領域において、超革命的な言動 ( イボリットによればフランス革考察するという努力である。概念に内在するリズムに自ら侵 命に対するドイツの反動の暗示 ) であったものである。 入することを避けて、恣意やよそで手にいれた洞察やなど で、概念のリズムに干渉しないという、そういう控え目な態 それゆえ学の研究にあたって大切なことは、概念 ( 概念的度は、それ自身概念に注意をはらう一つの本質的な契機であ る。 把握 ) の努力を身に引き受けることである。その努力は概念 形式的思惟の ( 理屈をこねまわす ) 態度には、概念把握的思 そのもの、たとえば即自存在、対自存在、自己自身と等しい ことなどという、単一な規定に注意することをうながす。な惟と対立している二つの面があることを、もっとはっきりさ せておく必要がある。一方では、形式的思惟は把握された内囀 ぜなら、これらの規定は、魂 ( 精神という言葉が使われていない ことに注意 ) と呼んでもいいような純粋の自己運動であるから容に否定的な態度をとり、それに反論して、それをなくして である。もっともそういうのは、それらの概念が魂よりも高しまうことを心得ている。それはそうではないというこの洞 察は、ただ否定的なものであるにすぎない。それは最後のも いものを言い表わしてはいない、と仮定してのことである。 表象を辿って進んで行くという習慣にとっては、非現実的な の ( 行きどまり ) であるから、それを超え出て新しい内容に進 思想のなかで、あちこちと理屈をこねる形式的思惟にとってむことがない。新しい内容を再び手に入れるためには、何か と同じように、そういう習慣が概念によって中断されるの別のものがどこかから取ってこられねばならない。それは空 は、わすらわしいことである。そういう習慣は質料的思惟と しい自我に帰る ( 反照する ) ことであり、その知の空しさであ 呼ばれてもよい。それは、素材のなかに沈潜している偶然的る。だが、この空しさは、この内容が空しいということだけ な意識であって、素材から自らの自己を純粋にとり出し、自でなく、この洞察そのものが空しいことをも言い表わしてい 己のもとにいることをつらく思う。これに反し、もう一つの る。というのもこの空しさは、肯定的なものを自らのなかに 方、つまり形式的思惟 ( 論証 ) は、内容から自由であり、内容見てとらない否定的なものだからである。この反省は、自ら に対し空しいうぬぼれの態度をとる。この態度に対し求めらの否定性そのものを内容としえていないために、全く事柄の れるのは、そういう自由を断念するという努力であり、内容 なかにはいないで、いつも事柄を超えてその外に出ている。 を勝手に動かす原理となる代りに、 この自由を内容のなかに だからこの反省は空しさを主張しながら、いつも内容豊かな 沈め、内容を内容自身の本性によって、つまり内容自身のも洞察より先に進んでいると思いこんでいる。これに対し、前 のとしての自己によって、動くようにしてやり、この運動をに言ったように、概念把握的思惟においては、否定的なもの
446 の純粋一般態として、知の単純な統一である自己意識とし 至は自己自身の行為でもある。だから既に自体的に措定され ているものが、いまそれについての意識の知として、意識的て、現われ出ているのである。 かくて宗教において内容であったもの、つまり、他者を表 な行為として繰り返される。対立の各々は、他方に対抗して 象するという形式であったもの、これと同じものが、ここでは 現われ出る規定態の自立性を、他方に対し棄ててしまう。か 自己自身の行為である。概念が両方を結びつけると、内容は く棄てることは、概念の一面性を断念するのと同じである 自己自身の行為となる。なぜならば、われわれのみるところ が、この断念は自体的には始まりをなすものであった。が、 それはいまでは自ら進んで断念する ( イ = ス ) のであり、までは、この概念は、自己における自己の行為が全実在であり、 全定在であると、知ることであり、この主体が実体であると た、断念の向けられる概念も自分自身の概念なのである。