趣味判断 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想11 カント<下>
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1. 世界の大思想11 カント<下>

182 するのであるが、しかもなお彼らは趣味を持つべきであると 八満足の普遍性は趣味判断にあっては単に主観 要求する、そしてこの限りにおいてわれわれは「各人は各人 的なものとして表象せられる このようにいうこと に固有な趣味をもっ」とはいいえない。 趣味判断に見出される、美〔直感〕的判断の普遍性のこう は、趣味というものが全然存在しないこと、つまり、すべて いう特殊な規定は、なるほど論理学者にとってではないにし の人の同意を正当に要求しうるであろうような美〔直感〕的 ても、先験哲学者にとっては一つの注意に値することがらで 判断が存在しない、というのと同様な意味となるであろう。 とはい「ても快適なものに関しても、これを判定する上にあり、この普遍性の根源を発見するためには先験哲学者の少 なからぬ煩労が要求されるが、またそのかわりこの分析がな 人々の間に一致の見出されることがあり、この一致を考えに おいて、われわれは、ある人には趣味を否認し他の人には許ければ知られずにおわ「たであろうところの、われわれの認 識能力の一つの性質を明るみにもたらすものである。 容する。それも、この趣味を身体感官としての意味において まず第一に十分確信しておかねばならぬことは、趣味判断 ではなくて、快適なもの一般に関する判定能力としての意味 ( 美しいものに関する ) によっては、或る対象についての満 に解してそうすることがある。たとえばさまざまの快適さ 足が概念に基づくことなしにあらゆる人から強要される ( と ( あらゆる感官による享楽の ) をもって客人たちすべてが満 いうのは概念に基づくならそれは善いものであろうから ) と 足するようにもてなす人は趣味を持っといわれる。しかしこ いうこと。また普遍妥当性へのこの要求は、よってもってわ こでは、普遍性は単に比較的な意味のものとして考えられて いるまでであり、ここに存する規則は単に一般的なもの ( 経れわれがあるものを美しいと言明する判断に、本質上属して いるのであるから、普遍妥当性を同時に考えることなしに 験的規則のすべてがそうであるような ) であって、美しいも は、美という言葉の使用は決して何びとの考えにも浮かんで のに関する趣味判断が取扱い、あるいは要求する普遍的規則 なのではない。それは経験的規則に基づくかぎりにおける社幻こず、かえってこのとき概念をはなれて満足を与える一切の 交性、にかかわりをもっ判断なのである。善いものに関してものは快適なものに数えられるということ。そして、快適な も、判断はたしかに各人に対する妥当性を正当に要求するのものに関しては何びとも各人各様の意見を持っことをゆるし であるが、善いものはひとり概念をとおして普遍的満足の客ており、美に関する趣味判断においてつねに見られるところ の、自己の趣味判断との一致が他人に期待されることはない 体として表象せられるのであって、このことは快適なもの、 ということ、がそれである。前者は単に私的判断を、後者は 美しいもののいすれの場合にも見られないことである。 一般妥当的 ( 公共的 ) と仮託された判断を下すものーーーただ

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を、証明根拠としての規定された概念にしたがってなそうと 五七趣味の一一律背反の解消 望み、したがって客観的概念が判断の根拠として想定される 点において相違する。しかしこのこと〔客観的概念を判断の どのような趣味判断の根柢にも横たわる上の二つの原理 根拠として想定すること〕がなされえないと考えられるとこ ( それは、上に分析論のうちに提出せられた趣味判断の一一つ ろでは、論ずることもひとしくなされえないと判定される。 の特質にほかならない ) の矛盾を除く可能性は、この種類の これら二つの常套語の間になお一つの命題がなくてならぬ 判断において客体の関係させられる概念が美〔直感〕的判断 ことは容易に知られるところであって、それは〔前命題のよ 力の二つの格率において同じ意味に取られてはいないこと、 うに〕格一言的に通用してはいないが、何びとの心底にも存し 判定のそうした二重の意味ないしは見地がわれわれの先験的 ている。