る。そこで、存在すなわち単一な自体は、一定の範囲をとる 一であるということであり、行為が現実的である、というこ ことになる。だから個人は、本源的でありながらも、一定の と、このことは、行為の形式が、現に存在する統一である、 ということである。行為自身が内容であるのは、自らが移行本性として立ち現われる。本源的本性だというのは、自体的 し運動するという規定に対立して、単一という規定をとる場であるからであり、本源的に一定であるというのは、否定的 なものがそれに即しているからであり、そのため否定的なも 合だけである。 のが、或る性質となっているからである。にも拘らず、この 我精神的な動物の国とだまし、または「ことそのもの ように存在を制限しても、意識の行為を制限することはでき ない。なぜなら、この場合意識の行為は、全く、自己の自己 それ自体で実在的なこの個人性も、さしあたっては、やは 自身に対する関係だからである。他者に対する関係つまり、 り個別的であり、規定されている。それゆえ、個人が、自ら 行為を制限するものは、廃棄されてしまっている。だから、 そうと知っている絶対的実在性は、個人にそう意識されてい る程度では、抽象的で一般的である。つまりそれは、充たさ本性が本源的に規定されていることは、単純な原理である、 ここでは個人 つまり、透明な一般的な場であるにすぎない。 れていないし、内容をもっていない、そういう範疇について は自由であり、自己自身と等しいままであると共に、妨けら の、空しい思想であるに止まる。そこで考えてみなければな らないのは、それ自体に自分で実在的な個人というこの概念れもしないで自らの区別を展開させ、自己を実現しながら、 自己と純粋に交互作用をしているのである。ちょうど、不定 が、その諸々の契機のうちで、どのように規定されるか、ま の動物生命は、いわば水、空気もしくは地というような場 た個人の自己自身についての概念が、どういうふうに個人に に、またこれらのうちで、更に一層規定されたいくつかの原 宀思識されるようになるか、ということである。 理に、自らの息吹をふきこみ、自らの契機のすべてを、それ らの場にひたすにしても、それらの契機を、場のそういう制 性個人性が、そのままで自己自身にとって、全実在であると いう、この個人の概念とても、差し当っては結果である。個限があるにも拘らず、自分で支配し、自ら一つのままでお 理 り、この特殊な有機組織として、同一の一般的な動物生命そ 人は、その運動と実在をまだ現わしていないし、ここでは、 のままを続けている、のと同じである。 単純な自体存在として、媒介を経ないままで措定されてい 意識は、このように規定された本源的な自然 ( 本性 ) にいな る。だが、否定性は、運動という形で現われるものと同一のも のであって、規定態としての単一の自体に、即したものであがら、いつまでも自由であり、全くそのままでいるのである 286
廃棄された自分だけでの有としては措定されていない。法則 差しあたっては、自体的に一般的なものであるにすぎない。 だが、自体的に単純なこの一般者は、本質的にはまた絶対のこの欠陥は法則自身において、やはり、現われざるを得な 、 0 法則の欠陥と思われるものは、区別そのものを自らにも に、一般的な区別でもある。な。せならば、その一般者は交替 っているのに、その区別が一般的であり、不定であることであ 自身の結果であるからである、言いかえると、交替がその一 る。だが、法則は、法則というもの一般ミ Gesetz 享。「 haupt) 般者の本質であるからである。だがこのため、内面に措定さ 一つの法則である限り、自ら規定態をもってい れ、真にある通りの交替は、同じように絶対に一般的で、静ではなく、 止的で、自己に等しいままの区別として、内面に、取り入れる。そこで不定な形で多くの法則が現に在ることになる。し かしこの多数態はむしろ欠陥でさえある。多数態は、単一な られてしまうようなものである。或は、否定は一般的なもの の本質的な契機である。だから、否定もしくは媒介は、一般内面の意識として、それ自体で一般的な統一を真理とする悟 者においては、一般的な区別である。この区別は、常ならぬ性の原理に、矛盾する。それゆえ、悟性は、多くの法則をむ しろ一つの法則に集約させねばならない。たとえば、石が落 現象の常なる像としての法則において、表現されている。