自然 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想12 ヘーゲル
285件見つかりました。

1. 世界の大思想12 ヘーゲル

徳的な行動であると共に、個人性を実現することでもあり、 のは、その達成が、まだ不確実だというようなものではな 抽象的目的に対する個別性の側面としての自然と、この目的 、理性の要求である。つまり、理性の直接的確信であり、 とは、一つであるはずだということになる。自然は自由なも前提である。 のであるから、両側面が調和しないことも当然経験される 例の初めにのべた経験とこの要請が、問題になる唯一のこ が、それと同じように、義務たけが本質的なもので、義務に とではない。その他にも、全範囲にわたる要請が現われてく 比べると自然は自己なきものであることにもなる。両者の調る。つまり自然というものは、全く自由な外的な在り方であ 和がつくり出す例の目的全体は、現実そのものを自分で含ん り、それが純粋な対象となって、そのなかで、意識が自分の でいる。目的は同時に現実の思想である。道徳性と自然の調目的を実現すべきであるというようなものに、止まるべきで 十へよ、 0 和は、言いかえれば、意識が自然と自分の統一を経験する限 意識にしてもそれ自身では、本質的に、この別の自 りでのみ、自然が問題になることから見て、道徳性と幸福の 由な現実が意識に対しているような形で、存在しているもの 調和は、当然存在するものと考えられている、つまり要請さ である。すなわち、意識自身が一つの偶然なものであり、自 れていることになる。なぜならば、要求するとは、まだ現実然的なものなのである。意識にとり自分のものである自然 的でないものが存在すると考えられる、ということを言い表 が、感性であり、これは、衝動とか傾向とかいう意欲の形を わしているからである。概念としての概念の必然性ではな とって、それだけで ( 対自的に ) 自分の一定の本質をもってお く、存在の必然性を言い表わしているからである。だが同時り、個別的な目的をもっているから、純粋意志とその純粋目 に、必然性は本質的には概念による関係である。だから、要的とに対立している。このような対立とは反対に、むしろ純 求された存在は、偶然な意識の表象に帰せられるものではな粋意識にとって本質的なことは、感性と意識の関係であり、 、道徳性そのものの概念のうちに在り、この概念の真の内両者の絶対的統一である。純粋思惟と意識の感性という両者 容は、純粋意識と個別意識の統一である。個人意識に帰せら は、自体的には一つの意識である。純粋思惟とは、それに れるのは、この統一が、この意識にとって、一つの現実であとってまたそのなかに、 この純粋統一が在るようなものにほ るようにということであるが、これは、目的の内容から言え かならない。けれども、意識としての純粋思惟に対するとい ば幸福であり、その形式から言えば定在である、ということ う形で言えば、思惟自身と衝動は対立している。理性と感性 である。それゆえ、要求された定在は、すなわち道徳性と自 が対抗するとき、理性にとって本質的なことは、この対抗が 然の統一は願望ではない。言いかえれば、目的と考えられる解消し、結果として、両者の統一が出てくることであるが、

