も、単に大なる叡知、威力を考えるだけでなく、むしろ全道徳的目的論に属する部分とへ分裂することは避けられえ なぜなら異質的部分が 知、全能を考えたくなる、つづめていえば、あらゆる可能なず、また避けられてはならない、 事物に対して、こうした諸属性の十分な根拠を含む原因とし融合しては、本来この証明の真髄がどこにあるかを判別する てこの原因を考えたくなるのである。なおそれにとどまら ことができす、また、証明の妥当性が最も峻厳な吟味にも堪 ず、一切をなしうるこの唯一の根源存在者には、単に自然の えうるものとなりうるためには、どの部分にどのように仕上 法則と産物に関して叡知を帰するだけでなく、さらにこれをげが加えられねばならぬかを、判別することもできなくなる 世界の道徳的原因とみて、最高の倫理的、実践〔的〕理性を からである ( たとえ一部においてわれわれの理性洞察の弱点 帰そうと欲しないであろうか。なぜなら、概念がこのように を認容することを余儀なくせられても ) 。したがって、たと 完成されることによって、自然への洞察に対してだけでな え上の錯覚がどれほど〔教化に〕有益なものであろうとも、 く、道徳的知恵に対しても、ともに充足的な原理が挙述されなおこうした混淆が生む錯覚を暴露し、単に説服に属すると るからであって、そのような理念の可能にむかっては、多少 ころのものを、確信に導くものから区別し ( この両者は、単 とも根拠ある抗論も提起されることはありえないからであに程度上だけでなく、性質上異なった賛同の規定であるか る。なおこの場合、心情の道徳的動機も同時に発動せられ、 ら ) 、そのようにしてこの証明における心情の状態を、全面 かっ雄弁の力によってこの動機への激しい関心が添えられる的に率直明瞭に示し、この証明をしてどれほど厳しい吟味を ならば ( 道徳的動機はまたはなはだ雄弁の力にふさわしいのも淡白に受けうるものとなすことが、哲学者の義務なのであ である ) 、そこからして、この証明が客観的に妥当するという る ( たとえ誠実への要求をまったく意に介しないような哲学 説服が生まれ、したがって、この証明の論理的厳密性を吟味者の場合でさえも ) 。 する義務をまったく持たずにすまそうとし、いな、そのよう しかし確信を目的とする証明にもさらに二様の種類があり な吟味の根柢には不敬虔な懷疑が存しているかのように、むうる。すなわち、それは対象自体が何であるかを決定すべき しろそうした吟味を見るに嫌悪と反抗心をもってする、〔教証明か、もしくは、対象判定のためにわれわれにとって必然 判化には〕有益な錯覚も ( そうした証明が使用されるたいてい 的な理性原理の上から、対象がわれわれ ( 人間一般 ) にとっ カ の場合に ) 生じるのである。 ところで、この証明の通俗て何であるか、を決定すべき証明であるかのいずれかである 断 半的使用にだけ着目するかぎりは、このことに抗論する必要も ( すなわち真理による象 Xi まミ証明か、人間による この場合に人間という言 1 ないであろう。しかし、この証明が、その論証に含まれる pw ざに証明かである、 二つの異質的な部分、すなわち自然目的論に属する部分と、 葉は人間一般についての普遍的な意味にとられている ) 。前
ることはない。なぜなら、とくに自然の諸目的は、自らに充足からおのずから生じてくるように思われるものである。 この事態の通俗的説述は新来も在来のままにしておいてよ した ( まさしくそのため唯一の、本来の意味において至高な ) いのである。なぜなら、普通の健全な悟性〔常識〕にとって 存在者としての至高存在者に関し、またこうした存在者の叡 は、別個な原理を混淆していながら、しかも実際はそれらの 知がそれにしたがって世界の原因たりうるような法則に関し 原理のうちの一つからのみ、また正しく推論している場合、 て、規定された概念を与えることはできないからである。 それゆえ、自然目的論的証明が、同時に神学的証明であるそれらの原理を互いに異質的なものとして区別することは、 かのようにわれわれに確信を起こさせることは、自然におけこれが多大の追考を必要とする場合には困難であるのが普通 る諸々の目的の観念が、至高の叡知を立証するそれだけの経だからである。