174 言いかえれば、形態を本質として規定されたものとする、一 係は、観察に現われてくるはすの形態においては、すぐその つの規定態であるにすぎない。だが類の自由は、一般的な自 まま、非有機体の領域に移されたのである。この関係をこの 由であり、このような形態に対し、つまり類の現実に対し無 領域に引きいれる規定は、いまここでもっと詳しく示されう るし、そこからこの事態の、もっと別の形式や関係も示され関係である。非有機体の自立存在そのものに帰属する規定態 は、それゆえ、有機体においては、その ( 有機体の ) 自立存在 る。つまり、非有機体の場合に、内なるものと外なるものと の、いま言った比較の可能性を、示すと思われるものが、有機のもとに従属する。それは、規定態が、非有機体において 体の場合には、まったくなくなっている。非有機的な内なる は、その存在のもとに従属するにすぎないのと同じである。 ものは単純な内なるものであり、これは存在する性質として だから、規定態は、非有機体にあっては、同時に性質として 知覚に対し現われる。したがってその規定態は本質的には大在るにすぎないとしても、この規定態には、なお本質の威厳 いさである。それは存在する性質として外なるものに対し、 が帰せられている。というのも規定態は、単純に否定的なも つまりそれ以外の多くの感覚的性質に対し無関係である。だ のとして、対他存在としての定在に対立しているからであ る。そしてこの単純な否定的なものは、その究極の個別的な : 、有機的生命体の自立存在は、自らの外なるものに対し、 規定態においては数である。だが有機体が個別性であるの 側面に立つのではなく、他在の原理を自分自身にもって る。われわれが、自立存在を、自己自身に対し、自己を維持は、それ自身純粋の否定性であり、したがってどうでもよい しながら、単純に関係することと規定するならば、その他在存在に帰属する数という、固定した規定態を、自らのなかで は単純な否定性である。そして有機的統一とは、自己相等的消し去るからである。だから、有機体が、どうでもよい存在 自己関係と純粋否定性との統一である。この統一は、統一と という契機をもっており、その点で数という契機を自分にも しては有機体の内なるものである。そのためこの有機体は、 っている限り、数は、有機体におけるたわむれであるだけ それ自体で一般的である、つまり類である。しかし類のその で、有機体の生命ある姿の本質とは受けとれない。 現実に対する自由は、形態に対する比重の自由とはちがった ところが純粋の否定性、つまり過程の原理が既に有機体の ものである。比重の自由は存在する自由である、言いかえれ外に生ずるのではなく、したがって有機体が、否定性を一つ ば、それは特殊な性質として、一方の側面に現われるという の規定態として、自らの本質のうちにもつのでもなく ( 規定 ことである。けれども、それは存在する自由であるから、こ態〔否定性〕が固定した定在であるような非有機体の場合のように ) 、 個別性そのものが、自体的には一般的であるとしても、しか の形態に本質的に帰属する一つの規定態であるにすぎない、
に帰って行かざるをえなくなり、それらを分けてみたり、別々 ( 「エンチュクロペディー」 いうだけのことさえも要求しえない。 1 に置いてみたり、新しい側面をそれらの物の物態において嗅二五〇節 ) ぎ出したりすることになる。この休みなく不安定な本能が、 この探求と記述にとっては、物だけが問題であるように思 材料に不足することは決してありえない。新しい、はっきり われる。が、われわれの見るところでは、その場合、探求と 区別された類をみつけたり、個体でありながらも、なお一般記述は、感覚的な知覚をたどって進んで行くのではない。探 者という性質をもっているといったような、全く新しい惑星求と記述にとっては、物が認識されるもとになるものの方 をみつけたりすることは ( 「エンチュクロペディー」二八〇節 ) 、 が、それ以外の範囲の感覚的な諸々の性質よりも、ずっと大 幸運な人だけにしかできないことである。だが、象、槲、黄切なのである。