2. 世界の大思想12 ヘーゲル

等しく本質であり、相並んで無関係に存立しているとすれ ( 真であるがまだ直接的で自然的で無媒介であるの意 ) であるからに ば、両方共自己のない存在だということになる。つまり、行 ほかならない。次に内容の面からみるとき、その像は、神々 為を果たすときには、共に自己存在であるが、異なったもので のおきてと人間のおきてに、分裂したものとなって現われ あり、そのため自己という統一に矛盾するもの、自己が正義る。それはさて、若者は無意識的なものから、家族の精神か を失って当然没落して行くものである。また性格にしても、 ら外に出て、国家共同体の個人態 ( 主権者 ) となる。だがこの 或るときは、そのパトスまたは実体から言って、一方だけの若者が、まだ、自分のふり離してきた自然に帰属しているこ ものであるが、また或るときは、知という側面からすれば、 とは、二人の兄弟 ( エテオクレスとポリ、ネイケス ) という偶然 一方も他方も共に意識と無意識に分裂している。各々は、自 な形をとって現われ、同等の権利で、同じもの ( 国家 ) をわ がものとしようとすることから証明される。先に生れたと らこの対立を呼びおこすから、そして行為の結果、知らなか ったものでも自分の仕事になるのだから、自分を亡・ほす罪責か後で生れたとかいうちがいは、自然の区別であるから、人 に、落ちこんで行くことになる。だから、一方の威力とその倫的なものの中に入ってきた二人にとっては、少しも意味が ない。だが民族精神の単一なこころ乃至自己 ( 三二一一 l) として 性格が勝って、他方が負けるのでは、仕事は部分にすぎす、 完成されたことにはならない。仕事は、両方が均衡をうるま の政府は、個人態が二つであることではすまされない。そこ で進んで行き、止まることがない。両側面が共に屈服したとで政府は、一つであることが人倫的に当然なのだから、偶然 き初めて、絶対的正義が果たされたのであり、両側面をのみにも複数である自然は、そのことに対立して現われることに こむ否定的威力としての、言いかえれば、全能で公正な運命なる。だからこの二人は一つにはならない。国家権力に対す としての人倫的実体が、登場しているのである。 る二人の同等の権利は、一一人を破壊することになり、二人は 二つの威力は、その一定の内容とその個体化の上から考え共に不正を犯すことになる。だが人間のおきてからみると、 るならば、形をえて対抗像をもっことになる。この像は、そ相手が先頭に立っていて、自分には所有権のない国家共同体 の形式的な面からみるとき、人倫及び自己意識と、無意識的を攻撃する方は、犯罪を犯したことになる。これに対し、相 自然及びこれによって存在する偶然とが、対抗しているとい 手を、国家共同体から離れた個別者にすぎないものと、受け う形をとって現われる。この無意識的自然が、自己意識に対とることを心得ており、そういう無力な状態に追放する方 抗して権利を主張するのは、この場合の自己意識 ( 無意識的は、自分の側に正義をもっている。つまりこちらは、個体そ 自然 ) が、その実体と無媒介に一つになっている、真の精神のものを侵しただけであって、相手方を、つまり人間的権利

3. 世界の大思想12 ヘーゲル

156 る。ここでは、自ら自由に他者と関係するようなものは、本の動物は厚い毛皮をもっているなどというけれども、すぐわ 質的なものとしては現われないから、有機体は自らの関係自 かることだが、その知識は貧弱なものであって、有機体の多 身のなかで支えられている。 ( カントの目的論が暗示されている ) 様な姿にふさわしいものではない。有機体は、また、これら ここで理性本能が観察しようとする法則の両面は、まず、有の規定から自分の形態を引き離すことも心得ており、法則と 機的自然と非有機的自然とが互いに関係し合うことである。 呼・ほうと規則と呼ぼうと、こういうものには当然至るところ が、このことは、いま言った規定からすれば当然のことであで、例外が現われてくる。それだけではない。 これらの法則 る。非有機的自然は有機的自然に対するとき、後者の単一な の適用される動物そのものにおいては、それらの法則は極め 概念に対立した自由であり、制約のない規定態の自由であて表面的な規定にすぎないから、そういう規定の必然性を表 る。この規定態にあるとき、個体的自然は、解体されている現するにしても、表面的でしかあり得ないし、場の有機体に と同時に、この規定態の連続からは分離して、自分だけであ対する大きな影響というより以上には出ない。そのさいに る。空気、水、大地、地帯、気候などは、そういうものが生も、本来、何がこの影響に属しまた何が属さないかはわから きるための一般的な場であり、この場は諸々の個体の不定でない。だから実際には、有機体と場となるものとのそういう 単純な本質をなしており、そこでは個体は同時に自己に帰っ関係は、法則と呼ばるべきものではない。なぜならば、前に てきている。個体も場となるものも、ただそれ自体に自分で 言ったように、一方では、そういう関係は、内容の上から 在るわけではなく、観察にとっては相対して別々に現われる は、有機体の全範囲をくみ尽しているものではなく、また他方 ような自立的な自由のうちにありながらも、同時に本質的な では、関係する契機そのものにしても互いに無関心であり、 関係として互いに関係し合う。そうは言っても個体と場とは少しも必然性を表現してはいないからである。酸の概念のう 互いに自立的であり、無関心であるのが主であるため、抽象ちには塩基の概念があり、陽電気の概念のうちには陰電気の に移されるにしても、部分的であるに止まる。だからここで概念がある。厚い毛皮と北国、魚類の構造と水、鳥類の構造と は、法則は有機体の形成と一つの場の関係としてあることに空気が互いにどれほど出会い頭に一致することがあっても、 なり、有機体は場的存在を、或る場合には自分に対立させて北国の概念のうちに厚い毛皮の概念が、海の概念のうちに魚 いるが、他の場合には、有機的な反映という形で表わしてい 類の構造が、空気の概念のうちに鳥類の構造が在るわけでは る。しかし、これらの法則は、空中にいる動物は鳥類という このように、両側面が互いに自由であるため、鳥や魚の 性質をもち、水中にいる動物は魚類という性質をもち、北国本質的性格をもった陸棲動物も現に存在する。必然性といっ

