規定 - みる会図書館


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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

べきものと考えられうる場合には、偽と呼ばれるかもしれな のである。というのは、方法とは、全体の構造がその純粋な いようなものを包んでいる。消えて行くものは、むしろ本質本質において組み立てられたものにほかならないからであ 的なものとしてさえ考えられるべきであって、真から切断さ る。しかしこの点に関し、これまで通用してきたことについ れ、どこかは、わからないが、真の外に置かるべきものとい て言えば、哲学的方法の本質に関係ある諸々の考えの体系と う固定した規定のうちにあると考えらるべきではない。それても、既に忘れ去られた教養に属するという意識をもたざる と同じで、真とても偽とは別の側に安らい、死んだ肯定的なをえない。 こういうと、私が決してそうだとは思っていない ものと考えられるべきではない。現象は生成消減であるが、 のに、何かほらふきで、また革命的でもあるようなひびきを 生成消減はそれ自身では生成も消減もしないで、それ自体に与えるかもしれないが、数学が貸し与える学問的華やかな道 存在し、真理の生命の現実及び運動を形成しているようなも具、つまり説明、分類、公理、数々の定理、定理の証明、原 のである。だから真理とは・ハッカス祭の陶酔であり、そこに 則、それらからの演繹、推理などは、既に一般の人々からみ 居合せた人は誰一人として酔わぬということがない。 この陶てさえも、少くとも時代おくれになっていることを、心すべ 酔は、誰でもそこを離れさえすれば、すぐさまさめてしまう きである。この華やかな道具が役に立たないことが、はっき から、見えすいた単純な静けさである。こういう真理の運動 り見抜かれてはいないにしても、全く使われていないか、余 という法廷では、精神の個々の形態も一定の思想も裁きにた り使われてもいないかである。その華やかな道具はそれ自体 えて存続しはしょ : 、、 オしカそれらは否定的で消え行くものであで否認されているのではないとしても、好かれているわけで ると同じように、肯定的な必然的な契機でもある。静けさ ( 静もない。われわれは、すぐれたものに対しては、用いられ、 止 ) と把握された運動の全体においては、区別され特殊な定好かれるようになるという予見をもたざるを得ない。しか し、或る命題をかかげ、その理由をあげ、反対のものには、 在をとるものは、内化さ ( 内にとり入れら ) れるものとして、 保存される。このものの定在は、自己自身についての知であ同じように、理由をあげて反駁するというやり方が、真理を 論る。もっともこの知もまたそのまま定在ではあるが。 表わしうる形式ではないということを見抜くのは、むずかし いことではない。真理とは自己自身に即した運動であるが、 この運動または学の方法について、あらかじめ若干のこと和 序を示しておく必要があるように思われるかもしれない。だが今言った方法は、素材にとって外的な認識である。これまで 方法の概念は既にこれまで言ったことのなかに在る、そして のべたように、数学は、概念なき量関係をその原理とし、死 方法本来の叙述は論理学の仕事である、むしろ論理学そのもんだ空間と同じように死んだ一をその素材としている。それ

