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検索対象: 世界の大思想12 ヘーゲル
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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

147 C 理性 知」には、「形式的念論の結果は、「統一のない経験と全く偶然な多 様という一つの領域が一つの空しい思惟に対立する』ことになる」〔三 二三〕とある。〔ラッソン編全集第一巻〕 ) 観察する理性 存在が意識自身のものという意味をもっている、と認める その意識は、ふたたび思いこみ ( 私のものとすること ) や知覚 に入って行くように思われるかもしれないが、その際、意識 は、他者にすぎないものを確信するようになったのではな く、自ら他者自身であるという確信をもつようになったので ある。前には、物において多くのことを知覚し経験するとい うことが、意識に ( なぜともわからぬままに ) 起ってくるだけで あったが、いまでは、意識は観察と経験を自分で行うように なった。思いこみや知覚は、かってはわれわれに対し自らを 廃棄したのであるが、いまは、意識によって意識自身に対し 廃棄されるのである。理性が目指しているのは、真理を知る ことであり、思いこみや知覚にとって物であるものを、概念 として見つけることである。すなわち、物の姿のなかに、そ のもの自身についての意識だけをえようとすることである。 だから理性は、自らのうちに現在をもち、現在が理性的であ ることを確信しているので、いまは、世界に対し一般的な関 心をもつようになった。理性は、物において自己自身以外に は、何ももっていないと知っていながら、自らの他者をもと めている。理性は自己自身の無限性をたずねているにすぎな 初め、理性は、現実のうちに自己を予感するだけであり、 183

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

だがこれと同時にこの判断は、現存する対立の解消に導く 告白することになる。というのも、この法則と良、いは、自分 の個別性と恣意の法則ではないとすれば、内なるもの、自己という別の側面をも「ている。一般者の意識は、初めの悪し き意識に対し、現実的なもの及び行動するものとして関係す のものではなく、一般に承認されたものだろうからである。 。というのも悪しき意識の方がむしろ現実的な だから、自分の法則と良心に従って、他人に反対する行動をるのではない ものだからである。そうではなく、行動のなかに現われる個 とっているのだというひとは、実際には、他人を不当に扱っ 別態と、一般態の対立にとらわれていないようなものとし ていることになる。だが、現実の良心は、一般者に対立する 知や意志をそういうふうに固執するのではなく、一般者を自て、悪しき意識に対立しているのである。一般的意識は思想 の一般態に止まっており、把握するものの態度をとってお らの定在する場としているのであり、良心の言葉は、その行 この判断によ り、その最初の行動は判断であるにすぎない。 為が承認された義務であることを言表している。 って一般者の意識は、たったいま言ったように、いま、初めて さればと言って、一般的意識が自分の判断を固執すること 悪しき意識と並ぶことになる、そこで悪しき意識は、この同 も、やはり、偽善の仮面をはぎ、それを解体することになる わけではない。一般的意識は、偽善に向 0 て、悪いとか下劣一性によ 0 て、もう一方の意識のうちに自分自身を直観する ようになる。というのも、義務の意識は把握する態度をと だとか宣言するわけだが、そう判断するとき自分の法則を引 、受動的であるが、そのために、義務という絶対的意志で き合いに出しているのだが、それと同じように、悪しき意識 も自分の法則を引き合いに出すわけである。というのは、一ある自分と、つまり、端的に自分自身から規定するものであ る自分と、矛盾することになるからである。この意識は純粋 般的意識も、悪しき意識に反対する結果、或る特殊な法則と な姿のなかに自分を保っているが、それは、行動しないから して現われることになるからである。だから、一般的意識は 少しも他方にまさ「ているわけではなく、むしろ他方を正当のことである。それは、判断を現実の行為と見てもらいたい という、また行動で示す代りに、すぐれた意向を言表するこ 神化しているのである。むきになる余り、自分がやろうと思い とによって、正義にかなっていることを証明しようという、 こんでいることの、ちょうど反対のことをやることになる。 つまり、自分が真の義務と呼ぶもの、一般に承認されている偽善である。だからこの意識も、義務をただ言説上のことと はずのものが、承認されていないものであることになり、そしていると非難された当のものと、全く同じ性質のものであ る。どちらの場合も、現実の側面を言説の側から同じように の結果、他方にも同じように自独存在の権利を認める、とい 区別している。一方は行動の目的が利己的である点で、他方 うことになる。