ところが物自身は、これらの性質を、欠くこ 金などのようにはっきり区別されているものの限界、類と種とはできないが、意識はそれらがなくてもかまわないのであ の限界は、多くの段階を通って、混沌とした動植物、岩石類、る。このように本質的なものと非本質的なものを区別するこ または、カや技術を通じて初めて現われてくる金属や土壌な とによって、感覚的分散のなかから概念が浮びあがってく どを、無限に特殊化することに移ってゆく。一般者のなかで る。そこで認識は少くとも自分自身と物が同じように大切だ は、特殊化がまた個別化に近づいたり、あちこちで個別化に全と声明する。このように本質が一一重になっていることに出会 然落ちこんだりするが、こういうところでは、つまり一般者って、認識にとって本質的で必然的なものは、物においても が不定であるというこの領域では、観察と記述のために、尽そうであるかどうかという点で、決心がっかなくなってしま きることのない貯えが開かれている。とはいえ、ここでは、観う。一方では、認識冫 こ物を互いに区別させるもとだと言われ 察と記述には、見透すこともできないような分野が開かれて ている徴表は、認識にだけは役に立っことになっている。が、 いるのだから、一般者の限界 ( 「エンチ = クロペディー」二五〇節 ) 他方では、物にとって非本質的なものは認識されないで、物 に冫言りがたい富ではなく、むしろ自然の限界が、観察や自身を存在一般の普遍的な連続から引き裂いてしまうもの、 記述のはたらきの限界が見つけられえたにすぎない。観察と他者から引き離され、自分だけで在るものが認識されること 記述は、自体的に存在するように見えるものが、偶然ではな になってしまう。徴表は、認識に対し本質的な関係をもって いかどうかを、もはや知り得ないのである。混乱した、未熟 いるだけでなく、物の本質的な規定態でもあると言われ、こ な、弱い形象、原始的な不定な姿から殆んど進んでいない形の技巧的な体系は、自然自身の体系に対応しており、これの 象そのもの、という刻印をもっているものは、記述されるとみを表現していると言われる。このことは、理性の概念から
から出て、一般者となる。けれども、この一般的なものは、 自分だけでの有をつくりあげている本質的な性質をもっと言 われるが、この単一態にも拘らず、自己自身で種々相をもっ感覚的なものから発しているので、本質的にはこれによって ている。この種々相は必然的ではあるけれども、本質的規定制限されている。だからそれはもともと、真に自己自身に等 態をなすものではないと言われる。だがこのことは、かろう しいものではなく、対立によって刺戟された一般性である。 じて言葉のなかに在るにすぎない区別である。非本質的であそれゆえ、個別と普遍という両極に、諸々の性質が一つであ りながらも、同時に必然的であるはずのものは、自己自身をることと自由な素材のもまたという両極に分れる。この純粋 廃棄する、言いかえれば、たったいま、自己自身の否定と呼の規定態は、実在性そのものであるように見えるが、自分だ けの有にすぎないのであって、他者に対する有につきまとわ ばれたものである。 ここに至って、自分だけでの有と他者に対する有とを分けれている。しかし、両者は共に本質的には一つの統一のなか に在るのだから、いまここに至っては、無制約な絶対の普遍 ていた、例の最後の「限りにおいて」はくずれ去ってしま が現存していることになる。そして、ここで初めて意識は真 う。むしろ、対象は全く同一の点で自己自身の反対である。 に悟性の分野に入ったわけである。 対象は他者に対してある限りで、自分だけで有り、自分だけ それゆえ、感覚的個別性は直接的 ( 無媒介 ) な確信の弁証法 である限りで、他者に対している。対象は自分だけであり、 自己に帰って ( 反照して ) おり、一である。だが、このよう的運動のなかで消えて、普遍となりはするが、この普遍は感 に、自分だけで、自己に帰って、一であることは、その反対覚的一般性であるにすぎない。思いこみ ( 臆見 ) は消え去って つまり他者に対する有と統一されており、それゆえ、廃棄さおり、知覚は、自体的に有り、普遍者一般として有る対象を れたものとしてのみ措定されている。