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

も有機体においては、この純粋個別性は、それ自身抽象的もけれども、むしろこの数は、一般者と個別者が互いに無関係で しくは一般的な契機としての、その諸々の契機において、展自由であることを示している。個別者は、類によって、大い 開しているのではないし、現実的であるのでもない。そうでさという本質なき区別の犠牲にされるが、自らは生あるもの として、そういう区別からも自由であることを示している。 はなく現実の現われは、内面性に逆もどりする一般性の外に これまでに規定されたような ( 二一七 ) 真の一般は、ここでは 出ている。そして現実もしくは形態、すなわち自ら展開する 個別性と、有機的一般者もしくは類との間には、規定された内なる本質であるに止まる。種の規定態としては、それは形 式的一般である。この形式的一般に対し、前に言った真の一 一般者すなわち種が現われている。一般者すなわち類が行き ついた現実存在は、存在する形態の部分において過ぎ行く一般は、個別の味方となって現われ、そのため個別が生あるもの となり、自らの内なるものによって、種としての自らの規定 つの過程の、展開された運動にすぎない。もし類が、静止し た単純態としての自らにおいて、区別された部分をもっとす態を超え出ている。だが、この個別は、同時に一般的であるよ うな個体 ( 一般的個体とは大地〔 E 「 de 〕のこと、二一九「エンチ = ク れば、したがって、類の単純な否定性そのものが、同時に運 ロペディー』二八一節追加 ) ではない。つまり、一般が、やはり 動であるとすれば、そしてこの運動が、それらの部分におい て、直接一般的な、やはり単一な部分を通って過ぎ行き、こ外的現実をもっための場であるような個体ではない。そうで の部分が、そのような契機として現実的であるとすれば、有はなく、一般的個体は有機的生命の外に出ている。しかしこ の一般的個体は、そのままで自然的な諸々の形態の個体では 機的な類は意識であることになろう ( 二一八 ) 。だが、単純な 一般的個体の定在は、個別 あるが、意識そのものではない。 規定態は、種という規定態として、精神のない姿で類におい て現存している。現実は類から始まる、言いかえれ・は、現実的な有機的な生命ある個体であるから、もし意識であるべき のうちへと現われるものは、類そのものではない、すなわちだとすれば、自らの外に出てしまってはいけないであろう。 それゆえわれわれは、そこに次のような推理が成り立っこ 性決して思想ではない。類は、現実の有機体であるとき、或る この代表とに気がつく、つまり、一方の極は、一般者すなわち類とし 一つの代表物によって代表されているにすぎない。 理 物は数であ力、数は、類が個別形態化に移行することを表わての一般的生命であるが、他方の極は、個別者すなわち一般 し、観察に対して必然性の二つの側面、すなわち、一方では的個体としての一般的生命である、これに対し媒語はこれら 単純な規定態という側面を、他方では多様態となって生み出両者から組成される。初めの極は、規定された一般としてす なわち種として、だが他方の極は、本来のすなわち個別的な され、展開された形態という側面を、与えるように見える。

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われわれは、道徳的世界観を考察して、その対象的な在り 命題が言うことは、道徳的に完成された現実的意識は存在し 方は、意識が自分の対象としたような、道徳的自己意識自身ない、ということである。義務は何も混じえない純粋な自体 の概念にほかならないとしたのであるが、そのためこの世界であり、道徳性は、この純粋なものとの一致にのみ、在るわ 観の起源の形式が意識されることによって、その叙述も別のけであるから、もともと道徳的なものは、完成されている限 形態をとって生ずることになる。つまり、出発点となる最初 りでのみ存在するものである。そこで、一般に第二の命題 のものは、現実的な道徳的自己意識である、言いかえれば、 は、道徳的に現実的なものは何も存在しない、ということに そういう意識が存在するということである。というのは、概なる。 念がこの意識を立てるのは、すべての現実一般が、義務にか だが第一二に、意識は、一つの自己であるから、自体的には なっている限りでのみ、実在をもっている、という規定にお義務と現実の統一である。だからこの統一は、意識にとって いてのことである。概念は、この実在を知として、すなわは、完成された道徳性として対象となる。けれどもそれは、 ち、現実的自己との直接の統一のうちに、立てる。したがっ意識の現実の彼岸ではあるが、しかも現実となるべきもので てこの統一はそれ自身現実的であり、現に一つの道徳的な現ある。 実的意識である。ところでこの意識は、意識としてその内容 初めの二つの命題の、綜合的統一という目標のうちには、 を、対象の形で、つまり世界の究極目的、道徳性と全現実の自己意識的現実ならびに義務が、廃棄された契機としての 調和、という形で表象する。だがこの意識は、この統一を対み、措定されている。というのも、両者の何れも個々別々で 象として表象はするが、まだ、この対象そのものに対し、威よよ、 冫オしが、他方から自由であるという、本質的な規定をもっ 力をもっ概念としてではないから、この意識にとり、その統ていながら、各々統一にいるとき、もはや他方から自由では よい。したがって、各々は廃棄されているからである。だか 一は、自己意識を否定するものである。言いかえれば、この ら両者は、内容から言えば、各々が他方にとって妥当するよ 神統一は、意識の現実の彼岸として、だが同時に、存在するも のでもあるが、思惟されたにすぎないようなものとして、意うな対象となり、形式から言えば、両者のこの交換は、同時 識の外に生ずることになる。 に表象されただけだということになる。或は、現実に道徳的 したがって、自己意識として、対象とは別のものである意でないものと、やはり純粋思惟であり、その現実を超えてい るから、道徳的でないにも拘らず、表象においては道徳的で 識に、残っているものは、義務意識と現実しかも意識自身の 現実とが、調和しないということである。したがって、いまあり、完全に妥当するものと受けとられる。このため、道徳