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

ら、そこに形式と内容の区別が現われてくる。内容という形 されたときになって初めて、意識は自ら概念把握する意識と をとるとき、両契機は、初めて現われたときのように、一方 なる。 では多くの存立する素材の一般的媒体であり、他方では、自 この結果は、無制約的一般であったが、さしあたっては、 己に帰った一として、素材の自立を亡ぼしてしまう、という 意識が自らの一面的な概念を否定し、それを捨象し、つまり 捨てたという意味で、否定的であり、抽象的である。だがこ外観をも 0 ている。前者は、物の自立性の解体であり、対他 有である受動性であるが、後者は自分だけでの有である。こ の結果は、そこに自分だけでの有と他者に対する有の統一が の二つの契機が、その本質である無制約一般性において、ど 措定されており、言いかえれば、絶対的対立がそのまま同一 の実在として措定されているから、自体的には肯定的な意味ういうふうに現われるかが、見られねばならない。まず明ら かになることは、両者がこの普遍性のなかにあるだけのこと をもっている。さしあたり、両契機相互の形式だけが問題で あるように思われる。だが、自分だけでの有と他に対する有で、とにかく、もはやばらばらになっていないということ、 かえって、本質的には両契機自身において有りながら、互い は同じように内容そのものである。というのも、ほんとう に廃棄し合う両側面であり、両側面の互いの移行だけが措定 は、この対立は、結果において生じてきた性質、つまり、知 覚において真と考えられた内容が、実際には、形式に帰属すされているということである。 だから、一方の契機は一方の側面に現われた実在として、 るものであり、形式の統一のなかに解消して行くものである 一般的媒体として、自立的な素材の存立として現われる。だ という性質以外に、性質をもっことはできないからである。 が、この素材の自立性は、いま言った媒体にほかならない。 同時にこの内容は一般的なものである。自らの特殊な性質の ために、無制約な普遍に帰って行く内容から退くような、そ言いかえると、この一般者はどこまでも、いま言ったように こういう内容は、自分だけで在自立的であると区別された一般者の多数態である。一般的な ういう・内・容はほかにはな、 ものが、それ自身において、この多数態と離れずに統一され り、他者に関係する或る一定の仕方で、存在するかもしれな しかしながら、自分だけであり、他者に関係するというているということは、だが、それらの素材の各々が、他方の ことは一般に、内容というものの本性と本質をなすものであ素材の在るところに在るということを意味する。素材は、互 り、その真理は、無制約的に一般的なものであるということ いに浸透し合うけれども、ふれ合うことがない。というのも 逆に、多数の区別された素材が同じように、自立的であるから である。そこで結果は絶対に一般的である。 である。これと同時にまた、それら素材の純粋な有孔態 ( 素 けれども、無制約な一般者は意識にとっての対象であるか