始 まりの例の自体は、ほんとうは、否定的なものでありまた媒知ることであり、実体が自己の行為の知であると知ることだ 介されたものである。そこでいまそれは、真に在る通りに措からである。われわれがここで付け加えたものは、一方では、 定されるのである。そして、否定的なものは、対立の各々各々が、その原理において、精神全体の生命を表わしているよ うな、個々の契機をとり集めること、他方では、この概念を が他方に対し規定されていることとして在る、自体的には自 己自身を廃棄するものである。対立する二つの部分の一方概念の形式で確保すること、この二つだけである。が、この概 は、自己内存在、自己の個別性内での存在が、一般態に対し念の内容はそれらの契機のうちに、また概念は意識の或る形 態という形式のうちに、自ら既に生じていたものなのである。 等しくないことであり、他方は、抽象的一般態が自己に対し 精神のこの最後の形態は絶対知である。それは、自らの完 等しくないことである。前者は自らの自独存在と縁を絶っこ とであり、自己を外化し告白することである。後者は自らの全で真なる内容に、同時に自己という形式を与え、このこと 抽象的一般態のかたくなを思い切って、生命なき自己と不動によって、その概念を実現すると共に、かく実現することに おいて、自己の概念のうちに止まる精神である。これは、精 の一般態と縁を断つ。そのため、前者は、実在である一般態 の契機によって、後者は、自己である一般態によって、補わ神の形態において自らを知る精神である、言いかえれば、概 念把握する知である。真理は、自体的に確信と完全に等しい れたのである。精神は、そこに在るとき初めて精神であり、 だけではなく、自己自身の確信であるという形態をももって その定在を思想に、それによって絶対的な対立に高め、正に いる。言いかえれば、真理は定在となっている、すなわち、知 この対立によって対立から出て、自己自身に復帰する。そこ で精神は、この行動という動きによって、自己意識である知る精神にとって、自己自身の知であるという形式をとってい
は、内容そのものに帰属しており、内容に内在する運動及び区別された内容、ならびにこの内容の運動となるが、この運 規定として、また運動及び規定の全体として、肯定的なもの動に対立したままでいるようなことはない。論証的 ( 形式的 ) 思惟が静止的主語においてもっていた、しつかりとした土台 である。結果として把握するならば、否定的なものは今言っ た運動から出てくるものであり、一定の否定的なものであは、だから、動揺する、そしてこの連動そのものだけが対象 となる。自らの内容をみたす主語は、この内容を超えてその る。したがって同時に、肯定的な内容でもある。 しかし、表象であるにしろ思想であるにしろ、または両者外に出ることを止め、ほかの述語や偶有性をもっことはでき なくなる。このため、ちりちりにされた内容は逆に自己のも の混合であるにしろ、そういう思惟は或る内容をもって、 とに結びつけられる。そのとき内容は一般性ではないから、 る。この点からいえば、この思惟は概念把握をさまたげるも う一つ別の側面をも 0 ていることになる。この側面の目立 0 初めの主語を離れていくつかの主語に帰属するようなことは ない。それゆえ実際には、内容はもはや主語の述語ではな た性質は、前に言った理念自身の本質と密接に関連してい 実体であり、問題になっているもの ( 主語 ) の本質であり る。或はむしろ、その性質は、思惟的把握であるような運動 として現われる場合の理念を、言い表わしているともいえる。概念である。表象的思惟は、偶有性または述語をあれこれと つまり、た「た今言「た思惟の否定的態度においては、論証辿「て進むことを本性としているから、そしてこれらの述語 的 ( 形式的 ) 思惟そのものが自己であり、内容はこの自己に帰や偶有性は、もはや自ら述語や偶有性として在るのではな く、そのために、表象的思惟は、当然これらを超えてその外 ってゆく。が、これに反して、思惟の肯定的認識においては に出てしまうから、命題において述語の形式をもっているの 自己は表象された主語であり、内容はこの主語に偶有性とし が実体そのものであるときには、その ( 表象的思惟の ) 進行は て、述語として関係する。