なお進んで行く道程そのものである。この道程 が同時に知であり、学である。この疑いの道を 歩みとおし、成しとげることが、学なのである。 校この疑いの歩み ( 経験 ) 以外に、どこかに固定 、を ~ : ら学した真や学などが在るのではない。自然的意識 : ′下営は、学、真理の否定である。が同時に、この否 院定にひるむことなく、それに堪えて、その否定 修のうちに、否定を通して、自己を実現するもの ン が学である。自然的意識から言えば、自らが死 ゲ ンぬことにおいて、自らの所をえて生きる。そこ に学の成り立っ場 (Element) がある。 さて一般には、真と偽というきまったものが 在って、固定していると考えられている。その ため、真と偽とは全く別のものであり、互いに絶 対他者であると考えられ、偽はただ単に否定す るものと考えられている。だがヘーゲルによれば、事態はそ 否定の無に立ち止まってしまい、そこから先に進もうとはし うではない。真はもともと自己否定的なものである。本来、 なしだがここで絶望と呼ばれる疑いは、そこに真がないこ とを見るけれども、そう見られた無が、既にそのとき限定さすべてのものは、否定的なもの、自己と不同のものを含むこ とにおいて、自らである。真とてもそのことに変りはない。 れていることを知っている。だからそれは、もはや無ではな く、何かである。一定の ( 求められた ) 何かとして現われて真は、偽を否定的なものとして、否定的な自己として自らに くるわけではないが、そうであることにおいて、既に別の何含んで現に在るわけである。固定した偽というものがあっ かとなっているのである。つまりそこには別のものへの移行て、それが真の契機になっているというのでもなければ、「偽 が、既に起っているのである。絶望はそこに立ち止まるので のなかにもいくらかの真が在る」というのでもない。そうい はない。そうではなく、このように疑い、絶望しながらも、 う考えはすべて、真と偽を別々のものと考えていることにな ュ
る。そこで、存在すなわち単一な自体は、一定の範囲をとる 一であるということであり、行為が現実的である、というこ ことになる。だから個人は、本源的でありながらも、一定の と、このことは、行為の形式が、現に存在する統一である、 ということである。行為自身が内容であるのは、自らが移行本性として立ち現われる。本源的本性だというのは、自体的 し運動するという規定に対立して、単一という規定をとる場であるからであり、本源的に一定であるというのは、否定的 なものがそれに即しているからであり、そのため否定的なも 合だけである。 のが、或る性質となっているからである。にも拘らず、この 我精神的な動物の国とだまし、または「ことそのもの ように存在を制限しても、意識の行為を制限することはでき ない。なぜなら、この場合意識の行為は、全く、自己の自己 それ自体で実在的なこの個人性も、さしあたっては、やは 自身に対する関係だからである。他者に対する関係つまり、 り個別的であり、規定されている。それゆえ、個人が、自ら 行為を制限するものは、廃棄されてしまっている。だから、 そうと知っている絶対的実在性は、個人にそう意識されてい る程度では、抽象的で一般的である。つまりそれは、充たさ本性が本源的に規定されていることは、単純な原理である、 ここでは個人 つまり、透明な一般的な場であるにすぎない。 れていないし、内容をもっていない、そういう範疇について は自由であり、自己自身と等しいままであると共に、妨けら の、空しい思想であるに止まる。そこで考えてみなければな らないのは、それ自体に自分で実在的な個人というこの概念れもしないで自らの区別を展開させ、自己を実現しながら、 自己と純粋に交互作用をしているのである。ちょうど、不定 が、その諸々の契機のうちで、どのように規定されるか、ま の動物生命は、いわば水、空気もしくは地というような場 た個人の自己自身についての概念が、どういうふうに個人に に、またこれらのうちで、更に一層規定されたいくつかの原 宀思識されるようになるか、ということである。 理に、自らの息吹をふきこみ、自らの契機のすべてを、それ らの場にひたすにしても、それらの契機を、場のそういう制 性個人性が、そのままで自己自身にとって、全実在であると いう、この個人の概念とても、差し当っては結果である。個限があるにも拘らず、自分で支配し、自ら一つのままでお 理 り、この特殊な有機組織として、同一の一般的な動物生命そ 人は、その運動と実在をまだ現わしていないし、ここでは、 のままを続けている、のと同じである。 単純な自体存在として、媒介を経ないままで措定されてい 意識は、このように規定された本源的な自然 ( 本性 ) にいな る。だが、否定性は、運動という形で現われるものと同一のも のであって、規定態としての単一の自体に、即したものであがら、いつまでも自由であり、全くそのままでいるのである 286
