が背後に暴露されるようなばあいである。たとえば、かれら 〈不可能なことについての信仰をしいること〉宗教を形成し が他人に要求する信仰が、かれら自身だけのために、あるい的 ている者の、あるいは、すでに形成されている宗教になにか はとくにかれら自身のために、支配や財産や位階を獲得した をつけ加えた者の、知恵があるという名声をおとさせるの り快楽を確保したりするのに役だち、または役立つようにみ は、矛盾したことがらについての信仰をしいるさいである。 えるばあいである。すなわち、それによってかれら自身が利 というのは、互いに矛盾したものの双方がともに真実である ことは不可能であり、したがって、かような信仰をしいるの益をえるようなことがらは、かれらが自分自身のためにする は無知な証拠であるからである。それは、その創始者が無知のであって他人への愛情のためにするのではないと考えられ るのである。 であることを暴露し、かれが超自然的な啓示によるものとし て提議する他のすべてのことに不信の念を抱かせるのであ 〈奇蹟の証拠の不足〉最後に人びとが天命を提示しうる証拠 る。人は確かに自然の理性を超える多くのことについて啓示は、奇蹟の作用か真の予言 ( それもまた奇蹟である ) か並み を受けることはあるが、しかし、自然の理性に反するなにご はずれた至福のほかにはなにもありえない。したがって、か とについても啓示を受けることはないのである。 かる奇蹟を行なった人びとから継承している宗教の個条はと もかくとして、神命を受けていることを奇蹟によって明かさ 〈かれらが樹立した宗教に反する行ないをすること〉誠実だ という評判をおとさせるのは、他人には信仰せよと要求してない人びとのつけ足した部分の個条は、その地において人び いることを、自分は信じていない素振りがみえるようなこと とを教化した慣習や法がもたらす以上の信仰を植えつけるこ を行なったりいったりするさいである。したがって、すべてとはできないのである。というのは、自然的なものごとにお のかかる言動はつますきのもとと呼ばれる。というのは、そ いて、判断力に富む人びとが自然的なしるしと証拠を要求す れは人びとにとって宗教の邪魔にならせるつまずきの石であるように、超自然的なものごとにおいては、かれらは、内面 るからであり、不正義、残虐、漬神、貪欲、贅沢のようなも的に心から同意するには超自然的なしるし ( それは奇蹟であ のがそれである。すなわち、これらのもののいずれかに発する ) を要求するからである。 部るような行為を日常行なっている者が、他人のより小さなあ 人びとの信仰を弱める原因のすべては以下の諸例のうちに やまちにたいして、みえざる恐しいカの存在することを説い 明白にあらわれている。〈出エジプト記第三二章一および二 第ておどしても、かれがそのようなものの存在を信じていると節〉第一に、われわれはイスラエルの子孫たちの例をあげう だれが信じるだろうか。 るが、かれらは、奇蹟とかれらを首尾よくエジプトから連れ 愛情があるという評判をおとさせるものは、個人的な目的だしたことによって、かれらにたいして自己の天命を証明し
314 ろう。なぜなら、わたくしは、かれが、自分ののちの子ども権者にとって、諸法に自己の私的な霊を対立させるどんな人 たちと家族とに命令するであろうし、かれらが主の道をまもでも、処罰するのは合法的だということである。なぜなら、 かれはコモンーウエルスのなかで、アブラハムがかれ自身の るであろうということを、しっているからだ。ここから、こ の第一の点が結論されうる。すなわち、神が直接にかたらな家族のなかでもったのと、おなじ地位をもっているからであ る。 かった人びとは、神の実定的な命令を、かれらの主権者から うけとるべきであって、アブラハムの家族と子孫が、かれら 〈アブラハムは、神がかたったことについての、唯一の判定 の父であり主であり政治的主権者であるアブラハムから、し者であり解釈者である〉おなじことから、第三の点もまた生 たようにである。〈アブラハムは、かれ自身の人民の宗教をじる。すなわち、アブラハムだけがかれの家族のなかで、神 命令する唯一の権力をもっていた〉そして、したがってどの の言葉がなんでありなんでないかをしることができたよう コモンーウエルスにおいても、その反対の超自然的な啓示をに、キリスト教のコモンーウエルスでは、主権者だけがそう もたない人びとは、宗教の外的行為と告白において、かれらすることができる。