現実的 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想12 ヘーゲル
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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

みは花によって否定されると言ってもよい。同じように、果している虚構、問題そのものを求めてまじめに努力している という外観と、その努力を現におしんでいることとの二つを 実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真とし 結びつける虚構に属するというべきである。というのは、事 て果実が花の代りとなる。これらの形式は互いに異なってい るだけでなく、互いに相容れないものとして斥け合う。しか柄は目的のなかでくみ尽されるものではなく、その実現のな し、これらの形式は、流動的な性質をもっているため、同時 かでくみつくされるものだからであり、また結果は、現実の に有機的統一の契機となり、この統一にあっては形式は互い 全体ではなく、全体の生成と一緒になるとき、現実の全体で に対抗しないばかりか、一方は他方と同じように必然的でああるからである。目的はそれだけでは生命のない一般者であ る。それは、意向がただの興奮にすぎず、いまだ現実を欠い る。この等しい必然があって初めて、全体という生命が成り 立つのである。けれども或る哲学体系に自分の体系が矛盾すているのと同じである。そしてむき出しの結果は、意向を捨 る場合、一方では今言った仕方で矛盾を理解しないのが普通て去った屍であゑ差異はむしろ事柄の限界であり、事柄が である。また他方では捕捉的意識は、普通この矛盾を一面的終るところに在る。言いかえると差異は事柄ではないもので な姿から解放してやり、それを自由にしておくことを心得てある。それゆえ、いま言ったように目的や結果で骨を折るの は、或る哲学者と他の哲学者の差異や評価に骨を折るのと同 いないし、また争い対抗し合うように見える形態のなかに、 じで、多分外見上そう見えるよりはやさしい仕事なのであ 互いに必然的な契機があると認めることを、心得ていないの る。なぜなら、そういうふるまいは事柄に関わりあう代り が普通である。 いつも事柄を超えてその外に出ているからである。そう こういう心得ちがいの説明を求め、この説明を満足になし新 いう知は、事柄に深く立ち入り、そのなかで自分を忘れる代 とげさえすれば、それだけで、本質的なことをやっているの り , に、 いつでも何か別のものを追い求めているからであり、 だと思われやすい。つまり、哲学的著作の内面は、その目的 と帰結以外のどこにより多く言い表わされ得るのか、また一」事柄のもとに止まり、それに自己を傾けるよりも、むしろ自 の目的と結果は、同じ分野で同時代の他の人々がもたらすも分自身のもとに止まっているからである。一番やさしいの のとのちがいによる以上にはっきりと、認められることがあは、実質をもち充実したものを評価することであり、比較的 むずかしいのは、それを把握することであるが、一番むすか ろうか、というわけである。しかし、そういうふるまいを認 しいのは、この両方を一緒にすること、すなわち、実質をも 識の初まりより以上のものと見なし、現実の認識と見なすべ きだというならば、それは、実際には、事柄そのものを回避ち充実したものを叙述することである。

