議体は、コモンーウエルスの人格だけでなく、合議体の人格た明確な言葉がなければ、そのような意志の宣告だとは解釈 をももっている ) から、自然的資格におけるかれら〔主権者〕されえないのである。そして、この種の公的代行者たちは、 四自然人の肉体のそれぞれの手足を動かす神経や腱に似ている の召使たちは公的代行者ではなく、公的な仕事の運営におい 1 てかれらに仕える人びとだけがそうなのである。それ故、貴のである。 族政治や民主政治において、合議する人びとの便宜のためだ 〈たとえば経済にかんするもののような特別な行政のための けで合議体に仕える受付係・案内人その他の役人たちは公的もの〉ほかには、特別な行政、すなわち、国内外のある特別 代行者ではないし、また、君主の家政を行なう執事・侍従・ な仕事にかんする任務をもつ者がいる。国内においては、第 出納係その他の役人たちも、王政における公的代表者ではな 一に、コモンーウエルスの経済にかんして、たとえば貢納、 いのである。 賦課、地租、科料またはあらゆる公収入にかんする財務につ 〈一般行政のための代行者たち〉公的代行者たちのうちに いて、それらを徴収し、受納し、給付し、または計算する権 は、領土全体にわたって、またはその一部分について、全般威をもつ人びとは公的代行者である。代行者だというのは、 的な行政を委任された任務をもつ者がいる。全体にかんする かれらが代表的人格に仕える者であって、かれの命令に反す いかなることもな ものには、未成年の王の前任者から保護者や摂政にたいしてるとか、あるいはその権威がないならば、 かれが未成年のあいだだけ、その王国の全行政を委任するよ しえないからである。公的だというのは、かれらが、かれの うなものがある。このさいには、かれが作る法令やかれが与政治的資格において、かれに仕える者だからである。 える命令が、王の名においてなされ、主権と矛盾しないかぎ 第二に、軍事にかんして、武器、要塞、海港をあすかった り、あらゆる臣民は服従を義務づけられるのである。一部ま り、兵士の徴集や支払いや、指揮をしたり、陸海の戦争に使 たは属州にかんするものには、君主または主権合議体が、そうための必需品を調達する権威をもつ人びとは、公的代行者 である。しかし、命令権をもたない兵士は、たとえコモンー れについての全般的な責任を、総督、総督代理、地方長官、 副王に与えるようなものがある。このばあいにもまた、この ウエルスのために闘うとしても、その理由でその人格を代表 属州のあらゆる人びとは、かれが主権者の名において行なするわけではない。そこには、それを代表すべき相手がいな 主権者の権利と矛盾しないすべてのことにたいして義務 いからである。命令権を有する人はすべて、かれが命令する づけられるのである。すなわち、こういう保護者、副王、総人びとにたいしてのみそれを代表するのである。 督は、主権者の意志にもとづくこと以外には、なんらの権利〈人民の指導のためのもの〉人民にたいして、主権にたいす ももたす、かれらに与えられる委任も、主権譲渡の明言されるかれらの義務を教え、または他人にそのことを教えうるよ
187 第 2 部 市民法をみる。 ・王侯すなわち皇帝の布告、勅令、書翰が 6 ・慎慮のもろもろの回答がそれである。それは、法律家 それであって、人民の全権力がかれにあったからである。こ たちーーーかれらは、法を解釈する権威とかれらの助言を必要 れと似たものに、イングランド国王の布告がある。 とする法律問題について回答する権威とを皇帝から与えられ 2 ・元老院から質問を受けたばあいのローマの全人民 ( 元ていたーーの判決と意見であって、裁判官たちは、判決にさ 老院を含む ) の告示がそれである。これらは、はじめは、人 いして、この回答を守ることを皇帝の勅令によって義務づけ 民が主権をもっていることによって法だったのであり、これられていたのであった。そして、それは、イングランドの法 らのうちで、皇帝たちによって廃棄されなかったものは、そによって、他の裁判官が判決記録を守るように拘東されると の権威によってそのまま法として存続したのである。というすれば、その判決記録のようなものであるはずである。とい のは、拘東カをもっ法はすべて、それを廃棄する権力をもつうのは、イングランドの普通法の裁判官たちは、本来の裁判 者の権威によって、法と解されるのだからである。これらの 官ではなく、法において熟慮せるものにすぎす、かれらに、 いくらか似ているのは、イングランドの議会の法令で裁判官ーーー貴族であれ、地方〔で選出される〕十二人の〔平民 ある。 