だ から、超感覚的世界は諸々の法則の静かな国である。知覚さ下するときの法則と天体が運動するときの法則とが、一つの れた世界は、絶えず変化することによ「てのみ、法則を表わ法則として理解されたようにしなければならない。だがこの しているのだから、この法則の国は、知覚された世界の彼岸ように互いが一つになると、諸々の法則はその規定態を失「 ではあるけれども、しかしまた知覚された世界のうちに現在てしまう。そのとき法則そのものは次第に表面的なものにな って行き、その結果、実際には、これら諸々の一定の法則の しており、この世界の直接的な、静かな映像である。 法則の国は悟性の真理であり、この真理は、法則のうちに統一が在るのではなく、それぞれの規定態を失「た一つの法 則が在ることになる。このことは、地上の物体が落下すると ある区別において、内容をもっているのではあるが、同時に きの法則と、天体が運動するときの法則とを、自らのなかに それは悟性の最初の真理にすぎないし、現象を尽してはいな 、。法則は、現象のうちに現在しているけれども、現象を完統一している一つの法則が、それら二つの法則を実際には表 意全に現在させているわけではない。法則は、状態が変るにつ現していないのと、同じである。すべての法則を一般的引力 ( 万有引力 ) のなかで統一することは、法則のなかに存在的な れて、いつもちがった現実をもつ。そのため、自分だけでの ものとして措定されていゑ法則自体のただの概念以上に 現象には、内面のうちにはないような側面が残っている。一言 は、いかなる内容をも表現していない。万有引力が言ってい いかえると、現象は、ほんとうのところ、まだ現象としては、
おり、関係が、互いに対応する一一重の規定態として、両側面が、法則の思想としては思い浮べなかったからである。した がって、この場合、内容に関していうならば、ただ存在する に割当てられているという、正にこのことが在る。有機体の 各側面は、むしろそれ自身においては、すべての規定を解消だけの区別を、一般性という形式のなかに静かに受け容れる させている、単一な一般であり、またそのように解消させる にすぎないような法則が、維持されてはならない。そうでは なく、このような区別にありながら、そのままでまた概念の 運動でもあるということである。 この法則定立と前にのべたいくつかの形式との区別を見ぬ不安定を、したがって同時に、両面の関係の必然性をももっ くならば、この法則の性質は全く明かになる。つまり、われているような法則が、維持さるべきである。とは言え、ほか でもなく、対象、有機的な統一が存在の限りない廃棄、つま われが知覚の動きと、この知覚において自己に帰る ( 反照す り絶対的否定と安定した存在とを統一させるから、そして諸 る ) 悟性の、つまりそうすることによって自らの対象を規定 する悟性の、動きをふりかえってみるならば、悟性は、その諸の契機は本質的には純粋の移行であるから、法則に対して とき、自らの対象において、これら抽象的な規定の関係、つ 普通求められているような、固定的に存在する側面は全く出 てこないのである。 まり一般と個別の関係、本質的なものと外面的なものの関係 を自分の前にもっているのではなく、悟性自身が移行なので いま言ったような形で両側面を維持するためには、有機的 つまり、有機 ある。が、この移行は悟性の対象となってはいないのであ関係のそれとは別の契機に頼らねばならない。 る。ところがここでは、有機的な統一すなわち例の対立の関的定在が自己自身に反照して ( 帰。て ) いること ( 存在 ) に頼ら 係こそ、それ自身対象となっており、この関係は純粋の移行ねばならない。しかしこの存在は完全に自己に帰ってきてい である。この移行はその単純な姿においてはそのまま一般性るから、他者に対する規定態を全く残していない。直接的な である。この一般性が区別され、その区別されたものの関係感覚的な存在はそのままで規定態そのものと一つであり、し 性が、法則を表現することになっているから、その法則の契機たがって自分で一つの質的な区別を表現している。たとえ はこの意識の一般的対象としてあることになる。そこで法則 ば、赤に対する青、アルカリに対する酸のようなものであ 理 は、外なるものが内なるものの表現であると語るのである。 る。しかし自己に反照した有機的な存在は、他の存在に対し ここに至って悟性は法則そのものの思想をつかんだのであ全く無関係であり、その定在は単純な一般性であり、持続的 る。というのは、吾性は以前にはただとにかく法則を求め、 感覚的な区別を観察に対しこばむ。同じことであるが、その 法則の契機を、自ら一定の内容として思い浮べたのである存在は、その本質的な規定態を、存在する規定態の交替とし
