二重のものになる。だがこれら実体集団の各々は三つであ いうこの精神の現実においてである。しかも自らの真実態を りながらも ) いつまでも全体としての精神のつもりである。 もっているのは、直接この現実においてである、したがっ 感覚的知覚においては、物は個別と一般という二つの規定以て、現実でないような或るものにおいてではなく、現に存在 外には、実体をもっていなかったのであるが、いま人倫におし妥当している精神においてである。 いては、二つの側面が相互に対立を表わしているにしても、 この精神は、本質的には、自分自身を意識した現実という それはただ表面上のことにすぎないのである。 形をとるので、人間のおきてと呼んでもよい。それは一般性 われわれがここで考察している存在者においては、個別と という形をとるときは、よく知られた法則であり、現存する いうのは、自己意識一般という意味をもっているのであっ習俗であり、個別性という形をとるときは、個人一般におけ て、個々の偶然の意識という意味をもっているのではない。 る、自分自身の現実的確信であり、統治の形をとるときは、 だから、かく規定されるときには、人倫的実体は現実的実体単一な個人性 ( 王 ) としての自己確信である。この精神の真 であり、多くの定在する意識のうちに実現された絶対的精神実態は、公開のところで、明るみ ( アポロン ) の中で妥当す なのである。この精神は、共同体である。これが、さきに ることであり、現実に存在することであるが、これは、直接 ( 二五六 ) 理性一般に実践的形態を与えようとしたときに、絶的確信にとっては、自由に解放された定在という形をとるこ とになる。 ( 国のおきてを与えたのは人間である。〔アンテイゴネ〕 対的本質であったのは、われわれにとってのことである。が、 イボリットによる ) いまここでは、この精神はその真実態をとり、自分自身で ( 自覚的に ) 意識的人倫的本質として、またわれわれの対象と しかし、この人倫的威力と公開的であることとに対立して なっている意識冫 こ対する本質として、現われ出ているのであ いるのが、もう一つの威力、神々のおきてである。なぜなら る。この共同体は精神である。これは、個々人が互いに映現ば、人倫的国家権力は自己意識的行為の動きとしては、人倫 神し合うことのうちに、自己を保っているのであるから、自覚 の単純で直接的な存在者において、自らの対立をもってお り、現実的一般としては、個人的な自分だけでの存在に対抗 的であり、また個々人を自己のうちに保っているのであるか ら、自体的でつまり実体である。この精神は、現実的実体とする権力であり、現実一般としては、自分とはちがったもの しては民族であり、現実的意識としては民族の市 ( 国 ) 民でを内的本質においてもっているからである。 ある。この意識が自らの本質をもっているのは、単純な精神 既に注意しておいたように ( 三一八 ) 、人倫的実体が相対し ずれにも実体全体を含み、また実体の においてであり、自己自身を確信しているのは、民族全体とて現存する仕方は、い
れている。言いかえると、各々は或る他者の反対ではなく、 の、一つの対立したものであるならば、ほかでもなく、対立 1 純粋の反対であるにすぎない。そこで各々はそれ自身におい を自らにもつものとして措定されているからである。だから て自らの反対である。つまり、各々はぜったいに反対ではな同じように、分っことと自己自身に等しくなることという区 く、純粋に自分だけであり、自分のなかにいかなる区別をも 別項は、自己を廃棄するという、いま言った連動にほかなら もたない、純粋に自己自身に等しい実在である。そこでわれない。なぜならば、いま初めて自らを二つに分っと、つまり われは、どのようにしてこの純粋な実在から区別と他在が出自らの反対になると、言われる自己自身に等しいものは一つ てくるか、どのようにしてそのものの外にこれらが出てくるの抽象である、すなわち既に自ら分たれたものであるため、 か、と問う必要もないし、またそういうⅢ —いに悩むことを哲学自ら分っことは自らの分たれた有を廃棄することであるから だという必要もない、あるいは、哲学がその問いに答え得なである。自己自身に等しくなることはまた二つに分っことで いと考える必要もない。なぜならば、既に二つに分っことがある。自己自身に等しくなるものは、だから、分っことに対 起っており、区別は自己自身に同一なものから排除されてお立する。