ではない。そこで宗教は、定在や一切の行動の一部分として由な現実という意味をもっことも、達せられるであろう。絶 現われるが、そのとき別の部分は意識の現実的世界における 対精神として自らの対象となるような精神だけが、そこで自 生活であることになる。そこでわれわれは、自らの世界にお分自身を意識したままでいるとき、自ら自由な現実である。 ける精神と、自ら精神だと意識している精神乃至は宗教にお ます、自己意識と本来の意識、宗教と自らの世界における ける精神とは、同じものであることを知る。が、それと同じ精神乃至は精神の定在、は区別される。その場合、後者は、 ように、精神の現実が宗教によってつかまれているというだ精神の契機が別々に現われ、各々が自分で現われる限り、精 けではなく、逆に、精神が、自己自身を意識した精神として神の全体のうちに在る。だが諸々の契機というのは、意識と 自ら現実となり、自らの意識の対象となるという二つのこと 自己意識と理性と精神であるが、この場合、精神と言っても が、互いに等しくなるところで、宗教が完成されることになる まだ精神の意識にはなっていないような、直接的精神として わけである。さて、精神は、宗教にあっては、自分を自分の のことである。それらを総括した統体が世俗的定在一般にお 前に置いて ( 表象して ) いる限り、たしかに意識である。そしける精神である。精神そのものはこれまでのいくつかの形態 て宗教のなかに包まれた現実は、精神の表象という形態をとを、一般的な規定のうちに、たったいまあげた契機のうちに り、その衣をまとっている。たがこの表象においては、現実含んでいる。宗教はこれらの契機の全経過を前提しており、 には完全な権利は与えられていない、つまりただ衣をまとうそれらのものの単純な統体である、すなわち絶対的自己であ というだけでなく、自立的な自由な定在であるという権利が る。それにしても、宗教との関係におけるその経過は、時間 与えられていない。また逆に、現実は、自分自身のなかでは上のことと考えられてはならない。精神全体だけが時間のな 完成を欠いているから、一定の形態であるが、これは、現実 かに在る、そして精神全体そのものの形態であるような形態 が現わすべきものには、つまり自己自身を意識した精神には、継起するなかに現われる。というのは、全体のみが本来 は、達していない。精神の形態が精神自身を表現するとすれの現実性をもっているから、他のものに対し純粋自由の形式 教 ば、現実自身は精神以外のものであってはならないし、精神をもっており、時間 ( 五〇六 ) として現われるからである。し は、その本質のうちに在る通りに、現われねばならない、一一一口 かし精神の意識、自己意識、理性及び精神という諸々の契機 いかえれば、その通りに現実的でなければならないであろ は、契機であるから、互いに異なった定在をもっているので はない。精神がその契機から区別されたように、なお第三に、 新う。そういうふうにしてのみ、反対の要求であると思われる かもしれないものも、つまり、精神の意識の対象が同時に自それらの契機自身から区別さるべきものは、個々別々になっ
に、理性的であると規定されている、つまり範疇という価値国として、それに対する世界を信仰の世界、本質 ( 実在 ) の をもってはいる。けれどもこの対象は、対象の意識に対して国として記すことになる。だがこの二つの世界は、自己自身 は、まだ範疇という価値をもってはいないようなものであの喪失から自己に進む精神、つまり概念によって、把まれる る。精神は、たったいまわれわれが考察を終って、そこから出とき、分別とその普及たる啓蒙によって混乱に陥れられ、革 命に行きつくことになる。そこで此岸と彼岸に分けられ、ひ てきたばかりの意識である。精神のもっているこの理性が、 ろけられた国は、自己意識に帰って行くことになり、この自 最後に、現に理性で在るようなものとして、言いかえれば、 精神のなかで現実的であり、精神の世界であるような理性と己意識は、次には道徳性となって自らを本質として、本質を して、直観されるようになったときには、精神は自らの真理現実的な自己として、把握することになり、自らの世界とそ の根拠を、もはや自らの外に置くことをしない、むしろすべ にいることになる。