処罰 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン
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1. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

〈コモンーウエルスの代表は処罰されえない〉第十に、コモ は、人びとを法に従うようにしむけることを目的としている のに、その害は、 ( それがもしも法に違犯する利益よりも少ンーウエルスの代表にたいして課せられる害は、処罰ではな く敵対的な行為である。というのは、処罰の本質は、公的権 ないならば ) 、その目的を達成しないで反対の効果を生むか によっ 威ーーーそれは、その代表自体の権威だけであるが らである。 〈処罰が法に付記されているばあいには、それより大きい害て課せられることなのだからである。 は、処罰ではなく、敵対である〉第八に、もしも処罰が、法〈叛逆した臣民にたいする害は、戦争の権利によってなされ るのであって処罰としてではない〉最後に、敵であると宣言 それ自体のなかに定められ規定されていて、犯行後、それよ りも重い処罰が課せられるならば、それをこえた分は、処罰したものに課せられる害は、処罰の名称のなかには含まれな というのは、かれらは、いまだかって法に服従したこと ではなく敵対的な行為である。すなわち、処罰のねらいは、 復讐ではなくて威嚇にあること、また、未知の重い処罰にたがなく、それ故、それに違犯しえないか、またはいままでそ いする威嚇がそれより軽い処罰の宣告によって除去されるのれに服従していて今後はそうではないと公言したためにその だから、予期していない付加分は、処罰のなかには含まれな帰結としてかれらがそれに違犯することを否認するかのいす いのである。だが、まったくなんらの処罰も法が定めていなれかであるから、かれらにたいしてなされるすべての害は、 いばあいには、課せられるものはすべて、処罰の性質を有す敵対的な行為と考えられるべきである。そして、敵対が宣言 されれば、 いかなる害を課しても合法的である。であるか るのである。というのは、そのなかに刑罰が定められていな ら、もしもある臣民が行為または言葉によって、故意にかっ い法に違犯しようとする者は、無限定の、すなわち恣意的な 熟慮のすえ、そのコモンーウエルスの代表の権威を否認する 処罰を予期しているからである。 とすれば、 ( まえもって叛逆にたいしていかなる刑罰が定め 〈法が存在する以前になされた犯罪事実のために課せられる られていたとしても ) 、かれが、代表の意のままにいかに処分 害は処罰ではない〉第九に、それを禁じた法が存在しないう されようとも合法的なのである。というのは、服従を否認す ちになされた犯罪事実のために課せられる害は、処罰ではな く敵対的な行為である。すなわち、その法が存在するまで ることによって、かれは、法に定められている処罰を否認す るのであり、それ故、コモンーウエルスの敵として、すなわ は、その法の侵犯はありえないからである。ところで、処罰 は、判決された犯罪事実が、法を侵犯したと想定しているのち代表の意志に応じて害を課せられるのである。というの であり、それ故、法が作られる以前に課せられる害は、処罰は、法に定められている処罰は、臣民にたいするものであっ て、自分たちの行為によってこれまで臣民であったのに、熟 ではなく敵対的な行為である。 、 0

2. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

によって決定されていれば、かれはそれに従うのであり、そそれが作られる以前にはしられえず、したがって、義務づけ ることはできないからである。しかし、ある犯行を禁止する 1 うでなければ、かれは、恣意的な処罰に従うのである。とい うのは、自分自身の意志による制限以外にはなんらの制限も法が、その犯行がなされる以前に作られているばあいに、も なくて、侵害する者は、それによって自己の法を犯された者しも、その後に定められる刑罰よりも軽い刑罰が、書面によ っても前例によってもしらせられていなかったならば、その の意志以外にはなんらの制限もない処罰を受けるのは当然な 犯行をなす者は、その後に定められた刑罰を受けるべきであ ことだからである。 〈犯行前に宣示されていた処罰よりも重い処罰が犯行後宣一小る。その理由は、すぐまえでのべたとおりである。 されてもそれは免れる〉しかしながら、法自体のなかで、犯〈正邪についてのあやまった諸原理は犯罪の原因となる〉推 罪として刑罰が付記されているか、類似のばあいにこれまで理における欠陥から ( すなわち誤謬から ) 、人びとは、三通 りの方法で、法を犯しがちである。第一は、あやまった原理 いつも課せられてきたかのどちらかであれば、そのばあいに いかに、あらゆる場 は、違犯者は、それよりも重い刑罰を受けることはない。すの推定によるものであって、たとえば、 なわち、あらかじめしられた処罰が、人びとに、その行為を所や時代において、不正な行為が、それを行なった人びとの 控えさせるにたるほど重くなければ、それは行為への誘惑でカと勝利によって権威づけられてきたか、ということ、ま たいかに有力者たちが、その国の、あいまいな法を犯して ある。というのは、人びとは、かれらが不法な行為をするさ いながら、勢力の弱い人やその冒険に失敗した人びとだけが いの利益とそれにたいする処罰の損害とを比較するばあい かれらは、自然必然的に、自分たちにとってもっともよいと犯罪者とみなされてきたか、ということを人びとが観察し て、そこから、かれらの推理の原理や基礎をとりあげるばあ 思われるほうを選ぶからである。それ故、その法が、以前に いがそれである。それは、正義とは空虚な語にすぎないこ その法が定めていた以上に重く処罰したり、あるいは、同一 の犯罪について他人よりも重く処罰したりするばあいには、 と、人が自分自身の勤労と冒険によって獲得しうるものはす 人びとを誘惑したり欺いたりするのは、法そのものなのであべて自分のものであること、国民のすべてが習慣とするとこ る。 ろは不正ではありえないこと、まえの時代の先例は同様なこ 〈犯行後に作られた法によっては、なにごとも犯罪とはされとをふたたび行なうための十分な論拠であること、および、 さらに多くのこの種のことである。これらが許容されると、 えない〉犯行後に作られた法では、それを犯罪とはなしえな いかなる行為も、それ自体では犯罪たりえず、 ( 法によって 、。というのは、その犯行が自然の法に反するものであれ ではなく ) それを行なう人びとの成果によって、そうされる ば、その犯行前にも、その法があったわけだが、実定法は、

3. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

しわけになるの て、その安全のために、すべての主権は定められたものなのまでは、市民法をしらないということは、い、 し力なる市民法も義務づけること だからである。だが、このことは、かれらを保護する権力をである。そのときまでは、、、 はないからである。 除くことに参加しなかった人びとについてのみいえること だ、と解すべきである。というのは、そうすることは、はじ 〈市民法をしらないということは、ときにはいいわけにな めから犯罪だったからである。 る〉同様にして、ある人自身の国の市民法が、かれがしろう と思えばしりうるように十分に宣示されていなかったり、あ 〈自然の法をしらないということは、だれにもいいわけにな らない〉あらゆる犯罪のみなもとは、理解力の不足、推理のるいは、その行為が自然の法に反していなかったりすれば、 さいの誤謬、または情念の突然の高まりにある。理解力の不しらないということはりつばないいわけとなる。他のばあい しわけにならない には、市民法をしらないということは、、、 足は無知であり、推理のそれはあやまった意見である。さら に、無知には、三種類すなわち、法についてのもの、主権者のである。 〈主権者をしらないということはいいわけにはならない〉主 についてのもの、刑罰についてのものがある。自然の法をし 権をしらないということは、人がふだんに住んでいる場所に らないということは、だれにもいいわけにはならない。とい というのは、かれはそこで 、わけにならない。 うのは、理性を使用するにいたったすべての人は、自分にたおいては、しし 自分がすっと保護を受けている権力に注意すべきだからであ いしてなされるのをのぞまないことを他人にたいしてすべき る。 ではない、ということをしっているものと考えられるからで しわけにはならない〉刑 ある。もしもある人が、インドからここへきて、新しい宗教〈刑罰をしらないということは、、、 を受け入れるように、 ここの人びとに説得したり、この国の罰をしらないということは、その法が宣示されているところ 法に服従しないようにするなにかをかれらに教えたりすれでは、だれにとってもいいわけにはならない。すなわち、あ ば、たとえかれが、自分の教えていることの真実性につ とにくる刑罰への恐怖を感じることなく破れる法は、法では なくて、空虚な言葉にすぎないのであって、かれは、その刑罰 て、いかに申し分なく信じていても、かれは犯罪を犯してい 部 るのであって、そのために処罰されても正当なのである。そがなんであるかをしらなくても刑罰を受けるのである。とい うのは、自発的になんらかの行為をする者はだれでも、その れは、かれの教説が虚偽だからというだけではなく、他人に 第 しられている帰結のすべてを受容するのであって、あらゆる ついて是認しないことーーすなわち、ここから行って、そこ コモンーウエルスにおいて、法を犯せば処罰されるというの の宗教を変更しようと努力することーーを、かれがするから は、しられている帰結だからである。この処罰が、すでに法 である。だが、他国にある人が、かれに市民法が宣示される

4. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

し力なる尊敬のしるし 〈・報償を与え処罰する権利、しかも ( その方法を定めたれらが、公私の会合において相互に、、、 法律がないばあいには ) それを自由に裁量できる権利〉第十を与え合うべきかを定めることも主権に属するのである。 一に、主権者には、かれが以前に作っておいた法律に従っ 〈これらの諸権利は分割されえない〉これらのものが、主権 て、あるいは、もしも法律が作られていなければ、人びとがの中核をなす諸権利であって、それらは、主権が、いかなる コモンーウエルスへ奉仕するのを勇気づけ、それに害を与え人またはいかなる合議体におかれ、また属しているかを識別 るのを阻止するのにもっとも役立っとかれが考えるように、 するための指標である。というのは、それらは、分与するこ 各臣民にたいして、財産や栄誉によって報償を与え、体罰やとも分割することもできないからである。貨幣鋳造権、未成 罰金または栄誉の剥奪によって処罰する権限がゆだねられて年相続者の財産と人格を処分する権限、市場での先買権、そ いるのである。 の他すべての大権事項は、主権者によって譲渡されうるかも しれないが、かれの臣民を保護する権限だけは留保されるで 〈・栄誉と序列をきめる権利〉最後に、人びとは、生来、 どのような価値を自分におきたがるものなのか、他人からどあろう。しかし、もしもかれが軍事〔カ〕を譲渡するならば、・ のような尊敬をえようと期待するものなのか、他人をいかに法律が実施されないから、かれが司法権を留保していてもそ 低く評価するものなのか、そして、そのために、かれらのあのかいがないのである。また、もしもかれが、貨幣徴収権を いだで、たえす、競争、口論、内紛、そしてついには戦争が譲渡するならば、軍事〔カ〕をもっていてもそのかいがなく、 生じて相互に殺し合い、共通の敵にたいするかれらの力を減また、諸学説を規制することをやめれば、人びとは、霊的な ものへの恐怖によって反乱においやられるであろう。だか ずるものなのか、という点を考えるならば、栄誉にかんする 諸法とコモンーウエルスによって報償をうけるだけの功績のら、われわれが、前記の諸権利のうちのどれか一つでも考察 ある人びとや、報償をうけるに足ることをなしうる人びとのしてみれば、その権利以外のすべてを保有していても、あ ねうちについての公的評価がなければならないし、また、そらゆるコモンーウエルス設立の目的たる平和と正義の維持に は、なんの効果もないことがただちにわかるであろう。そし れらの法を施行するための権力がだれかの手中になければな 部 て、この〔主権の〕分割については、内部で〔主権の〕分割され らないのである。ところで、全軍事すなわちコモンーウエル た王国は存立しえない、といわれている。というのは、はじ スの兵力だけでなく、あらゆる争論にかんする司法権もま めにこの〔主権の〕分割が行なわれてなければ、軍隊が互いに 第た、主権に属するものであることはすでにのべた。したがっ て、栄誉にかんする称号を与えること、各人がどのような地分裂して対立することは決して起こりえないからである。も しも、これらの権限は、国王・上院・下院に分割されている 位または位階の序列を保持すべきかを定めること、また、か

5. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

にかそれ以外の立法者の意志の証拠によって、人びとにしらある。すなわち、それは、神のおきて ( はじめからあったも されたものである。 のではなく、すべての人に普遍的に告げられるものでもなく、 〈もう一つの法の区分〉さらにまた、実定法には、人定的な特定の国民や特定の人格だけに告げられるもの ) なので、神 ものと神的なものとがある。そして、人定的な実定法には、 がそれらを宣示するように権威づけた人びとによって宣示さ 分配的なものと刑罰的なものとがある。分配的なものとは、 れるのである。だが、これらの神の実定法がなんであるかを 臣民たちの諸権利を定めるものであって、各人にたいして、 宣示すべき人間の権威は、いかにしてしられうるか。神は、 かれの土地や財貨の所有権、行為の権利または自由を取得さ超自然的な仕方で、ある人に、その法を他の人びとにも伝達 せ保有させるのはいかなるものであるかを宣示するものであすべきことを命令するかもしれない。しかし、義務づけられ る。そして、それらは、すべての臣民に告げるものである。 る者が、それを宣示する者の権威について確信をもっている 刑罰的なものとは、法を犯す人びとこよ、 冫。しかなる刑罰が課せということは、法の本質に属するのに、われわれは、その権 られるべきかを宣示し、それを施行するよう任命された代行威が、神からでたということを自然的にはしりえないのであ 者や役人に告げるものである。というのは、各人は、その犯る。でよ、、、 。し力にして、人は、超自然的啓示がなくとも、宣 罪にたいして、どういう処罰を受けるかあらかじめしらされ示者が受けとった啓示に確信をもちうるのであるか、また、 るべきであるが、にもかかわらず、命令は、違犯者 ( かれが いかにしてかれは、それに服従するよう義務づけられるの 誠実に自己を処罰するとは考えられない ) にたいしてだけで か。第一の問題、すなわち、ある人が、かれ自身への個別的 はなく、刑罰の施行を監督するために任命された公的代行者な啓示もないのに、どうして、他人への啓示について確信を にたいして発せられるのである。そして、これらの刑罰にか もちうるかといえば、それは、明らかに不可能なことであ んする法は、たいてい、分配的な法とともに成文化されてい る。というのは、人は、他人がなしているのをみる諸奇蹟か て、ときには判決とも呼ばれる。すなわち、すべての法は、 ら、または、かれの生活の異常な神聖さやかれの行為の異常 立法者の一般的判断すなわち判決なのであって、それと同じ な知恵や至福をみることから、そういう啓示を信じるにいた く、おのおのの個別的な判決は、訴訟事件で裁判を受けた人るのであり、これらすべては、神の異常な恩寵のしるしなの にとっては法なのである。 だが、人びとは、その特別な啓示の証拠に確信をもてるわけ 〈神の実定法は、いかにして法であることをしらせられる に ( いかないのである。奇蹟は驚くべきわざではあるが、し か〉神の実定法 ( というのは、自然法は、永遠かっ普遍的で かし、ある人にとっては驚くべきものでも、他人にとっては あるからすべて神的なものである ) とは、次のようなものでそうではないかもしれないのである。神聖さは、こしらえら

6. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

205 第 2 部 ものを用いるのを強めたのである。したがってそれは、かれ為だということである。というのは、纂奪された権力の行為 に与えられたのではなくて、かれにしかもかれだけに残されは、有罪とされた者の人格を本人としてもたないからであ たのであり、そして、 ( 自然法がかれにたいして定めた制限 り、したがって、公的権威の行為ではないのである。 をのぞいては ) 、まったくの自然状態、各人のその隣人にた 〈将来の善を考慮せずに課せられる苦痛も処罰ではない〉第 いする戦争状態におけると同じく、そっくりそのまま残され五に、違犯者または ( かれをみせしめとすることによって ) たのである。 他の人びとを法に従うようにしむけるという意図または可能 〈私的な侵害および復讐は処罰ではない〉処罰の定義からみ性なしに、課せられるすべての害は、処罰ではなく敵対的な て、わたくしは第一に、私人による私的な復讐や侵害は、正行為だ、ということである。というのは、こういう目的がな 当には処罰とは呼ばれえないと推論する。それらは、公的権けれま、 冫いかに傷害が与えられようとも、その名称のもとに 威にもとづくものではないからである。 は含まれないからである。 〈昇進が認められないのも処罰ではない〉第二に、公的な昇〈自然的な悪い帰結は処罰ではない〉第六に、一定の行為に 進からみはなされること、引き立てられないことは処罰では は、自然的にさまざまな有害な諸帰結がともなうものである ということである。というのは、それによって新しい から、たとえば、人が他人に暴行を加えて自分自身が斬り殺 苦痛がだれかに課せられるのではないからである。かれはたされたり傷つけられたりするばあい、または、かれが、ある だ、かれが以前にいた地位に残されているのにすぎないから不法な行為をすることによって病気になるばあいには、そう である。 いう苦痛は、自然の創造者である神との関連においては課せ 〈公的審理なしに課せられる苦痛も処罰ではない〉第三に、 られたといいうるし、したがって、神の処罰だといいうるけ まえもって公的な有罪宣告がなく、公的権威によって課せられども、それは、人間の権威によって課せられたのではない れる害は、処罰の名で呼ばれるべきではなく、敵対行為の名から、人びととの関連においては、処罰の名称のなかには含 で呼ばれるべきだ、ということである。というのは、人がそまれないのである。 のために処罰される犯罪事実は、まず公的権威によって法の 〈課せられる害が、侵犯による利益よりも少なければそれは 違犯であると判決されるべきだからである。 処罰ではない〉第七に、もしも課せられる害が、なされた犯 〈纂奪された権力によって課せられる苦痛も処罰ではない〉罪に自然にともなう利益や満足よりも少なければ、その害 第四に、纂奪された権力や主権者からの権威をえていない裁は、前述の定義のなかには含まれず、犯罪の処罰というより 判官によって課せられる苦痛は、処罰ではなく、敵対的な行 はむしろ代償または償いである。というのは、処罰の本質

7. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

とはいえ ) 法によって除去することはできず、したがって、 と、監禁というのである。 それらの喪失は処罰ではない。しかし、後者は、それらを名〈追放〉追放 ( 放逐 ) とは、人が犯罪のために、コモンーウ 誉あるものとした公的権威によって除去されうるのであり、 エルスの領土あるいはその特定の部分から離れて、まえもっ それが本来の処罰なのである。それは、たとえば、有罪とさて定められた期間または永久にそこにもどらないように宣告 れた人びとの記章、称号、職務の降等、あるいは、かれらが されるばあいである。そして、それは、それ自身の性質にお 将来そのようなものをもっ資格がないとの宣告である。 いては、他の事情がなければ処罰ではなくて、むしろ逃走あ 〈監禁〉監禁とは、人が公的権威によって自由を奪われるば るいは処罰を避けるために逃亡せよとの公的命令だと思われ あいで、二つのちがった目的から生じる。その一つは、告訴るのである。そして、キケロは、ローマの都市では、決して された人の予防拘禁であり、もう一つは、有罪とされた人に このような処罰は定められていなかったといい 、それを、危 苦痛を課することである。前者は処罰ではない 。というの険に陥った人びとの退避と呼んでいるのである。すなわち、 十よ、 いかなる人も、適法に審理され有罪宣告がなされるまでもしも放逐された人が、それでもなお、かれの財貨や土地収 は処罰されるべきだとは想定されないからである。それ故、 入を享受することを許されるならば、たんなる空気の変更 ある人が、かれの訴訟が審理されるまえに、かれを確実に拘 は、なんら処罰ではなく、またそれは、すべての処罰が定め 禁するのに必要な程度以上に、枷や東縛によって罰せられる られた理由であるコモンーウエルスの利益 ( すなわち、人び 害はすべて、自然の法に反するのである。だが、後者は処罰との意志が法を遵守するように作りあげていくこと ) に役立 である。というのは、それは害であり、公的権威によって法 たないで、しばしばコモンーウエルスに損害を与えるほうに に違犯したと判決されたあることにたいして、その同じ権威役立つのである。というのは、放逐された人は、もはやかれ によって課せられたものだからである。この監禁という語にを放逐したコモンーウエルスの成員ではないから、それの合 よって、わたくしは、外的障害によってひき起こされるあら法的な敵となるからである。しかし、もしもかれが、そのう ゆる運動の東縛を含ませる。その障害が、牢獄という一般的えに、かれの土地や財貨を奪われるならば、処罰は追放にあ 名称で呼ばれる建物であろうと、または、人がそこに幽閉さ るのではなくて、金銭的処罰の一つとみなされるべきなので れるといわれるばあいのように島であろうと、あるいは、古ある。 代において人びとが、石切場へ、現代ではガリー船への有罪〈罪のない臣民を処罰するのは自然の法に反する〉罪のない 宣告を受けるような、人がそこで働かされる場所であろうと、 臣民たちを処罰するのはすべて、重かるうが軽かろうが自然 または、それが鎖やそれに似た他のどのような障害であろうの法に反する。処罰はただ法に違犯したときだけになされる

8. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

を行なうことはないのである。 か、についての判定者たることも主権に属するのである。 〈 5 ・主権者の行為はすべて、臣民によって処罰されえない〉 というのは、人びとのもろもろの行為は、かれらの意見に 第五に、以上のべてきたことからして、主権者が処刑された由来し、平和と和合をはかるために人びとの行為をうまく規 り、そのほかのやりかたで、臣民によって処罰されたりする 制することは、その意見をうまく規制することに存するから である。そして、教説上の問題については、真理のみが尊重 のは不当なことである。というのは、すべての臣民が、その 主権者の行為の本人なのだから、かれ〔臣民〕は、自分が行されるべきであるが、しかし、そのことは、平和のために教 なった行為によって、他人〔主権者〕を処罰することになる説を規制することとなんら矛盾しないのである。というの からである。 は、平和と和合が、自然の法に反しえないのと同じく、平和 〈 6 ・主権者は、臣民の平和と防衛に必要なことがらの判定と矛盾する教説は、真理ではありえないからである。統治者 者である〉そして、この〔主権者の〕設立の目的が、かれらすや教師たちの怠慢や未熟さから、もろもろのあやまった教説 べての平和と防衛にあり、かっ、その目的にたいする権利をが、しだいに、一般にうけいれられるようになったコモンー 有する者はだれでも、その手段にたいする権利をも有するか ウエルスにおいては、それに反対するもろもろの真理は、た ら、次のことがらは当然、主権をもつ人や合議体に属するのしかに、一般的にきらわれるであろう。しかし、新しい真理 が、きわめて突発的に強引に立ち現われても、決して平和を である。すなわち、平和と防衛の手段、および平和と防衛に ついて障害や妨害になることがらの判定者となり、国内の不破壊するものではありえず、ただ、ときに争いをひき起こす にすぎないのである。というのは、人びとが、怠慢な統治を 和と国外からの侵略を予防することにより、平和と安全を維引 うけていて、ある意見の擁護や導入のためにあえて武器をと 持するために事前に、また、平和と安全が失われたときには それを回復するために、かれが必要と思うすべてのことを行るほどであれば、かれらは、なお、戦闘状態にあるのであ り、その状態は、平和ではなくて、相互の恐怖による休戦に なうようなことである。したがって、 〈そして〔主権者は〕、いかなる教説が人びとに教えられるのすぎず、かれらは、、わば、たえす戦闘地区に生活している ようなものだからである。したがって、平和に必要なことと し力なる意 に適しているかどうかの判定者である〉第六に、、、 して、意見と教説にかんする判定者たること、あるいは、あ 見や教説が、平和に反するか、また貢献するかということ、 らゆる判定者を任命すること、またそれによって、不和と内 したがって、人びとが、どのようなばあいに、どの程度に、 なにを群衆にたいして語ることを許されるか、また、だれ乱を予防することは、主権者に属するのである。 が、あらゆる書物の教説を、その公刊前に検閲すべきである 〈 7 ・臣民のおのおのに、他の臣民が、権利の侵害をなすこ

9. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

207 第 2 部 慮したすえに反逆し、主権を否認する人びとのような敵にたふつうに貨幣で売買される土地その他のあらゆる財貨を奪う いするものではないからである。 ことである。そして、もしも、こういう処罰を定める法が 処罰の、第一の、もっとも一般的な分類は、神のものと人その法に違犯するであろうような人びとから貨幣を集めよう 間のものとの分類である。前者については、わたくしは、のという企図のもとに作られるならば、それは、本来は、処罰 ちに、もっと適当な個所でのべる機会があるだろう。 ではなくて特権と法の免除の代償であり、その法は、その行 人定的なものとは、人間のおきてによって課せられる処罰為を絶対的に禁じているのではなく、貨幣を支払えない人び であって、肉体的なものか、金銭的なものか、汚辱か、監禁とにたいしてのみ禁じているのである。ただし、その法が、 か、追放か、これらを混合したものかのいすれかである。 自然的なものあるいは宗教の一部であるばあいには別で、そ 〈肉体的処罰〉肉体的処罰とは、直接にかっそれを課する者のばあいには、それは法の免除ではなくて、法の違犯だから の意図に応じて肉体に課せられる処罰である。たとえば、鞭である。たとえば、法が神の名を乱用する人びとから金銭的 打ちゃ傷害や、以前には合法的に享受された肉体の喜びの剥 科料をとりたてるばあい、その科料の支払いは、神の名をと 奪などがそれである。 なえることの特免状の代償ではなくて、法の違犯にたいする 〈いのちにかかわるもの〉そして、これらのうちには、 しの免れられない処罰なのである。同様に、もしも法が、侵害さ ちにかかわるものといのちにかかわらないものとがある。 れた者にある額の貨幣を支払うべきことを課するとすれば、 のちにかかわるものとは死を課することであり、単純なもの これは、損害を受けた者への弁済にすぎす、侵害された当事 か苦痛をともなうものかのいずれかがある。いのちにかかわ者の告訴を消減させるが、違犯者の犯罪を消減させるもので はないのである。 らないものとは、鞭打ち、傷害、鎖つなぎその他のあらゆる 肉体的苦痛であって、それ自身の性質としてはいのちにかか 〈汚辱〉汚辱とは、不名誉になるような害を課すること、あ わるものではないのである。すなわち、もしも処罰を課する るいは、コモンーウエルスによって名誉とされるような利益 にさいして、課する者の意図ではなかったのに死にいたらしを奪うことである。すなわち、勇気、大度、強さ、知恵その めたとすれば、その害は、予見されえない事由によって死に他の身心の諸能力の効果のように、自然によって名誉あるも いたらしめられたのであり、その処罰は、いのちにかかわるのもあり、またそのほかに、記章、称号、職務その他のすべ ものとみなされるべきではない。このばあいには、死が課せ コモンーウ ての主権者による愛顧の特殊なしるしのように、 られるのではなく、早められるのである。 エルスによって名誉あるものとされるものもある。前者は 金銭的処罰とは、ある額の貨幣を奪うことだけではなく、 ( それらは、自然によりまた偶然によって衰えることがある

10. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

つけ加えることはできようが、これまでわたくしが記してき ということである。すなわち、これまでのべてきたことから 2 たことで、他のいかなる犯罪についても、だれもが、その重して、いかなる人も暴力に抵抗しないように信約によって義 さをはかることができると確信する。 務づけられるとは考えられす、したがって、かれが、自分の 〈公的犯罪とはなにか〉最後に、大半の犯罪において、私人身体に暴力を加えるなんらかの権利を他人に与えるようにし にたいしてだけでなくコモンーウエルスにたいしても侵害が たとは考えられないからである。コモンーウエルスを作るさ なされているから、同じ犯罪でも、コモンーウエルスの名に いに、各人は他人を防衛する権利は放棄するが、自分自身を おいて告訴されるばあいには公的犯罪と呼ばれ、私人の名に防衛する権利は放棄していない。またかれは、主権を有する おいて告訴されるばあいには私的犯罪と呼ばれる。そして、 者が他人を処罰するにさいして、主権者を援助するよう自己 裁判もそれに応じて、公的なものすなわち公的裁判、王座裁を義務づけるが、自分自身の処罰にさいしてはそうではない 判と呼ばれるか、あるいは私的裁判と呼ばれるのである。たのである。だが、主権者が他人に苦痛を与えるさいに、主権 とえば、謀殺の告訴において、告訴人が私人であればその裁者を援助するよう信約するのは、それを信約する者がみすか 判は私的裁判であり、告訴人が主権者であれば、その裁判は、 らそういう権利を有するのでなければ、かれに処罰の権利を 公的裁判なのである。 コモンー 与えることにはならない。したがって、明らかに、 ウエルス ( すなわちそれを代表する人または人びと ) が有す る処罰の権利は、臣民たちの譲歩や贈与にもとづくものでは 第二十八章処罰と報酬について 決してない。そうではなくて、わたくしがまえに示しておい たように、すべての人は、コモンーウエルスの設立前には、 〈処罰の定義〉処罰とは、公的権威によって課せられた害で かれが自分の維持にとって必要だと思うあらゆるものにたい あり、その権威によって、法に違犯すると判決される作為まする権利といかなることをもなしうる権利、またそのため たは不作為をした者にたいして、人びとの意志がよりよく服 に、だれをも屈従させ傷つけ殺す権利を有していたのであっ 従へ向うようにとの目的で課せられるのである。 て、そして、このことが、各コモンーウエルスにおいて行使 〈処罰の権利はどこからひきだされるか〉わたくしが、この されるあの処罰の権利の基礎をなすものなのである。すなわ 定義からなんらかのことを推論するまえに答えなければならち、臣民たちがその権利を主権者に与えたのではなくて、た ない、きわめて重要な一つの間題がある。それよ、、 だ、かれら自身のものを放棄することによって、主権者が、 処罰の権利は、または権威は、どの扉から入ってきたのか、 かれら全体の維持のために適当だと思う通りに、かれ自身の