言いかえれば、この自つかむ。それゆえ個別性は知覚においては、真の個別性とし 分だけでの有にしても、非本質的である点では、他者との関て、一という自体存在として現われてくる。言いかえれば、 係としてそれのみが非本質的なものであると、言われたもの自己自身に帰った有として現われてくる。だがこの自体存在 と同じである。 は制限された対自存在 ( 自分だけでの有 ) であり、これと並んで 以上のようにして、対象はその、いくつかの純粋の規定態 別の対自存在が、つまり、個別性に対立し、個別性によって において、自らの本質をなすはすの規定態において、廃棄さ 制限された一般性が現われてくる。だが、個別と一般という れている。それは、ちょうど対象がその感覚的存在において この二つの矛盾する極は、並び合っているだけでなく、統一 廃棄されたものとなったのと同じである。対象は感覚的存在されてもいる。同じことであるが、両者に共通のもの、つま
いう二つの区別されたものは、非本質的なものである。しか し実際には、両方は、それ自身で一般的なものつまり本質 ( 実在 ) であるから、ともに本質的である。が、両方とも対立 二知覚物とまどわし したものとして互いに関係し合うのだから、その関係のなか では、ただ一方だけが本質的なものであり得る。そして本質 直接的な確信は真理を手に入れない。というのは、その真的なものと非本質的なものの区別は、互いに両方にあてがわ 理が一般的なものだからである。だが、この確信はこのものれねばならない。単一なものと定められる一方つまり対象 は、本質 ( 実在 ) であり、知覚されようとされまいと無関心で を手に入れようとする。これに対し知覚は、存在すると思う ものを、一般的なものとして受けとる。もともと知覚の原理ある。が、知覚するはたらきの方は、運動であるから、有る こともできればないこともできるもの、常住ならぬものであ が普遍性であるように、知覚のなかで直接互いに区別される り、非本質的なものである。 諸々の契機も一般的なものである。この場合の自我は一般的 そこで、この対象はもっと詳しく規定する必要があり、生 な自我であり、対象は一般的な対象である。その原理は「わ じてくる結果から、対象の規定をかんたんに展開する必要が れわれにとって」 ( 七四 ) は生成してきたものである。だから 知覚をわれわれが受け取るとしても、もはや感覚的確信の場ある。これ以上に詳しい展開はここでは必要でない。対象の 合のように、現われてくるままにではなく、必然的なものと原理、一般的なものは、単一な姿をとっていながら、媒介さ してである。その原理が生成してくるとき同時に二つの契機れたものであるから、このことを自らの本性として自分で表 が生れたけれども、それらは現われると同時に離脱していっ現しなければならない。そうなったとき、対象は多くの性質 たにすぎない。つまり、その一方は示す連動であり、他方はをもった物として現われゑ感覚的な知の豊かな内容は、知 この確信に 覚のものであって、直接的確信のものではない。 同じように運動ではあるが、単純なものである。前者は知覚 であり、後者は対象である。対象は本質的には、運動と同じあっては、その内容はただ傍らにたわむれるものにすぎなか ものである。運動は契機を展開させ、区別するが、対象は契った。なぜならば、知覚だけが否定を、区別つまり多様を、 機が総括的につかまれたものである。「われわれにとって」、 その本質としているからである。 またはそれ自体には、原理としての一般者が知覚の本質であ それゆえ、このものは、このものならぬものまたは廃棄さ るが、この抽象化に対し、知覚するものと知覚されるものとれたものとして、措定されている、したがって無ではなく、