この主語が基底となって、そこに 内容が結びつけられ、そこで運動があちこちと行われる。概さまたげられることになる。表象的思惟は、いわば、反撃を うけるのである。表象的思惟は、主語がいつまでも根底にあ 念把握的思惟の場合には事情がちがう。概念が対象自身の自 論己であり、自己が対象の生成として現われるから、自己は、 るかのように考えて、主語から始めるのだが、述語がむしろ 動かずに偶有性をになっている静止的主語ではなく、自ら動実体であるために、主語が述語に移って行って、述語に廃棄 序いて自らの規定を自らにとりかえす概念である。この運動のされることに気がつく。述語であるように見えるものが、全 なかでは、前の静止的主語自身は亡びてしまう。主語は区別体的な自立的な塊となっているので、思惟は勝手にあちこち と内容のなかに入りこんで、むしろ規定となる、すなわち、 することができなくなり、この重みに引きとめられることに
る精神が即且対自的に何であるかは、教団内の豊かな生命が である。 表象というこの形式は、精神がかく自らの教団にいると自言わば撚りをもどされて、その初めの糸に還され、例えば、 ら意識する場合の定まった形である。この形式は、まだ、精初めの不完全な教団の表象に、或は、その上、現実の人 ( イ エス ) が語ったところに還されたからと言って、それで明か 神の自己意識が、概念としての自己の概念に成長していない になったわけではない。 このように還すことの底に在るの 姿である。つまりまだ媒介が完成されていないのである。だ から存在と思惟のこの結合には欠けたところがあるため、精は、概念に進んで行こうとする本能であるけれども、それは 神的実在は此岸と彼岸の分離につきまとわれており、両者の最初に現われたときの直接的定在である本源と、概念の単純 和解に達していないのである。その内容は真実であるけれど 態とを混同しているのである。だから、精神の生命を貧弱に も、表象の場におかれたすべてのその契機は、概念的に把握することによって、教団の表象とこの表象に向っての行事 されているのではなく、互いに外的に関係し合う全く自立的 ( お勤め ) を、取りのけることによって、生じてくるのは、概 な側面である、という性格をもっている ( 三七九ー三八〇 ) 。真念ではなく、むしろただの外面的な姿と個別的な姿であり、 直接的な現象の歴史的な在り方であり、一つの個別的な思い の内容が意識冫 こ対しその真の形式をもっためには、意識の一 層高い教養が必要である。つまり絶対的実体の直観を概念に こまれた形態と、その過ぎ去った姿を、精神のない形で想い 高め、自分自身でも、内容の意識を自己意識と一致させるこ起すことであるに止まる。 とが、必要であるが、このことは、われわれにとってはすな 精神がその意識の内容であるのは、まず、純粋実体の形式 わち自体的には、既に起っていたことなのである。 をとるからである。すなわち精神は自らの純粋意識の内容で この内容は、その意識のうちに在る通りの姿で観察されねある。次に思惟のこの場は、定在つまり個別態に降りて行く ばならない。絶対精神は内容であるから、自らの真実態の形運動である。両者を媒介するのは、その綜合的結合、他とな るという意識、表象そのものである。そこで第一二の場は、表 教をとっている。しかしこの真実態は、教団の実体乃至はその 象及び他在から帰ることである、すなわち自己意識自身とい 自体であるだけでなく、またこのような内面性から表象とい う場である。これら三つの契機が精神を形成する。それが表 宗う対象性に、歩みよるだけでもなく、現実の自己となり、自 己のなかに帰り、主体となるということである。だからこれ象となって別々に現われるのは、一定の仕方をとる点に在る が、この一定の姿というのは、それらの契機の一つであると は、絶対精神がその教団において実現する運動である。すな いうことにほかならない。だからその詳しい動きは、一つの わちこれこそ絶対精神の生命である。だから、自らを啓示す
