自己意識は、自分がこの実体の対自存在という契機である を一つに統一しているからである。意識は、自己意識がもは やこの対象を超えて、その外に出ることはないから、絶対的と、知っているから、自分のうちにある法則の定在を表現し なものと見られる。というのも、自己意識は、対象にいるとて、健全な理性は、何が正しく、何が善いかを無媒介に知っ ているというふうに言う。理性はそういうふうに直接的に法 き自己自身にいるからである。対象を超え出られないのは、 則を知っているし、そういうふうに直接的に、法則は理性に 対象が全存在であり、威力だからである。また超え出ようと しないのは、対象が自己つまりこの自己の意志だからであ妥当しもする。そこで理性はそのままで、これが正しく善で る。この対象は、対象としてそれ自身において実在的な対象ある、と言う。しかもこれと言うのである。つまり一定の法 則が存在し、充実し内容豊かなことそのものが存在する、と である。というのも、対象は意識の区別を自分でもっている からである。対象は、絶対的実在の規定的法則であるよう言うのである。 このように直接的に与えられるものは、やはり直接的に受 な、諸々の集団に分れて行く。だがこれらの集団は、概念を かき乱すわけではない。なぜなら概念のうちには、存在と純けとられ、考えられねばならない。感覚的確信が、存在する ものとして、直接的に言い表わすものについてやったと同じ 粋意識と自己というような契機が、含まれたままになってい るからである。それは、この集団の本質をなし、これらの区ように、この人倫的な直接的な確信が、言い表わす存在につい 別にありながらも、それらの契機を、もはや、ばらばらにしても、すなわち、人倫的実在という直接に存在する集団につ いても、それがどういう性質をもっているか、ということを てはおかないような統一である。 人倫的実体のこれらの法則、つまり集団は、そのままで承見なければならない。二三のそういう法則の実例が、このこ とを示すであろう。そこでわれわれは、法則をそれと知って 認されている。そういうものの起源や権限やは、問われ得な いる健全な理性が言う通りの形で、受けとるのであるから、 いし、それ以外のものが求められうるわけでもない。という 性のは、それ自体に、また自分で ( 対自的に ) 存在する実在以外それらの法則が、直接的な人倫的法則であると考えられてい る以上は、それらの法則において、妥当すべきであるとする のものは、自己意識そのものにすぎないだろうからである。 ような契機を、われわれが、初めに、外からもちこむような たがこの自己意識自身にしても、この実在の対自存在である ことをしてはならない ( 七九 ) 。 この実在が真理で のだから、この実在以外のものではない。 あるのは、それが意識の自己であり、また意識の自体つまり 「各人は真実 ( 理 ) を語るべきである。」これは、無条件的なも のとして、言い表わされた義務である。が、この義務に対して 純粋意識たからである。 302
426 この他者は、まだ精神が自識となる。 ( ヨハネ伝、十四章、十六章 ) 以前はその人は感覚的 う形式をまだ解体してはいない。 、まは、精神のなかに 分のものであることを知っていない、言いかえれば、精神は定在として立ち現われたのであるが、し 復活したのである。なぜならば、その人を感覚的に見、聞い まだ、個別的な自己であるのでもなく、また一般的な自己、 すべての自己としてそこにあるのでもない。つまり形態は概ている限りでは、意識自身は、直接的な意識にすぎないか 念すなわち一般的自己の形式をまだとってはいない。その直ら、対象という ( 自己との ) 不等を廃棄していないし、純粋思 接的現実にありながら、やはり廃棄されたもの、思惟、一般惟に帰ってきてもいない、そうではなく、この対象的個別者 が精神であることを知ってはいるが、自己自身が精神である 態であるが、後者のなかで前者が消え去ってはいないという ことを知ってはいない、からである。絶対的実在と知られて 意味での、自己の形式をまだとってはいない。