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検索対象: 世界の大思想12 ヘーゲル
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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

432 に分裂する限りでは、精神はその契機において一定のものであるから、人間は本質なき自己であり、両者の定在と戦とを あることになり、また、契機が四位一体と数えられたり、或綜合する地盤であることになる。けれども、この二つの一般 はまた多数自身が更に二つに、つまり善に止まった部分と悪的威力はやはり自己のものである、言いかえれば、自己が両 になった部分に分裂するため、五位一体とすら言われたりす者の現実なのである。そこで、この契機から言えば、悪は、 ることになる。だがこういうふうに契機を数え上げること精神の自然的定在が自己に帰ることにほかならないが、これ は、要するに余計なことと見てよい。というのも、一方でとは逆に、善は現実に歩み入り、定在する自己意識となって は、区別されたもの自身が一つであるにすぎないからであ現われるということが、突然生起することになる。純粋に思 惟された精神においては、神的実在が他となること一般とい る、つまり一つの思想であるにすぎないような、区別という う形で、暗示されていたにすぎないものが、ここでは表象に 思想にほかならないからであるが、それと同じで、この思想 は、第一のものに対して第二のものがあるという形で、このとって一歩実現に近づいたことになる。この実現は、表象か ように区別されたものであるからである。だが他方では、多らみれば、神的実在が自らを卑しくすることに在るわけだ を一に包括する思想はその一般性から解かれて、三つ乃至四が、これは神が抽象と非現実を自ら断念したことになる。だ が悪という他方の側面は、表象を神的実在に縁なき生起と受 つの区別より以上の区別に、分けられざるを得なくなるから である。この種の一般性は、数の原理である抽象的一というけとる。悪を、神的実在自身のうちにある神自身の怒りとし 絶対的な規定態に比べると、数自身に関係する場合、無規定て把握すること ( ヤコプ・べーメ ) は、自己自身と戦っている なものとなって現われるため、問題になりうるのは、数一般表象が、最も高く最もきびしく緊張していることなのだが、 これは、概念を欠いているため、実りのないままに終る。 だけであって、或る一定数の区別ではないであろう。だから この場合、一般に、数とか数えるとかいうことを考えるの だから神的実在の疎外は一一重の仕方で措定されている。そ は、全然余計なことであり、またそのほか、大いさや多数な の場合精神の自己とその単純な思想とが二つの契機なのであ どをただ区別することも、概念なきやり方であり、つまらぬるが、両者を絶対的に統一しているのは精神自身である。こ ことである。 の精神の疎外は、両契機がばらばらになっており、一方が他 方と価値を等しくしないという点に在る。そのためにこの不 善と悪は、ここに生じてきた思想上の一定の区別である。 両者の対立はまだ解決されていないし、両者は思想上の実在等は、二重の不等となり、二つの結びつきが生じることになる が、その共通の契機は既に示しておいた通りのものである。 として表象されており、その各々は自分で ( 対自的に ) 独立で

