ねばならないものである。一般的に明かなことは、この運動たこのものを、自分自身にもっているのである。一つの一と が知覚の運動にほかならないこと、この知覚においては、知しての力が、また他者としての、自らを外化する力の実在 ( 本 覚するものであると同時に知覚されたものであるという、二質 ) が、外からカに歩みよってくるものとなって措定される つの側面が、まず、真を把捉するはたらきとして一であり、 ということは、撤回されねばならない。力はむしろ、素材と 区別をもたないが、次には、また各々の側面が自己に帰ってしての契機が存立するための、このような一般的媒体でさえ皿 ( 反照して ) いること、つまり、自分だけであるということである。言いかえると、カは自ら外化したのであり、カとは別 ある。ここでは両側面はカの契機である。両側面は、一つの の誘発するものと思われていたものは、じつはカ自身であ 統一のうちにあると共に、自分だけで存在する両極に対し媒る。だから、カはいま展開された素材の媒体として現存す 介として現われるような、この統一であり、いつも両極に分る。だが、これと同じように、カは本質的には、存立する素 裂して行きながら、そのためにはじめて両極を有らしめるよ材が廃棄されているという形式をもっている。つまり本質的 うな、この統一である。この運動は、前には、矛盾する概念 には一である。そこで、この一であることは力が素材の媒体 が自分自身を亡ぼすものとなって現われたが、ここでは対象として措定されているから、いまでは、カとは別のものであ 的な形式をもっており、カの運動である。その結果、無制約る。力はこの自らの本質を自らの外にもっている。だが、カ 的に一般的なものが、非対象的なものとして、物の内なるも は、まだそういうものとしては措定されていないようなもの のとして、出てくるのである。 でなければならないから、前に言ったように、他者が歩みよ 力は、これまで規定されたように、そのままにつまり自己ってきて、カが自己自身に帰るように誘発する、つまりカの に帰ったものと考えられるときは、その概念の側面である外化を廃棄する。だが実際には、カ自身はこの自己に帰った が、実体化された極として、しかも一という規定態のもとに有、つまり外化を廃棄した有である。一であることは、現わ 措定されたものとして在る。したがって、展開された素材のれたときと同じようにして、つまり或る他者として消える。 存立はこの統一から排除されており、それとは別のものであ力は他者自身であり、自己に押しもどされたカである。 る。が、カ自身がこの素材の存立であり、自ら外化すること 他者として現われるもの、力を誘発して外化させまた自己 が必然的であるから、カの外化は、前の他者がカに歩みよっ に帰らせるものは、すぐそのまま明かなように、それ自身カ て、力を誘発することと考えられる。だが実際には、カは、 である。というのは、他者は一般的媒体としても一としても 必然的に自らを外化するから、別のものとして措定されてい 現われ、したがってこれら二つの形態は、それぞれ、同時に
材のどれにもこれにも孔があ 0 て相互に浸透しうること〔「論理学」れ自体自身においてありながら、他者に対してあるものであ るようなものである。言いかえると、それはそれ自身に区別 一の一二一〕、言いかえると、素材が廃棄されて有ることも、 措定されている。更に、この廃棄されて有ることは、つまをもっている。というのは、それが他者に対する有にほかな らないからである。だからカは、その真の姿であるために り、素材のちがいが純粋に自分だけである有に帰ることは、 媒体それ自身にほかならない。そしてこの媒体が区別の自立は、いま言「た思想から全く解放され、それらの区別の実体 態である。言いかえると、自立的に措定された素材は、そのとして措定されていなければならない。すなわち、カは、ま まま、それらのものの統一に移行し、この統一は、そのまま、ず、このような全き力として、本質的には、自体的に自分で 展開に移行する。そして展開はまた還元に帰って行く。だが永続的に措定されていなければならないし、次に、カの区別 この運動こそはカと呼ばれるものである。