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

は道徳そのものをかき乱し、他方では多くの義務を生じさせ徳性の完成は、たったいま道徳的に空しいものと決められた ることになるが、この多くの義務のために、現実的な行動のものが、道徳性のうちに、またそれにおいて、現存している という点におかれている。道徳性は一方では、全くただ、純 具体的な場合に、意識は当惑させられる。というのも、各々 の場合は、多くの道徳的関係の具体化だからであるが、これ粋抽象という非現実的な思想上の物としてのみ妥当すべきで は、知覚の対象が、一般に多くの性質をもった一つの物でああるが、他方ではそういう形では全く妥当すべきでないこと るのと同じである。そこで一定の義務が目的であるから、そになる。その真理は、現実に対立しており、現実から全く自 の義務は或る内容をもっことになり、その内容は目的の一部由で、内容がない点に在るべきでありながら、また、現実で であり、道徳性は純粋ではないことになる。だから、道徳性ある点に在るべきである、というわけである。 冫冫いくつかの矛盾がばらばらにな は別の存在者のうちに実在性をもっことになる。ところがこ 道徳的世界観のうちこま、 っているが、この矛盾の混合主義は崩れてしまう。というの の実在性というのは、道徳がそれ自体に自分で ( 即且対自的 自分でというのも、そういう混合の基づいている区別は、必然的と考えられ に ) 存在する、ということにほかならない。 は、すなわち、或る意識の道徳性であるということであり、 措定されねばならないのに、同時に本質的でないとされるも のから、もはや決して言葉にならないような区別へと、移っ それ自体にというのは、すなわち、定在と現実をもっという ことである。例の初めの未完成の意識においては、道徳性て行くからである。最後に、空しいものでありまた実在的な は、実現されていないし、そこでは思想上での物という意味ものでもあるという形で、異なるものとして措定されるもの が、全く同一のものであり、定在であり現実である。そし での自体である。な・せなら、道徳性は自然や感性と、交わっ ており、道徳性の内容となっている、存在及び意識の現実て、現実的存在と意識との彼岸としてのみ、絶対的に存在す るはずでありながら、また意識のうちにのみ在り、しかも彼 と、交わっておるからであり、自然と感性は道徳的には空し 神いものだからである。が、第二の意識においては道徳性は完岸としては、空しいものであるはずのものが、純粋義務であ 成したものとして存在しており、実現されていない思想上のり、実在としての義務についての知なのである。意識は、区 物として存在しているのではない。しかしこの完成は道徳性別でないような区別をし、また現実的なものを、空しいもの であると同時に、実在的なものだと言い、純粋道徳性を真の が或る意識の中で現実性を、また自由な現実性を ( 四二五 ) 、 実在だと言うかと思えば、実在のないものだという。そうい 定在をもっているが、空しいものではなく、充実したもの、 内容あるものである、という点に存在している。すなわち道うわけで、意識は、前に分けたものを一つにまとめるような

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

したものになっているかのように見える。だが、このひろが的思想が、現実的認識の積極的な全価値を、もっていたので りをもっと詳しく考えてみると、それは、同じものが自己自ある。そうとすれば、同じように今ここでは、この非現実的 身に異なった形を与えたために、成しとげられたことではな な形式をもった普遍的理念に、一切の価値が帰せられている く、同じものが形もなく繰返されたためであることがわか ことがわかる。また区別されたものや規定されたものを解消 る。この同じものは、異なった素材に外から適用されておさせることが、或は、それを更に展開させることもしなけれ り、ただ異なっているという退屈な外観をもっているにすぎ ば、そのもの自身で自分を是認することもしないで、それを ない。展開が、同じきまり文句のこういう繰返しのなかで行空しい無底に投げこむことが、思弁的な考え方だと認められ われるのであれば、それ自身ではもちろん真なる理念も、実ていることがわかる。何か或るものが絶対者のなかに在る姿四 際にはいつもその初まりに止まっているにすぎない。知る主を考えることは、この場合には、次のように言われることに 観が、ただ一つの動かぬ形式を、現存するもののあれこれに他ならない。つまり、なるほど、今は或る何かとして語られ ひきまわし適用する結果、素材をこの静止した場に外からし るかもしれないが、絶対者、すなわち、 A 日 A のなかには、 みこませる結果、内容についての勝手な思いっきと同じで、 そういう何かは全く存在しない、絶対者のなかではすべては 求められたものを実現することにはならないし、充実した内一つであると。絶対者のなかではすべては等しいという、こ 容が自分のなかからあふれ出ることにもならない、また諸々 のただ一つの知識を、区別し充実した認識冫 こ、もしくは充実 の形態が、自己自身を規定して、区別をうることにもならなを求め促す認識に対立させることは、言いかえれば、絶対者 こういうやり方は、単調な形式主義であって、素材の区を暗闇、つまり、よく言われることだが、すべての牛を黒く 別をたてるにすぎない。しかもすでに用意され、知られてい してしまう暗闇だと言うのは、認識の空しさから起るおめで るから、この区別をたてるにすぎない。 ( シェリング批判 ) たさのためである。 ( 以上シェリング批判 ) 現代の哲学によって その場合この形式主義は、この単調と抽象的な普遍とを絶とがめられ軽んじられながらも、現代哲学そのもののなかに 対者であると主張する。つまり、この単調に満足できないのやはり生み出されたこの形式主義は、たといあっかましいと は、絶対的な立場をわがものとし、そこにしつかりと止まる知られ感じられたにしても、絶対的現実の認識が自らの本性 能力がないからだと断言する。かっては、或る考えを反駁すを完全に明かに自覚するまでは、学のなかから消えてしまう るには、別の仕方でも考えられるのだという空しい可能性ことはなかろう。一般的な考えを実現する試みに先立って、 で、充分であったのであり、このただの可能性、つまり一般その考えを示しておけば、この実現が理解し易くなると考え

