えられるべきだと宣告された教義を、かれらが服従をささげ たのである。だから、使徒たちが、かれらが改宗させた人び るように義務づけられた先行の法でそれに反対するものがな 3 とにおわせたであろう負担とは、諸法と理解されるべきでは いかぎり、おしえることを義務づけられたのである。だから なくて、救済をもとめた人びとに提示された諸条件と理解さ れるべきである。その諸条件をかれらは、かれら自身の危険といって、他のすべてのキリスト教徒が、かれらがおしえる において、うけいれても拒否してもよかったのであり、それことをまもるように、義務づけられるというのではない。な はあたらしい罪をともなわなかった。ただし、かれらの過去ぜなら、かれらは、自分たちがおのおのなにをおしえるべき かについて、熟慮したかもしれないが、それでも、他の人び の罪のために、有罪とされ、神の王国からしめだされるとい う、危険をともなわないわけではなかった。だから、不信心者とがなにをなすべきかを熟慮することは、かれらの合議体が については、聖ョ ( ネは、〈ョ ( ネによる福音書三章三六節〉立法権力をもっていたのでないかぎり、できなかったのだか らである。それをもっことは、政治的主権者たち以外には、 神のいかりがかれらのうえにくるであろうとはいわないで、 だれにもできなかったのである。すなわち、神は、世界全部 神のいかりがかれらのうえにとどまるであろうといっている のだし、〈ョ ( ネによる福音書三章一八節〉かれらは有罪との主権者であるにしても、われわれは、各人が神の名前で提 示するどんなものをも、神の法と解するように拘東されては されるであろうといわないで、かれらはすでに有罪とされて いないし、神がわれわれに明言をもって市民法への服従を命 いるといっているのである。また、信仰の利益が、罪の赦免 じた、その市民法に反するなにごとをも、そうするように拘 であると考えることは、われわれが同時にまた、不信心の損 害が、おなじ罪の保留であると考えるのでないかぎり、不可束されてはいないのである。 それで、使徒たちの顧問会議の諸決議は、そのときは法で 能である。 はなくて助言にすぎなかったことからすれば、まして、それ しかしながら、使徒たち、およびかれらの時代ののちには いらいのだれかほかの博士たちあるいは顧間会議の諸決議 教会の他の牧者たちが、信仰と態度の双方についてのどんな は、政治的主権者の権威なしに会議したならば、法ではない。 教義がおしえられるべきかにかんして、合意するために、い っしょにあつまるということは、もしだれもかれらの宗令をしたがって、新約の諸篇はキリスト教の教義のきわめて完全 まもるように、義務づけられていないとすれば、なにを目的な諸規則ではあるけれども、王たちあるいは主権的諸合議体 の権威のほかの、どんな権威によっても、諸法とされること とするのか。これにたいして、つぎのようにこたえていいで はできない あろう。その顧問会議の使徒たちおよび長老たちは、かれら われわれが今日もっている聖書を、規範とした、最初の顧 がそこにはいったことによってさえ、そこで結論され、おし
312 スト教の信仰告白者の、合議せる会衆のことと解されるのでもまた、不法な合議体である。 あって、そのことは、かれらの告白の真偽にかかわらない。 〈キリスト教のコモンーウエルスと教会はまったく同一であ マタイによる福音書一八章一七節で、それを教会につげなさ る〉したがってまた、地上には、すべてのキリスト教徒が服 オい。なぜ そしてもし、かれが教会のいうことに耳をかたむけよう従しなければならぬような、普遍的教会は存在しょ としないならば、かれは異邦人か収税吏であるはずだといわなら、地上には、他のすべてのコモンーウエルスが臣従する 権力は、ないからである。そこには、それそれの王侯と国家 れるときに、理解されるとおりである。 〈どんな意味で教会は一人格であるのか〉そして、この最後の領土のなかにキリスト教徒たちがいる。しかしかれらのお のおのは、かれ自身が成員であるコモンーウエルスに、臣従 の意味においてのみ、教会はひとつの人格と解されうる。 すなわち、それは、意志し、断定し、命令し、服従され、諸しているのであって、したがって、他のどんな人格の命令に も、臣従しえない。そして、それだから、命令したり、判 法をつくり、あるいはなんであれその他の行為をする力を、 決、赦免、断罪したり、あるいは他のなにかの行為をしたり もつものといわれうるのである。