すなわち、自己自身に等しくなるものは、そのと り、その傍らにおかれているからである。 ( シ , リングに対してき、自ら自分を一方の側におく、言いかえると、むしろそれ 言う。 ) 自己自身に等しくあるはずだったものは、だから、絶は一つの分たれたものとなる。 対的実在的であるどころか、むしろ分たれたものの一つなの 無限、言いかえれば、純粋に自己自身になることのこの絶 である。それゆえ、自己自身に等しいものが二つに分れると対的不安定、何らかの仕方で、たとえば存在として、規定さ いうことは、それが既に分れたものとしての自分を、他在とれているものが、むしろその規定態の反対であるという絶対 しての自分を廃棄していることである。統一については、区的不安定、これは、既に、これまで述べたすべてのことの眼 目ではあったが、、 別がそこから出てくることのできないものと、言われるのが しま内面のものにおいて初めて、自ら自由 普通である。が、実際には、統一というものは、それ自身で になって出てきたのである。現象すなわち二つのカのたわむ は、分っことの一つの契機にすぎない。統一は、区別に対立れは、既にこの無限そのものを表わしてはいるが、説明とい している単一態を抽象することである。しかし、統一とは抽う形で初めて自由に現われる。結局、無限が、それが在ると 象することであり、対立したものの一方にすぎないときに ころのものとして、意識にとっての対象となるときには、意 は、統一が二つに分っことであるということは、既に言われ識は自己意識である。悟性の説明は、さしあたり、自己意識 ているのである。というのは、統一は、一つの否定的なも が何であるかを記述するに止まる。悟性は、法則のうちに現
意識は概念の否定性であり、これは、ただ自分だけで ( 対自的そこまでは考えないで、どこかほかのところでそれをもって 認に ) 在るのではなく、自分の反対をも侵すからである。そこ いるのである。それゆえ、そのものは信ずる意識に無縁のも で信仰自身も、意識であるからには、啓蒙に対しその正義をのではなく、その意識によって拒否されるものでもない。 拒むことはできないであろう。 だが、啓蒙は、信仰のばらばらな契機が対立していること その理由は、啓蒙が信仰する意識に対し反対の態度をとるを、信仰に想い起させるのだが、自分自身について啓され とき、固有の原理を使うのではなく、信仰する意識自身が自ていない点では、信仰と同じである。啓蒙は、自分の内容を 分でもっている原理を、使うからである。啓蒙は、信仰が意自分の純粋な姿からとりのけて、この内容が、啓自身を否 識しないままでばらばらにしておく、信仰自身の思想を、信定するものと、受けとっている限り、信仰に対し、ただ否定 仰のために総括するだけである。啓蒙は、信仰する意識に、 的な態度をとることになる。それゆえ、啓蒙は、この否定的 信仰のいくつかの相の一方において、他方を思い出させるだ なもののうちに、信仰の内容のうちに、自分自身を認識しな けであるが、信仰する意識もまた、それをもってはいるもの いし、またそのために、二つの思想、つまり啓蒙がもたらし の、 いつも他方にかまけて、一方が在ることを忘れているのたのと、啓蒙がそれに逆らってもたらしたのとの、二つの思 である。啓蒙は、そうすることによってこそ、信仰する意識想を、結びつけることもしない。啓蒙は、信仰において自分 に対し、純粋透見であることを示すのである。つまり、啓蒙 の弾劾するものが、自分自身の思想であることを認めないか は、限られた契機において全体を見るから、そういう契機に ら、自分では、二つの契機が対立するとき、その一方を、つ 関係する反対者を提出する、そして一方を他方のうちで顛倒まり、いつでも、信仰に対立した方を承認するだけで、他方 させながら、両方の思想の否定的本質を、すなわち、概念ををそこから分離してしまうが、これは信仰のやっていること 明かに示すのである。啓蒙は、信仰からみると、信仰のいく と全く同じである。だから啓蒙は、両契機の統一を両契機の 統一として、すなわち、概念としてあらわすのではない。が、 つかの契機の他在を示すのだから、真実をゆがめ、いつわり を言っているように思われる。だから、啓蒙は、それらの契概念は自分で啓蒙に対し生じてくる、つまり啓蒙は、概念が 機の一つ一つが在るのとは、ちがったものを、そのままそれ現に存在している ( 手もとに在る ) ことに、気がつくだけであ らの契機からっくり出すように、信仰には思われる。だがこ る。な。せならは、厩念を自らの本質とする純粋透見が、まず のちがった別のものは、やはり本質的なものであり、本当絶対他者としての自己自身となり、自己を否定して ( 概念の は、信仰する意識自身のなかに在るのだが、ただこの意識は、 対立は絶対的対立であるから ) 、この他在から自己自身に、