で完成されて、自己の個別態となった世界であり、固有な法これとちがい、非道徳的な意識は、恐らくは偶然だろうが、 則の自立的全体であり、またその法則の自立的な行程と自由自分が実現されていることに気がつくが、その場合、道徳的 な実現である。つまり自然一般である。その法則並びにその意識は、行動の動機となるだけであって、実現の幸福、完成 はたらきは、道徳的自己意識に煩わされず、また、自己意識を楽しむ幸福にはあすからないことがわかる。だから意識 は、むしろ、そういう形で、自分と定在が一致しない状態に もそれに煩わされないような実在として、自然自身のもので ある。 ついて、また、自分の対象を純粋の義務としてもつだけで、 以上のような規定から、一つの道徳的世界観が形成される対象も自分も実現されているとは、気づかされないようにな っているという不公平について、不平を言ってもいい理由が が、これは、道徳的な即且対自有と、自然的な即且対自有と の関係のなかに在ることになる。この関係の根底に在るのあるわけである。 は、自然と道徳的目的及び活動とが、相互に全く無関心であ 道徳的意識は、幸福を断念することも、幸福という契機 り、自ら自立しているということであるが、それと同じで、 を、その絶対目的から捨て去ることも、できない。純粋義務 別の側面では、義務だけが本質であるという意識と、自然が と言い表わされる目的は、本質的には、この個々の自己意識 全く非自立的で非本質的である、という意識である。道徳的を含むということを、自分でもっている。個人的信念とこれ 世界観は、いくつかの契機の展開を含んでいるが、これらの についての知は、道徳性の一つの絶対的契機をなしている 契機は、いま言ったように、全く相対抗する前提の、そうい ( 四二四 ) 。対象的となった目的、実現された義務についてい う関係のなかに在るわけである。 るこの契機は、自分が実現されたと直観する個々の意識であ だから、まず道徳的意識一般が前提されている。義務は、 る、つまり享受であるが、これは、したがって、心情とみら この意識にとっては本質と見なされるが、この意識は、現実れた道徳性の概念のうちに、そのまま含まれているのではな 神的で行為的であり、その現実と行為において、義務を充たす いとしても、それを実現するという概念のうちには含まれて ことになる。だが同時に、道徳的意識にとっては、自然とい いる。だがこのために、享受は心情としての道徳性のうち う前提された自由が相対している。言いかえると、その意識に、含まれていることになる。というのも、心情は、行動に の経験によれば、自然は、意識の現実と自然の現実との統一対立したままではなく、行動し、実現されることを目指して いるからである。目的は、その契機の意識を伴った全体であ を、意識が自分で識ることに、煩わされない、したが 0 て意 識は幸福になるかもしれないが、そうでないかもしれない。 ると、言い表わすとすれば、義務を果たすことは、純粋に道 426
ぜならば、序文と初めの数節は最も大切な普遍的原理を与えな規定でのべようとする試みは、こころよく迎えられるだろ てくれるし、評論は、史実上の覚え書のほかになお評価を、 うとは思われない。それはそれとして、次のように考えても それだけでなく、評価であるからには、評価されたものを超 しいであろう。たとえば、時に、。フラトン哲学のすぐれた点 え出たものを、与えてさえくれるからである。この普通の道は、学的には価値のないその神話にあるとされるが、また夢 は不断着のままで歩ける。が永遠なもの、聖なるもの、無限 想の時代とさえ言われるような時代もあって、アリストテレ なものという高い感情は、高僧の衣をまとってゆうゆうと歩 スの哲学が思弁的深さをもっているからと言うので、尊敬さ いて行く、むしろ既に世界の中心にある直接的存在でさえあれたり、。フラトンの「。 ( ルメニデス」、この、恐らくは古代 るような、深く根源的な理念と高い思想のひらめきとをもっ弁証法の最大の芸術作品が、神的生命の肯定的表現と考えら た、天才の姿でさえあるような道を行く。しかし、そういうれたりした。そして忘我の境を生み出すものが、多分にもう 深さもまだ実在の源を啓示してはいない。