真理 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想12 ヘーゲル
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1. 世界の大思想12 ヘーゲル

べきものと考えられうる場合には、偽と呼ばれるかもしれな のである。というのは、方法とは、全体の構造がその純粋な いようなものを包んでいる。消えて行くものは、むしろ本質本質において組み立てられたものにほかならないからであ 的なものとしてさえ考えられるべきであって、真から切断さ る。しかしこの点に関し、これまで通用してきたことについ れ、どこかは、わからないが、真の外に置かるべきものとい て言えば、哲学的方法の本質に関係ある諸々の考えの体系と う固定した規定のうちにあると考えらるべきではない。それても、既に忘れ去られた教養に属するという意識をもたざる と同じで、真とても偽とは別の側に安らい、死んだ肯定的なをえない。 こういうと、私が決してそうだとは思っていない ものと考えられるべきではない。現象は生成消減であるが、 のに、何かほらふきで、また革命的でもあるようなひびきを 生成消減はそれ自身では生成も消減もしないで、それ自体に与えるかもしれないが、数学が貸し与える学問的華やかな道 存在し、真理の生命の現実及び運動を形成しているようなも具、つまり説明、分類、公理、数々の定理、定理の証明、原 のである。だから真理とは・ハッカス祭の陶酔であり、そこに 則、それらからの演繹、推理などは、既に一般の人々からみ 居合せた人は誰一人として酔わぬということがない。 この陶てさえも、少くとも時代おくれになっていることを、心すべ 酔は、誰でもそこを離れさえすれば、すぐさまさめてしまう きである。この華やかな道具が役に立たないことが、はっき から、見えすいた単純な静けさである。こういう真理の運動 り見抜かれてはいないにしても、全く使われていないか、余 という法廷では、精神の個々の形態も一定の思想も裁きにた り使われてもいないかである。その華やかな道具はそれ自体 えて存続しはしょ : 、、 オしカそれらは否定的で消え行くものであで否認されているのではないとしても、好かれているわけで ると同じように、肯定的な必然的な契機でもある。静けさ ( 静もない。われわれは、すぐれたものに対しては、用いられ、 止 ) と把握された運動の全体においては、区別され特殊な定好かれるようになるという予見をもたざるを得ない。しか し、或る命題をかかげ、その理由をあげ、反対のものには、 在をとるものは、内化さ ( 内にとり入れら ) れるものとして、 保存される。このものの定在は、自己自身についての知であ同じように、理由をあげて反駁するというやり方が、真理を 論る。もっともこの知もまたそのまま定在ではあるが。 表わしうる形式ではないということを見抜くのは、むずかし いことではない。真理とは自己自身に即した運動であるが、 この運動または学の方法について、あらかじめ若干のこと和 序を示しておく必要があるように思われるかもしれない。だが今言った方法は、素材にとって外的な認識である。これまで 方法の概念は既にこれまで言ったことのなかに在る、そして のべたように、数学は、概念なき量関係をその原理とし、死 方法本来の叙述は論理学の仕事である、むしろ論理学そのもんだ空間と同じように死んだ一をその素材としている。それ