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

在り、行為自身が善であるということ以外ではありえない。 かな存在から、自らの自独存在に高まっている限り、習俗や 幻この領域全体の概念は、物性が精神そのものの、それ自身で定在の法則、観察の知見や理論などを、灰色のまさに消えか の存在である、ということであるが、この概念は、ここでの かっている影として、自らの背後に棄ててしまっている。な 運動が進むにつれて、自己意識に認められるようになる。こ ぜならば、むしろそういうものは、その自独存在や現実が、 うして自己意識は、この概念に気がついたときには、自らが 自己意識の自独存在や現実とは、別ものであるようなものに 自己を直接言表する個性としての、実在であることを認め ついての、知であるからである。個別者の感覚や享楽を沈黙 る。この個性は、対立する現実に出会っても、もはや全く抵させる霊、知と行との一般性という、天上に輝く霊ではな 抗を感ずることはないし、この言表そのものだけを対象と く、個々の意識の現実であるような存在だけを、真の現実と し、また目的としているのである。 考える地霊が、突然自己意識のうちに入りこんできたのであ る。 快と必然性 人の世にいと高き贈り物なる 自己意識は、もともと自分が実在であると思っているの 悟性と学問をさげすみ : ・ 悪魔に身をゆだねて で、自らの対象を自分自身でもっている。けれどもこの対象 減びゆくのほかはない は、自己意識がやっとまだ自分だけで ( 自覚的に ) もっている ( この詩句は「ファウスト」一八五一ー一八六七の書きかえ ) にすぎず、まだ存在するものとなってはいないようなもので ある。存在は、自己意識の現実とは別の現実として、自己意 こうして自己意識は人生のなかに跳びこんで、自らを現わ 識に対立している。そこで自己意識は、自らの自立存在を実れさす個性を実現する。自己意識は自らの幸福を自らきずく 現することによって、自己を、自己とは別の自立的な存在者というよりは、むしろそれをいきなり受けとって楽しむ。自 であると、直観しようとすることになる。この最初の目的分と自分自身の現実との間にのみ在るような、学、法則、原 は、個別的存在者としての自己を、自分とは別の自己意識の則などの影は、命なき霧のように消えてしまう。この霧は、 うちに、意識しようとすることである、言いかえれば、この自己意識の実在するという確信とは、張り合いう べくもな 他者を、自己自身としようとすることである。自己意識は、 。自己意識は、熟れた果実をつみとるような態度で、いの この他者が、自体的には、既に自分自身 ( 自己意識 ) であるとちを受けとる。この果実の方も手にとられるともう歓んでさ 確信している。自己意識は、人倫的実体から、また思惟の静えいる。 262