しかし、神の存在の道徳的論拠は、本来、単 に自然目的論的証明を補足してこれを完全な証明にするとい 験的論拠として用いられていることに由来するのではなく、 むしろ、どんな人間にも宿り彼を衷心から動かすところの道 0 ただけのものではなく、かえ 0 てこの後の証明が確信を生 徳的論拠が、気づかれずに推論へ混人しているからなのであじさせえないという欠陥を代償するような特殊な証明なので る。人々はそれによって、自然の諸々の目的のうちにわれわある。すなわち、自然目的論的証明が実際になしうること れの理解を越えるばかりに技術的な仕方で啓示されている存は、理性が自然の根柢ならびに、経験によってのみ知られる 自然の偶然的な、しかし感嘆すべき秩序の根柢を判定するに 在者に、同時に究極目的を、したがって賢知を帰し ( しかし 自然の諸々の目的の知覚されることが、そうすることの正しあたり、理性の注意を導いて、目的にしたがって働き、そし てそうしたものとして自然の根柢であるような原因 ( この原 い理由となるわけではない ) 、そのようにして上の論証にな お付随している欠陥を恣意的に補「ているのである。それゆ因をわれわれはわれわれの認識能力の性質にしたがって叡知 的と考えざるをえない ) の因果性に至らせ、だがそのように え実際は、ただ道徳的論拠だけが確信を生むのであり、しか もそれはまったくあらゆる人が内心からそれに同意を感じてして理性をして道徳的証明を一層受容れやすいものとするこ とにほかならないのである。なぜなら、道徳的証明に要求さ いるところの道徳的見地において生むのである。自然目的論 的論拠の唯一の功績は、世界の考察にあた 0 て心情を諸々のれるものは、自然概念が含意し教示しうるすべてのものとは 目的の途上へ導き、このことをとおして心情を叡知的世界主本質的に区別されているから、神学を満足させるように根源 宰者へ導くことである。こうした諸々の目的への道徳的関係存在者の概念を挙述し、この存在者の実存を推論するために は、自然概念にまったく依存しないような或る特殊な論拠と と、神学的概念としての道徳的立法者、世界主宰者の理念と したがって道徳的証明 は、純然たる付加物であるとはいえ、なお自然目的論的論拠証明を必要とするからである。
( これはしかし神学にとってまだとうてい十分な概念ではな ( これはいうまでもなく理性の実践的な、しかしまた避けえ いが ) は、そのために反省的判断力に対して十分な実在性を ない、見地において神の存在を証明するものである ) は、た 得るからである。しかし、この概念は道徳的証明の基礎とし とえ世界のうちに自然目的論にとっての材料が見出されず、 あるいは材料が曖昧なものに過ぎないとしても、依然その効て必要なのではなく、また道徳的証明も、このそれ自身単独 力を失うことはないであろう。次のような場合も考えられるではまったく道徳を指示するところがないところの概念を、 ただ一つの原理にしたがって続けられる推論で補うことによ のである。すなわち、理性的存在者を囲繞する世界のうちに、 有機的組織の明瞭な形跡が毫も示されず、自然のままな物質って一つの証明へ完成するのに役立つものではない。自然と 自由とのような異質的な二原理は、一一種の異なった証明をし の単なる機械的関係の作用だけがそこに現われている場合、 か与ええないのである、そして一方の証明を他方から導き出 そうした事情のために、そしてまた単に偶然的な仕方で合目 的的な若干の形態や関係がたえす変化しているために、叡知そうとする試みは、証明されるべきものに関して不十分であ 的主宰者を推論すべき根拠が存在するとは見えないような場ることが知られるであろう。 合である、この場合には自然目的論を示唆する誘因もまたま かりに自然目的論的論拠が、求められた証明にとって十分 なものであるとすれば、それは思弁的理性をなははだ満足さ ったく存在しないであろう。しかもなお、自然概念からはこ こで指導を受けない理性は、道徳的理念に適合した根源存在せるものであろう。なぜならそうした証明は、神智学のよう 者すなわち神性の概念を要請し、かつ自然を ( われわれ自身なもの ( というのは世界の性質をも道徳律の規定をも同時に の存在をすらもこめて ) 、自由とそれの法則にかなった究極説明するに足りるような、神の本性と神の実存に関する理論 目的として要請するために実践上十分な理由をば、自由概念的認識はそのように呼ばれねばならぬから ) を生み出す希望 とそれに基づく道徳的理念のうちに見出すであろう。