規定 - みる会図書館


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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

くるときの運動は、そのために、人倫的実体が、意識として虐を意味する。これは、絶対的な法則から離れて理屈をこ ね、それらを自分には縁のない恣意と受けとるのである。 表現されるという形式的な意義をもっている。 いまのべた二つの形式のうちで、これら両契機は、実体つ これら両契機は、ことそのものの意識を更に規定したもの まり実在的な精神的な本質に対し、否定的な関係をとる。言 である限り、誠実三九五ー二九六 ) の形式と考えられてもよ いかえれば、それらの契機においては、実体はまだ自ら実在 この誠実は、前の場合には、その形式的な諸契機の間 を、いまの場合は、善と正のあるべき内容や、そういう固定になってはいない。むしろ意識は、実体をまだ意識自身の直 した真理の査問やの間を、浮動しているのであり、健全な理接態の形で含んでいるのである。そこで、実体はまだやっと この個人が意志し、知ることであるにすぎない、言いかえれ師 性と悟性的洞察のなかに、命令の力と妥当性があると思いこ ば、或る非現実的な命令の当為であり、形式的一般の知であ んでいるのである。 るにすぎない。しかしこれらの姿が廃棄されたとき、意識は だがこういう誠実がなければ、諸々の法則は意識の本質と は見られないし、査問にしても、やはり意識のうちでの行為一般者に帰ってきてお屮、例の諸々の対立は消えてしまっ た。精神的本質は、これらいくつかの仕方が個々にではな オしカえってこれらの契機が表現していること とは見られよ、。、 く、ただ廃棄されたものとしてのみ妥当することによって、 は、各々が直接自分だけで ( 対自的に ) 現実として現われてく るときには、一方は、現実の法則を妥当しない形で掲げ存在現実の実体となる。つまりそれらを契機としてのみ含んでい る統一は、意識の自己である。これは、今後は、精神的本質 させ、他方もやはり、妥当しない形でその法則から離れると いうことである。法則は、一定の法則であるとき、偶然な内のなかに措定されており、この本質を、現実的で充実した自 己意識的なものとするわけである。 容をもっている。この場合、このことは、その法則が恣意的 したがって精神的本質は、まず、自己意識にとって、自体 な内容について個別的意識のもっ法則である、という意味を 的に存在する法則としてある。つまり、形式であって自体的 性もっている。だから例の直接的立法は暴君的な悪虐であり、 この悪虐は、恣意を法則とし、人倫を、この恣意に対する従には存在しなかった査問の一般性は、廃棄されている。それ 理 順とするものである、つまり、ただ法則であるだけで、同時と共に、精神的本質はまた永遠の法則でもあるが、この法則 に命令であるのではないような法則に対する従順である。そは、個人の意志のうちにその根拠をもっているものではな く、自体的にまた自分で ( 対自的に ) 存在し、万人の絶対的な れと同じで、第二の契機は、遊離される限りでは、法則の査 問を意味し、動かし難いものを動かすことを意味し、知の悪純粋意志であり、この意志は直接的存在という形式をもって