4. 世界の大思想12 ヘーゲル

354 義務をその本質としているから、偶然なものではないし、制 が道徳法則に一致しているとすれば、たしかに道徳法則は、 限されたものでもない。純粋義務が唯一で全体的な目的をな 行動により、つまり存在者を廃棄することにより、損われる している。たから行動は、目的を実現するものとして、その であろう。だから最高善を認めると、道徳的行動は余計であ ほか一切の内容的制限があるにも拘らず、全体としての絶対 、全然成り立たない、というような状態が、根本的状態と 的目的を実現するのである。或は更に、現実が、自分自身の して保証されることになる。道徳性と現実を調和させるとい 法則をもち、純粋義務に対立している自然と受けとられ、し う要請、つまり、両者を一致させるという、道徳的行動の概 たがって、義務がその法則を自然のうちでは実現し得ないと念によって措定されている調和の要請は、だから、いま言っ すれば、義務そのものが本質であるのに、実際問題になってた側面からすれば、次のようにも表現される。すなわち、道 いるのは、目的全体である純粋義務の実現ではないことにな徳的行動が絶対的な目的なのだから、道徳的行動が全く存在 る。というのは、実現が目的としているのは、むしろ義務で しないということが、絶対的な目的である。 はなく、それに対立したもの、つまり、現実であろうからで これらの契機を通じて、意識はその道徳的表象のうちを進 ある。けれども、現実が問題ではないということもまた、お んできたのであるが、われわれがそれらの契機をまとめてみ きかえられる。な。せならば、道徳的行動の概念から言えば、 ると、各々が、またその反対のなかで、廃棄されることは明 純粋義務は、本質的にははたらく意識だからである。こうし かである。意識は、意識にとって、道徳性と現実が調和しな て、どうしても行動はなさるべきであり、絶対的義務は自然 いということから、出発するけれども、そのことを真剣に受 全体のなかに表現さるべきであり、道徳律は自然律となるべけとってはいない。なぜなら、意識にとっては、行動のなか きである。 にこそ、この調和が現在しているからである。ところが、行 かくてわれわれが最高善を実在として妥当させるとすれ動は個別的なものであるから、意識はまた行動を真剣に受け ば、意識は一を偲一般を全然真剣に扱わないことになる。といとってはいない。というのも、意識は極めて高い目的、最高 うのもこの最高善においては、自然は、道徳律がもっている善をもっているからである。だが、そこでは、すべての行動 のとは別の法則を、もっているわけではないからである。し もすべての道徳性も、崩れ去ってしまうから、事態はまたお きかえられるだけのことである。言いかえれば、本来意識は たがって、道徳的行動そのものが崩れ去ることになる。とい うのも、行動は、行動によって廃棄さるべき否定的なものを道徳的行動に真剣になっているのではなく、最も望ましいこ 前提してのみ、存在するものだからである。が、もし、自然と、絶対的なことは、最高善が実現され、道徳的行動が余計