すなわち、合法的な会衆か らの権威がなければ、人びとの集合においてなされる行為することのできるものとしての、教会は、キリスト教徒たる シヴィル は、どんなものでも、そこに出席していて、それの遂行に助人びとからなる政治的コモンーウエルスと、同一物であっ 力したすべての各人の、個別的な行為なのであって、かれらて、その臣民が人間であるために政治国家とよばれ、その臣 すべての総体の、一体であるかのような、行為ではない。ま民がキリスト教徒であるために教会とよばれるのである。現 して、そこにいなかったものや、そこにいながらそれがなさ世的および霊的な統治とは、人びとがかれらの合法的主権者 れることに同意していなかったものの、行為ではない。〈教を、二重にみて誤解するようにと、この世にもちこまれたふ たつの言葉にすぎない。たしかに、信仰ぶかい人びとの身体 会の定義〉この意味にしたがってわたくしは教会を、つぎの は、復活ののちには、霊的であるだけでなく永遠のものでも ようなものとして定義する。キリストの宗教を信じているこ あろうが、しかし、この世においては、それらは、粗末な、 とを告白する人びとの一団で、ひとりの主権者の人格におい て合一したもの。かれの命令によってかれらは合議すべきで腐敗すべきものである。だからこの世においては、国家につ いても宗教についても、現世的な政府のほかには、政府はな あり、かれの権威なしにはかれらは合議してはならない。そ いし、その国家とその宗教との双方について政府が、おしえ して、すべてのコモンーウエルスにおいて、政治的主権者の アセンプル られることを禁止するどんな教義の教授も、どんな臣民にと 許可のない合議体は、不法であるから、その合議を禁じてし まったあらゆるコモンーウエルスにおいては、合議した教会っても合法的ではない。しかも、統治者はひとつでなけれ、は
あり、また ( かれらの企図が邪悪であったり、コモンーウェ ンーウエルスの保護をうけていて、私兵による防衛を必要と ルスにしられていないばあいには ) 非合法でもある。という しないからである。完全に文明化されていない国のなかで のは、私人たちのカのあらゆる結合は、邪悪な意図のための は、数多くの大家族が絶えず敵対して生活していて、私兵を ものなら不正であり、意図のわからないものならば公共体に もって相互に侵略しあったが、まったく明らかにかれらのし とって危険であり、それをかくしていることは不正だからでたことは不正だったのであり、不正でないとすれば、かれら ある。 はコモンーウエルスをもたなかったのである。 〈秘密の徒党〉もしも、主権が一大合議体にあり、多数の人〈統治のための諸党派〉そして、血縁による党派が不正なも びとつまり合議体内の党派が、なんらの権威づけもないの のであるように、法王派、新教徒などのような宗教にかんす に、残りの者を指導しようともくろんで、別に離れて協議する統治のための諸党派、古代ローマの貴族派と平民派、古代 るとすれば、これは、かれらの個別的な利害のために合議体ギリシャの貴族派と民主派のような国家の統治のための諸党 をまどわす詐欺行為であるから、非合法な党派であり徒党で派もまた不正なものである。それらは、人民の平和と安全に ある。しかし、もしも自分の私的利害が合議体で討論された反し、主権者の手から剣を奪うことになるからである。 り判決をうけることになっている人が、できるだけ多くの味〈人びとの集まり〉人びとの集まりは、非正規な団体であっ 方を作るとしても、このさいには、かれは、合議体内の党派て、それが合法的なものであるか非合法的なものであるか ではないから、そうすることは、かれにおいては不正なこと は、集まった者の理由と人数によってきまる。もしも、その ではない。そして、かれが、そのような味方を金銭で買収し理由が合法的で明白であれば、その集まりは合法的である。 ても、 ( それを禁止する明白な法律がないかぎり ) 、それでも たとえば、教会や公開の催しものにおいての人びとの通常の 不正なことではないのである。というのは、ときには、 ( 人集まりで、人数が通常であるものがそれである。というの っ びとの風習がそうであるように ) 、金銭がなければ裁判は行は、数が異常に多ければ、理由が明白でなくなり、したが なわれえす、また各人は、自分の訴訟事件が審理され判決さて、自分がそのなかにいることについて特別な相当な理由を れるまでは、自分の主張が正しいと思ってよいからである。 説明しえない者は、非合法で不穏な意図をもっていると判断 〈私的な諸家族のあいだの不和〉あらゆるコモンーウエルス されるべきだからである。千人の者が、裁判官または長官に において、もしも一私人が、かれの領地の統治とその合法的提出される請願に加わるのは合法的であろうが、もしもそれ な仕事のために必要とするよりも多くの召使を抱えているなを提出するのに千人もやってくれば、それは不穏な集会であ る。 らば、それは党派であり非合法なものである。かれは、コモ