だが、この一 いたものが、直接的定在でなくなっても、直接的なものはそ 般の次の形式、それ自身直接的な形式は、既に思惟自身の形 式、概念としての概念の形式ではなく、現実という一般であの否定的な契機を保っており、精神はいつまでも現実の直接 り、自己の総体 ( 反省の立場において、個別としての自己〔主語〕的自己であるけれども、それは教団という一般的自己意識と がそのまま一般であり、すべてである形をいう、「エンチクロペデ してである。この自己意識はそれ自身の実体に安らってお ィー」一七五節 ) であり、定在が表象に高まった形である。こ り、またこの実体は自己意識のなかで一般的な主体となって いる。その人がひとり自分 ( イエス ) だけでいるのではなく、 れは、一般的にもそうなるが、一定の例をあげるとすれば、感 教団の意識と一緒にいることが、そしてその人が教団にとっ 覚的なこのものが廃棄されてもやっと知覚上の物であって、 まだ悟性上の一般者 ( 絶対知 ) にはなっていないのと同じであて何であるかが、その人の完き全体 ( キリスト ) なのである。 だが、過ぎ去ってしまい、離れてしまったことは、直接的 な姿が媒介され一般的になった、不完全な形式であるにすぎ かく絶対的実在は個別的人間として顕われるが、この人間 ない。直接的な在り方は、思惟の場にひたされてはいるけれ は、個別的である自らにおいて、感覚的存在の運動を実現し ども、ただ表面的であって、感覚的な在り方としてそこに保 完る。この人間は直接現在する神である。そのためその在る たれているのではないから、思惟自身の本性と一つになって は在ったに移行する。この人が感覚的に現在していると知っ いるのではない。 これは表象に高まったことを示しているだ ていた意識。 よ、その人を見たり聞いたりしなくなる、つまり その人を見たのであり聞いたのである。そこで、その人をけである。というのも表象とは、感覚的直接態とその一般態 見、聞いたにすぎなくなったときに初めて、意識は精神的意すなわち思惟とを、綜合的に結びつけること ( 五〇八 ) だから
は、一方では自然宗教の場合の、他方では芸術宗教の場合 であると共に、この必然性にあって自らにおり、これを知り また理解しているのである。直接的自体としての精神が、自の、直接的自己がそうであったような形で、思惟されたもの らに自己意識の形態を与えるということは、現実の世界精神乃至は表象されたものとして、措定されたものでも、生み出 されたものとして、措定されたものでもない。そうではな このとき が自らこの知に達したということにほかならない。 く、この精神は自己として、一人の現実の個別的な人間とし に至って初めてこの知も自らの意識に、しかも真理として、 て、そのまま感覚的に直観されるのである。かくしてのみそ 入りこむのである。 ( ガラテャ書、四の四 ) このことが、どのよ れは自己意識である。 うにして起ったかについては、これまで既にのべておいた。 神的実在が人間になること ( 受肉 ) 、言いかえれば、神的実 絶対的精神は、自体的にまた同時に自らの意識に対して、 自己意識の形をとって生じた。そこでいま、このことは、精在が直接そのまま自己意識の形態をもっこと、これが絶対的 神が一つの自己意識としてすなわち一人の現実的な人間とし宗教の単純な内容である。この宗教では実在は精神であると 知られる、言いかえれば、その宗教は、精神である自分につ て、そこにいることが、この世の人々に信じられているとい いての意識なのである。というのは、精神とは、自己の外化 う形で、精神が直接的確信にとって存在するという形で、信 ずる意識がこの神性を現に見、感じ、聞いているという形において自己自身を知ることであり、自らの他在にいな・ ら、自己自身との等しさを保ったままで、動いているような で、現われている。かくてこのことは、思いこみの想像では 実在である。しかしこのことは、自らの偶有性のうちにあり なく、信ずる意識に即して現実的である。そのとき意識は、 ながらも、自己に帰っている限りでの実体であるが、非本質 自らの思想の内側から外に出て、神の思想と定在を自分のな かで結びつけるのではなく、直接的現在的な定在から発し的なものに対し、見知らぬもののうちに存在するものに対し、 無関心なのではなく、そこにいながら自分のなかにいるので て、そこに神を認識するのである。