すなわち趣味に関しては争われうる ( たとえ論ぜら 判断力にとって必然的であること、しかもその一方を他方の れなくとも ) 、がそれである。しかしこの命題は最初の命題意味と混同することから起こる仮象も自然的錯覚として不可 の反対をふくんでいる。なぜなら、争うことの許されねばな 避であること、を証示する以外にはな、。 らないものについては相互に一致しうる希望も存しなくては 趣味判断は何らかの概念に関係しなければならない。でな ならず、したがって、単に私的妥当性をもつのでもなく、単くてはあらゆる人に対する必然的妥当性を要求することは絶 に主観的でもないところの判断の根拠を恃みとしうるのでな対に不可能であるであろう。だからといって或る概念から趣 ければならぬ。ところがこのことと、各人は各人に固有な趣味判断が証明されてよいのではない。なぜならおよそ概念は 規定されうるものであるか、あるいはそれ自体として未規定 味をもつ、という上の原則とは正反対である。 したがって趣味の原理に関してつぎの二律背反が現われ的であり同時にまた規定されえないものであるかのほかない る。 からである。悟性概念はそれに対応しうる感性的直観の述語 によって規定しえられ、第一の種類のものであるが、あらゆ 一、定立趣味判断は概念に基づかない。なぜなら、もし る感性的直観の根柢に横たわる超感性的なものについての先 基づけば趣味に関しては論ぜられうる ( 証明によって決定さ 験的理性概念は第二の種類の概念であって、したがってより 批れうる ) であろうから。 進んでは規定されえない概念である。 断二、反定立趣味判断は概念に基づく。なぜなら、基づか ところで趣味判断は感官の対象に関わるが、それは、そう ねば趣味の相違にもかかわらず、なおこれについて争う ( 他 の人々がこの判断と必然的に一致することを要求する ) 余地した対象の概念を悟性に関して規定するためではない。とい うのは趣味判断は認識判断ではないからである。趣味判断は すらもないであ , つうから。

3. 世界の大思想11 カント<下>

196 もなく、美が完全性を利するのでもないのであって、よって 一七美の理想について もってある対象の与えられる表象をある概念によって客体と 何が美であるかを概念をとおして規定するであろうような ( この客体がどのようなものでなければならぬかに関して ) 比 較するとき、われわれは同時にその表象を主観における感覚客観的な趣味規則は存しえない。なぜならばこの源泉からお こる一切の判断は直感的であるからであり、つまりその判断 と並置対照せざるをえないという理由のため、これら二つの 心情状態が調和するときには、われわれの表象力の能力が全を規定する根拠は主観の感情であって、客体の概念ではない からである。美しいものの普遍的標識を、規定された概念を 体として利することになるのである。 ある規定された内面的目的をもった対象に関して趣味判断とおして挙述するであろうような趣味の原理を求めようとす るのは空しい努力である。なぜなら求められるものは不可能 が純粋であるのは、判断者がこの目的について概念をもたな なものであり、それ自体として自己矛盾的なものであるから いか、それともその判断のうちでこれを捨象するときだけで あろう。しかしそのときその判断者は、対象を自由な美としである。感覚 ( 満足または不満足の ) の普遍的可伝達性、し かも概念の助けを借りないで成りたっ可伝達性、すなわち、 て判定したのであり、したがって正しい趣味判断を下したの であるにかかわらす、対象についての美をば単に随伴的性質一定の対象の表象におけるこの感情に関して可能なかぎりの として考察する ( 対象の目的に着目する ) 他の判断者からはあらゆる時代と民族との一致は、このように実例によ「て 非難をうけ、似て非なる趣味を咎められることもあろう。も確証された趣味が、すべての人間に共通な深く隠された根拠 ーー諸々の対象が人間に与えられるときの形態が判定される っとも両者ともそれそれの流儀において正しく判断してはい るのである。