廃棄された自分だけでの有としては措定されていない。法則 差しあたっては、自体的に一般的なものであるにすぎない。 だが、自体的に単純なこの一般者は、本質的にはまた絶対のこの欠陥は法則自身において、やはり、現われざるを得な 、 0 法則の欠陥と思われるものは、区別そのものを自らにも に、一般的な区別でもある。な。せならば、その一般者は交替 っているのに、その区別が一般的であり、不定であることであ 自身の結果であるからである、言いかえると、交替がその一 る。だが、法則は、法則というもの一般ミ Gesetz 享。「 haupt) 般者の本質であるからである。だがこのため、内面に措定さ 一つの法則である限り、自ら規定態をもってい れ、真にある通りの交替は、同じように絶対に一般的で、静ではなく、 止的で、自己に等しいままの区別として、内面に、取り入れる。そこで不定な形で多くの法則が現に在ることになる。し かしこの多数態はむしろ欠陥でさえある。多数態は、単一な られてしまうようなものである。或は、否定は一般的なもの の本質的な契機である。だから、否定もしくは媒介は、一般内面の意識として、それ自体で一般的な統一を真理とする悟 者においては、一般的な区別である。この区別は、常ならぬ性の原理に、矛盾する。それゆえ、悟性は、多くの法則をむ しろ一つの法則に集約させねばならない。たとえば、石が落 現象の常なる像としての法則において、表現されている。だ から、超感覚的世界は諸々の法則の静かな国である。知覚さ下するときの法則と天体が運動するときの法則とが、一つの れた世界は、絶えず変化することによ「てのみ、法則を表わ法則として理解されたようにしなければならない。だがこの しているのだから、この法則の国は、知覚された世界の彼岸ように互いが一つになると、諸々の法則はその規定態を失「 ではあるけれども、しかしまた知覚された世界のうちに現在てしまう。そのとき法則そのものは次第に表面的なものにな って行き、その結果、実際には、これら諸々の一定の法則の しており、この世界の直接的な、静かな映像である。 法則の国は悟性の真理であり、この真理は、法則のうちに統一が在るのではなく、それぞれの規定態を失「た一つの法 則が在ることになる。このことは、地上の物体が落下すると ある区別において、内容をもっているのではあるが、同時に きの法則と、天体が運動するときの法則とを、自らのなかに それは悟性の最初の真理にすぎないし、現象を尽してはいな 、。法則は、現象のうちに現在しているけれども、現象を完統一している一つの法則が、それら二つの法則を実際には表 意全に現在させているわけではない。法則は、状態が変るにつ現していないのと、同じである。すべての法則を一般的引力 ( 万有引力 ) のなかで統一することは、法則のなかに存在的な れて、いつもちがった現実をもつ。そのため、自分だけでの ものとして措定されていゑ法則自体のただの概念以上に 現象には、内面のうちにはないような側面が残っている。一言 は、いかなる内容をも表現していない。万有引力が言ってい いかえると、現象は、ほんとうのところ、まだ現象としては、
奉仕の関係において、また抽象的思惟そのものにとって、規真理をも消えさせてしまう。このように自ら意識した否定に よって、自己意識は自己の自由の確信を自分自身で創り出 定的なものと見られたものが実在でないとも指摘している。 支配と奉仕の関係は、人倫的な法則をもまた主の命令としてし、その経験を生み出し、こうしてそれを真理に高める。消 えるものは、一定のものである。言いかえれば、どういう仕 現存させているような、一定の仕方を同時に含んでいる。だ が、抽象的思惟における諸々の規定は、学の諸々の概念であ方で、どこから来ようとも、固定した、変化しないものとし る。内容のない思惟は、この概念のなかへとひろがってゆて掲げられる区別である。この区別は自らにおいて全く永続 き、概念の内容となってはいるが、概念からは独立な存在するものを持たないし、思惟にとっては消えざるをえない。 に、実際には外的であるにすぎないやり方で、その概念を結というのも、この区別されたものは、まさにそれ自身におい て存在するようなものではなく、その真理をただ他者のうち びつけている。そこでこの思惟は、一定の概念だけを、よし それがまた純粋の抽象であるとしても、妥当するものとして に持っているようなものだからである。だが思惟は区別され たもののこの本性を見抜くものであり、単純なものとしての いる。 ( 全集十八巻、五三八以下 ) 弁証法的なものは、そのまま在る通りの否定的な運動とし否定的なものである。 