ら、多少厚かましいところがあり、何か決定的なものを含ん 述語において自己のうちに入って行って、論証的 ( 形式的 ) 思 惟という自由な位置をとるかわりに、内容のなかになお沈潜でいる、と言われる。前に言「たことから、この〈んの事情 がどうなっているかは、明かである。哲学的命題とても、命 している。もしくは、すくなくとも内容に沈潜しておれと迫 られている。また同じように「現実的なものは普遍的なもの題である以上は、主語と述語の普通の関係、知の普通の態度 の臆見を呼びさましはする。がこのような事情と、これに対 である」と言う場合、主語としての現実的なものは、それの 述語のなかで消えてしまう。一般的なものという語はただ述する臆見を破壊するのが、哲学的命題の内容である。臆見の 語という意味をも「ているだけでなく、したが「て、この命思いこみは、自分が思いこんだのとは意味がちがうことを経 験する。この思いこみの訂正が、命題に帰って行き、そこで 題は、「現実的なものは一般的である」 ( 前の命題に対し述語が 命題を別な形でつかむことを、知に対して強いる。 形容詞にな「ていることに注意 ) ということを言っているので 主語について言われたことが、或る場合には、主語の概念 はなく、一般的なものという語は、現実的なものの本質 ( 実 在 ) を言い表わしているはすである。それゆえ、思惟は、主という意味をもつが、別の場合には、主語の述語または偶有 語においても「ていた、確乎とした対象的地盤を失うだけで性の意味しかもたないのであるが、このことは、思弁的な態 なく、述語において主語に投げかえされる。そして思惟は述度と論証的 ( 形式的 ) 態度を混合しさえしなければ、避けられ たはずの困難から生れるのである。一方の態度は他方の態度 語において自己にではなく、内容という主語 ( 基体 ) に帰る の邪魔になる。そこで一つの命題の二つの部分が、普通の仕 のである。 こういう妨害に慣れていないために、大体において、哲学方で関係するのを、厳密に排除するような哲学的叙述にし て、もしありとするならば、そのとき初めて、柔軟であるよ 上の著作はわかりにくいと非難されるのである。もっともこ うなものに行き着くであろう。 れは、著作を理解するためのそのほかの条件が、個人にそな 実際に思弁的でない思惟とても、それなりに権利はもって わっている場合の話であるけれども。理解されうるまでは、 いる。この権利は妥当なのだが、それは認められないのであ 論まず繰り返し読まねばならない所が若干あるという、哲学上 る。命題という形式が廃棄されることは、ただ直接的な仕 の著作に対し行われることがよくある、全くきつばりとした 序非難の理由は、、 しま言ったことのなかに見られる。この非難方で起るというだけではいけない。命題だけで起ってはいけ この動き この反対連動が言い表わされねばならない。 は、ひとたび、ほんとにそうだと、思えるような理由がみつない 」こ言った内にひそむ妨害であるということだけでな が前冫 かったとなれば、もはや絶対的に抗うことを許さないのだか
どを、直接提供する条件や場のうちに拡まっている自然より的に集約されている一つの世界に、定在が拡まった形 ( 喜劇 ) で、存在している。これまで、一方ではこれらの形式と、ま 以上のものである。というのも、この乙女はより高い態度で、 た他方では人格と法の世界、内容の解放された場が荒れ果て 自己意識的な眼や手渡すときの振舞などの光のなかに、すべ てをとりまとめているからである。それと同じように、芸術狂暴になった状態 ( 三四七ー八 ) 、またストア主義の思惟され た人格、懐疑論的意識が、支えをなくして不安定になる状態 作品をわれわれに提供してくれる運命の精神は、そういう民 とがあったわけであるが、これらは、周辺となって、自己意 族の人倫的生命や現実より以上のものである。というのは、 識として生成してくる精神の生れ出る場所のまわりで、期待 この精神は、芸術作品のなかになお譲り渡されている ( 外化 それは、 しながらひしめいている諸々の形態をなしているわけであ されている ) 精神の思い出 ( 内化 ) だからである。 