すなわち一方は、その感官の前に持つものにし場合に見られる一致の根拠ーーから由来したことの経験的標 たがって判断しており、他方は想念のうちに持つものにした識 ( それは微弱で、ほとんど臆測を立てる上にも十分なもの とはいえないが ) なのである。 がって判断しているのである。このように区別することによ この理由のためにわれわれは趣味の若干の成果を典型的 ってわれわれは、美についての趣味批評家たちの間に見られ exemplarisch と見なすのであるが、その意味は他を模倣す る論争の多くを落着させることができる。すなわち一方の側 は自由美を、他方の側は随伴美を固守しており、前者は純粋ることによって趣味が得られうるというのではない。なぜな らば趣味はそれ自身固有な能力でなければならぬからであ な趣味判断を、後者は応用された趣味判断を下していること る。ところが典型を模倣する人は、典型に合致するかぎりで を、彼らに示しうることによって。 は熟練を示すけれども、趣味を示すのは、ただ彼がこの典型

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ばれるに値しているにかかわらず、大多数の人によってそれ る誤解なのである。 魅力と感動とにすこしも影響を受けず ( たとえ魅力と感動自体に美しいと言明される。しかし色の感覚も音の感覚も、 いずれも純粋であるかぎりにおいてだけ、美しいと見なされ とが美しいものについての満足へ結合されることはありえて も ) 、したが 0 て単に形式の合目的性を規定根拠とする趣味る資格を認められることは同時に注意せられるところであろ う。このことは確かに形式にかかわる規定であり、またこれ 判断は、純粋な趣味判断である。 らの表象について確実に普遍的に伝達されうる唯一のもので 一四実例による説明 ある。なぜならば感覚そのものの性質があらゆる主観におい て一致するとか、またある色の快適性がとくに他の色に勝る 美的判断は、理論的 ( 論理的 ) 判断と同様、経験的〔美的〕 とか、ある楽器の音の快適さがある他の楽器の音よりも優れ 判断と純粋〔美的〕判断とに分かたれうる。前者は、ある対 象または対象の表象様式に 0 いて快適もしくは不快適を陳述ているとかが、あらゆる人の場合同一の仕方で判定されると は想定され難いことだからである。 し、後者はそれらについて美を陳述する判断である。前者は オイラーの意見にしたがい、音が空気の振動の響きである 感官判断 ( 質料的な美的判断 ) であ 0 て、後者のみが ( 形式 ように、色はエーテルが等時的に連続継起する振動 ( 搏動 的判断として ) 本来の趣味判断である。 またこの場合最も重要なこ したが「て趣味判断は、単なる経験的満足がそれを規定す「巳。 = 。 ) であると想定すれば とは心情が単に感官によって、器官を刺激するそれらの結果 る根拠に混人されないかぎりにおいてのみ、純粋である。し かしこうした混人は、あるものがそれによ「て美しいと言明を知覚するだけでなく、同時に反省によ 0 て、それらの印象 の合規則的活動を ( したが「て諸表象が結合せられる形式 さるべき判断に、魅力や感動のあずかるときにはつねに起こ を ) 知覚することである ( 実際わたくしはこれを疑わない ) ることである。 そうとすれば色と音は単なる感覚ではなく、確かに感覚 ところで、ここに、魅力を、ただに美に必要な成素となし てしまうばかりか、それ自身だけですでに美と呼ばれるに足の多様が統一せられる形式的規定であり、したが 0 てそれ自 りるとなすも 0 ともらしい抗弁がくり返しあらわれるのであ身美 ( 数えられてもよいであろう。 ところで単純な感覚様式の純粋なものとは、その感覚の等 る。すなわち、たとえば芝生の緑のような単なる色や、ヴァ イオリンの音のような単なる音 ( 響き、雑音と区別された ) 形性が異質的感覚によ 0 て妨害、中断されぬことを意味し、 はいすれも単に表象の質料を、すなわちただ感覚を、根柢と単に形式に属するものである。なぜならこの際その感覚様式 しているように見え、そしてその理由によ 0 て単に快適と呼の性質 ( その感覚がいやしくも色や音を代表するとすれば、