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

は無媒介なものであって、それに先立つものとの関係におい から行為の結果を通じて意識が言い表わしていることは、意 て、立てられたものではないからである。そこでわれわれ識が要請することを、真面目に受けとっていなかったという は、道徳性と自然との調和、つまり最初の要請に向うことに ことである。なぜならば、行動の意味は、むしろ、現在のう しよう。この調和は、それ自体で存在すべきであって、現実ちには存在すべきでなかったものを、現在とするということ 的意識に対して存在すべきではなく、現在的であるべきでも だからである。行動のためには調和が要請される、行動によ 。現在は、むしろ道徳と自然の矛盾にすぎない。現在の って現実となるべきものは、自体的にもそう在るのでなけれ うちに道徳性は現存すると想定されているが、その現実は、 ばならない。そうでないと、現実は可能ではないであろう。 道徳性と調和しないというふうになっている。だが、現実的そこで、行動と要請が関連するときの有様は、行動のため な道徳的意識は行動するものであり、ここにこそ、その意識に、すなわち、目的と現実を現に調和させるために、調和が の道徳性の現実が在る。けれども行動自身においては、 いま現実的ではなく、彼岸のものとして措定されているというこ 言ったふうになっているのは、すぐおきかえられる。という とになる。 のは、行動は内的道徳的目的の実現にほかならないし、目的 だから行動するときには、目的と現実が適合しないという によってきめられた現実をつくり出すこと、言いかえれば、 ことは、全く真剣には受けとられていない。だが行動そのも 道徳的目的と現実そのものの調和をつくり出すことにほかな のは、真剣に受けとられているように見える。しかし実際に らないからである。それと同時に、行動を為とげることは、 は、現実の行動は、個々の意識の行動にすぎず、したがって 意識に対してのことであり、この実現は、現実と目的の統一 個別的なものにすぎず、その結果も偶然である。だが、理性 が現在することである。そこで行動が為とげられたときに の目的は、すべてを包を一般的目的であるから、全世界より 小さなものではなく、究極目的であるが、これは、この個別 は、意識は、自らをこの個別的な意識として、現実化してい 神る、言いかえれば、定在が意識に帰っていることを直観す的行動の内容を遙かに超え出ているから、もともとすべての る、そして享受というのはこの点に在る。だから道徳的目的現実行動を超え出たところに置かるべきである。公共の福祉 の現実のうちには、同時に、享受とか幸福とか呼ばれる現実は実現さるべきであるから、善いことは何も行われない。だ が実際には、現実の行為が空しいことと、いまかかげられて の形式も、あるわけである。だから、実際には行動は、起る いる全体的目的だけが、実在であることとは、あらゆる面か べきではないと掲げられたもの、一つの要請にすぎず、ただ 彼岸であるはずのものを、そのまま実現することになる。だ ら言って、またも置きかえられている。道徳的行動は、純粋

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

或はその現実一般を自分のものとして知っているだけである。意識は、もし、理性が物の本質であると共に、意識の本 る。この意味で、自己に保証された所有物を一般的な形で手質であると知り、理性が意識のなかでのみ、その特有な形で にいれようとする。そしてすべての高みとすべての深みに、 現在しうることを知るとすれば、むしろ意識は、自己自身の 自己の権威のしるしを植えつける。だが、理性は、この表面深みに入っていって、物のうちにおいてよりも、その深みの 上の私のものに、究極の関心を向けているのではない。 このうちに理性を求めるであろう。意識が、理性をそういう深み ように一般的な形で手にいれるよろこびは、手に入れたもの のうちに見つけた場合には、理性はまたそこから出て現実に に、まだ見知らぬ他者があることに気付く。抽象的理性は、 向けられ、この現実のなかに自らの感覚的表現を直観するで この見知らぬ他者を自分自身では手にいれていない。理性あろう。が、この表現をそのまま本質的に概念として受けと は、自らが純粋自我がそうであるよりも一層深い実在である るであろう。理性は、すべての実在であるという意識の確信 ことを予感し、区別、多様な存在が自我自身のものになるこ として、そのまま現われてくるから、その実在を存在の直接 とを求め、自我が自らを現実として直観し、形態と物として態という意味で受けとり、また、自我とこの対象的実在との の自分が現在すると気付くことを求めねばならない。だが、 統一を、直接的統一の意味で受けとる。この統一において理 理性は物の全内臓を掘り返し、物の全血管を開いてやり、理性は、存在と自我の両契機を分離した上で再統一することを 性がそこから飛び出せるようにしてみても、そういう幸運に まだしていない。言いかえると、理性は、この統一をまだ認 めぐまれるわけではなく、理性の実現を経験しうるために識したのではなかったのである。だから理性は、観察する意 は、前もって、理性が自分自身において自らを実現していな識として、物に向ってゆくが、実際には、物を、自我に対立 ければならない。 した感覚的な物として受けとると思いこんでいる。しかし理 意識は観察する。すなわち、理性は存在する対象として、 性が現実にはたらくと、この思いこみに矛盾することにな 現実の、感覚的に現在する姿として自己をみつけ、持とうと る。なぜならば、理性は、物を認識し、自らの感性を概念に 求めている。この観察する意識は、自己自身をではなく、反変える、すなわち、それを、ほかでもなく、同時に自我であ 対に物としての物の本質を経験しようとしていると思いこん るような存在に変える。したがって、理性は、思惟を存在す でいるし、確かにそう言っている。この意識がそう思いこみ る思惟に、存在を思惟された存在に変え、物が概念としての また言う理由は、その意識が理性でありながら、まだこれまみ真理をもっていると、事実上主張する。この点で生じてく で理性が、そういう形で意識の対象とはならなかった点にあることは、観察する意識にとっては、物であるところのもの