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

廃棄された自分だけでの有としては措定されていない。法則 差しあたっては、自体的に一般的なものであるにすぎない。 だが、自体的に単純なこの一般者は、本質的にはまた絶対のこの欠陥は法則自身において、やはり、現われざるを得な 、 0 法則の欠陥と思われるものは、区別そのものを自らにも に、一般的な区別でもある。な。せならば、その一般者は交替 っているのに、その区別が一般的であり、不定であることであ 自身の結果であるからである、言いかえると、交替がその一 る。だが、法則は、法則というもの一般ミ Gesetz 享。「 haupt) 般者の本質であるからである。だがこのため、内面に措定さ 一つの法則である限り、自ら規定態をもってい れ、真にある通りの交替は、同じように絶対に一般的で、静ではなく、 止的で、自己に等しいままの区別として、内面に、取り入れる。そこで不定な形で多くの法則が現に在ることになる。し かしこの多数態はむしろ欠陥でさえある。多数態は、単一な られてしまうようなものである。或は、否定は一般的なもの の本質的な契機である。だから、否定もしくは媒介は、一般内面の意識として、それ自体で一般的な統一を真理とする悟 者においては、一般的な区別である。この区別は、常ならぬ性の原理に、矛盾する。それゆえ、悟性は、多くの法則をむ しろ一つの法則に集約させねばならない。たとえば、石が落 現象の常なる像としての法則において、表現されている。だ から、超感覚的世界は諸々の法則の静かな国である。知覚さ下するときの法則と天体が運動するときの法則とが、一つの れた世界は、絶えず変化することによ「てのみ、法則を表わ法則として理解されたようにしなければならない。だがこの しているのだから、この法則の国は、知覚された世界の彼岸ように互いが一つになると、諸々の法則はその規定態を失「 ではあるけれども、しかしまた知覚された世界のうちに現在てしまう。そのとき法則そのものは次第に表面的なものにな って行き、その結果、実際には、これら諸々の一定の法則の しており、この世界の直接的な、静かな映像である。 法則の国は悟性の真理であり、この真理は、法則のうちに統一が在るのではなく、それぞれの規定態を失「た一つの法 則が在ることになる。このことは、地上の物体が落下すると ある区別において、内容をもっているのではあるが、同時に きの法則と、天体が運動するときの法則とを、自らのなかに それは悟性の最初の真理にすぎないし、現象を尽してはいな 、。法則は、現象のうちに現在しているけれども、現象を完統一している一つの法則が、それら二つの法則を実際には表 意全に現在させているわけではない。法則は、状態が変るにつ現していないのと、同じである。すべての法則を一般的引力 ( 万有引力 ) のなかで統一することは、法則のなかに存在的な れて、いつもちがった現実をもつ。そのため、自分だけでの ものとして措定されていゑ法則自体のただの概念以上に 現象には、内面のうちにはないような側面が残っている。一言 は、いかなる内容をも表現していない。万有引力が言ってい いかえると、現象は、ほんとうのところ、まだ現象としては、

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

248 くることがわかった。その単純な存在と、これに対応しない この命令において現われる区別は、一つの規定態をとる。だ から一つの内容である。この内容は、この単純な存在の絶対規定態を、比較するのが、われわれの仕事であった。そして 比較するときに、単純な実体は、形式的な一般性であるこ 的普遍性に、従属しているようなものである。したがって、 と、言いかえれば、内容から自由なものとして、内容に対抗 絶対的内容というようなものは、断念されねばならないのだ から、その命令に帰せられうるのは、形式的な一般性つまりするものであり、一定のものとしての内容についての知であ るような純粋意識であること、がわかった。この一般性は、 それが自己矛盾でないという、このことだけである。なぜな らば、内容のない一般性とは、形式的な一般性のことであそういうわけで、ことそのものであったものと同じものであ り、絶対的な内容とは、それ自身何の区別でもないような区る。だがこの一般性は、意識のうちにあるときには、それと は別のものである。つまり、それは、もはや思想なく活動性 別と同じであり、言いかえれば、内容がないのと同しだから のない類ではなく、特殊に関係し特殊に当てはまるものとし である。 こうして立法のために残っていることは、一般性という純て、その威力であり真理である。この意識も初めは、以前に 粋形式である。言いかえれば、実際には意識の同語反復であそうであったと同じような査問であるように見え、そのはた る。これは、内容に対立しており、存在する内容、すなわちらきも既に前節で起った、一般的なものと規定されたものと 本来の内容についての知ではなく、本質についての、すなわの比較と別のものではあり得ず、そこからは、前の場合と同 じように、両者の不適合が出てくるように見える。けれども ち、本質の自己相等性についての、知である。 ここでは、内容と一般者の関係は、一般者が前とは別の意味 したがって人倫的本質は、直接的には内容でさえもない。 かえって、内容が自己矛盾でないとぎに、法則でありうるかをえたのだから、ちがったものになっている。この一般者 は、一定の内容が、それをもちうるような、形式的一般性で あり得ないかという場合の、尺度にすぎない。立法的理性は ある。というのは、この一般性にあっては、一定の内容は、 ただ査問する理性になりさがっているのである。 自己自身に関係してのみ、考察されるからである。われわれ 査法的理性 が査問するにあたって、一般的な充実した実体は、規定態に 単純な人倫的実体にある一つの区別は、この実体にとって対立していたが、この規定態は、実体が入りこんで行った意 は一つの偶然な形をとる。この偶然な形は、一定の命令にお識の偶然性として、展開された。ここでは、比較の一方の項 一般者は、もはや存在し妥当する実 は消えてしまっており、 いては、知識と現実と行為との、偶然な形となって現われて 306