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

る限り、自らの生命を神のうちに隠したままにしているので くことになる。つまり良心は道徳上の天才であり、これは、 自らの直接知という内なる声が、神の声であると心得ておある。神はそのまま良心の精神とこころに、その自己に、現 り、やはりこの知においてそのまま定在を知るのだから、そ在してはいるものの、顕われたもの、その現実の意識とこれ を媒介する運動は、良心にとっては、隠れた内なるもの、現 の概念のうちに生命力をもっ神的創造力であることになる。 ( 天才時代、ロマン主義 ) この天才はまた自分自身のうちで神に在する実在の直接態とは別のものなのである。しかし良心が 奉仕している。というのは、それが行動することは、自分自完成すれば、抽象的自己意識と良心の自己意識を区別するも のは、なくなってしまう。そのとき良心が識ることは、抽象 身が神性であることを、直観することたからである。 この孤独な神への奉仕は、同時に本質的には、教団の神へ的意識がこの自己に、自らを確信する自独存在に、ほかなら ヤコービ、全集〔ラッソン〕 の奉仕であり ( シ = ライアマッハ ないということであり、自己の外におかれた抽象的なもので 一の三一〇ー三一三 ) 、純粋に内面に自己自身を知りその声をある、良心には隠されたものである自体と、自己との直接的 聞くことは、意識の契機へと進んで行く。自己を直観するこ関係のなかでは、ほかでもなく、相違が廃棄されているとい うことである。というのは、関係しているものが全く同じも とは、自己が対象的な定在になることであり、対象的な場は のではなく、互いに別のものであり、第三の中でのみ両方が 自己の知と意欲を一般的なものと言い表わすことである。か く言表することによって自己は妥当するものとなり、行動は 一つになるような関係は、媒介による関係であるが、ここに 実現さるべき行果となる。自己の行為を現実化し存立させる いう直接的な関係は、実際には、統一にほかならないからで のは、一般的自己意識であるが、自己の良心を言表することある。意識は、区別ならぬ区別を、まだ区別だと思っている は、自己自身の確信を純粋な、そのために一般的な自己とし無思想を超えているから、実在が直接自分のなかに現在して て立てることである。他人が行動を認めるのは、自己を本質 いることを、実在と自らが統一していると知っており、した として表現し承認するこの語らいのためである。だから、他 がって、自己が生きている自体であることを、自らのこの知 神 人を結ぶ精神と実体は、自分達が良心的であることを、自分達が宗教であることを知っている。この宗教は、直観されたっ の良き意図を断言し合うことであり、お互いの純真な姿を喜まり定在する知であるが、自らの精神について教団が行う語 らいである。 び合い、それほど優れていることを知り言表し、育て練らすこ かくてここにわれわれは、自己意識が、自らの最内奥に帰 とのすばらしさをみて、互いに元気になることである。この 良心は、その抽象的な意識をまだその自己意識と区別してい り、あらゆる外面が消え去っていることを知り、自我自我

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

この世間の制約を受けていたし、個々人に対する要求にして る。が、後の側面から言えば、その眼指しは、一方では自分 も、個々人としての自分のことだけを、気にかける悪、と認 にだけ向けられ、世界に対しては否定的であるが ( 純粋透見 ) 、 められるようなことに他ならないからである。しかし、世間 他万では、その眼指しはこの世界から離れて天に向けられ、 から遠ざかれという要求は、一般的個人性に向けられた場合世界の彼岸をその対象としている。 ( 信仰 ) には、理性が、自分の行きついた精神的な教養ある意識を、 自己復帰の第一の面においては、あらゆる事物の空しさ 再び捨て、個人性のいくつかの契機の富が拡まったのを、自 は、自己自身の空しさである、つまり自己は空しいのであ 然的なこころの単純な姿に再び沈め、自然とも無垢とも呼ば る。すべてを評価し、喋りまくるだけでなく、現実の固定し れる、粗野で狭い動物的意識に逆戻りする、という意味をも た実在 ( 国家権力と財富 ) や、判断の立てる固定した規定 ( 善悪、 エスプリ ちうるものではない。 ( ルソーが暗示されている。 ) この解体の要高貴下劣 ) やが、矛盾していることを、精神のある態度で語る 求は、教養自身の精神にのみ向いうるものであるが、これ、すべを心得ているのは、自独 ( 対自 ) 存在する自己である。こ は、その精神がその混乱から、精神として自分に帰り、もっ の矛盾こそは、それらの実在や規定の真理なのである。形式 と高い意識をうるためである。 上から考えれば、自己は、すべてのものが、自分自身と疎外 だが実際には、精神は、既に自体的には、この要求を実現関係にあることを、知っている。つまり、対自存在は自体存 している。意識が分裂しているのを、自分自身で意識し、自在から、思いこんだことと目的は真実から、更に対他存在が 分で表現しているのは、定在や全体の混乱やを、また自分自両者から、示されたものは、本来の思いこみや真のことがら 身を、嘲笑しているからである。同時にそれは、この混乱全や意図から、離れているのである。かくて自己は、すべての 体の響きが止むのを、なお聞きとっているのである。あらゆ契機が他の契機に対立していることを、一般にすべてのもの る現実と、あらゆる一定の概念との空しさ ( 「ラモーの甥しを、 が顯倒していることを、正しく言い表わすすべを知っている。 自分自身で聞きとるというのは、現実の世界が、二重の形で 自己は、各々のものが何であるかを、それがどのように規定 自分自身に帰る ( 反照する ) ということである。このことは、 されていようと、そのものが在る以上によく知っている。自 まず、このものとしての意識のこの自己において、次には、 己が実体的なものを知っているのは、実体的なものが自分で 意識の純粋一般性もしくは思惟において起る。前の側面から統一している不統一と、対抗との面からであって、一つであ 言えば、自分に行きついた精神は、現実の世界に眼指しを向るという面からではないから、自己は、実体的なものを、非常 け、史に、この世界を自分の目的とし、直接の内容としてい にうまく評価することを理解してはいるが、それを把握する