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

かしこの概念をそのまま表現する形態は誠実な意識 ( 「ことそ り、この場でその内容が一般的になり、承認されているので のもの」想起、二九六 ) であったが、これは抽象的なことそのも ある。そして、内容が承認されているというこのことこそ、 行動を現実とするものである。行動が承認されており、その のをたずさえて、さまよっていたのである。このことそのも のは、そこでは、述語であった。が良心に至ってやっと主語 ために現実であるのは、定在する現実が、そのまま信念また は知と結びついているからである、言いかえれば、自らの目 ( 主体 ) となり ( 三〇〇 ) 、意識の全契機を自らに措定したので 的についての知が、そのまま定在の場であり、一般的に承認あり、この主語はこれらすべての契機、すなわち実体性一 することだからである。というのも、行為の本質すなわち義般、外的定在、思惟の本質などを、その自己確信のうちに含 務は、義務について良心がもっ信念のうちに在るからであんでいるのである。ことそのものは、実体性一般を人倫にお いて、外的定在を教養において、自己自身を知る思惟の本質 る。この信念こそは自体そのものである。この自体は、それ 自体で一般的な自己意識、または承認されていることであ態を道徳性において、もっている。そして良心となるとき、 ことそのものは主語となり、これらの契機が自分自身にある り、したがって現実である。かくて義務についての確信をも ことを知っている。誠実な意識が、いつもただ、空しいこと って行われたことは、そのまま、存立と定在をもっているも のなのである。だから、善き意図が行われないとか、善人がそのものをつかんだにすぎないのに対して、良心はことその ますいことになるとかいうことは、もはや問題にならよい。 ものを、それが自分で存在するような充実した形で、手に入 むしろ、義務にかなったことこそは、全自己意識に共通なこれているのである。良心はこのような威力であるが、それ と、承認されたことであり、したがって存在するものである は、意識のこれらの契機が契機であることを心得ており、そ から、義務であると知ったことは実現されるし、現実となるれらを否定するものとして、それらを支配しているからであ る。 のである。しかし、自己という内容をもたせないで、それだ 良心を、行動において現われる対立の個々の規定と、関連 神けで他と切り離して受けとるならば、この義務は対他存在と なる、つまり、内容なき本質一般という意味をもつにすぎな させて考えてみると、また、これらの規定の本性について、 いような、透明なものとなる。 良心がもつ意識を考えてみると、良心は、まず、知るものと さて、精神的実在性が現われた領域をふりかえってみる して、行動の行われる「場合」の現実と関係していることが 5 と、個人性を言い表わすことが、そのまま即且対自的であるわかる。一般態という契機がこの知についている限り、良心 というのが、その場合の概念であった。 ( 精神的な動物の国 ) し的に行動する知に必要なことは、眼前の現実を無制限な仕方