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

精神は、この騒擾の世界からその出発点に、人倫的世界と 否定的な本質とに、すなわち純粋思惟としての述語なき絶対 者と、純粋物質としての、述語なき絶対者 ( 四〇九 ) とに、全教養の現実的世界とに投げかえされたと言えよう。この世界 く分れていた。が、この自己意識にとっていまここには、そは、再び心情に入りこんできた主の恐れのために、元気を新 これまでの結果 の現実の姿の中に、一方から他方への絶対的移行が現われてたにし、若がえったものにほかならない。 いる。一般的意志は、絶対に肯定的な現実的自己意識であが、自己意識と実体の完全な浸透にほかならないとすれば、 る。この自己意識は、純粋思惟もしくは抽象的物質に高めら精神は必然性のこの循環を新たに経めぐり、いつも繰り返さ れた、自己意識的現実であるため、一般的意志は否定的本質ねばならないでもあろう。浸透と言ったが、そこでは自己意識 に転換し、自己自身を思惟すること、すなわち、自己意識をは、その一般的本質が、自分を否定する力であることを経験 したのであるが、そのとき、自分がこの特殊なものではなく 廃棄するものであることがわかる。 て、一般的なものにほかならぬことを知り、そのことに気づ かくて絶対自由は、一般的意志が純粋に自己自身に等しい ことであるが、そういうものとして、否定をもっている、と こうとし、そのため、一般的精神が、特殊なものとしての自 同時に、区別一般をももっており、この区別を現実の区別と分を締め出す対象的現実であることにも、堪え得たかもしれ ない。だが絶対的自由においては、そうならなかった。つま して展開する。というのは、純粋否定性は、自己自身に等し い一般的な意志において、存立の場をもっている、言いかえり、多様な定在に沈みこんだり、一定の目的と思想を固定し たりしている意識と、現実のにせよ思惟上のにせよ、一つの れば、否定性の各契機が、実現される実体をもっているから である。純粋否定性は、自らをその規定態にふり向け得る質外的に妥当する世界とは、互いに交互作用をするわけではな 一般的意志として、全く、意識の形式を そうではなく、 料をもっている。そしてこの実体が否定的なものとして、個 個の意識に示された限りでは、精神的集団の組織がふたたびとる世界と、ひろがりをもっ全定在、または多様な目的及び 神出来上り、多くの個人的意識はそこに割り当てられる。自分判断からひき出されて、共に単純な自己に引き入れられてし まった自己意識とが、交互作用をするのである。自己意識が 達の絶対的主人、つまり死の恐れを、感じたこれらの個人意 識 ( 主僕関係想起 ) は、また否定と区別を受け容れて、集団の外的実在と交互に交ってえた教養は、それゆえ、最も崇高で 組織に服し、分け与えられ制限された仕事に帰るが、その結究極のものでありながら、自己意識の純粋で単純な現実がそ 果実体的現実に帰るのである。 ( ナポレオンの君主政治、立憲君のまま消えてしまい、空しい無に移って行くのを、見ること 主政治 ) になる。教養自身の世界においては、自己意識は自らの否定

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

たものである。このように自分自身に対立し、定在に歩み入 はもはや両者とも自己なき定在でも、意識を否定するもので っているのは、完全に内なるものである。両者は純粋知とな 圏もなくなっている。例の義務は自己を知り、引き続き同一で あるような性格のことであり、悪はやはり、自らの目的をそっているが、これは、この対立によって、意識として立てら の自己内存在のうちに、自らの現実をその言説のうちにもつれている。たがまだそれは自己意識ではない。それが自己意 ているものである。この言説の内容は自らの存立の実体とな識となって実現するのは、この対立の運動においてのことで っている。言説は、精神が自分自身のうちで確信しているこある。なぜならば、この対立はそれ自身むしろ非連続の連続 とを断言する。両方の自己自身を確信する精神は、自らの純 であり、自我 = 自我の相等性であるからである。各々は、純 粋自己以外の目的をもっていないし、まさにこの純粋自己以粋一般でありながら、同時に他と自分の相等に逆らい、そこか 外の実在性も定在ももってはいない。しかし両者はなお異な ら自分を分離するという矛盾のためにこそ、自分で自分自身 っている。この相違は、純粋概念のこの場におかれているか において自分を廃棄する。この外化によって、その定在のな ら、絶対的である。さらに、この相違がそうであるのは、わ かで分裂したこの知は、自己の統一に帰る。それは現実的自 れわれにとってだけのことではなく、この対立のなかにいる我であり、自らの絶対的反対において、自己内に存在する知 概念自身にとってのことである。というのは、これらの概念 において自己自身を一般的に知ることである。この知は、分 は互いに一定のものではあるが、同時にそれ自体で一般的な 離された自らの自己内存在の純粋性のゆえに、自ら完全に一 ものであるからである。そのため概念は自己の全範囲を充た般的であるようなものである。両方の自我がその対立する定 しており、この自己は、自らの規定態より外の内容を何もも在を捨てたとき、その和解する「諾」は、二つ ( 個別と一般 ) っていないし、この規定態はその自己を超えてもいなければ、 となって拡がった自我の定在であるが、これはそのとき自己 自己より制限されてもいないからである。というのも、絶対 に等しいままであり、その完全な外化と反対にいながら、自 的一般者である一方は、個別性という絶対非連続である他方己自身を確信している。これが、自らを純粋知と知っている と同じように、純粋に自己自身を知っているからであり、そこ両者の真只中に現われる神である。 で両者はこの純粋自己知にすぎないからである。だから、両 方の規定態は知りつつある純粋概念であり、この概念の規定 態はそれ自身そのまま知である。言いかえれば両者の関係と 対立が自我である。そのため両者は互いにこの端的に対立し

