491 解説 LEVIATHAN, LEVIATHAN, 0 R 0 哀既 The Matter, Forme, & Power The Matter,Forme,&Power OF A 0 F A COMMON-WEALTH COMMON-WEALTH ECCLESIASTICALL を C C L S I A S T I C A L L A N D 人 N D C I VI L L C I V I L L ・ ZyTHOMAsH0bBEsofMalmesbury ・ THOMAS HOBBES ofMaImesbury. LONDON' れ奴人 N 。えを響 C 竄 00 【町せ eGreaD 駅 NO. 43 京都大学上野文庫所蔵。 1651 年版の三 ー 0 N 0 0 N, 記和【 A 0 鳳ー w C ー 00 ー第 , よ hcG - 、 0. 42 ぬところであった。・ ・ : 宗教の儀式と教義を、それが 王と議会と枢密院から命ぜられたゆえに、受容するこ とは、牧師および民衆にとって、便宜であるのみなら ず、積極的にただしかった」 (Trevelyan 【 English social history, 1942. 2nd edn.. 194P P. 174. ) 。ホ ッブズの父も、おそらくこのような牧師の一人であっ たろう。そうだとすれば、「国教ー牧師だということ は、積極的にはあまりいみをもたないのではないだろ 、つ、刀 、 4 3. llth edn., vol. 17 , P, 494. ( 4 ) Art. H0bbes,—D. B. ()Y L. Stephen し Tönnies 【 a. a. 0. S. 2. Ph. DOYle 】 The contem- porary background H0bbes ・ : State 0f Na ・ ture 2C0 0 ミ Dec. 1927. ( 5 ) Tönnies 【 a. a. 0. S. 4. ( 6 ) ホッブズは、四十年のちに、このほんやくは、 アテナイのデモクラシーのおろかさを同胞にしめすた めにおこなわれたのだ、といっている (OP. Lat. lib. I, p. XIV. Cf. Laird 【 Thomas H0bbes, P. 6. ) が、 トウキディデスとホッブズとのかんけいもまた、ひと つの問題たりうるであろう。人間性にたいするペシミ ズムを、ホッブズはトウキディデスからうけついだの だという、かいしやくもある。 A. Bersano: Per la fonti di H0bbes, 188. Tönnies 】 a. a. 0. S. 277. Anm. 4. ( 7 ) マルクスは、ホッブズとべイコンをつぎのよう に対比している。「唯物論は、さらに発展すると一面
505 解説 であるが、ホッブズ自身によれば、外国人の興味をひかぬ部ある。 分を削除したのだという。ホッブズは、イギリス版よりまえ 八〇歳をこえても、ホッブズは著作活動をつづけ、八四歳 に、ラテン語で草稿をかいて、アムステルダム版はそれにものときにラテン語の自叙伝をかき、八六歳でホメロスをほん ( 9 ) とづいたものだとするかいしやくもあるが、すくなくとも、 やくしたが、一六七五年にはロンドンをはなれて、デヴォン 後期ステアート時代の、政治情勢にたいするかなりの配慮シャー家の別邸のある ( ードウィック Hardwick とチャッ が、そこにみられるところからすれば、このかいしやくにも ワース Chatsworth でくらしていた。そして九一歳にして 疑問がある。一六七〇年にはス。ヒノザの神学政治論文がでた なお、数学論文にとりかかったのである。だが、翌年、伯爵 が、それは、その翌年、リヴァイアサンとならんで、オラン の家族とともにチャッワースからハードウィックにうつった ダ宗教会議の漬神書目にのせられた。ホッブズとデカルトと ホッブズは、尿通困難におちいり、中風になってついに死ん は、前述のようになかがわるかったが、 スビノザとホッブズ だ。それは一六七九年一二月四日のことであった。