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れている。言いかえると、各々は或る他者の反対ではなく、 の、一つの対立したものであるならば、ほかでもなく、対立 1 純粋の反対であるにすぎない。そこで各々はそれ自身におい を自らにもつものとして措定されているからである。だから て自らの反対である。つまり、各々はぜったいに反対ではな同じように、分っことと自己自身に等しくなることという区 く、純粋に自分だけであり、自分のなかにいかなる区別をも 別項は、自己を廃棄するという、いま言った連動にほかなら もたない、純粋に自己自身に等しい実在である。そこでわれない。なぜならば、いま初めて自らを二つに分っと、つまり われは、どのようにしてこの純粋な実在から区別と他在が出自らの反対になると、言われる自己自身に等しいものは一つ てくるか、どのようにしてそのものの外にこれらが出てくるの抽象である、すなわち既に自ら分たれたものであるため、 か、と問う必要もないし、またそういうⅢ —いに悩むことを哲学自ら分っことは自らの分たれた有を廃棄することであるから だという必要もない、あるいは、哲学がその問いに答え得なである。自己自身に等しくなることはまた二つに分っことで いと考える必要もない。なぜならば、既に二つに分っことがある。自己自身に等しくなるものは、だから、分っことに対 起っており、区別は自己自身に同一なものから排除されてお立する。すなわち、自己自身に等しくなるものは、そのと り、その傍らにおかれているからである。 ( シ , リングに対してき、自ら自分を一方の側におく、言いかえると、むしろそれ 言う。 ) 自己自身に等しくあるはずだったものは、だから、絶は一つの分たれたものとなる。 対的実在的であるどころか、むしろ分たれたものの一つなの 無限、言いかえれば、純粋に自己自身になることのこの絶 である。それゆえ、自己自身に等しいものが二つに分れると対的不安定、何らかの仕方で、たとえば存在として、規定さ いうことは、それが既に分れたものとしての自分を、他在とれているものが、むしろその規定態の反対であるという絶対 しての自分を廃棄していることである。統一については、区的不安定、これは、既に、これまで述べたすべてのことの眼 目ではあったが、、 別がそこから出てくることのできないものと、言われるのが しま内面のものにおいて初めて、自ら自由 普通である。が、実際には、統一というものは、それ自身で になって出てきたのである。現象すなわち二つのカのたわむ は、分っことの一つの契機にすぎない。統一は、区別に対立れは、既にこの無限そのものを表わしてはいるが、説明とい している単一態を抽象することである。しかし、統一とは抽う形で初めて自由に現われる。結局、無限が、それが在ると 象することであり、対立したものの一方にすぎないときに ころのものとして、意識にとっての対象となるときには、意 は、統一が二つに分っことであるということは、既に言われ識は自己意識である。悟性の説明は、さしあたり、自己意識 ているのである。というのは、統一は、一つの否定的なも が何であるかを記述するに止まる。悟性は、法則のうちに現