直接的存在の契機が概念 教の内容のなかに存在している姿は、宗教的精神が、あらゆるある、つまり、その限りで実体は主体すなわち自己なのであ る。それゆえこの宗教においては、神的実在は啓示されてい 実在を意識に返すに当り、単純な肯定的な自己になっている るのである。その実在が啓示されていることは、明かに、そ ということである。これは、現実の精神そのものが不幸な意 識にいるときは、まさにこのような単純な自己意識的否定性れが何であるかが知られているという点に在る。この実在 であったのと同じである。以上のようにして、定在する精神は、精神として知られるという正にこのことによって、本質 の自己は完全な直接態の形式をもっている。 ( 受肉 ) だがそれ的に自己意識であるような実在として、知られるのである。
も、そこに限界というものを全く見つけることができないよ うに思われる。そのうえ、感覚的確信は最も真なるものとし て現われる。というのは、この確信はまだ対象から何物をも 取り去っていないし、対象を全く完全な姿で見ているからで ある。だが、この確信は、実際には最も抽象的で最も貧しい 真理であることを、自分自身で ( 問わず語りに ) 示すことにな る。この確信は、自らの知るものについて、有るということ だけしか言わない、その真理は事物の有だけしか含んでいな 意識は、意識なりに、この確信のなかにいるとき、純粋 一感覚的確信 自我として有るだけである。言いかえると私はそこでは純粋 のこのものとして在るだけであり、対象も純粋なこのものと このものと思いこみ して在るだけである。私、この人は、その場合意識として自 らを展開し、いろいろな形で思想を動かしているという理由 最初に、すなわち、直接的にわれわれの対象となる知は、 それ自身直接的な知、直接的なものまたは存在するものの知で、この事柄を確信しているわけではない。また、私の確信 にほかならない。われわれもやはり直接的な、つまり受けい している事物が、区別をもった数ある性質のために、それ自 れる態度をとるべきであって、現われてくる知を少しも変え身で豊かな関係であるから、もしくは、他の事物に対し多様 な関係をもっているからという理由で、確信しているわけで てはならないし、把捉から概念把握 ( ただ対象を感覚的につか もない。そういうことは、両方とも、感覚的確信の真理には全 むのではなく、そうなることの含む論理を、発生の過程と結果を含め く関係がない。自我も事物も、ここでは、多様な媒介という て、理解し概念をうること ) を引き離しておかねばならない。 感覚的確信は、その具体的内容からみてそのままで最も豊意味をも 0 てはいない。自我は多様な表象とか思惟とかいう 意 であり、いや無限に豊かな認識であるように思われ意味をもってはいないし、事物も多様な性質という意味をも かな認識 ってはいない。そうではなく、事物は有る。事物は、ただ有 < る。つまり、この豊かな内容がひろがっている空間と時間の 7 なかで、われわれが出て行くときにも、またこの豊かな内容るから有る。事物が有るというこのことは、感覚知にとり本 の一片をとり、それを分割してそのなかに入 0 て行くときに質的なことである。この純粋有もしくはこの単純な直接態が < 意識
とき、既にもはやないような、正にそういうものであること もしない。私は、そういうものではなく、純粋に直観するだ けである。私は私だけで、いまは昼であることに、或はまた、 を、われわれは知る。われわれに示されるいま、それは、あ ここは木であることに止まり続け、ここといまそのものを、 ったものである。こういうのがいまの真理である。そういう 互いに比較することもしない。私は一つの直接的 ( 無媒介 ) な いまは有の真理をもっていない。それでも、いまが在ったと 関係、いまは昼である、を固執する。 いうこのことは真である。だがあった (gewesen) ものは、 実際にはいかなる実在 ( W ワ en ) でもない。あったものは現に したがって、夜であるいまとか、いまを夜と思う自我とか に注意を向けている場合には、いま言ったような確信はもは在るのではない。問題になっていたのは「有る」である。 そういうわけで、われわれは、この示すということのなか や現われようとはしない。