裁判官〕であれーーーは、法律上の助言を求めるべきだからで 3 ・護民官から質問を受けたばあいの一般人民 ( 元老院をある。 7 ・不文の慣習 ( それは、それ自身の本質においては法の のぞいた ) の告示がそうである。すなわち、それらのうち で、皇帝たちによって廃止されなかったものは、その権威に模倣である ) もまた、もしもそれらが自然の法に反しないな よって、そのまま法として存続したのである、これらに似てらば、皇帝の暗黙同意によって、まさしく法なのである。 もう一つの法の区分〔の仕方〕には、自然的なものと実定的 いるのは、イングランドの下院の命令である。 なものとがある。自然的なものとは、はじめからずっと法だ 4 ・元老院の諸忠告すなわち、元老院の命令がそれである。 ったもので、自然的と呼ばれるだけでなく、道徳的な法とも ローマの人民がひじように多くなって、かれらを集合させる のが不便になったときに、人民に相談する代りに、元老院に呼ばれ、正義と衡平と、平和や慈恵に役立つあらゆる精神的 相談するのが適当だと皇帝が考えたためである。そして、こ慣習のような諸道徳とから、なっている。これらについて れらは、 く分、顧問会議の法令に似ている。 は、すでに、第十四、十五章でのべておいた。 5 ・司法長官の布告および ( 若干のばあいには ) 按察官の 実定的なものとは、はじめからではなく、他の人びとにた 布告がそれであって、かれらは、イングランドの諸法廷の裁 いして主権をもつ人びとの意志によって法たらしめられたも 判長のようなものである。 のであって、それらは、成文となったものか、あるいは、な
398 評判をえようとし、そしてそういう評判によって ( それが野 心の本質であるから ) 、自分たちの私的利得のために人民を 第四十三章人が天の王国に受容されるた 統治しようとっとめてきたのだからである。 めに必要なものごとについて 〈それは、救済になにが必要でなにが不必要であるかを区別 する人びとにとっては、なんでもない〉しかしながら、神と 〈神と人間とに同時に服従することの困難〉キリスト教的な地上の政治的主権との両者に服従することのこの困難は、神 の王国に自分たちが受容されるのに、必要なことと不必要な 諸コモンーウエルスにおける擾乱と内乱の、もっともしばし こととを区別しうる人びとにとっては、すこしも重要ではな ばもちいられる口実は、ながいあいだ、神と人間との戒律が い。なぜなら、もし政治的主権者の命令が、永遠の生を喪失 たがいに対立するばあいにおける、双方に同時に服従するこ との困難ということからでてきていたのであって、その困難することなしに、服従しうるようなものであれば、それに服 はまだ十分に解決されていない。ひとりの人がふたつの相反従しないのは不正であるからで、召使よすべてのものごとに する命令をうけて、それらのひとつが神の命令であることをおいて主人にしたがえ、および子供たちょすべてのものごと において両親にしたがえという使徒のおしえと、律法学者と しっているばあいには、かれはそれに服従すべきであって、 ハリサイ人はモーシェの椅子にすわっている、だからすべて 他方がたとえかれの合法的な主権者 ( 君主であれ主権合議体 かれらがいうことをまもりおこなえ、というわれわれの救世 であれ ) の命令であっても、あるいはかれの父の命令であっ ても、それには服従すべきではない、ということは十分に明主のおしえとが、意味をもってくる。しかし、もしその命令 が、永遠の死におとされることなしには、服従しえないよう 白である。だから、困難は、つぎのことにある。すなわち、 人びとが神の名において命令されるとき、さまざまなばあい なものであれば、そのばあいには、それにしたがうことは狂 に、命令がはたして神からのものであるか、あるいは命令す気であるだろうし、われわれの救世主の ( マタイによる福音書 る人がかれ自身の私的な目的のために神の名を悪用している 一〇章二八節 ) 肉体をころしてもたましいをころすことのでき にすぎないのかが、わからないということである。なぜな ない人びとをおそれるな、という忠告が意味をもってくる。 ら、ユダヤ人たちの教会におおくの虚偽の予言者がいて、 したがって、かれらの地上の主権者に服従せぬために、この つわりの夢や幻影によって、人民の評判をえようとしたのと世において課せられるべき罰と、神に服従せぬために、きた おなじく、キリストの教会においてもいつも、虚偽の教師た るべき世において課せられるであろう罰との、双方をさけよ ちがいて、かれらは、幻想的で虚偽の教義によって、人民のうとする人びとはすべて、永遠の救済にとって必要なことと