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

とこれに満足している間にえられた自己確信とは、その対象われないからである。 ) しかし、絶対的な否定としての否定を受 により制限を受けている。というのも、欲求はこの他者を廃けるのが、この一般的な自立的な自然であるときは、この自 棄してえられたものであり、そういうふうに廃棄するために然は類としての類、つまり自己意識としての類である。自己 は、この他者は存在していなければならないからである。だ意識は他の自己意識においてのみ、その満足をうる。 ( 以上の から、自己意識は、他者を否定する関係によっても、対象を叙述は、フイヒテの自我と非我が交互に規定し合うという考えを前 廃棄することはできない。それゆえ自己意識は、対象を、欲提していると思われる。 ) 求と同じように、再び生み出すことになる。実際には、欲求 これら三つの契機において初めて、自己意識の概念が完結 の本質は自己意識とは別のものである。いま言 0 た経験の結しているのである。②純粋な、区別されていない自我が自己 果、自己意識にとってこの真理が生じてきたのである。だが意識の最初の直接の対象であゑだがこの直接態は、それ 同時に、自己意識はまた自分だけで ( 自覚的に ) 絶対的である 自身絶対的な媒介であり、自立的な対象を廃棄することとし が、そのためには対象を廃棄するよりほかない。自己意識は てのみ在る、つまり欲求である。欲求の満足は、自己意識が 自ら真理なのであるから、自分で満足するのでなければなら 自己自身に反照することである、つまり、真理となった確信 ない。それゆえ、対象は自立的であるから、対象自身が自分である。⑥ではあるが、この確信の真理はむしろ二重の反照 で否定を実現することによってのみ、自己意識は満足に達しであり、自己意識を一一重化することである。自己自身におい 得る。そこで対象は自己自身の否定を自分で実現せざるを得て、自己意識の他在であり、言いかえると、空しい区別であ ない。そのわけは、対象が自体的には否定的なものであり、 る区別を立て、そうすることにおいて自立的であるような一 他者に対して、対象であるようなもの、でなければならない つの対象が、意識に対して生じているのである。区別されて からである。対象は、自己自身で否定であり、同時にこの おり、ただ生きているだけの形態は、生命そのものの過程に 点で自立的である。だから、対象は意識である。 ( 欲求の対おいて、自分の自立性を廃棄はするが、そのとき区別と共 象である生命に対して否定が行われるのは、他者つまり欲求に、その形態そのものもなくなってしまう。だが、そういう に対してである場合か、それとも規定態としてどうでもいし 形で自己自身を否定しながらも、やはり自己意識の対象は自 他の一形態に対してである場合か、それとも他者が非有機的立的である。だから、この対象は自分自身では類であり、類 な一般的な自然である場合か、そのいずれかである。 ) ( この から分離されているという独自な姿にいながらも、一般的な 括弧は訳者のつけたものであるが、それはここに入るべき文章とは思流動態である。それは生命のある自己意識である。

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

乃至疎外を、純粋抽象というこの形で、直観することにはな的意志における、この一定の点として、自分を知ろうとする らなかった。そうではなく、自己意識の否定も充実したもの要求は、それと全く対立した経験に転ずる。そのとき意識に であった。つまりその否定は、自己意識が自ら疎外した自己とって消えるものは、抽象的存在または実体なき点の直接態 に代ってえた、名誉乃至財であった、そうでない場合は、分であり、この消え去った直接態こそは、一般的意志自身であ エスプリ 裂の意識がゆきついた、精神及び透見の言葉であった。すな る。が、ここにいま意識は、自らが廃棄された直接態であり、 わち否定は、信仰の天上であるか、啓蒙の有用なものである純粋知もしくは純粋意志である限り、自分が一般的意志であ かであった。が、一切のそれらの規定も、自己が絶対自由のることを知るのである。このために意識は、一般的意志が自 なかで、経験した喪失のうちに消えてしまった。自己意識の己自身であることを、自分が本質であることを知るが、自分 否定は、意味なき死であり、肯定的な何ものも、充実した何 が直接存在する本質だと知るのではない。つまり一般的意志 ものもない、否定的なもののひたすらな恐怖である。だが同を革命的な政府として、また無政府状態をつくろうとする無 時にこの否定は、その現実において見知らぬものではない。 政府主義として、知るのでもなければ、自分が、この党派の 否定は、人倫的世界が没落して行った、彼岸に在る一般的必やそれに対立する党派の、中心点であると知るのでもない。 然性 ( 運侖 ) ではなく、また、個々の偶然な自己の所有でもなそうではなく、一般的意志は純粋知であり純粋意欲である。 ければ、分裂した意識 ( 三六九 ) が依存していると気づいた、 つまりそれは、この純粋知及び純粋意欲であるような、一般 気まぐれな所有者の個々の偶然でもない。そうではなく、そ的意志である。意識は、その場合、意識のアトム的点である の否定は一般的意志 ( カント ) である。この意志は、最後に抽よりは、むしろ純粋知であり、純粋意欲であるから、自己自 象されたときには、肯定的なものを何ももっておらず、その身を失、よしょ しをオい。だから、意識は、純粋知と自分自身の交 ため、犠牲に対し報いるものを何も、もち得ないのであっ互作用である。本質としての純粋知は、一般的意志である た。しかしだからこそ、一般的意志は、自己意識と無媒介的 が、この本質は全く純粋知にほかならない。だから自己意識 に一つなのである。言いかえれば、一般的意志は、純粋に否は、純粋知である本質についての、純粋知である。自己意識 定的なものであるから、純粋に肯定的なものなのである。そは、更に個別的自己として、主観乃至現実的行為の形式にす して意味なき死、自己の充たされない否定性は、その内面のぎないが、この形式は、自己意識が形式だと意識しているも 概念においては、絶対的肯定性に転ずるのである。意識にと のである。また自己意識にとっては、対象的現実、存在は、 っては、一般的意志と自己との直接の統一は、つまり、一般全く自己のない形式である。というのも、対象的現実は、知