この側面においては、数が唯一の規定態であり、この規演繹」四〇節 ) この存在においては、いかなる性質も別の性質 に対し、否定的なものという性格を示しているものではな 定態は、諸々の性質の関係や移行を表現していないだけでは 一方は他方と同じように現に存在している。またそれら なく、本質的には、必然的な関係などは全くもっていないよ うな、すべての合法則性をなくしてしまうようなものであの性質は、全体という秩序のなかでは、それ以外に自分の場 る。というのは、数は規定態の表現であるにしても、非本質を示しはしない。平行的な区別をとって ( その関係が、両側 的なものだからである。そういうわけで、比重という数の上面で同時に昇 0 て行くと考えられようと、一方でだけ増して の区別としての区別を、表わしている物体の系列は、それと他方では減ると考えられようと ) 進んで行く系列の場合に大 は別の諸性質の区別の系列と、決して平行に進むものではな切なことは、この総括的な全体を単純な形で最後に表現する ことである。この全体こそは、比重に対して、法則の一方の このことは、たとい問題をやさしくするために、これら 側面をなすはずのものである。しかしこの側面こそは、存在 の性質のうちからただ一つだけ、または若干をとりあげるに しても、そうである。というのも、この平行において別の側する結果としては、既にのべたものつまり個別的な性質にほ かならない。言ってみれば普通の凝集力であり、この凝集カ 面をなすはずのものも、実際には、それらの性質をたばねた ものの全体でしか、あり得ないであろうからである。この東と並んで、比重をも含めて他の性質が互いに無関係に現存し ている。そしてそれらの各々は同じように正しく、また同じ のうちに秩序を与え、それらを結びつけて全体とするために ように正しくなく、他の側面全体を代表するものとして、選 は、観察からみて、一方には、これら多くの性質の量規定が ばれうるのである。一方は他方と同じように、実在をただ代 現存するにしても、他方では、それらの区別は質的なものと して現われて来もする。そこでこの堆積のなかで、肯定的ま表するだけであ「て、ドイツ語で言えば表象するだけであっ たは否定的なものと呼ばれざるを得ないもの、互いに廃棄して、事態そのものではないであろう。それゆえ、二つの側面 の単純な平行をたどって進み、物体の本質的本性を、これら 性合うかもしれないものは、つまり、極めて複雑であるはずの公 の側面の一つの法則によって、表現するような物体系列を見 式に内的な姿を与え、展開する仕事は、概念に帰せられる。 理 つけようとする試みは ( シ、リング、シ = テフ = ンス ) 、自らの ところがこの概念こそは、それらの性質が存在するものとし 課題と、この課題を実現すべき手段とを、知っていない思想幻 て現に在り、受けいれられるはすのこのあり方においては、 である、と見なされるよりほかない。 排除されているものなのである。 ( シ = リング、全集〔シ、レー 前に言ったように ( 二一三 ) 、外なるものと内なるものの関 ター〕二巻六七五頁以下「力学的過程もしくは物理学の範疇の一般的
の一方に割り当てられる。そして自己意識が知となるときに 行は、自らの行うことについての無知と知とに分れるが、この 真の精神、人倫 知とても、そういうわけだから、だまされた知なのである。 精神は、その単純な真実態においては意識であり、その契こうして自己意識は行為に出るとき、実体を分裂させる両威 力の矛盾と、両者相互の崩壊とを経験し、また自己の行動の 機を分解する。行動は、精神を実体と実体の意識に分ける、 がまた実体をも意識をも分ける。 ( 「人間のおきて」と「神々の人倫性についての知と、絶対的に人倫的であることとの矛盾 おきて」、家族と国家、知と無知 ) 実体は、一般的本質及び目的を経験する、その結果、自分自身が没落することに気がつく。 だが実際には人倫的実体はこの運動によって現実的自己意識 として、個別化された現実である自己に対立する。このと となっている。つまりこの自己はそれ自体にー自分で ( 対自的 き、無限の媒介となるのが自己意識 ( 三三〇、男と女 ) である。 に ) 存在するものとなっている。 ( 法状態 ) だがこのことにお が、この自己意識は、自体的には自己と実体の統一であるよ いてまさに人倫は没落してしまっているのである。 