しかもを与えることになるであろうからである。同様に、もし心理 これは実践理性の断固として避けるを許さぬ命令を顧慮して学が、霊魂不減の認識に達するに足りるものであるならば、 ところで現実の世界に、そのうちの 心理学は、思弁的理性にとって同じく歓迎される霊魂学とい の要請なのである。 批理性ある存在者にと 0 て、自然目的論〈の豊富な材料が存在 0 たものを可能にするであろう。しかし両者とも、好奇心の 自負にはどれほど媚びるとしても、事物の本性の知識に基づ 断しているという事実は ( そのことは必然的なことではないと いていなければならぬ理論の見地においては、理性の願望を しても ) 、自然が理性理念 ( 道徳的理念 ) に類比的な何もの 充たすものではない。しかし前者が神学として、後者が人間 5 かを示しうるというかぎり、道徳的論証にとっての望ましい 確証に役立つのである。なぜなら叡知をもっ至高原因の概念学として、いずれも道徳の原理、すなわち自由の原理に基づ
うにうまくいくと思ってはならない。というのは、理論理性にそうした原理とは考えられえないからである。また道徳律 の原則は可能な経験の対象に、つまり現象に関係したからで はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところ あり、またこの現象がそうした法則の規準によって範疇にしの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与え たがわされることによってのみ、経験の対象としてのこの現られている。たとい経験の中には、そうした事実が正確に守 象は認識されうること、したがって、すべての可能な経験は られているような実例は求めえないにしても。それゆえ道徳 この法則に適合せねばならないことが証明されたからであ律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁 る。けれども、わたくしは道徳律の演繹の場合はこのような的な、もしくは経験的に与えられた理性のいかなる努力によ っても証明されえない。それゆえ、必然的な確実性を断念し 道をとることができない。なぜなら、ここでは、どこかほか ようとしても、その実在が経験によって保証されるわけでは のところから理性に与えられうるような対象の性質について ないし、したがってア・ポステリオリに証明されうるわけで の認識が間題なのではなく、対象自身の存在の根拠となりう る限りの、そして理性がこのような原因によって理性的存在田もない、それにも拘らす、道徳律はそれ自身で確実である。 (<) 原典には否定の文字が入っていないが、前後の関係から当然入れるべ の中にもっところの認識が、すなわち、直接意志を規定する きである ( グリロ ) 。 能力と見られうる純粋理性が問題だからである。 けれども、この、道徳律の演繹は求めてもえられなかった それはさて、すべての人間的な知識は根本能力に達するや いなやお終いになる。それは、この能力の可能なことが何物が、その代りに或る別のもの、全く矛盾したことが現われ た。つまり、逆にその原理自らは、究めることのできない能 によってもっかまれないが、また任意に作りだされたり、想 定されたりすることも許されないからである。それゆえ、理力を演繹する原理となるということが現われた。この能力は 性の理論的使用においてそれを想定する権利をわれわれに与経験の証明しえないものではあるけれども、理論理性が ( 理 えるのはただ経験だけである。ア・プリオリな認識の源から性が自分自身と矛盾しないように、理性の宇宙論的理念の中 に無制約なものをその因果の上からいって見つけるために ) 演繹する代りに、経験的な証明を引用するというような代用 品は、だが、純粋実践理性能力に関してはこの場合われわれ少なくとも可能ではあるものとして想定せねばならなかった ものである。つまりそれは自由の能力である。自らを弁護す から拒まれている。というのは、自らが現存するという証明 る理由を必要としない道徳律は、自由に関してはその可能性 の根拠を経験からとってくることのできるものは、その可能 だけでなく、その現実性をも存在者において証明する。そし の根拠からいって経験の原理に依存していなければならな い、が、純粋ではあるが実践的な理性はすでにその概念ゆえてこの存在者はこの道徳律に対し自分が義務を負うているこ