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

156 る。ここでは、自ら自由に他者と関係するようなものは、本の動物は厚い毛皮をもっているなどというけれども、すぐわ 質的なものとしては現われないから、有機体は自らの関係自 かることだが、その知識は貧弱なものであって、有機体の多 身のなかで支えられている。 ( カントの目的論が暗示されている ) 様な姿にふさわしいものではない。有機体は、また、これら ここで理性本能が観察しようとする法則の両面は、まず、有の規定から自分の形態を引き離すことも心得ており、法則と 機的自然と非有機的自然とが互いに関係し合うことである。 呼・ほうと規則と呼ぼうと、こういうものには当然至るところ が、このことは、いま言った規定からすれば当然のことであで、例外が現われてくる。それだけではない。 これらの法則 る。非有機的自然は有機的自然に対するとき、後者の単一な の適用される動物そのものにおいては、それらの法則は極め 概念に対立した自由であり、制約のない規定態の自由であて表面的な規定にすぎないから、そういう規定の必然性を表 る。この規定態にあるとき、個体的自然は、解体されている現するにしても、表面的でしかあり得ないし、場の有機体に と同時に、この規定態の連続からは分離して、自分だけであ対する大きな影響というより以上には出ない。そのさいに る。空気、水、大地、地帯、気候などは、そういうものが生も、本来、何がこの影響に属しまた何が属さないかはわから きるための一般的な場であり、この場は諸々の個体の不定でない。だから実際には、有機体と場となるものとのそういう 単純な本質をなしており、そこでは個体は同時に自己に帰っ関係は、法則と呼ばるべきものではない。なぜならば、前に てきている。個体も場となるものも、ただそれ自体に自分で 言ったように、一方では、そういう関係は、内容の上から 在るわけではなく、観察にとっては相対して別々に現われる は、有機体の全範囲をくみ尽しているものではなく、また他方 ような自立的な自由のうちにありながらも、同時に本質的な では、関係する契機そのものにしても互いに無関心であり、 関係として互いに関係し合う。そうは言っても個体と場とは少しも必然性を表現してはいないからである。酸の概念のう 互いに自立的であり、無関心であるのが主であるため、抽象ちには塩基の概念があり、陽電気の概念のうちには陰電気の に移されるにしても、部分的であるに止まる。だからここで概念がある。厚い毛皮と北国、魚類の構造と水、鳥類の構造と は、法則は有機体の形成と一つの場の関係としてあることに空気が互いにどれほど出会い頭に一致することがあっても、 なり、有機体は場的存在を、或る場合には自分に対立させて北国の概念のうちに厚い毛皮の概念が、海の概念のうちに魚 いるが、他の場合には、有機的な反映という形で表わしてい 類の構造が、空気の概念のうちに鳥類の構造が在るわけでは る。しかし、これらの法則は、空中にいる動物は鳥類という このように、両側面が互いに自由であるため、鳥や魚の 性質をもち、水中にいる動物は魚類という性質をもち、北国本質的性格をもった陸棲動物も現に存在する。必然性といっ