つまり精神は、現に精神であり、現実の てを自分のなかで消えさせ、良心として自己自身を確信する 人倫的実在である。 精神となる。 精神は、現に直接的な真実態 ( 三二七、三三四 ) である限り、 こうして人倫的世界、此岸と彼岸に分裂した世界と道徳的 或る民族の人倫的生命である、つまり一つの世界であるよう な個体である。が、精神は、自らの直接態についての意識に世界とは、みな精神である。が、それらの運動と、精神の単 純な自己存在的自己への還帰とが、展開されて行くとき、こ つまり、美しき人倫的生活を廃棄 進んで行かねばならない、 して、いくつかの形態を通り、自己自身の知に行きっかねばれらのものの目標及び結果として、絶対精神の現実的自己意 ならない。 これらの形態がこれまでの形態と異なるのは、そ識 ( 宗教 ) が現われることになる。 れらが実在する精神であり、本来の現実であり、ただの意識 の形態ではなく、一つの世界 ( 世の中 ) の形態であるためであ 生々とした人倫的世界は、自らの真実態にいる精神であ る。ます、精神が自らの本質を抽象的に知るようになると、 法という形式的一般性にいる人倫は、没落することになる。 次に、自己自身のうちで分裂した精神は、きびしい現実た る、自らの対象的な場のうちに、自分の世界の一方を教養の
て行く両極が、精神の形態をとって、互いに関係し合っている らの行為乃至自己を直観するからである。最後に第三の現実 3 ときになって初めて、絶対精神として現実的である。精神が は、初めの二つが一面的 ( 訳訂 ) であるのを廃棄する、つま その意識の対象として受け容れてつくる形態は、実体としてり、自己は直接的自己であると同時に、直接態が自己であ の精神の確信によって充たされたままである。この内容によ る。精神は、第一の場合には要するに意識の形式において、 って、対象が全くの対象態に、自己意識を否定する形式に沈第二の場合には自己意識の形式において、あるとすれば、第 んで行くことはなくなる。精神が自己自身とそのまま一つに 三の場合には両者を統一する形式においてある。つまり即且 なることが、基盤なのである、つまり純粋意識なのである。 対自存在の形態をとる。精神は、精神が即且対自的にある通 このなかで意識は別れて出てくることになる。こうして、自 りに表象されているとき、啓示宗教である。だが、この宗教 らの純粋自己意識に包みこまれることによって、精神が宗教に達したとき、 占神は自らの真の形態に達してはいるもの のうちに現存するにしても、それは自然一般の創造者として の、ほかならぬ形態そのものや表象であるという点で、なお のことではない。むしろ精神がこの運動においてつくり出す超えられていない面が残っている。精神は概念に移って行っ ものは、諸々の精神としての自らの形態であり、これが集まっ て、対象態の形式を、概念のうちで全く解体しなければなら て精神の現象を完成するのである。そこでこの運動自身は、 ないが、この概念とは、自らのこの反対を自らのうちに包ん その個々の側面を通じて、精神の完全な現実が生成することでいるものである。そうなったときには、概念は自己自身の である。言いかえれば、その運動は精神の不完全な現実であ概念を把握したことになるが、これは、われわれだけが、や る。 っと理解していたことである。そこで精神の形態乃至その定 精神の最初の現実は、宗教そのものの概念である、言いか在の場は、概念であるから、精神それ自身であることにな えれば、直接的なしたがって自然的な宗教である。この宗教る。 においては、精神は、自然的乃至直接的な形態をとった自ら の対象を、自分たと思っている。だが第二の現実は、当然な がら、廃棄された自然つまり自己という形で自分を知ること である。だからそれは芸術宗教である。というのは、形態は 意識を生み出すことによって、自己という形式に高まって、 るからであり、これによって意識は自らの対象のうちに、自