も、死後における人格の存続または非存続についても、われなわち、証明されねばならぬものの直接的な経験的提示によ われの全理論的認識能力による思弁的根拠からは認識を拡張「てなされる証明であれ ( 対象の観察あるいは実験による証 する規定的判断が断じて可能でないということである。した明の場合のような ) 、あるいは理性によって先天的に原理か がってここでは、一切のことがらが実践・必然的見地におけらなされる証明であれ、すべてそれは説服するものではな るわれわれの存在の目的論的判定と、理性によって絶対的に 確信させるもの、あるいは少なくとも確信に導くもので われわれに課せられた究極目的に必要とされる制約として なくてはならぬということである。すなわち、論拠なり推論 の、われわれの死後の存続の想定とに、委ねられるのであなりは、賛同を単に主観的 ( 直感的 ) に規定する根拠 ( 単な る。そこでつぎのような効益も同時にここに示される ( これる錯覚 ) なのではなく、客観的に妥当的であって認識の論理 は一見すれば損失のように思えるものであるが ) 。すなわ的根拠であるということである。なぜなら、そうでなければ ち、神学がわれわれにとって決して神智学となりえないよう悟性は籠絡はされても説得はされないからである。自然神学 に、合理的心理学も断じて認識を拡張する科学としての霊魂において挙げられるところの証明は、恐らく意図において良 学となりえないのと同様、他方ではそれが唯物主義に堕しな いとしても、故意にその弱点を隠蔽しつつなされるところの、 いことが保証されていること、合理的心理学は、むしろ単に そうした錯覚的証明の種類に属している。自然神学は、諸々 内的感官の人間学、 いいかえれば現実の生活における思惟的の自然事物の起源の証拠となるあまたの例証を目的の原理に 自我の知識なのであって、理論的認識としては単に経験的な したがって持ちだし、人間理性の単に主観的な根拠を利用す 科学にとどまること、これに反してわれわれの永遠の存在に るものである。すなわち、矛盾を冒さずになされさえすれば、 ついての問題に関しては、合理的心理学はまったく理論的科 多くの原理のかわりにただ一つの原理を採用し、ある概念の 学ではなく、道徳的目的論からの一つの結論に基づくもので規定に必要とされる条件の一つ、もしくは若干のものがこの あり、この心理学のあらゆる使用も、われわれの実践的規定唯一の原理のうちに見出されるならば、爾余の条件を付加し のために、単に道徳的目的論にとって必要であるに過ぎない て考え、このようにして恣意的な補足によって事物の概念を ということである。 完全にしようとするところの、人間理性に固有な性癖を利用 するものなのである。思うに、ある叡知的原因をわれわれに 九〇神の存在の目的論的証明における信憑の種 暗示するような多数の産物が自然のうちに発見される場合、 類について われわれはそうした原因として多くの原囚を考えるよりはむ およそどのような証明にもます要求されることがある。すしろただ一つの原因を考え、しかもその唯一の原因について
存在者に依存しそれに起源することについての、常識にも哲 研究するためのこうした導きの糸が採用され、験証されてい 学者にもひとしく妥当する唯一の証明根拠になるものであ る以上、われわれは上にいわれた判断力の格率を自然全体に る。したがって目的論は、その探究の極致を神学においての ついても少なくとも試みて見なければならないことは明白な ことである。なぜなら、自然機構の内部へのわれわれの洞察ほかには見出しえないのである。 ところで完成の極点に達した目的論が、結局証明するのは には制限が存するために、そういう試みなしには永久にわれ われから隠されたままであるかも知れないような幾多の自然どういうことがらであろうか。そのような叡知的存在者が存 法則が、その格率に照らして見出されうるでもあろうからで在するということであろうか。