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これによっては客体における何ものもまったく表示せ 第一部美〔直感〕的判断力の批判 られず、かえって、そこでは主観が、表象をとおして感触せ られるままに、自己みずからを感ずるのである。 原注四ここに根柢とされる趣味の定義は、趣味とは美しいものを判定する 第一篇美〔直感〕的判断力の分析論 能力である、ということである。ところがある対象を美しいと呼ぶために必 要とされるところのものは、趣味の判断の分析が発見しなければならない。 この判断力がその反省において顧慮する諸契機を、わたくしは判断作用の論 理的機能の嚮導にしたがって探求した ( なぜなら趣味判断のうちには悟性へ 第一章美の分析論 の関係がともかくふくまれているからである ) 。まず第一に質の契機を考察 した理由は、美しいものに関する美〔直感〕的判断はまずこれに顧慮を払う からである。 原注四 趣味判断の第一契機ーー質の上からの 規則正しく、目的にかなった一つの建築物を認識能力をも って把握することは ( 表象の仕方が明晰であろうと混乱して 一趣味判断は美〔直感〕的である いようと ) 、この表象を満足の感覚をもって意識しているこ ととはまったく異なったことである。そこでは表象はひとえ 或るものが美しいか否かを区別するためには、われわれは に主観へ、それも快または不快の感情の名で呼ばれる主観の 表象を認識の目的で悟性をとおして客体にかかわらせるので生命感情へかかわるのであ「て、このことは、認識に対して はなくて、かえ 0 て構想カ ( 恐らく悟性とも結合された ) をと少しも寄与することなく、単に所与の表象を主観のうちで、 おして、主観とそれの快または不快の感情とへかかわらせる 4 心情が自己の状態を情感しながら意識する表象の能力全体と のである。趣味判断はしたがって認識判断ではなく、したが 対比するという、一つのまったく特殊な、区別ならびに判定 ってまた論理的 logisch ではなく、美〔直感〕的ästhetisch の能力の基礎となるものである。判断において、与えられ 判断なのであるが、美〔直感〕的という語のもとに理解せら た表象は経験的 empirisch ( したがって直感的 ) であること れるのは、その規定根拠が主観的でしかありえないところの ができるが、しかしその表象を媒介として下される判断は、 ものである。しかし表象のもつあらゆる関係は、感覚のそれ表象が判断において単に客体へかかわるに過ぎないならば、 ですら、客観的であることができる ( そしてこの場合、関係論理的である。ところが逆に、所与の表象がたとえ合理的 の意味するものは経験的表象における実在的なものである ) 。 rat 一 ona 一でさえあったとしても、判断においてひとえに主観 ただ快と不快の感情への関係だけは客観的であることはでき ( 主観の感情 ) にかかわるのであれば、判断はそのかぎりつ

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八満足の普遍性は趣味判断にあっては単に主観的なものとして表象せられる一公一 九趣味判断における快の感情と対象の判定との先後に関する問題の研究 : : : 一会 趣味判断の第三契機ーー趣味判断において考察せられる目的の関係にしたがって 一 0 合目的性一般について 一一趣味判断の唯一の根柢はある対象 ( あるいはその表象様式 ) の合目的性の 形式である : ・ 一一一趣味判断は先天的な諸根拠に基づいている・ : 一三純粋な趣味判断は魅力と感動とに独立している 一四実例による説明 一五趣味判断は完全性の概念とはまったく独立である 一六ある規定された概念の制約のもとに、対象を美しいと言明する趣味判断は 純粋ではない 一「美の理想について : ・ 趣味判断の第四契機ーー対象についての満足の様態の上からの : ・ 一〈趣味判断の様態とは何であるか・ : 一九われわれが趣味判断に付与する主観的必然性は被制約的である : ・ ゲマインジン 一一 0 趣味判断のあえて主張する必然性の制約は共通感官の理念である : ・ 一一一共通感官なるものを前提しうる根拠があるか : ・ 一三趣味判断において考えられる普遍的同意の必然性は、共通感官というもの の前提のもとに客観的として表象される主観的必然性である : ・ 分析論第一章への総注・ : 第一一章崇高なものの分析論 : ・ 一一三美しいものの判定能力から崇高なものの判定能力への移行 : ・ 一一四崇高の感情を研究する上の区分について 一一 0 三 一九四 ・一九六 一兊

