キリスト教 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン
472件見つかりました。

1. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

される〉キケロは、ローマ人のなかで厳格な裁判官であったキリスト自身に服従しないことなのだ、と信じさせ、かれと カシウス家の一人について、名誉ある言及をしている。それ他の王侯たちとがくいちがったばあいにはすべて、 ( 霊的権 は、刑事事件において、かれがもっていたひとつの慣習のたカという一 = 〔葉に魅せられて ) 、かれらの合法的な主権者たち めであって、その慣習とは、 ( 目撃者の証言が十分でないばを放棄させたのは、この資格によるのであって、それは事実 上は、全キリスト教界にわたるひとつの普遍的王国なのであ あいに ) 、告発者にたいして、利益はだれに、いいかえれば、 いかなる利益、名誉あるいはその他の満足を、被告がこの犯る。というのは、かれらははじめ、キリスト教徒たる皇帝た 罪事実によって獲得または期待したか、とたずねることであちにより、かれらのもとで、 ( かれらによって承認されたと おりの ) ローマ帝国の限界のなかで、政治国家に臣従する役 る。すなわち、推定のなかには、その行為による利益ほど、 だれがそれの本人であるかを明白に示すものはない、という人であった最高祭司長という称号によって、キリストの教義 の最高教師である権利を与えられたのだが、しかし、帝国が ことがふくまれている。同じ規則によって、わたくしが、こ の個所で検査しようと意図するのは、キリスト教界のこの部分割され解体されたのちには、かれらの僣称する権力の全体 分で、そのように長いあいだ人民を、人類の平和な諸社会にを救うためだけでなく、それを、もはやローマの帝国として 統一されていないにもかかわらす、同一のキリスト教的諸属 反するそれらの学説のとりこにしておいたのはだれか、とい 州に及、ほすために、すでにかれらに臣従していた人民に、も うことである。 〈たたかう教会は神の王国であるということは、ローマ教会うひとつの称号すなわち聖ペテロの権利をおしつけるのは困 によ 0 てはじめて教えられた〉そして、第一に、いま地上で難ではなか 0 たのである。ひとつの普遍的王国というこの利 たたか「ている現存の教会が神の王国である ( すなわち、栄益は、 ( 支配〈の人びとの意欲を考えれば ) 、それを僣称し、 長くそれを享受した法王たちが、それを獲得する手段となっ 光の王国または約東の土地であって、土地の約東にすぎない 恩寵の王国ではない ) という、この誤謬に、次のようなこのた学説の、すなわち現在地上にある教会がキリストの王国で 世の諸利益が付着している。第一に、それによ 0 て、教会のあるという本人〔創造者〕だということを推定させるに十分で 牧者と教師は、神の公共的代行者として、教会を統治する権ある。すなわち、それが認められれば、キリストの戒律がな んであるかをわれわれに告げるために、かれが、ある代理人 利への資格を与えられ、したがって、 ( 教会とコモンーウェ ルスとは同一人格であるから ) 、 = モンーウ = ルスの指導者をわれわれのあいだにもっということが、理解されるにちが いないからである。 および統治者への資格を与えられる。法王が、すべてのキリ 若干の教会が、法王のこの普遍的権力を否定してしまった スト教的王侯の臣民たちを説伏して、かれに服従しないのは

2. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

345 第 3 部 たくしをこばんだのだ。したがって、破門は、それが政治権 ても、それでも子どもたちは、かれらと交際することも、か 力のたすけをかくばあいには、あるキリスト教的な国家また れらとともに食事をすることも、禁止されない。なぜなら、 は王侯が外国の権威によって破門されるばあいにそうである それは ( たいていのばあい ) 、食物をえる手段の欠如から、か ように、効果がなく、したがって、恐怖をともなわぬものた れらがまったくなにもたべないことを、義務づけるようなも のであり、かれらが使徒たちのおきてに反して、かれらの両らざるをえない。 F ミき E 0 ミミミ斗ミぎ s という名称 ーマの 親や主人に服従しないことを、権威づけるようなものである ( すなわち破門の雷電 ) は、それを最初に使用したロ 司教の、かれが諸王の王であるという想像から、でてきたも からである。 のであって、その想像は、異教徒がユ。ヒテルを神々の王と ようするに、破門の権力は、教会の使徒たちと牧者たち が、かれらの使命をわれわれの救世主からうけたその目的をし、かれらの詩と絵のなかで雷電をかれに帰し、それをも「 めざすところ以上に、拡大されえない。その使命とは、命令てかれが、かれの権力をあえて拒否する巨人たちを征服し処 と強制によ「て指導することではなく、きたるべき世界にお罰するようにしたのと、同様である。この想像は、二つのま ちがいにもとづいていた。ひとつは、キリストの王国がこの ける救済への道に、人びとをおしえ方向づけることによっ て、指導することである。そして、どの科学の教師でも、か世のものだということで、それは、わたくしの王国はこの世 のものではないという、われわれの救世主の言葉に反する。 れの弟子が、かれが指導することの実行を頑強に無視するな らば、その弟子をすててもいいけれども、しかし、その弟子もうひとつは、かれが、かれ自身の臣民にたいしてだけでな 世界の全キリスト教徒にたいしてキリストの代理だとい はけっしてかれに服従するように拘東されたのではないか うことで、それについては聖書のなかになんの根拠もなく、 ら、不正義の非難を弟子にたいしてしてはならないのであっ て、これとおなじように、キリスト教の教義の教師も、頑強その反対のことが、てきとうな場所において証明されるであ に非キリスト教的な生活をつづけるかれの弟子たちをすててろう。 〈政治的主権者がキリスト教徒となるまえにおける、聖書の しいけれども、しかしかれは、かれらがかれにたいして不正 をなしたということはできない。なぜなら、かれらは、かれ解釈者について〉聖パウロは、ユダヤ人の会堂があったテサ ロニケにきて ( 使徒行伝一七章二、三節 ) 、かれのいつものやり に服従することを義務づけられてはいないからである。〈サ かたのとおりに、かれらのなかにはいっていき、三つの安息 ムエル記上八章〉すなわち、そのように不平をいう教師に 日に聖書にもとづいてかれらと議論して、キリストはかなら は、同様なばあいにおけるサムエルへの神の答えが、適用さ れうるであろう。かれらはおまえをこばんだのではなく、わす苦難をうけたにちがいなく、死者のなかからよみがえった

3. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

383 第 3 部 じるものは、キリスト自身の助言を軽んじるのだということ でなければならない云々であって、かれはそれが法であった という。わたくしは、教会における法をつくりえたのは、教は、うたがいをいれない。しかし、それでは、合法的権威に よって牧者に叙任されているような人びとをのぞいて、キリ 会の君主であるべテロのほかにはないと、おもっていた。し かし、もしこの命令が、聖ペテロの権威によってつくられたストによってつかわされる人びととは、だれであるのか。主 と想定しよう。それでもわたくしは、テモテが聖パウロの臣権者である牧者によって叙任されるのでなくて、合法的に叙 民ではなくて弟子であったことからすれば、またテモテの責任される人びととは、だれであるか。ひとつのキリスト教的 コモンーウエルスにおいて、それの主権者の権威によって叙 務のもとにあった信徒群が、王国におけるかれの臣民ではな く、キリストの学校におけるかれの学生であったことからす任されるのでなくて、主権者たる牧者によって叙任される人 とは、だれであるのか。したがって、この個所からとうぜん れば、わたくしには、それが忠告よりもむしろ法とよばれる べき理由が、わからない。もし、かれがテモテにあたえるすにでてくるのは、キリスト教徒であるかれの主権者にききし べての命令が、法であるならば、なぜっぎのこと、すなわたがう人は、キリストにききしたがうのだということ、そし て、キリスト教徒であるかれの王が権威づけた、教義を軽ん ち、あなたの健康のために今後は水をのまないで、少量のぶ どう酒をもちいなさいということが、やはり法でないのであじる人は、キリストの教義を軽んじるのだということである ろうか。そして、名医の命令〔処方〕もまた、それだけの数 ( それは、べラルミーノがここで証明しようと意図したこと ではなくて、その反対である ) 。しかし、このすべては、と の法でないということがあろうか。命令的なかたりかたでは なくて、ある人物の絶対的な臣従が、命令を法たらしめるのうてい法といえるものではない。それどころか、臣民たちの であるから、そうである。 牧者および教師としてのキリスト教徒たる王は、そうである ことによってかれの諸教義を、法たらしめはしないのであ おなじように、第九の個所であるテモテヘの第一の手紙五 る。かれは人びとを、信じるように義務づけることはできな 章一九節、二人または三人の証人のまえでなければ、長老に 。政治的主権者として、かれは自分の教義に適合した諸法 たいする非難をうけいれてはならないというのも、賢明な命 をつくることができるのであって、その教義は、人びとを一 令ではあるが法ではない。 第十の個所は、ルカによる福音書一〇章六節である。あな定の諸行為にたいして、義務づけるであろうし、ときには、 たにききしたがうものは、わたくしにききしたがうのであそうでなければかれらはしようとしないであろうような諸行 り、あなたを軽んじるものは、わたくしを軽んじるのである。為にたいして、義務づけるであろう。また、その教義は、か そして、キリストによってつかわされた人びとの助言を軽んれが命令すべきではないことである。それでも、それらのこ

4. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

364 論されない。したがって、かれらの給与は必然的に、かれら祭司長たちは、神のもとにおいて人民の政治的主権者であっ の信者たちのうちのおのおのの個人の、感謝および気前のよたし、ユダヤ人のあいだにおける神の王国は、現存のもので さによって、そうでなければ集会の全体によって、決定されあったが、これにたいして、キリストによる神の王国は、ま だこれから、くるべきものであったのだからである。 たにちがいない。それは、集会の全体によってでは、ありえ これまでに、つぎのことがしめされてきた。なにが教会の なかった。なぜなら、かれらの決議は、そのときは法ではな かったからである。したがって、牧者たちの生活資料は、皇牧者であるか、かれらの委任の諸項目はなんであるか ( かれ らがそれぞれの集会において説教し、おしえ、洗礼し、司会 帝および政治的主権者が、それをさだめる諸法をつくってし ベネヴォレンス まうまでは、喜捨以外のなにものでもなかった。祭壇に奉仕者であるべきであった、というような ) 、教会による非難っ した人びとは、ささげられたものによって生活したのであまり破門とはなんであるか、いいかえれば、キリスト教が市民 る。このようにして牧者たちはまた、かれらの信者たちによ法によって禁止されていたところにおいては、自分たちを破 門されたものの仲間のそとにおくこと、そしてキリスト教が ってかれらにささげられるものを、とってもいいが、ささげ られないものを収奪してはならない。裁判官をもたなかった市民法によって命令されているところでは、破門されたもの 人びとは、どの法廷に、それについてうったえるべきであったをキリスト教徒の集会のそとにおくこととは、なんであるか、 だろうか。あるいは、もしかれらが、かれらのなかに仲裁者だれが教会の牧者および代行者をえらんだか ( それは集会で をもっていたとしても、かれらがその役人たちを武装させるあった ) 、だれがかれらを聖別し祝福したか ( それは牧者で 権力をもたなかったばあいに、だれがその仲裁者たちの判決あった ) 、なにがかれらの正当な収入であったか ( それは、 かれら自身の財産およびかれら自身の労働と、帰依し感謝に を執行すべきであろうか。一したがって、教会のどんな牧者に たいしても、集会の全体によるもののほかには、一定した生みちたキリスト教徒の自発的な献納とのほかには、なにもな か「た ) 。そこでわれわれは、政治的主権者でありながらし 活資料がわりあてられることはありえなかったし、それはか かもキリスト教の信仰を奉じる人びとの、教会における職務 れらの布告が ( 規範〔教会法〕のだけでなく ) 法の力を、もっ はなんであるかを、考察することになる。 たばあいだけであった、ということが、いぜんとしてのこる のである。その諸法は、皇帝、王、あるいはその他の政治的 そして第一に、われわれが想起すべきことは、どんな諸教 義が平和にふさわしく、臣民たちにおしえられるにふさわし 主権者によってでなければ、つくられえなかったのである。 いかを、審判する権利は、すべてのコモンーウエルスにおい モーシェの法における十分の一税の権利は、当時の福音の代 行者たちには、適用されえなかった。なぜなら、モーシ工とて、主権者の政治権力に、その権力がひとりの人にあろうと

5. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

人びとのひとつの合議体にあろうと、不可分にむすびついて ため、すなわちかれらの責務にゆだねられた人民におしえる いるのだ ( すでに第十八章で証明されたように ) 、というこ ために、かれらのこのむままに牧者たちを叙任する権力をも とである。すなわち、もっともひくい能力にとってさえ、つ つのである。 ぎのことは明白である。人びとの諸行為は、それらの行為か また、かれらをえらぶ権利が、 ( 王たちの改宗のまえのよ らかれら自身に帰する利害〔善悪〕について、かれらがもつうに ) 教会にあるとしよう。使徒たち自身の時代にそうであ 意見から、ひきだされるということ、したがって、主権に ったのだからである。それでさえも、その権利はキリスト教 たいする自分たちの服従が、かれらの不服従よりも有害で徒たる政治的主権者にも、あるであろう。なぜならば、かれ あるだろうという、意見にひとたびとらえられた人びとは、 はキリスト教徒であるから、そのおしえをゆるすのだし、か 諸法に服従しないであろうし、そのことによってコモンー れは主権者であるから、 ( それは、教会が代表によってそう ウエルスをくつがえし、混乱と内乱をもちこむであろう、と だというにひとしい ) かれが選出する教師たちは、教会に いうことである。市民政府は、それをさけるために設定されよって選出されるのである。そして、キリスト教徒の合議体 たのであった。それで、異教徒のすべてのコモンーウエル が、キリスト教のコモンーウエルスにおいて、かれらの牧 スにおいて、主権者たちは、人民の牧者という名称をもって者をえらぶばあいには、かれを選出するのは主権者なのであ いたのであって、かれらの許可と権威によらずに合法的に人って、なぜなら、それはかれの権威によってなされるのだか 民におしえることのできる臣民は、存在しなかったからであらである。ある都会がかれらの市長をえらぶばあいと、おな る。 じようにして、それは、主権をもつものの行為なのである。 異教徒の王たちのこの権利は、キリストの信抑へのかれらすなわち、おこなわれるすべての行為は、その行為が無効で の改宗によって、かれらからとりあげられたと考えることは ないために同意してもらう必要がある、その人の行為なのだ できない。キリストはけっして、王たちがかれを信じたため からである。したがって、歴史のなかから、人民による、あ るいは聖職者による、牧者たちの選挙にかんして、どんな実 に、廃位されるべきだ、すなわち、かれ自身以外のだれかに 例がひきだされることができようとも、それらの実例は、ど 臣従すべきだとか、あるいは ( まったくおなじことだが ) か れらの臣民たちのあいだでの平和の保持と、外敵にたいするんな政治的主権者の権利に反対する論拠でもない。なぜな 第 ら、かれらを選出した人びとは、かれの権成によってそれを かれらの防衛とに必要な、権力をうばわれるべきだとは、さ したのだからである。 だめなかった。だから、キリスト教徒たる王たちはいせんと そこで、おのおののコモンーウエルスにおいて、政治的主 して、かれらの人民の最高牧者なのであり、教会におしえる

6. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

396 と、忠告したにすぎない。異教徒の裁判官たちのまえでたがれる。それによって、牧者に必要なすべての権力があたえら れたのであり、その権力とは、たとえば、異端者のような いに告訴しあうよりもむしろ、それは、健全な命令であり、 慈悲にみちていて、最良のキリスト教コモンーウエルスにおをおいはらう権力、邪悪な ( キリスト教徒ではあるが ) 王た いても、実行されるにふさわしい。そして、臣民が異教徒ちのような、狂気であったり角で他の羊をついたりするばあ いの、子羊たちをとじこめる権力、羊の群に都合のいい食物 の、あるいは誤謬をおかした、王侯を寛容することによっ て、宗教にたいしておこりうる危険についていえば、それをあたえる権力である。ここからかれは、聖ペテロがこれら は、一臣民がそれについての能力ある裁判官ではない、論点の三権力を、キリストによってあたえられたと推論する。そ なのであり、あるいはもしかれがそうであるとすれば、法王れにたいしてわたくしは、これらの権力のうちの最後のも のは、おしえる権力、というよりむしろ、おしえる指揮権に の現世的臣民たちは、法王の教義についても裁判をしていし のである。なぜなら、わたくしがまえに証明したように、キすぎないと、こたえる。第一の、狼すなわち異端者をおいは リスト教徒たる各王侯は、かれ自身の臣民たちの最高牧者でらうための、それについて、かれが引用する個所は、 ( マタイ による福音書七章一五節 ) いつわりの予言者たちを警戒せよ、 あることにおいて、法王がかれの臣民たちのそれであること かれらは羊の衣服をきてあなたがたのところにくるが、内面 に、おとらないのだからである。 第四の論拠は、王たちの洗礼からとられている。そこにおでは、むさ。ほりくう狼である、というのである。だが、異 いてかれらは、キリスト教徒にしてもらうために、かれらの者は、いつわりの予言者ではなく、どんな予言者でもないり 王笏をキリストの下位におくのであり、キリスト教の信仰をだし、また ( 狼が異端者を意味することを承認しても ) 、使 維持し防衛することを約東するのである。このことはほんと徒たちはかれらをころせと命令したり、あるいは、かれらが うであってキリスト教徒たる王たちは、キリストの臣民にほ王であれば廃位せよと命令したりしたのではなく、かれらを かならないからである。しかしながら、それにもかかわら警戒し、かれらからにげ、かれらをさけるように命令したの である。また、いつわりの予言者を警戒せよというこの助言 す、かれらは法王の仲間でありうる。なぜなら、かれらは、 を、かれがあたえたのは、聖ペテロにたいしてでもなく、使 かれら自身の臣民たちの最高の牧者であり、そして法王は、 ローマ自体においても、王であり牧者であるという以上では徒のうちのだれにたいしてでもなく、かれにしたがって山に はいったユダヤ人の群衆にたいしてであった。したがって、 ないからである。 第五の論拠は、われわれの救世主によってかたられた、わもしそれが、王たちをおいはらう権力をさすけるとすれば、 たくしの羊たちをやしないなさいという言葉から、ひきださそれがあたえられたのは、私的な人びとにたいしてであるた

7. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

くし自身がリンモンの家で拝礼をするとき、主よ、このことのために死をうけいれるように、義務づけられていると、そ の人は考えるであろうか。もしもその人が、かれ〔マホメッ について、あなたの召使をおゆるし下さい。ここでナーマン ト教徒〕はむしろ死をうけいれるべきだというならば、その は、その心において信じたのだが、しかしリンモンの偶像の まえで拝礼することによって、外見においては真の神を否定ばあいには、すべての私人が真偽をとわず自分たちの宗教を したのであり、それはまさにかれがその唇をもってしたかの主張して、かれらの王侯たちにしたがわぬことを、かれは承 ようであった。けれども、それならば、われわれの救世主が、 認するのである。もしその人が、かれは従順であるべきだと いうならば、そのばあいには、かれは相手にたいして拒否し だれであれ人びとのまえでわたくしを否認するものにたいし たことを自分にたいしてはゆるすのであり、それは、われわ ては、わたくしは天にあるわたくしの父のまえでかれを否認 しよう、というのにたいして、われわれはなんとこたえるべれの救世主の、あなたが人びとにしてもらいたいとおもうこ っ とはなんでも、あなたが人びとにたいしておこなえという言 きであろうか。これについて、われわれはつぎのようにい ていい。すなわち、ナーマンがそうであったように臣民であ葉に反し、また相手があなたにたいしてするのをあなたがの るものが、かれの主権者に従順であるために、おこなうようぞまないことを、あなたは相手にたいしてするべきではない に強制され、そしてかれ自身の心にしたがってではなくかれという自然法 ( それはうたがいの余地のない永久の、神の法 の国の法にしたがって、おこなうことは、それがなんであである ) に反するのである。 れ、かれの行為ではなくかれの主権者の行為であり、また、 〈殉教者たちについて〉しかしながら、それでは、われわれ このばあいに、人びとのまえでキリストをこばむのは、かれが教会の歴史のなかでのべられているのをよむような、すべ ての殉教者について、われわれは、かれが必要もないのに生 ではなくて、かれの統治者でありかれの国の法なのである。 命をなげだしたのだと、いうべきであろうか。これにこたえ もしだれかが、この学説を、真実でいつわりのないキリスト るために、われわれは、その大義のために死刑にされた人び 教に反するものとして非難するならば、わたくしはかれにつ とのなかで、つぎの区別をしなければならない。かれらのう ぎのようにたずねる。もし、どこかのキリスト教的コモンー 部 ちのある人びとは、公然とキリストの王国を説教し告白する ウエルスのなかの一臣民が、かれの心のなかで内面的にマホ メット教徒であるとして、かれの主権者がかれに、キリスト という召命をうけたのであり、他の人びとは、そういう召命 第 教会の神への礼拝に出席せよと、しかも死刑をもって命令すをうけたことがなく、かれら自身の信仰以上のものを要求さ 5 るばあいに、マホメット教徒は、良心にしたがえは、かれのれなかったのである。まえの種類の人びとは、もしかれら 合法的な王侯のその命令にしたがうよりもむしろ、その大義が、イエス・キリストが死からよみがえるというまさにその

8. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

243 第 3 部 〈とはいえ、自然の理性が放棄されるべぎではない〉それに もかかわらず、われわれは、われわれの諸感覚と経験とを、 放棄すべきなのではないし、また ( うたがわれぬ神の言葉で あるところの ) われわれの自然の理性を放棄すべきなのでも ない。なぜなら、それらは、われわれの祝福された救世主の 再来まで、われわれがなんとかきりぬけていくようにと、か れがわれわれの手中においたものであり、したがって、ひそ かな信仰のナプキンにつつまれるべきではなく、正義と平和 第三十一一章キリスト教の政治学の諸原理 とほんとうの宗教との購買に、使用されるべきであるからで について ある。すなわち、神の言葉のなかには、理性をこえるものご と、換言すれば自然の理性によっては論証も論破もできない 〈予言者たちによってったえられた神の言葉が、キリスト教ものごとが、おおいとはいえ、自然の理性に反するものごと は、なにもないのであって、それがそのようにみえるばあい の政治学の主要原理である〉わたくしは、主権の諸権利と、 は、欠陥は、われわれの不手ぎわな解釈か、まちがった理性 それにたいする臣民の義務とを、自然の諸原理だけからひき だした。その自然の諸原理とは、経験によって真実とわかっ推理かにある。 だから、なにかそこにかかれていることが、われわれの検 たもの、あるいは、同意 ( 言葉の使用にかんする ) が真実た らしめたものであって、、、、 ししカえれば、経験によってわれわ査にとってあまりに困難であるならば、われわれはわれわれ れにしられた人間の本性から、および ( あらゆる政治的な推の理解力をその言葉に密着させるべきであって、理解もでき 理にとって本質的であるような言葉についての ) 普遍的に同ず自然科学のどんな法則にも屈しないような、諸神秘のなか から、論理によってひとつの哲学的真理をえらびだそうと、 意された諸定義から、ということである。けれども、わたく しがつぎにあっかおうとすること、つまりそれはキリスト教努力すべきではない。というのは、われわれの宗教の諸神秘 コモンーウエルスの本性と諸権利であり、そのなかではおおについては、病人のための有益な丸薬についてとおなじなの くが神の意志の超自然的な啓示に依存するのであるが、そうであって、それはまるごとのみこめば治療する能力をもつが、 いうことにおいては、わたくしの論究の根拠は、神の自然の かまれれば、大部分は効果なくふたたび吐きだされるのであ 言葉だけでなく、予言的な言葉でもなければならない。 第三部キリスト教のコモンーウェ ルスについて 195

9. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

261 第 3 部 人をつくり、かれの鼻腔に生命の息 (spiraculum vitae) を威によって、予言したのだとは、しらなかったのである。 ふきこみ、こうして人は生きたたましいとされたと、いわれ おなじような意味で、われわれは ( 申命記三四章九節 ) 、ヨシ ている。そこにおいて、神によってふきこまれた生命の息と ュアは知恵の霊にみちていた、なぜなら、モーシェがかれの は、神がかれに生命をあたえたこと以上の、なにも意味しな うえに手をおいたからである、とかかれているのをよむ。そ そして、 ( ョブ記二七章三節 ) 神の息がわたくしの鼻にあるれは、かれ〔ヨシ = ア〕がモーシェによって、モーシェがみず からはじめたが、死にさまたげられて完了しえなかった事業 あいだ、とは、わたくしが生きているかぎり、ということ以 上のものではない。同様に、エゼキエル書一章二〇節の、生の、執行を命令されたからだ、ということである。 おなじような意味で、 ( ローマ人への手紙八章九節 ) でつぎの 命の霊が輪のなかにあったとは、輪が生きていたということ ようにいわれている。もしだれかがキリストの霊をもたない にひとしい。そして ( 工ゼキエル書二章三〇節 ) 霊がわたくしの ならば、かれはキリストに属するものの一人ではない。その なかにはいって、わたくしをたちあがらせた、とは、わたく しは自分の生命力を回復したということであって、どんな精ばあい意味されるのは、キリストの精霊ではなくて、かれの 霊または無形の実体が、かれの肉体にはいりこみ、それを占説教への従属である。また ( ヨハネの第一の手紙四章二節 ) 、こ うしてあなたがたは神の霊をしるであろう、イエス・キリス 有したというのでもない。 〔邦訳三章二四節。〕 トが肉体としてきたことを告白するすべての霊は、神の霊で 〈第六に、権威への従属として〉民数紀一一章一七節で、わある、というのも同様であって、それによって意味されるの スビリット は、くじけぬキリスト教の精神、すなわちイエスはキリスト たくしは ( と神はいう ) おまえのうえにある霊をとって、か れらのうえにおくであろう、そうすればかれらは、おまえと〔油をぬられたもの〕であるというキリスト教信仰の主要個条へ ともに人民の重荷をになうであろう。すなわち、七〇人の長の従属であり、それは、精霊にかんするものとは解釈されえ 老のうえにというのである。その七〇人のうちの二人が幕屋ない。 おなじように、これらの言葉、すなわち ( ルカによる福音書 のなかで予言しているといわれ、かれらについてだれかが不 四章一節 ) そしてイエスは聖霊 ( それはマタイによる福音書 満をいって、ヨシュアがモーシェにかれらをとどめるように のそんだとき、モーシェはそうしようとしなかった。このば四章一節およびマルコによる福音書一章一二節で明言されて いるように、聖霊のことである ) にみちて、というのは、父 あい、あきらかになるのは、つぎのことである。ヨシュア なる神によってそのためにかれがっかわされたしごとを、お は、かれらがそうする権威をうけとり、モーシェの心にした がって、すなわち、モーシ = 自身の霊に従属する霊または権こなおうとする熱意のことだと理解されうる。ところが、そ

10. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

たモーシ = が、わすか四十日間不在であったときに、かれら部分的には同じ原因によって、イングランドおよび他の多く のキリスト教国において廃止されたのであり、牧者の徳の堕 は、かれがすすめた真の神を崇拝することにそむき、黄金の 仔牛をかれらの神とし、かれらが最近そこから救いだされた落が人民の信仰を衰えさせたのである。またそれは部分的に は、スコラ学者が、宗教のなかに哲学とアリストテレスの教 ばかりのエジプト人の偶像崇拝に逆もどりしたのである。 説とをもち込んだことにもよるのであって、そこから、きわ 〈士師記第一一章一一節〉さらにまた、モーシェ、アーロン、 ヨシ = ア、およびイスラエルにおける神の大いなる御業をみめて多くの矛盾と背理が生じてきた。そのため、聖職者は、 無知と詐欺的な意図とを有するとの世評を受け、人びとは、 た世代が死んだのちには、他の世代がでてパールに仕えた。 フランスやオランダのばあいにはかれらの王侯の意志に反し こうして奇蹟が衰えると信仰もまた衰えたのである。 て、あるいはイングランドのばあいにはその意志と合致し ハビロニア、アシリア 〔ヾールは、フェニキア、カルタゴ、 て、聖職者から離反するようになったのである。 などの東方諸民族の太陽神。〕 最後に、ローマ教会が救済のために必要だとした諸条項の 〈サミエル前書第八章一二節〉また、サミュエルの子たち うちには、法王と他のキリスト教的王侯の領土内に住むかれ が、その父によってベルサビの士師に任命され、賄賂をとっ の精神的臣民とにとって明らかに利益となるものがきわめて て不正な裁きをしたとき、もはやイスラエルの人民は、ほか の人民の王とちが「たやりかたで神をかれらの王に戴くこと多か 0 たから、もしそれらの王侯が相互に張り合わなけれ ば、かれらは、イングランドで行なわれたように、すべての を拒絶し、それ故に、かれらは、サミュエルにたいして、諸 国民のやりかたになら「て、かれらに王を選んでくれと叫ん国外からの権威を戦争や紛争もなく容易に排除しえたであろ だのであ「た。こうして正義が衰えると信仰もまた衰えたのう。すなわち、僧正が国王に冠を授けなければ国王はその権 威をキリストから授けられたのではないとか、国王が祭司で であり、神がかれらを治めるのをしりぞけたほどであった。 キリスト教が植えつけられて行くにつれて、ローマ帝国のあれば結婚できす、王子が合法的結婚によって生まれたか否 あらゆるところで、託宣が消減し、使徒や福音伝道者の説教かはローマの権威によって判定されなければならないとか、 ローマの法廷によって国王が異端と判定されれば臣民はその によって、毎日、各地でキリスト教信者の数が驚異的に増加 して行った。このように成功したのは、その大半は、当時の臣従義務から解除されうるとか、国王は ( フランクのキルペ リッヒのように ) 、理由なく法王によって ( ザカリアス法王の 異邦人の祭司たちが、かれらの汚れと貪欲と王侯たちへのヘ ように ) 処分されて、かれの王国はその臣民の一人に与えら つらいとによって、みずから軽べっされる状態を招いたこと れうるとか、聖職者と修道士はどこの国においても罪を犯し に帰しても差支えないであろう。ローマ教会の宗教もまた、