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

把握しているからである。そして同じように、 この道程を通現われてくる。そして他の真理と並んでではなく、唯一の真 らなかった人は、もしこの主張をその純粋な形できくなら理として現われてくる。理性がこのようにそのままで現われ ば、それを概念把握することはできない。というのは、具体てくるのは、理性にとって現前する存在を、抽象することで 的な形においてならば、その人は多分自分でそう主張するだある。がこの存在の本質と自体存在は絶対的な概念である、 ろうからである。 すなわち、それがそうなってきた運動である。意識は、自ら それゆえ、観念論は、これまでの道程をのべないで、ただを意識するようになる世界精神の或る段階に立っ度毎に、他 それを主張することで始まるから、やはり純粋の断言であ在つまり自らの対象に対する自らの関係を、異なった姿でき る。これは自己自身を概念把握していないし、自分を他に概めるであろう。どのようにして、世界精神が、その度毎に自 とのよう 念把握させることもできない。観念論は直接の確信を言い表らとその対象とを直接にみつけ、きめるか、或は、・ わすが、この確信には別の直接的な確信が対立する。だがこ にして自分だけで在るかということは、世界精神自らが既に の後の確信は前の道程で失われてしまっている。それゆえ、 そうなってきたものに、既に自体的に在るものに依存するこ 前の確信の断言とならんで、この後の確信の断言も同じ権利 とである。 を以て現われる。理性はすべての意識の自己意識に訴えて、 理性は、全実在であるという確信である。だがこの自体ま し、刀 我は我である、私の対象及び本質は我である、と言い、 たはこの実在性は、まだ全く一つの一般者、つまり、全実在 なる意識も、理性に対し、この真理を否定し去ることはある の抽象である。この自体は、自己意識がそれ自体自身で、自 まいと言う。けれども、理性がこの真理をこういう訴えに基分で ( 自覚的に ) 認める最初の肯定態である。それゆえ、自我 づかせるとき、理性は別の確信の真理を、つまり、我にとっ は存在するものの純粋本質であり、単純な範疇であるにすぎ ては別のものが存在するという確信の真理を認める。我とは 「い。範疇は普通は存在するものの本質、不定ではあるが存 性別のものが我にとって対象であり、本質である。言いかえれ在するもの一般の、あるいは意識に対して存在するものの本 ば、我が我の対象であり実在であるとき、我がそうあるの質、であるという意味をもっていた。・、、 力しまここでは、範疇 は、我が他者一般から自分をひきもどし、現実として他者と は思惟する現実であるにすぎない存在者の本質、つまり、単 並んで現われるからにほかならない。理性が反省 ( 照 ) とし 純な統一である。言いかえれば、範疇は、自己意識と存在が て、自分に対立したこの確信の外に出るとき、自己について同じものであるということ、比較において同一なのではなく、 のその主張は、確信及び断言としてだけでなく、真理としてそれ自体でも自覚的にも同一であるということである。ただ