175 第 2 部 法から区別するために、市民法と呼んでいるのである。し各人は、ある法に反しないならば、なんら不正をなしたとは かし、ここでわたくしがのべようと思うのは、そのことでは みなされないから、諸法が正・不正の規則だということもわ ない。わたくしの企図は、ここかしこの法がなんであるかをかる。同様に、われわれの臣従は、コモンーウエルスのみに 示すことではなくて、プラトーン、アリストテレース、キケ たいするものであるから、コモンーウエルス以外のなにもの ロその他のさまざまな人が、法の研究を職業とすることなし も法を作りえないこと、また、その命令は、十分なしるしで に行なったように、なにが法であるかを示すことなのでああらわされるべきことーーーそうでないと、人はいかにして、 る。 それらに従うべきかがわからないからーーもわかるのであ そして、第一に明らかなことは、法一般は忠告ではなくて る。それ故、この定義から必然的な帰結によって導出される 命令であり、また任意の人から人への命令ではなくて、以前 ものはすべて、真理として認められるべきである。そこで、 に、その人に服従すべく義務づけられた者に向って、かれのわたくしは、それから以下のことを導出する。 みがだす命令なのである。さらに、市民法については、命令 〈主権者が立法者である〉 1 ・あらゆるコモンーウエルスの する人格ーーそれは、都市の人格すなわちコモンーウエルス立法者は主権者以外になく、かれが王政におけるように一人 の人格であるがーーの名称のみが書き込まれるのである。 の人であろうと、民主政治と貴族政治におけるように人びと 以上の点から考えて、わたくしは、市民法を次のように定の合議体であろうとそうなのである。立法者とは法を作る者 だからである。そして、コモンーウエルスだけが、われわれ 義する。市民法とは、あらゆる臣民にたいする規則であり、 その規則は、コモンーウエルスが、言葉や書簡やその他の意が法と呼ぶ諸規則を定めその遵守を命令する。それ故、コモ ンーウエルスが立法者なのである。だが、コモンーウエルス 志を示すに十分なしるしによって、各臣民に命令したもので は人格ではなく、代表 ( すなわち主権者 ) によらなければな あり、それは、正邪の別すなわちなにがその規則に反し、な にごともなしえないので、したがって、主権者が唯一の立法 にが反しないかを区別するのに用いるためのものである。 冫。し力なる人 この定義の内容は、一見して、明々白々なものである。す者なのである。同じ理由から、主権者以外こよ、、、 というのは、法は、それが なわち、各人は、法には、全臣民一般に向けられているものも、作られた法を廃止できない。 や、個々の属州や職業や人びとに向けられているものがある施行されるのを禁じる他の法によらなければ廃止されないか らである。 ことがわかる。それ故、諸法は、その命令が向けられている 〈そして、市民法には服しない〉 2 ・コモンーウエルスの主 人びとのうちのおのおのにたいするものであり、それ以外の 人びとにたいするものではないことがわかる。同じくまた、 権者は、合議体であれ一人の人であれ、市民法には服さな
168 て、それを心臓に運び、そこで生気を与えられ、心臓は動脈 によって再びそれを送りだし、身体のすべての部分に生気を 第二十五章忠告について 与え、それが運動できるようにするからである。 〈コモンーウエルスの子供たちは移民である〉コモンーウェ ルスの出産すなわち子供たちは、われわれが、植民とか移民〈忠告とはなにか〉語の通常の不確実な使用によって物事の 性質を判断することがいかにあやまりであるかは、忠告と命 とか呼ぶものであって、それは、外国ーー住民が以前からい 令の双方およびその他の多くのばあいにおける命令法の話し ないか、そのとき戦争でいなくなったかしてあいている かたから生じる両者の混同においてほど明らかになることは に居住するために、指揮官や総督のもとに、コモンーウエルス ない。すなわち、これをせよというのは、命令する者の語で から送りだされる多くの人びとのことである。そして、移民 あるばかりでなく、忠告する者の言葉でもあり、また勧告す が定住したばあいには、かれらは、 ( 古代の多くのコモンー ウエルスがそうしたように ) 、かれらを送りだしたその主権る者の言葉でもあるが、それを話しているのがだれで、それが だれに向けられ、いかなるばあいであるかをしれば、これら 者への臣従を解放された自分自身のコモンーウエルスになる がひじように異なったものであることを理解しないで、それ か、そうでなければ、ローマの人民の移民のように、かれら の母国への結合を持続する。