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的に一致することの ) の普遍性から推論されることはできな ったく原理を欠いているならば、そうした判断の必然性は何 い。なぜなら、経験はこれに対して十分多くの証拠を提供すびとの考えにも浮かぶことはないであろう。それゆえ趣味判 ることが困難であろうし、そればかりか、この判断の必然性断は概念によってでなく、単に感情によって、しかも普遍妥 の概念は経験的判断に基づきえないものだからである。 当的に何が満足を与え何が満足を与えないかを規定するとこ ろの、ある主観的原理を持たなくてはならない。ところでそ 一九われわれが趣味判断に付与する主観的必然 うした原理は共通感官としか見なされえないものであろう 性は被制約的である が、この共通感官は、往々共通感官 (sensus communis) 〔常 趣味判断はあらゆる人から同意を強要する。そして、ある識〕とも呼ばれる普通の悟性とは本質的に区別せられている ものを美しいと言明する人は、目前におかれたその対象に対のであって、後者は感情にしたがってではなく、かえってつ してあらゆる人が同意を与え、彼と同様にそれを美しいと一一一一〔ねに概念 ( もっとも普通は単に漠然と表象された原理として 明すべきことを欲する。それゆえ直感〔美〕的判断における の概念であるが ) にしたがって判断しているのである。 当為は、判定に要求せられるあらゆる与件をもってしても、単 それゆえ共通感官なるものが存することを前提としてだけ に被制約的に言明せられるに過ぎないのである。われわれは ( とはいえこれによってわたくしは何らの外的感官をも意味 あらゆる他人の同意を得ようと願う。なぜならわれわれはそするのではなく、われわれの認識諸力の自由な活動からの結 れに対してすべての人に共通なある根拠をも「ているからで果を意味するのであるが ) ーーそうした共通感官を前提とし ある。そして、その場合が、同意の規則としてのその根拠のもてだけ趣味判断は下されうる、とわたくしはいうのである。 とへ正しく包摂されていることを確信しさえすれば、われわ 二一共通感官なるものを前提しうる根拠があるか れはこういう同意を当てにすることもできることになろう。 認識ならびに判断は、それらにともなう確信とともに、普 二〇趣味判断のあえて主張する必然性の制約は 遍的に伝達されうるものでなければならない。なぜなら、そ 共通感官の理念である 判 うでなければ客体との合致ということが認識や判断に属しな 趣味判断が ( 認識判断と同様に ) 規定された客観的原理を くなり、それらはことごとく、まさしく懐疑論の主張するよ もっているとすれば、この原理にしたがって趣味判断を下すうな、表象諸力の単なる主観的活動に過ぎぬものとなるであ 人は、自己の判断の無制約的必然性を要求するであろう。ま ろうからである。ところが認識が伝達さるべきものであるな たもし趣味判断が単なる感官趣味の判断のように、およそま らば、その心情状態も、いいかえれば認識一般にむかっての ゲマインジン

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のである。しかし趣味判断の特質は、趣味判断が単に主観的妥互の間の主観的合目的性を実例の分析によって解説するため 当性をもつだけであるにもかかわらず、かりにそれが認識根であ「て、所与の表象における合目的性の形式がそうした判 拠に基づき証明によって強取されうるであろうような客観的断の対象の美であることは、上に示されたところである。し 判断であるとしたとき、つねに起こりうるように、ちょうどそ たがって趣味そのものの批判は、客体がそれによってわれわ のようにあらゆる主観の賛同を要求することに存している。 れに与えられる表象に関して、単に主観的である。すなわち 趣味批判とは、所与の表象における悟性と構想力の交互の関 三四趣味の客観的原理というものは可能でない 係を ( 先行する感覚や概念に関してでなく ) 、したがってこ 趣味の原理といえば、ある対象の概念をその制約へ包摂の両能力の調和もしくは不調和を、規則へ還元し、両能力を調 和や不調和の制約に関して規定する術あるいは科学なのであ し、ついで推論によってこの対象の美しいことを推知しうる る。