否、その証明するところは、 ある。しかしながらこのような使用に関しては判断力のそのわれわれの認識能力の性質上、したがって経験が理性の最高 格率は有利ではあっても不可欠なものではない。なぜなら自原理に結合される場合、意図的に働く至高の世界原因を考え る以外に、われわれはそのような世界の可能については断じ 然は全体として有機的に組織されたもの ( 上に示された、こ て概念を構成しえないということに過ぎない。それゆえにわ の言葉の最も狭い意義において ) としては与えられていない からである。これに反して、単にその内的性質について経験れわれは「叡知的根源存在者がある」という命題を客観的に 認識を獲得しうるためにさえ、これこれの形態を与えられて証明することはできないのであって、かえって至高原因の意 いて他の形態でないということが意図によるとしか判定され図的因果性の原理以外にどのような原理にしたが「ても考え えないような自然産物に関しては、反省的判断力のその格率られないような、自然における諸々の目的に関して反省する は本質上必然的なのである。なぜなら、そうした事物を有機場合の判断力の使用のために、ただ主観的に証明しうるだけ 物として考えることすらも、意図による産出なる思想をそれなのである。 と結びつけずには不可能であるからである。 もし上の命題を目的論を根拠として独断的に証明しようと ところである事物の存在あるいは形態が、ある目的の制約するならば、われわれは脱し難い困難に巻き込まれるであろ のもとでだけ可能と表象される場合、そうした事物の概念う。というのはその場合、こうした推論には、「世界のうち は、この事物の偶然性 ( 自然法則の上から ) の概念と不可分の有機体は、意図的に働く原因によるほかに可能でないー 批 いう命題が根柢に置かれなくてはならぬからである。ところ 断的に結ばれている。したがって、目的としてだけ可能である として知られる自然事物は、世界全体の偶然性に対して、最でそれらの事物の因果的結合は、目的の観念のもとにだけ追 もすぐれた証明となるものであり、また世界全体が、世界外求され、その合法則性が認識されうるのであるから、われわ の存在者、しかも ( そうした合目的的形態のゆえに ) 叡知的れはまたこれを、あらゆる思惟し認識する存在者に関しても
たるまでーー・・生じさせえないということである。 者においては、証明は、規定的判断力に対して十分な原理に 一、普遍から特殊へ進む論理的に正確な証明に関していえ 基づき、後者においては単に反省的判断力に対して十分な原 ば、批判〔純粋理性批判〕において十分に次のことが示され 理に基づいている。後者の場合、証明は、単に理論的原理に 基づいたものとしては、決して確信を生ずる働きはない、し輒 たのである。すなわち、自然を超えて求められねばならぬよ かし実践的理性原理が根柢にあるならば ( この原理はしたが うな存在者の概念には、われわれに可能などのような直観も って普遍的に、かっ必然的に妥当する ) 、純粋な実践的見地 対応しないがゆえに、したがってこうした存在者の概念が総 において十分な確信、すなわち道徳的確信を要求することが合的述語によって理論的に規定されねばならないというかぎ できる。しかしまた、証明が単に確信への途上において行な り、その概念はわれわれに対してどこまでも問題的概念にと われるならば、 いいかえれば、その証明に含まれる根拠が確どまり、この存在者のどういう認識 ( われわれの理論的知識 信への単なる客観的根拠であって、いまだ確実性にとっては の範囲がいささかでもそのために拡張されるような ) もまっ 十分でないにしても、単に判断の主観的根拠として説服に役たく得られないということである。かっ超感性的存在者につ 立つだけといった種類のものであるのでなければ、その証明 いての特殊な概念は事物の本性に関する普遍的原理のもとへ はいまだ確信させなくても確信を生ずる働きをもつ。 包摂せられ、後者から演繹されることはできない。な。せな あらゆる理論的論拠はつぎのいずれかにとって十分なもの ら、そのような普遍的原理は、単に感官の対象としての自然 である。すなわち第一に、論理的に厳格な三段論法による証にとってのみ妥当するものであるからである。 