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

し推理をしてもかまわないと。しかし、類比推理は完全に正 かすべての永遠の当為 ( この言葉はカントによる ) によっても、 しいとは言えないばかりか、その性質から言って、自己矛盾 理性の本能は、迷わされるものではない。 ( フイヒテ批判 ) な に陥っている、そのため、類比推理そのものによって推理す ぜならば、理性は、ほかでもなく、実在をもっているという る結果、むしろ、類比推理は全く結論を出さなくともよいと 確信であるからであり、意識にとって自己存在でないような いうことになりがちである。蓋然性には類比推理の結果が帰 ものは、すなわち、現象しないものは、意識にとっては全く 着するわけであるが、この蓋然性がより小さいとか、より大 何物でもないからである。 これまでのべたような法則の真理が、本質的には実在であきいとかいう区別を立てるにしても、真理に対しては意味を るということは、観察に止まっている意識からみれば、また、失ってしまう。 ( イボリ , トによればシ = リングを暗示していると いう。『エンチュクロペディー」二〇六ー二〇七頁 ) 蓋然性はどれ 概念と対立し、自体的な ( 観察する意識にとって在るべき本来の ) ほど大きいにしても、真理に比べれば何物でもない。だが、理 一般者と対立することになる。言いかえれば、意識自身の法 性の本能は、実際には、そういう法則を真理と受けとっている 則であるようなものは、意識からみれば理性の本質ではない。 のである。この本能は、自らが認識していない法則の必然性 意識は、そのとき見知らぬ ( 外からの ) ものを維持していると と関係をもっときになって初めて、いま言った区別のなかに 思いこんでいる ( だから理性の本質だとは思っていない ) 。なるほ どそうではあるが、事実の上では、意識はそういう自分の思入りこみ、事柄そのものの真理を蓋然性にひきおろしてしま いこみに反対することになる。つまり、法則の一般性の真理う。その結果、まだ純粋概念に対する洞察に達していない意 識に対し、不完全な仕方で、真理が現存している姿を示すこ を主張しうるためには、すべての個別的感覚的なものが、法則 とになる。というのも、一般性は単一な直接的な一般性とし期 という現象を意識に示してしまっているのでなければならな いという意味で、意識のいう一般性を事実上受けとっているてのみ、現存しているからである。だが同時に、この一般性 性わけではない。地上からもち上げられ、放り出された石が落のために、法則は意識に対し真理をも 0 ているのである。石 の落下することが、意識にとって真理であるのは、石が意識 下することに対して、決して意識は、あらゆる石についてこ 理 にとって重いからである。すなわち、石は重さのうちに、そ の実験をせよと、要求するわけではない。意識は、恐らく言う 0 にちがいない。そのためには非常に多くの石を使って実験がれ自体に自分で地球と本質的な関係をもっており、この関係 が落下という形で現われるからである。だから、意識は経験 行われねばならない、そうすれば、類比推理により、最大の 蓋然性をもって、または、完全な権利をもって、ほかの石に対のなかに法則の存在をもっているが、同じようにその法則を

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

ただ存在するだけの内容、という規定をもっている。この内知の本性を存在という形に顯倒してしまう、すなわち、知の ここでは、いわゆ 容は、諸々の関係の静止的存在となり、ばらばらないくつか否定性を知の法則としてしかっかまない。 る思惟法則が妥当しないことを、事柄の一般的本性から示し の必然性の集りとなる。この必然性は、固定した内容として、 ただけで充分である。これ以上詳しい展開は思弁哲学 ( 論理 絶対的に、その規定態においてありながら、真理をもっと言 われる、そこで実際には、それは形式から離れているのであ学 ) の仕事である。思弁哲学においては、それらの法則は、 る。だが、固定したいくつかの規定態、または多くのちがっ真にある通りのものとして、つまり消えて行く個々の契機と た法則が、このように絶対的真理であるというのは、自己意して示される。これらの契機の真理となるものは、思惟する 識あるいは思惟と形式一般との統一に矛盾する。自体的であ運動の全体、知そのものだけである。 思惟のこのような否定的統一は、自分自身だけで存在する、 るままの固定した法則と言われるものは、自己に帰って行く 統一の契機でしかありえないし、消えて行く大いさ ( 量 ) と或はむしろこの統一は、自分自身だけでの有 ( 自立〔自独〕存 してしか現われえない ( 一五五 ) 。観察のために、このよう在 ) であり、個体性の原理であり、その実現された姿から言 な、運動の連関からひきさかれ、個々別々にかかげられる場えば、行為的意識である。だから、それらの法則の現実態で 合に、それらの法則に欠けているのは内容ではない、なぜなあるこの意識へと、観察する意識が連れて行かれるのは、事 ら、それらは一定の内容をもっているからである。むしろそ柄の本性によってなのである。だが、いまのべた連関は、観 れらに欠けているのは、それらの本質となる形式である。実察する意識が認めたものではないから、観察する意識からみ ると、思惟は、その法則のうちにいるとき、一方の側に止ま 際には、それらの法則がただ形式的であって、何ら内容をも ったままであり、他面では、意識にとって新たに対象となる たないからではなく、むしろ、規定されていながらも、言い ものにおいて、法則とは別の存在、つまり、行為的意識をも かえれば、形式をうばわれた内容としてこそ、何か絶対的な ものと見られているという、反対の理由で、これらの法則は っというふうに、思いこまれることになる。行為的意識とい 性 思惟の真理ではないのである。その真実の姿から言えば、そうものは、他在を廃棄し、自分自身を否定的なものと直観す 理れらは、思惟の統一のなかで消えて行く契機であるから、知ることのうちに、自らの現実をもっという形で、自立して もしくは思惟する運動と、考えられねばならないのである ( 自分に対して ) いるものである。 こうして観察にとっては、意識の行為的現実において新し 四が、知の法則と考えられてはならないのである。だが、観察 い分野が開かれる。心理学は法則群を含んでいる。これによ は知そのものではないし、知を知ってもいない、かえって、