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

乃至疎外を、純粋抽象というこの形で、直観することにはな的意志における、この一定の点として、自分を知ろうとする らなかった。そうではなく、自己意識の否定も充実したもの要求は、それと全く対立した経験に転ずる。そのとき意識に であった。つまりその否定は、自己意識が自ら疎外した自己とって消えるものは、抽象的存在または実体なき点の直接態 に代ってえた、名誉乃至財であった、そうでない場合は、分であり、この消え去った直接態こそは、一般的意志自身であ エスプリ 裂の意識がゆきついた、精神及び透見の言葉であった。すな る。が、ここにいま意識は、自らが廃棄された直接態であり、 わち否定は、信仰の天上であるか、啓蒙の有用なものである純粋知もしくは純粋意志である限り、自分が一般的意志であ かであった。が、一切のそれらの規定も、自己が絶対自由のることを知るのである。このために意識は、一般的意志が自 なかで、経験した喪失のうちに消えてしまった。自己意識の己自身であることを、自分が本質であることを知るが、自分 否定は、意味なき死であり、肯定的な何ものも、充実した何 が直接存在する本質だと知るのではない。つまり一般的意志 ものもない、否定的なもののひたすらな恐怖である。だが同を革命的な政府として、また無政府状態をつくろうとする無 時にこの否定は、その現実において見知らぬものではない。 政府主義として、知るのでもなければ、自分が、この党派の 否定は、人倫的世界が没落して行った、彼岸に在る一般的必やそれに対立する党派の、中心点であると知るのでもない。 然性 ( 運侖 ) ではなく、また、個々の偶然な自己の所有でもなそうではなく、一般的意志は純粋知であり純粋意欲である。 ければ、分裂した意識 ( 三六九 ) が依存していると気づいた、 つまりそれは、この純粋知及び純粋意欲であるような、一般 気まぐれな所有者の個々の偶然でもない。そうではなく、そ的意志である。意識は、その場合、意識のアトム的点である の否定は一般的意志 ( カント ) である。この意志は、最後に抽よりは、むしろ純粋知であり、純粋意欲であるから、自己自 象されたときには、肯定的なものを何ももっておらず、その身を失、よしょ しをオい。だから、意識は、純粋知と自分自身の交 ため、犠牲に対し報いるものを何も、もち得ないのであっ互作用である。本質としての純粋知は、一般的意志である た。しかしだからこそ、一般的意志は、自己意識と無媒介的 が、この本質は全く純粋知にほかならない。だから自己意識 に一つなのである。言いかえれば、一般的意志は、純粋に否は、純粋知である本質についての、純粋知である。自己意識 定的なものであるから、純粋に肯定的なものなのである。そは、更に個別的自己として、主観乃至現実的行為の形式にす して意味なき死、自己の充たされない否定性は、その内面のぎないが、この形式は、自己意識が形式だと意識しているも 概念においては、絶対的肯定性に転ずるのである。意識にと のである。また自己意識にとっては、対象的現実、存在は、 っては、一般的意志と自己との直接の統一は、つまり、一般全く自己のない形式である。というのも、対象的現実は、知