る。これらすべてに浸透している不幸な意識の苦しみとあこ すべてのそういう個々の神々や実体の属性を、一つのパンテ がれは、それらの中心点であり、精神が現われるための共通 オンに、自己自身を精神だと意識している精神 ( キリスト教 ) の生みの苦しみである。が、これは、これらの形態を契機と にとりまとめている、悲劇的運命の精神だからである。 この精神が現われてくる条件は、すべて現存しており、そして含んでいる純粋概念の単純態である。 精神は、さきに ( 五二一 ) 二つの逆の命題となって現われた れらの条件の総体が形成されると、生成となり概念となる、 二つの側面を、自分でもっている。その一方は、実体が自己 言いかえれば、概念の出現は自体的には既に存在しているの である。芸術を生み出す範囲は、絶対的実体が外化する形式自身を外化して、自己意識となる側面であり、逆に他方は、 を包括している。この実体は、個人性の形式においては、物自己意識が自分を外化して、物となり一般的自己となる側面 として、感覚的意識の存在する対象 ( 彫像 ) として、純粋な言 である。こうして両側面は互いに迎え合い、そのためここに 葉として、言いかえれば、生成する形態、定在を自己から生両者の真の統一が生じている。実体が外化し自己意識となる 教み出すのではなく、ただ消えて行く対象としている形態 ( 讃ことは、対立に移行することを、必然性が無意識の間に移行 歌 ) として、存在している。つまり、精神を与えられて一般することを表わしており、実体が自体的には自己意識である 的自己意識とそのまま一つになった形 ( 教団 ) で、礼拝の行事ことを、表わしている。逆に自己意識が外化するということ において媒介された美しい自己的な身体という形 ( オリ = ム。ヒ は、それが自体的には一般的実在であるということである、 ア ) で、そして最後には表象に高まった定在の形 ( 叙事詩 ) で、 このことを言いかえれば、自己は、その反対においてそのま 同じように自己自身を純粋に確信している一般性へと、究極ま自己のもとに在るような、純粋自独存在であるから、実体
概念としても持っている。そこでこの二つの事情が一つにな る意識が、その場合に、別のことを言っていると、思いこん 1 るからこそ、法則は意識にとり真理なのである。法則は、現でしまっているにしても。 ) たとえば、陰電気は、初め樹脂 象のなかに現われると同時に、自分自身で概念であるからこ電気として、ガラスの電気である陽電気と並んで起るもので そ、法則として認められるのである。 ( 感覚における法則の存在ある。が、実験の結果、そのことは全く意味を失ってしま と必然性としての法則の概念の区別は既に「カと悟性」のところでも 、、純粋に陰電気と陽電気になってしまう。だからもはやそ 論じられている。 ) の各々は、特種の物についているのではなくなる。そこで、 法則は自体的には同時に概念である。だからこの意識の理一方には陽電気的であるような、他方には陰電気的であるよ 性本能が、法則とその契機を純化して概念とすることに向っ うな物体が存在するとは、言われ得なくなってしまう。同じ て行くのは、当然であるが、この本能はこのことを志してい ように、酸と塩基の関係及び両者相互の動きも法則をつくる るとは知っていない。 この本能は法則を実験しようとする。 が、そこでは対立は物体として現われている。しかし、この 法則は、初め現われるときには、個々の感覚的存在に覆われ分離されている二つの物は現実性を全くもっていない。両者盟 て、不純な形で現われ、法則の本性となっている概念は、経を引きはなす威力にしても、両方がそのまままた一つの過程 験的な素材に沈められたままで、現われる。理性本能は、実に入りこむのを、妨げることはできない。というのも、両者 験にあたって、これやあれやの事情のもとで何が起ってくる はこの関係であるにすぎないからである。両者は、歯や爪が かを、見つけようとする。このため法則は、ますます感覚的そのまま自分で在り、そういう形で指摘されるようには、在 存在に沈められるにすぎないように思われるが、むしろ、こ りえない。そのまま中性的な結果に移行することが、両者の の存在はその実験の行われる間に消えて行くのである。