うなものであるが、このことが次には、対自的にそうなるよ うなものであり、一般的本質とその個別化された現実を、統 人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男 一するものであり、現実を本質に高めて人倫的な行動をする と女 が、また本質を現実におとしめて、ただ考えられただけの実 体つまり目的を、完遂しようとするものである。つまり自己 精神の単一な実体は意識となって分裂する。言いかえれ 意識は、自らの自己と実体との統一を、自らの仕事としてと ば、抽象的感覚的存在の意識が、知覚に移行したようなこと 同時に現実として、つくり出すのである。 が、真実の人倫的存在の直接的確信においても起る。また感 意識が別々の形をとって現われる場合、単一な実体は、一 覚的知覚にとっては、単一な存在が、多くの性質をもった物 力では、自己意識に対する形で対立をもっているが、他方で になったと同じように、人倫的知覚にとっても、行為となる は、そのためにまた、自分自身のうちで自分を区別するとい 場合には、多くの人倫的関係をもった現実が出てくるのであ う意識の本性を、集団に分けられた世界という形で、表わする。だが感覚知覚の場合には、どうでもいい多くの性質が、 ことになる。こうして実体は区別ある人倫的実在、つまり人個別と一般という本質的対立に集約されたのだから、純化さ 間のおきてと神々のおきてに分裂する。同じように、実体にれた実体的意識である人倫的知覚の場合には、一層それが進 対立してくる自己意識も、その本質に応じて、これら両威力んで、多くの人倫的契機は、個別の法則と一般の法則という
はまたそのまま顛倒している。つまりこの現実は、自己がそ れらの人格が自らの本質と認めるまさにそのものを、つま の本質を失うことである。人倫的世界には存在していなかっ り、内容なき自独存在を、むしろ廃棄してしまう、そしてこ たような、自己のこの現実は、この世界が人格に帰ることに れら人格の連続でありながら、ほかならぬこの連続をぶちこ よってえられたのである。人倫的世界においては一つであっ わしてしまう。こうして法的人格は、自分に無縁の内容を自 たものは、いま更に展開してはいるものの、自己疎外の形で 分の内で妥当させ、しかもこの内容が自分の実在性であるた め、自分のうちで妥当させるのである。が、このとき法的人現われているのである。 格は、むしろ自分が実体のないものであることを経験する。 これに対し、主の方は、こういう本質のない地盤のなかで、 破壊的な攪乱をひきおこし、すべてを支配する意識とはなる けれども、この自己はただ荒廃を呼びおこすだけである。そ のため自分でも自己を失い、むしろ自ら自己意識を投げ捨て ることになるだけである。 以上のような性質をもっているのが、絶対的本質としての 自己意識が現にある側面である。だが、この現実から自己に 追いかえされた意識は、自分が本質ではないと考えるように なる。前にわれわれが知ったところでは、純粋思惟のストア 的自立性は懐疑論を通りぬけ、不幸な意識において自らの真 理を見つけた、つまり、思惟の絶対的な自立存在がいかなる 神ものであるか、という真理を見つけたのであった。そのとき にはこの知は、意識そのものの一面的見解として、現われた にすぎなかったが、いまここでは、この見解の現実的真理が 現われている。この真理は、このように自己意識が一般的に 妥当しながらも、自己を疎外するような実在であるという点 に在る。この妥当は自己の一般的現実ではあるが、この現実
とのなかに、暗示されている。これと同じような関係の規定とも初めの二つは、有機組織一般に関係するものではなく、 を、つまり、異なったものが無関心に自立的であることと、 動物的な有機組織に関係するにすぎないように思われる。植 自立的でありながら統一していることとを、われわれは目的物的有機組織も実際にはただ有機組織という単一な概念を表 概念においてみてきたのである。 現するだけであって、そのもろもろの契機を展開させはしな 。それゆえ、観察に対して存在していると言われる限りで そこで、内なるものと外なるものが、その存在において、ど の、これらの契機に関しては、われわれは、それらの契機を んな形態をとるかということを見る必要がある。