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

る。主語が述語のなかに否定されるところに 止まる述語の論理ではなく、その否定を介し て、主語を回復する論理である。だからそれ は、主語が回復されるまでは、止まるところを 知らない論理なのである。そうなるまでは、す べての真理は、過程のことになるのである。こ の過程が過程でなくなるところが、つまり絶対 / レ知なのである。そのとき、主語と述語、実体と ゲ主観、対象と認識は全く一致する。それ以外の へ知は、すべて、肯定することにおいて、否定に ・イ代伴われた矛盾なのである。そこで、この過程の 時全展開は、広く歴史であり、意識の遍歴であ リり、個人に即していえば、その自己形成の過程 2 なのである。以上の論理に基づいて、これが、 意識において、人間において、その行動におい て、個人において、対人関係において、社会に おいて、国家において、つまり歴史において、 どのように展開して、究極に至るかを説く。そ れが『精神現象学』である。そこで考えられる ことが、意識の経験ということなのである。 とができるというのである。判断の否定を、推理によって肯 ヘーゲル自身の言葉によれば、『精神現象学』は「意識の 定に転することが、ヘーゲルのいう弁証法である。 だから真理 ( 概念 ) は矛盾を内に含んだものなのである。 経験の学」でもある。では、そのことは何を意味するのか こうして、主語の論理を展開することが、そのねらいとなを、次に考えて見よう。 第

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

ぜならば、序文と初めの数節は最も大切な普遍的原理を与えな規定でのべようとする試みは、こころよく迎えられるだろ てくれるし、評論は、史実上の覚え書のほかになお評価を、 うとは思われない。それはそれとして、次のように考えても それだけでなく、評価であるからには、評価されたものを超 しいであろう。たとえば、時に、。フラトン哲学のすぐれた点 え出たものを、与えてさえくれるからである。この普通の道は、学的には価値のないその神話にあるとされるが、また夢 は不断着のままで歩ける。が永遠なもの、聖なるもの、無限 想の時代とさえ言われるような時代もあって、アリストテレ なものという高い感情は、高僧の衣をまとってゆうゆうと歩 スの哲学が思弁的深さをもっているからと言うので、尊敬さ いて行く、むしろ既に世界の中心にある直接的存在でさえあれたり、。フラトンの「。 ( ルメニデス」、この、恐らくは古代 るような、深く根源的な理念と高い思想のひらめきとをもっ弁証法の最大の芸術作品が、神的生命の肯定的表現と考えら た、天才の姿でさえあるような道を行く。しかし、そういうれたりした。そして忘我の境を生み出すものが、多分にもう 深さもまだ実在の源を啓示してはいない。それと同じでこのろうとしたものであるにも拘らず、この誤解された忘我の境 花火もまだ最高天 (Empyreum ギリシア語、宇宙の最も高いとこ ( 新プラトン派 ) が、実際には、純粋概念にほかならなかった ろに在る火の天 ) には達していない。真の思想と学的洞察とのである。更に現代哲学のすぐれた点は、その価値そのもの は、概念の労苦においてのみえられるべきものである。概念を学的であることにおいており、たとえ他の人々がそれをち だけが知の一般性を生み出すことができる。この一般性は、 がった仕方で受けとろうとも、この学的であることによって 一般的常識の平凡で定めなく足らぬ勝ちの姿ではなく、教養のみ実際に認められるのである。だから、私は、学を概念に ( 形成 ) を経た完全な認識であり、また天才の怠慢ゃうぬぼれ かえそうとし、学をその固有の場でのべようとする試みが、 によ「て、台無しにされる理性素質の「般的でない一般性で事柄に内在する真理によって、世に容れられるようになると もなく、固有の形式に成熟した真理である。この真理は、す望んでもいいわけである。真理は時がくれば浸透する性質を べての自己意識的理性の所有たりうるものである。 もっていることを、この時がきた場合にだけ現われること 論学を現存させるものは概念の自己運動にあると、私は考えを、それゆえ、現われるのに早すぎることもないし、未熟な る。そこで、真理の本性や形態について現代がもっている考読者に出会うこともないことを、われわれは確信していなけ 序えの、既にのべたいくつかの側面や、なおそのほかの外面的ればならない。また、個人 ( 著者 ) にとっては、まだ著者ひと な側面が、この点からはすれているだけでなく、それに全く りの問題にすぎないものが、巧くいって真と認められ、やっ 反してさえいることを思うと、学の体系を、前に言ったよう とまだ特殊なものでしかない確信が一般的なものとして経験