た規定である。それらの契機の各々をわれわれは、それ自身ら、精神が自体的につまり直接的に在るものの知に達する運 3 においてそのもの自身の経過のうちで、区別し、異なった形動であり、精神のその意識に対して現われる形態が、その本 にする。それは例えば、意識においては感覚的確信と知覚が質と完全に等しくなるに至り、精神が自ら在る通りの自分を 区別されるようなものである。この後の側面は時間のなかで直観するに至るまでの運動である。かくて精神自身は、この 継起し、一つの特殊な全体に帰属する。というのも、精神は生成においては、この運動の区別をつくっている一定の形態 規定によって、その一般性から特殊性に降ってゆくからであをとることになり、同時にそのために、一定の宗教は一定の る。規定乃至媒語は意識、自己意識などである。これらの契現実的精神をもっことになる。だから、一般に、自らを知る 機のとる形態が個別性となる。だからこれらの形態は個別態精神に、意識、自己意識、理性及び精神が帰属するとすれ 乃至現実態における精神を表わしており、時間において区別 ば、自らを知る精神の一定の形態には、一定の形式が帰属す される、がそれは、次に来るものが前のものを、自らに維持ることになる。これらの形式は、意識、自己意識、理性及び しているという形でのことである。 精神の内部で、その各々において特別な形で展開したもので それゆえ、宗教が精神の完成であり、意識、自己意識、理ある。宗教の一定の形態はその現実的精神 ( 東方的、ギリシア 性及び精神という精神の個々の契機はその根底としてのこの的、キリストゲルマン的精神 ) のために、その各契機の形態の中 から、自分に適したものをとり出してくる。宗教の一つの規 完成に帰り、また帰ってしまっている。その場合、それらの 契機は一緒になって、精神全体の定在する現実をなすわけで定態は、その現実的定在のあらゆる側面を貫いて、これに共 あるが、この全体は、これらの側面が区別されながらも、 通の刻印をおすことになる。 さてこうしてこれまでに現われた形態は、前の系列が現わ 自己に帰って行く運動としてのみ現に存在する。宗教一般の 生成は一般的契機の運動のうちに含まれている。しかし、これたのとはちがった順序をとるので、それについて予めかん れらの属性の各々は、一般的に規定されているだけでなく、 たんに注意をしておく必要がある。これまでに考察した系列 全く自分で存在し、すなわち、自分自身のうちで全体として においては、自らのなかで深まりながら、各契機は、その固 経過するものであるが、その仕方が叙述されたときには、そ有の原理において一つの全体に形成されて行ったのである。 れと一緒に宗教一般の生成が起っただけでなく、個々の側面そして認識は、自分だけでは存立しない契機に、その実体を の例の完全な経過も、同時に宗教自身の規定態を含んでいる もたせる深み乃至精神であった。だがいまこの実体が表に ことになる。精神全体、宗教の精神は、また、その直接態か出てきたのである。この実体は自己自身を確信する精神の深
いて一般に問題になるのは、その意識のうちには、精神にと みであるが、これは、個々の原理が孤立し、自分自身のなか で全体になることをゆるさないで、これらの契機すべてを自 りいかなる規定態が在るかということ、精神はどの規定態に 分のなかに集めて一まとめにしながら、現実的精神の富全体その自己が表現されており、 いかなる形態にその本質が表現 のなかで進んで行くのである。そこで、全体の特殊な契機は されていると知っているか、ということだけである。 みな共通に、精神の同じような規定態を自らのなかにとりい 現実的精神と自らを精神だと知っている精神との間の区 れ、受けとるのである。この自己自身を確信する精神とその別、または意識としての自己自身と、自己意識としての自分 運動は、諸々の契機の真なる現実であり、各々の個別者に帰自身との間に、設けられた区別は、自らを自らの真実態によ する即且対自存在である。かくて、これまでの一つの系列 って知っている精神のなかでは、廃棄されている。その意識 が、いくつかの結び目を通って進んで行くとき、そこには後 と自己意識は調停されている。