そこで、われわれの方からこの確 信に歩みよって、そこに主張されているいまが示されるようで、一つの運動とこの運動の次にのべるような経過とを見て いるにすぎない。 にしよう。われわれは、それ ( いま ) がわれわれに示される ようにせねばならない。なぜなら、この直接的な関係の真理 私はいまを指摘する。いまは真であると主張されてい は、この自我の真理であり、これは、、 しままたはここに制限 る。が、私は、そのいまをあったものまたは廃棄されたもの されているからである。われわれが後になってこの真理をと として、示す。つまり私は初めの真理を廃棄する。次に② り出したり、それから離れたりするならば、その真理は全く 私は、いまがあったということ、廃棄されていることを、 意味をもたなくなるであろう。というのも、われわれは、そまの第一一の真理として主張する。だが③あったものは現に の真理が本質とする直接態を廃棄してしまうからである。だあるのではない。私はあったもの、廃棄されたもの、第二の から、われわれは時間または空間の同一点に入りこんで、そ真理を廃棄し、そうすることによって、いまの否定を否定す れを自分で示さなければならない。つまり、確実に知ってい る、こうして、いまは現にあるという最初の主張に帰る。だ るものと同一の自我に、自らなるのでなければならない。そから、いまといまを示すこととがどんな性質かといえば、 こでわれわれは、われわれに示される直接的なものが、どんまもいまを示すことも、共に直接的 ( 無媒介 ) な単純なもので な性質のものであるかを見ることにしよう。 はなく、いろいろな契機を自分にもっている一つの運動だ、 いまが、このいまが示される。いま、それは、示されると ということになる。このものは定立されるけれども、定立さ きには、もはや存在することを止めてしまう。現にあるいまれるのは、むしろ、それとは別のものである。言いかえる と、このものは廃棄される。この他有つまり初めのものの廃 は、示されたいまとは別のものである。いまとは、現に在る
直接的にというのは、人倫的意識と同しように、自己意識自 自己意識の知る意志のなかへ、全対象性と世界が引きもどさ 料らが義務を知り行い、自らの本性としての義務に従うからでれている。自己意識は、自らの自由を知っている点で、絶対 あるが、人倫的意識のように、性格 ( 三三一 l) であるからでは に自由であり、自らの自由をかく知っていることこそは、そ この人倫的意識は、直接的であるために、一定の精神の実体であり、目的であり、唯一の内容である。 であり、人倫的実在の一方にだけ帰属しており、自分では知 道徳的世界観 っていないという側面を、もっていた。次に絶対的な媒介で あると言ったが、この点では、自己形成する ( 教養の ) 意識や 自己意識は、義務が絶対的実在であると知っている。自己 信仰する意識と同じである。というのは、この場合の自己意 意識は義務によってのみ制約されている。この実体は、自己 識は、直接的な定在という抽象を廃棄し、自ら一般者になる意識自身の純粋意識である。義務は、自己意識にとっては、 自己の連動だからであるが、自己および現実をただ疎外し、 見知らぬものという形式を、もっことはできない。 ( カント ) だ 分裂させることによって ( 教養 ) そうなるのではなく、また逃がそのように自分自身のなかに閉じこもっているとき、自己 避によって ( 信仰 ) そうなるのでもない。そうではなく、自己意識はまだ意識として措定されているのでも、考察されてい 意識は自ら直接その実体のうちに、現在している。というのるのでもない。対象は直接的な知である。このように全く自 は、実体は、自己意識の知であり、自己意識が、自分自身己によって貫かれているとき、対象は対象ではない。だが自 を、直観的に純粋に確信していることだからである。自己意己は、本質的には媒介であり、否定性であるから、その概念 において他在と関係しており、意識である。一方では、この 識自身の現実であるこの直接態こそは、全現実である ( 四一一 六 ) 。