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

108 の、等しくないと措定されたものが、区別されていながら、 ているように、両極とは別のものである媒語も、消えてい そのまま私にとっては全く区別ではない。なるほど、或る他る。だから、内面の前にかかっていたこの幕はとり払われ、 者つまり或る対象の意識は、それ自身当然自己意識であり、 現に在るのは、内面が内面を見ることとなった。これは区別 自己に帰った有であり、自らの他有における自己自身の意識されていない同名のものを見るのである。この同名のもの である。意識のこれまでの諸々の形態にとっては、その真理は、自分自身をつきはなし、区別された内面として措定する は物であり、それらの形態とは別のものであ「た。意識のそけれども、この内面にと「てはまた両者が区別されていない ういう形態からの必然的な進行が言い表わしているのは、物ことも直接的である。つまりそれは自己意識である。 ( フイヒ についての意識がただ自己意識冫 ことってだけ可能であるとい テの自我 ) 明かなことであるが、内面を覆っているはずの、 うだけではなく、自己意識だけが、それらの形態の真理であ いわゆる幕のうしろには、たとえ背後が見られ、また、見ら るということ、正にこのことである。なるほどその通りではれうるようなものがその背後にあるにしても、われわれが自 あるが、しかしこの真理が現存しているのは、われわれにと分でそこへ行くのでなかったら、何も見えはしない。だが ってだけのことで、意識にとってのことではない。だが自己同時に明かなことであるが、細部には全然わたらずに、まっ 意識はやっと自分だけで、 ( 自分にと 0 て ) 生じてきたのであすぐその背後に行くことはできない。なぜならば、この知は って、まだ意識一般との統一として生じてきたのではない。 現象とその内面を表象するという真理であるが、それは、思 われわれのみるところでは、現象の内面において悟性が経 いこみ ( 想念 ) 、知覚などという意識の仕方及び悟性を消して 験するのは、カのたわむれであるような現象それ自身ではな しまう細部にわたる運動、の結果にほかならないからであ いにしても、現象それ自身とは別のものではなく、内面の絶る。そしてまた同じように明かなことであるが、自己自身を 対にー一般的な諸々の契機とそれら運動としてのカのたわむ知るときに、意識が知るところのものを認識するためには、 二二ロ なおそれ以上に細部にわたるものが必要であるが、これを侖 れとである。そのとき実際には悟性は自分自身を経験するだ けである。知覚を超えて高まったとき、意識は、現象というずることはこの次の仕事である。 媒語によって、超感覚的なものと推理的に結ばれて、現われ る。この媒語を通じて意識はその背景を見るのである。二つ の極、一方は純粋の内面、他方はこの純粋の内面を観る内 面、この二つはいま一つに合流する。両極が極としては消え