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

る。この感覚的確信の真理を吟味するためには、単純な試みであることにも、あれであることにも無関係であるものは、 で充分である。われわれはこの真理を書きとめておこう。真一般的なものと呼ばれる。こうして、実際には、一般的なも 理というものは書きとめられたからといって、消えるもので のこそ感覚的確信の真理である。 はあるまいし、また貯えておいたからといって、なくなるも われわれは、感覚的なものをも一般的なものとして言い表 のでもあるまい。そこで、いま、この日中に、その書きとめわす。われわれが言い表わすものは、このもの、すなわち、 られた真理をもう一度ながめてみると、われわれは、それが 一般的なこのものである、言いかえると、それは有るという 気のぬけたものになってしまっていると言わなければならな こと、すなわち有一般である。そのさいわれわれは、もちろ くなる。 ん一般的なこのものとか有一般とかを表象しているのではな 夜であるいまは貯えられる、すなわち、そのいまは、存在 いが、一般的なものを言い表わしている。言いかえると、わ するものとして、示される通りのものとして扱われる。けれれわれは、このものを感覚的確信において思いこんで ( 原語 ども、いまはむしろ存在しないものとして現われる。いまそは meinen, Meinung であるが、この書では、はっきり概念的に理解 していないで、何となくそう思いこんでしまっており、確信となって のものは確かに持続するであろうが、夜ではないものとして いるため、反省されもしないような把握の一つの態度を意味する。 である。同じように、いまは、いまである昼に対し、昼でも ない或るものとして、つまり、否定的なもの一般として持続これはこの書では度々出てくるし、重要な意味をもっている。いか にしてそれを脱するかがこの書の主題の一つでもある ) いる通り する。だから、このように持続するいまは直接的 ( 無媒介 ) な ものではなく、媒介されたものである。なぜならば、いまの、そのままには、語っていないのである。だが、われわれ は、他者つまり昼と夜が在るのでないことによって、永続すの見るところでは、言葉の方が思いこみより一層真なるもの るもの、自らを維持するものと規定されているからである。 である。言葉のなかでわれわれは自ら直接、われわれの思い その場合、いまは前の場合と同じようにいまであり、この単こみにそむく、そして、一般的なものが感覚的確信の真理で 識 純な形で、その傍らになおたわむれているものには無関心であり、言葉はこの真理を言い表わすだけであるから、われわれ 意ある。夜も昼もいまの有ではないけれども、また同じよう が思いこんでいるような感覚的存在を言い表わしうるなどと いうことは、到底ありえない。 ( 「エンチ = クロペディー」二〇節 ) に、いまは昼でもあり夜でもある。いまは、この自らの他在 によって全然刺戟を受けない。否定を通じてあるような、こ このものの別の形式、つまりここについても、事情は同じ れでもあれでもないもの、このものならぬものであり、これことになる。たとえば、ここは木である。私が向きをかえる

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

ある。だから、最高実在が、存在する一つの自己意識とし り、この定在が自己自身を否定するもの、したがって自己で て、見られたり聞かれたりなどすることは、最高存在の概念あることを、知っている。が、この自己は、この自己である が事実上完結することである。そこでこの完結により、実在と共に一般的自己である。 ( 以上三位一体を語る。 ) 以上のことこ は、実在であるのと同じように直接的にそこに在ることになそは、啓示宗教が知っていることなのである。さて、これま る。 での世界の希望と期待はただこの啓示に向ってのみ押しよせ このようにそのままそこに在ることは、ただひとり直接的来て、絶対実在が何であるかを直観し、そこに自己自身を見 つけようとしたのである。つまり、絶対実在のなかに自分を な意識に止まるのではなく、同時に宗教的意識である。この 直接態は、一つの存在する自己意識であるという意味をもっ観るというこの歓びが、自己に意識され、全世界をとらえた のである。なぜならば、絶対実在は精神であり、例のいくっ だけでなく、それと不可分な形で、純粋に思惟された、つま り絶対的な、実在であるという意味ももっている。存在が本かの純粋契機の単純な運動であるが、この運動は、実在が直 質であることを、われわれはわれわれの概念の形で意識して接的自己意識であると直観されることによって初めて、実在 が精神であると知られることそのことを、表現しているから いるが、このことを、宗教的意識も意識しているのである。 である。 ( イ = ーナ「実質哲学二の二六六 ) 存在と本質が一つであり、思惟がそのまま定在と一つである 以上の概念は、自己自身を精神であると知っている精神の こと、これは宗教的意識の思想であり、その媒介された知で ことであるが、これはそれ自身直接的なものであって、まだ あるが、またその意識の直接的な知でもある。というのは、 存在と思惟のこの統一は自己意識であり、自らそこに在るか展開されてはいない。実在は精神である。言いかえればそれ らである。言いかえれば、思惟された統一は、同時に、それは現われたものであり、啓かれたものである。この最初の啓 かれた有は、それ自身無媒介であるが、直接的無媒介態は、 が在る通りのこの形態をもっているからである。かくて神 また純粋媒介つまり思惟であるから、自分自身でそのままこ 教は、現に在る通りに顕われており、自体的に在る通りにそこ このことをもっとはつ」り のことを示さなければならない。 に在る。つまり神は精神としてそこに在る。神は、純粋な思 弁的知においてのみ達せられ、そこにのみ存在し、その知自観察すれば、精神は、自己意識の直接態にいながら、この個 というのも、神は精神であり、この思弁別的な自己意識であり、一般的な自己意識に対立している。 身にほかならない。 的知は啓示宗教の知だからである。思弁的知は、神が思惟この精神は他を排除する一であるが、これは、そこに在りこ ことっては、一つの感覚的他者とい すなわち純粋本質であり、この思惟が存在であり定在であれを対象としている意識冫