そして一 とは、あったことはなくても、たがいに賞讃していたようで 六八三年の七月には、かれの母校オクスフォードで、市民論 とリヴァイアサンが、人民主権と自己保存とを正当化したと の理由で、禁止され、やきすてられたのである。 ホッブズの性格については、その学説についてとおなじ 意見がさまざまにわかれている。まえにのべた「人間ぎ らい」 ( マルクス ) のかいしやくや、。ヒュリタンのえいきょ うなども、その例である。けれども、たとえばテニエスは、 ディルタイ的な「ホッブズの人間ぎらい」という概念に反対 して、かれは書斎学者ではなく、騎士的行為をこのみ、若い ときは社交的肉体的な快楽をもさけなかった、といいなが ら、しかもホッブズにたいするビュリタンのえいきよう、劇 場のけいはくにたいするホッブズの非難などを指摘してい る。したがって、ホッブズの絶対主権論について、ふたつの 対立するかいしやくが成立したとおなじく、性格について も、貴族的快楽主義とピュリタン的禁欲主義との、ふたつの クロムウ ェノレ
503 解説 ていたが、ジョン・ディヴィズ J0hn Davies という青年が た。そして、ずっとおくれて一六六八年に「プラムホール博 それをフランス人の友人のために訳したいとねがったので、 士へのこたえ」をかいて、無神論と漬神との非難について弁 許可をあたえた。ところが青年は、一六五四年に、ホッブズ 明した ( 出版は一六八一一年 ) 。この論争は、ホッブズの哲学 ( 4 ) の許可のはんいをこえて、僧侶攻げきの手紙をつけてそれを的労作のうちでもすぐれたものにかぞえられ、老いてなおお 出版してしまった。・フラムホールは、とうぜん、この手紙も とろえぬ学問的能力をしめしたのではあるが、最後の弁明が ホッブズのものだとおもい、翌年、かれの従来の議論とホッ ものがたるように、宗教の側からの攻げきの矢おもてに、こ ブズへの反駁とを出版した。これにたいするホッブズの反批の老哲学者をたたせる結果になったのである。 判と弁明は、一六五六年の「自由と必然と偶然にかんする諸 第二の論争は、オクスフォードおよび王立科学協会の数学 問題ーとなってあらわれた。プラムホールは、さらに一六五者や自然科学者とのあいだにおこった。すなわち、ホッブズ 八年に「ホッブズの批判の修正、付録、大鯨リヴァイアサン の論敵は、オクスフォードのウォード Seth Ward,Savilian の捕獲ーを出版したが、ホッブズはこれにはこたえなかっ professor 0f astronomy. Oxf. ウォーリス J0hn 、 a 】一一 Savilia n professor of geometry. Oxf. 両教授、およびロ・ハ ート・、ポイル Robert Boyle, 1627 ー 1691 であった。この論 争は、ホッ・フズとウォーリ スの数学原理にかんする対立から はじまる。ウォーリスはホッブズを幾何学について批判し、 ウォードよ、ウォーリ スをたすけて、哲学的側面からホップ しちおうこ ズをついた。ヂイルとのあいだの物理学論争は、、 れとは別に発生したのではあるが、ホッブズとしては、王立 科学協会 ( 一六六一一年に正式に設立 ) から除外されたうらみ もあって、彼らを一群の敵とかんがえたのである。この論争 は、一六七八年、ホッブズが九〇歳のときまでつづいたが、 けっして数学や物理学の領域だけにとどまらなかった。一六 六一一年にウォーリスは、リヴァイアサンがクロムウエル支持 のためにかかれたことを攻げぎし、ホッブズはこの点につい ( 5 ) て弁明しなければならなかった。 4 ロ