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

これとちがって、現象する意識の全範囲に向けられる たは空を抽象することで終る懐疑論は、この抽象から先に進 懐疑主義は、、 しわゆる自然的表象、思想、臆見などに対し現むことができないで、何か新しいものが現われてくるかどう に絶望するとき、何が真理であるかを、精神がたくみに吟味か、現われてくるとして、それが何であるかを待ちもうけ、 これ できるようにしてやる。だから、そういう臆見などが、自分それを同じように空しい深淵に投げこむよりほかない。 のものと言われようと、他人のものと言われようと、それは に対し、真にある通りの結果は、一定の否定として把まれる どちらでもよい。また率直に吟味へと進んでゆく意識は、そので、そこにすぐさま一つの新しい形式が出てきて、否定の れら臆見などにまだ充たされ囚われており、そのため実際に なかで移行が行われる。そのために、数ある形態が完全につ は自らの企てることを行いえない。 ( 「哲学に対する懐疑論の関くされることによって、自ら進むということが起るのであ 係」一八〇二がある。 ) る。 だが目標というものは、知にとっては、進行の系列と同じ 実在的でない意識の諸々の形式は、進行と関連そのものと ように、必然的に立てられている。目標は、知がもはや自分 の必然によって、完成されるであろう。このことを理解でき るようにするためには、意識の不真のなかで真ならぬ意識をを超えて出る必要のないところ、知が自己自身を見つけ、概 念が対象に、対象が概念に一致するところ、そこに在る。だ のべるのは、ただ否定的な運動にすぎないのではないという このこと ことを、あらかじめ一般に注意しておく方がよい。 から、この目標に向って進むとき、止まることもないし、以 について、そういうふうに一面的な見解をもっているのは、 前の停り場で満足することもない。自然的な生命に制限され 一般に自然的意識である。そしてこの一面的な姿を自らの本ているものは、自己自身で、その直接の定在を超えて出るこ 質としている知は、完結されていない意識の形態の一つであとはできないが、自分以外のものによってその外に追いたて り、これは、この道自身が経過して行く間に生じ、そこに現られ、そのように引きさかれ、外に出されるとき、それは死 われる。つまり、この形態は、結果のなかにいつもただ純粋ぬ。意識は、それ自身で独立するとき、自らの概念である 論の無だけをみており、この無が、はっきりいえば、自らが結が、そのとき、そのまま制限されたものを超え出ている。そ 果として出てぎたもとのものの無であることを、抽象してい してこの制限されたものは意識のものでもあるのだから、そ 緒る。だから、無とは、自らが出てくるもとのものの無と受けのときには、自分自身をも超えている。個別的なものと一緒 とられるとき、実際に真の結果である。したがって、その無に、意識には同時に彼岸が措定されている。が、この彼岸 は規定されたものですらあり、或る内容をもっている。無ま が、空間的直観の場合のように、制限されたものと並んでい