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

意識においては、いつまでも内なるものに止まっているが、 は、実現すべき目的として現われる。この意識は、まず意図 この内なるものは一切であり、一切を動かすのに、自分ではを、純粋透見を一般的なものにすべきであり、現実的である 現われ出てくることがない。 すべてのものを概念に、しかも、あらゆる意識における一つ だが純粋透見においては、概念のみが現実的なものであの概念に、すべきである。意図は、純粋透見を内容としてい る。純粋透見にとって対象であるという、信仰のこの第一二のるから、純粋である。またこの透見も純粋である。というの 側面は、ここで信仰が現われてくる本来の関係である。純粋は、その内容は、対象において対立をもっているのでもな く、それ自身において制限されているのでもないような、絶 透見自身は、やはり、一方ではそれ自身で在る通りに、他方 では、まだ肯定的であり、すなわち、空しい意識として現存対的な概念だからである。概念が制限を受けていないという している限りでの、現実的世界との関係において、更に最後ことには、そのまま二つの側面がある。つまり、すべて対象 には、信仰に対するいま言った関係において、考察するべき的なものは、自己意識という、対自存在という意味だけを持 である。 つべきであるという側面と、この自己意識は一般者という意 純粋透見がそれ自体に自分で ( 対自的に ) 何であるかについ 味をもち、純粋透見はすべての自己意識の所有となるべきで ては、われわれがこれまでに見てきた。信仰が、実在としてあるという側面とがある。この意図の第二の側面は、教養の の精神の静かな純粋な意識であるように、純粋透見は精神の結果であるが、これは、対象的精神の諸々の区別や、精神の 自己意識である。それゆえ純粋透見は、実在を実在としてで世界のいくつかの部分や判断規定と同じように、根源的に規 定された自然として、現われる諸々の区別もまた、そこで没 はなく、絶対的な自己として知るのである。かくて透見は、 それが現実的なもののであろうと、自体存在するもののであ落している限りでのことである。一般に天才、才能、特殊な ろうと、自己意識にとって他なるすべての自立性を、廃棄能力などは、現実の世界が、精神的な動物の国であるという し、それを概念とすることに向って行く。それは、すべての側面を、つまり、現実的世界の本質をめぐって、互いに権力 真理であるという、自己意識的理性の確信であるだけでなを争い混乱に陥りながら、戦い合いだまし合っている、精神 く、自らがそういうものであることを、知っている。 的な動物の国であるという側面 ( 二八五以下 ) を、まだ自分で だが純粋透見の概念は、現われてきたばかりであって、ま もっている限りでは、現実の世界のものである。なるほど、 だ実現されてはいない。そのためこの意識は、まだ偶然なも これらの区別は尊敬すべき種類のものとして、教養の世界の の、個別的なものとして現われ、その意識が本質とするものなかに場所を占めているのではない。個人性は、非現実的な