このカの一方の契 が実体的なものとして、つまり自分で存立する契機として、 機は、つまり、自立的な素材がその存在のなかでひろがるこ措定されていなければならない。それゆえ、カそのものは、 言いかえれば、自己に押しもどされたカは、自分だけで排除 ととしての力は、カが外化することである。だが、カは、カが 消えているときに、自己に押しもどされたカ、つまり、本来的一として有り、この一にとっては、素材の展開はそれとは のカである。だが、まず、自己に押しもどされたカは自ら外 別に存立するものである。だから、二つの区別された自立的 な側面が、措定されているわけである。だが、カは全体でも嫺 化せざるを得ない。次に、カは外化しながらも、自己自身の ある、言いかえれば、その概念の通りにあるようなもので在 なかに有る力であると共に、自己自身のなかに在りながら、 り続ける。つまり、それら、区別されたものは共に純粋の形 外化である。このようにわれわれが、両契機をその直接の統 一のなかに維持することによって、カの概念をもっ悟性は本式、表面的な消えて行く契機である。自己に押しもどされた 来概念なのである。この概念は異なった契機を異なったまま本来の力と、自立的素材の展開という二つのものの区別は、 にもっている。というのは、それらの契機は、カ自身におい もし存立をもたないならば、同時に全く存在しないであろ ては、区別されてはいないはずだからである。したがって、 う。つまりカは、もしこのように対立した仕方で現存しない 意区別は思想のうちに在るだけである。言いかえると、これま ならば、存在しないであろう。だが、カがこのように対立し た仕方で、現存するということは、二つの契機がそれ自身同 でのべた所では、やっと概念の力が措定されているだけで、 その実在性は措定されてはいなかったのである。だが実際に時に自立であるということである。二つの契機がたえず自立 は、カは無制約的に一般的なものであり、これは、同時にそして行き、また、廃棄されて行くという運動こそ、考察され
ポス王しがこの運命のなすところが、性格の必然的行動でああった。そこで人倫的実体が、その概念によってこれら二つ の威力に分裂するときには、これまでは多くの形をもってお ることも、絶対的実在が、それ自身のなかでする行為である り、その規定のなかで動揺していた神の勢力圏も、この威力 ことも、理解されてはいないのである。 このように傍観しているだけの意識は、表象するだけで無に制限されることになり、そう決められることによって、本 目に一一 = ロっ 関心な態度をとる場であるが、そこでは精神は分裂した多様来の個人性に一層近づくことになる。なぜならば、蔔 たように全体が、実体となって現われる多様な抽象的な諸カ な姿をとって現われるのではなく、単に二つの概念に分れて に分裂しているときには、それらを契機としてその自己のな 現われるだけである。それゆえその実体は、両極をなす二つ の威力だけに分裂した形で現われる。この原素的な一般的実かに包む主体が、解消してしまうからであり、そのため、個 在は、同時に自己意識的な個人態をとる英雄である。これ人性はその実在の表面的な形式にすぎなくなるからである。 は、自分が二つの威力のどちらか一方にすぎないと意識してそれとは逆に、いまあげた二つの性格より以上の区別を立て ると、それは偶然な、それ自体では外的な個人格に数えられ おり、その点に決定的な性格をもっていて、そこで自ら活動し 目に言ったように ( 五ることになる。 現実となる。この一般的な個人化は、蔔 これと同時に実在はその形式乃至は知の上からも分れる。 〇七 ) 、なお降って行って、本来の定在という直接的な現実に なり、多数の観客の前に現われるが、この観客は合唱団を自行動する精神は意識であるから対象と対立する。意識はこの 分達の対としている。或はむしろ合唱団は、自分達を言表し対象にはたらきかけるが、そのために対象は知るものにとっ てくれる自分達自身の表象である、と言った方がいし て否定的なものと規定されることになる。その結果、行動す ここで対象となっている精神の内容と動きについては、人る精神は知と無知の対立のなかにいるわけである。この精神 は、その性格から自分の目的をとり出し、これを人倫的本質 倫的実体の本性とその実現という形で既に観察しておいた。 