実験本質であるということは、両者の存在を自体的には廃棄され た存在に、一つの一般者にしてしまう。酸と塩基は一般的な によるこの探求は、法則の純粋な諸条件を見つけるという、 内面的な意味をもっている。 ( 以上はべーコンのことをさしている ものとしてのみ、真理をもっている。だから、ガラスと樹脂 が、同時にカントが「純粋理性批判」序文蚤ー XII で言っているこ が陽電気でありまた陰電気でありうるように、酸と塩基は特 とも暗示されている ) が、その際言おうとしていることは、法質としてこれやあれやの現実に結びつけられているのではな 則を全く概念の形に高めることにほかならない。そして、法 、各々が酸性でありまた塩基性であるのは、相対的なこと 則の諸々の契機が一定の存在にしばられることを、すべて抹にすぎない。遊離された塩基もしくは酸であるように見える 殺することにほかならない。 ( たとい、そういう形で表現されものは、、 しわゆる合体 (Synsomatie) ( これは媒体なしに二つ以上
この住居は、精神の一般的な境位乃至は非有機的自然とい て産み出され、響きだけは立てるものの、まだ言葉ではな う側面であり、いま個別性の形態をも内に含むことになる く、外的な自己を示すだけで、内的な自己を示さない。 ( メム が、この形態は、以前には定在によって分けられていた精神ノン・ギリシア神話 ) を、つまりこの定在にとって内的 ( ピラミッド ) もしくは外的 この形態の外的自己に対立しているのは、内なるものを自 ( オペリスク ) な精神を、現実に一層近づける、そのため作品分でも 0 ているという別の形態である。自らの本質に帰って は、活動的自己意識とやや等しいものにされるのである。 行く自然は、生きてはいるが自らの連動の中で混乱し、個別 労働者は初め自独存在一般という形式を、動物形態を選ぶ。 化して行く多様な姿を、非本質的な容器におとしめる、つま 労働する者は、自分自身がそのまま動物生命のなかにいるのり、内なるものの覆いとする。この内なるものは、初めはま ではないと意識している。労働する者は、このことを、自分だ単純な闇、不動のもの、黒くて不恰好な石である。 ( メッカ が作り出す力として動物生命に対抗するものとされ、動物生の黒い石、ものがみ的信仰対象 ) 命を自分の作品とみて、そこに自分がいると知る形で、証明 以上二つの表現 ( 像と容器 ) は内面と定在を含んでいる。こ する。その結果同時に動物形態は廃棄されて、別の意味をもれは精神の二つの契機であり、二つの表現は同時に両方を対 ち、思想をもった象形文字になる。そのため動物形態も、も立した関係で、内なるものとしての自己と外なるものとして はや労働者によって使われるという、ただ全くそれだけのもの自己という形で、含んでいる。二つは統一されねばならな のではなくなって、思想という形態、人間的形態を混じえた 。人間の形をした彫像は、まだ内なるものから外に出てい もの ( 半獣半人の像 ) になるわけである。だがこの作品には、 ないし、言葉にも、それ自身では内面的である定在にもなっ 自己を自己として現存させる形態と定在がまだ欠けている。 ていない。いくつかの形をもった定在の内面は、まだ音のな輛 つまりそこになお欠けているのは、その作品が一つの内的な いもの、自分自身のなかで区別をたてないものであり、あら 意味を自分に含んでいることを、自ら言表するという面であゆる区別をもった外なるものからまだ分けられたままであ る。充実する意味そのものを現存させる場、言葉が欠けてい る。だから工作者は自然的な形態と自己意識的な形態を混ぜ るのである。だから作品は、動物的なものから全く純化され合せる形で、両方を統一する。この、自分自身にとっても謎 て、自己意識の形態たけを自分でもっているとしても、まだ のような、二つの意味をもったものは、意識と無意識とを、 音のない形態であるにすぎない。この形態が音をもっために単純な内面と多形の外面とを争わせながら、漠とした思想と は、日の出の光を必要とするわけだが、この音は、光によっ 明快な表現とを結びながら、深くてわかりにくい知恵の言葉