からも、そうおもわれる。 党は、ぞくそくとパリに亡命してきた。デヴォンシャー伯 むしろ、かれをフランスにさそったのは、リシュリュウの は、そのまえに、 一六四二年に上院で弾がいされて亡命して 学芸保護による、フランス文化の平和な発展であっただろ いたが、ニ = ーカスル伯は、マーストンムーアの敗戦で国外。 う。ホッブズはパリで、旧友メルサンヌにむかえられ、四八 にのがれ、ハン・フルグを経て一六四五年にパリについた。や 年にかれが死ぬまでその学問的サークルに参加した。一六四がてネイズビに敗走した皇太子 ( のちのチャールズ二世 ) 一年一月には : テカルトの省察録にたいするホッ。フズの批判 も、翌年の夏にパリに到着し、サン・ジェルメンに亡命宮廷 と、ホッブズの光学論文が、メルサンヌを通じてデカルトに がひらかれた。そしてホッブズは、かれに数学をおしえるこ わたされたが、二人の不和はすでにここにはじまった。デカ とになった。 ルトもメルサンヌのサークルにそくしていたが、このサーク ニューカスル伯の食卓で、デリー の僧正ブラムホール ル全体がカルテジアンであったのではない。 Bramha11 と、自由意志にかんする論争をたたかわせたのも、・ そのあいだに、イギリスの政治的紛争はますます激化し このころであり、ウィリアム・べティ Sir Williåm petty, て、ホッブズの政治理論の発展に素材をあたえた。こうし 1623 ー 87 が、紹介状をもってかれをおとずれたのも、この て、かれの体系の第三部、市民論が、最初にあらわれること前後だったとおもわれる。ホッブズは、わかきペティといっ になったのである。一六四一年一一月一日づけのデヴォンシ しょに、ウエサリウスの解剖学をよんで、のちの人間論の素〔 ャー伯への献辞を付した本書は、一六四一一年にパリで匿名の材をえたが、政治論については、相互にどのようなえいきょ ( 5 ) 自家版として印刷された。この著書の評判はすばらしく、当うをあたえたか、あきらかではない。 時すでにホッブズと不和になっていたデカルトさえ、世間の 皇太子の数学教師という地位は、ソルビエールの祝福する 賞讃を正当とせざるをえなかった。ホッブズをそんけいする ところとなり、ホッブズはかれから、「あなたの学説によっ 医者ソルビエール Sorbiére は、本書の本格的出版をくわだて教育された国王をもっとは、あなたの祖国はなんと幸福な て、それは一六四七年に、あたらしい序文と注をつけくわえ ことだろうーという手紙をうけとった。ホッブズはこれにた ( 4 ) て、アムステルダムのエルセフィル Elzevir から公刊され いして、自分は政治理論ではなく数学をおしえるのであり、 また、市民論の政治学説をおしえるには、皇太子は若すぎる 市民論の初版から再版までのあいだに、イギリスでは。ヒュ のみならず、周囲の人がそれをゆるさないだろう、とこたえ アリタンの勝利があきらかになり、マーストンムーア ( 一六 た。事実、かれは、宮廷の人びとから、無神論者として警放 四四 ) およびネイズビ ( 一六四五 ) のたたかいにやぶれた王されていたのである。ホッブズは、さらに、ソルビエールへ
の本というのは、君主政治であれ民主政治であれ、現在ヨー 的ロッパに樹立されているどんな政府の基本法によっても、そ れの著者が最高度の処罰をうけるにちがいない、そういう本 なのだ」と、ハイドはかいている。かれのホッブズ批判のな かには、この引用文を注意ぶかくよめばわかるように、ホッ ブズが思想の自由を否定したということも、ふくまれて、 た。近代的個人と絶対的主権とのあいだの関連が、問題の核 しうまでもあるまい。 心であることは、、 ( 1 ) 革命の一般的な経過については、浜林正夫「イギリス市 民革命史」 ( 一九五九年 ) 。 ( 2 ) ストラフォードは、人民主権にたいして王権をようごし たが、絶対王制ではなく、権力を王と上院と下院に分割する制 限王制を主張した。 VglTönnies: a. a. 0. S. 19. そのまえ ( 一 六二八年 ) に、聖ディヴィドの僧正マナリング R. Manwaring が、絶対王制をといたために投獄された。 Cf. Laird " lbid•, や 10. ( 3 ) Hobbes 【 EngIish works, V01. 4. や 414. ( 4 ) オランダの出版業者。自由思想家の著作の出版によって 有名。 ( 5 ) ペティは、ホッブズの故郷ウイルトシャーのとなりの、 ハンプシャーの羊毛織元の子である。