だと思うけれども、性格が一定のものであるために、実体の 宗教の形をとるときには、この精神は自分について意識する ようになり、一層純粋な形式と一層単純な形態となり、自分一方の威力を知っているだけで、他方はその精神には隠さ を意識して現われることになる ( 四九一 ) 。実体は、その内容れている。だから現在する現実は、自体的に ( 潛在的 ) 他者で から言えば、神々の威力と人間の威力であり、地下の正義とあり、意識にとって他者である。この関係にあっては、上界の 地上の正義であり、前者は家族であり後者は国家権力であ正義と下界の正義は、意識が知っており意識が露わな威力と、 り、前者は女性という性格であり、後者は男性という性格で隠れていて背後で待ち伏せしている威力、という意味をもっ
る。すなわち、課題に止まっているのに、なお実現さるべき ため、多様な道徳的関係をもっている。ここに生じてくるの だという課題の矛盾に、意識でもないし、もはや現実である は、内容から言えば、多くの法則一般であり、形式から言え べきでもないという、道徳性の矛盾に、陥るからである。だ ば、知っている意識と意識なきものという、矛盾する二つの が、完遂された道徳というものが、矛盾を含んでいると考察威力である。まず第一に、多くの義務についていうならば、 される結果、道徳的本質の神聖な姿は傷つけられ、絶対的義もともと道徳的意識に妥当するのは、それらの中での純粋義 務は、現実的でないものとなって、現われることになろう。 務だけである。多くの義務は、多くのであるからには、それ 第一の要請は、道徳性と対象的自然との調和であり、世界ぞれ一定のものであるから、そのままでは、道徳的意識にと の究極目的であった。第二の要請は、道徳性と感性的意志と り、少しも神聖なものではない。だが同時に、行動は、多様 の調和であり、自己意識そのものの究極目的であった。だか な現実と、したがって多様な道徳的関係とを含んでいるか ら、第一のは自体存在の形式における調和であり、第二のは ら、その行動の概念によって、当然、多くの義務も、即且対 自独 ( 対自 ) 存在の形式における調和である。だが、考えら 自的に存在するものと、考えられねばならなくなる。更に、 れたものであるとこるの、これら二つの両極的究極目的を、 多くの義務は、一つの道徳的意識のうちにしか存在し得ない 媒語によって結びつけるものは、現実的行動自身の動きであのだから、同時に、別の意識のうちに在ることになる。つま る。二つの究極目的は、共に調和であるけれども、その契機り、純粋義務としての純粋義務だけを、それ自身で ( 即且対自 は、抽象的に区別されたままで、まだ対象としてとりあげら的に ) 存在し、神聖であると考えている例の意識とは、別の れてはいない。 このことが現実に起ってくるわけであるが、 意識のうちに、在ることになる。 そのときには、両側面は本来の意識において現われる、つま かようにして、要請されていることは、多くの義務を神聖 り各々は他方の他方として現われる。これまでの要請は、自であるとし、或は、多くの義務を義務として知り、また求め 体的に存在する調和と、対自的に存在する調和という、二つるような、別の意識が在るということである。初めの意識 の調和を含んでいたにすぎないが、いまこうして生じた要請 は、すべての一定の内容に対しては、無関心な態度をとるか は、即且対自的に存在する調和を含むことになる。 ら、義務は、内容に対する無関心にほかならないことにな 道徳的意識は、純粋義務が単純に知りまた欲することである。だが第一一の意識は、行動に対してもやはり本質的な関係 るが、行為においては、その単純な姿に対立した対象と、関を含み、一定の内容を必然的であるとしている。この場合に 係している、つまり現実の多様な場合と関係している、その は、義務は一定の義務と認められるから、したがって、内容