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

おいては、知覚の有と感覚的に対象となるものとは、もとも る。これこそ自体であるが、この自体は、最初の、それゆえ と否定的意味しかもっていない。そこで意識は、現象から、 それ自身不完全な理性現象であり、また、真理にその実在を 真としての自己に帰るが、意識であるから、またこの真を対与える純粋の場にすぎない。 ( カントの超感覚的世界、物自体、 理性など想起 ) 象的な内面のものとする、そして物が自己自身に帰るのと、 そこで、これから後のわれわれの対象は、物の内面と悟性 意識が自己自身に帰るのとを区別する。このことは、意識に とっては、媒介する運動がやはり、まだ一つの対象的な連動をその両極とし、現象をその媒語とする推理である。だがこ であるのと同じである。それゆえ、物の内面は、意識からみの推理の運動は、悟性が媒語を貫いて内面のもののなかに認 ると、意識冫 こ対する一方の極である。しかしこの内面は、自めるものを、更に進んで規定する運動であり、悟性が相互連 体という極にあるとき、同時に自己自身の確実性をもってお結の関係について行う経験である。 り、また自分だけでの有という契機をもっているから、意識 内面のものは、意識にとってはまだ純粋の彼岸である。と にとっては真である。だがその理由を、意識はまだ意識して いうのは、意識はまだこの彼岸のうちに、自分自身を見つけ というのは、自分自身に内面をもっているはすの、 ていないからである。この内面は、まだ何も現象していない 自分だけでの有 ( 自分にとっての有 ) は、否定的運動にほかな 状態にすぎないし、肯定的に言っても単一な一般者にすぎな らないであろうからである。だがこの運動にしても、意識に いから、空しいものである。物の内面のこういう有り方は、 とっては、まだ対象的な消えて行く現象であって、まだ意識物の内面が認識されえないと言う人々と、そのまま一致す 自身が自分だけでの ( 自覚的な ) 有になったものではない。そる。ただし認識できないという理由は、その人々とは別の仕 れゆえ、内面は意識にとって概念ではあろうけれども、まだ、 方でつかまれねばならないであろう。ここに直接有る通りの 意識が概念の本性を知っているわけではない。 ( 自覚的に概念内面のものについては、確かにいかなる知識も存在しない。 になり切っていないの意。 ) が、それは、理性が近視的であり、制限されすぎている ( その 絶対的に一般的なものとしてのこの内面の真理は、一般と他どういうふうに言われようとも ) からではない ( この点に 個別の対立から純粋になり、悟性にとってのものとなった。 ついては、ここでは何もわかってはいない。というのも、わ この内面の真理のうちで、初めて、現象する世界としての感れわれはまだそこまで深く入りこんではいないからである ) 、 覚的世界を超えて、これから後、真の世界としての超感覚的そうではなく、事柄自身の性質が単一であるためである。と 世界が開け、消えて行く此岸を超えて、永続的な彼岸が開け いうのは、つまり、空しいもののなかでは何も認識されない