前者のばあいには、かれらが送らを区別できないような者は、ほとんどいないのである。し かし、これらの言葉づかいを人びとの著作のなかにみいだし、 りだされたコモンーウエルスは、かれらの母国または母親と ことの次第を察することができなかったり、そうしようとし 呼ばれ、それがかれらに要求することは、父親たちが父権を 解除し、その家内的統治から解放した子供たちにたいして要なかったりすると、かれらは、自分たちが推論しようとする 求するもの以上にはでず、それは、尊敬と友情である。そし結論や是認しようとする行為にもっともよく一致するかどう かで、ときには、忠告者の教えを命令する人びとの教えとと て、後者のばあいには、かれらは、それ自体ではコモンーウ り違えたり、ときには、その反対のことをするのである。こ エルスではなくて属州にすぎず、かれらを送りだしたコモ れらのあやまりを避け、これらの命令・忠告・勧告という用 ンーウエルスの部分にすぎないのである。移民たちの権利 は、 ( かれらの母国にたいする尊敬と同盟を除けば ) 、かれら語に、それらに固有な明確な意味を与えるために、わたくし の主権者が、かれらに植民することを権威づけた許可証や証は、それらを次のように定義する。 書にまったくよるものなのである。 〈命令と忠告のちがい〉命令とは、それをいう者の意志以外 のなんらの理由も予想せず、これをせよとかこれをするなと
かいうばあいである。ここから次のことが明らかとなる。すからである。そして、他人に忠告する権利を要求するのは、 なわち、命令する人は、そうすることによって、かれ自身のその人の企図をしろうという意志、またはかれ自身のために なにかほかの利益をえようという意志を示すものであり、そ 利益をのぞんでいるということである。というのは、かれが 命令した理由はかれ自身の意志のみであって、各人の意志のれは、 ( わたくしがまえにのべたように ) 、各人の意志の本米 本来の目的は、かれ自身にとってなんらかの利益だからであの目的なのである。 る。 次のこともまた、忠告の本質に必然的に属する。すなわ ち、どのような忠告を与えられるにせよ、それを求める者 忠告とは、人が、これをせよとかこれをするなとかいし は、それで非難したり処罰したりするのは公平ではない、と それによって、かれがそれをいう相手にもたらされる利益か いうことである。というのは、他人に忠告を求めることは、 ら、自分の理由を推論するばあいである。そして、ここから 明らかなことは、忠告を与える者は、かれがそれを与える相その人が最善と思うような忠告をするのを許すことになるか らである。したがって、主権者 ( 君主であれ合議体であれ ) 手の利益だけを、 ( かれの意図はなんであれ ) 、のぞんでいる ということである。 が忠告を求めたばあいに、忠告する者は、それがおおかたの それ故、忠告と命令とのあいだの一つの大きな差異は、命意見と一致していてもしていなくても、討議されている提案 令はその人自身の利益を志向し、忠告は他人の利益を志向すと一致していてもしていなくても、そのために処罰されるの る、ということである。そして、このことからもう一つの差は公平なことではないのである。というのは、もしも合議体 異が生じてくる。すなわち、人は、服従すべく信約したばあの意向が討議終了前にわかるならば、かれらは、それ以上に いのように、命令されたことを行なうよう義務づけられるこ 忠告を求めもせず、また提議もしないだろうからである。合 とはあるが、かれは、忠告された通りに行なうことは義務づ議体の意向とは、討議を決定し、あらゆる審議を終らせるこ けられない、ということである。というのは、それに従わな となのである。また、一般に、忠告を求める者は、その忠告 の本人であり、したがって、その忠告を処罰しえないのであ いことから生じる害は、かれ自身のものだからであり、また、 部 って、主権者のなしえないことは、他のいかなる者もなしえ もしもかれが、それに服従すると信約すれば、そのさいに は、その忠告は、命令の性質に転化しているからである。忠ないのである。しかし、もしも一人の臣民が他の臣民に、法 第 に反することをなすよう忠告するとすれば、その忠告が邪悪 告と命令の第三の差異は、いかなる人も、他人の忠告者とな る権利を要求しえないということである。というのは、かれな意図からでたか、ただ無知から生じたかにかかわりなく、 それは、コモンーウエルスによって処罰されうる。というの は、それによって自分自身に利益をのそんでいるのではない