ては、初めのうち意識からみるとき、自分を物笑いの種にす だから、懐疑論の自己意識は、自分に対して固定しようと るもののように、意識そのものによって在るのではないものする一切のものの動揺に出会うとき、自己自身の自由が、自 のように思われる。これとちがい、懐疑論としては、この否分自身で手に入れたものであり、支えているものであること 定的連動は自己意識の契機である。自己意識にとっては、なを経験する。その自己意識は、自分にとっては、自己自身を ぜかを知らない間に、自らの真と実在が消えてしまうのは、 思惟する心の平静 (Ataraxie) であり、自己自身に対する不変 突然起ってくることではなく、自己意識が自らの自由を確信な真の確信なのである。この確信は、自らの多様な展開を自 らのなかに崩壊させている外のものから、自らの生成を自分 して、実在であると称するこの他者自身を消えさせてしまう 意 己のである。ただ対象的なものそのものだけでなく、対象的な の背後にもっている結果として、出てくるものではない。か 自 ものを対象的なものと認め、妥当させる自分自身の、対象に えって意識自身は、感覚的表象と思惟された表象の混合とし 対する態度をも消えさせてしまう。したがって自らの知覚をて、絶対的な弁証法的な不安定なのである。だがこれらの表 も、また失われようとする危険にあるものを、自ら固定させ象の区別は崩れ去り、その相等性もやはりまた解体してしま ることをも、更に詭弁をも、自ら規定され固定された自らのう。というのは、この相等性は不等なものに対する規定態で
が、この本性は、個体が目的とするものの、直接的でまた唯や、直接自分のものと意識している目的である場合の、対象 ではなく、行為者の外に出て一つの他者として、行為者に対 一本来の内容として現われる。この内容は、一定の内容では あるけれども、もとはと言えば、われわれが、自体存在を遊している場合の対象である。ところが、これらいろいろな側 離させて考える限りでのみ、内容であるにすぎない。だがほ面は、その分野の概念からみて、次のように定められねばな らない。すなわち、それらの区別をとりながらも、内容はい んとうは、この内容は、個体性によって浸透された実在性で つまでも同じであり、区別は入りこんでこないということで ある、つまり、個別的である意識が、自分自身にもっている 限りの現実、初めのうちは措定されているにしても、存在すある。個人性と存在一般の区別も、目的と本源的本性として の個人性もしくは眼前の現実との区別も、また手段と絶対的 るものとしてであって、まだ行為するものとしてではない限 りの、現実である。しかし行為からみると、そういう限定な目的としての現実との区別も、実現された現実と、目的ま たは本源的自然、または手段との区別も、入りこんでこない は、一方では、存在する性質と考えられるため、行為の動く ということである。 場という単純な色であるから、行為が乗り超えようとするか それゆえます第一に、個人性が本源的に規定された本性、 もしれない制限ではない。、、、 カ他方では、否定態が規定態であ るのは、存在 ( 固定 ) においてのことにすぎない、が、行為はその直接的な本質は、まだ行為するものとして、立てられて はいない、そこで特殊な能力、才能、性格などと呼ばれるの それ自身否定態にほかならない。だから行為する個人にあっ である。精神に特有なこの色合いは、目的そのものの唯一の ては、規定態は否定態一般のうちに解体している、言いかえ れば、全規定態の総体のうちに解体している。 内容と考えられ、全くこれだけが実在と考えらるべきだ、と よ、この内容を超えてその外に さて単純な本源的本性は、行為や行為の意識となるとき、 いうことになる。もし、意識。 出て、それとは別の或る内容を実現しようとしているのだ、 行為につきものの区別となって行く。まず初めに、行為は : 対象として、しかもまだ意識についている対象として、つま と考えるならば、無が無の中に働きかけていると、考えるこ とになるであろう。更に本源的本質は、目的の内容であるば り目的として現存しており、したがって眼前の現実と対立し ている。その次の契機は、静止するものと表象された目的かりか、それ自体で現実でもある。普通ならば、この現実 は、行為に与えられた素材と、眠前に見つけられた現実、行為 が、動くことである、全く形式的な現実に、目的を関係させ において形成さるべき現実と思われている。つまり行為は、 ることとしての実現である。したがって、移行という表象っ まり手段である。最後に、第三の契機は、行為者が、もは まだ現われていない存在という形式から、現われた存在とい