こいうのは、直接的なものは、存在自身だからであ他在は、義務が自己意識の唯一の本質的な目的、および対 り、絶対的否定性によって純化された直接態として、純粋存象となっているため、自己意識にとり全く意味のない現実で 在であり、存在一般でもあれば、全存在でもあるからであある。だが、この意識は、それほど完全に自分のなかに閉じ る。 こもっているから、この他在に対しては、全く自由で無関心 それゆえ、絶対実在は、思惟の単純な本質であるという規な態度をとっている。したがって他方では、定在は、自己意 定で、尽されるものではなく、全現実であり、この現実は識から全く解放された定在であり、やはり自分にだけ関係す 知としてのみ在る。意識の知らないことは、何の意味ももっ る定在である。自己意識が自由になればなるほど、この意識 ていないし、意識に対し何の威力でもあり得ないであろう。 の対象もそれだけ自由になる。このため対象は、自己のなか
ある。だから、最高実在が、存在する一つの自己意識とし り、この定在が自己自身を否定するもの、したがって自己で て、見られたり聞かれたりなどすることは、最高存在の概念あることを、知っている。が、この自己は、この自己である が事実上完結することである。そこでこの完結により、実在と共に一般的自己である。 ( 以上三位一体を語る。 ) 以上のことこ は、実在であるのと同じように直接的にそこに在ることになそは、啓示宗教が知っていることなのである。さて、これま る。 での世界の希望と期待はただこの啓示に向ってのみ押しよせ このようにそのままそこに在ることは、ただひとり直接的来て、絶対実在が何であるかを直観し、そこに自己自身を見 つけようとしたのである。つまり、絶対実在のなかに自分を な意識に止まるのではなく、同時に宗教的意識である。この 直接態は、一つの存在する自己意識であるという意味をもっ観るというこの歓びが、自己に意識され、全世界をとらえた のである。なぜならば、絶対実在は精神であり、例のいくっ だけでなく、それと不可分な形で、純粋に思惟された、つま り絶対的な、実在であるという意味ももっている。存在が本かの純粋契機の単純な運動であるが、この運動は、実在が直 質であることを、われわれはわれわれの概念の形で意識して接的自己意識であると直観されることによって初めて、実在 が精神であると知られることそのことを、表現しているから いるが、このことを、宗教的意識も意識しているのである。 である。 ( イ = ーナ「実質哲学二の二六六 ) 存在と本質が一つであり、思惟がそのまま定在と一つである 以上の概念は、自己自身を精神であると知っている精神の こと、これは宗教的意識の思想であり、その媒介された知で ことであるが、これはそれ自身直接的なものであって、まだ あるが、またその意識の直接的な知でもある。というのは、 存在と思惟のこの統一は自己意識であり、自らそこに在るか展開されてはいない。実在は精神である。言いかえればそれ らである。言いかえれば、思惟された統一は、同時に、それは現われたものであり、啓かれたものである。この最初の啓 かれた有は、それ自身無媒介であるが、直接的無媒介態は、 が在る通りのこの形態をもっているからである。かくて神 また純粋媒介つまり思惟であるから、自分自身でそのままこ 教は、現に在る通りに顕われており、自体的に在る通りにそこ このことをもっとはつ」り のことを示さなければならない。 に在る。つまり神は精神としてそこに在る。神は、純粋な思 弁的知においてのみ達せられ、そこにのみ存在し、その知自観察すれば、精神は、自己意識の直接態にいながら、この個 というのも、神は精神であり、この思弁別的な自己意識であり、一般的な自己意識に対立している。 身にほかならない。 的知は啓示宗教の知だからである。思弁的知は、神が思惟この精神は他を排除する一であるが、これは、そこに在りこ ことっては、一つの感覚的他者とい すなわち純粋本質であり、この思惟が存在であり定在であれを対象としている意識冫