5. 世界の大思想12 ヘーゲル

ても、存在するものの内的必然性として把握されうるわけで トの目的論をふまえている。 ) 有機体は何かを生み出すのではな はないから、感覚的定在をもっことを止めてしまい、現実におく、自分を維持するだけである。言いかえれば、生み出され いてはもはや観察されないで、むしろ現実の外に出てしまっ るものは、生み出されると同じように、既に現存してもいる のである。 ( 「論理学」第二巻〔ラッソン〕九九頁参照 ) ている。だから、必然性は、現に存在するものそのものにお いては見つけられないので、目的論的な関係と呼ばれること 以上のような規定は、自体的にはどうなっているか、また になり、関係させられたものにとっては外的であり、したが理性本能にとってはどうなっているか、このことがもっと詳 ってむしろ、法則の反対であるような関係となる。必然性は、 これは、理性本能がそういう規 しくのべられねばならない。 必然的な自然からは全く遊離した思想であり、この思想は必定のうちに自分を見つけながらも、自ら見つけたもののうち 然性を捨て去り、必然性を超えて自分だけで動いている。 で、自分を認識していない姿を見るためである。だから、観 これまでのべたように、有機体と有機体の生活の場となる察する理性の到達した目的概念は、この理性にとり意識され ところが 自然の関係は、有機体の本質を表現していない。 た概念であると同時に、一つの現実的なものとしても現存し この本質は目的概念のうちには含まれている。なるほど、観ており、現実的なものの外的関係であるだけでなく、その本 察する意識からすれば、目的概念は有機体自身の本質ではな質でもある。目的でさえあるような、この現実的なものは、 く、本質の外にあり、したがってただ外面的で、目的論的な 合目的的に他者と関係する。すなわち、その関係は、両方が 関係であるにすぎない。けれども、有機体は、前に規定した直接ある通りのものから言えば、偶然な関係であり、両方は 通り、実際には、現実の目的そのものである。なぜならば、 直接的には ( そのままでは ) 互いに自立的であり、無関係であ 有機体は、他者との関係のうちに自己を維持するものである る。だが両方の関係の本質は、両方が外見でそうみえるのと ため、その本性が概念に帰るような、自然的存在にほかなら はちがったものである。両方のはたらきは、感覚的知覚にと 性ないからである。また、有機体は、原因と結果、能動と受動って直接あるのとはちがった意味をもっている。必然性は、 というような、必然性においては分離された契機を一つにま起ってくるものにおいては隠されており、終りにいたって初 理 とめている。そのため、ここでは或るものは、必然性の結果めて現われる。が、それは、この終りが、最初のものでもあ として立ち現われるだけではなく、自己に帰ってきているた ったのだというふうにしてである。だが終りが自己自身で先 め、最後のものつまり結果は運動を始める最初のものでもあにあることを示すのは、はたらきの結果起る変更のために、 り、また自分にとって、自分が実現する目的でもある。 ( カン既にあったものよりほかのものが何も出てこないためであ

6. 世界の大思想12 ヘーゲル

そのものも、内容を義務たらしめる形式も、共に本質的であの意識に帰することになる。したがって、この別の意識は、 一定の義務と純粋の義務を媒介するものであり、一定の義務 る。そのためこの意識は、一般的なものと特殊的なものを、 全く一つのものとするような意識 ( イボリットによれば、カント も妥当するということの根拠なのである。 の intellectus archetypus) であり、したがってその概念は、道 だが現実の行動にあっては、意識はこの自己として、完全 徳性と幸福の調和の概念に等しいものである。なぜならば、 に個別的な意識としてふるまう。つまりそれは現実そのもの この対立も、やはり、自己自身に等しい道徳的意識と、多様に向っており、現実を目的としている。というのも、その意 な存在であるため、義務という単一な実在に対抗している現識は、実現することを意志しているからである。かくて、義 実とが、分裂していることを表現しているからである。しか務一般は、この意識の外に出て別の実在に、つまり純粋義務 し、第一の要請においては、自然は自己意識を否定するもの の意識であり、その聖なる立法者である、或る別の実在に帰 であり、存在の契機であるから、その要請も、道徳性と自然することになる。行為者は行為者であるからこそ、直接的に は、純粋義務の他者であると認められる。だから純粋義務 との存在的調和を、表現するものにほかならないとすれば、 これに対しいまこの自体は、本質的には意識として措定されは、或る別の意識の内容であり、ただ間接的に、つまり別の しま、義意識においてのみ、行為する意識にとって神聖である。 ていることになる。なぜならば、存在するものは、、 このために、絶対に神聖なものとしての義務が妥当するの 務の内容という形式をもっている、言いかえれば、一定の義 務における規定態であるからである。だからこの自体は、単は、現実的意識の外のことと決められるので、この意識は、 純な本質態として、思惟の本質態として在り、したがって或ともかく不完全な道徳的意識として、一方の側に立っことに なる。現実的意識は、その知から言って、自分の知と信念 る意識のうちに在るにすぎないような、統一である。かくて 口を、いま、この世の主であり支配者であり、道徳性が、不完全で偶然であると認めるが、同じように、自分の意 神と幸福の調和を生み出すと同時に、多くの義務としての義務欲から言っても、自分の目的が感性に刺戟されていると認め る。だから現実的意識は、自分が幸福にふさわしくないとい を神聖なものとする。いま言ったことは、純粋義務の意識に 精 うので、幸福が必然的なものでなく、偶然なものであると見 とっては、一定の義務が、そのままでは、神聖ではあり得な いというのと同じである。けれども、一定の義務は、一定のて、幸福を恩寵に期待しうるだけである。 しかしながら、意識の現実が不完全だからといっても、そ ものである現実の行動であるのだから、やはり必然的であ る。そのためその必然性は、純粋義務の意識の外に出て、別の純粋意志と知にとっては、義務は本質と認められている。