またホッブズは、かなり ーヴェイとも親交があったらしい まえから、ウィリアム・ ペティがホッブズをたかく評価していたことについては、松川 七郎「ウィリアム・ペティ」 ( 上巻・昭和三十三年 ) 一二六ペ ( 6 ) 一六四七年三月二十二日の手紙。 Cf. Stephen: lbid. ( 7 ) ソルビエールは、序文のなかで、ホッブズの理論をつぎ のように要約している。ホッブズは、国家権力の絶対性を主張 しているのであって、その国家の統治形態が王制であろうと多 数者支配であろうと問題ではない。したがって、ホッブズを王 党の理論家とすることはあたっていない。また、ホッブズは、 人類の平和と一致のためには、イエス・キリストが救世主だと いう信条だけが必要であり、それ以外は宗教的紛争の原因とな るにすぎないといっているが、けっしてキリスト教を否定した り、あらゆる宗教を同一視したりしているわけではない。 Vgl. Tönnies 【 a. a. 0. S. 1. Anm. 22. ( 8 ) ホッブズ自身が、「僧侶の一派 ( プレズビテリアン ) が 私をイギリスからフランスへおい、他の一派 ( 工。ヒスコパル ) がフランスからイギリスへおう」とのべている。 Hobbes:Op 、 Lat. IV, p. 237. Vgl. Tönnies " a. a. 0. S. 45. テニエス ( 9 ) スティーヴンは、根拠がないようだといい、 は、内面的にみればありうることだが、客観的な証拠がないと いう。 Tönnies 【 a. a. 0. S. 49. オクスフォードの。ヒュリタン 勢力の、ホッブズへのえいきようについてとおなじく、ここに も、テニエス的かいしやくの、ニュアンスがあらわれている。 ( ) 一六五二年二月に、エドワード・ニコラスは、「ホップ ズ氏は、ロンドンで、その著作によって彼らの武器と行為を正 当化した人として、好評をうけている」とかいているし、一六 五一年の「政治通信 Merculius politicus 」には、クロムウェ ルのスポークスマン、ニーダム Marchamont Needham か、 ホッブズの法学要綱を、「真の政治理論」として要約している。 VgI. Tönnies 【 a. a. O. SS. & ー 49. ( Ⅱ ) J. BowIe 【 Hobbes and his critics. London 1951. p. 159. この本の内容は、水田洋「近代人の形成』 ( 一九五四年 ) 後篇補論Ⅱに紹介されている。 Cf. S. I. Mintz 】 The hunting
王立科学協会からホッブズが除外さ、れたことが、ウォーリ た。けれども、宗教界と大学、およびクラレンドンのような ( 6 ) 王党右翼は、いぜんとしてかれをうたがい攻げきした。すで スやウォードの敵意によるのかどうかはあきらかではない。 に一六五四年に、市民論がカソリック教会の禁書目録にのせ しかし、直接の理由がどうであろうとも、基本的には、ホッ ( 8 ) られたのであるが、一六六六年に、イギリス下院は、無神論 ・フズがすでに過去の人となりつつあったことが、理由であっ と濆神にかんする法案を審議して、ホッブズをおびやかし たともかんがえられる。ホッブズが、幾何学に代数をもちい た。六五年のベスト 、六六年の大火は、いずれも無神論にた ることを非難したのは、むしろ数学者としてのかれの完全な 失敗をしめすものだとさえ、いわれているが、また、ホップ いする天罰だといわれ、ロチェスター伯の放蕩までも、ホッ ズには、ポイルのような実験の重視はみられない。おそら ブズの学説のえいきようだとされた。一六六九年には、ケン く、ホッブズがべイコンをこえたと同様に、いまやかれ自身プリジ大学でも、ダニエル・スカージル Danie1 Scargil と があたらしい科学者たちによって克服されるときがきたので いう者の不徳な生活はホッブズのえいきようだと判定して、 はないだろうか。皮肉なことに、王立科学協会のそしきを示 フェロウの地位を剥だっした。