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

おいては、知覚の有と感覚的に対象となるものとは、もとも る。これこそ自体であるが、この自体は、最初の、それゆえ と否定的意味しかもっていない。そこで意識は、現象から、 それ自身不完全な理性現象であり、また、真理にその実在を 真としての自己に帰るが、意識であるから、またこの真を対与える純粋の場にすぎない。 ( カントの超感覚的世界、物自体、 理性など想起 ) 象的な内面のものとする、そして物が自己自身に帰るのと、 そこで、これから後のわれわれの対象は、物の内面と悟性 意識が自己自身に帰るのとを区別する。このことは、意識に とっては、媒介する運動がやはり、まだ一つの対象的な連動をその両極とし、現象をその媒語とする推理である。だがこ であるのと同じである。それゆえ、物の内面は、意識からみの推理の運動は、悟性が媒語を貫いて内面のもののなかに認 ると、意識冫 こ対する一方の極である。しかしこの内面は、自めるものを、更に進んで規定する運動であり、悟性が相互連 体という極にあるとき、同時に自己自身の確実性をもってお結の関係について行う経験である。 り、また自分だけでの有という契機をもっているから、意識 内面のものは、意識にとってはまだ純粋の彼岸である。と にとっては真である。だがその理由を、意識はまだ意識して いうのは、意識はまだこの彼岸のうちに、自分自身を見つけ というのは、自分自身に内面をもっているはすの、 ていないからである。この内面は、まだ何も現象していない 自分だけでの有 ( 自分にとっての有 ) は、否定的運動にほかな 状態にすぎないし、肯定的に言っても単一な一般者にすぎな らないであろうからである。だがこの運動にしても、意識に いから、空しいものである。物の内面のこういう有り方は、 とっては、まだ対象的な消えて行く現象であって、まだ意識物の内面が認識されえないと言う人々と、そのまま一致す 自身が自分だけでの ( 自覚的な ) 有になったものではない。そる。ただし認識できないという理由は、その人々とは別の仕 れゆえ、内面は意識にとって概念ではあろうけれども、まだ、 方でつかまれねばならないであろう。ここに直接有る通りの 意識が概念の本性を知っているわけではない。 ( 自覚的に概念内面のものについては、確かにいかなる知識も存在しない。 になり切っていないの意。 ) が、それは、理性が近視的であり、制限されすぎている ( その 絶対的に一般的なものとしてのこの内面の真理は、一般と他どういうふうに言われようとも ) からではない ( この点に 個別の対立から純粋になり、悟性にとってのものとなった。 ついては、ここでは何もわかってはいない。というのも、わ この内面の真理のうちで、初めて、現象する世界としての感れわれはまだそこまで深く入りこんではいないからである ) 、 覚的世界を超えて、これから後、真の世界としての超感覚的そうではなく、事柄自身の性質が単一であるためである。と 世界が開け、消えて行く此岸を超えて、永続的な彼岸が開け いうのは、つまり、空しいもののなかでは何も認識されない