のであるような、内面としての、内面である。 い。だから、カの真理は、いつまでも、カの思想 ( 一〇五 ) で こにいたって、物のこのような真の実在が規定されてい あるにすぎない。力が現に在るときの両契機、その実体、そ の運動は、区別のない統一のなかに、支えを失って、崩れ去る姿は、物が意識に対し直接在ることではなく、意識が、内 って行く。が、この統一は、自己に押しもどされたカではな惘面のものに直接関係していることであり、悟性として、二つ く ( というのも、この場合の力はそれ自身では、そういうよのカのたわむれを通して、物の真の背景に眺め入ることであ うな一方の契機であるにすぎないから ) 、カの、概念としてる。悟性と物の内面という二つの極を結び合せる媒介は、カ の概念である。だから、力を実現することは、同時に、カの展開された有であり、この有は、これから後は、悟性自身 が実在でなくなることである。力は、実現されるとき、むし にとり消え去るものである。だから、この有がつまり現象 ろ、全く別のものに、つまり一般性になっている。この一般 (E 「 scheinung 現われ ) なのである。というのは、それ自身で 性を悟性は、さしあたり、もしくはそのまま力の本質と認そのまま非有であるような有は、仮象 (Schein 現われ ) と呼 ばれるからである。だが、それは仮象であるだけでなく、現 める。そしてこの一般性こそ、在るべきはずのカの実在性に おいて、現実的な実体において、カの本質であることがわか象、つまり、仮象の全体なのである。全体としてのこの全 る。 体、つまり、一般者は、物の内面をなすものであり、その内 われわれが最初の一般者を、カがまだ自分だけ ( 自分にとっ面は、二つのカのたわむれが自己自身に帰る ( 反照する ) こ てのもの ) になっていないような、悟性の概念として考える とである。この全体のなかでは意識にとり対象的な仕方で、 限り、その第二の一般者は、、 しま、それ自体に自分だけで ( 対知覚の本質は、自体的に在る通りに措定されている。つまり 自的に ) 現われるような、カの本質である。或は逆に、われ知覚の本質は、静止することも在ることもなく、反対のなか われが第一の一般者を、意識に対する一つの現実の対象であに、そのまま変って行く契機として在る。つまり、一がその るはすの、直接的なものと考えるならば、第二の一般者は、 まま一般者に、本質的なものがそのまま非本質的なものに、 識 感覚的に対象となる力を否定するものと、規定されている一」変って行き、またその逆に変って行くのである。だから、二 意とになる。この第二の一般者は、その真の実在において、悟っのカのこのたわむれは、否定が展開されたものである。だⅱ がこの否定的なものの真理は肯定的なものである。つまり、 < 性の対象としてのみあるような力である。第一の一般者は自 己に押しもどされたカ、つまり、実体としてのカであるが、 一般的なもの、自体的に有る対象である。対象の有は、意識 第二の一般者は物の内面である。概念としての概念と同じも にとっては、現象の運動により媒介されている。この現象に
そういうふうにして、一つの自己意識がもう一つの自己意 識に対しているのである。こうして初めて、自己意識は事実 自己意識の自立性と非自立性主と僕 上存在していることになる。というのも、このとき初めて、 自己意識がその他在において自己自身と一致するということ は、意識にとってのこととなるからである。自我すなわち、 自己意識は、自体的にまた自分で ( 自覚的に ) 他の自己意識 自己意識の概念の対象であるものは、実際には、対象ではな に対しているとき、またそのことによって、即且対自的に在 ところが、欲求の対象は、一般的な、亡ぼすことのでき る。すなわち、自己意識は他の自己意識から承認されたもの ない実体であり、流動的な、自己自身に等しい実在であるか としてのみ存在する。このように、自ら二重になっていなが らこそ、実に自立的である。いまここで対象となっているの ら統一している概念、自己意識のうちに実現される無限とい は、自己意識であるから、対象は対象であると共に自我であう 概念は、多くの側面と多くの意味をもち、これらを交叉さ る。そういうわけで、われわれにとっては、既に精神の概念せている。そのためそれらの契機は、一方では厳密に区別し が現存していることになる。この上なお意識にとって生じて て扱われなければならないが、他方ではこの区別にありなが くるものは、精神が何であるかという経験である。