ということについての、またこの契機の実体が述語であり、 的でないと認めている。良心は規定するときは自分自身から する。だが、自己の活動圏はいわゆる感性であり、この活動この述語の主語が個人におかれているということについて 圏〈規定態そのものが落ちこんで行くのである。つまり、自の、意識にほかならないのである。そこで個人の恣意は、純 己自身の直接的確信から内容をうるとしても、手もとには感粋義務に内容を与え、どんな内容でもこの形式に結びつけ、 個人が良心的であることをこの内容に縫いつけうるのであ 目に言った形態から言えば、善とか悪、 性以外に何もない。蔔 る。つまり或る個人が或る仕方で自分の財産をふやすという 法則と正義という形で現われるが、そういうものはすべて、 自己自身の直接的確信とは別のものである。それは一般的場合に、その義務となるのは、各人が、隣人のために役に立 ち、助けの必要なものには親切にする能力に、気を配るが、 なものであるが、この一般者は今の場合では、対他存在で ある。別の考え方をすれば、それは対象であるが、この対象またそれに劣らす、自分自身並びに自分の家族を支えること は、意識が自分自身と媒介関係にあるのだから、意識と対象に気を配る、ということである。個人が、それを義務である と意識しているのは、この内容がそのまま自分自身の確信に 自身の真理との間に入ってくるのであり、対象が意識の直接 含まれているからである。さらに個人は、この場合自分がこ 態であるというよりは、むしろ、意識を対象から分離してい るのである。たが、良心からみれば、自己自身の確信は純粋の義務を果たすものと見透しをつけている。だが、他人達 は、多分このきまったやり方を偽瞞だと考えて、この具体的 な直接的真理であるから、この真理は、良心が内容として表 象した、自己自身の直接的確信である。すなわち、結局それな場合の別のいくつかの側面を固執するが、当の個人は、財 は、個別人の恣意であり、個別人が無意識的に自然的に在る産をふやすことが義務であると意識して、この側面を固執す る。そういうわけで、他人が暴力や不正たと呼ぶものが、他 ときの、偶然の姿である。 恣意的なものであるにしても、この内容は、同時に、道徳人に対し自分の自立を主張するという義務を、果たすことに なり、他人が卑怯だと呼ぶものが、自分の生命を維持し、隣 神的本質または義務と認められる。なぜならば、査法の場合に 明かになったように、純粋義務は内容に対しては全く無関心人のために役に立っ能力を維持するという義務を果たすこと になる。だが他人が勇気と名づけるものは、むしろこの二つ であり、どんな内容でも消化してしまうからである。この場 の義務をそこなうことになる。とはいえ、卑怯にしても、生 合、純粋義務は、同時に、自独存在という本質的な形式をも 命を維持し、他人のために役立っ能力を維持することが、義 っており、個人的信念というこの形式は、純粋義務が空しい 務であると知らないほど、未熟であってはならないし、また という意識にほかならないし、その義務が契機にすぎな
442 となること、自ら関係することである。言いかえれば、対他 したがって、意識の形態という形で行われる、対象把握の 存在であり、自独 ( 対自 ) 存在であり、規定態であるが、これこの側面にとって必要なことは、既に現われているこれまで は知覚に対応する。更に第三に、対象は実在 ( 本質 ) である。 の意識形態を、想い起すことだけである。だから、直接的で 言いかえれば一般者として在るが、これは悟性に対応する。 あり、無関係な存在である限りの、対象に関していえば、われ 対象は、全体としてみるとき、一般者が規定を通じて個別者われが見たのは、観察的理性がこの無関係な物のなかに、自分 に至る推理乃至は運動である。逆に言えば、廃棄されたもの自身を求め見つけたということである、すなわち、その理性 としての個別者乃至は規定を通じて、個別者から一般者に至が自らの行為を外的なものと意識していると共に、対象をも る運動である。だからいま言った三つの規定から言えば、意直接的なものにすぎないと意識しているということである。 識は、対象を自分自身であると知らねばならないことになる。 われわれのみたところでは、この理性の頂点においては、そ とはいうものの、ここで問題になっているのは、対象を純粋の規定は、自我の存在は物である三五一 l) 、という無限判断に ( 『論理学」とのちがい暗示 ) に概念把握するような知ではない。 おいて言表される。