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

。そのため徳はこの真の本質を信じて ( 全集〔ラッソン〕一の自ら善を現実だと、言っているわけではないからである。だ からこの規定は、次のように考えてもよい。つまり、善は、 二三、綜合なき信 ) いるにすぎない。徳はこの信を直観に高め ようとするが、それだけでは、そのはたらきと犠牲との果実世の中に対する戦のうちに現われるのだから、他者に対して を、受けることにはならない。 ( 「人倫的世界」参照 ) なぜなら存在するという形で、つまり、自ら即自的にまた対自的に、 ば、徳は、個人的なものに止まる限り、世の中との間に戦を在るのではないような形で、現われるのた、と。というのは、 交えるという行為だからである。が、徳の目的と真の本質そうでなかったら、善は、自らの反対を強圧することによっ て初めて、自らの真理を与えようとはしないであろうからで は、世の中の現実に打ち克っことである。そのため、結果と この して善が現に現われるならば、そのとき徳の行為すなわち個ある。善は、まだやっと他者に対して在るにすぎない。 ことは、前のこれとは反対の考察において、善について示さ 人性という意識はなくなる。どのようにしてこの戦そのもの に耐え抜くか、徳はこの戦において何を経験するか、徳が自れたことと同じである。つまり、善はまだやっと一つの抽象 らひきうける犠牲の結果、世の中は屈服するが、徳は勝利をであり、この抽象は、絶対的にではなく、関係のなかに、実 うるか。こういうことは、戦士のとる生ける武器の性質によ在しているにすぎないのである。 って、決められるよりほかない。 というのは、武器なるもの それゆえ、ここに現われているような善乃至一般者は、生 は、戦士の本質にほかならないが、これは、戦士両者相互にれつき、才能、能力と呼ばれるものである。そういうもの は、精神的なものの一つの在り方である。この在り方にあっ 対してのみ、現われてくるものだからである。したがって、 両者の武器は、戦のうちに自体的に現存しているものからみ ては、精神的なものは、一般者と考えられるが、自ら生命を て、既に明かになっている。 えて動くためには、個人性という原理を必要とし、個人性に おいて自ら現実となるわけである。一般者は、徳の意識に帰 一般者は、有徳の意識からみるとき、その信において、つ まり、自体的に真であるが、まだ現実的一般ではなく、抽象的属する限りのこの原理によっては、善用されるが、世の中に 一般である。一般者は、この意識そのものにおいてあるとき帰属する限りのこの原理によっては、悪用される。それゆ は、目的としてあり、世の中においてあるときは、内なるも え、一般者は受動的な道具である。この道具は、自由な個人 のとしてある。一般者が、徳においても、世の中に対する形の手に支配され、個人がどのように使うかについて、無関心 で現われるのは、ほかならぬこういう規定をもっからである、 であり、また、一般者を破壊するような現実をつくり出すた といテのも、徳は善をまず実現しようとしてはいるが、まだめに、悪用されるかもしれない。それは自己の自立性をもた

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

際には少しも真実ではない。所有や享楽を捨てないことと、 れる ) のようにその他の楽しみを断ち切ったことを示すため、 それを捨てて犠牲にすることとが、並んで行われている。こそれを身体から取りのけるというのでは、余りにも単純素朴 の犠牲は、現実の犠牲が小さな部分でだけ行われ、そのため である。行動自身は、外面的な個別的な行為として、現われ 実際には表象されているにすぎないという、一つの印である るものであるが、欲望は内に根をおろしており、一般的なも に止まる。 のである。快というものは、道具をなくしたり、一つ一つの 合目的性に関して言えば、啓蒙は、所有そのものから解放快を止めたからと言って、消えてなくなるものではない。 されることを、知りまた証明するために、ただひとつの所有 だがこの点で、啓蒙の方はどうかと言えば、現実に対して を投げ出したり、享楽そのものから解放されることを、知り内面的なもの、非現実的なものを切り離してとり出すが、信仰 また証明するために、ただひとつの享楽を断念したりするこ が、その直観や思慕の点で、内面的であるのに対抗するとき とが、しつくりしないことだと考える。信ずる意識自身は、 には、物の外面を固執し言い張る。啓蒙は、本質的なものを意 絶対的な行為を一般的な行為と理解する。信する意識は、自図や思想においており、そのため、自然的な目的からの解放 分が対象とする絶対実在の行動は、自分にとって一般的な行を、現に実現することは止めにする。反対に、この内面自身 動であると、考えるだけでなく、個々の意識も、感覚的な自 は、形式的なものであり、目然的衝動において実現されるも 分の実在から離れて、全く一般であることが示されねばなら のであるが、しかもそれが是認されるのは、ほかでもなく、 ないとする。だが個々の所有を棄てたり、個々の享楽を断念内面的であるからという理由によるのであり、一般的存在、 したりすることよ、、 つまり自然のものであるという理由によるのである。 ーしまいう一般的な行動ではない。そこで 行動においては、一般的なものである目的と、個別的なもの こうして啓蒙は、信仰に対し、抵抗できないほどの権力を である実行とは、本質的には一致しないと、意識されているふるうが、これは、信仰する意識自身のうちに、啓蒙を妥当 神にちがいない。そのため、その場合の行動は、意識が少しも関させるような、いくつかの契機が在ると思うからである。こ 与しないような行動であることが、示されることになる。し のカの影響をもっと詳しく考えると、信仰に対する啓蒙の態 たがって、そういう行動は、行動であるというのには、本来、度は、信頼と直接的な確信との美しい統一を引き裂き、信仰の 余りにも単純素朴だということになる。食事の楽しみから解精神的な意識を、感覚的現実という低い思想によって、不純 にし、信仰に帰順して平静になり安定している心情を、空し 四放されていることを示すために、断食するというのでは、余り にも単純素朴である。オリゲネス ( 一八五ー二五四頃の人と言わ い吾性と利己的な意志と実行によって、破壊することである