内なるもの現に展開させている定在をあらわす有機体に、頼らざるをえ ( 「イエーナ実質哲学』二の一二一 l) そのものは、外なるものそのものと同じように、或る外的存ない。 では、それらの契機そのものはどうかと言えば、自己目的 在と或る形態とをもたざるをえない ( 二〇五 ) 。なぜならば、 内なるものは対象である、つまり、それ自身存在するものと という概念から直接出てくる。というのは、感受性は要する して、観察に対して現存するものとして、措定されているか に有機的自己反照という単純な概念を、この概念の一般的な らである。 流動態を、表現している。が、反応性は反照しながら同時に 内なる実体としての有機的実体は単一な魂 ( 中核 ) であり、 反作用の態度をとる有機的弾力性を表現し、初めの静的な自 純粋の目的概念でありまた一般者である。この一般者は分た己内有に対立した実現を表現している。ここでは例の抽象的 れてもやはり一般的な流動のままである ( 部分に浸透している 自立存在は他者に対する存在となっている。だが再生は、自 の意 ) 、したがって、その存在 ( 固定 ) にいながらも、消えて行く己に帰った ( 反照した ) 有機体全体のはたらきであり、目的自 現実のはたらきとしてつまり運動として、現われる。これと体もしくは類としての有機体自身の、はたらきである。たか ちがい、存在する内なるものに対立している外なるものは、 らここでは、個体は自分自身を自分からっきはなし、その有 性有機体の静止した存在のうちに在る。したがって、内なるも機的な部分または個体全体をくりかえし生み出している。自 のと外なるものの関係である法則は、その内容を、一方では己保存一般という意味では、再生は有機体の形式的概念をつ 一般的な契機つまり単一な本質態を示しながら表現し、他方まり感受性を、表現している。だが再生は本来から言えば有 では現実の本質態つまり形態を示しながら表現する。前者の機体の現実的な概念であり、また全体である。この全体は、 単一な有機的な性質は、感受性、反応性、再生 ( 『エンチ = ク個体としては自己自身の個々の部分を生み出すことにより、 ロペディー」三五三節 ) と呼んでもよい。これらの性質、少く 類としては個体を生み出すことによって、自己に帰る ( 反照
イプニツツに対している。 ) さてそういうわけで、対象的なものの矛盾は、異なった物 に分け与えられるけれども、だからと言って、分離された個 物の本質的性格となっており、物をすべてのほかの物から 個の物に区別が帰せられるわけではない。異なったいくつか区別するこの規定態は、そこで、次のように定められてい る。つまり、物はそのために他の物と対立はするけれども、 の物は、だから、自分だけで措定されており、矛盾 ( 対抗 ) は、それそれの物が自分と異なるのではなく、別の物と異なその対立に在りながら、自分だけで自分を支えることになっ るというふうに、互いにそれらの物のなかに生ずる。だがそている。だがそれは、ほかの物とそういうふうに関係しない 限りでのみ物、つまり、自分だけで在る一である。というの のため、それぞれの物は、それ自身区別されたものと規定さ は、むしろ、そういう関係のなかには、ほかの物との関連が れており、他者との本質的な区別を自分にもってはいるが、 同時に、このことが自分自身における対立であるというふう 措定されているのであり、ほかの物との関連は自立存在を廃 にではない。むしろ、物は自分だけで単一な規定態であり、 棄するからである。ほかでもなく、物は、絶対的な性格とそ の対立とによって、他の物と関係する、そして本質的にはこ四 これがその物を他から区別する、物の、本質的な性格となっ ているのである。事実、ちがいは物にあるのだから、このちの関係であるにほかならない。だが、この関係は物の自立性 がいは多様な性状の現実の区別として、当然物に有るのではを否定するものである。そこでむしろ、物は、自らの本質的 ある。がしかし、規定態が物の本質となっており、そのため性質によって亡びることになる。 物は、自らの本質と自分だけでの有をつくっている規定態 物は他のものから区別されて、自分だけで在るのだから、そ れ以外の多様な性状は非本質的なものである。