なぜなら、神はアブラ ( ムだけにかたっ 自身の主権者の諸法に、服従すべきである。人びとの内面的たのだし、かれだけが、神がいったことをしることができ、 な思想と信仰についていえば、それは人間である統治者たちそれをかれの家族にたいして解釈することができたのだから がしることができないものであって ( なぜなら、神だけが心 であり、したがってまた、コモンーウエルスにおいてアブラ ヴォランタリ ハムの地位をもつ人びとは、神がかたったことについての唯 をしっている ) 、それは意志的でも諸法の効果でもなく、啓 示されない意志により、神の力によるのである。だから、義一の解釈者なのである。 務づけをうけることがない。 〈モーシェの権威はそれにもとづく〉おなじ信約は、イサー 〈アブラハムの宗教にたいしては、私的な霊を主張すること クとのあいだで更新され、のちにはヤコブとのあいだで更新 はできない〉そこからもう一つの論点がでてくる。それは、 されたが、その後は、イスラエル人がエジ。フト人から解放さ アブラハムの臣民たちのうちのだれかが、私的な幻影またはれてシナイ山のふもとに到着するまで、もはや更新されなか ったのであり、そしてそのときにそれはモーシェによって 霊、あるいはその他の神の啓示を主張して、アブラハムが禁 止するはすのなにかの教義を支持したり、あるいは、だれで ( わたくしがまえに第三十五章でいったとおりに ) 、そのとき 以来かれらが神の特殊の王国となるというやりかたで、更新 もそういう僣称者に、かれらがしたがうか執着するかした りするばあいに、かれらを処罰するのはかれとしては不法でされた。その神の代行者がモーシェ自身の時代にはモーシェ はなかった、ということである。したがって、現在では、主だったのであり、その職務の継承は、アーロンと、かれのの
カウンスル る。したがって、その顧問会議の決議は、当時のキリスト教 なく、説得によるものだけであった。かれはかれらを、王と してその臣民たちのなかへではなく、羊として狼のなかへつ徒にとっては、法であった。それにもかかわらす、それら は、くいあらためよ、洗礼をうけよ、戒律をまもれ、福音を かわした。かれらは、諸法をつくることを委託されたのでは なく、つくられた諸法に服従することと、服従するようにお信仰せよ、わたくしのところにこい、あなたのもっているす べてをうれ、それをまずしいものにあたえよ、およびわたく しえることを、委託されたのであり、したがって、かれらは 自分たちの諸著作を、主権的政治権力のたすけなしに、義務しについてこい、という、べつのこれらのおきてがそうであ る以上には、法ではなかった。それらは命令ではなく、エサ 的な規範とすることはできなかった。だから、新約聖書は、 イ書五五節一章のそれのように、人びとをキリスト教へ招待 合法的な政治権力がそれを法としてしまったところにおいて のみ、法なのである。そこではまた、王または主権者は、そしよびよせるものであった。さあ、かわいているすべての人 れをかれ自身にたいする法とするのであり、それによってかびとよ、水のところにこい、きて、貨幣なしにぶどう酒とミ ルクをかえ。第一に、使徒たちの権力は、われわれの救世主 れは自分を、かれを改宗させた博士または使徒にではなく、 神自身およびその子イエス・キリストに、使徒たち自身がし のそれとちがわなかったのであって、神の王国を信奉する人 たように直接に、臣従させるのである。 びとを招待することであった。その王国が ( 現世のではなく ) きたるべき王国であることは、かれら自身がみとめていた。 〈聖書を法とするようにという助言の力について〉キリスト の教義を信奉していた人びとにかんして、新約に法としてのそして、王国をもたぬ人びとは、どんな諸法もっくることが 強力を、迫害のときとところにおいてあたえると、おもわれるできない。また第二に、もしかれらの顧問会議の決議が、諸 であろうものは、かれらがかれらの会堂のなかで、自分たち法であったならば、それらにしたがわぬことは、罪なしには のあいだでつくった宗令である。すなわち、われわれは ( 使不可能であった。しかしわれわれは、キリストの教義を受容 、しなかった人びとが、それによって罪をおかしたということ 徒行伝一五章二八節 ) 、使徒たち、長老たち、および全教会の 助言の様式がつぎのようであるのをよむ。これらの必要な一」を、どこでもよまないのであり、よむのは、かれらがかれら 部 の罪によって死んだということなのである。それは、かれら とがらよりもおおきな負担を、あなたがたにおわせないの が、いいことだと、聖霊にもわれわれにもおもわれた云々。 が服従すべき諸法に反したかれらの罪が、ゆるされなかっ 第 それは、かれらの教義をうけいれた人びとに、負担をおわせた、ということである。そして、それらの法は、自然の諸法 る権力を、あらわす様式である。ところで、相手に負担をおおよび国家の諸市民法であって、それにたいして、あらゆる わせるのは、義務づけるのとおなじであるようにおもわれキリスト教徒たる人間は、約東によって自己を従属させてい