それと同じでこのろうとしたものであるにも拘らず、この誤解された忘我の境 花火もまだ最高天 (Empyreum ギリシア語、宇宙の最も高いとこ ( 新プラトン派 ) が、実際には、純粋概念にほかならなかった ろに在る火の天 ) には達していない。真の思想と学的洞察とのである。更に現代哲学のすぐれた点は、その価値そのもの は、概念の労苦においてのみえられるべきものである。概念を学的であることにおいており、たとえ他の人々がそれをち だけが知の一般性を生み出すことができる。この一般性は、 がった仕方で受けとろうとも、この学的であることによって 一般的常識の平凡で定めなく足らぬ勝ちの姿ではなく、教養のみ実際に認められるのである。だから、私は、学を概念に ( 形成 ) を経た完全な認識であり、また天才の怠慢ゃうぬぼれ かえそうとし、学をその固有の場でのべようとする試みが、 によ「て、台無しにされる理性素質の「般的でない一般性で事柄に内在する真理によって、世に容れられるようになると もなく、固有の形式に成熟した真理である。この真理は、す望んでもいいわけである。真理は時がくれば浸透する性質を べての自己意識的理性の所有たりうるものである。 もっていることを、この時がきた場合にだけ現われること 論学を現存させるものは概念の自己運動にあると、私は考えを、それゆえ、現われるのに早すぎることもないし、未熟な る。そこで、真理の本性や形態について現代がもっている考読者に出会うこともないことを、われわれは確信していなけ 序えの、既にのべたいくつかの側面や、なおそのほかの外面的ればならない。また、個人 ( 著者 ) にとっては、まだ著者ひと な側面が、この点からはすれているだけでなく、それに全く りの問題にすぎないものが、巧くいって真と認められ、やっ 反してさえいることを思うと、学の体系を、前に言ったよう とまだ特殊なものでしかない確信が一般的なものとして経験
かしこの概念をそのまま表現する形態は誠実な意識 ( 「ことそ り、この場でその内容が一般的になり、承認されているので のもの」想起、二九六 ) であったが、これは抽象的なことそのも ある。そして、内容が承認されているというこのことこそ、 行動を現実とするものである。行動が承認されており、その のをたずさえて、さまよっていたのである。このことそのも のは、そこでは、述語であった。が良心に至ってやっと主語 ために現実であるのは、定在する現実が、そのまま信念また は知と結びついているからである、言いかえれば、自らの目 ( 主体 ) となり ( 三〇〇 ) 、意識の全契機を自らに措定したので 的についての知が、そのまま定在の場であり、一般的に承認あり、この主語はこれらすべての契機、すなわち実体性一 することだからである。というのも、行為の本質すなわち義般、外的定在、思惟の本質などを、その自己確信のうちに含 務は、義務について良心がもっ信念のうちに在るからであんでいるのである。ことそのものは、実体性一般を人倫にお いて、外的定在を教養において、自己自身を知る思惟の本質 る。この信念こそは自体そのものである。この自体は、それ 自体で一般的な自己意識、または承認されていることであ態を道徳性において、もっている。そして良心となるとき、 ことそのものは主語となり、これらの契機が自分自身にある り、したがって現実である。かくて義務についての確信をも ことを知っている。誠実な意識が、いつもただ、空しいこと って行われたことは、そのまま、存立と定在をもっているも のなのである。だから、善き意図が行われないとか、善人がそのものをつかんだにすぎないのに対して、良心はことその ますいことになるとかいうことは、もはや問題にならよい。 ものを、それが自分で存在するような充実した形で、手に入 むしろ、義務にかなったことこそは、全自己意識に共通なこれているのである。良心はこのような威力であるが、それ と、承認されたことであり、したがって存在するものである は、意識のこれらの契機が契機であることを心得ており、そ から、義務であると知ったことは実現されるし、現実となるれらを否定するものとして、それらを支配しているからであ る。 