7. 世界の大思想12 ヘーゲル

体を純粋概念に高めることによって、精神のものである純粋ている形で、暗示しているだけである。だが、神の本質は、 形式をうるわけである。それは、死者を住まわせたり、外の自然の一般的定在と、現実的にはそれに対抗しているように 魂に照らされたりするような、悟性的結品 C ヒラミッド、オペ見える自己意識的精神との統一である。だが同時に、一つの リスク ) でもなければ、自然や思想の形式を、植物との関係個別的な形態でもあるところから言えば、さしあたっては、 から初めて出てきた形で、混合させることでもない。 この思神の定在は自然のいくつかの場の一つであり、その自己意識 想のはたらきは、この場合にはまだ模倣にすぎない。そうで的現実も個別的な一民族の精神である。しかしその定在は、 はなく、概念は根や枝や葉から、その形式にまだ付いていた この統一のなかでは、精神に帰ってきた場であり、思想によ ものをはぎとり、それを形象に純化する。その場合に結品の って光明を与えられ、自己意識的生命と一つになった自然で 直線的なものや平面は、通約できない関係に高められてい ある。だから神々の形態は、その自然の場を、廃棄された形 る。その結果、有機的なものに魂を与えるはたらきは、悟性で、漠とした思い出の形で残していることになる。 ( 「法哲学」 の抽象的な形式にとり入れられると同時に、その本質、つま 三五六節 ) 無頼の人間や、境位の自由な生存のため入り乱れ り通約不可能性は悟性に対し維持されることになる。 ( 円柱形てする戦や、テイタネスたちの非人倫的な国などは征服され 式の場合 ) て、はっきりしてきた現実の辺境に、精神のなかにいて安ら だが、内に住まう神は、黒い石であるが、これは、動物を っている世界の暗いはてに放逐されている。古き神々は、初 彫刻した神の容器から取り出されたもので、いま意識の光に め、闇をはらむ光が特殊化して生れたものであるが、その神 貫かれるようになったわけである。人間的な形態は、動物的神や天や地や大洋や太陽や、盲目で台風のような地上の火な なものを混じえていたのだが、いまそれを脱ぎすてる。神か と。いくつかの形態にとって代られているが、これら神々 らみれば、動物からただ偶然その装いを借りただけのことで の形態は、テイタネス達の響きをかろうじて残してはいるも ある。つまり動物は神の真の姿と並んでいるけれども、もは のの、漠とした名残りの程度にすぎないから、もはや自然物 や自分だけでは価値のないものとなり、他者を表わす意味、た のようなものではなくなっており、自己意識的な民族のはっ だのしるしになり下っている。 ( ゼウスと鷲など ) まさにこのた きりとした人倫的精神になっている。 めに、神の姿も自分で、動物的定在が自然的条件のためにも かくて神々のこの単純な形態は、無限に個別化して行く不 っている貧しさを脱ぎ捨てて、有機的生命の内面に備えられ安定な状態を、自体的には抹殺し、安定した個人態の中に集 たものを、その表面に溶けこませはするが、ただ表面につい 約している。つまり、一般的なものとしては必然的であるけ