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

とを、示しているからである。自分と他方との間に分れてい はたらきをし、運動する純粋物質である。ここで重要なこと 芻た関むよ、、 . ~ しま全く自分に帰している、そこで関心の的であは、純粋物質なるものが、見たり感じたり味わったりすること った対立が、自分自身のなかにあることになるから、他方のを捨象したときに、後に残っているものにすぎないというこ ことは忘れてしまう。だが同時に対立は、より高い勝利の場と、すなわち、純粋物質が見られたものでも、味わわれたも に高められており、そこでは、純化された形で現われること のでも、感じられたものでもないということ、このことをよ になる。そのために、一つの党派のうちに分裂が発生するのく考えてみることである。見られ感じられ味わわれるもの は、不幸なことのように思われるが、その党派にとっては、 は、物質ではなくて、色であり石であり塩である。物質とい むしろ幸運であることがわかる。 うのはむしろ純粋抽象である。そのため現に在るのは、思惟 純粋実在は、自分では何の区別ももってはいないので、区という純粋実在、つまり純粋思惟自身である。それは、こう 別がそこに生ずるのは、意識に対しそういう二つの純粋実在 いうものとして、自分のなかに区別をもたないし、規定もさ が生じ、純粋実在が、二重の意識となって現われる、という れず述語ももたない絶対者である。 形においてのことである。純粋絶対実在は純粋思惟のなかに 絶対実在を、一方の啓蒙はいま言った述語なき絶対者と呼 のみ在る。言いかえれば、むしろそれは純粋思惟自身であるぶが、これは、現実的意識の彼岸にある純粋思惟のうちに在 から、ただ、有限なもの、自己意識の彼岸にあり、否定的なも り、これを出発点としている。他方の啓蒙は絶対実在を物質 のにほかならない。だがこういう形で絶対実在は実に存在でと呼ぶ。 あり、自己意識を否定するものである。自己意識を否定する 両方の絶対実在が、自然と精神または神という形で区別さ ものとして、それはまた自己意識に関係してもいる。つまりれる場合には、それ自身において意識なき活動には、自然で それは外的な存在であり、これは、諸々の区別や規定が落ちあるために必要な、展開された生命の富が欠けることになり、 こんで行く自己意識に、関係するとき、自分で区別をもっこ精神または神には、自らを区別する意識が欠けることになる とになり、味わわれ、見られなどすることになる。そこでこ であろう。両者は、既に ( 四〇七 ) 見た通り、直ちに同一の概 の関係は感覚的確信であり、知覚であることになる。 念であるが、区別があるとすれば、事柄のうちにではなく、 例の否定的彼岸は、当然感覚的存在に移行して行く。この ただ全く、両方の構想の出発点のちがいにであり、各々が、 感覚的存在から出発して、更にこの一定の形の意識関係を捨思惟を働かすとき、自分の立場に立ちどまっていることに、 象するならば、そこに残るのは、自分自身のなかでくすんだ であるにすぎない。両方は、この点を超え出るときには、一

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

た規定である。それらの契機の各々をわれわれは、それ自身ら、精神が自体的につまり直接的に在るものの知に達する運 3 においてそのもの自身の経過のうちで、区別し、異なった形動であり、精神のその意識に対して現われる形態が、その本 にする。それは例えば、意識においては感覚的確信と知覚が質と完全に等しくなるに至り、精神が自ら在る通りの自分を 区別されるようなものである。この後の側面は時間のなかで直観するに至るまでの運動である。かくて精神自身は、この 継起し、一つの特殊な全体に帰属する。というのも、精神は生成においては、この運動の区別をつくっている一定の形態 規定によって、その一般性から特殊性に降ってゆくからであをとることになり、同時にそのために、一定の宗教は一定の る。規定乃至媒語は意識、自己意識などである。これらの契現実的精神をもっことになる。だから、一般に、自らを知る 機のとる形態が個別性となる。だからこれらの形態は個別態精神に、意識、自己意識、理性及び精神が帰属するとすれ 乃至現実態における精神を表わしており、時間において区別 ば、自らを知る精神の一定の形態には、一定の形式が帰属す される、がそれは、次に来るものが前のものを、自らに維持ることになる。これらの形式は、意識、自己意識、理性及び しているという形でのことである。 精神の内部で、その各々において特別な形で展開したもので それゆえ、宗教が精神の完成であり、意識、自己意識、理ある。宗教の一定の形態はその現実的精神 ( 東方的、ギリシア 性及び精神という精神の個々の契機はその根底としてのこの的、キリストゲルマン的精神 ) のために、その各契機の形態の中 から、自分に適したものをとり出してくる。宗教の一つの規 完成に帰り、また帰ってしまっている。その場合、それらの 契機は一緒になって、精神全体の定在する現実をなすわけで定態は、その現実的定在のあらゆる側面を貫いて、これに共 あるが、この全体は、これらの側面が区別されながらも、 通の刻印をおすことになる。 さてこうしてこれまでに現われた形態は、前の系列が現わ 自己に帰って行く運動としてのみ現に存在する。宗教一般の 生成は一般的契機の運動のうちに含まれている。しかし、これたのとはちがった順序をとるので、それについて予めかん れらの属性の各々は、一般的に規定されているだけでなく、 たんに注意をしておく必要がある。これまでに考察した系列 全く自分で存在し、すなわち、自分自身のうちで全体として においては、自らのなかで深まりながら、各契機は、その固 経過するものであるが、その仕方が叙述されたときには、そ有の原理において一つの全体に形成されて行ったのである。 れと一緒に宗教一般の生成が起っただけでなく、個々の側面そして認識は、自分だけでは存立しない契機に、その実体を の例の完全な経過も、同時に宗教自身の規定態を含んでいる もたせる深み乃至精神であった。だがいまこの実体が表に ことになる。精神全体、宗教の精神は、また、その直接態か出てきたのである。この実体は自己自身を確信する精神の深