112 もあり、またこの統一は自立的な諸々の形態に分裂することち、二つの形態がばらばらになっていながら安定している姿 でもある。統一は、絶対に否定的なつまり無限な統一である が、正にそのことのために、形態の動揺となり、過程として から、分裂すゑそして統一が存立するから、区別もこの統の生命となる。単一な一般的流動は自体であり、形態の区別 一においてのみ自立するのである。形態のこの自立性は一定は他者である。だがこの流動はこの区別によってそれ自身他 のもの、他者に対するものとして現われる。というのもこの者となる。なぜなら、そうなったいま、流動は区別に対して いる。この区別はそれ自体に自分で在り、そのため限りなく 自立性は分裂したものだからである。この限りで分裂の廃棄 は他者によって起る。しかし廃棄は自立性そのものにも在動き、この運動によって前の静かな媒体は食いつくされる。 る。なぜならば、例の流動性こそは自立的な形態の実体であそういう意味で流動は生きたものとしての生命となる。だ るからである。が、この実体は無限である。だから形態は、 が、それゆえにこそ、この顧倒はまたそれ自体自身において その存立自身において分裂である、つまり、自分だけでの有顯倒態である。つまり、食いつくされるものは実在 ( 本質 ) で を廃棄する。 ( 「イ , ーナ実質哲学」二の一一六 ) ある。一般者を犠牲にして自己を維持し、自己自身との統一 われわれが、ここに含まれた契機にもっと詳しい区別を立の感情を得た個別態は、正にそのために、自分を自分だけの ててみると、第一の契機として、自立的な諸々の形態の存立ものたらしめている他者との対立を、廃棄する。個別態が自 していることがわかる。すなわちそれは、詳しく言えば、自 らに与える自己自身との統一は、両方の区別が流動すること 体的には在りもしなければ、存立してもいないという、区別である、すなわち、両方が一般的に解体することである。だ 作用それ自体であるものを、抑圧することである。だが、第 が逆に、個別的存立を廃棄することは、また、それを生み出す 二の契機は、前の存立を区別の無限性に隷属させることであことである。なぜならば、個的形態の実在、一般的生命、自 る。第一の契機のうちには存立する形態が在る。その形態は 分だけでの存在者は自体的に単一な実体であるから、他者が 自分だけで有るものとして、または規定されていながらも無自らのうちに措定されると、自らのこの単一態乃至実在を廃 限な実体として、一般的実体に対抗して現われ、この流動性棄する、すなわち、単純態を分裂させる。そして区別のない と、この実体との連続とを否定して、この一般者のなかで解流動をこのように分裂させることこそ、個別態を措定するこ 消しているのではなく、自分のこの有機的でない自然から分とである。だから、生命の単一な実体は、自己自身を二つの れ、これを食い尽すことによって、自分を支えるものだと主形態に分っと同時に、これらの存立する区別を解消させる。 張する。一般的な流動的な媒体のうちにある生命、すなわ分裂を解消させることはまた同じように分裂させることであ 138
の行動を、自分に反抗する犯罪だと狙いをつけるとしても、 が、分割できず絶対に自分だけであり、両者を結びつけるよ うな媒語にかなう部分も、あり得ないので、この両極の関係政府の方では、自分に反対する意志の罪を証拠だてるよう引 よ、一定の外的なものを何ももっていない。なぜといって、 は、全く媒介できないただの否定であり、しかも、・一般者のオ 中に存在するものとしての個別を、否定することである。だ現実の一般的意志は政府であるが、これに対抗するのは、非 から一般的自由の唯一の仕事及び行果は、死であるが、しか現実的なただの意志、つまり意図にすぎないからである。嫌 疑をかけるということが代りになる、つまり、うたがいをか も、内面的ひろがりや成果が全くないような死である。とい うのも、否定されるのは、絶対に自由な自己という充たされければ、罪があるという意味になり、その効果を現わすこと ない点だからである。だからそれは、極めて冷たい平板な死になる。この現実に対する外面上の反動、意図という単純な であり、キャベツの頭を割るとか、水を一のみするとかいう内面にある反動は、この存在する自己を、そっけなく亡ぼす 以上の意味をもっていない。 ( 恐怖政治 ) ことになるが、この自己にはただその存在そのものより外に 死という綴りの平板な姿のなかに、この場合の統治の知恵 は、取り除くべき何ものもないのである。 が在り、自らを実現しようとする一般的意志の分別が、在るわ こういう独特な仕事において、絶対的自由の対象となるの けである。統治というのは、一般的意志が自らを固定させる は自らである。自己意識は、絶対自由が何であるかを経験す 点であり、その個人態にほかならない。