7 第 3 部 についての使徒たちの証言によって、かれらをキリストの信き、そしてその後ずっと他のすべての牧者は、あなたの王国 仰へと説得するのに、努力したのである。だから、どんな人がくるように、といのったし、かれらの改宗者たちにたい もかれが不信仰であるあいだは、かれの国の法についてのか して、当時におけるかれらの異教徒の王侯たちに、したがう れの主権者の解釈をべっとすれば、どんな人のどんな書物の ことを勧告した。新約はまだ、一体として公刊されていなか 解釈にも、したがうように拘東されていなかった、というこ った。福音伝道者の各人が、かれ自身の福音の解釈者であ とからすれば、そこにはまだ、聖書を解釈する権威についてり、 各使徒がかれ自身の手紙の解釈者であった。そして、旧 の、なんの論争もありえなかった。 約については、われわれの救世主自身がユダヤ人たちにいっ ている ( ヨハネによる福音書五章三九節 ) 。聖書をさがしなさい、 さて、われわれは、改宗それ自体を考察し、そのなかに、川 なぜなら、そのなかにおいて、あなたがたは永遠の生命がえ そういう義務づけの原因たりえたどんなものが、あったのか られるとおもっているのだし、それは、わたくしについて証 をみよう。人びとが改宗したのは、使徒たちが説教したもの 言をするものなのだからである。もしかれが、かれらが聖書 ごとについての信仰へであって、それ以外のことへではなく、 を解釈すべきだということを意味したのでなかったならば、 そして使徒たちが説教したのは、ほかのなにごとでもなく、 かれは、かれらにたいして、そこから、かれがキリストであ イエスがキリストであること、すなわち、かれらをすくい ることの証拠をとるように、もとめたであろう。かれは、み きたるべぎ世でかれらを永遠に支配するはずの、王であるこ ずから聖書を解釈するか、祭司たちの解釈に依拠するか、ど と、したがって、かれは死んでいるのではなく死者のなかか らふたたびおきあがって、天へのぼっていったのであり、ふちらかであっただろう。 たたびある日、この世 ( それもまた審判されるためにおきあ 困難がおこったときには、教会の使徒たちと長老たちは、 がるはずである ) を審判するためにやってきて、各人にその いっしょに合議して、なにが説教されおしえられるべきか、 しごとにおうじたむくいをあたえるはずである、ということ人民にたいしてどのようにかれらが聖書を解釈すべきか、と であった。かれらのうちのだれひとりとして、かれ自身ある いうことを決定したが、しかし、人民が自分たちで聖書をよ しーほかの使徒のだれかが、キリスト教徒となったすべてのみ、解釈する自由を、かれらからとりあげはしなかった。使 徒たちは諸教会にさまざまな手紙をおくり、それらを指導す ものによって法としてうけとられるべき解釈をするような、 聖書解釈者であるとは説教しなかった。なぜなら、諸法を解るために他の諸著作をおくった。もし諸教会がそれらを解釈 釈するのは、現存の王国の行政の一部であり、それは使徒たすること、すなわちそれらの意味について考察することを、 ちが所有するものではなかったからである。かれらはそのとゆるされていなかったならば、それはむだであった。そし
つけ加えることはできようが、これまでわたくしが記してき ということである。すなわち、これまでのべてきたことから 2 たことで、他のいかなる犯罪についても、だれもが、その重して、いかなる人も暴力に抵抗しないように信約によって義 さをはかることができると確信する。 務づけられるとは考えられす、したがって、かれが、自分の 〈公的犯罪とはなにか〉最後に、大半の犯罪において、私人身体に暴力を加えるなんらかの権利を他人に与えるようにし にたいしてだけでなくコモンーウエルスにたいしても侵害が たとは考えられないからである。コモンーウエルスを作るさ なされているから、同じ犯罪でも、コモンーウエルスの名に いに、各人は他人を防衛する権利は放棄するが、自分自身を おいて告訴されるばあいには公的犯罪と呼ばれ、私人の名に防衛する権利は放棄していない。