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

る偽瞞でもある。そういう知は、あれこれとおしゃべりはす四る。分けるというはたらきは悟性、最も不思議で偉大で、或 るが、一向にはかどらないし、自分がどうなっているのかも はむしろ絶対的な威力である悟性のカであり仕事である。自 知っていない。主観と客観など、神、自然、悟性、感覚など分の中に完結して安らい、実体としてその契機を支えている ということは、よく知られたものとして、ろくに吟味もされ円は、直接的な、それゆえ少しも不思議でない関係である。 しかし、その円の領域から分離された偶然なものそのもの、 ないで、妥当するものとして根底におかれており、前に出る ときにも、後に帰るときにも、支点とされている。だから運結びつけられたもの、他のものと関連してのみ現実的なもの 動といっても、そういうものの間を、あちこちと行ったり来が自己の定在をえ、また分離されて自由になるということ たりするだけで、いつまでも動かないままである。だから、 は、否定的なものの巨大な威力であるのだからである。つま 目に言った非現実 りそれは思惟の、純粋自我の活力である。蔔 それらのものの表面にただよっているにすぎない。したがっ て、把握とか吟味とか言っても、それは、そう言われたものを死と呼ぶとすれば、この死こそは最も恐ろしいものであ る。そこで、死んだものにしつかり目をすえるには、最大の を、各人が自分の表象のうちにも見つけるかどうか、何人に 力が必要である。力のない美は悟性をきらう。 ( ノヴァリス、 もそのように思われ、そのようなものとして知られているか 歎美派 ) それは、悟性が美の果たし得ないことを求めるから どうかを、見るだけのことである。 普通行われてきたところによれば、或る一つの表象を分析である。だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生では なく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の するということは、その表象によって知られたものとされる 形式を、止揚することにほかならなかった。一つの表象をそ生である。精神は、自己自身で、絶対的分裂のなかにいると のもとの要素に分解するということは、少くとも当該表象のきにだけ、自らの真理をえている。精神がこの威力であるの は、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであ 形式をもっていない契機へと、自己の無媒介の所有物となっ るからではない。われわれが何かについて、それは何物でも ているような表象の契機へと帰って行くことである。なるほ ないとか、偽であるとかいって、それに片をつけ、それから 論どこの分析は、それ自身よく知られた、固定した、静止的な 離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるから 規定であるような思想 ( 考えられたもの ) に、行き着きはする。 ではない。そうではなく、精神は、否定的なものに目をすえ だが、このようにして分けられたもの、この非現実的なもの て、それに足を止めるからこそ、そういう威力なのである。 こそは、本質的契機なのである。なぜならば、具体的なもの は分離され、非現実的なものになるからこそ、動くものであこのように足をとめることが、否定的なものを存在に向けか

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

対的自由において定在を自らの意志として把握した。 ( ルソ出て、実体に帰属しない反省に帰せられざるを得ないであろ 、カント ) そのときになって初めて精神は、その最内奥の深 う。なぜならば、実体は主体 ( 観 ) ではなく、自己を超えて自 みに在る思想を外に向け、実在を自我れ自我であると言表す己に帰る ( 反照する ) ものではなく、また精神として概念把握 ることになる。 ( フイヒテ ) だがこの自我ⅱ自我は自己自身に されてもいないからである ( 一六ー一七 ) 。それでもなお内容 帰って行く運動である。な・せならば、絶対的否定性としてこ について語られると言うならば、それは、一方ではただ内容 の相等性は絶対的な区別であるため、自我の自己相等性はそを絶対者の空しい無底に投げこむためであり、他方では、内 の純粋区別に対立しており、この区別は純粋な区別であると容が外的に感覚的知覚からかき集められることであろう。知 同時に、自らを知る自己にとり対象的な区別であると、つま は自分自身から物に、区別に、多様な物の区別に達したよう り時間であると言表されるべきだからである。そのため、実に見えるけれども、どういうふうに、またどこからそうなっ 在は、前に思惟と延長の統一であるからと言われたように、 たのかは、理解されていない。 ( 以上シェリング ) 思惟と時間の統一であると把握さるべきであろう。しかし自 しかし精神がわれわれに示したところによれば、そのこと 己自身に委ねられたこの区別、休むことも止まることもない は、ただ自己意識をその純粋の内面にとりもどすことでも、 時間は、むしろ自己自身のなかで崩壊する。時間は延長とい またそれを実体と区別の無いところへたた沈めることでもな う対象的安定になるが、これは自己自身との純粋な相等性っ く、自己の次のような運動である。つまり、自己は自己自身 まり自我である。言いかえれば、自我は自己であるだけでなを外化し、その実体に沈め、主体として実体から自己に行 く、自己が自己自身と等しいことである。だがかく等しいこ き、実体を対象とし内容とすると共に、対象性と内容のこの とは、自己自身と完全に直接的に統一していることである、 区別を廃棄するのである。その場合初めに直接態から帰る すなわちこの主観 ( 体 ) はまた実体なのである。が、実体はそ ( 反照する ) のは、主体が実体から自分を区別するからであり、 れ自身だけでは内容なき直観であろう。言いかえればそれ自己を一一分する概念となるからである。つまり純粋自我が自 は、内容の直観ではあろう。けれどもこの内容は、規定され己の内に行き、生成するのである。この区別は自我Ⅱ自我と たものであるときは、ただの偶有性をもつにすぎず、必然性 いう純粋のはたらきであるから、概念は、実体を自らの本質 のないものであろう。実体は、絶対的統一と考えられまたは とし自分で存立する定在の必然性であり、その定在が立ち現 直観される限りでのみ、絶対的なものとして妥当しよう。そわれることである。しかし定在の自分での存立は、規定態に して全内容は、差異をもっていることからみて、実体の外に おかれた概念であり、このことによって、単純な実体に降っ