統治は一つの点から る。自体的には、絶対自由は、正しくこの抽象的自己意識で 発する意欲であり、実現であるが、それは同時に、一定の指あり、これは、すべての区別と区別の全存立とを、自分のな 令と行動を欲しまた実現する。だからそれは、一方では、自 かで亡・ほしてしまう。このようなものとして、絶対自由は自 分以外の個人をその行為から除外し、他方では、そのため分の対象となる。死の恐怖は、絶対自由がこのように否定的 に、一定の意志であることによって、一般の意志に対立する なものであることを、直観することである。絶対に自由な自 ようなものとして、確立されることになる。それゆえ、それ己意識は、自分の実在する姿が、実在自身の概念とは、全く は何としても、一つの徒党として、現われるよりほか仕方が 別のものであることに気がつく。つまり、一般的な意志は、 ない。勝った方の徒党が、政府と呼ばれるだけで、徒党であ個人格に対しては肯定的なものであり、したがって個人は、 るというまさにこの点で、そのまま当然自ら没落するのであ一般的な意志においては、肯定され保たれるものとばかり、 る。また逆に政府であるというこのことが、それを徒党化 思っていたのであるが、それとはちがうことに気がついたの し、罪あるものとするのである。一般の意志が、政府の現実である。自己意識は、純粋透見として、その肯定的な本質と
とになる。しかしこの言葉によって示されていることは、ほ はやさしいことである。この反駁は、そういう原則の欠点を かでもなく、存在、本質、普遍一般というようなものではな 示すだけでよ い。だが原則に欠点があるのは、それがただ普 く、自己に帰ったもの、つまり主語 ( 体 ) が措定されている 遍的なものもしくは原理、始まりであるにすぎないからであ ということである。だが、これまでのやり方では、同時に主る。もしこの反駁に根拠があるとすれば、反駁が原理そのも 語 ( 体 ) は先取りされているにすぎない。主語 ( 体 ) は固定しのからとられ展開されている場合である。が、それと対立し た点と受けとられている。この点を支えとしてそこに述語が た断言や思いっきによって外から立てられる場合ではない。 付け加えられている、がこのことは、この点について知ってだから、もし自らの否定的なはたらきだけに注意を向けて、 いるものにだけ帰属し、点そのものに帰属するとは思われな 自らの進行と結果をその肯定的な面からも意識することをし いような運動によ「て行われる。点そのものに帰属する運動ない、というふうに見ちがいをしないならば、反対は本来 によってのみ、内容は主観 ( 体 ) として表わされるであろう。 原理の展開であり、したがって原理の欠点を補うものであろ この運動のもっている性質の在り方によ「ては、運動は主語う。つまり、始まりを本来的に肯定的に実現することは、同時 には帰属し得ない。だが固定した点を前提するならば、この にその逆でもあって、始まりに対し否定的な態度をとること 運動はやはりそれとはちが「たものではあり得ない、つまりでもある。つまり、始まりがまだや 0 と無媒介であり、すな 運動は外的でしかあり得ない。絶対的なものは主観 ( 体 ) でわち目的であるにすぎないという、始まりの一面的な姿に対 あるという、例の先取りは、だから、絶対という概念の現実し、否定的な態度をとることでもある。だから始まりを展開 でないだけではなく、そういう現実を不可能にしてしまう。 させることは、体系の根拠をなすものを否定することだと見 というのは、そういう前提がこの概念を静止した点として措られてもよい、更にもっと正しく言えば、体系の根拠すなわ 定しているが、現実は自己運動であるからである。 ち原理は、実際には、体系の始まりにすぎないということ これまでのべたことから出てくる帰結のうちで次のようなを、示しているものと見なさるべぎである。 ことが特にとり出されうる。つまり知は学としてすなわち体 真理は体系としてのみ現実的であるということ、言いかえ 系としてのみ現実であり、述べられうるということ、更に、 れば、実体は本質的には主観 ( 体 ) であるということは、絶 哲学のいわゆる原則とか原理とかは、真である場合には、た対的なものを精神と言い表わすという考えのなかに、表現さ だ原則もしくは原理に止まる限り、すでにそれだけの理由でれている。これは最も崇高な概念であって、近代とその宗教 偽でもあるということである。だから、原則を反駁すること に帰属するものである。精神的なものだけが現実的なもので