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

る。というのは、なるほど、意識は、外見では、自らの自己これは、ほんとうは、自らの意欲と実現とによって自立的な 感情に満足することを拒みはするが、この自己感情の現実的ものと自ら見届けたものとして、第二の関係から出てきたも な満足に達しているからである。そのわけは、意識が現に欲のである。第一の関係においては、意識は、現実的意識の概 求、労働、享楽であったからである。意識は意識として求め、 念にすぎず、行為と享楽において、まだ現実となっていない 行い、楽しんだのである。意識が他方の極を実在として承認内面の心情にすぎなかった。第二の関係は、それを外的行為 し、自らを廃棄してまうという意識の感謝にしても、それ自及び享楽として実現することである。だがそこから帰ってき 身、自己自身の行為である。この行為は他方の極の行為をお た意識は、現実的な、現実をひきおこす意識として自らを経 ぎない、自らを儀牲にする好意に、それと等しい行為を対せ験してしまったようなもの、言いかえれば、自体的に自分で しめる。他方の極が意識冫 こその表面をまかすときには、意識あることを真とするようなものである。だがそこにはいま、 はそれでもやはり感謝し、その点で、自らの行為すなわち自最も自己的な形をとった敵が現われている。心情の戦におい らの実在そのものを廃棄するので、表面だけを自分からっきては、個々の意識は音楽的な抽象的な契機として在るにすぎ はなす他方の極が行うより以上のことを、本来行う。だか 。この本質なき存在を、実現することである労働と享楽 ら、運動全体は現実の欲求、労働、享楽において個別性の極においては、意識はそのままで自分を忘れることができる。 に帰るだけでなく、反対のことを突然引き起すように思われこの現実のなかで意識的に自己であることは、感謝する承認 る感謝においてさえ、そうする。意識はそのとき自分をこの によって打ちくだかれてしまう。だがこのように打ちくだく 個別者と感じ、自分を断念するという外観のために欺かれたのは、ほんとうは、意識が自己自身に帰ることであり、しか りはしない。というのも、断念の真理は、自己を棄てなかっ も、自らにとって真の現実である自己に帰ることである。 たことだからである。そこに生じてきたことは、両極へ二重 真の現実を一方の極としているこの第三の関係は、空しい に帰ること ( 一四〇 ) であるにすぎない。その結果は、不変な姿であるこの現実を、一般的実在に関係させることである。 ものという対立した意識と、それに対立する意欲、実現、享そこでこの関係の動きがなお観られねばならない。 楽という意識、自己を断念すること自身の意識、もしくは、 ことり、意識の実在性がそのまま空しいもの 初めに、意識冫 自分だけで在る個別性一般の意識とに、くりかえし分裂する となっている意識の、対立する関係についていうならば、意 ことである。 識の現実の行為は無の行為となり、意識の享楽は意識の不幸 そこで、この意識の運動の第三の関係が入りこんでくる。 の感情となゑそのため、行為と享楽はあらゆる一般的な内

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

が、この本性は、個体が目的とするものの、直接的でまた唯や、直接自分のものと意識している目的である場合の、対象 ではなく、行為者の外に出て一つの他者として、行為者に対 一本来の内容として現われる。この内容は、一定の内容では あるけれども、もとはと言えば、われわれが、自体存在を遊している場合の対象である。ところが、これらいろいろな側 離させて考える限りでのみ、内容であるにすぎない。だがほ面は、その分野の概念からみて、次のように定められねばな らない。すなわち、それらの区別をとりながらも、内容はい んとうは、この内容は、個体性によって浸透された実在性で つまでも同じであり、区別は入りこんでこないということで ある、つまり、個別的である意識が、自分自身にもっている 限りの現実、初めのうちは措定されているにしても、存在すある。個人性と存在一般の区別も、目的と本源的本性として の個人性もしくは眼前の現実との区別も、また手段と絶対的 るものとしてであって、まだ行為するものとしてではない限 りの、現実である。しかし行為からみると、そういう限定な目的としての現実との区別も、実現された現実と、目的ま たは本源的自然、または手段との区別も、入りこんでこない は、一方では、存在する性質と考えられるため、行為の動く ということである。 場という単純な色であるから、行為が乗り超えようとするか それゆえます第一に、個人性が本源的に規定された本性、 もしれない制限ではない。、、、 カ他方では、否定態が規定態であ るのは、存在 ( 固定 ) においてのことにすぎない、が、行為はその直接的な本質は、まだ行為するものとして、立てられて はいない、そこで特殊な能力、才能、性格などと呼ばれるの それ自身否定態にほかならない。だから行為する個人にあっ である。精神に特有なこの色合いは、目的そのものの唯一の ては、規定態は否定態一般のうちに解体している、言いかえ れば、全規定態の総体のうちに解体している。 内容と考えられ、全くこれだけが実在と考えらるべきだ、と よ、この内容を超えてその外に さて単純な本源的本性は、行為や行為の意識となるとき、 いうことになる。もし、意識。 出て、それとは別の或る内容を実現しようとしているのだ、 行為につきものの区別となって行く。まず初めに、行為は : 対象として、しかもまだ意識についている対象として、つま と考えるならば、無が無の中に働きかけていると、考えるこ とになるであろう。更に本源的本質は、目的の内容であるば り目的として現存しており、したがって眼前の現実と対立し ている。その次の契機は、静止するものと表象された目的かりか、それ自体で現実でもある。普通ならば、この現実 は、行為に与えられた素材と、眠前に見つけられた現実、行為 が、動くことである、全く形式的な現実に、目的を関係させ において形成さるべき現実と思われている。つまり行為は、 ることとしての実現である。したがって、移行という表象っ まり手段である。最後に、第三の契機は、行為者が、もは まだ現われていない存在という形式から、現われた存在とい