ホッブズにたいする政治的な 唆したのは、べイコンのニュウ・アトランティスであった。 処罰問題は、ア ーリントン Lord Arlington の尽力で無事に ここに、 べイコン、ホッブズ、ポイルによって代表された近かたづいたが、チャールズ二世はこれ以上事態を悪化させる 代科学の発展段階が、近代社会の成立史とどのようなかんけことをおそれたのか、ホッブズの政治的および宗教的著作の いをもっかという、ひとつの間題が提出されているわけであ公刊をゆるさなかった。それで、リヴァイアサンの再版は禁 る。 止されて、古本の価値を高め、アーリントンにささげられた 一六五八年十月にクロムウエルが死んで、共和制が崩壊の長期議会論 Behemoth は、一六六八年ごろ完成したが出版 されなかった ( 一六七九年に秘密出版 ) 。 みちをたどり、一六六〇年にはチャールズ二世の復辟となっ た。ホッ、、フズはデヴォンシャー伯とともに王の帰還をむか しかし、外国におけるホイフズの名声はいよいよたかく、 え、王もまた、老哲学者を宮廷にまねいて、サミュエル・ク ルイ十四世はかれに年金をあたえることを承諾し ( 実現はし ーにかれの肖像をかかせた。同時に、年金百ポンドをあなかった ) 、 トスカナ大公コジモ三世は、一六六九年に、メ たえたが、これはそのころの多くの年金とおなじく、王室財ディチ文庫のためにホッブズの肖像と著作集をもとめた。 政の窮迫のために、とどこおりがちであった。 一六六七年には、アムステルダムでリヴァイアサンのオラ このように、国王自身は、ホッブズに悪感情をもっていな ンダ訳が出版され、その翌年にはラテン語版が出版された。 イギリス版とラテン版の差異は、しばしば問題となるところ かったし、貴族のなかにかれを支持する者はすくなくなかっ
489 解説 、・ツー・、”ドまな、 - 立ス第洋ヤ シャー伯のいとこにあたり、兄 は王党の政治家であると同時に 背る学芸保護者であり、弟は数学や 物理学などの新科学の研究家で 絵て ロつあった。かれらはこのころから 、のな , にガリレイに注目し、ホッブズ の雑 は、一六一一一三年にロンドンで、 も粗 ~ るがチャールズのためにガリレイの のか「対話」をさがしたがえられな 蠱を : 様き 一模かカった 花て 一六三四年に、ホッブズはデ にし 一扉とヴォンシャー伯をつれて、三た 全び大陸にわたった。この旅行 も、大部分の時間はパリですご ( 毒 ( なされ、ホッブズの名は、あたら 。「版が 初雲しい学問の中心地パリで、評判 になりはじめた。ホッブズは、 的対象に適用して、客観的な人間分析を可能ならしめようと メルサンヌ Marin Mersenne, 1588 ー 1 望 8 のサークルにむ ( 9 ) したのである。 かえられ、一」一」でガッサンディ Petrus Gassendi, 1592 ー 1655 一六三一年に、かれはデヴォンシャー伯未亡人によってパ やデカルト René De cartes, 1596 ー 1650 と知ったのである リからよびもどされ、三代目ウィリアム・キャヴェンディシ が、一六三六年ごろにはフィレンツェにガリレイをたずね 一六一七ー八四 ) の家庭教師となって、修辞学、論理学、 た。ガリレイが、ホッブズに、倫理学の幾何学的とりあっか 天文学、法学をおしえた。この時期にかれは、ウエルべック いを示唆した、という説もあるが、根拠はうたがわしい。し の伯爵邸で、ニューカスル伯ウィリアムやその弟チャール かし、ホッブズが、ガリレイにたいしてつねに最大の尊敬を ズ・十ャヴェンディシュを知った。かれらは二代目デヴォン はらっていたのは、たしかである。