だが、ここでは宗教はまだや 退が現われはするが、そこからまた先にのびても行くとすれっと直接的であるにすぎないから、その区別はまだ精神に帰 ば、いままたその系列はいわばこれらの結び目、一般的な契ってきてはいない。まだ宗教の概念が立てられただけで、こ 機において、破られ、多くの線に分裂するが、これらの線は こで本質となっているのは、自ら全真理であり、この真理の 一つに東ねられ同時に均衡を得て一つになり、その結果、各うちには全現実が含まれているとする自己意識である。この 各の特殊の区別を自らのなかで形成していた等しい区別が、 自己意識は意識として自分を対象としている。まだやっと自 集まることにもなる。そのほか全体の叙述からおのずからに分を直接的に知っているだけの精神は、だから、自分にとっ して明かになることは、一般的ないくつかの方向を、ここに ては、直接態という形式にある精神であり、精神が現われる 思い浮べたように並列することを、どう理解するかというこ形態の規定態は存在という規定態である。たしかに、この存 とであり、これらの区別が本質的には生成の契機にすぎない 在は、感覚乃至は多様な素材によっても、またその他の一面 教のであって、部分と考えてはならないという注意をするの的な契機、目的、規定によって充たされるものではなく、精 は、余計なことになるということである。それらの区別は、 神によって充たされ、全真理であり現実であることが自ら知 現実の精神においては、実体の属性であるが、宗教においてられている。そういうわけでこの充たすということは、その は、むしろ主語の述語であるにすぎない。また自体的にすな形態と等しくないし、本質としての精神はその意識と等しく わちわれわれにとっては、一般にすべての形式は精神のなか ない。精神は、自己自身を確信している通りに、また自ら自 に、各々の精神のなかに含まれてはいるが、精神の現実にお分の真実態にもいるときに、或は、精神が意識となって分れ
という両者の本性から言って、したがってまた、身体的分岐 在を、外に向っている定在を、もっているものなのである。 の側から言って、やはり存在する分岐を、具えていなければ これに比べると、神経系組織は有機的なものが動くとき、 ならないことになるからである。 直接的な形では静止している。なるほど、神経自身は、既に 精神的ー有機的な存在は、同時に静止的な存立的な定在と 全く外に向けられた意識の器官でもあるけれど、脳や脊髄 は、対象的ではなく、外に向うのでもない形で、自己のなか いう側面を、当然もっている。前者すなわち精神的側面は、 に止まっている直接的な、自己意識の現在と考えられてもい 自立存在という極として引きさがり、後者すなわち定在を、 いわけである。こういう器官がもっている存在の契機は、他他方の極としてそれに対立させねばならない。その際、この 者に対する存在であり、定在であるがその限りで、死んだ存他方の極は、精神が原囚として働きかける対象である。そこ 在であって、もはや自己意識の現在ではない。だが、このよ で脳髄と脊髄とは、精神が、いま言ったように、身体的に自 うに自己自身のうちに在ることは、その概念から言って流動立したもの ( 自覚存在 ) だとすれば、頭蓋と脊柱は、この自覚 性であり、ここでは、そこに投げこまれる円環は、 : しすれも存在から分離された、もう一つの極、つまり固定し静止した し力なる区別も、存在する区別とし定在であることになる。だが、精神が定在するときの、本来 直ちに解かれてしまし 。ところで精神自身は抽象的に単一なもの ては、現われない の場所のことを考えるひとが思いつくのは、背中ではなく、 ではなく、諸々の運動の一体系であり、この体系において、 頭蓋だけである。そのためわれわれは、いま問題になってい 精神は、区別されていくつかの契機となるが、そういうふう る知識 ( 頭蓋論 ) を研究するに当っては、いま言った理由、頭蓋 に区別されることそのことのうちにありながらも、いつまで 論からみればそれほど悪いものでもない理由で、精神の定在 も自由である。