれである、そしてそうした事物を、目的とし して若干の考察をしたいと思う。 て、あるいはそれらに関してわれわれ自身が究極目的である ような対象として、われわれの制定をそれへ向けることをま ある種の事物 ( あるいは単に事物のある種の形態でも ) の存 さしく同じ道徳的法則がわれわれに指令する。さてこの道徳在が偶然的であり、したがって原因たるある他のものによっ 的目的論は、諸々の目的へのわれわれ自身の因果性の関係に てのみ可能であると想定される場合、こうした因果性に対し かかわり、さらに世界においてわれわれが目指さねばならぬ てわれわれは最高の根拠をーーしたがって約せられたもの 究極目的にかかわり、また同様に、そうした道徳的目的と世に対する無制約的根拠をー・ー自然的秩序のうちにか、あるい は目的論的秩序のうちに求めることができる (nexus effec ・ 界との交互的関係、ならびにその目的遂行の外的可能性にも tivus 〔能動囚的結合〕にしたがってか、もしくは nexus fina- かかわる ( 自然目的論はわれわれをこれへ導くことはできな い ) 、したがってその道徳的目的論からはつぎの問いが必然 lis 〔目的因的結合〕にしたがって ) 。 しいかえれば、これら 的に生する。すなわち、この目的論は、われわれの内的、道の事物を産出する最高の原因とは何か、あるいはそれらの事 徳的立法とその可能な実現に関しても、自然を合目的的と表物の最高の ( 絶対に無制約的な ) 目的とは何か、すなわちこ のような産物、あるいは一般にそれのすべての産物を生産す 象しうるために、われわれのうちにおける道徳的なものへの 自然の関係に関して、叡知的なる至高原理を求めるために世べきその最高原因の究極目的とは何か、とわれわれは問うこ 界を超え出るように、われわれの理性的判定に強いるものでとができる。このさい、その原因が目的の表象を持ちうる者 であること、したがってある叡知的存在者であること、ある あるかどうかということである。したがって道徳的目的論は いは少なくともそのような存在者の法則にしたがって働いて たしかに存在するのであるが、それは必然的に、一方では自 いると前提せられることはいうまでもない。 批由の法則定立と、また他方では自然の法則定立と関連する、 ところで後者の秩序〔目的論的秩序〕にしたがってゆけ 断それはちょうど市民的立法が、行政権がどこに求められるべ ば、つぎのことはきわめて平俗な人間理性すらもただちに同 きかの問いと連関するのと同様であり、またこれは一般に、 理性が、理念にしたがってのみ可能な、事物の一定の合法則意を表せざるをえない原則である。すなわち、一般に理性が 的秩序について、現実性の原理を挙示しなければならぬよう先天的に挙述せねばならぬ究極目的が存すべきであるとすれ
なことがらを考案しえたのではあったが、しかし世界統治に の生涯を終えるまで、外に現われたかぎりでは自己の徳に対 する幸福にも出逢わず、あるいは犯した罪に対する罰をも受おける、その道徳的関係はつねに変わらず同一であったので いかに未開な理性社とっても、いやしくも理性が実践 けなかったとしてもーーその帰結が決して一様ではありえなあり、 いということである。このことは、あたかも彼らが、そうした的理性として考えられるかぎり、普遍的に理解されうるもの なのである。これに反して、思弁的理性は実践的理性と同じ 二つの挙措の帰結が異ならねばならないと告げるところの、 おそらく 歩調を保つことはとうていできないのである。 ある声を内部に知覚したのであるかのようである。したがっ こうした道徳的関心をとおしてはじめて、自然における美と て彼らがそれに達しようと努力する義務を負っていると感じ 目的への注意も喚起されたのであって、そこでこの後者が上 たところの何ものかの表象が、たとえ漠然とではあれ、彼ら の内部に潜んでいたに相違ない。しかもその何ものかは、上の理念を強めることにはすぐれて役立「たとしても、その理 のような不当な結末がそれとま「たく一致しえない底のもの念を基礎づけることはできす、ましてやこうした関心がその なのであり、またひとたび彼らがこの世界の運行を事物の唯理念を欠いて済ますことはできないことであ 0 た。なぜな 一の秩序と見なした場合、彼らの心情のそのような内的規定ら、自然における諸々の目的の探究でさえもが、それから引 をそれに調和させえない底のものであ 0 たのである。ところき出しうる何らの利益も顧慮されていないにかかわらず、そ うした諸々の目的への感嘆のうちにはなはだ広い範囲におい でそうした規則背反 ( それは人間の心情にとっては、時に自 然判定の根柢に原理として置こうともされる盲目的偶然にもて示される直接的関心を得てくるのは、ひとり究極目的に関 まして憤激を起こさせるものでなくてはならぬ ) が正されう係してのことであるからである。 る仕方を、彼らはいろいろな大まかな仕方で思い浮かべたこ 八九道徳的論証の効益について とであろう。しかし自然が彼らの内的道徳律を合一する可能 超感性的なものについてのわれわれのあらゆる理念に関し 性の原理としては、道徳律にしたがって世界を支配している 至高の原因以外には、ほかに彼らは原理を決して考え出しえて、理性がその実践的使用の制約へ制限せられることは、神 なかったのである。というのは、義務として課せられた彼らの理念に関するかぎり否みえない効益を持っている。すな の内なる究極目的と、究極目的を全然欠いているような彼らわち神学が誤って神智学 ( 理性を混乱させる超絶的概念 ) へ に外なる自然ーーとはいえ究極目的は自然のうちに実現され迷入したり、あるいは鬼神論 ( 最高存在者を擬人観的に表象 ねばならないがーーとは、あからさまに矛盾するからであする様式 ) へ低落することを防ぎ、さらに宗教が奇蹟術 ( 超 る。こうした世界因の内的性質について彼らは数々の無意味感性的存在者と感情や影響を交換することができると考える