明、でなければ第二に比論による推論、さらにそれでなけれ 二、同種でない二つの事物については、われわれはその同 、、 ( 原注三六 ) ば第一二に蓋然的意見、それとも最後に最小限度として第四の種でない点において、一一者の一方を他方との比論にしたが 0 場合は、単に可能的説明根拠の想定すなわち仮説にとって。 て推考する〔考える〕ことはできる。しかし、一一者が相違し さてわたくしの主張することは、神としての根源存在者ているその点に基づいて、一方から他方を比論によって推理 の実在に関する命題がーー根源存在者というこの概念の完全する〔結論する〕ことはできない、すなわち、それらの特 な内容に適合した意味で、すなわち世界の道徳的主宰者とし性的差異の特徴を一方から他方へ移すことはできない。たと て、したがってその概念によって同時に造化の究極目的が挙えば、物体相互間の牽引と反撥において、作用、反作用が等 述されるような仕方でーー証明されるべきであるならば、一 こして、権利の規則にしたがう協同体 しいという法則を比論冫 般に理論的確信を意図するあらゆる論拠は、ここに述べられ輒の成員の社会的関係は考えられる。しかし前者〔物体〕に特 性的な規定 ( 物質の牽引または反撥 ) をば後者へ移して、国 た種類の信憑のどれをもーーその最高程度から最低程度にい
合事物が自然目的として説明されるにあたり機械的関係の原理が目的論的原 理へ必然的に従属することについて ^ 一自然目的が自然産物として説明される場合に機械的関係が目的原理に随伴 することについて : 公一有機体の外的関係における目的論的体系について・ 一つの目的論的体系としての、自然の最後の目的について・ : 八四世界の存在すなわち造化そのものの究極目的について 会自然神学について : 殳倫理神学について : ・ 0 神の存在の道徳的証明について 公道徳的証明の妥当性の制限・ : 兊道徳的論証の効益について 九 0 神の存在の目的論的証明における信憑の種類について : 九一実践的信仰による信憑の種類について : ・ 目的論への総注 : 訳注・ : 注 注・・ ・三四一 ( 三四九 ・三五三 三老 三五九 : 三六四 : 三套 三六八 ・三七三 三天 : 三合 ・四 00
実に基づきうるか、それとも単に実践的認識冫 こ対する信仰とちに見出されると信ぜられたのであって、かくして二つの形 ワ 1 してそれに基づきうるかということに過ぎない。すべて事実而上学的証明が生まれたのである。 は、自然概念に属するか、でなければ自由概念に属し、前者は 単に形而上学的な自然概念を根柢とするところの ( 本来の その実在性を、あらゆる自然概念以前に与えられた ( あるい いわゆる本体論的 ) 証明は、あらゆるもののうち最も実在的 は与えられうる ) 、感官の対象について証示し、後者は理性な存在者の概念から、この存在者の絶対的に必然的な実存を の因果性によって可能な、感性界におけるある種の結果 ( そ推論したのである。なぜなら ( そのいうところは ) 、もしこ うした存在者が実存しないとすれば、それには一つの実在 の結果は理性が議論の余地もなく道徳律のうちに要請してい るものである ) に関し、理性の因果性によってその実在性を性、すなわち実存が欠如するであろうからである。ーー・他方 十分に証示する。ところで自然概念 ( 単に理論的認識に属すの証明 ( 形而上的・宇宙論的証明とも呼ばれる ) は、何らか る ) は、あるいは形而上学的であって、まったく先天的に思の事物の実存 ( ある存在がわれわれの自意識のうちに与えら 惟されうるものであるか、あるいは自然的すなわち後天的でれている以上そうしたものは許容されねばならない ) の必然 あって、規定された経験をとおしてのみ必然的と思惟されう性から、あらゆるもののうち最も実在的な存在者としての、 るものである。したがって、形而上学的自然概念 ( 何らの規その存在者の完全な規定を推論したのである。なぜなら、一 定された経験をも前提しないところの ) は本体論的である。 