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

いるかという規定において、幾度も問いつめられて愚弄されそこで法則は概念の本性となって現われるが、その概念は、感 ることに気がっかざるを得なくなる。幾度も問いつめられる覚的現実自体のどうでもいい存立を亡ぼしてしまっている。 結果観察上の規定がどれもはぎとられ、観察が高まって行っ 観察する意識からみると、法則の真理は、感覚的存在がこ たはての一般性は沈黙させられ、思想のない観察と記述に押の意識にとってあるような姿で、経験されているのであっ しかえされてしまう。 ( 自然の無力「エンチクロペディー」二五 て、それ自体に自分であるのではない。だが、法則は、概念 0 節 ) において自らの真理をもたないとすれば、偶然なものであっ て、必然性ではない、言いかえれば、実際には法則ではな . だから、こういうふうに、単純なものに局限される観察、 い。しかし、法則が本質的には概念としてあるということ 言いかえれば、感覚的な分散を一般者で制限する観察は、そ は、法則が観察にとって現に在るということに、矛盾するも の対象において、自らの原理が混乱におちいることに気がっ く。というのは、規定されたものは、その本性のため、反対のではないばかりか、むしろそれ故にこそ、法則は必然的な のもののなかで消えざるをえないからである。だから理性は定在をえて、観察に対することになる。理性的一般という意 むしろ、持続の外観をもっていた、惰性的な規定態から出味での一般者は、概念が自分でもっている意味から言って て、ほんとうにある通りの規定、つまり、自らの反対に関係も、一般的である。すなわち、一般者は意識に対して、現在 する規定態の観察に、進んで行くよりほかない。本質的徴表するもの、現実的なものとして現われ、概念は物態及び感覚 と呼ばれるものは、静止している規定態である。が、これら的存在という相で現われる。だがそのために、概念の本性が は単純な規定態として現われ、つかまれるけれども、それらの消えてしまい、活気のない存立またはどうでもいい継起に、 本性をつまり、自己にとりかえされる運動の消えて行く契機落ちこんでしまうわけではない。一般に認められているもの は、やはり一般に通ずるものでもある。在るべきものは、実 であるという本性を示しているわけではない。そこでいま、 理性本能は、本質的にそれ自身であるのではなく、反対のも際にも在る。在るべきであるだけで、在るのでないものは、 この点を、理性の本能が自分で固く守 のに移って行くという性質に応じて、規定態を求めることに真理をもっていない。 っているのは、当然である。また、いかなる経験においても なってきたので、法則と法則の概念を求めることになる。こ の法則や概念が、存在的現実として求められるにしても、こ出会ったこともないのに、ただ在るべきであり、当為として の現実は、理性本能にとっては実際には消えてしまい、法則の真理をもつべきであるにすぎないような、思想上のものによ っても、すなわち、仮定によっても、目にみえない、そのほ 両側面は、純粋契機もしくは抽象となってしまうであろう。

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

廃棄された自分だけでの有としては措定されていない。法則 差しあたっては、自体的に一般的なものであるにすぎない。 だが、自体的に単純なこの一般者は、本質的にはまた絶対のこの欠陥は法則自身において、やはり、現われざるを得な 、 0 法則の欠陥と思われるものは、区別そのものを自らにも に、一般的な区別でもある。な。せならば、その一般者は交替 っているのに、その区別が一般的であり、不定であることであ 自身の結果であるからである、言いかえると、交替がその一 る。だが、法則は、法則というもの一般ミ Gesetz 享。「 haupt) 般者の本質であるからである。だがこのため、内面に措定さ 一つの法則である限り、自ら規定態をもってい れ、真にある通りの交替は、同じように絶対に一般的で、静ではなく、 止的で、自己に等しいままの区別として、内面に、取り入れる。そこで不定な形で多くの法則が現に在ることになる。し かしこの多数態はむしろ欠陥でさえある。多数態は、単一な られてしまうようなものである。或は、否定は一般的なもの の本質的な契機である。だから、否定もしくは媒介は、一般内面の意識として、それ自体で一般的な統一を真理とする悟 者においては、一般的な区別である。この区別は、常ならぬ性の原理に、矛盾する。それゆえ、悟性は、多くの法則をむ しろ一つの法則に集約させねばならない。たとえば、石が落 現象の常なる像としての法則において、表現されている。だ から、超感覚的世界は諸々の法則の静かな国である。知覚さ下するときの法則と天体が運動するときの法則とが、一つの れた世界は、絶えず変化することによ「てのみ、法則を表わ法則として理解されたようにしなければならない。だがこの しているのだから、この法則の国は、知覚された世界の彼岸ように互いが一つになると、諸々の法則はその規定態を失「 ではあるけれども、しかしまた知覚された世界のうちに現在てしまう。そのとき法則そのものは次第に表面的なものにな って行き、その結果、実際には、これら諸々の一定の法則の しており、この世界の直接的な、静かな映像である。 法則の国は悟性の真理であり、この真理は、法則のうちに統一が在るのではなく、それぞれの規定態を失「た一つの法 則が在ることになる。このことは、地上の物体が落下すると ある区別において、内容をもっているのではあるが、同時に きの法則と、天体が運動するときの法則とを、自らのなかに それは悟性の最初の真理にすぎないし、現象を尽してはいな 、。法則は、現象のうちに現在しているけれども、現象を完統一している一つの法則が、それら二つの法則を実際には表 意全に現在させているわけではない。法則は、状態が変るにつ現していないのと、同じである。すべての法則を一般的引力 ( 万有引力 ) のなかで統一することは、法則のなかに存在的な れて、いつもちがった現実をもつ。そのため、自分だけでの ものとして措定されていゑ法則自体のただの概念以上に 現象には、内面のうちにはないような側面が残っている。一言 は、いかなる内容をも表現していない。万有引力が言ってい いかえると、現象は、ほんとうのところ、まだ現象としては、