生成してきたにすぎないという、正にそういうところにいるれら二つの側面、誘発する関係とそれに対立する一定の内容 のである。二つのカのたわむれは、自体的に在るのではない の関係は、それぞれそれだけで絶対的な顛倒であり、交替でⅢ という、いま言った否定的な意味をもっているにすぎない、 ある。だが両方の関係はそれ自身また同じでもある。誘発さ そして、媒介するものではあるが、悟性の外に有るという肯定れたものであり、誘発するものであるという形式の区別は、内 的な意味をもっているにすぎない。だが、悟性が媒介によっ 容の区別であるものと同じである。誘発されたものそのもの は、つまり、受動的媒体であり、これに対し、誘発するもの て内面のものに関係することは、悟性にとっては、内面のも のがこの運動を通して充たされるようになることである。二 は能動的なものであり、否定的統一もしくは一である。その つのカのたわむれは、吾性にとっては、直接的である。だが ために、この連動のなかに在ることになっていた、特殊な一一 悟性にとっては、二つのカの単純なたわむれが、真なるもの つのカ ( 誘発する力と誘発されるカ ) の区別は、とにかく、す である。だから、カの運動は、もともと単純なものとしての べて互いに消えてしまう。というのも、それらの力は、そう いう区別 ( 内容と形式 ) だけに基づいていたからである。そし み、また真なるものである。だが、二つのカのたわむれにつ て二つのカの区別は、また、前の形式と内容という二つのも いてわれわれの見たことは、他方のカから誘発される力が、 また他方の力に対し誘発するものであり、そのために初めて、 のの区別とともに一つの区別になってしまう。だから、存在 他方の力が誘発する力となるということである。この点に現するのは、カでもなければ、誘発するものおよび誘発される 存するのは、また規定態の直接的な交替、言いかえれば、絶ものでもなく、存立する媒体であるような、また自己に帰っ た統一であるような規定態でもなければ、また、それだけで 対的な交換だけであり、この規定態は、一般的な媒体である か、否定的統一であるか、その何れかであるという、現われある何かでもなく、いろいろな対立でもない。そうではな く、この絶対的交替のうちにあるものは、一般的区別として てくるものの唯一の内容である。この現われてくるものは、 一定の形で現われてくるそのことにおいて、そういうものとの、または、多くの対立が還元されて行ったものとしての区 別だけである。それゆえ、一般的区別としてのこの区別は、 して現われてくるようなものであることを、すぐ止めてしま う。現われてくるものは、一定の仕方で現われることによっカそのもののたわむれにおける単一なものであり、このもの の真である。この区別こそ力の法則である。 て、他方の側面を誘発するが、このためにこの他方の側面は 内面または悟性は、単一態に関係することによって、絶対に 外化される。すなわち、いま、この他方の側面は、そのま ま、最初の側面であるはすであったそのものなのである。こ 交替し、この単一な区別となって現われるのである。内面は、
四 1 D 精神 に、二重の仕方があれば、不等とわかるのにも、二重の仕方尊敬とで、奉仕している。意識は、財富においても同じであ があり、二つの実在する本質に対し、相対立する関係がある って、自分のもう一方の本質的な側面、つまり自独存在の意 ことになる。そこでわれわれは、この異なった判断作用その識を、つくり出してくれるものとしている。それゆえ、意識 ものを、判定しなければならない。そのためには、われわれは富を、やはり、自分との関係において本質であると考えて は、前に掲げた尺度を解釈してみなければならない。 この尺おり、自分の享楽のもとになる人を恩人と認め、その人に感 度によれば、意識が等しいと見つける関係は善であり、不等謝する義務があるとする。 と見つける関係は悪であった。そこでこれら二つの関係の仕 これに対しもう一方の関係の意識は、二つの本質と不等な 方は、、 しまは、それ自身、意識の異なった形態としてつかま関係を固執する、下劣な意識である。だからこの意識は、支 れねばならない。意識が、善であるとか悪であるとかいう相配者の権力のうちに、自独 ( 対自 ) 存在の枷と抑圧とを見てと 違を、決めるようになるのは、意識が異なった態度で関係すり、そのため支配者を嫌い、従うにしても、背信を秘めての るからであって、対自 ( 自独 ) 存在か、純粋自体存在かの何れことにすぎないし、いつでも混乱を引き起そうとしている。 かを、原理とするからではない 。というのも、これら両存在自分の自独存在に享楽をえさせてくれる財富においても、や は等しく本質的な契機だからである。