127 第 2 部 合だというのに等しい。したがって、ここで危険だといわれしても、それは、王政という形態に帰せられるべきではなく ていることは、人びとーー・この人びとは、きわめて大きな名て、臣民たちの野心やかれらの義務についての無知に帰せら 誉と利益のある職務を目ざして竸争者となるーーの闘争かられるべきなのである。他方、主権が大合議体にある大きなコ この不都合は、われわれが王モンーウエルスにおいて、宣戦・講和および立法にかんする 生じるのでなければならない。 政とよぶ統治形態から生じるものでないことを明らかにする協議をするのは、あたかも、未成年者の君主が統治するのと ために、次の点を考えてみよう。すなわち、前任の君主が、か同じ状態だといえる。というのは、未成年の君主は、与えら れの未成年の継承者をだれが保護すべきかを遣書によって明れた助言に異議を唱える判断力を欠き、かれがゆだねられて いる人びとまたは人の助言をうけ入れざるをえないが、同様 白に、あるいは、そういうばあいに認められている慣習を抑 に、合議体も、多数者の助言には、それが良くても悪くても 制しないで暗々裡に任命したとすれば、前述の不都合は ( も しもそれが生じるなら ) 、王政にではなく、臣民たちの野心異議を唱える自由をもたないからである。また、未成年者の 君主は、その人格と権威を維持するために、補佐人や保護者 と不正義に帰せられるべきであり、そのような不都合は、し かなる種類の統治においても、人民がその義務と主権の諸権を必要とするが、同様に、 ( 大きなコモンーウエルスでは ) 、 利について十分に教育されていないところでは同じく生じる主権合議体は、あらゆる重大な危機や動乱にさいして、自由 いいかえれば独裁者あるいはその権威の保護者 ものなのである。また、前任の君主が、こういう保護につい の番人たち、 て、なんら指図をしていなかったとすれば、そのさいには、 たちを必要とするのである。それらは、一時的な君主に等し く、それにたいしてかれら〔主権合議体〕は、自分たちの権力 自然の法が、十分な規則ーーそれは、本来的に、この未成年 の一切の行使を一時的にゆだねるのであるが ( その期間の終 者の権威を維持することに最大の利益を有し、かれの死やか れを弱めることによって最小の利益しかえられないような人るときには ) 、未成年の君主たちが、その保護者や摂政その が保護すべきだというーー・を定めておいたのである。という他の後見者たちによって権力を奪われるよりも、よりしばし のは、人はすべて、生来、自分自身の利益と昇進を求めるか ば、その権力を奪われたのであった。 ら、未成年者を破減させ、かれに害を加えることによって昇 、これまでのべてきたように、主権の種類には、三つしかな 進できる人びとに未成年者をゆだねるのは、保護ではなくてく、一人の人が主権をもっ王政か、臣民たちの一般的合議体 裏切り行為だからである。そこで、未成年者が統治するさい がそれをもっ民主政治か、指名かその他の方法で爾余の人び に、当然に起こりうる争いにたいして、周到な配慮がなされとから区別された一定の人びとのなかにそれがある貴族政治 かである。〈王政およびその他の形態の定義〉にもかかわら るならば、たとえ、公共の平和を乱すような闘争が起こると
第三に、ローマ市民は、以前には、 ( たとえば ) 、ユダヤの の人に統治されている人びとは、その統治者が死ぬゃいな 国を長官によって統治していたが、だからといって、ユダヤや、そうなるであろう。この人工の永遠性は、人びとが継承 が民主政治だったとはいえないのである。というのは、かれの権利と呼ぶものなのである。 らは、自分たちのうちのだれでもが参加する権利をもつ、なん 継承の決定が、現主権者にないような、完全な統治形態と らかの合議体によって統治されていなかったからである。ま いうものはない。というのは、もしもそれが、だれか他の特 た、かれらは、貴族政治だったのでもない。というのは、か定の人か私的合議体にあるならば、それは、臣従する人格の れらは、かれらの選挙によって、だれでもが参加できる合議なかにあり、主権者が思いのままに、わがものとすることが 体に統治されていたのでもなかったからである。