まではシティでその機会をも である統治者たちがしることのできない、人びとの内面の思往来することができたのに、い 浦想および信仰についていえば ( なぜなら、神だけが心をしるちうるようになった。すでに一六四五年には、ウォー John Wa11is によって、王立科学協会の前身がロンドンにつ のだから ) 、それらは意志にもとづくものではなく、諸法の ( 1 ) けつかでもなく、あらわれない意志と神のカのけつかなのでくられていた。ホッブズがロンドンで、とくにしたしくした ーヴェイとジョン・セルドウン JOhn のは、ウィリアム・ハ あり、したがって、拘東のもとにおかれないのである」 ( 二 ーヴェイよ、・ ヘイコンの主 Selden 15 ー 16 であって、ハ 四九ー一一五〇 ) 。 治医だったのであるが、ホッブズの哲学を、べイコンのそれ このような議論の展開をつうじて、ホッブズは、第一に、 法王権力を、宗教と政治の分離によって排除しておいて、第よりもはるかにたかく評価した。セルドウンは一六五四年 ーヴェイは五七年に、それそれ十ポンドの遺贈をする 一一に、国家権力を、政治行動と個人信仰の分離によって、 ことによって、ホッブズに敬意を表した。 ( 同時に個人信仰と神との直結によって ) 、個人からきりはな このような学問的交際と並行して、体系完成の努力はつづ し、第三には、キリスト教信仰そのものを、イエスが人類の けられ、一六五五年には、ながいあいだ期待されていた物体 贖罪者であるという一点に抽象化することによって、中立化 してしまうのである。このような巧妙で果敢なたたかいを、 論が出版された。ホッ、、フズは、この書物をデヴォンシャー伯 たとえ若干の貴族の保護があったにせよ、これまで疑問の余に献じたが、その献辞において、またも神学を痛烈に批判し たのであった。神学は、聖書というたしかな足と、形而上学 地のなかった国家と教会の権力にたいして、ホッブズがいど という貪欲な足とをもつ、妖怪であると、かれはのべてい むことができたのはなぜであろうか。ここまでかんがえてく ( 3 ) ると、一方では、「思想」へのかれの誠実さ、他方では、イ ギリス革命に爆発的表現をもっ歴史的発展への、かれの敏感 一六五八年に人間論が出版されて、ホッブズの三部作は完 さを、なまなましくおもいうかべざるをえないのである。 成した。しかし、人間論の内容は、一六四六年ごろの光学論 文をもふくんでいて、体系的整備の点では前著におよばな 4 晩年 。体系の完全な仕あげをさまたげたのは、老齢だけではな 帰国後のホッブズは、むしろ政争にまきこまれるのを極力く、またしてもかれをまきこんだ二つの論争であった。 第一の論争は、前述の、ブラムホールとの自由意志論争の さけていたようである。かれが滞在したロンドンは、このと きは、たんに政治経済の中心であるのみならず、学問の中心再燃である。亡命中にニ = ーカスル侯のもとでプラムホール と論争したホッブズは、論敵への反駁をかいて手もとにおい ともなっていた。かっては貴族の別荘でのみ、有名な学者と
497 抽象的な絶対主権の概念、そして旧主権者が人民を保護す かならずしも恐怖にかられただけのものとはいえないであろ う。まえにもふれておいたように、新共和国へのかれの期待る能力をうしない、新主権者がその能力をもつにいたったな は、次第につよくなっていたのではないかと、かんがえられらば、人民は後者にしたがう自由を有するという主張は、た るからである。エドワード・ ( イドが、なぜこのような本をしかに、クロムウエルの新政権の正当化として利用しうるで かいたのかとたずねたとき、ホッブズは、じつは国にかえりあろう。しかし、クロムウエルが護民官となったのは一六五 三年であるから、ホッブズが、執筆の当初から、クロムウェ たいからだとこたえたという。ハイドはここから、かれがリ ル政権の基礎づけを意図したとみるのは、無理である。とい ヴァイアサンをクロムウエルのためにかいたと推測し、さら って、ホッブズの行動 ( 帰国 ) と理論が、革命政権にあくま に、帰国後はクロムウエルからある地位を提供された、とま で敵対するものではなかったことも、うたがいをいれない。 でいっているが、ことにこの後の点については、証拠がな ( 9 ) 、 0 ハイドは、まえにのべたように、ホッブズやゴドルフィン . とともにグレート・テュウ・サークルにそくし、モー ン・ホールにおけるホッブズの後輩でもあった。しかも、ホ ツブズとおなじウイルトシャーの出身でさえあったが、革命・ のなかで、意見の対立があきらかになっていった。