のである。しかし、自己という内容をもたせないで、それだ 良心を、行動において現われる対立の個々の規定と、関連 神けで他と切り離して受けとるならば、この義務は対他存在と なる、つまり、内容なき本質一般という意味をもつにすぎな させて考えてみると、また、これらの規定の本性について、 いような、透明なものとなる。 良心がもつ意識を考えてみると、良心は、まず、知るものと さて、精神的実在性が現われた領域をふりかえってみる して、行動の行われる「場合」の現実と関係していることが 5 と、個人性を言い表わすことが、そのまま即且対自的であるわかる。一般態という契機がこの知についている限り、良心 というのが、その場合の概念であった。 ( 精神的な動物の国 ) し的に行動する知に必要なことは、眼前の現実を無制限な仕方
ではなく、第三者、すなわち、媒介者 ( 僧們 ) によって忠告と為は貧しきものであり、自らの享楽は苦痛であり、苦痛が廃 して生じたものである。それゆえ、意識にとってはその意志棄されていることは、肯定的な意味では、彼岸である。意識 にとり、この個別的な意識のものである行為と存在を、自体 は一般的な意志となり、自体的に存在する意志となるであろ 的に存在と行為としているこの対象 ( 彼岸 ) においては、意識 うが、意識自らが自らにとってこの自体であるのではない にとり理性という表象が生じているのである。すなわち、自 個別的である自らの意志を捨てることは、その ( 個別的とい らの個別性において絶対に自体的であり、言いかえれば、全 う ) 概念から言って、意識にとっては、一般的意志という肯 定的なものではない。同じように、自ら所有と享楽を捨てる実在であるという、意識の確信の表象が生じているのである。 ( 本章の参考になるのは、「歴史哲学」「中世ーの章、『哲学史」中世の ことは、同じような否定的な意味をもつだけである。そのた め意識に対して生じてくる一般的なものは、意識にとってま「緒論」、ノール編集の『青年期神学論文集』などである。なお J. Wa 三・ Le malheur de la conscience dans la ph. de Hegel 1951 も重要で だ自分の行為ではない。対象的なものと自分だけでの有のこ ある。 ) の統一、これは行為の概念のうちにあり、それゆえ、意識に 対し実在として、対象として生じたものではある。だが、意 識にとり意識の行為の概念ではない。それと同じで、この統 一が対象として意識に対して生ずるというこのことも、意識 にとって直接的ではなく、意識自身によってのことではな そうではなく、意識は、媒介する奉仕者によって、確信 がまだ分裂していることを自分で言う ( 告白する ) ように仕向 けられたのである。つまり、この告白によれば、意識の不幸 は自体的には顛倒しているにすぎない、つまり、それは自ら 意 己の行為に自ら満足している行為であり、祝福された享楽であ ・目 る、自らの貧しき行為は、同じように自体的には、顛倒した a2 ものである、つまり、絶対的な行為であり、概念的には、その 行為はもともと個人の行為としての行為であるにすぎない。 しかし、意識自身にとっては、行為しかも意識の現実的な行
の思惟されたものが悟性概念であるのに対し、 この否定的形式を超えて、初めの対象が自己を 回復したもの、これがヘーゲルのいう概念であ る。だからそれは、普通の意味の概念を否定的 にのり超えて、これをその中に含んだもののこ とである。このことを更に言いかえて、概念は ゲ推理をうちに含むものであるとも、言うのであ る。初めの対象が思惟の中に、形式という形で 否定されて行く。ということは、そのとき対象 の 斎が、自分はそういう形式などではないとい 0 て 書いることになる。そこで、形式となった否定 を、更に否定することによって、この形式を含 んだ意味で、内容を回復することが考えられて いるわけである。そういう形でえられたものが 概念なのである。