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248 くることがわかった。その単純な存在と、これに対応しない この命令において現われる区別は、一つの規定態をとる。だ から一つの内容である。この内容は、この単純な存在の絶対規定態を、比較するのが、われわれの仕事であった。そして 比較するときに、単純な実体は、形式的な一般性であるこ 的普遍性に、従属しているようなものである。したがって、 と、言いかえれば、内容から自由なものとして、内容に対抗 絶対的内容というようなものは、断念されねばならないのだ から、その命令に帰せられうるのは、形式的な一般性つまりするものであり、一定のものとしての内容についての知であ るような純粋意識であること、がわかった。この一般性は、 それが自己矛盾でないという、このことだけである。なぜな らば、内容のない一般性とは、形式的な一般性のことであそういうわけで、ことそのものであったものと同じものであ り、絶対的な内容とは、それ自身何の区別でもないような区る。だがこの一般性は、意識のうちにあるときには、それと は別のものである。つまり、それは、もはや思想なく活動性 別と同じであり、言いかえれば、内容がないのと同しだから のない類ではなく、特殊に関係し特殊に当てはまるものとし である。 こうして立法のために残っていることは、一般性という純て、その威力であり真理である。この意識も初めは、以前に 粋形式である。言いかえれば、実際には意識の同語反復であそうであったと同じような査問であるように見え、そのはた る。これは、内容に対立しており、存在する内容、すなわちらきも既に前節で起った、一般的なものと規定されたものと 本来の内容についての知ではなく、本質についての、すなわの比較と別のものではあり得ず、そこからは、前の場合と同 じように、両者の不適合が出てくるように見える。けれども ち、本質の自己相等性についての、知である。 ここでは、内容と一般者の関係は、一般者が前とは別の意味 したがって人倫的本質は、直接的には内容でさえもない。 かえって、内容が自己矛盾でないとぎに、法則でありうるかをえたのだから、ちがったものになっている。この一般者 は、一定の内容が、それをもちうるような、形式的一般性で あり得ないかという場合の、尺度にすぎない。立法的理性は ある。というのは、この一般性にあっては、一定の内容は、 ただ査問する理性になりさがっているのである。 自己自身に関係してのみ、考察されるからである。われわれ 査法的理性 が査問するにあたって、一般的な充実した実体は、規定態に 単純な人倫的実体にある一つの区別は、この実体にとって対立していたが、この規定態は、実体が入りこんで行った意 は一つの偶然な形をとる。この偶然な形は、一定の命令にお識の偶然性として、展開された。ここでは、比較の一方の項 一般者は、もはや存在し妥当する実 は消えてしまっており、 いては、知識と現実と行為との、偶然な形となって現われて 306