そのため、物によ 0 て、亡びるということを、意識がどうしても経験せざ るを得ないのは、物の単純な概念からみて、かんたんに次の はその統一 ( 一たること ) のなかに、二重の限りにおいてを自 ように考えられうる。物は自分だけでの有として、つまり、 分にもってはいるけれども、これらは等しい価値をもってい るのではないために、このように対立していても、物そのもすべての他有の絶対的否定として、したがって、自己にだけ のの現実の対立とはならない。そうではなく、物が、自らの関係する絶対的否定として、措定されている。だが、自己に 意絶対的区別によって対立に陥る限り、その対立は、自分の関係する否定は自己自身の廃棄である、つまり、自らの実在 外の別の物に対しているのである。だが、そのほかの多様はを他者のうちにもっことである。 その物において必然的であり、したがってそれから離れ得な 事実、これまでのところでわかるように、対象の規定は、 ( ロック、ラ いにしても、その物にとっては本質的ではない。 これ以外のことを何も含んではいない。対象は、その単一な
416 仮面をつけて演技をするけれども、やがてまたこの仮の姿を 分裂し、劇中の人物と現実の自己に分裂する。 英雄の自己意識が、仮面をはすして立ち現われ、明かにしぬけ出して、自分自身の裸の姿で普通の姿で立ち現われる。 なければならないことは、自分が合唱団の神々の運命でもあが、この姿は、本来の自己とも、俳優並びに観客とも異なっ ていないことがわかる。 ( ここに神々ー英雄ー歌手ー自己意識とい れば、絶対的な諸々の威力 ( 神々のおきてと人間のおきてなど ) の う推移が語られている。 ) 運命でもあると知っているということであり、合唱団、つま このように、形をえた本質一般はその個人性のなかでみ り一般の意識から、もはや離れたものではないということで ある。 な解体する。そのとき内容が一層重大で必然的な意味をもっ ていればいるほど、その解体も内容の点で一層重大で、その ため一層気ままで辛辣になる。ところで、神の実体は、自 かくて喜劇は、まず第一に、現実の自己意識が神々の運命と して現われるという、側面をもっている。神々というこの原然的本質と人倫的本質という二つの意味を、自らのなかで統 素的な実在は、一般的な契機であるから、自己ではないし現一しているのである。このうち自然的なものに関して言え ば、それを飾りや住居などに使い、犠牲として振舞うとき既 実的でもない。なるほど、それらは個人性という形式で飾ら に、現実の自己意識は、秘密のあばかれた運命として、自然 れてはいるものの、この形式は、それらが自分でそうたと想 という自己存在がいかなる事態のものであるかを、示すわけ 像しているだけのものであって、それ自体自身でそれらのも のになっているのではない。つまり現実の自己は、そういうである。つまり自己意識は、パンと葡萄酒の秘儀 ( 五〇一一 l) に おいては、それらを内的本質の意味と一緒に、自分のものと 抽象的な契機を自分の実体とし内容としているのではない。 だから自己は、主体として、個別的な性質であるそういう契してしまう。そこで自己意識は、喜劇においては、この意味 が一般にもっている反語を意識しているのである。ところ 機を超えており、仮面をつけると、自分だけで何かであろう で、この意味は、人倫的本質を含んでいる限りで言えば、一 としているそういう性質の反語を、言表することになる。一 デモス 般的実在であると威張ってみても、この自己に暴露されてし方では、国家乃至本来の国民と家族的個別態という両側面を もった民族であるが、 ( 悲劇想起 ) 他方では、自己意識的な純 まう。自己は現実に捕われているままで現われるから、何か まともなものであろうとする丁度そのときに、仮面をぬいで粋知であり、もしくは一般者を理性的に思惟することであ しまう。この場合自己は現実的なものとして、それなりの意る。そういう国民つまり一般大衆は、自分が主人であり統治 味で登場するわけであるが、自分の役を果たすために、一旦は者であると共に、尊敬すべき悟性であり、識見をもっている デモス