切の実存するものは完全に規定されていなければならない 根源存在者の概念からの、神の存在の本体論的証明は、根 が、絶対に必然的なるもの ( すなわちわれわれが絶対に必然 源存在者がそれによってのみ完全に規定的に思惟されうるよ的なものとして、したがって先天的に、認識すべきもの ) は うな本体論的述語から、神の絶対・必然的存在を推論するもそれ自身の概念によって完全に規定されていなければならな のであるか、そうでなければ、何らかの事物 ( どのようなも 、しかもこの種の完全な規定はあらゆるもののうち最も実 のであれ ) の存在の絶対的必然性から、根源存在者の述語を在的なものの概念のうちにしか見出されないからである、 推論するものかである。なぜなら、根源存在者の概念が他か〔と論ぜられる〕。これら二つの推論に存する詭弁を暴露する姻 ら導出されたものでないためには、その概念のうちに、この ことはここではその必要はなく、それは既に他の場所におい 存在者の存在の無制約的必然性と、そして ( この必然性を表てなされている。ただ注意しておかねばならないことは、こ 象するために ) この存在者の単なる概念による完全な規定が のような証明は、たとえあらゆる種類の弁証論的技巧によっ 含意されているからである。さてこの二つの要求は、あらゆて弁護されうるとしても、学院の門を出て一般社会へ移行 し、素朴な健常の悟性へいささかなりと影響を与えることは るもののうち最も実在的な存在者の本体論的理念の概念のう ( 五三 )
して推論が引き出されうるのであって、でなければそれらは定して、一つの認識 ( それは実践的見地においてのみ可能な われわれからまったく隠された存在なのである。 ものであるが ) を形づくりうるような一つの原理をわれわれ そこで、神と不死とを単に理論的な途によって証明しようの内にもつのである。こうした原理を得ることは、単なる思 とする意図が失敗に帰した理由は、この途 ( 自然概念の途 ) 弁的哲学が絶望せざるをえなかったところである。 ( 思弁的 によっては超感性的なものについてまったく何らの認識も可哲学は自由について単に消極的概念をしか与えなかったので 能でないということに存している。これに反して、これが道ある ) 。したがって自由の概念は ( あらゆる無制約的・実践 徳的な途 ( 自由概念の途 ) において成功する理由は、すなわ的法則の基礎概念として ) 、あらゆる自然 ( 理論的 ) 概念が ちこの場合に根柢となる超感性的なもの ( 自由 ) は、その超感絶望しつっそのうちに拘東されていなければならないような 限界を超えて、理性を拡張しうるのである。 性的なものに発する因果性についての規定的法則によって、 他の超感性的なもの ( すなわち道徳的究極目的とその実現性 の制約 ) の認識に資料を供するだけでなく、またそれの実在 性を事実として行為のうちにも証示するということである、 もとよりそれは、まさしくこの理由によって、実践的見 目的論への総注 地 ( しかもこれが宗教の要求する唯一の見地である ) を外に しては妥当な証明根拠を供給することはできないが。 単に実践的に純粋な理性に対する信仰の事柄として神の在 ここではなはだ注意に値することは、神、自由、不死の一一一在を証明する道徳的論証が、哲学における爾余の論証の間に いかなる等級を保つか、と問われるならば、哲学が獲得した つの純粋な理性理念のうち、自由の理念だけが、その客観的 実在性を ( この概念のうちに考えられる因果性を媒介とし全内容を念頭より去ることは容易である。このとき明らかに て ) 、それによって自然のうちに可能なる結果をとおして自示されることは、われわれはここでは選択の余地をもたず、 然について証明し、まさにこのことによって他の二つの理念理性の理論的能力は偏見なき批判を前にしてその要求を一切 批と自然との連結を可能にし、さらに三つの理念を連結して宗自発的に放棄しなければならないということである。 信憑がまったく無根拠であるべきでなければ、それはこと 断教へと結成することを可能にするところの、超感性的なもの ごとくまず第一に事実を基礎としなければならない。したが の唯一の概念であることである。これによってわれわれは、 って諸々の証明に存しうる唯一の区別は、事実から引き出さ われわれの内なる超感性的なものの理念を規定し、このこと によってまたわれわれの外なる超感性的なものの概念をも規れた帰結への信憑が、理論的認識に対する知識としてその事