またかれは、主権を有する おいて告訴されるばあいには私的犯罪と呼ばれる。そして、 者が他人を処罰するにさいして、主権者を援助するよう自己 裁判もそれに応じて、公的なものすなわち公的裁判、王座裁を義務づけるが、自分自身の処罰にさいしてはそうではない 判と呼ばれるか、あるいは私的裁判と呼ばれるのである。たのである。だが、主権者が他人に苦痛を与えるさいに、主権 とえば、謀殺の告訴において、告訴人が私人であればその裁者を援助するよう信約するのは、それを信約する者がみすか 判は私的裁判であり、告訴人が主権者であれば、その裁判は、 らそういう権利を有するのでなければ、かれに処罰の権利を 公的裁判なのである。 コモンー 与えることにはならない。したがって、明らかに、 ウエルス ( すなわちそれを代表する人または人びと ) が有す る処罰の権利は、臣民たちの譲歩や贈与にもとづくものでは 第二十八章処罰と報酬について 決してない。そうではなくて、わたくしがまえに示しておい たように、すべての人は、コモンーウエルスの設立前には、 〈処罰の定義〉処罰とは、公的権威によって課せられた害で かれが自分の維持にとって必要だと思うあらゆるものにたい あり、その権威によって、法に違犯すると判決される作為まする権利といかなることをもなしうる権利、またそのため たは不作為をした者にたいして、人びとの意志がよりよく服 に、だれをも屈従させ傷つけ殺す権利を有していたのであっ 従へ向うようにとの目的で課せられるのである。 て、そして、このことが、各コモンーウエルスにおいて行使 〈処罰の権利はどこからひきだされるか〉わたくしが、この されるあの処罰の権利の基礎をなすものなのである。すなわ 定義からなんらかのことを推論するまえに答えなければならち、臣民たちがその権利を主権者に与えたのではなくて、た ない、きわめて重要な一つの間題がある。それよ、、 だ、かれら自身のものを放棄することによって、主権者が、 処罰の権利は、または権威は、どの扉から入ってきたのか、 かれら全体の維持のために適当だと思う通りに、かれ自身の
人が捕えられているか、敵の支配下にあるばあいには ( 敵由から、かれは完全に免罪されるのである。 の支配下にあるとは、人が、その身柄や生活手段がそうであ〈本人にたいする免罪〉さらに、他人の権威によって、法に るばあいである ) 、もしもそれが、かれ自身の責任でそうな反してなされる犯罪事実は、その権威によって、その本人に るのでなければ、法についての義務はない。というのは、か たいしては免罪される。いかなる人も、自分の道具にすぎな れは、敵に従うかそうでなければ死ななければならないので い他人における自分自身の行為を非難すべきではないからで あって、したがって、そういう服従は犯罪ではないのであある。しかしそれは、それによって侵害される第三者にたい る。いかなる人も、 ( 法の保護がないばあいに ) 、かれがなし しては免罪されない。というのは、法を犯した点では、本人 うる最良の手段をもって自己を保護しないようには義務づけも行為者もともに犯罪者なのだからである。ここから、次の られてはいないからである。 ことが導きだされる。すなわち、主権を有する人または合議 人が、もしも直面する死の脅威によって、法に反する犯罪体が、ある人に、従来の法に反することをせよ、と命令する 事実をなすよう強制されるならば、かれは、まったく免罪さ ばあい、この行為は完全に免罪されるのである。というの れる。いかなる法も、人が自分自身を維持することをやめる は、かれは本人なのだから、それについて有罪とすべきでは ようには義務づけえないからである。そして、そのように法ないし、主権者によって正当に有罪とされえないものは、い が義務づけたと仮定しても、人は、もしも自分がそれをしな かなる他人によっても正当には処罰されえないからである。 かったら、自分はただちに死ぬし、もしも自分がそれをしたそのうえに、主権者が、かれ自身の従来の法に反してなされ ら自分はよりあとになって死ぬのだから、それをすることに るべきなにごとかを命令するばあいには、その命令は、その よって生き長らえる時間がえられるのだ、と推理するであろ特定の事実については、法の廃棄なのである。 う。それ故、自然が、かれにその犯罪事実を行なうことを余 もしも、主権を有する人または合議体が、主権にとって本 儀なくさせるのである。 