すなわら、同時に区別されていないものとして、またはいつも意味 ち、異なった、自分だけで ( 自覚的に ) 存在する自己意識とい の上で対立したものと受けとられ、認められねばならない。 う形での、二つの自己意識の対立が、完全に自由であり、独区別されたものが一一重の意味をもっことは、自己意識の本質 立でありながらも、両者が、すなわち、われわれである我と、 のなかに在る、すなわち、無限であるという、または、自己 我であるわれわれとの両者が一つであるという、この絶対的意識のおかれている規定態とはそのまま反対であるという、 実体が、何であるかという経験である。意識は、精神の概念本質のうちに在る。一一重になっている、自己意識の精神的統 としての自己意識に至って初めて、その転回点を持っことに 一という概念を分析すると、われわれに対し、 ( 相互 ) 承認 己なる。この転回点に立って意識は、感覚的此岸の多彩な仮象 ( 「エンチ = クロペディー」四三〇節 ) という動きが現われてく と超感覚的彼岸の空しい夜 ( 前章 ) から出て、現在という精神る。 的真昼に歩みこんだのである。 自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識 は自分の外に出てきているのである。このことは二重の意味 141
肯定的結果を、もっと詳しく考察すれば、既にそこで自体的そは、区別ある内容を失ったときに、信仰が落ちこんで行っ たもの、例の、自分自身のうちで、精神が無意識的に織りなす には汚点は廃棄されていることが、明かになるであろう。 くすんだものなのである。同時にそれは、純粋自己意識を、 Ⅱ啓蒙の真理 絶対に縁なき彼岸としているはずの、純粋自己意識の例の運 こうしてもはや自分の中で何の区別もなくなった、くすん動である。な。せならば、この純粋自己意識は、純粋概念にお ける、区別なき区別における運動であるため、実際には意識 だ、精神の織りなすものは、意識の彼岸の自分自身に、退い なく織りなすもののうちに、つまりただ感ずることに、言い て行っているが、意識自身は、かえって明晰になっている。 かえれば、ただの物態に、落ちこんで行くからである。だ この明晰の第一の契機は、純粋透見、もしくは、自体的には 概念である純粋透見が、自己を実現することによって、必然が、自己疎外に陥っている概念は、ここではまだ疎外の段 階にあるために、自己意識の運動とその絶対的実在という二 的な姿をとり条件をえて、規定されている。つまり純粋透見 つま は、他在すなわち規定態を、自分に立てるとき、自己を実現つの側面が、かく等しいものであることを認識しな、 するのである。こういうふうに、純粋透見は否定的な純粋透り、この等しいものが両者の実体であり、両者を存立させて この概念は、この統一を いるのに、そのことを認識しない。 見、すなわち、概念の否定である。この否定も純粋である。 認めないために、実在をただ対象的彼岸の形でだけ認めてい こうして更にそれ以外には何の規定ももっていないような、 るが、そういうふうに自体を自分の外にもっており、区別の 純粋な物、絶対的実在が生成したわけである。これをもっと はたらきをする意識を、有限な意識であると認めているので 詳しく規定すると、絶対概念としての純粋透見は、もはや区 別でない区別を区別すること、もはや自分自身を担うのではある。 啓蒙は、前には信仰と争っていたのであるが、いまその絶 なく、運動全体によってのみ支えられ、区別されるような抽 神象、すなわち純粋概念を、区別することである。このように対実在について自分と争っており、そのため二つの党派 ( 不可 区別のないものを区別することは、絶対概念が自己自身を自知論、理神論と唯物論、感覚論 ) に別れることになる。一つの党 分の対象とし、さきの運動に対して、自分を実在として立て派は、二つの党派に分裂することによって初めて、勝利の党 るという点に在る。そのため、この実在には、抽象乃至区別 として確認されるのである。なぜならば、このためにその党 派は、自分が敵としていた原理を、自分自身で手に入れ、そ 1 が別々にされているという側面が欠けており、したがって、 の結果、以前自分が陥っていた一面的な姿を、廃棄したこ 純粋な物としての純粋な思惟になるのである。だからこれこ