8. 世界の大思想12 ヘーゲル

そこで観察する理性のこの最後の段階は、最も悪い段階であ的のうちには、有機的過程の自由の自立 ( 覚 ) 存在が現われ るが、だからこそ、その転回も必然的なのである。 ており、その過程とは別のものとして、その過程の外にあっ て、自己自身を意識している知恵 ( 一九六「別の悟性しとし て、現存している。こうして観察的理性は向きをかえて、こ なぜならば、観察の内容及び対象となっており、これまで 考えられた、いくつかの関係を概観するとき、その最初の仕の知恵となり、精神となり、一般性として現存する概念とな る、つまり、目的として現存する目的となる。そして理性自 方においては、つまり、非有機的自然の関係を観察するとき 身の本質が、理性のこれから後の対象となる。 には、既に感覚的存在が、その観察から消えていることが、 まず、観察する理性は精神の純粋な姿に向う。けれどもこ わかるからである。この場合の関係のいくつかの契機は、純 粋の抽象としてまた単純な概念として、現われるが、これらの理性は、精神の区別のうちで動く対象を存在するものとし て把握するから、その思惟法則は、持続するものと持続するも は、物の定在にしつかりと結びつけられているはずであるの のとの関係となる。といっても、この法則の内容は、契機に この定在は消えてしまう。そのため契機は、純粋運動で あり、また一般者であることがわかる。この自由で自己完結すぎないから、それらの契機も、自己意識という一のなかに 的な過程は、対象的なものという意味を保ってはいるが、い 流れこんでしまう。この新しい対象は、また存在するものと まの場合は、一として現われる。非有機的なものの過程にお受けとられるならば、個別的な偶然な自己意識である。それ いては、一は現存しない内面であるが、一として現存するとゆえ、観察は、思いこまれた精神の範囲内や、意識的な現実 き、その過程は有機的なものである。一は、自立 ( 対自 ) 存在と無意識的な現実の、偶然な関係の範囲内に、、 しるわけであ または否定的なものであるときは、一般者に対立しており、 る。精神は、自体自身では、こういう関係の必然であるに止 この一般者をのがれて、自分だけで ( 対自的に ) 自由を保つ。 まる。それゆえ観察は、精神に肉迫して、精神が欲し行う現 そのため、絶対的個別化という場 ( 地 ) においてのみ、実現実を、精神が自己に帰り省察をめぐらすその現実と、比較す される概念は、有機的現存のうちでは、一般者としてそこに る。が、この現実 ( 人相 ) はそれ自身対象的である。この外な 在るという、自らの真の表現を見つけるものではなく、有機るものは、個人が自己自身にもっている自分の言葉ではある 的自然の外なるもの、もしくは同じことであるが、内なるも が、同時にしるしであるから、個人がしるすはずの内容に対 のに止まっている。有機的過程は、自体的に自由であるだけしては、無関係のものである。それと同じように、しるしを であるが自分自身で、 ( 自覚的に ) 自由であるのではない。 自らつけられるものも、このしるしに対し無関係である。

9. 世界の大思想12 ヘーゲル

る。前には、家の神々が民族精神のなかで亡びたが、いま ある。とはいえ、この原理は、一般的な目的から離れてしま は、生きている民族精神がその個人を通して、一般的な国家 えば、ただの悪にすぎないし、自身においては空しいもので あるから、もし国家共同体自身が若者の力を、未熟でまだ個共同体 ( ギリシアに次いで来るマケドニヤ、ローマなど ) のなかで 別態の内にいる男性を、全体の力と認めないならば、何事を亡びる。が、その単純な一般性は、精神のない死んだもので もなし得ないであろう。なぜならば、国家共同体はひとつのあり、その生命は、個別者であるような個々の個人である。 民族であり、個人態ですらあり、本質的には自分で ( 対自的精神の人倫的形態は消え去っており、これに代って別の形態 に ) 存在するが、このことは、他の諸々の個人態がそれに対 ( 「法状態ーなおこの中間に喜劇がある。「宗教」参照 ) が現われてく るのである。 しており、これらの個人態を自分の外に排除し、それらから 独立であると知る形でのみ、そうだからである。国家共同体 だから、このように人倫的実体が亡びて、別の形態に移っ は、内に向っては、諸々の個人が個別化するのを抑えるが、 て行くのは、人倫的意識が、本来そのまま、おきてに向うよう 外に向っては自ら活動する。この共同体の否定的な側面は、 に、決められていたからである。直接態がそのように定まっ 個人態においてその武器をもっことである。戦争は、人倫的ているために、人倫の行為にはもともと自然が入りこんでい 実体の本質的契機を、人倫的自己存在の全定在からの自由る。人倫が現に在ることは、矛盾と破減の芽を顕わしている を、現実に存在させ保証する精神であり、形式である。戦争ものにほかならない。人倫的精神の美しい調和や安定した均 は、一面では私有財産や個人的自立の個別的体系にも、また衡が、この破減を宿していたのは、ほかならぬこの安定と美 個々の人格そのものにも、否定的なものの力を感じさせると ( ギリシア的人倫は同時に芸術宗教なのである ) そのものにおい 共に、他面では、戦争においては否定的なものこそは、全体てのことなのである。というのも、その直接態は矛盾した意 を支えるものとして顕われてくる。つまり、女性が快感を抱味を宿しており、自然の無意識的安定であると共に、精神の 神くような勇敢な若者は、抑圧された破滅の原理は、白日のも 自意識的で不安定な安定であるからである。こういう自然性 とに現われ、価値あるものとなる。そこで、人倫的なものの のゆえに、一般に、この人倫的民族は、自然によって規定さ 定在とその精神的必然を、決定するのは、自然的な力であれ、そのため制限された個別性であり ( ギリシアが諸々の都市 り、偶然な幸運として現われるものである。強さとか幸運と 国家に分裂していたことをさす ) 、したがって別の個別性に廃 7 かに基づいているのが、人倫的なものの定在であるから、そ棄されて行くのである。この規定態は、定在のうちに立てら れが没落したのも、前もって既に決まっていたことなのであれるとき、制限ではあるが、また否定的なもの一般であり、