このことを単に実例について示すときそれは技術であり、 であろうような原理が理解されるでもあろう。しかしこれは またそういう判定の可能を、認識能力一般としてのそれらの 絶対に不可能である。なぜならわたくしはこの対象の表象に 能力の本性から演繹するときそれは科学である。われわれが ついて直接に快を感覚しなければならないのであって、快は ここで取扱わねばならぬものは、ひたすら先験的批判として 証明理由からの議論によってわたくしへ押しつけられうるも の後者だけである。それは趣味の主観的原理を判断力の先天 のではないからである。したがって、ヒュームのいう通り、 批評家は料理人よりももっともらしく理窟を捏ねることはで的原理として展開し、その権利根拠に是認を与えねばならな い。技術としての趣味批判は、趣味がそれに則って現実に働 きても、その運命は一様である。批評家は彼らの判断を規定 く自然学的 ( ここでは心理学的 ) な、したがって経験的な規 する根拠を証明理由のカからでなく、一切の指令と規則とを 斥けて、ただ主観自身の状態 ( 快または不快の ) に関する主則を ( それらの規則の可能に関して反省するのでなく ) 趣味の 対象の判定へ適用しようとするに過ぎないのであって、美的 観の反省から期待しうるだけなのである。 にもかかわらず批評家は、われわれの趣味判断を純化し拡芸術の作品を批判するのであるが、科学としての趣味批判は 大するのに資する推論をなすことができ、またなすべき論題そうした作品を判定する能力そのものを判定するのである。 をもっている。しかし、それはこの種の美〔直感〕的判断を 三五趣味の原理は判断力一般の主観的原理であ 規定する根拠を普遍的に使用されうる定式として提示するたⅢ る めではなく ( このことは不可能である ) 、こうした判断にお ける認識諸能力と、それらの働きとについて探究し、それら交 趣味判断が論理的判断から区別されるのは、後者はある表 ( 二二 ) 143 145

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断を模倣として言明すべきではなく、かえって判断を先天的 うした特徴ある性質をまず実例の解明をかりて説明したい。 に言明すべきであること、なのである。ところで先天的判断 三二趣味判断の第一の特質 は、それが認識されるための原理がその判断にふくまれてい るような客体、の概念をふくまねばならぬと考えられるであ 趣味判断はあたかもその判断が客観的であるかのように、 ろう。しかし趣味判断はまったく概念には基づかず、一般に あらゆる人の同意を要求し、満足に関してその対象を ( 美と 認識ではなくて、かえって単に直感的判断なのである。 して ) 規定する。 であるから若い詩人は、公衆や友人たちの判断によって自 「この花は美しい」というのは、ちょうど、あらゆる人の満足 分の詩が美しいという確信を捨てる気になるものではない。 を要求する花自身のロまねをしていうのと同じ意味である。 花はその香気の快適さによ「てはま「たくどのような要求をたとえ彼がそれらの人たちに聴従するとしてもそれは自己の するのでもない。香気はある人を悦ばせても他の人には頭痛判定が変「たからではなくて、全公衆が誤「た趣味をも「て いる ( すくなくとも彼の考えでは ) としても、それにもかか を起こさせる。さてこのことから、美は花自身の一つの性質 と見なされねばならぬものであり、この性質は人々の頭の異わらず常識の妄想を ( 自己の判断に反してすら ) 甘受する原因 なるにしたがい、またそれだけの数の感官の相違へ適従するを、賛同を欲する彼の欲望の中に見出すからである。彼が自 ものではなく、かえ「て後者が、この性質について判断しょ発的に以前の判断をはなれるのは、後にいたって彼の判断力 が錬磨によって一層鋭くされたときのことに過ぎす、それは うとするときそれに従わねばならぬ、とよりほかには推測し 彼が、まったく理性に基づくところの判断に、同意するときと 得られそうもない。しかも事情はそのようになってはいない のである。というのは趣味判断がある事象を美しいと呼ぶの同様である。趣味はただ自律を要求する。他人の判断を、自 に、われわれがその事象を受け入れる様式にかなう、それの己の判断を規定する根拠にすることは他律であるであろう。 