しかもそれは感覚的な直接的な物である そうではなくこの知は、その生成乃至は契機において、意識そ ( 自我は、魂と呼ばれる場合には、物と表象されてもいるが、 のものに帰属する面から示されるにすぎないことになる、そ目に見えず手にふれられない物としてである。したがって、 して本来の概念乃至純粋知の諸契機は、意識の形態の形式に実際には直接的存在としてではなく、物と思いこまれている おいて示されるにすぎないことになる。それゆえ、対象は意ものとしてでもない ) 。 この無限判断三五二ー二五三 ) は、直 識そのものにおいては、われわれによってたったいま言表さ接ひびく通りに受け取れば、精神を欠いている、或はむしろ れたような、精神的な本質態として現われるのではない。ま精神なきもの自身である。だがその判断は、その概念から言 た意識の対象に対する関係は、対象を考察するとき、その総体えば、実際には最も精神豊かなるものである、そこでこの判 そのものにおいてするのでも、またその純粋な概念形式にお断のうちには、まだ現われていないこの内なるものが在るわ いてするのでもなく、 一方では意識の形態一般という形で、 けで、このものは、なお考察さるべき二つの異なった契機が あることを、言表している。 他方ではそういう形態の集合という形でするのである。が、 これらの形態をまとめるのはわれわれであり、これらの形態 物は自我である、この無限判断においては物は事実廃棄さ においては、対象と意識の態度という契機の総体は、ただそれている。つまり物はそれ自体では何物でもない。物は関係 の契機に解体された形で、示されうるにすぎない。 において、つまり自我によって、自我との関係によってのみ
て行く両極が、精神の形態をとって、互いに関係し合っている らの行為乃至自己を直観するからである。最後に第三の現実 3 ときになって初めて、絶対精神として現実的である。精神が は、初めの二つが一面的 ( 訳訂 ) であるのを廃棄する、つま その意識の対象として受け容れてつくる形態は、実体としてり、自己は直接的自己であると同時に、直接態が自己であ の精神の確信によって充たされたままである。この内容によ る。精神は、第一の場合には要するに意識の形式において、 って、対象が全くの対象態に、自己意識を否定する形式に沈第二の場合には自己意識の形式において、あるとすれば、第 んで行くことはなくなる。精神が自己自身とそのまま一つに 三の場合には両者を統一する形式においてある。つまり即且 なることが、基盤なのである、つまり純粋意識なのである。 対自存在の形態をとる。精神は、精神が即且対自的にある通 このなかで意識は別れて出てくることになる。こうして、自 りに表象されているとき、啓示宗教である。だが、この宗教 らの純粋自己意識に包みこまれることによって、精神が宗教に達したとき、 占神は自らの真の形態に達してはいるもの のうちに現存するにしても、それは自然一般の創造者として の、ほかならぬ形態そのものや表象であるという点で、なお のことではない。むしろ精神がこの運動においてつくり出す超えられていない面が残っている。精神は概念に移って行っ ものは、諸々の精神としての自らの形態であり、これが集まっ て、対象態の形式を、概念のうちで全く解体しなければなら て精神の現象を完成するのである。そこでこの運動自身は、 ないが、この概念とは、自らのこの反対を自らのうちに包ん その個々の側面を通じて、精神の完全な現実が生成することでいるものである。そうなったときには、概念は自己自身の である。言いかえれば、その運動は精神の不完全な現実であ概念を把握したことになるが、これは、われわれだけが、や る。 っと理解していたことである。そこで精神の形態乃至その定 精神の最初の現実は、宗教そのものの概念である、言いか在の場は、概念であるから、精神それ自身であることにな えれば、直接的なしたがって自然的な宗教である。この宗教る。 においては、精神は、自然的乃至直接的な形態をとった自ら の対象を、自分たと思っている。だが第二の現実は、当然な がら、廃棄された自然つまり自己という形で自分を知ること である。だからそれは芸術宗教である。というのは、形態は 意識を生み出すことによって、自己という形式に高まって、 るからであり、これによって意識は自らの対象のうちに、自