また精神は、その身体一般をいろいろな機能を頭蓋に限ってもいいわけである。おそらくは、背中によっ に分け、身体の個々の部分には、ただ一つの機能しか与えな て知識と行為が、一方では内に引き入れられるが、他方では 。それと同じで、精神の自己内存在という流動的な存在外に引き出されることも、時にあるという限りで、誰かが、 は、分岐されたものであるとも表象されうる。またそういう精神のあり場所を、背中と思いつくこともあろう。けれども 理 このことは、脳髄と共に脊髄が精神の内在する場所であり、 ふうに表象されねばならないようにも思われる。なぜなら また、脊柱が精神に対応する定在であると、考えられねばな ば、精神という自己に帰った存在は、脳髄自身においては、 らないということの、証明にはならないであろう。というの また精神の純粋本質と精神の身体的分岐との媒語にすぎない からである。それゆえ、この媒語は、純粋本質と身体的分岐も、それは余りにも多くのことを証明しているからである。
85 E 宗教 となって、吐き出される。 ( スフィンクス ) この作品が出るに及んで、自己意識に対抗して、意識なき 芸術宗教 作品を生み出していた本能的な仕事は、終ってしまった。と いうのもそこでは、自己意識の意味をもっ工作者のはたらき 精神は自らの意識に相対しているが、いま、精神はこの形 に対抗して、やはり自己を表現する自己意識的な内面が表に 態を高めて意識そのものの形式とし、これを自らっくり出 出ているからである。工作者はこの作品で、自分の意識が分す。工作者は、思想と自然的なものという異質的な二つの形 裂するところに、精神が精神に出会うところに、至りついた式を混合させるような ( 四四一 l) 、綜合的な仕事を止めてしま のである。だから、精神が自らの意識の形態であり対象であ ったのである。つまり、形態が自己意識的活動という形式を ると自覚している限り、自己意識的精神が自分自身と一つに えたので、工作者は精神的労働者になったのである。 なるところでは、無意識的な形の直接的な自然形態と精神と さて、芸術宗教において、自らの絶対的実在を意識してい の混合は、純化されるわけである。形態、言説、行果に現わる現実の精神とは何であるか、と問うてみるならば、それは れたこの怪物は、精神的な形をえて解体して行く。自らのな 人倫的乃至真の精神であるということが、明かになる。精神 かに入って行った外面に、自らの外に出ながら自分自身にい は個々人すべての一般的実体に止まるものではない。実体が て自らを表現する内面に、自らの形態と一致して自らを生み現実の意識に対して意識という形態をも「ているとき、この ながら支えて行く明快な定在である思想に、解体して行く。 ことはそのまま、個人化を行う実体が、すべての個々人か この精神が芸術家である。 ら、自らの本質であり作品であると知られていることを意味 する。だからここでは実体は人々にとって光の神ではない。 この神においては、自己意識の自独存在は、ただ否定的な形 で、ただ亡び行くものの形で、含まれていただけであり、主 を自らの現実と直観していたのである。更にまた実体は、憎 み合う民族が休みなく食い合うことでもなく、民族を抑圧し てカストとすることでもない。カストは全体を完全に組織し ているように見えるが、個人の一般的自由を欠いたものであ る。そういうものではなく、この場合の精神は、習俗が、す 490
限りで言えば、非本質的になって後退しているわけだが、 察さるべきである。 より低いものがまだ支配しているのに、より高いものも現わ れているという場合には、一方はまだ自己にならないで、他 方とならんで、座をしめていることになる。それゆえ、いろ 精神は、自己意識であるような実在である、言いかえれ いろな表象が、或る個別的な宗教の内部で、その宗教の形式ば、全真理であり、全現実を自分自身であると知っている自 の運動全体を表わしてはいるにしても、各々の宗教の性格は己意識的実在であるが、この精神は、自らがその意識の運動 意識と自己意識の特別な統一によって決められている。