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

198 とういうく・ほみに関係し はいくつかの精神の性質がある。それが多数であり、規定を心がどういうものであり、または、・ もっているなどのことは、心理学の状態に依存している。精ていようと、またこのもりあがりやく・ほみが、どういう性質 と関係していようと、その心ともりあがりまたはく・ほみと 神についての表象が貧しければ貧しいだけ、この側面につい は、関係させられうるわけである。というのは、人殺しは人 て、問題は一層やさしいものになる。というのは、性質は、 一方で少くなれば、それだけ他方では、一層孤立的に固定的殺しという抽象物にすぎないのではなく、また一つの凸起と 一つのく・ほみを、もっているだけではないからである。この に骨的になり、そのため骨の規定に一層似たものとなり、こ の規定と比較され易いものとなるからである。とはいえ、精点について行われる観察は、だから、年の市のときの小売商 神についての表象の貧しさのために、多くのことが易しくな人や、洗濯するときの主婦の、雨の観察と、ちょうど同じ程 るにしても、やはり両側面共に非常に多くのものが残る。観度のものであるにちがいない。小売商人や主婦は、この隣り の人が通りすぎると、また豚の焼肉をたべると、いつでも雨 察にとっては、両側の関係の全き偶然ということが残る。イ が降るという観察をすることもできる。雨がこの状況に対し スラエルの子孫は、海辺の砂のように多くなると言われてい る ( 創、二二の二三、 = ザヤ、一〇の二一 l) が、その子孫の一人関係がないように、観察にとっては、精神のこの規定は、頭 一人が、自分をしるしている砂粒をとりあげたとする。その蓋のこの一定の存在と関係はないのである。観察の両方の対 場合、一人一人にその人自身の砂粒を頒け与えるということ象のうちで、一方はひからびた自立存在 ( 自覚存在 ) 、つまり の、この無関係と恣意にしてからが、各人の魂の能力とか情精神の骨化した性質であるが、他方も同じように、ひからび た自体存在である。両方とも同じように骨化した物である 熱とか、この場合同時に考えられねばならないようなもの、 が、互いに他方に対しては関係がない。高いもりあがりから すなわち、お上品な心理学や人間知が、普通語っているよう な、諸々の性格の陰影などに、頭蓋骨の位置と骨の形とを示みれば、人殺しという性質が、その近くにあるかどうかは、 す無関心と恣意よりも、強いということはない。人殺しの頭関係のないことである。それは、人殺しにとって、平たいと ころが、人殺しという性質の近くにあるかどうかが、無関係 蓋にはこれ、つまり、器官でもしるしでもなく、 ( 頭蓋の ) こ であるのと同じである。 のもりあがりがある、が、この人殺しには、まだほかのいく たしかに、或る性質、激情などが、或る場所で頭蓋のもり つかの性質ともりあがりとがある。そしてもりあがりと一緒 に、くぼみもある。人々は、、 しくつかのもりあがりと、く・ほあがりと結びついているという可能性は、残っており、超え : たいものである。人殺しは、ここのこの頭蓋の位置で、高 みのなかから、選び出すわけである。そこで更に、人殺しの

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

から出て、一般者となる。けれども、この一般的なものは、 自分だけでの有をつくりあげている本質的な性質をもっと言 われるが、この単一態にも拘らず、自己自身で種々相をもっ感覚的なものから発しているので、本質的にはこれによって ている。この種々相は必然的ではあるけれども、本質的規定制限されている。だからそれはもともと、真に自己自身に等 態をなすものではないと言われる。だがこのことは、かろう しいものではなく、対立によって刺戟された一般性である。 じて言葉のなかに在るにすぎない区別である。非本質的であそれゆえ、個別と普遍という両極に、諸々の性質が一つであ りながらも、同時に必然的であるはずのものは、自己自身をることと自由な素材のもまたという両極に分れる。この純粋 廃棄する、言いかえれば、たったいま、自己自身の否定と呼の規定態は、実在性そのものであるように見えるが、自分だ けの有にすぎないのであって、他者に対する有につきまとわ ばれたものである。 ここに至って、自分だけでの有と他者に対する有とを分けれている。しかし、両者は共に本質的には一つの統一のなか に在るのだから、いまここに至っては、無制約な絶対の普遍 ていた、例の最後の「限りにおいて」はくずれ去ってしま が現存していることになる。そして、ここで初めて意識は真 う。むしろ、対象は全く同一の点で自己自身の反対である。 に悟性の分野に入ったわけである。 対象は他者に対してある限りで、自分だけで有り、自分だけ それゆえ、感覚的個別性は直接的 ( 無媒介 ) な確信の弁証法 である限りで、他者に対している。対象は自分だけであり、 自己に帰って ( 反照して ) おり、一である。だが、このよう的運動のなかで消えて、普遍となりはするが、この普遍は感 に、自分だけで、自己に帰って、一であることは、その反対覚的一般性であるにすぎない。思いこみ ( 臆見 ) は消え去って つまり他者に対する有と統一されており、それゆえ、廃棄さおり、知覚は、自体的に有り、普遍者一般として有る対象を れたものとしてのみ措定されている。言いかえれば、この自つかむ。それゆえ個別性は知覚においては、真の個別性とし 分だけでの有にしても、非本質的である点では、他者との関て、一という自体存在として現われてくる。言いかえれば、 係としてそれのみが非本質的なものであると、言われたもの自己自身に帰った有として現われてくる。だがこの自体存在 と同じである。 は制限された対自存在 ( 自分だけでの有 ) であり、これと並んで 以上のようにして、対象はその、いくつかの純粋の規定態 別の対自存在が、つまり、個別性に対立し、個別性によって において、自らの本質をなすはすの規定態において、廃棄さ 制限された一般性が現われてくる。だが、個別と一般という れている。それは、ちょうど対象がその感覚的存在において この二つの矛盾する極は、並び合っているだけでなく、統一 廃棄されたものとなったのと同じである。対象は感覚的存在されてもいる。同じことであるが、両者に共通のもの、つま