の思惟されたものが悟性概念であるのに対し、 この否定的形式を超えて、初めの対象が自己を 回復したもの、これがヘーゲルのいう概念であ る。だからそれは、普通の意味の概念を否定的 にのり超えて、これをその中に含んだもののこ とである。このことを更に言いかえて、概念は ゲ推理をうちに含むものであるとも、言うのであ る。初めの対象が思惟の中に、形式という形で 否定されて行く。ということは、そのとき対象 の 斎が、自分はそういう形式などではないとい 0 て 書いることになる。そこで、形式となった否定 を、更に否定することによって、この形式を含 んだ意味で、内容を回復することが考えられて いるわけである。そういう形でえられたものが 概念なのである。だから概念は、そういう過程 を推理として、内に含んだものだというのであ による形式の固定を、その逆の面である内容との関連におい て、生かして行く途はないかと考えるわけである。だから、 では、この立場からみるとき、これまで概念についてはど 内容を否定して形式を固定させることから、この否定を避けう考えられてきたのであろうか。まず考えられるのは、精神 ずに、この否定を通って、形式と共に内容を生かし、復活さ が素朴な実体的生 (das substantielle Leben) に安らってい た場合である。この場合には、精神は実在と自分との一致を せる途はないかと、考えるわけである。 このことを言いかえると、初めに言ったように、思惟され確信し、それに満足していたのである。だから知識 ( 悟性的 たものから概念へということになる。ということは、この場思による ) はそのまま実在と一つであると、信じこんでい 合の概念が悟性概念ではない、ということを意味する。初めたのである。これはス。ヒノザに代表される実体論的形而上学 る。
で、互いに浸透し合っているが、しかも互いに触れ合うことも 一定の無であり、或る内容のつまりこのものの無 ( 六八 ) で ない。というのは、この普遍性に関与しているという正にそ ある。そのため、感覚的なものは自らなお現存しているが、 直接的 ( 無媒介 ) な確信のうちにあったような形で、思いこまのことのために、それらの規定態は互いに対し無関心である からである。この抽象的で一般的な媒体は、物態一般また純 れた個別として在るのではなく、一般的なものとして、言いか えれば、性質として規定されるようなものとして在る。廃棄粋実在 ( 本質 ) と呼んでもよく、既に明かになったように、 こといまにほかならない、つまり多くの性質の単一な複合に のはたらきは、その真の一一重の意味を表わしており、この意 ほかならない。だがこの多くの性質は、それらの規定そのもの 味はわれわれが否定的なものにおいて既に見たものである。 それは否定することであると同時に、保存することである。 においては、単一な普遍である。この塩は単一なここである このものの無としての無は、直接態を保存しており、感覚的と同時に多様である。それは白いと共に、辛くもあり、結品体 でさえある。が、それは一般的な直接態である。ところで有でもあり、一定の重さをもってもいる等々である。これら多 くの性質はみな一つの単一なここのなかに在り、したがって は、媒介もしくは否定的なものを自分にもっているから、一 般的なものである。有は、このことをその直接態において表互いに浸透し合っている。どの性質もほかの性質とは別のこ こをもっているわけではなく、どれもが媒体のどこにもあり、 現しているから、区別された、規定された性質である。そこ ほかの性質が有ると同じここに有る。それと同時に、それら で同時に、一方が他方の否定であるような、そういう多くの 性質が措定されているのである。それらの性質は、一般的な の性質は、異なったここによって分たれていないのに、互いに ものという単純態のなかに表現されているから、これらの規浸透しながらも互いに刺戟し合うことがない。白は立法体を 定態は、本来は、更につけ加わってくる規定によって初めて刺戟したり、変えたりはしないし、両者は辛さなどを刺戟した 性質となるはずなのに、自己自身に関係し、互いに無関心であり、変えたりすることもない。各々はそれ自身単一な自己関 り、各々が自分だけであり、他の規定から自由である。自己係であるから、ほかの性質を静かにしておき、無関心なもまた によって、ほかの性質に関係するだけである。だから、この 自身に等しい、単一な普遍性それ自身は、しかし、自分のも引 意っこれらの規定態とは区別されており、それらから自由であもまた ( 「論理学』二の一一七、一一九等 ) は純粋の普遍そのもの、 < る。この普遍性は純粋の自己関係または媒体である。この媒つまり、媒体であり、多くの性質を包括する物態である。 体のなかには、いま言った規定態のすべてが存在しており、 これまでのべたところから出てくる関係のなかでは、やっ したがってそれらの規定態は、単一な統一である媒体のなか と肯定的普遍という性格が観察され、展開されただけであ