かれらは、 できるのであって、したがって、この権利は、かれ自身のな 一人格に統治されていたのであり、それは、ローマの市民に かにあるからである。そして、もしも、それが特定の人にで とっては、市民の合議体すなわち民主政治だったのだが、統はなく、新たに選定するままにほっておかれているとすれ 治に参加する権利をまったくもたなかったユダヤの人民につ ば、そのばあいには、コモンーウエルスは解体するのであ いては、君主だったわけである。というのは、人民がみすか り、その権利は、それを獲得しうる者にあり、〔そのことは〕 ら、かれらの仲間から選んだ合議体に統治されているばあい 人びとが、一時的ではなく永続的な安全のために、コモンー には、その統治は、民主政治または貴族政治といえるが、か ウエルスを設立したという、かれらの意図に反するのであ る。 れらが、自分たちで選んだのではない合議体に統治されてい るときには、それは王政であるからである。もっともそれ 民主政治においては、統治されるべき人びとがなくならな は、一人の人の他の人にたいするものではなく、一国民の他 いかぎり、全合議体がなくなることはない。したがって、継 国民にたいするものである。 承者にかんする問題は、この統治形態においては、まったく 〈継承権について〉これらすべての統治形態において、その起こりえないわけである。 素材は、死減する運命にあり、君主たちにかぎらす、全合議 貴族政治においては、合議体のうちのだれかが死んだとき 体もまた死減するのだから、人工的人間とみなされる秩序が には、かれの空席をうめる者の選挙は、主権者たる合議体に 存在したのと同じく、人びとの平和を維持するためには、生あり、あらゆる忠告者や役人の選択はその合議体に属するの 命の人工的永遠性とみなされる秩序が存在することも必要で である。というのは、代表が行為者として行なうことは、臣 民各人が、本人として行なうことだからである。そして、主 四ある。それがなければ、合議体に統治されている人びとは、 ート * 任期ごとに、戦争状態に逆もどりしてしまうだろうし、一人権合議体が、その法廷〔合議体〕を補充する新しい人びとを選
173 第 2 部 されない人びとは、そういうばあいに、無理強いすべきすぐおいてはこれはできないのであって、そこでは、 ( 難問にで あうごとに ) 、人は、かれがとるべき方針をしらされるより れた忠告をまったくもちえないことがわかるのである。 もむしろ、それについての議論の多様性に驚かされ眩惑され 第五に、忠告者の数が変らないと仮定すれば、かれらを別 るのである。そのうえさらに、助言のために召集された多数 別にしてきくほうが、合議体においてきくよりも、よい忠告 の人びとからなる合議体のなかには、雄弁であると思われ、 がえられるのである。それには多くの理由がある。第一に、 かれらから別々にきくことによ「て、各人の助言をえるわけまた政治学をし「ていると思われようという野心をも「てい る人びとがいないとはいえないのである。かれらは、提案さ どが、しかし、合議体においては、かれらの多くは、自分自 れた仕事にとくに意を用いることなく、多くの著作者たちの 身の意向によってではなく他人の雄弁に動かされて、あるい は、反論することによってまえに話した人びとや合議体全体さまざまに色どられたつながりや断片からなる多彩な弁舌に たいする称賛をえようと第一に心掛けて、その助言を与える を怒らせはしないか、または、反対意見に賛成した人びとよ のである。それは、少なくとも、真剣な討議の時間を奪い去 りも理解力がにぶいと思われはしないか、と恐れて、自分た ちの助言を、しかりまたは否、あるいは、手と足をもって伝るばかげたことであって、それは別々に忠告するという秘密 のやりかたによって容易に避けられるのである。第四に、秘 えるのである。第二に、多数の人びとからなる合議体におい 密にしておくべき審議冫 こついては ( 公的な仕事においてはそ ては、公共体と反対の利害をもつ人びとが必すあるもので、 ういうばあいが多いが ) 、多数の、とくに合議体における忠 これらの人びとは、かれらの情念を激しいものにし、情念は 雄弁にし、雄弁は他の人びとを同じ助言に引き入れるのであ告は危険であり、それ故、大合議体は、そういう事項にもっ とも精通しており、かっその誠実さをかれらがもっとも信用 る。すなわち、人びとの情念は、はなればなれであるなら ば、一個の燃えさしの執のように適度なものであるが、合議している人びとからなる、より小人数の合議体に委任せざる 体においては、多くの燃えさしが相互に火をつけあうようにをえないのである。 