383 第 3 部 じるものは、キリスト自身の助言を軽んじるのだということ でなければならない云々であって、かれはそれが法であった という。わたくしは、教会における法をつくりえたのは、教は、うたがいをいれない。しかし、それでは、合法的権威に よって牧者に叙任されているような人びとをのぞいて、キリ 会の君主であるべテロのほかにはないと、おもっていた。し かし、もしこの命令が、聖ペテロの権威によってつくられたストによってつかわされる人びととは、だれであるのか。主 と想定しよう。それでもわたくしは、テモテが聖パウロの臣権者である牧者によって叙任されるのでなくて、合法的に叙 民ではなくて弟子であったことからすれば、またテモテの責任される人びととは、だれであるか。ひとつのキリスト教的 コモンーウエルスにおいて、それの主権者の権威によって叙 務のもとにあった信徒群が、王国におけるかれの臣民ではな く、キリストの学校におけるかれの学生であったことからす任されるのでなくて、主権者たる牧者によって叙任される人 とは、だれであるのか。したがって、この個所からとうぜん れば、わたくしには、それが忠告よりもむしろ法とよばれる べき理由が、わからない。もし、かれがテモテにあたえるすにでてくるのは、キリスト教徒であるかれの主権者にききし べての命令が、法であるならば、なぜっぎのこと、すなわたがう人は、キリストにききしたがうのだということ、そし て、キリスト教徒であるかれの王が権威づけた、教義を軽ん ち、あなたの健康のために今後は水をのまないで、少量のぶ どう酒をもちいなさいということが、やはり法でないのであじる人は、キリストの教義を軽んじるのだということである ろうか。そして、名医の命令〔処方〕もまた、それだけの数 ( それは、べラルミーノがここで証明しようと意図したこと ではなくて、その反対である ) 。しかし、このすべては、と の法でないということがあろうか。命令的なかたりかたでは なくて、ある人物の絶対的な臣従が、命令を法たらしめるのうてい法といえるものではない。それどころか、臣民たちの であるから、そうである。 牧者および教師としてのキリスト教徒たる王は、そうである ことによってかれの諸教義を、法たらしめはしないのであ おなじように、第九の個所であるテモテヘの第一の手紙五 る。かれは人びとを、信じるように義務づけることはできな 章一九節、二人または三人の証人のまえでなければ、長老に 。政治的主権者として、かれは自分の教義に適合した諸法 たいする非難をうけいれてはならないというのも、賢明な命 をつくることができるのであって、その教義は、人びとを一 令ではあるが法ではない。 第十の個所は、ルカによる福音書一〇章六節である。あな定の諸行為にたいして、義務づけるであろうし、ときには、 たにききしたがうものは、わたくしにききしたがうのであそうでなければかれらはしようとしないであろうような諸行 り、あなたを軽んじるものは、わたくしを軽んじるのである。為にたいして、義務づけるであろう。また、その教義は、か そして、キリストによってつかわされた人びとの助言を軽んれが命令すべきではないことである。それでも、それらのこ
〈迫害をさけるためにキリスト教徒はなにをしていいか〉し さだめられたのだということ、およびわれわれはかれらのい かし、もし、ある王あるいは元老院、あるいは他の主権者人 3 かりをまねくのをおそれるためだけでなく、良心のためにも また、かれらに臣従すべきであることを、いっている。また格が、われわれがキリストを信じることを、禁止したらどう なのか ( と、ある人びとは反対するかもしれない ) 。これに 聖。へテロは、 ( 第一の手紙二章一三、一四、一五節 ) あなたがた は、人間のすべての命令に、主のためにしたがうべきだ。そたいしてわたくしは、そういう禁止は効果がないのであっ て、なぜなら、信、不信はけっして人間たちの命令にしたが れが、至高のものとしての王にたいしてであろうと、かれに よって、悪をなすものを処罰し善をなすものをたたえるためうものではないからだ、とこたえる。信仰は神のおくりもの につかわされた人びととしての、統治者たちにたいしてであであって、人はそれを、報酬の約東や拷問の脅威によって、 ろうとを、とわない。なぜなら、そうすることが神の意志なあたえることもとりさることも、できない。また、もしわれ われが、われわれの合法的な王侯によって、自分の舌をもって のだからである、という。