で、互いに浸透し合っているが、しかも互いに触れ合うことも 一定の無であり、或る内容のつまりこのものの無 ( 六八 ) で ない。というのは、この普遍性に関与しているという正にそ ある。そのため、感覚的なものは自らなお現存しているが、 直接的 ( 無媒介 ) な確信のうちにあったような形で、思いこまのことのために、それらの規定態は互いに対し無関心である からである。この抽象的で一般的な媒体は、物態一般また純 れた個別として在るのではなく、一般的なものとして、言いか えれば、性質として規定されるようなものとして在る。廃棄粋実在 ( 本質 ) と呼んでもよく、既に明かになったように、 こといまにほかならない、つまり多くの性質の単一な複合に のはたらきは、その真の一一重の意味を表わしており、この意 ほかならない。だがこの多くの性質は、それらの規定そのもの 味はわれわれが否定的なものにおいて既に見たものである。 それは否定することであると同時に、保存することである。 においては、単一な普遍である。この塩は単一なここである このものの無としての無は、直接態を保存しており、感覚的と同時に多様である。それは白いと共に、辛くもあり、結品体 でさえある。が、それは一般的な直接態である。ところで有でもあり、一定の重さをもってもいる等々である。これら多 くの性質はみな一つの単一なここのなかに在り、したがって は、媒介もしくは否定的なものを自分にもっているから、一 般的なものである。有は、このことをその直接態において表互いに浸透し合っている。どの性質もほかの性質とは別のこ こをもっているわけではなく、どれもが媒体のどこにもあり、 現しているから、区別された、規定された性質である。そこ ほかの性質が有ると同じここに有る。それと同時に、それら で同時に、一方が他方の否定であるような、そういう多くの 性質が措定されているのである。それらの性質は、一般的な の性質は、異なったここによって分たれていないのに、互いに ものという単純態のなかに表現されているから、これらの規浸透しながらも互いに刺戟し合うことがない。白は立法体を 定態は、本来は、更につけ加わってくる規定によって初めて刺戟したり、変えたりはしないし、両者は辛さなどを刺戟した 性質となるはずなのに、自己自身に関係し、互いに無関心であり、変えたりすることもない。各々はそれ自身単一な自己関 り、各々が自分だけであり、他の規定から自由である。自己係であるから、ほかの性質を静かにしておき、無関心なもまた によって、ほかの性質に関係するだけである。だから、この 自身に等しい、単一な普遍性それ自身は、しかし、自分のも引 意っこれらの規定態とは区別されており、それらから自由であもまた ( 「論理学』二の一一七、一一九等 ) は純粋の普遍そのもの、 < る。この普遍性は純粋の自己関係または媒体である。この媒つまり、媒体であり、多くの性質を包括する物態である。 体のなかには、いま言った規定態のすべてが存在しており、 これまでのべたところから出てくる関係のなかでは、やっ したがってそれらの規定態は、単一な統一である媒体のなか と肯定的普遍という性格が観察され、展開されただけであ
奉仕の関係において、また抽象的思惟そのものにとって、規真理をも消えさせてしまう。このように自ら意識した否定に よって、自己意識は自己の自由の確信を自分自身で創り出 定的なものと見られたものが実在でないとも指摘している。 支配と奉仕の関係は、人倫的な法則をもまた主の命令としてし、その経験を生み出し、こうしてそれを真理に高める。消 えるものは、一定のものである。言いかえれば、どういう仕 現存させているような、一定の仕方を同時に含んでいる。だ が、抽象的思惟における諸々の規定は、学の諸々の概念であ方で、どこから来ようとも、固定した、変化しないものとし る。内容のない思惟は、この概念のなかへとひろがってゆて掲げられる区別である。この区別は自らにおいて全く永続 き、概念の内容となってはいるが、概念からは独立な存在するものを持たないし、思惟にとっては消えざるをえない。 