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

そういう素因は現にあるのだとも一一一口える。同じように、頭蓋反対を、しかも無思想なやり方で、自ら語ることになるとい うことである。つまり、この骨によって何かが暗示されるけ の観察者も、この個人は、もともとは頭蓋が法則の上で言っ ている通りに、在るはずであったと言い、本来の素囚はあるれども、同じ程度に、暗示されないこともあると語ることに なる。 のだけれども、形には現われなかったのだとも一一一口える。つま り、そういう性質は現にあるのではないが、現にあるはずで こういう逃げ口上をする場合、思いこみ自身が想い浮べる あるというのである。法則と当為は、現実の雨の観察に、ま ことは、存在そのものが ( 意識から全く独立していて、それ自 た、頭蓋がこのように規定されているときの、現実の意味の身で固定しており、弁証法的流動〔精神〕のなかに入ってこ 観察に、基づいている。だがその現実は存在していない、そないもの、しかもそれ自身で独立に存在すると思いこまれて こでその空しい可能性が、現実と同じ程度に認められること いるもの ) 、決して精神の真理ではないという、まさに思、 になる。この可能性、すなわち、かかげられた法則の非現実こみを減ぼす真の思想である。既に素因が、精神のはたらき 性と、したがってこれに矛盾する観察とが入りこんでくるの に少しも関与しない、本来的な存在であるように、骨もまた は、個人の自由と展開して行く環境とが、存在一般に対してやはりそういうものである。精神的はたらきの伴わない存在 も、本来の内的の、外的な骨としての存在に対しても、同じ者は、意識からみれば物であって、意識の本質ではない。だ ように無関係であるためである。また個人が、内面的に本来からそういう存在は、むしろ意識の本質の反対である。意識 あるのとは、異なったものでもありうるし、そのうえ、骨が は、そういう存在を否定し滅・ほすことによってのみ、自らに あるのとは異なったようにも、ありうるためである。 とって現実的である ( 二三六、実行 ) 。この面から言えば、骨 こうして、われわれの手に入れる可能性は、頭蓋のこのたを意識の現実的定在だと言うのは、理性をまったく否定する かまりもしくはく・ほみが、現実的なものでもあれば、素因に ことだと見なされてよい。骨がそういうものだと言われるの . すぎないものでもあり、しかも不定な形で、何かあるものの は、骨が精神の外面たと考えられるからである。なぜなら ば、外面はまさしく存在する現実だからである。この外面か ための素因であるということ、頭蓋が何か非現実的なものの らは、それとは別のものである内面が、推理されるだけであ しるしであるということである。われわれの気がつく通り、 下手な逃げ口上というものは、いつでも、自分が助けるはず 、外面は内面そのものではなく、内面の表現であるにすぎ というの のものに逆らった形で、使われることになる。われわれが気ない、などと言っても、少しも助けにはならない。 づくのは、思いこみが、事柄の性質、自分の固執することの は、両者相互の関係のうちには、ほかでもなく、内なるもの