結論的にいって、自分の子供たちの結婚、土地の処分、家 ( とくに、かれらが互いに弁舌でたきつけるときは ) 、コモ ンーウエルスに忠告するというロ実のもとに、それに火事を計の統制、私的財産の管理について、忠告者の一大合議体に 忠告の労をわずらわしたり、その忠告を受け入れたりするこ 起こさせるにいたるのである。第三に、各人から別々にきく とを喜ぶ者が果たしてあるだろうか。ましてや、かれらのな ばあいには、しばしば話の腰を折ったり、反対意見をのべたり して、かれが助言する理由や根拠の真実性とか可能性とかをかに、かれの繁栄をのぞまぬような者がいるとすればなおさ らのことである。人が、多くの賢明な忠告者の助けによって、 ( 必要があれば ) 吟味することができるのである。合議体に
153 第 2 部 至当なことでもある。というのは、そうしなければ、その人って、相互に異なる法をもっていたり、地域的に遠く離れた は、契約された債務の支払いを義務づけられるだろうし、他りしているばあいには、統治の管理は、さまざまな人に委任 の人びとが行なった犯罪についても責任をとることになるだ されるので、主権者がそこに住まずに委任によって統治され ろうからである。しかし、主権合議体においては、この自由る国は、属州と呼ばれるのである。しかし、属州自体に存在 は、次の二つの理由から認められないのである。というのする合議体を通じて、それを統治する例はきわめてまれであ は、そこで抗議する者は、かれらの主権を否定する者だから る。ローマ人は、多くの属州の主権を有したが、それらを、 であり、また主権によって命令されることはなんであれ、臣ローマ市や隣接諸領土を統治したのと同じように合議体によ 民にかんしては ( 神の目からは必すしもつねにそうとはかぎ ってではなく、つねに、総督や代官によって統治したのであ らないが ) 、その命令によって正当化されるのである。各臣る。イングランドからヴァージニアやサマー諸島に植民する 民は、そういう命令の本人だからである。 ために、移民が送られたときにも同様であって、そこにいる 〈属州・植民地・都市の統治のための政治体〉政治体の種類人びとの統治は、ロンドンにある合議体に委任されたが、こ は、ほとんど無限にある。というのは、政治体は、それを設れらの合議体は、その統治にあたって、その地のいかなる合 ける必要のあるさまざまな業務によって差異があり、その業議体にも決して委任することなく、各植民地に知事を派遣し 務には、 しいつくせないほどの多様性があるというだけではたのであった。というのは、、、 し力なる人も、自分が出席しう なく、また、時と場所と成員の数にかんして、多くの制限をるところでは統治に参与したいという生来の欲望をもってい 受けることによっても差異があるからである。そして、かれるが、かれらが出席しえないところでは、かれらの共通利益 らの業務という点についていえば、統治するために設けられの管理を、民主的形態よりもむしろ王政的形態の統治に委任 たものもある。たとえば、第一に、属州の統治は、すべてのするという、これまた生来の傾向をもっているからである。 決定を多数決におく合議体に委任されうる。そのばあいにそのことは、私的な大領地をもっている人びとにおいてもま は、この合議体は政治体であり、かれらの権力は、委任によた明らかであって、かれらは、自分の仕事の管理に労力をか って制限されているのである。この属州という語は、仕事のけたくないときには、友人たちか召使たちのいずれかの合議 負担または配慮という意味をあらわし、その仕事をもってい 体よりも、一人の召使に委任するほうを選ぶからである。し る者が、かれのためにまたかれの支配下で運営されるよう かし、事実はどうであれ、合議体に、属州または植民地の綺 に、その負担や配慮を他の人に委任することなのである。そ治を委任するばあいがありうるのである。そのさいに、 れ故、一つのコモンーウ = ルスのなかに、さまざまな国があでわたくしがのべるべきことは、次のことである。すなわ