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339 D 精神 いうふうに、いくつかに分化して行き、まさにそのために存在に、それ以外のすべての個人は、この行為の全体からは締め する実体となったのであるが、このことのために、個々の個出され、ほんの限られた範囲で、それに関与するだけであ 人からは離れてしまい、数多くの個人を、いろいろな分節に る。そこで行果は、現実の一般的な自己意識の行果ではない 分けてしまうことになろう。だがこのために、人格の行為と ことになろう。こうしていかなる積極的な仕事も行果も、一 この自由に残されたこ 存在は、全体の一分岐に、行為と存在のようなものに、制限般的自由をもたらすことはできない。 されてしまうであろう。存在という場におかれるとき、人格とは、否定的な行為にすぎない。つまり絶対的自由は消え行 ( 「法哲学」五節 ) は、一定の人格という意味をうるだろうが、実際には、一般 く狂暴にほかならない。 的自己意識であることを止めるであろう。その場合このこと しかし一般的自由に、極度に対立した最高の現実は、或は は、自分で制定した法律、自分で一部分にたずさわった法律むしろこの自由が認める唯一の対象は、現実的自己意識自身 に従うと、表象したところで、また、立法にあたり、国家行 の自由であり、個別性である。なぜかと言えば、例の一般 動をする際に、自分の代表がしていることだとしても、その は、有機組織の実在性には到達しないし、不可分の連続の中 現実をいつわることはできない。 この現実が、自分で法律をに止まることを、目的としているけれども、もともと運動で 定めるという場合でも、個々の仕事ではなく、一般的なことあり意識であるのだから、同時に自分のなかで区別を立てる を自ら実現するという場合でも、変りはない。なぜならば、 ことになる。しかもこの一般は、自ら抽象であるために、や その際自己は、代表されているだけであり、表象されている はり抽象的な両極に分れる、つまり、単純で不屈で冷酷な一 だけで、現にそこにいるわけではないからである。代理され般と、非連続で絶対的で頑固な冷厳な態度、及び、利己的点 ているところに、自分がいるわけではないからである。 のような態度をとる現実の自己意識と、に分れる。一般は、 個々の自己意識は、定在する実体としての絶対的自由が行実在の組織を亡ぼし終り、いま自分だけで存立しているのだ う、一般的な仕事のうちにも、この自由意志本来の行果のう から、この現実的自己意識こそは、その唯一の対象である。 ちにも、その個人的な行動のうちにも、存在していない。 が、この対象といえば、所有、定在、外的ひろがりというよう 般者は、一つの行為となるために、個人態という一 ( 君主 ) な、自分以外のいかなる内容をももっていないで、自己が絶 に集約されねばならないし、個々の自己意識を頂点に置かね対に純粋で自由で個別的な自己であるという、この知にすぎ というのは、一般的意志は、一である一つの自 ないような対象である。対象が捉えられる所には、どこで 己においてのみ、現実的な意志だからである。だがそのためも、その抽象的な定在一般があるたけである。だから、両者