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

ら、多少厚かましいところがあり、何か決定的なものを含ん 述語において自己のうちに入って行って、論証的 ( 形式的 ) 思 惟という自由な位置をとるかわりに、内容のなかになお沈潜でいる、と言われる。前に言「たことから、この〈んの事情 がどうなっているかは、明かである。哲学的命題とても、命 している。もしくは、すくなくとも内容に沈潜しておれと迫 られている。また同じように「現実的なものは普遍的なもの題である以上は、主語と述語の普通の関係、知の普通の態度 の臆見を呼びさましはする。がこのような事情と、これに対 である」と言う場合、主語としての現実的なものは、それの 述語のなかで消えてしまう。一般的なものという語はただ述する臆見を破壊するのが、哲学的命題の内容である。臆見の 語という意味をも「ているだけでなく、したが「て、この命思いこみは、自分が思いこんだのとは意味がちがうことを経 験する。この思いこみの訂正が、命題に帰って行き、そこで 題は、「現実的なものは一般的である」 ( 前の命題に対し述語が 命題を別な形でつかむことを、知に対して強いる。 形容詞にな「ていることに注意 ) ということを言っているので 主語について言われたことが、或る場合には、主語の概念 はなく、一般的なものという語は、現実的なものの本質 ( 実 在 ) を言い表わしているはすである。それゆえ、思惟は、主という意味をもつが、別の場合には、主語の述語または偶有 語においても「ていた、確乎とした対象的地盤を失うだけで性の意味しかもたないのであるが、このことは、思弁的な態 なく、述語において主語に投げかえされる。そして思惟は述度と論証的 ( 形式的 ) 態度を混合しさえしなければ、避けられ たはずの困難から生れるのである。一方の態度は他方の態度 語において自己にではなく、内容という主語 ( 基体 ) に帰る の邪魔になる。そこで一つの命題の二つの部分が、普通の仕 のである。 こういう妨害に慣れていないために、大体において、哲学方で関係するのを、厳密に排除するような哲学的叙述にし て、もしありとするならば、そのとき初めて、柔軟であるよ 上の著作はわかりにくいと非難されるのである。もっともこ うなものに行き着くであろう。 れは、著作を理解するためのそのほかの条件が、個人にそな 実際に思弁的でない思惟とても、それなりに権利はもって わっている場合の話であるけれども。理解されうるまでは、 いる。この権利は妥当なのだが、それは認められないのであ 論まず繰り返し読まねばならない所が若干あるという、哲学上 る。命題という形式が廃棄されることは、ただ直接的な仕 の著作に対し行われることがよくある、全くきつばりとした 序非難の理由は、、 しま言ったことのなかに見られる。この非難方で起るというだけではいけない。命題だけで起ってはいけ この動き この反対連動が言い表わされねばならない。 は、ひとたび、ほんとにそうだと、思えるような理由がみつない 」こ言った内にひそむ妨害であるということだけでな が前冫 かったとなれば、もはや絶対的に抗うことを許さないのだか

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

なる。普通の場合は初め主語が対象的に固定した自己として 語の同一性は両者の区別を、つまり命題の形式が表わしてい 根底におかれている。ここから始まって、規定や述語の多様る両者の区別を無くしてしまうべきではなく、両者の統一を な姿へと必然的運動が進んで行く。ここへ、初めの主語に代一つの調和として生み出すべきである。命題の形式は一定の って、知る自我自身が入りこんできて、述語を結びつけ、述意味を表わしており、また命題の内容を区別するアクセント である。だが、述語が実体を表わし、主語そのものが一般的 語を支える主観 ( 基体 ) となる。だが例の初めの基体 ( 主語 ) は なものに帰するということは、統一であり、この統一のなか 諸々の規定そのもののなかに人りこんで、その魂となってい るから、第二の基体 ( 主観 ) つまり知る主観は、自らが既に初であのアクセントのひびきがやむのである。 めの基体 ( 主観 ) を事済みのものとして、それを超えて自己に いままでのべたことを例によって説明してみよう。「神は 帰ろうとしているのに、その初めの基体 ( 主語 ) がまだ述語の存在である」という命題においては、述語は「存在」であ なかにいることに気がつく。そこで主観は、述語の運動のな る。つまり述語は実体的意味をもっており、この意味のなか かで働くものであることができるのに、つまり、これやあれで主語は溶けてしまう。この場には「存在」は述語であるの やの述語を初めの基体 ( 主語 ) にそえてやる論証的 ( 形式的 ) 思ではなく、実在 ( 本質 ) であるはずである。そのため神は、命 惟としてふるまうことができるのに、それを止めてしまう。引 題における位置によって在るところのもの、すなわち固定し だが、むしろ第一一の基体 ( 主観 ) は、まだ内容の自己にかかわた主語であることを止めるように思われる。思惟は、主語か るべきであり自分だけでおるべきではなく、内容の自己と一 ら述語への移行において、進んで行く代りに、むしろ妨害さ 緒にあるべきである。 れるように感ずる。というのはそのとき主語が失われるから いまのべたことは、形式的には次のように言いあらわして である。そこで思惟は、主語を見失うので、主語に投げかえ されて、主語を考えるようにさせられるのを感ずる。言いか もよい。つまり主語と述語の区別を含んでいる判断もしくは 命題一般の本性は、思弁的命題によって破壊される。最初の えると、思惟は、述語自身が基体 ( 主語 ) として、「存在」 das 命題が行きつく同一命題は、主語と述語の関係に対する反撃 se 一 n ( イタリックの冠詞がついているのは、この場合の存在が名詞的 を含んでいる。命題一般の形式と、この形式を破壊する概念用法であることと存在そのものを意味することとのため ) として、 の統一との相剋は、リズムのなかでの、メトルムとアクセン実在 ( 本質 ) として言い表わされているのだから、そしてこ トの相剋と似ている。リズムは両者の浮動する中間と両者の の実在が主語の本性を汲みつくしているのだから、主語がそ 統一とから生れる。だから哲学的命題においても、主語と述のまま述語のなかにも在ることに気がつく。そこで思惟は、