人々が古人の作品を推賞して範型となし、その著者をば、 性状にしたがってのみ、美しいと呼ぶのであるからである。 自己の先例によって公衆に法則を与えるところの、作家中の さらに主観の趣味を立証すべきあらゆる判断に要求される 鮃ことは、主観は経験によ「て他の人たちの判断の間を模索一種の貴族にもひとしい古典的作家と呼んでいることは、趣 カ し、同じ対象についての彼らの満足あるいは不満足に関して味の源泉が後天的であることを指示し、あらゆる主観のうち あらかじめ知らされている必要はなく、主観そのものが自存の趣味の自律を否定しているかに見える。しかしもしそうで 的に判断すべきであること、したがって主観は、ある事物があるならば、今日まで総合的方法の最高度の深遠さと優美さ 事実上一般に満足を与えるというようなことを理由に彼の判の不可欠な範型と見なされてよいところの古代数学者たちも

10. 世界の大思想11 カント<下>

んじ、単なる判定作用と直接に結ばれたものでなければならのとして ) 前提されうる主観的なものへ向けられたものに過 ぬ。したがってまた趣味判断はすべて単称判断である。なぜぎない。ゆえにある表象が判断力のこの制約と合致すること は、あらゆる人に妥当的なものとして先天的に想定されうる なら趣味判断は満足の述語を概念と結合するのではなく、か いいかえれば、快、すなわち感性的対 のでなければならぬ。 えって所与の、個別的、経験的表象と結合するからである。 したがって、趣味判断において判断力に対する普遍的規則象一般の判定における認識諸能力の関係に対する表象の主観 ( 原注一一一 ) として、あらゆる人に対して妥当的なものとして、先天的に的合目的性は、正当にあらゆる人に求められうるであろう。 原注一二美 C 直感〕的判断力の単に主観的根拠に基づく判断に対する普遍 表象されるのは快ではなくて、心情のうちに対象の単なる判 的同意を要求することが正当な根拠をもっためには、つぎのことが認められ 定作用と結ばれたものとして知覚されるこういう快の普遍妥 れば十分である。 ( 一 ) この能力〔判断力〕の主観的制約は、このとき働かさ 当性なのである。わたくしがある対象を快とともに知覚し判 れる認識諸力の認識一般への関係に関するかぎり、すべての人間において一 様である。このことは真でなくてはならぬ、なぜならそうでなければ、人間 定するというときの判断は経験的判断である。しかしその対 は自己の表象を、いな自己の認識をさえ伝達しえないことになるであろうか いいかえれば、その満足を必然的な 象を美しいと見ること、 ら。 ( 一 D 判断は単にこの関係を ( したがって判断力の形式的制約を ) 顧慮し ものとしてあらゆる人に求めうるという主張は、一つの先天 ただけであり、そして純粋である。詳しくいえばこの判断はその規定根拠と して客体の概念をも感覚をも混えたものではない。たとえ後の点に関して誤 的判断である。 謬が犯されたとしても、それは法則がわれわれに与える権能をある特殊の事 例へ正しく適用しなかったことに関するだけであって、これによって、その 三八趣味判断の演繹 機能一般が廃されるわけではない。 純粋な趣味判断においては対象についての満足が対象の形 注 態を単に判定することに結ばれている、ということが許され るならば、われわれが心情のうちにその対象の表象と結ばれ この演繹は、概念の客観的実在性の根拠をしめす必要をも ていると感覚するところのものは、判断力に対する対象の形たないのであるから、はなはだ容易である。なぜなら美は対 態の主観的合目的性にほかならない。ところで判断力は、 象の概念ではなく、趣味判断は認識判断ではないからであ 鰤判定の形式的制約に関していえば、あらゆる質料をはなれてる。趣味判断の主張するところは、われわれの内部に見出さ 断 ( 感覚をも概念をもはなれて ) 、単に判断力一般 ( それは特川れるのと同じ判断力の主観的制約を、普遍的にあらゆる人間 に前提してよいという理由がわれわれにあること、さらにわ 殊な感覚様式へも特殊な悟性概念へも制限されていない ) の 使用の主観的制約へ向けられたものに過ぎない。したがってれわれはこの制約へ所与の客体を正しく包摂したのであるこ と、だけなのである。ところでこの場合は、論理的判断力に また、すべての人間に ( 可能なる認識一般にとって必要なも