に、実際には外的であるにすぎないやり方で、その概念を結というのも、この区別されたものは、まさにそれ自身におい て存在するようなものではなく、その真理をただ他者のうち びつけている。そこでこの思惟は、一定の概念だけを、よし それがまた純粋の抽象であるとしても、妥当するものとして に持っているようなものだからである。だが思惟は区別され たもののこの本性を見抜くものであり、単純なものとしての いる。 ( 全集十八巻、五三八以下 ) 弁証法的なものは、そのまま在る通りの否定的な運動とし否定的なものである。 ては、初めのうち意識からみるとき、自分を物笑いの種にす だから、懐疑論の自己意識は、自分に対して固定しようと るもののように、意識そのものによって在るのではないものする一切のものの動揺に出会うとき、自己自身の自由が、自 のように思われる。これとちがい、懐疑論としては、この否分自身で手に入れたものであり、支えているものであること 定的連動は自己意識の契機である。自己意識にとっては、なを経験する。その自己意識は、自分にとっては、自己自身を ぜかを知らない間に、自らの真と実在が消えてしまうのは、 思惟する心の平静 (Ataraxie) であり、自己自身に対する不変 突然起ってくることではなく、自己意識が自らの自由を確信な真の確信なのである。この確信は、自らの多様な展開を自 らのなかに崩壊させている外のものから、自らの生成を自分 して、実在であると称するこの他者自身を消えさせてしまう 意 己のである。ただ対象的なものそのものだけでなく、対象的な の背後にもっている結果として、出てくるものではない。か 自 ものを対象的なものと認め、妥当させる自分自身の、対象に えって意識自身は、感覚的表象と思惟された表象の混合とし 対する態度をも消えさせてしまう。したがって自らの知覚をて、絶対的な弁証法的な不安定なのである。だがこれらの表 も、また失われようとする危険にあるものを、自ら固定させ象の区別は崩れ去り、その相等性もやはりまた解体してしま ることをも、更に詭弁をも、自ら規定され固定された自らのう。というのは、この相等性は不等なものに対する規定態で
が、この本性は、個体が目的とするものの、直接的でまた唯や、直接自分のものと意識している目的である場合の、対象 ではなく、行為者の外に出て一つの他者として、行為者に対 一本来の内容として現われる。この内容は、一定の内容では あるけれども、もとはと言えば、われわれが、自体存在を遊している場合の対象である。ところが、これらいろいろな側 離させて考える限りでのみ、内容であるにすぎない。だがほ面は、その分野の概念からみて、次のように定められねばな らない。すなわち、それらの区別をとりながらも、内容はい んとうは、この内容は、個体性によって浸透された実在性で つまでも同じであり、区別は入りこんでこないということで ある、つまり、個別的である意識が、自分自身にもっている 限りの現実、初めのうちは措定されているにしても、存在すある。個人性と存在一般の区別も、目的と本源的本性として の個人性もしくは眼前の現実との区別も、また手段と絶対的 るものとしてであって、まだ行為するものとしてではない限 りの、現実である。しかし行為からみると、そういう限定な目的としての現実との区別も、実現された現実と、目的ま たは本源的自然、または手段との区別も、入りこんでこない は、一方では、存在する性質と考えられるため、行為の動く ということである。 場という単純な色であるから、行為が乗り超えようとするか それゆえます第一に、個人性が本源的に規定された本性、 もしれない制限ではない。、、、 カ他方では、否定態が規定態であ るのは、存在 ( 固定 ) においてのことにすぎない、が、行為はその直接的な本質は、まだ行為するものとして、立てられて はいない、そこで特殊な能力、才能、性格などと呼ばれるの それ自身否定態にほかならない。だから行為する個人にあっ である。精神に特有なこの色合いは、目的そのものの唯一の ては、規定態は否定態一般のうちに解体している、言いかえ れば、全規定態の総体のうちに解体している。 内容と考えられ、全くこれだけが実在と考えらるべきだ、と よ、この内容を超えてその外に さて単純な本源的本性は、行為や行為の意識となるとき、 いうことになる。もし、意識。 出て、それとは別の或る内容を実現しようとしているのだ、 行為につきものの区別となって行く。