すな において示す実在性に対している場合には、やっとまだ精神 わち、自己意識が意識の対象の規定を自分のなかで把み、その概念であるにすぎない。 この概念は展開する昼に対すると れを自らのはたらきによって完全にわがものとし、他の規定きは、その実在の夜であり、自立的形態としてのその契機の に比べて本質的なものと知ることによって決められる。宗教定在に対するときは、その誕生の創造的な秘密である。この 的精神の一規定を信ずることが真理であると示されるのは、 秘密は自分自身のなかに自分の啓示をもっている。というの 現実の精神が、自らを宗教のなかで直観する形態と同じ性質は、概念は自らを知る精神であり、したがって、その本質の のものであることにおいてである、それはたとえば、東方のうちに、意識であり、自分を対象的に表象するという契機を 宗教に現われるように、神が人間となることは、その宗教の現もっているので、定在はこの概念のうちに、自らの必然性を 実の精神がいま言った和解をもっていないため、真理ではな もっているからである。それは純粋自我であり、これは自ら いようなものである。規定の統体から個々の規定に帰って行を外化し、一般的対象としながらも、自己自身であると確信 くことや、その宗教の内部に、特殊な宗教の内部に、他の宗している。言いかえれば、この対象は自我にとっては、あら 教の完全な姿がどういう形で含まれているかを示すことやゆる思惟とあらゆる現実が浸透し合うことである。 自己を知る絶対的精神が、直接的に初めに分裂するときに は、いまの場合の仕事ではない。より低い形式に押しもどさ れた場合の、より高い形式は、自己意識的精神に対するその意は、その形態は、直接的意識または感覚的確信に帰せられ 味を欠いており、この精神にただ表面的に、その精神の表象るような規定をもつ。精神は存在という形式において自分を に帰せられるだけである。より高い形式は、その固有の意味直観するが、感覚という偶然な規定に充たされた精神なき存 において考察され、特殊宗教の原理であるところで、その現在、感覚的確信に帰せられるような存在の形式においてでは 実の精神によって、真であると保証されているところで、考ない。むしろその存在は、精神によって充たされた存在であ
精神の三形態、つまり、真の精神、自己疎外された精神、自 必然性の無と下界に対するこの信仰は天上への信仰とな己自身を確信している精神は、その意識のなかで一つに合し る。というのも、死んだ自己はその一般性と一つになり、自て、精神をつくっているが、この意識は、その世界に相対し ていながらも、世界のうちに自らを認識することはない。だ らの含むものを、この一般性のなかで分解させ、自分を明か が良心においては、精神は、自らの対象的世界一般をも、ま に意識するようにならなければならないからである。しかし た自らの表象や自らの一定の概念などをも屈服させる ( 四七 われわれの見たところでは、この信仰の国は思惟の場におい てその内容を展開するだけで、概念をもっていない。それゆ〇 ) 、そこで自らのもとに存在する自己意識となっている。こ の自己意識においては、精神は、表象された対象として、す えこの国はその運命のなかで、つまり、啓蒙の宗教のなかで べての実在とすべての現実を自らのうちに含む一般的精神、 没落する。この宗教においては、悟性の超感覚的彼岸はまた であるという意味を自分で ( 対自的に ) もっているけれども、 回復されるけれども、しかしそれは、自己意識がこちら側に 満足しており、超感覚的な彼岸、空しくて、認識されも恐れ自由な現実の形式、または、自立的に現象する自然の形式の うちに在るわけではない。精神は、自らの意識の対象である られもしない彼岸を、自己としても威力としても知っている から、存在という形態乃至形式をもってはいるが ( 自然宗教 ) 、 わけではない、 という形でのことである。 この意識は宗教においては、自己意識であるという規定のう 最後に道徳性の宗教 ( カント ) においては、絶対実在が一つ ちに描かれているから、自ら完全に透明な形態である。