概念を実現するに当っては、実体は、対他存在に移って行 のある意識をもっている、という点に在るのではない。なぜ き、その自己相等性は、現実的な、自己を犠牲にする絶対的ならば、この意識は、単一な意識であるが、これはエス。フリ 実在 ( 子 ) となる。つまり実在は自己とはなるが、これは移ろ に富んでいるということが、まだやはり現実の世界を目的と い易い自己である。それゆえ、第三のものは、この疎外されしているという理由で、空しいものであると、数えたてるか た自己、おとしめられた実体がその初めの単純態 ( 聖霊 ) に帰らである。そうではなく、この意識が思惟する静かな国に ったものである。こういうふうにして初めて、実体は精神と は、現実が精神なき定在として対立しており、そのためこの して表象されているのである。 思惟は、外的な仕方で超えらるべきものとなる。この意識が これら区別された三つの実在は、思惟を通じて、現実の世神に奉仕し、神を讃える従順な態度 ( 廷臣の奉公想起 ) は、感 界の遍歴から自己に帰ってきているとき遍歴を終った永遠の覚的な知識と行為を廃棄することによって、即且対自的に存 精神 ( 霊 ) であり、それらが存在するのは、それらがつくって在する実在と一つであるという意識を、つくり出すけれど も、これは直観された現実的統一ではない。むしろこの奉仕 いる統一を考えるということである。このように自己意識か は、現在の世界ではその目標を完全には達しえないようなも ら離れていながらも、これらの実在は自己意識の中に食いこ のを、いつまでも、作り出しているにすぎないことになる。 んで行く。実在そのものは、初めの単純な実体の形式をとっ なるほど教団は、一般的自己意識 ( 五四二以下 ) であるから、 冫しつまでも無 て、ゆるがぬとすれば、自己意識にとってよ、、 縁のものであろう。だがこの実体が外化されると、その精神そこへ達するにしても、個々の自己意識にとっては、純粋思 は、自分で現実という契機をもっことになり、そのため信仰惟の国は、当然いつまでも自分の現実の彼岸である。言いか する自己意識に関与するようになる。言いかえれば、信仰すえれば、この純粋思惟の国は、永遠の実在を外化することに よって、現実のなかに入ってきたのであるから、そこにえら る意識は、現実の世界のものとなるのである。 れた現実は、概念把握されていない感覚的現実である。けれ 神 この第二の関係から言えば、信仰する意識は、一方では、 どもこれでは、一つの感覚的現実が、他方の感覚的現実に無 自ら教養の現実的世界のうちに、その現実をうることにな り、前に考察したような、教養の世界の精神と定在とにな関心なままでいることであり、なおそのうえに、彼岸は空間 る。が他方では、この意識は、空しいものとしての、この自的にも時間的にも遠く隔たっているという規定が、えられた に止まる。 ( 「不幸な意識」想起 ) しかし、概念は、すなわち、 分の現実に対抗して、これを廃棄するように動いてゆく。こ の動きは、その意識が、その現実の顛倒について、エス。フリ 精神が自分自身に現在しているという現実は、信仰している
に、理性的であると規定されている、つまり範疇という価値国として、それに対する世界を信仰の世界、本質 ( 実在 ) の をもってはいる。けれどもこの対象は、対象の意識に対して国として記すことになる。だがこの二つの世界は、自己自身 は、まだ範疇という価値をもってはいないようなものであの喪失から自己に進む精神、つまり概念によって、把まれる る。精神は、たったいまわれわれが考察を終って、そこから出とき、分別とその普及たる啓蒙によって混乱に陥れられ、革 命に行きつくことになる。そこで此岸と彼岸に分けられ、ひ てきたばかりの意識である。精神のもっているこの理性が、 ろけられた国は、自己意識に帰って行くことになり、この自 最後に、現に理性で在るようなものとして、言いかえれば、 精神のなかで現実的であり、精神の世界であるような理性と己意識は、次には道徳性となって自らを本質として、本質を して、直観されるようになったときには、精神は自らの真理現実的な自己として、把握することになり、自らの世界とそ の根拠を、もはや自らの外に置くことをしない、むしろすべ にいることになる。