質的なある権利を放棄し、それによって、主権すなわちコモ 人が、食物その他のかれの生活に必要なものに欠乏して、ンーウエルスの存在そのものと両立しないある自由が、その 法に反するある犯罪事実を行なう以外にはどうしても自分を臣民にとって生じたばあい、臣民が、こうして許容された自 維持できないばあい、たとえば、大飢饉で、かれが貨幣によ由に反するなんらかの命令に従うことを拒否するとすれば、 っても慈恵によっても食物をえることができず、カずくで奪これは罪悪であって、臣民の義務に反するのである。という ったり盗んだりしたばあい、あるいは、自分の生命を守るたのは、かれは、なにが主権と両立しないかをしるべきであ めに他人の剣を奪いとるばあいなどは、すぐまえで論じた理り、それと両立しないような自由は、その悪しき帰結につい
170 は、各人が臣従している諸法をしっておくように義務づけら して求められたものではなく、したがって、かれ自身の必要 れているところでは、法をしらなかったということは、十分からでたのだから、主として、かれ自身の利益に向けられて な言いわけにならないからである。 いて、忠告される者の利益には、ただ偶然にしか、あるいは 〈勧告および諫止とはなにか〉勧告および諫止とは、忠告でまったく、向けられていないのである。 第二に、勧告と諫止は、人が群衆に向って話すばあいにの あって、それを与える人のなかに、それをきき入れてもらい たいという烈しい意欲のしるしがともなっているものであみ効用がある、ということである。というのは、言葉がひと りにたいして語られるばあいには、かれは話手をさえぎり、 る。あるいは、それをさらに簡単にいえば、烈しく強いられ かれの〔勧告や諫止の〕理由を、群衆のなかでなされうるより た忠告である。すなわち、勧告する者は、かれがなすべきだ と助言することの帰結を推論し、その推論にあたって真の推も厳密に吟味することができるからであり、群衆は、人数が 理を厳密になすようにつとめるというのではなく、かれが忠多いので、かれら全体に同時に無差別に語る者との討論や対 告する人に、行為するよう勇気づけるのである。それは、諫話をすることができないからである。 止する者が、相手に、行為を思い止まらせるのと同じである。 第三に、忠告をするよう求められているのに、勧告し諫止 それ故、かれらは、その理由を推論するにさいして、その言する人びとは、堕落した忠告者であって、いわば、かれら自 葉のなかで、人びとの共通の情念や意見を重視し、そのきき身の利害によって買収されたのである。すなわち、かれらが 手に、自分の助言に従うことの効用や名誉や正義について説与えるその忠告は、きわめてりつばなものであるとしても、 得するために、直喩や隠喩や実例やその他の雄弁の道具を利やはり、その忠告する者は、報酬のために正しい判決を下す 用するのである。 者が正しい裁判官ではないのと同じく、よき忠告者ではない のである。しかし、父親がかれの家庭におけるように、また ここから次のことが推論される。第一に、勧告と諫止が、 その忠告を求める者の利益ではなく、与える者の利益に向けは統率者が軍隊におけるように、人が合法的に命令しうると ころでは、かれの勧告と諫止は合法的であるばかりか、必要 られることは、忠告者の義務に反するということである。か れは、 ( 忠告の定義により ) 、かれ自身の利益ではなく、かれでもあり、ほめるべぎことでもある。だが、そのばあいに が助言する者の利益を重視しなければならないのである。そは、それらは、もはや忠告ではなく命令なのである。そし して、かれが、その忠告をかれ自身の利益に向けていることて、それらが、つらい労働を遂行するためのものであるばあ は、それにかんする長く烈しい説得やわざとらしい与えかた いには、必要上ときどき、また人道上からはつねに、伝達に によって十分に明らかになるのであり、それは、かれにたい あたって、激励によって、また、きびしい命令口調ではなく