そこ の積極的な内容であるということが、回復されてはいるが、 で精神の含む現実は精神のうちに閉じこめられており、廃棄 この内容は啓蒙の否定と一つになっている。 ( おきかえ ) この されている。それは、われわれが、全現実を語る場合とちょ 内容はまた自己のなかにとりかえされ、そこに含まれたまま になっている存在であり、区別された内容であるが、その部うど同じ仕方でのことである。この現実は考えられた一般的 分は掲げられもするが、すぐ否定されもするようなものであ現実である。 る。だが、矛盾する運動が沈みこんで行く運命は、本質及び こうして、宗教においては精神の本来の意識は、自由な他 現実の運命としての自己を、意識している自己 ( 良心的自己 ) 在という形式をもってはいないから、その定在はその自己意 である。 識とは区別されており、その本来の現実は宗教の外に出るこ 自分自身を知っている精神は、宗教においては、そのま とになる。もちろんその意識は、現実と自己意識の両方を一 ま、自分自身の純粋自己意識である。これまでに考察された つにする精神ではあるが、その両方を同時に包んでいるわけ
含んでいる。その死は、神が自ら死んでしまった ( 五二一一 l) と った、つまり、自己自身を知る精神という形で、生じておっ 、不幸な意識の悲しい感情である。このきびしい言葉た。この精神は、悪を赦し、それと同時に、自己の単純な姿 は、単純に自分を最も深く知っていることの言表であり、自 とかたくなな不動性を捨てる、言いかえれば、この精神は、 分の外にはもはや何物をも区別せず知りもしない自我Ⅱ自我絶対に対立したものが自らと同じものであると認識し、この という、夜の深みに意識が帰ることである。だから実際には 認識をこれら二つの極の間の諾 ( 四七一 l) として生み出す運動 この感情は、実体と、意識に対する実体の対立とを失うことである。絶対実在を啓示されている宗教的意識は、この概念 を直観し、自己と直観されたものとの区別を廃棄する。その ではある。が同時に、それは実体の純粋主体性である、言い 意識は主体であるようにまた実体でもある。かくて宗教的意 かえれば、対象とか直接的なものとか純粋実在とかいう形で 識は、まさにこのような運動であるゆえ、またその限りで、 の、実体を欠いているような、自己自身の純粋確信である。 かくてこの知は精神を与えるものとなる、がこれがために実それ自身精神である。 とは一言え、この教団はまだその自己意識となって完成して 体は主体となり、その抽象と生命なき姿は死んでしまい、し はいない。教団の内容は一般に、教団に対立する表象という たがって実体は現実的になり、単純な一般的な自己意識とな っているのである。 形をとっている。この分離は教団の現実的精神状態でもあ る、つまり教団は、その表象から自己に帰っても、まだ表象 かくて精神は自己自身を知る精神となる。精神は自己を知 る。だから精神の対象となるものは、言いかえればその表象につきまとわれている。これは、純粋思惟の場が表象につき は、真の絶対的な内容である。それは、既に見たように、精まとわれていたのと同じである。教団は、自らが何であるか 神自身を言い表わしている。同時に精神は、自己意識の内を意識してもいないし、自己意識ではあっても、自らをこの ことっての対象であるに止まらず、現実的精神自己意識という対象として意識しているのではなく、自己自 容、自己意識冫 でもある。精神がそうであるのは、その本性の三つの場を通身であるという意識へと開示されているわけでもない。むし り抜けたからである。自分自身を通りぬけるこの運動が、精ろ、意識である限りの教団は、既に考察したような表象をも っている。さて、われわれのみるところでは、自己意識がそ 神の現実を形成するのである。自ら動くもの、それが精神で の最後の転回点で内面的になり、自己内存在の知 ( 自我。自 ある。精神は、運動の主体であり、また動くことそれ自身で ある、言いかえれば、主体が通りぬけて行く実体である。わ我 ) に達する。つまりその自然的定在を外化し、純粋否定性 れわれが宗教に歩み入ったとき、精神の概念は既に生しておを手に入れる。しかしこの否定性すなわち知の純粋内面性が