10. 世界の大思想12 ヘーゲル

は、この仕事を暴力的な大地という場のなかで、追いまわし 個別として、媒介に適合するのである。この推理は、もとも ているにすぎない。その仕事は、その場の無拘東な暴力によ 貰と形態化という側面のものであるから、非有機的自然として って、至るところで中断され、隙間だらけのものとされ、損 区別されるものをも、やはり、包括しているのである。 ( この われてしまう。 ( 大地の暴力というものをかりて、シェリング的自然 推理にこれまでの一応の結論がつけられている。 ) 哲学の帰結を語っている。 ) さて、類という単純な実在である一般的生命は、自らの側 いまのべたことから結論されることであるが、形態をえた から概念の区別を展開させ、この区別を、単純な規定態の系 列として、表わさねばならないので、この系列は、無関係な定在において、観察が認めるのは、生命一般としての理性た ままに措定された諸々の区別の一体系であり、数系列であけである。けれども、この生命一般 ( 理性 ) は、区別作用をす るとき、自分自身では、理性的系列や区分やを全然もってい る。前に個別という形式をもった有機体は、この本質のない ないし、自らのうちに根拠をもった、形態化の体系ではな 区別、つまり自らの生きた自然を表現していないし、含んで 。有機的形態化の推理が行われるときの媒語は、種とその もいない区別に対置された。また非有機体についても、その 諸々の性質群のなかで展開された定在全体から言って、やは現実とを個別的個別態として含んでいる。この媒語は、その もの自身において、内面的一般と一般的個別態という両極 しまこ り同じことが言われねばならない。そうだとすれば、、 こに類の各分岐から自由であるだけでなく、類の威力であるを、もっているとするならば、自らの現実が動くとき、一般 という表現と一般という本性とをもっことになり、自己自身 とも当然考えられてよいのは、一般的個体だということにな る。類は、数という一般的規定態によって種に分れ、或はまを体系化する展開であることになろう。そこで意識は、一般 たその定在の個々の規定態、たとえば姿、色などを、その分的精神と個別すなわち感覚的意識との間に、意識の形態化と いう体系を媒語としてもっことになる。この体系は、精神が 類原理とすることもできよう。だが、類は、分けるという 静止的な仕事をしているとき、一般的個体すなわち大地 ( 一一自らに秩序を与えて全体とする生命であり、これこそこの書 一八 ) の側から、暴力を受ける。この一般的個体は、一般的で考察される体系であり、世界史という形で自らの対象的定 否定性であるため、大地が自体的にもっている区別と、その在をもっている体系である。だが、有機的自然は全く歴史を 区別の帰属する基体の故に、類の本性とはちがったものであもっていない。 ( 歴史をもつのは精神のみ ) 有機的自然は、その る区別の本性とを、類の体系化に対抗させることになる。類一般つまり生命から、そのまますぐに定在という個別に落ち のこのはたらきは、全く制限された仕事となってしまう。類こんでしまう。この定在という現実のなかでは、単純な規定