の計算、 ( すなわち加減 ) 、にほかならないということであ決定されるべきことを求めているにほかならないのである。 る。わたくしが思考を記号づけるというのは、われわれ自身このことは、人間の社会においては許されないことであっ て、それはちょうど、トランプ遊びにおいて、切札が決定さ で計算するばあいであり、あらわすというのは、われわれの れたあとで、そのとき自分がもっとも多くもっている組の持 計算を他人に示し、証明するばあいである。 札を、いつも切札として使おうとすることが許されないのと 〈正しい推理はどこにあるか〉そして、算術において、不馴 れな者がきま 0 て、また、教授でさえもしばしば、まちがえ同じである。なぜなら、かれらの心のなかで支配的にな「た 情念の一つ一つをことごとく正しい理性として認めさせよう たり誤算したりするように、他のいかなる推理の問題におい とする者は、そのようなことを行なっているのにほかなら ても、もっとも有能でもっとも注意深く、かつもっとも熟練 した者でさえ、思いちがいをしてあやまった結論を引きだすず、しかも、それが自分自身のなかでの争いにおいて行なわ ことがある。かといって、算術が、確かでまちがいのない学れているのであり、理性にたいして不当な要求を行なうこと によって、みすから正しい理性の欠如を暴露しているのであ 術ではなく、また推理それ自体も、つねに正しい推理である る。 とはかぎらない、といっているのではない。しかし、ある計 算が多くの人びとによって一致して認められたからといっ 〈推理の効用〉推理の効用と目的は、名辞の最初の定義やそ の定められた意味からはなれて、一つないし若干の帰結の要 て、それはうまく算出されているといえないのと同様に、い かなる一人の、あるいは一定数の人の推理にしても、それが約や真理をみいだすことではなく、前者から出発して、一つ の帰結から他の帰結へ進むことである。なぜなら、推理の基 確実であるとはいえないのである。それ故、ある計算につい 1 て争いがあるばあいには、両当事者は、自発的に、ある仲裁礎となるあらゆる断定や否定が正確でなければ、最後の結論 者または判定者の推理を正しい推理として定め、双方ともその確実性はありえないからである。一家の主人が勘定調べを の裁決を守らなければならない。そうでなければ、かれらのするにあたり、すべての支払勘定書の金額を合計して総計を 争いは、自然によって作られた正しい推理の欠如のために、 だすさいに、もしかれが、それそれの勘定書がそれを計算し 腕カ沙汰になるか、未決定のままで終るにちがいない。いかてよこした人たちによっていかに計算されているか、またか れは、なんにたいして支払うのかを考慮することがないばあ なる種類の討論であれ、すべて事情はこうである。そして、 いには、かれは、各計算者の熟練と正直とに信頼して、計算 自分が他人より賢明であると考えている人びとが、判定者に 正しい推理をうるさく要求するのは、実は、ものごとが他のを大ざっぱなままにしておくのと同じことで、かれ自身なん 人びとの理性によってではなく、かれら自身の理性によってらうるところがないのである。と同様に、他のあらゆるもの
118 抑制し強制し、また保護したりする力をもたない、というこすれば、かれは自分の信約に反したこと、したがって不法な とーーがよくわかっていないために生じるのである。しか行為をなすわけである。そして、かれが、その集会に属する かどうかにかかわらず、また、かれの同意が求められたかど し、合議体が主権者とされるばあいには、その設立にさいし て、なにかそのような〔条件付の〕信約が結ばれたとは考えうかにかかわらず、かれは、かれらの命令に服従するか、あ るいは、以前にかれがおかれていた戦争状態のままにとりの る者はいないのである。たとえば、ローマの市民が、これこ こされるか、いずれかでなければならない。そして、戦争状 れしかじかの条件で主権を保持するという信約をローマ人と 結び、その条件が履行されなければ、ローマ人はローマ市民態においては、かれがだれに殺されようと、不正がなされた ことにはならないのである。 を廃棄しても合法的だというほどの馬鹿げた人はいないから ポビュラー・ガヴァメント である。王政においても民衆的政治においても、理由は同〈 4 ・主権者の行為を臣民が非難するのは不当である〉第四 に、この〔主権者の〕設立において、全臣民は、設立された 様であることを人びとが理解しないのは、自分たちが楽しく 生活するのぞみのない王政よりも、参与するのぞみをもちう主権者のあらゆる行為と判断の本人なのだから、主権者がな にをしようと、それは、かれの臣民のうちのだれをも侵害す る合議体の統治に心を寄せている人びとの野心によるものな ることになるはずはないし、またかれは、臣民のうちのだれ のである。 〈 3 ・多数者側によって表明された主権の設立にたいして抗からも不当な行為をしたという非難をうけるいわれもない。 