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

る。つまりそういう過程 ( 推理 ) を含んだ全体なのである。 である。次に考えられるのは、この実体論に疑いをもっとこ ろから、知識の根拠を反省に求める態度である。つまり、実体その意味で「真理は全体である」のである。悟性の否定面を ではなく反省こそ、つまり主観こそは、知識を決定する究極忘れて、直観に訴えるのは、天才の場合のように、秘教的な 意味をもってはいるかもしれないが、学としての公開的な意 の根拠であると、考える態度である。これは、カントやフィ ヒテに代表される、主観主義である。この二つ ( 実体論と主味をもっことはできない。 観主義 ) の考えは、言わば両極になっている。反省的主観の これまでのべたことを、要約して言えば、「実体は本質的 立場は、実体論を超え、それを否定するところに成り立つわ には主観である」と表現しうる。更に言いかえれば、「真理 けであるが、ヘーゲルによれば、哲学は今この二つの立場をを実体としてだけではなく、主観としてつかむ」ということ 更に超えようとしている。そこに生まれるのが、実体と主観になる。そこでこのことが何を言っているのかを、つきとめ の同一を、直観の場において考え、そこに失われた実体を回ねばならない。まず、実体は主観であるというとき、思惟と 復しようとする試みである。これが直観主義であり、これを実在の一致という、実体論の考えが、形をかえて主張されて いるのではないか、という心配がある。だがこの考えは、前 代表するものがシェリングである。 にも言ったように、主観による否定の契機を無視している。 この最後の試みは、実体を回復しようとはしているが、「い きなりビストルから弾が飛び出す」ようなもので、初めに言 が実体ー主観理説は、この否定の契機に目を見すえることか った悟性の否定面が無視されることになりかねない。そこでら出てきたものであるから、実体論的形而上学とはちがう。 また「実体は主観である」というとき、逆に、主観が実体を 間題は、この否定面を同時にうちに含んでいるような形で、 実体を回復するには、どうしたらいいかということである。 決定するのではないかという心配が出てくる。がこれも当を 第三の立場は、「精神の力は、その表現 ( 外化 ) に全く比例得ない。そう考えるときは、実体は否定されてしまうだけ し、精神の深さは、その展開において敢えて自らを拡げ、自で、回復されないからである。そうかと言って、直観の立場 説 らを失う程度に比例する」ことを忘れていることになる。直は、形式による否定に目を向けていないから、それをとりあ 観においていきなり真理がえられるのではなく、精神が実体げるわけには行かない。以上のことを更に言いかえると、自 解 ( 対象 ) において自己を失うことを通して、自己を回復すると己の他在 ( 否定 ) において自己と一致する、ということにな る。これは、実体が、主観からみるとき、自己 ( 主観 ) の否 き、初めて真理がえられる。これがつまり概念なのである。 だから概念は、そういう過程を自らに含んだ結果なのであ定 ( 他在 ) であることを見すえ、その否定を肯定のうちに含