織布業者 像の甥と新興ジェントリという対比も、意味のないことではな 肖 、。ホッ・フズの市民論が出版されたとき、ハイドは、ジャー の ズ ジー島の亡命地からホッブズに手紙をかいて、その本をもと ・ゴドルフィノ : 、 、カ二百ポンドをかれ め、同時に、シドニー ホ に、したことをつたえた。このような交流にも」かかわら スず、ハイドは、『リヴァイアサン』について、もっとも強硬 な批判者の一人であった。 「すべての知恵と宗教そのものを、市民政府へのたんなる従 順と服従に解消してしまったほどに、市民政府へのおおきな 尊敬をもっていた人物が、こういう本を公刊したことについ て、わたくしは、これほど不可解なことはないとおもう。そ
487 解説 である。 はじめには、伯父はかれを、オクスフォードのモードリン・ ホールに入学させたのである。当時のオクスフォードでは、 一六一〇年に、ホッブズは、青年伯爵とともに大陸旅行に 大学の規律はかなりゆるんでいて、一方ではビュアリタンの出発した。この年は、フランス王アンリ四世がラヴェャック 勢力がはいりこんで宗教的紛争をひきおこし、他方、教壇で Ravai11ac に暗殺され、一六〇五年のイギリス国王暗殺計画 モナルコマキ Gunpowder p10t とともに、ジェズィット的暴君放伐論にも は旧態依然たるスコラ的な講義がおこなわれていた。ホップ ーニヤのジェズィット神学者に ズは、あまり講義に気がむかす、小鳥をとらえたり旅行記をとづくものとされた。エスパ して政治理論家、スアレス Fr. Suårez, 1548 ー 1617 の権威 よんだりしていたという。モードリン・ホールでは、。ヒュア は、なおオクスフォードにおよび、また、暴君放伐の理論は、 リタンの勢力がきわめてつよかったが、それからホッ、、フズが スコットランドのカルヴィニストに大きなえいきようをあた どれほどの思想的えいきようをうけたかは、問題としてのこ ( 4 ) えた。こうした政情不安のなかを、ホッブズと伯爵はフラ される。 ンス、イタリアに旅行したが、これらの国では、ホッブズが 一六〇八年に大学をおえると、モードリンの校長は、ホッ オクスフォードでまなんだ古い哲学は、もはや嘲笑のまとと 。フズを、 ードウィックの男爵ウィリアム・キャヴェンディ シ = William Cavendish, Ba 「 on 0 ( Hardwick, d. 】 626 のなっていたのである。 ホッブズが文筆業者ないし学者になろうと決心したのは、 ちの初代デヴォンシャー伯 Earl of l)evonshire に、長男の この旅行中であったらしいが、帰国後は、伯爵の秘書として 家庭教師としてすいせんした。長男は同名ウィリアム・キャ ともにくらしながら、余瑕を古典の研究と、わすれかけたラ ヴェンディシュ 1591 7 ー 1628 で、二代目デヴォンシャー伯 テン作文の復習についやした。ホッブズが研究した古典は、 である。ホッブズとキャヴェンディシュ家との関係は、この ときにはじまり、終生たたれることがなかった。とくに、若主として歴史家であって、それは伯爵の政治的興味によると き伯爵とすごしたその後の一一十年は、生涯のうちでも「とも同時に、かれ自身が、政治理論の理解のために歴史研究が必 幸福な時期だったと、ホッ・フズはいっている。かれはこの青要だとかんがえたためであるといわれる。かれの政治への関 年の教師というより友人であって、青年はかれを狩にともな心は、すでにきわめてつよかったようである。この研究の成 ; 、トウキディデスのペロポネスス戦記のほんや また、濫費のあげくホッブズを金策にはしらせたことも果のひとつが ( 6 ) くであった。だが、一六一一八年に伯爵が死んだため、ほんや しばしばであった。伯爵のいとこにあたるニューカスル伯 くの出版はおくれて翌年となり、伯爵未亡人は、夫の浪費に ( のちのニエーカスル侯 ) は、すぐれた学芸保護者としてし よって破綻した家計を整理するため、いちおうホッブズを解 られ、ホッ・フズも、のちにのべるようにその保護をうけるの