まず初めに、行為は : 対象として、しかもまだ意識についている対象として、つま と考えるならば、無が無の中に働きかけていると、考えるこ とになるであろう。更に本源的本質は、目的の内容であるば り目的として現存しており、したがって眼前の現実と対立し ている。その次の契機は、静止するものと表象された目的かりか、それ自体で現実でもある。普通ならば、この現実 は、行為に与えられた素材と、眠前に見つけられた現実、行為 が、動くことである、全く形式的な現実に、目的を関係させ において形成さるべき現実と思われている。つまり行為は、 ることとしての実現である。したがって、移行という表象っ まり手段である。最後に、第三の契機は、行為者が、もは まだ現われていない存在という形式から、現われた存在とい
ているものは、まず、自体的には、個人の本源的本性である意識は、仕事がそのように規定されているのに比べると、一 ところの、見つけられた環境であり ( 二二五 ) 、次には、本性般者であり、したがって、仕事を他のものと比較することが が自分のものまたは目的として、立てる関心であり、最後に でき、この点から個人性そのものを、いろいろ異なったもの は、手段のうちで、この対立を結びまた廃棄することであとしてつかむことができる。つまり、自らの仕事において更 る。この結合とても、それ自身、やはり意識の内で生ずるも に強力な個人を、意志のより強い力として、あるいは、より豊 のであり、たったいま考察した全体にしても、対立の一方の かな本性として、すなわち、その本源的規定態がより制限さ 側面である。このように、対立がまだ残っているように見えれていないようなものとして、つかむことができる。これと ちがい、別の本性の個人は、より弱い、より貧しい本性をも るが、これも、移行そのものによって、つまり手段によっ て、廃棄される。というのは、この手段は、外と内の統一で ったものとして、つかむことができる。 あるからであり、手段が、内なる手段である場合に、もって 大いさをこのように非本質的に区別するのに対して、善と いた規定態とは、反対であるからである。だから手段は、こ悪は絶対的な区別を表わすものかもしれない。だが、この場 の規定態を廃棄し、自分をつまり行為と存在の統一を、また合にも、この区別は成り立たない。善いと受けとられ、また悪 外的なものとして、現実となった個人性そのものとして措定 いと受けとられるものも、同じように個人の営みであり、自 する。すなわちこの個人性は、存在するものとして、自分自己表現であり、自己顕現である。だから、すべては善いことに 身に対して措定されているのである。こういうふうにして、 なる。何が悪であるのかは、本来言われない。悪い ( 劣った ) 行為全体は、状態としても、目的としても、手段としても、 仕事と呼ばれるものは、その仕事のうちに実現される、一定 また仕事としても、自分の外に歩み出ることはない。 の本性をもった個的生命のことである。それが悪い仕事にな り下ってしまうのは、比較を行う思想のためにほかならない だが、仕事と一緒に、本源的本性の区別が出てくるように 思われる。仕事は、仕事の表わす本源的本性と同じように、規であろうが、この思想は、個人性が自己を顕わそうとする仕 定されたものである。なぜならば、仕事は、行為から解放さ事の本質を超えており、そのうえ、何だかはわからないもの れて、存在する現実となったものであるため、質としての否定を、そこに探し求めているのだから、空しいものである。こ 態を自分でもっているからである。だが意識は、否定態一般の思想は、前に引用した区別にしか関わりえないであろうけ としての、行為としての規定態を、自分にもっているようなれども、この区別は、大いさの区別として、本来本質的なも ものであるから、仕事に対立したものと規定される。だからのではないし、この場合極め手となるのは、互いに比較され