359 第 3 部 エストーテスおよびラテン語でアンティスティーテスとよばそれぞれの都会におけるキリスト教徒の諸合議体によるほか れた。それらの語があらわすのは、合議体における主要人物の、えらびかたがかってあったのでもない。 であって、かれの職務は、票をかそえること、それによって おなじことはまた、ローマの司教たちの選挙において、今 だれがえらばれたかを宣告することであったし、そして、票日にいたるまでひきつづいている慣行によってもまた、確認 がひとしいばあいには、かれ自身の票をくわえることによっ される。というのは、もしあるところの司教が、どこかの都 て問題のことがらを決定すること、なのであった。それは、 市における牧者の職務について、かれがそこからでて、その へつの人 会議の司会者の職務である。そして ( すべての教会は、おな職務をべつのところに創設するためにいくときに、、、 じゃりかたで叙任されたかれらの長老をもっていたから ) 、 をその継承者にえらぶ権利をもっていたならば、かれは、か ( テイトウスへの手紙一章五節 ) ~ ミ 33 ・れが最後に居住して死んだところにおけるかれの継承者を、 9 p 。爿わたくしは、あなたが各都市で長老たちを設定す任命する権利をずっとおおくもっていたのであり、ところ るようにという、この理由であなたをクレタにのこしてきた がわれわれは、ローマのどんな司教もかってその継承者を任 ( のように ) 設定するという言葉であるばあいには、われわ命したことを、しらないのである。すなわち、かれらはなが れはおなじことを、すなわち、かれが信仰のあつい人びとを いあいだ、人民によってえらばれたのであって、われわれ よびあつめて、投票の多数性によって、かれらにたいして長が、選挙についてのダマスクスとウルシキヌスのあいだにお こった騒乱によって、しることができるとおりである。それ 老たちを叙任するということを、理解すべぎなのである。ど は、アンミアヌス・マルケリヌスのいうところではたいへん んな為政者でも合議体による以外のやりかたでえらばれたの を、おそらくけっして人びとがみたことのない、ある都会おおきなものであって、そのために知事ュウエンテイウス は、両者のあいだに平和を維持することができず、都市のそ で、もし、その都会のうちでキリスト教徒となった人びと が、かれらの教師および指導者、すなわちかれらの長老 ( べとにでることを余儀なくされたほどであったし、その教会自 つのよびかたでは司教 ) の選挙について、聖パウロによって体のなかで、そのさいに、百人以上の人が死んだことがわか ったほどであった。そして、かれら〔司教たら〕は、のちに、 ( 使徒行伝一四章二三節 ) 挙手してえらんだという言葉において はじめはローマの全聖職者によって、つぎに枢機卿たちによ 暗示された、この投票の多数性以外のやりかたを、おもいっ くほどであるというのは、奇妙なことであった。また、司教って、えらばれたとはいえ、だれもかれの先行者によって継 たちをえらぶのに ( 皇帝たちが、司教たちのあいだでの平和承者に任命されることはなかった。したがって、もしかれら が、かれら自身の継承者たちを任命する権利を、主張しなか の維持のために、かれらを規制する必要を感じるまえには ) 、 291
て組合化された集団があって、かれらだけが、その国で販売ンーウエルスにとってきわめて有益なものとなるであろう。 しうる商品を輸出するというばあいに、それは、国内におい さて、商人たちのこれらの団体の目的は、団体全体の共同 ては購入を独占し、国外においては販売を独占することとな 利益ではなく ( このばあいには、個人的投資から、船の建 る。すなわち、国内では、ただ一つの購入者しかなく、国外造、購入、食糧積込み、船員配置のために控除されるもの以 では、ただ一つの販売者しかないわけで、それによって商人外には、なんら共同の財産はない ) 、各投資者の個人的利得で たちは、国内ではより安い価格で購入し、国外ではより高い あるから、各人が、自分のものの使用について精通している 価格で販売するのだから、そのいずれも、かれらにとっては のは、つまり、各人が合議体に属していてそれを運営する権 有利なのである。そして、国外では、外国商品の唯一の購入限をもち、また、その経理に精通しているのは当然なことで 者であり、それらを国内で販売するのも唯一つであるから、 ある。それ故、こういう団体の代表は、その団体のあらゆる そのいずれもまた、投資者たちにとって有利なのである。 成員が、協議に出席しようと思えば出席しうるような合議体 この二重の独占は、一方では、国内の人民に不利益とな でなければならないのである。 り、他方では、外国人にも不利益となる。というのは、かれ もしも、商人たちの政治体が、かれらの代表合議体の行為 らは、国内では輸出を独占することによって、人民の農業やによって、その団体外の人と債務契約を結べば、各成員は、 手工業にたいして思い通りの価格を定め、また、人民が必要それぞれに、全体について責任がある。