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

ゆえこのような方法は数学に固有のものであり、数学に委もの、まだ概念的に把握されていないものであるが、この三 せるよりほかない。またこういう方法は、もっと自由な態度律体系が絶対的意味に高められ、そのためその真の形式がそ で、つまりもっと恣意と偶然とをまぜた形で、普通の生活の の真の内容のうちで同時にかかげられ、学の概念が生み出さ なかに残るかもしれない。認識のためというよりは好奇心をれた後で、この形式を使う段になると、それを命のない図式 満足させるための会話や、歴史的教訓などの形で残るかもし に、もともとの影法師におとしめ、学的組織を一覧表におと れない。序文などというものも、大体この種の教訓である。 しめるようなやり方をとるのは、やはり学的であるというわ 一般の生活にあっては、意識は知識、経験、感覚的な具体的けには行かない。 このような形式主義については、これまで 事実、また思想、原則などを、要するに、目の前に在るもの、既に一般的には語ってきた、そこで、そういうやり方をここ 固定し静止して在るもの、つまり実在とみなされているもの でもっと詳しく示そうと思う。が、こういう形式主義は、形 を、その内容としている。意識は、一方ではそれらのものを態について語る場合、図式の一つの規定を述語として語れ 辿って進み、また一方ではそういう内容についての勝手な恣ば、形態の本性、生命を理解し、表現したと思いこんでい 意によって、それらの関連を中断し、外的にそれを規定した る。その場合、図式が主観性もしくは客観性であれ、或はま 、扱ったりするような態度をとる。意識は、瞬間の感覚に た磁気であれ電気などであれ、収縮もしくは膨脹であれ、東 過ぎないものであろうとも、何か確信のもてるものへとその であれ西であれ、何にせよ限りなく多様化される。というの 関連をつれもどす。そしてこの確信は、自分によくわかって は、この方法によれば、各々の規定もしくは形態は、他の規 いる静止点に達すると満足している。 定に対してもまた、図式の形式または契機として使われうる しかし、概念の必然性は、理屈をこねる会話のだらしない し、各々は他方のお蔭をうけて、同じように役に立ちうるか 行程をも、学問的な虚飾のこわばった行程をも追放するが、 らである。このような形式主義は、お互いの間の循環論法で だからと言って、その代りに予感とか霊感とか予言者的語らあって、このやり方では事柄そのものが何であるか、一方が いの恣意とかをもってくるべきでないことは、これまで既に何であり、また他方が何であるかを経験するわけには行かな 注意した通りである。こういうものはこわばった虚飾の学問 、。そのさい、一方では感覚的諸規定が、普通の直観から受 性を軽蔑するのみか、学問性一般を軽蔑するものである。 けいれられるが、それらはもちろん自らが言い表わすものと カント的な三律体系 ( アプリオリとアポステリオリと両者の統は、別の何かを意味することになっているし、また他方で 一 ) は、まだやっと本能的に再発見されたもの、まだ死んだ は、それ自体で意味のあるもの、つまり、主観、客観、実