ただ存在するだけの内容、という規定をもっている。この内知の本性を存在という形に顯倒してしまう、すなわち、知の ここでは、いわゆ 容は、諸々の関係の静止的存在となり、ばらばらないくつか否定性を知の法則としてしかっかまない。 る思惟法則が妥当しないことを、事柄の一般的本性から示し の必然性の集りとなる。この必然性は、固定した内容として、 ただけで充分である。これ以上詳しい展開は思弁哲学 ( 論理 絶対的に、その規定態においてありながら、真理をもっと言 われる、そこで実際には、それは形式から離れているのであ学 ) の仕事である。思弁哲学においては、それらの法則は、 る。だが、固定したいくつかの規定態、または多くのちがっ真にある通りのものとして、つまり消えて行く個々の契機と た法則が、このように絶対的真理であるというのは、自己意して示される。これらの契機の真理となるものは、思惟する 識あるいは思惟と形式一般との統一に矛盾する。自体的であ運動の全体、知そのものだけである。 思惟のこのような否定的統一は、自分自身だけで存在する、 るままの固定した法則と言われるものは、自己に帰って行く 統一の契機でしかありえないし、消えて行く大いさ ( 量 ) と或はむしろこの統一は、自分自身だけでの有 ( 自立〔自独〕存 してしか現われえない ( 一五五 ) 。観察のために、このよう在 ) であり、個体性の原理であり、その実現された姿から言 な、運動の連関からひきさかれ、個々別々にかかげられる場えば、行為的意識である。だから、それらの法則の現実態で 合に、それらの法則に欠けているのは内容ではない、なぜなあるこの意識へと、観察する意識が連れて行かれるのは、事 ら、それらは一定の内容をもっているからである。むしろそ柄の本性によってなのである。だが、いまのべた連関は、観 れらに欠けているのは、それらの本質となる形式である。実察する意識が認めたものではないから、観察する意識からみ ると、思惟は、その法則のうちにいるとき、一方の側に止ま 際には、それらの法則がただ形式的であって、何ら内容をも ったままであり、他面では、意識にとって新たに対象となる たないからではなく、むしろ、規定されていながらも、言い ものにおいて、法則とは別の存在、つまり、行為的意識をも かえれば、形式をうばわれた内容としてこそ、何か絶対的な ものと見られているという、反対の理由で、これらの法則は っというふうに、思いこまれることになる。行為的意識とい 性 思惟の真理ではないのである。その真実の姿から言えば、そうものは、他在を廃棄し、自分自身を否定的なものと直観す 理れらは、思惟の統一のなかで消えて行く契機であるから、知ることのうちに、自らの現実をもっという形で、自立して もしくは思惟する運動と、考えられねばならないのである ( 自分に対して ) いるものである。 こうして観察にとっては、意識の行為的現実において新し 四が、知の法則と考えられてはならないのである。だが、観察 い分野が開かれる。心理学は法則群を含んでいる。これによ は知そのものではないし、知を知ってもいない、かえって、
174 言いかえれば、形態を本質として規定されたものとする、一 係は、観察に現われてくるはすの形態においては、すぐその つの規定態であるにすぎない。だが類の自由は、一般的な自 まま、非有機体の領域に移されたのである。この関係をこの 由であり、このような形態に対し、つまり類の現実に対し無 領域に引きいれる規定は、いまここでもっと詳しく示されう るし、そこからこの事態の、もっと別の形式や関係も示され関係である。非有機体の自立存在そのものに帰属する規定態 は、それゆえ、有機体においては、その ( 有機体の ) 自立存在 る。つまり、非有機体の場合に、内なるものと外なるものと の、いま言った比較の可能性を、示すと思われるものが、有機のもとに従属する。それは、規定態が、非有機体において 体の場合には、まったくなくなっている。非有機的な内なる は、その存在のもとに従属するにすぎないのと同じである。 ものは単純な内なるものであり、これは存在する性質として だから、規定態は、非有機体にあっては、同時に性質として 知覚に対し現われる。したがってその規定態は本質的には大在るにすぎないとしても、この規定態には、なお本質の威厳 いさである。それは存在する性質として外なるものに対し、 が帰せられている。というのも規定態は、単純に否定的なも つまりそれ以外の多くの感覚的性質に対し無関係である。だ のとして、対他存在としての定在に対立しているからであ る。そしてこの単純な否定的なものは、その究極の個別的な : 、有機的生命体の自立存在は、自らの外なるものに対し、 規定態においては数である。だが有機体が個別性であるの 側面に立つのではなく、他在の原理を自分自身にもって る。