これまで考察された二 はり意識は不等だけを考える、つまり、持続的本質との不等 重の判断は、二つの原理を分離したものと考えたため、判断を考える。意識は、財富によって個別であるという意識、ま の抽象的な様式をもっているにすぎない。現実の意識は両方た享楽がうつろい易いものであるという意識をもつようにな の原理を共に自分でもっており、区別はただ意識の本質のう るので、財富を愛しながらも軽蔑する。本来消え去るもので ちに、つまり、自己自身が、実在するものに関係することのある財富が、消え去ると一緒に、富者に対する自分の関係 うちにだけある。 も、消え去ったものだと見ている。 この関係の仕方は対立している。一方は、国家権力と財富 さてこれらの関係が表現しているのは、またやっと判断で あって、国家権力と財富という二つの実在が、意識に対する に対し、それそれ等しいものとして関係している。他方は、 不等のものとして関係している。等しいとみる関係の意識対象として何であるかを、規定しているだけであって、即且 は、高貴である。公の権力においては、意識は自分と等しい 対自的に何であるかを規定してはいない。一方では、判断の ものを考察し、その権力の中には自分の単純な本質があり、うちで表象されている復帰 ( 反照 ) は、一方並びに他方の規定 その活動があるとし、この本質に対する現実的従順と、内的を措定し、したがって両方を廃棄してはいるけれども、それ
402 これは彫像という物的な作品に対立する。彫像が静止した定ネ孑 し半 ( カタルシス ) は自己を高めて、この純粋な神的な場とす 在であるのに対し、自己意識的定在は消えて行く定在であるのである。この魂は、意識してこの浄化を実現するにして る。対象性は、前者 ( 彫像 ) においては自由に放たれ、自分のも、まだ自己にはなっていない、その深みに降りて行って、 ( キリスト 直接的な自己を欠いているが、後者 ( 讃歌 ) においては、自己自分が悪であることを知る自己にはなっていない。 のなかに閉じこめられすぎており、形態となることが少なす教において初めて悪が意識される。 ) かえってそれは存在するもの ぎる、そこで時間のように、そこにあるときには、そのまま であるから、自己の外面を洗い清め、白衣をまとい、その内 もはやそこにはないことになる。 面に、労働や刑罰や報償などという表象された道を通らせ、 自己意識の純粋な感覚的な場のなかで動かされた神の形態一般に、特殊性をなくす陶冶という道を通らせ、こうしてそ と、物という場で静止している神の形態とが、互いに異なっ の内面を浄福の住家にし、浄福と一つにならせようとするよ た規定を廃棄し合い、両者の本質の概念である定在の統一に うな魂である。 達するわけであるが、そういう二つの側面を動かしているの この礼拝はまだやっと内密のものである、すなわち、ただ は礼拝である。この礼拝においては、自己は、神的実在がそ表象されたたけの非現実的な実行である。だからそれは現実 の彼岸から礼拝に降りてくるという意識をうることになる、 的な行動とならねばならない。非現実的な行動などというも そこで、いままでは非現実的なものであり、対象的なもので のは自己矛盾であるから、このことによって本来の意識は高 あるにすぎなかった神的実在は、そのために、自己意識とい まって純粋な自己意識となる。この意識のなかでは実在は自 う本来の現実をもっことになる。 由な対象という意味をもつ。つまり現実の礼拝によってこの 礼拝というこの概念は、自体的には既に讃歌の流れのうち対象は自己に帰る。そして、この対象が純粋意識において は、現実の彼岸に住まう純粋実在という意味をもっ限り、こ に含まれているし、現に存在している。この信心は、自己の 自己自身による、また自己自身における、直接的な純粋な満の実在は礼拝というこの媒介によって、その一般態から個別 足である。それは清められた魂であり、この魂は、その純粋態に下って行き、この現実と一つになる。 自己と実在という両側面が、どういう形で行動することに な姿において、そのまま実在であるだけで、実在と一つであ る。この魂は、抽象であるから、自分と自分の対象を区別すなるかと言えば、現実的意識である限りの自己意識の側面に る意識ではなく、したがって、定在の夜であり、定在の形態 9 とっては、実在が現実の自然となって現われるということに のために用意された場所にほかならない。それゆえ、抽象的なる。一方では自然は所有物、財産として意識のものであ