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検索対象: 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン
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1. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

分なのであり、 ( 正確ではないにせよ ) 配分的正義と呼ばれことを考察する。人びとの、社会にたいする適合性には、か 1 うるのである。だが、衡平、と呼ぶほうがより正確であつれらの感情の差異からくる性質の差異があって、その差異は、 て、これもまた、自然法なのであるが、これについては適当大建築を作るために集められた石に認められる差異にやや似 な場所でふれることとする。 通っている。というのは、凹凸のため、あるいは形が不規則 〈第四の自然法、すなわち、報恩〉正義が先行する信約にも なため、それ自身よりも大きな空間を他の石から奪う石や、 とづいているように、報恩は先行する恩恵すなわち先行する また、かたくて容易に平らにならず、そのために建築をさま 無償贈与にもとづくものであって、第四の自然法である。そたげる石は、建築師によって、役に立たず面倒なものだとし れは、次のような形式で表現される。すなわち、相手から、 て投げ捨てられると同様に、ある人が、その性質の凹凸のた たんなる恩恵によって利益をえた者は、それを与えた者が、 めに、他人にとって必要でかれ自身には無駄なものを、保持 かれの善良な意志を後悔するもっともな原因をもたぬように しようと努力し、そして、かれの情念が頑固なために匡正し えないとすれば、かれは、社会の厄介ものとして、のけもの と、努力すべきである。なぜならば、だれでも、かれ自身の にされ、あるいは投げだされる。各人は、権利によるだけで 利益を意図しないで与えることは、ないからである。つま り、贈与は意志的なものであり、すべての意志的行為の目的なく、自然の必要によってもまた、かれ自身の保存に必要な ものを獲得するために、できるかぎりの努力をするのだと、想 は、各人にとって自己の利益なのである。それが無駄になる ことを、人びとがしるならば、そのばあいには、仁慈や信頼定されていることを考えれば、無駄なもののためにあえて自 もはじまる余地はなく、したがって相互援助も、ある人と相己保存に対抗する者は、その結果として起こる戦争にかんし て、罪があるのである。したがって、平和をもとめよと命じ 手との和解もはじまらない。そして、それ故にかれらは、い ぜんとして戦争状態にとどまるのであり、そのことは、人びる基本的自然法に反することをするのである。この法を守る とに平和を求めよと命じる、第一のかっ基本的な自然法に反者は、社交的と呼ばれうる ( ラテン語でかれらを適応性のあ る人びとと呼ぶ ) 。その反対は、頑固、非社交的、強情、手 する。この法に反することは、忘恩と呼ばれ、それは信約に間 に負えぬこと、である。 よる義務にたいして不正義がもっと同じ関係を、恩恵にたい してもつのである。 〈第六、許容の容易さ〉第六の自然法は、次の通りである。 〈第五、相互の適応すなわち、従順〉第五の自然法は、従順過去に罪を犯した者が後悔して、許しを乞うならば、将来に すなわち、各人が自分以外の者に自己を適応させようと努力ついての保証にもとづき、許してやらなければならない。言 容は平和を与えることにほかならないからである。敵意を固 すること、である。これを理解するために、われわれは次の

2. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

によって普遍的にゆるされるのではない。なぜなら、その権のであり、したがってわたくしは、それに反対していうべき 力は、キリスト教徒たる各主権者に、かれ自身の帝国の境界ことをもたない。けれどもそれは、法王自身が、どんな他の のなかで、所属するものであって、主権から分離できないの王侯の領地内においても、なにも管轄権をもたぬことを証明 だからである。イスラエルの国民が ( サムエルにたいする神するためにも、おなじく通用する論拠なのである。 の命令によって ) 、かれら自身のうえに、他の諸国民のやり 最後にかれは、論拠として、ふたりの法王、インノチェン・ かたにならって王を設置してしまうまでは、祭司長が政治的 トとレオの証言をもってくる。そしてわたくしは、かれがお 統治をもっていて、かれ以外のだれも、下級の祭司を任免すなじようにりつばな理由をもって、ほとんど聖ペテロ以来の ることはできなかった。しかし、のちには、その権力は、べ あらゆる法王の証言を、ひきあいにだすことができたである ラルミーノのまさにこの論拠によって証明されうるとおり うことをうたがわない。なぜなら、権力への愛が人類に生ま に、王にあった。すなわち、もし祭司が ( かれが祭司長であれながらにうえつけられていることを、考えるならば、だれ が法王にされたとしても、かれはおなじ見解をいだくように れ、他のだれであれ ) 、かれの管轄権を直接に神からえたと すれば、そのばあいには王は、それをかれからとりあげる誘惑されたであろうからである。それにもかかわらす、かれ ことができなかったであろう。なぜならば、かれは、神の命らはそのばあいに、インノチェントとレオがしたように、自 令に反することは、なにもなしえなかったからである。しか分たちについて証一言をすることになるにすぎず、したがっ て、かれらの証言は通用するはすがないのである。 しながら、ソロモン王が ( 列王紀上二章一一六節 ) 祭司長アビア 〈法王の現世的権力について〉第五篇において、かれは四つ タルからその職務をうばって、かれのかわりにザドクをおい の結論をもつ。第一は、法王は全世界の主ではないこと、第 た ( 三五節 ) ことは、たしかである。したがって、王たちは、 二は、法王は全キリスト教世界の主ではないこと、第三は、 おなじようなやりかたで、かれらの臣民たちをよく統治する のに適当だとかれらが考えるであろうとおりに、司教たちを法王は ( かれ自身の領土のそとでは ) どんな現世的管轄権 も、直接にはもたないこと、第四は法王は ( 他の王侯たちの 叙任し剥奪していいのである。 部 かれの第六の論拠はつぎのことである。もし、司教たちが領地のなかでは ) 最高の現世的権力を間接にもっことであ かれらの管轄権を神の権利によって ( すなわち神から直接る。最後のことは、かれが、間接的にということによって、 第 間接の手段によってそれをえたことを意味するのでなけれ に ) もつならば、それを保持する人びとは、それを証明する ば、否定され、そうであればそれもまた承認される。しかし ための神のある一一一〔葉をもってくるべきだが、しかし、かれら はなにももってくることができない。その論拠はりつばなもわたくしの理解では、かれが、それを間接的にもっというと

3. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

378 もしかれらが、他の人びとがかれらの人民をおしえるのをゆ あろう。それによって証明されるのは ( わたくしがすでにこ るすばあいには、かれらはそれをかれら自身のたましいの危 の章でしめしておいたように ) 、そのはなしのきっかけとな ったペテロの告白、すなわちイエスは神の子キリストである険においてゆるすのである。なぜならば、神は、家族の首長 たちの手から、かれ〔かれら〕の子どもたちと召使たちの指導 という、この告白にたいして、地獄の門がうちかっことはな についての、説明をもとめるであろう。神がつぎのようにい いであろう、ということ以上ではない。 第三の本文は、ヨ ( ネによる福音書二一章一六、一七節うのは、アプラ ( ム自身についてであ「て、かれのやとい人 についてではない ( 創世記一八章一九節 ) 。わたくしはかれが、 の、わたくしの羊をやしないなさいであって、それは、おし えることの委任以上のものをふくまない。そしてもしわれわかれの子どもたちとかれののちの家系に命じて、主の道をま れが、のこりの使徒たちがこの羊という名のなかにふくまれもらせ、正義と審判をおこなわせるであろうということのた るのを、許容するならば、そのばあいにはそれは、おしえるめに、かれをしっている。 第四の個所は、出エジプト記一一八章三〇節のそれである。 最高の権力である。だがそれは、すでにその至上性を所有し たキリスト教徒たる主権者たちが、いなかったときについておまえは審判の胸あて板にウリムとトウンミムをいれよ。か だけのことである。ところがわたくしはすでに、つぎのことれがいっているそのことは、七十人訳によってミ ミにすなわち証拠と真理と解釈されている。そしてそ を証明しておいた。すなわち、キリスト教徒である主権者た ちは、かれら自身の領土内で最高の牧者であり、かれらが洗こから、神が証拠と真理 ( それはほ。ほ無謬性にひとしい ) を 祭司長にあたえておいたのだと〔べラルミーノは〕結論する。 礼されていることによって、ほかに手をおかれることがない にしても、その地位につけられる、ということである。なぜしかし、あたえられたものが、証拠と真理それ自体だとして なら、そのような手をおくことは、その人物を明示する儀式も、またそれが、はっきりとしりただしく審判をあたえるよ うに努力せよという、祭司への勧告にすぎないとしても、そ であるから、かれがすでに、かれの臣民たちにたいするひと つの絶対権力の地位につくことによって、かれがのそむどんれは祭司長にあたえられたのだから、政治的主権者にあたえ られたのである。なぜなら、イスラエルのコモンーウエルス な教義でもおしえるという権力へ、明示されているばあいに は、必要ではないのである。すなわち、わたくしがまえに証において、そのように神につぐのは祭司長だったからであ り、証拠と真理についての、すなわち政治的主権者たちがか鰤 明しておいたように、主権者たちはかれらの職務によって、 最高の教師 ( 総体的な ) であり、それゆえに、 ( かれらの洗れら自身の臣民にたいしてもっ教会的至上性についての、主 礼によって ) キリストの教義をおしえる義務をおう。そして張は、法王が僣称する権力に反対するものなのだからであ

4. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

ならば、かれらは、その都市の城門のところにさえ、たえ従わない者は、かれ自身の理性以外に従うべきなんの規則も ず、用意のととのった敵をもっていたであろう。自分たちのもたないのだから、かれの良心に反してするすべてにおいて 権力をきわめて小さく限定したすべてのコモンーウエルス罪悪を犯すわけだが、コモンーウエルスで生活する者につい は、こういう損失や策略を余儀なくさせられるのである。 てはそうではない。というのは、法が公的良心であり、それ 〈善悪についての私的な判断〉第二に、わたくしは、煽動的によって導かれるべきことをかれはすでに約東したのだから な学説の害毒から生じるコモンーウエルスの病気について考である。もし以上のようでないとすると、私的意見にすぎな 察する。そのうちの一つに、各私人が善悪の行為の判定者で い私的良心にみられるような多様性のために、コモンーウェ ある、というのがある。これは、市民法が存在しないまった ルスは混乱させられるにちがいなく、、、 しカ - なる人も、それ くの自然の状態においては真実であるし、また、市民政府の が、自分自身の目に善とみえることのほかには、あえて主権 もとにおいても、法によって定められていないばあいについ に従おうとしなくなるのである。 てはそうである。しかし、それ以外においては、善悪の行為〈霊感を受けたと称すること〉信仰と神聖さは、研究と推理 の尺度は市民法であり、判定者は、立法者・ーーかれはつねに 〔理性〕によってえられるべきではなく、超自然的な霊感また コモンーウエルスの代表であるーーであることは明白であは注人によってえられるべきだということもまた、これまで る。このあやまった学説から、人びとは、コモンーウエルス 一般に教えられてきた。もしもこのことが認められるなら の命令を、かれらのあいだで論議し、それらにたいして反ば ば、なぜ、だれでも自分の信仰の推理による説明をするの くし、そののちに、かれらの私的判断において適当と思うよ か、また、なぜすべてのキリスト教徒が同時に予言者でない うに、それらに従ったり背いたりするようになるのである。 のか、さらに、なぜだれでも、自分自身の霊感よりも自分の国 これによって、コモンーウエルスは混乱させられ弱められる の法を自分の行為の規則と考えるのか、それがわたくしには のである。 わからないのである。こうして、われわれは、善悪の判定者 〈あやまった良心〉市民社会に反するもう一つの学説は、人たるの任につくことのあやまち、あるいは、超自然的な霊感 部 がかれの良心に反してすることはすべて罪悪である、というを与えられていると称するような私人たちをその判定者とす ものであって、それは、かれ自身を善悪の判定者とするという るというあやまちに再び陥り、すべての市民政府の解体を招 推定にもとづくのである。というのは、人の良心とその判断 くにいたるのである。信仰は、きくことから生じ、きくよう 3 とは同じものであり、判断と同じく良心もまたあやまりを犯 になるのは、われわれを語る者たちのまえに導いていくよう な出来事から生じ、それらの出来事はすべて全能の神が企て すことがありうるからである。それ故、いかなる市民法にも

5. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

171 第 2 部 からである。 忠告めいた語調と言葉づかいによってやわらげられることが 〈適当な忠告者と不適当な忠告者とのちがい〉忠告と命令の 必要である。 命令と忠告の差異を、われわれは、聖書のなかで、それらちがいは、こうして、忠告の本質ーーそれは忠告される者 が、かれ〔忠告者〕の提案する行為の必然的または可能な諸帰 をのべている言葉の諸形態から例示できる。わたくしよりほ かの神をもつな、おまえ自身にたいして偶像を作るな、神の結から自分にたいして生じうる利害を推論することにあるが から導出されたが、適当な忠告者と不適当な忠告者との 名を無駄に使うな、安息日を神聖なものとせよ、おまえの親 たちを尊敬せよ、殺すな、盗むな、などというのは命令であちがいも同じことからひきだされるのである。すなわち、経 る。というのは、われわれがそれらに従うべき理由は、われ験とは、以前に観察された類似の行為の諸帰結の記憶にほか ならず、忠告とは、その経験を他人にしらせる言葉にすぎな われが服従することを義務づけられている。われわれの主た いのだから、すぐれた忠告と不十分な忠告は、すぐれた知性 る神の意志にもとづくからである。しかし、おまえのもって と不十分な知性にひとしいのである。コモンーウエルスの人 いるすべてを売れ、それを貧しい者に与えよ、そしてわたく しに従え、という言葉は忠告である。というのは、われわれ格にたいしては、かれの忠告者たちが、記憶と心の中のはな がそうすべき理由は、われわれ自身の利益にもとづくからでしの代りをつとめるのである。しかしながら、コモンーウェ ルスと自然人とのこの類似には、一つのきわめて重要な差異 あって、その利益とは、われわれが、天国における財宝をえ るだろうということである。おまえたちの目のまえにある村が結びついているのである。それは、自然人は、かれの経験 を感覚の自然的対象から受けとるのであって、この対象は、 に入れ、そうすると、牝ろばがその子と一緒につながれてい それら自身の情念も利害関心もなく、かれに働きかけるので るのをみるだろう、その綱をといてここに連れてこい、とい う一『〕葉は命令である。というのは、かれらがそうする理由あるが、コモンーウエルスの代表的人格に忠告を与える人び とは、かれらの個別的な目的や情念をもちうるしまた、しば が、かれらの主人の意志からひきだされているからである。 しばもっていて、それらが、かれらの忠告を、つねに疑わし しかし、悔いあらためて、イエスの名において洗礼をうけよ、 いものとし、しばしば不誠実なものたらしめるのである。し という言葉は忠告である。というのは、われわれがそうすべ たがって、われわれは、よき忠告者の第一条件として、次の き理由は、われわれがいかなるしかたで背こうともなお王た ように規定しうるだろう。それは、かれの目的や利害関心 る全能の神の利益に役立っことなく、われわれ自身の利益に 役立つからであり、われわれは、自分たちの罪のために、わが、かれの忠告する相手の目的や利害関心と矛盾しないとい うこと、である。 れわれにのしかかる処罰を避ける手段をこのほかにもたない

6. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

148 すことになるからである。 護がえられると考えるばあいにはつねに、自然は、かれの服 もしも君主または主権合議体が、その臣民のすべてまたは従をそれに向け、その維持に努めさせるのである。そして、 ある者に、ある自由を認め、 , そのままにしていたら臣民の安主権は、それを設立する人びとの意図においては不死である としても、しかしそれは、それ自身の性質においては、対外 全を維持できないとすれば、かれが、主権を直接に放棄する か他人に譲渡するかしないかぎり、そのように、自由を認め戦争による暴力死という目にあうのみならず、人びとの無知 と諸情念のために、それはまさに設立のときから、国内的不 ているのは無効である。というのは、このばあい、かれは、 ( もしもそれがかれの意志だったとすれば ) 、公然とかっ明白一致による自然死の数多くの種子をそのなかに有しているの な言葉によって、それを放棄または譲渡しえたはずなのにそである。 れをしなかった。したがって、このことは、かれの意志だった 〈捕虜のばあい〉もしも臣民が、戦争において捕虜となり、 のではなくて、そういう自由を認めたことは、このような自 かれの身柄や生活手段が敵の監視下におかれ、勝利者に臣従 由と主権との矛盾をしらなかったことから生じたのだ、と解するという条件で、生命と身体の自由を与えられるとすれ されるべきたからである。それ故、主権はいぜんとして保持ば、かれは、その条件を受け人れる自由を有するのである。 され、したがってまた宣戦・講和の権、司法権、官吏や顧問 それを受け入れれば、かれは、かれを捕えた者の臣民となる 官の任命権、徴税権その他の第十八章にあげられたような主のである。というのは、かれは、それ以外には、自分を守る すべがなかったからである。もしもかれが、外国において、 権の行使に必要なすべての権力も保持されているのである。 〈いかなるばあいに臣民たちは、主権者への服従を免除され同じ条件で抑留されるばあいにも、事情は同じことである。 るか〉臣民たちの主権者にたいする義務は、かれがかれらをしかし、もしも人が、獄に入れられ、枷をはめられたり、身 保護しうる権力をもち続けている期間中、その期間内だけ続体の自由を東縛されたりするならば、かれは、臣従信約に拘 くものと解される。というのは、他のだれもがかれを保護し東されるとは解されえない。それ故、可能なかぎりの手段を 用いて逃亡してもよいのである。 えないばあいに自己防衛する生まれつきもっている権利は、 いかなる信約によっても譲渡するわけこよ 冫冫いかないからであ〈主権者がその統治を、かれ自身と世継たちから放棄するば る。主権は、コモンーウエルスの魂であり、それがひとたびあい〉もしも君主が、かれ自身とその世継たちの双方につい て、主権を放棄するならば、臣民たちは、自然の絶対的自由 肉体から離れ去ると、諸部分は、もはやそれから、かれらの 運動を受けとらないのである。服従の目的は保護にあり、人に復帰する。というのは、自然は、だれがかれの息子たちで が、自分自身の剣によるにせよ、他人の剣によるにせよ、保あり、だれがもっとも近い親族であるかを示すことはできて

7. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

415 第 4 部 ェクレジアスティクス あることであるが、法王と他のキリスト教君主との政策のあの他の貢納が、教会人たちによって、トミきぎ。すなわち いだでなにか矛盾が生じるたびに、その臣民たちの司こ、、、 ド冫カ神の権利において、キリスト教徒たちから、長いあいだ要求 すみがわきでてきて、はっきりした判断ができなくなり、か され受けとられてきたのは、そのためであった。その手段に れらの合法的な王侯の王座に押し入ってくる見しらぬもの よって、人びとは、どこででも、一つは国家にたいして、も を、かれら自身がその王座につけた者と区別できず、そして、 う一つは聖職者にたいして、一一重の貢納義務をおわされたの この心のやみによって、臣民たちは、かれらの敵をかれらの であった。人びとの収入の十分の一にあたる聖職者への貢納 味方から区別することができなくて、他人の野心に操縦されは、あるアテナイの王 ( そして、専制者とみなされた ) が、 て、相互に闘争させられているのである。 公共の全費用をまかなうために、臣民たちから取りたてたも 〈牧者たちは聖職者であるということ〉現在の教会は神の王のの、二倍にあたる。すなわち、かれは、二〇分の一以上は 国だ、というこの見解から、つぎのようなことになる。すな要求せす、それでも、それによってコモンーウエルスをゆた わち、牧者、教会執事、およびその他のすべての教会の代行 かに維持したのである。神が、神政的支配をしていた時期の 者たちは、自分たちを、聖職者とよび、それ以外のキリスト ユダヤ人の王国においては、十分の一税と奉納物とが、国家 教徒には、世俗人すなわちたんに人びとと名づける。聖職者の収入のすべてであったのである。 とは、その生計をつぎの収入によって維持する者をあらわす 現在の教会を神の王国との、このとりちがえからまた、市 のだからである。その収入とは、神がイスラエル人たちを支民法と教会法の区別がでてくる。市民法は、主権者の領地に 配していた頃に、かれ自身が確保しておいて、レヴィ人の氏おける主権者の法令であり、教会法は、同じ領地における法 キヤノン 族 ( 神の公的な代行者になることを予定され、そして、その王の法令である。そして、この教会法は、規範すなわち、提 同胞がもっていたような、住むために区画された土地の分け案された規則にすぎず、帝国がカール大帝の手にうつるまで は、キリスト教王侯によって、自発的に受けいれられたもの 前をもっていなかった ) に、かれらの財産となるようにわり あてたものなのである。それ故に、法王が ( イスラエルの王にすぎなかったのだが、のちに、法王の権力が増大するにつ 国とおなじく、現在の教会も神の王国だと称して ) 、神の財れて、命令された規則となり、皇帝たち自身 ( 盲目的民衆が 産に似た収入を、かれ自身およびその従属的代行者たちのた誘いこまれるかもしれない、もっと大きな悪行をさけるため めに要求しているのであれば、聖職者という名称は、その要に ) 、その規則を、法律として施行させることを余儀なくさ れたのであった。 求にふさわしい名称だったわけである。イスラエル人のあい だで神の権利として、レヴィ族に支払われた十分の一税そ ここから、法王の教会的権力を全面的に受けいれているす

8. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

人びとのひとつの合議体にあろうと、不可分にむすびついて ため、すなわちかれらの責務にゆだねられた人民におしえる いるのだ ( すでに第十八章で証明されたように ) 、というこ ために、かれらのこのむままに牧者たちを叙任する権力をも とである。すなわち、もっともひくい能力にとってさえ、つ つのである。 ぎのことは明白である。人びとの諸行為は、それらの行為か また、かれらをえらぶ権利が、 ( 王たちの改宗のまえのよ らかれら自身に帰する利害〔善悪〕について、かれらがもつうに ) 教会にあるとしよう。使徒たち自身の時代にそうであ 意見から、ひきだされるということ、したがって、主権に ったのだからである。それでさえも、その権利はキリスト教 たいする自分たちの服従が、かれらの不服従よりも有害で徒たる政治的主権者にも、あるであろう。なぜならば、かれ あるだろうという、意見にひとたびとらえられた人びとは、 はキリスト教徒であるから、そのおしえをゆるすのだし、か 諸法に服従しないであろうし、そのことによってコモンー れは主権者であるから、 ( それは、教会が代表によってそう ウエルスをくつがえし、混乱と内乱をもちこむであろう、と だというにひとしい ) かれが選出する教師たちは、教会に いうことである。市民政府は、それをさけるために設定されよって選出されるのである。そして、キリスト教徒の合議体 たのであった。それで、異教徒のすべてのコモンーウエル が、キリスト教のコモンーウエルスにおいて、かれらの牧 スにおいて、主権者たちは、人民の牧者という名称をもって者をえらぶばあいには、かれを選出するのは主権者なのであ いたのであって、かれらの許可と権威によらずに合法的に人って、なぜなら、それはかれの権威によってなされるのだか 民におしえることのできる臣民は、存在しなかったからであらである。ある都会がかれらの市長をえらぶばあいと、おな る。 じようにして、それは、主権をもつものの行為なのである。 異教徒の王たちのこの権利は、キリストの信抑へのかれらすなわち、おこなわれるすべての行為は、その行為が無効で の改宗によって、かれらからとりあげられたと考えることは ないために同意してもらう必要がある、その人の行為なのだ できない。キリストはけっして、王たちがかれを信じたため からである。したがって、歴史のなかから、人民による、あ るいは聖職者による、牧者たちの選挙にかんして、どんな実 に、廃位されるべきだ、すなわち、かれ自身以外のだれかに 例がひきだされることができようとも、それらの実例は、ど 臣従すべきだとか、あるいは ( まったくおなじことだが ) か れらの臣民たちのあいだでの平和の保持と、外敵にたいするんな政治的主権者の権利に反対する論拠でもない。なぜな 第 ら、かれらを選出した人びとは、かれの権成によってそれを かれらの防衛とに必要な、権力をうばわれるべきだとは、さ したのだからである。 だめなかった。だから、キリスト教徒たる王たちはいせんと そこで、おのおののコモンーウエルスにおいて、政治的主 して、かれらの人民の最高牧者なのであり、教会におしえる

9. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

れ、不愉快や立腹をともなうのである。 らの単純な情念はさまざまに呼ばれるのである。 〈感覚の喜び〉愉快または歓喜のうちのあるものは、現存の 〈希望〉すなわち、獲得できるという意見をともなう欲求は 対象についての感覚から生じる。そしてそれらは感覚の喜び希望と呼ばれる。 ( それを非難する人びとのみによって用いられるものとして 〈絶望〉同じものが、かかる意見をともなわないときは絶望 である。 の、肉感的という語は、法律の存在以前には存在の余地がな いのだから ) と呼ばれうるだろう。あらゆる身体の摂取と排 〈恐怖〉対象から害を受けるという意見をともなう嫌悪は恐 怖である。 泄はこの種のものであって、また、みたり、ぎいたり、かい だり、味わったり、触れたりすることにおいて愉快なすべて 〈勇気〉同じものが、抵抗によってその害を除去するという のものも同様である。もう一つの種類は、あるものごとの終希望をともなうときは、勇気である。 りや帰結を予見するさいに、それらのものごとが感覚におい 〈怒〉突然の勇気は激怒である。 て愉快であろうと不愉快であろうといずれにせよ、それにと 〈信頼〉いつも変らない希望は、われわれ自身への信頼であ もなう期待から起こるものである。〈精神の喜び〉そして、 る。 これらは、それらの帰結をひき寄せる者の精神の喜びであり、 〈不信〉いつも変らない絶望は、われわれ自身への不信であ る。 〈楽しみ〉一般に楽しみと呼ばれる。〈苦痛・悲しみ〉同様に、 不愉快のうちのあるものは感覚のなかにあり、それは苦痛と 〈憤慨〉他人にたいしてなされた多大な痛手への怒りは、わ 呼ばれ、他のものは帰結への期待のなかにあって、それは悲 れわれがそれを不正な行為によってなされたと考えるとき しみと呼ばれる。 は、憤慨である。 欲求、意欲、愛着、嫌悪、憎悪、楽しみ、悲しみと呼ばれ 〈仁慈〉他人のためによかれという意欲は、仁慈、好意、慈 るこれらの単純な情念は、さまざまな観察によってさまざま恵である。〈好人物〉もしそれが人間一般にたいしてよかれ な名称をもつ。 という意欲であれば、好人物である。 第一に、それらが次から次へと生じてくるさいに、人びと 〈強欲〉財産への意欲は、強欲である。この名称はつねに非 が自分たちの意欲するものを獲得する可能性について抱く意難の意味で用いられる。というのは、この意欲そのものは、 見によって、第二に、愛されあるいは憎まれる対象によっそれらの財産を求める手段に応じて非難されたり許容された りするのであるが、それを求めて競争している人びとは、互 て、第三に、それらの多くものをいっしょに考察することに いに他人がそれを獲得することによって不愉快になるからで よって、第四に、情念それ自身の変化や連続によって、それ

10. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

107 第 1 部 しかるに道徳哲学の著作家たちは、同じ徳と悪徳とを認めて にかなうのであり、法にかなうものは、正しいのである。 はいるものの、それらの徳の本質がどこにあるかがわから 〈これらの法についての学問が、真の道徳哲学なのである〉 そして、これらについての学問が、真実にして唯一の、道徳ず、または、それらが平和な社交的な快適な生活への手段と してたたえられるようになるのだということがわからない 哲学なのである。というのは、道徳哲学とは、人類の交際と で、徳の本質を諸情念の中庸性におくのである。それはまる 社会における善悪とはなにか、ということについての学問に ほかならないからである。善および悪とは、われわれの欲求で、大胆の原因ではなく大胆の程度が、剛毅を作るかのよう と嫌悪とをあらわす名辞であって、それらは、人びとの気質、であり、贈与の原因ではなく贈与の量が、寛裕を作るかのよ 慣習、主義が異なるに応じて、相違する。またさまざまな人うである。 これらの理性の指示は、人が法という名で呼ぶのがつねで びとは、味覚、嗅覚、聴覚、触覚、視覚、に与える快・不快 の感覚にかんする判断が異なるのみならず、また日常生活のあるが、妥当ではない。なぜなら、それらの指示は、なにが かれら自身の保存と防衛に役立つかについての、結論または 諸行為において、なにが理性にかない、なにがかなわないか という判断についても、異なるのである。いな、同じ人間で定理であり、これにたいして、法は、本来は、権利にもとづ いて他人を支配する者の、言葉だからである。けれども、も も、ときによって、異なるのであって、他のときには非難し しわれわれが、同じ定理を、権利にもとづいてあらゆるもの て悪と呼ぶものごとを、あるときにはたたえ、すなわち善と 呼ぶのである。ここから、議論や争論が、そしてついには戦ごとを支配する神の言葉のなかに、のべられたものとして、 争が起こるのである。それ故、個人的な欲求が善悪の尺度で考察するならば、そのばあいには、それは法と呼ばれるにふ あるかぎり、人はたんなる自然の状態 ( それは戦争状態であさわしい。 る ) にあるのである。そして、その結果すべての人びとは、 平和が善であるということに同意し、したがってまた、平和 第十六章人格、本人、および人格化され への道すなわち手段が善だということに同意する。それらの たもの 手段とは ( わたくしがまえに示したように ) 、正義、報恩、 謙虚、衡平、仁慈、およびその他の自然法であって、い、、 〈人格とはなにか〉人格とは、語や行為が、自己自身のもり えれば、道徳であり、その反対の、悪徳は悪である。ところ として認められる人、あるいはその語る言葉や行なう行為が、 で、徳と悪徳についての学問が、道徳哲学であるから、した かれ自身のものと考えられるような人のことであるが、また がって、自然法についての真の教説は、真の道徳哲学である。