だから概念は、そういう過程 を推理として、内に含んだものだというのであ による形式の固定を、その逆の面である内容との関連におい て、生かして行く途はないかと考えるわけである。だから、 では、この立場からみるとき、これまで概念についてはど 内容を否定して形式を固定させることから、この否定を避けう考えられてきたのであろうか。まず考えられるのは、精神 ずに、この否定を通って、形式と共に内容を生かし、復活さ が素朴な実体的生 (das substantielle Leben) に安らってい た場合である。この場合には、精神は実在と自分との一致を せる途はないかと、考えるわけである。 このことを言いかえると、初めに言ったように、思惟され確信し、それに満足していたのである。だから知識 ( 悟性的 たものから概念へということになる。ということは、この場思による ) はそのまま実在と一つであると、信じこんでい 合の概念が悟性概念ではない、ということを意味する。初めたのである。これはス。ヒノザに代表される実体論的形而上学 る。
が存在することである、つまり概念である。その限りでの ぼしていない限り、時間のうちに現われることになる。時間 み、認識は自体的に在るものに対しており、そのためにまだ は、自己によって把握されていない純粋な外的な直観された やっと空しい対象をもっているにすぎない。 この対象に比べ自己であり、直観されただけの概念である。この概念は、自 れば、実体とその意識は一層豊かである。実体が対象のうち己自身を把握するとき、その時間形式を廃棄し、直観を概念 に啓示されていると言っても、実際には隠れている。なぜな把握する。そこでこの概念は概念把握されまた概念把握する らば、実体はまだ自己なき存在であり、実体にとって啓かれ直観である。それゆえ時間は、自らにおいて完結していない ているのは、自己自身の確信だけだからである。だから自己精神の宿命であり、必然性である。この必然性は、自己意識 意識のものとなっているのは、またやっと実体の抽象的契機が意識においてもっている関与を一層豊かにし、自体の直接 であるにすぎない。だが、これらの契機が純粋運動として自 態を、つまり、実体が意識においてある形式を動かし、また 己自身を追うて行くとき、自己意識は次第に豊かになり、遂逆に、内面的なるものと受けとられた自体を、まだやっと内 には実体全体を対象的意識からもぎとり、実体の本質の構造面的である自体を実現し、啓き、それを自己自身の確信が所 全体を自己のうちに吸いこんでしまう。だが、対象性に対す有すべきものとして要求するのである。 以上のような理由から言われねばならないことであるが、 るこの否定的な態度は、また肯定的でもあり、措定でもある から、自己意識は、遂には、契機を自ら生み出し、そのため経験の ( 「意識の経験の学」想起 ) うちに存在しないものは何も知 同時に、それを意識に対して回復してやったのである。した られない。もしくは、これと同じことが次のようにも表現さ がって、自らを概念だと知っている概念においては、契機はれる。感じられた真理として、内面的に啓かれた永遠なもの 充実した全体よりも早く現われ出る、もろもろの契機が動くとして、信しられた聖なるものとして、そのほかどんな言葉 が使われようと、そういうものとして存在していないものは、 ことこそ、全体が生成することなのである。これに対し意識 においては、全体は契機よりも早いのであるが、この全体はま何も知られはしないのである。なぜならば経験とは、精神 だ概念把握された全体ではない。ところで、時間 ( 「エンチク でもある内容が自体的であり、実体であり、それゆえ意識の対 ロペディー」二五七ー二五九 ) とは、定在する概念、空しい直観象である、ということにほかならないからである。だが精神 として意識に表象される概念そのものである。それゆえ精神であるこの実体は、自らが自体的に ( 本来 ) 在るところのもの は、当然時間のうちに現われることになる、そこで精神は、 に、自らなることである、そしてかく自己に帰る生成である 自らの純粋概念を把握していない限り、すなわち、時間を亡とき初めて、精神自体は真に精神である。精神は本来、認識