われわれが、自立存在を、自己自身に対し、自己を維持は、それ自身純粋の否定性であり、したがってどうでもよい しながら、単純に関係することと規定するならば、その他在存在に帰属する数という、固定した規定態を、自らのなかで は単純な否定性である。そして有機的統一とは、自己相等的消し去るからである。だから、有機体が、どうでもよい存在 自己関係と純粋否定性との統一である。この統一は、統一と という契機をもっており、その点で数という契機を自分にも しては有機体の内なるものである。そのためこの有機体は、 っている限り、数は、有機体におけるたわむれであるだけ それ自体で一般的である、つまり類である。しかし類のその で、有機体の生命ある姿の本質とは受けとれない。 現実に対する自由は、形態に対する比重の自由とはちがった ところが純粋の否定性、つまり過程の原理が既に有機体の ものである。比重の自由は存在する自由である、言いかえれ外に生ずるのではなく、したがって有機体が、否定性を一つ ば、それは特殊な性質として、一方の側面に現われるという の規定態として、自らの本質のうちにもつのでもなく ( 規定 ことである。けれども、それは存在する自由であるから、こ態〔否定性〕が固定した定在であるような非有機体の場合のように ) 、 個別性そのものが、自体的には一般的であるとしても、しか の形態に本質的に帰属する一つの規定態であるにすぎない、
える魔力である。この魔力は、前に主観と呼ばれたものと同し、一般的なものに精気を与える点に在るのである。だが固 じものである。この主観は、自らの場において規定性に定在定した思想を流動させるのは、感覚的定在を流動させるより ずっとむずかしいことである。その理由は前に示してある。 を与える点で、抽象的な、すなわち、とにかく存在するとい 前にのべた諸々の思惟規定は、自我を、否定的なものの威力 うだけの直接性を止揚する点で、このようにして真の実体で あるという点で、存在でありまた無媒介性である、がこの無を、つまり純粋な現実を実体としており、自らの定在の場と引 媒介性は、媒介を自己の外にもっているのではなく、媒介そしている。これに対し、感覚的な諸々の規定は威力のない抽 のものなのである。 象的な直接態、つまり存在そのものだけを実体とし、定在の 表象されたものが純粋自己意識の所有となること、このよ場としている。純粋思惟が、つまりこの内的直接態が、自ら 契機であることを認めるとき、言いかえれば、純粋な自己確 うに普遍性一般に高めることは、ただ一つの側面にすぎない のであって、まだ教養形成が完結したことにはならない。古信が自らを抽象するとき、思想は流動的になる。だがこのこ 代の学習の仕方が、近代の場合とちがうのは、自然的意識をとは、そういう確信が捨てられ、片よせられることではな く、そういう自己措定の固定的なものが廃棄されることなの 本来の姿で余すところなく形成した点にある。自然的意識 は、自らの定在のあらゆる部分で自分を試しながら、現われである。つまり、廃棄されるのは、さまざまな内容と対立し た自我そのものであるような、純粋の具体者を固定させるこ てくるすべてのものについて哲学的に思索しながら、徹底的 と、純粋思惟の場に措定される諸々の区別、前にのべた自我 に試されて一般性となった。これとちがって近代になると個 の無制約な姿に関わる諸々の区別を、固定させることなので 人は、抽象的形式がすでにできあがっていることを眼の前に みている。この形式をつかんで自己のものとしようとする努ある。この運動によって純粋思想は概念となる。そしてこの 力は、内的なものをそのまま駆り立てることであり、普遍的運動によって初めて純粋思想は、自ら真に在る通りのもので なものを切りとってとり出すことであって、具体的なものかあり、自己運動であり、円であり、思想の実体であるような ものであり、精神的な実在である。 ら、多様な定在から一般的なものが出現することではない。 そこで今われわれのすべき仕事は、個人を直接的な感覚的な このような純粋実在の運動が学問性一般の本性をつくる。 この運動は、その内容の関連から考えてみると、内容の必然 在り方から純化し、思惟された実体、思惟する実体にすると いう点に在るのではなく、むしろそれとは反対の点に、つま性であり、内容が有機的全体にひろがることである。知の概 り、固定し規定された思想を止揚して一般的なものを実現念が達せられる途は、この運動によって言わば一つの必然的