つまり精神は、現に精神であり、現実の てを自分のなかで消えさせ、良心として自己自身を確信する 人倫的実在である。 精神となる。 精神は、現に直接的な真実態 ( 三二七、三三四 ) である限り、 こうして人倫的世界、此岸と彼岸に分裂した世界と道徳的 或る民族の人倫的生命である、つまり一つの世界であるよう な個体である。が、精神は、自らの直接態についての意識に世界とは、みな精神である。が、それらの運動と、精神の単 純な自己存在的自己への還帰とが、展開されて行くとき、こ つまり、美しき人倫的生活を廃棄 進んで行かねばならない、 して、いくつかの形態を通り、自己自身の知に行きっかねばれらのものの目標及び結果として、絶対精神の現実的自己意 ならない。 これらの形態がこれまでの形態と異なるのは、そ識 ( 宗教 ) が現われることになる。 れらが実在する精神であり、本来の現実であり、ただの意識 の形態ではなく、一つの世界 ( 世の中 ) の形態であるためであ 生々とした人倫的世界は、自らの真実態にいる精神であ る。ます、精神が自らの本質を抽象的に知るようになると、 法という形式的一般性にいる人倫は、没落することになる。 次に、自己自身のうちで分裂した精神は、きびしい現実た る、自らの対象的な場のうちに、自分の世界の一方を教養の
われわれは、道徳的世界観を考察して、その対象的な在り 命題が言うことは、道徳的に完成された現実的意識は存在し 方は、意識が自分の対象としたような、道徳的自己意識自身ない、ということである。義務は何も混じえない純粋な自体 の概念にほかならないとしたのであるが、そのためこの世界であり、道徳性は、この純粋なものとの一致にのみ、在るわ 観の起源の形式が意識されることによって、その叙述も別のけであるから、もともと道徳的なものは、完成されている限 形態をとって生ずることになる。つまり、出発点となる最初 りでのみ存在するものである。そこで、一般に第二の命題 のものは、現実的な道徳的自己意識である、言いかえれば、 は、道徳的に現実的なものは何も存在しない、ということに そういう意識が存在するということである。というのは、概なる。 念がこの意識を立てるのは、すべての現実一般が、義務にか だが第一二に、意識は、一つの自己であるから、自体的には なっている限りでのみ、実在をもっている、という規定にお義務と現実の統一である。だからこの統一は、意識にとって いてのことである。概念は、この実在を知として、すなわは、完成された道徳性として対象となる。けれどもそれは、 ち、現実的自己との直接の統一のうちに、立てる。したがっ意識の現実の彼岸ではあるが、しかも現実となるべきもので てこの統一はそれ自身現実的であり、現に一つの道徳的な現ある。 実的意識である。ところでこの意識は、意識としてその内容 初めの二つの命題の、綜合的統一という目標のうちには、 を、対象の形で、つまり世界の究極目的、道徳性と全現実の自己意識的現実ならびに義務が、廃棄された契機としての 調和、という形で表象する。だがこの意識は、この統一を対み、措定されている。というのも、両者の何れも個々別々で 象として表象はするが、まだ、この対象そのものに対し、威よよ、 冫オしが、他方から自由であるという、本質的な規定をもっ 力をもっ概念としてではないから、この意識にとり、その統ていながら、各々統一にいるとき、もはや他方から自由では よい。したがって、各々は廃棄されているからである。だか 一は、自己意識を否定するものである。言いかえれば、この ら両者は、内容から言えば、各々が他方にとって妥当するよ 神統一は、意識の現実の彼岸として、だが同時に、存在するも のでもあるが、思惟されたにすぎないようなものとして、意うな対象となり、形式から言えば、両者のこの交換は、同時 識の外に生ずることになる。 に表象されただけだということになる。或は、現実に道徳的 したがって、自己意識として、対象とは別のものである意でないものと、やはり純粋思惟であり、その現実を超えてい るから、道徳的でないにも拘らず、表象においては道徳的で 識に、残っているものは、義務意識と現実しかも意識自身の 現実とが、調和しないということである。したがって、いまあり、完全に妥当するものと受けとられる。このため、道徳