というのは、他人からうけた権威にもとづいてなにかを行な 議する者はだれでも、不法な行為をなす者である〉第三に、 多数者側が、同意の投票により、一人の主権者を宣示したのう者は、その行為の権威のみなもとであるその人を侵害する であるから、そのさいには、それに不同意の者も他の者に同ことはないからである。すなわち、コモンーウエルスの設立 意しなければならない。すなわち、かれは、主権者が行なう がなされたからには、各個人は、主権者が行なういっさいの すべての行為を認めて満足すべきであり、そうしなければ、 行為の本人であり、したがって、自分の主権者から侵害され 他の者に殺されても不当とはいえないのである。というの たと不平をいう者は、自分自身が本人であることについて不 は、もしもかれが、合議する集会に、自由意志によって参加 平をいっているわけである。そこで、かれは、自分自身以外 の者を非難すべきではなく、また侵害について自分自身を非 したのならば、かれは、そのことによって、多数者の定める ことを守る意志を十分に示した ( したがって暗黙のうちに信難すべきでもない。というのは、自分自身を侵害することは 約した ) のであって、そこで、もしもかれが、それを守る一」不可能だからである。主権者が不公平なことを行なうことは とを拒否したり、かれらの命令のうちのどれかに抗議したりあるかも知れないが、本来の意味における不法な行為や侵害
110 折にふれて捧げ、奉納した、財産その他の財貨および権利 かも、ただ一つの人格である。このようにしてでなければ、 を、保有した。しかし、偶像は本来、存在をもたないもので群衆のなかに統一性を理解することはできない。 あるから本人となることはできない。その権限は国家に由来〈各人は本人である〉そして、群衆は、本来は一つではなく するものであって、それ故異教徒の神々は、市民政府の成立て多数であるから、かれらの代表者がかれらの名においてい をみるまでは、人格化されえなかったのである。 ったりしたりすることについて、一人ではなく多数の本人で 〈真の神〉真の神は人格化されうる。それはたとえば、まあると考えられる。各人は、かれらの共通の代表者に、各人 ず、モーシェによってであり、かれは、イスラエル人 ( それから個別的に、権限を与えるのであり、そして、かれらが代 はかれの民ではなく神の民であった ) を、かれ自身の名にお表者に無制限に権限を与えるばあいには、代表者の行なうす べての行為を承認しているのである。そうでなくて、かれが いて、すなわち、かくモーシェはいう、というふうにではな いかなることにおいてどの程度まで、かれらを代表するか く、神の名において、すなわち、かく主はのたまう、という ふうにして統治したのであった。第二には、人の子、神自身を、かれらが制限したばあいには、かれらのうちのだれも、 かれらがかれに行為する許可を与えた以上のことを、認めて の子、われわれの祝福された救世主たる、イエス・キリスト いないのである。 によってであり、かれは、かれ自身としてではなく、かれの 父からっかわされたものとして、かれの父の王国に、ユダヤ 〈代理人は、多数決によって統一された、多数の人間であり 人を帰らせ、すべての国民を導きいれるために到来した。そうる〉もし、代表者が多くの人からなるならば、多数者の意 して、第三には、使徒たちのうちにおいて、語り活動する神見は、かれらすべての意見と考えられなければならない。っ 聖な霊すなわち聖霊によって、人格化された。この神聖な霊まり、少数者が ( たとえば ) 肯定的にのべ、多数者が否定的 は、それ自身から生じた聖霊ではなくて、父なる神と子なる にのべるとすれば、そのばあいには、否定意見は肯定意見を 神との双方からっかわされ、でてきたものである。 打ち負かしてさらに余りがあるのであり、否定意見のなかで 〈群衆はいかにして一つの人格となるか〉群衆が、一人の人この肯定意見に打ち消されない超過部分が、その代表者のも っ唯一の意見ということになる。 間または人格によって代表されるときに、もしそれが、その 群衆のうちの各人の同意によって行なわれるならば、その群〈代表者は、偶数であるときには、不利益である〉偶数の代 衆は一つの人格にされる。なぜなら、人格を一つにするの表者は、とくにその数が多くなくて対立する意見がしばしば は、代表者の統一性であって、代表される者の統一性ではな同数であるときには、亞となり、行為ができないことがまま いからである。そして、人格をになうのは代表者であり、しある。ただし、あるばあいには、同数の対立する意見も、問