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

は、その概念から出て外的実在に移ることであり、それは意あるが、この動きにとっては安定した統一が他者である。意 識でもあるが、また、個別性であり、排除する一であるため識と対象は、これらの対立する規定のなかで交替する。した に、或る他者を指示することもあるような一つの純粋な図式がって、意識は、まず、行ったりー来たりして探すことであ である。だが、この個別態の範疇のこの他者は、それとは別 り、その対象は純粋の自体であり本質であることを認めてい の初めの諸範疇にほかならない、つまり、純粋本質と、純粋る。次に、意識は単純な範疇であり、対象は区別項の運動で 区別とである。この個別範疇において、すなわち、他者が措あることを認めている。だが、意識は、実在として、この経 定されているというちょうどそのことにおいて、言いかえれ過の全体そのものである。意識は、単純な範疇としての自己 から出て個別と対象に移行し、この対象においてこの経過を ば、この他者そのものにおいても、意識はやはり意識自身で ある。これらいろいろな契機の各々は他者を指示している。 直観し、対象を区別されたものとして廃棄し、これをわがも だが同時に、それらの契機のうちにいては、他者に達するわのとする、そして自らをこの確信であると言い表わす、すな にはいかない。純粋範疇は諸々の種を指示し、これらは否わち意識自身であり、また、その対象であるような全実在で 定的範疇すなわち個別態に移行するが、これらは初めの範疇あると言い表わすのである。 ( フイヒテ ) を逆に指示する。個別態はそれ自身純粋意識である。この意 意識が最初に言い表わすことは、すべてのものは自分のも 識は、個別態の各々において、自己と明かに統一したままで のであるという、この抽象的な空しい言葉にすぎない。 あるが、この統一は他者を指示させられており、この他者は うのも、すべての実在であるという確信は、まず純粋範疇で 在ると同時に消えており、消えると同時に、またふたたび生あるからである。対象のうちに自己を認めるこの初めの理性 れているようなものである。 ( ライプ = ツツのモナド、カントの範を表現しているのは、空しい観念論であるが、これは、理性 疇、フイヒテの自我、範疇などの批判、『イエーナ論理学」一七八 ) を初めに在る通りに把握しているにすぎないのであり、すべ 性ここにわれわれは、純粋意識が一一重の姿で措定されているての存在のうちに、意識のこの純粋な私のものを示し、物を ことに気づく。まずそれは、不安定に行ったりー来たりする感覚または表象だと言い表わす点で、私のものを完全な実在 理 こととして、すべての契機を通りぬけるが、その契機のなか として示したと妄想するのである。だから、この観念論は、 には、把まれながら廃棄される他在が思い浮ばれる。が他方同時に絶対的な経験論でなければならない。なぜならば、こ の空しい私のものを充たすためには、すなわち、区別と区別 恥では、それは、自らの真理を確信する安定した統一として、 措定されている。この統一にとっては、前者の動きは他者で の全展開及び形態をうるためには、その理性は、見知らぬ障 180