というのは、団体外 とするすべての外国商品の輸入を独占することによって、思 の人は、団体内の私的な規則をしらす、かれらを、その成員 い通りの価格を定めるからである。これらは、 : しすれも、その数だけの個人とみなし、だれか一人の弁済がすべてを弁済 の人民のためにならない。逆に、国産商品の国外における販するまでは、各人は、全部を弁済するように義務づけられる 売を独占し、その地での外国商品の購入を独占することによ ものと考えるからである。しかし、もしも債務が、その集団 って、かれらは、前者の価格をつりあげ、後者の価格をひくのうちの一人の者にたいするものであれば、債権者は、全体 めて外国人に不利益を与えるのである。というのは、唯一人という点からみたら自己の債務者であり、それ故、そこにな んらかの共同財産があれば、そこからだけかれの債務を要求 の者が販売するところでは、商品はより高価になるし、唯一 できる。 人の者が購入するところでは、より廉価になるからである。 第 それ故、こういう組合は独占にほかならない。しかし、もし もしも、コモンーウエルスが、その団体に課税するなら ば、それは、各成員にたいして、集団におけるかれらの個別 もかれらが、外国市場では一つの団体に結東し、国内では、 各人がいかなる価格で購人し販売しても自由であれば、コモ的投資に比例して課せられるのだと解される。というのは、 120
れ以上の人びとの合議体にあり、その合議体には、全体の人意味する ) と呼ぶが、しかし、わたくしは、統治の欠如がな が参加する権利をもっか、あるいはそうではなくて、他の人にか新しい種類の統治だと考える人があろうとは思わない びととは区別された一定の人びとがその権利をもっかのいずし、また、同じ理由から、人びとがある統治を好むときと好 れかであるから、コモンーウエルスの種類が三つしかありえまぬとき、あるいは統治者に抑圧されているときとで、統治 ないのは明らかである。すなわち、代表は、一人かあるいは の種類が異なると考えるべきだとも思わないのである。 それ以上かであるに違いなく、もし一一人以上であるならば、 〈他の権威に従属する代表は危険である〉絶対的自由の状態 そのさいには、それは、全体の人びとの合議体か一部の人び にある人びとよ、 。いかなる合議体にでもそういう権威を与え との合議体かである。代表が一人の人であるばあいには、そることができるのと同じく、明らかに、かれらが欲するなら のコモンーウエルスは王政であり、それが、そこに会合する ば、一人の人に権威を与えて、かれら各人を代表させること 全体の人びとの合議体であるばあいには、それは民主政治す ができる。したがって、かれらが良しと思えば、他のいかな なわち、民主的コモンーウ = ルスであり、それが、一部の人る代表〔者〕にたいすると同じように、みすからを絶対的に、 びとだけの合議体であるばあいには、貴族政治と呼ばれるの君主に服従させることができるのである。したがって、すで である。その他の種類のコモンーウエルスはありえない。と に主権が樹立されているところでは、同一の人民がそのほか いうのは、一人かそれ以上か全体かのいずれかが、主権 ( そに、ある特定の目的のために設けられた制限された主権者に れが分割できないことはすでにのべた ) の全体をもたなけれよる代表をのぞき、代表〔者〕をもっことはありえないのであ ばならないからである。 る。というのは、それは、二人の主権者を樹立することにな 〈暴政と寡頭政治は、王政と貴族政治の別名にすぎない〉歴るからであり、また、各人は、その人格を一一人の行為者によ 史や政治にかんする書物のなかには、暴政や寡頭政治といっ って代表されることになり、そのため、相互に対抗しあうこ たような、なにか別の統治の名称がみられる。しかし、それとになり、 ( 人びとが平和に生活しようとするなら ) 分割し らは、なにか異なった統治形態の名称ではなくて、同一の統 9 えない権力を、どうしても分割しなければならないからであ 治形態について不満をもったときの名称なのである。・つま る。そして、そのことにより、人びとが、すべての主権設立 り、王政下にあって、それに不満をもつ人びとは、それを暴の目的に反する戦争状態に陥るのを余儀なくさせるのであ る。であるから、主権をもっ合議体が、その領土内の人民に 政と呼び、貴族政治を喜ばない人びとは、それを寡頭政治と たいして、かれらの助言や要求を告げる権限をもっ代理人た 呼ぶのである。同様に、民主政治のもとで苦しめられている と思っている人びとは、それを無政府 ( それは統治の欠如をちを送るよう要請し、したがって、合議体が、自分たちより