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

。そのため徳はこの真の本質を信じて ( 全集〔ラッソン〕一の自ら善を現実だと、言っているわけではないからである。だ からこの規定は、次のように考えてもよい。つまり、善は、 二三、綜合なき信 ) いるにすぎない。徳はこの信を直観に高め ようとするが、それだけでは、そのはたらきと犠牲との果実世の中に対する戦のうちに現われるのだから、他者に対して を、受けることにはならない。 ( 「人倫的世界」参照 ) なぜなら存在するという形で、つまり、自ら即自的にまた対自的に、 ば、徳は、個人的なものに止まる限り、世の中との間に戦を在るのではないような形で、現われるのた、と。というのは、 交えるという行為だからである。が、徳の目的と真の本質そうでなかったら、善は、自らの反対を強圧することによっ て初めて、自らの真理を与えようとはしないであろうからで は、世の中の現実に打ち克っことである。そのため、結果と この して善が現に現われるならば、そのとき徳の行為すなわち個ある。善は、まだやっと他者に対して在るにすぎない。 ことは、前のこれとは反対の考察において、善について示さ 人性という意識はなくなる。どのようにしてこの戦そのもの に耐え抜くか、徳はこの戦において何を経験するか、徳が自れたことと同じである。つまり、善はまだやっと一つの抽象 らひきうける犠牲の結果、世の中は屈服するが、徳は勝利をであり、この抽象は、絶対的にではなく、関係のなかに、実 うるか。こういうことは、戦士のとる生ける武器の性質によ在しているにすぎないのである。 って、決められるよりほかない。 というのは、武器なるもの それゆえ、ここに現われているような善乃至一般者は、生 は、戦士の本質にほかならないが、これは、戦士両者相互にれつき、才能、能力と呼ばれるものである。そういうもの は、精神的なものの一つの在り方である。この在り方にあっ 対してのみ、現われてくるものだからである。したがって、 両者の武器は、戦のうちに自体的に現存しているものからみ ては、精神的なものは、一般者と考えられるが、自ら生命を て、既に明かになっている。 えて動くためには、個人性という原理を必要とし、個人性に おいて自ら現実となるわけである。一般者は、徳の意識に帰 一般者は、有徳の意識からみるとき、その信において、つ まり、自体的に真であるが、まだ現実的一般ではなく、抽象的属する限りのこの原理によっては、善用されるが、世の中に 一般である。一般者は、この意識そのものにおいてあるとき帰属する限りのこの原理によっては、悪用される。それゆ は、目的としてあり、世の中においてあるときは、内なるも え、一般者は受動的な道具である。この道具は、自由な個人 のとしてある。一般者が、徳においても、世の中に対する形の手に支配され、個人がどのように使うかについて、無関心 で現われるのは、ほかならぬこういう規定をもっからである、 であり、また、一般者を破壊するような現実をつくり出すた といテのも、徳は善をまず実現しようとしてはいるが、まだめに、悪用されるかもしれない。それは自己の自立性をもた