導きの糸 (Leitfaden) XXXVI, 3 経験の 自然研究の ~ ・・・四 7 , 353 , 反省的判断力の 301 , 313 , 318f ” 3 理性の判決の ~ ( 手掛かり ) ・・・・ 442 身振り ( Mimik ) ・・・・・・ 42 魅力 ( Reiz ) ・・・・・・ , 41f. , 166 , 218ff. ム 無限なもの (das Unendliche) ・・・ , f. , 92ff. , 18f. , 110f. , 124 矛盾律 (Satz des Wider- spruchs) ・・・・・・ LVII* 無制約的 ( 断言的 ) (katego- 無制約的なもの (das Unbe- 目的 (Zweck) モ 迷信 (Aberglaube) ・・ メ ・・・ 116 dingte) ・・ 内的および外的 ~ ・・・・・・ 45 ・・・ 32 ~ の可能性の実在的根拠 XXVII ~ はある客体の概念・・・ a) 自然の 152f ” 人間は ~ ~ 7 , 322 意欲の内容としての ~ ・・・幻 5 , 3 b) 自由の ~ って可能・・・・・・ 2 ff. 自然の ~ は理性概念によ 3 , 3 田一 395 ・・・ 382 , 自然の最後の ~ ・・・ 425 人間性の究極 ~ 171 , 9 , 38 * ・・・ 165 , 目的原因 (Endursache) ・・ XXVIII, 四 0 f. , 四 8 , 301 , 3 盟 , 314 , 316 , 318ff. , 321 , 332 , 359 , 362 , 371 , 381 , 404f. , 410ff. 目的論 (Teleologie) ~ は客体の判定様式・・・ 四 5 ~ は自然科学の内的原理 ・・・ 304 ~ は構成的原理にあらず統 整的・・・・・・ 270 神学への準備としての ~ 自然 ~ ・・・・・・ 402 , 413 , 418f. , 430 , 4 道徳的 ~ ・・・・・・ 419f. 自然および道徳的 ~ 5 , 465 , 476 目的論的 (teleologisch) ~ 概念・・・・・・ 365 ~ 判定・・・・・・ 269 , 307 , 361 , 402 , 415 , 442 ~ 証明・・・・・・ 3ff. ~ 説明様式・・・・・・ 352 , 3 , 2 ~ 説明根拠・・・・・・ 307 ~ 産出原理・・・・・・ 375 ~ 問題・・・・・・ XXII * , 372 ~ 法則・・・・・・ 352 23 ~ 根拠・・・・・・ 269 , 6 , 374 ~ 原則・・・・・・ 9 , 359 ~ 自然認識・・・・・・四 9 ~ 秩序・・・・・・ 302 →秩序 ~ 原理・・・・・・ 251 , 353f. , 360ff. , 400 ~ と機械的原理・・・ 3 ff. , 374ff. ~ 体系・・・・・・ 3 ff. ~ 技巧・・・・・・ 359 模像 ( Ektyp 。 n ) ・・・・・・ 207 物自体 (Ding an sich) ・・ →現象 模倣 (Nachahmung) ・・ 1 ff. 問題的 (problematisch) ~ 判断・・・・・・ 332 唯物論 (Materialismus) ・・・・・・ 442 遊戯 ( Spiel ) ・・・・・・→活動 有機的組織 (Organisation) 自然の ~ 内的 ~ 人間の ~ 根源的 ~ 政治的 ~ ・・・ 300 ・・・ 302 ・・・ 379 内的 ~ 観念的 ~ 客観的 ~ 主観的 ~ ・・・ 51 , 248 , 310 ・・・ XLI 相対的および絶対的 ~ 423 先天的 ~ ・・・・・・ LII 観念によって先天的に規定 された ~ ~ の原理は発見響導的・・・ 有神論 ( Theismus ) ・・・・・・ 323 , 328 有用性 (Nützlichkeit) ・・ ヨ 趣味判断の ~ 様態 (Modalität) 要請 (Postulat) ・・・・・ 4 f. 10 , 44 , 45 ・・・ 62-68 mögen) ・・ III, V, VIII, 欲求能力 ( Begehrungsver- ・・・ 110 ー 113 崇高なるものについての ~
第一篇目的論的判断力の分析論 六一一実質的合目的性と区別されての、単に形式的な客観的合目的性について : ・一一 六三内的合目的性と区別されての、自然の相対的合目的性について : ・ ・三 0 三 六四自然目的としての事物の特質的性格について : ・ : 三 0 五 六五自然目的と見なされる事物は有機体である : ・ : 三 0 〈 六六有機体にあっての内的合目的性の判定原理について : ・ 套目的の体系として自然一般が目的論的に判定される原理について : ・三一三 査自然科学に内在する原理としての目的論の原理について : 第一一篇目的論的判断力の弁証論 : 六九判断力の一一律背反の性質 : ・ ど二律背反の提示 : ・ 三上述の一一律背反を解消するための準備・ : 七一一自然の合目的性を処理する種々の哲学体系について : ・ 七三上述の体系はいずれもその主張を果さない : ・ 七四自然の技術という概念を独断的に取扱うことが不可能であるのは自然目的 というものが説明されえないものであることから起こる : 芸自然の客観的合目的性の概念は反省的判断力に対する理性の批判的原理で ある : 七六注 : ・ 七七自然目的の概念をわれわれに対して可能にする人間悟性の特質について・ : 三三一一 尺自然の技巧にあっての、物質の普遍的機構の原理と目的論的原理との合一 について : 付録目的論的判断力の方法論 : ・ 芫目的論は自然学に属するものとして論じられねばならないか ・三一一四 三一一石 ・三四一一 三四ニ