さらにまた聖パウロは ( テイトウ スへの手紙三章一節 ) 人びとを心から支配者たちと諸権力に臣信じないといえと命令されるならば、どうなのだと、さらにた 従させ、為政者たちにしたがわせよ、という。聖ペテロおよずねられるとしよう。われわれは、そういう命令にしたがわ なければならないのか。舌による告白は、外部的なものごと び聖パウロが、ここでかたっている諸王侯と諸権力は、すべ て不信心者であった。したがって、われわれにたいして主権川であって、われわれの従順をあらわす他のどんな身ぶりに も、まさるものではないのだし、そして、そこにおいてキリ をもつものと神がさだめた、そういうキリスト教徒にたいし て、われわれがしたがうべきであることは、なおさらであスト教徒は、心のなかにキリストへの信仰を堅持しながら、 る。そうすると、われわれがその成員であり、それによる保予一言者エリシャがシリア人ナーマンにゆるしたのと同一の自 護をたよりにしているコモンーウエルスの、王あるいは他の由をもつのである。ナーマンはその心において、イスラエル 主権者代表の、命令に反するなにごとでも、もしだれであれの神に改宗した。すなわち、かれはつぎのようにいう ( 列王紀 キリストの代行者がわれわれにそれをせよと命令するなら下五章一七節 ) 、あなたの召使は、今後、主のほかの神々には、 ば、われわれはどうして、それにしたがうように拘東されうやいたささげものも、いけにえも、ささげることがないでし よう。つぎのことについて、主よ、あなたの召使をおゆるし るのか。だから、あきらかに、キリストは、この世における かれの代行者たちには、かれらが政治的権威をも付与された下さい。すなわち、わたくしの主人が、そこで礼拝をするた のではないかぎり、他の人びとを支配するいかなる権威もゆめにリンモンの家にはいるとき、わたくしの手によりかかり、 だねなかったのである。 そしてわたくし自身も、リンモンの家で拝礼をします。わた
178 のだれかにあるとすれば、かれらを統制する権利も、したが ってえられた理性の人工的完成 ( かれの理性がそうであった って、かれらの統制を統制する権利も、ほかのだれかにある ような ) でもない。というのは、長年研究しているあいだに、 からである。もしもまた、そういう権利がないのならば、そあやまった判決文を増大させ確認することもありうるし、人 のさいには、法の統制者は、議会ではなくて、議会におけるびとが、まちがった基礎のうえに建築するばあいには、建築 王なのである。そして、議会が主権者であるところでは、そすればするほどその瓦解も大きいからである。そして、ひと れが、かれらに臣従する諸地方から、いかなる大義名分にも しい時間と勤勉さをもって研究し観察する人びとのあいだで とづいて、いかに多くの賢明な人びとを召集するとしても、 の推理と解答は、 : しせんとして不一致のままだし、またそう それによって、このような合議体が、立法権を自分たちだけならざるをえないのである。それ故、法を作るのは、法の慎 がえたのだとは、だれも信じないであろう。同様に、コモ慮すなわち下位裁判官たちの知恵ではなくて、このわれわれ ンーウエルスの二つの腕は、カと正義であって、前者は王に の人工的人間すなわち、コモンーウエルスの理性と命令なの あり、後者は議会の手にゆだねられている、というのもそうである。そして、コモンーウエルスは、その代表において、 である。それはまるで、カが、正義が命令し統治する権威をただ一つの人格となっているから、もろもろの法のあいだで、 もたない者の手に握られていても、コモンーウエルスが存在なんらかの矛盾がそうたやすく生じることはありえないし、 しうるかのようである。 それが生じたばあいには、この同一の理性が、解釈または変 ・法が決して理性に反しえないこと、法とは、文字 ( す更によって、その矛盾を除去できるのである。あらゆる法廷 なわちそれの各構成部分 ) ではなくて、立法者の意図に一致において、主権者 ( それは、コモンーウエルスの人格であ しているものであるということは、わが国の法律家たちの同る ) が、裁く人である。下位裁判官は、主権者にそういう法 を作らせた理性を尊重して、かれの判決がそれと一致するよ 意するところである。そして、そのことは正しいのだが、問 うにすべきである。そのさい、その判決は、主権者の判決な 題は、いかなる人の理性が法として受けとられるべき理性な のか、ということである。それは、なんらかの私的な理性をのであり、そうでなければ、それは、かれ自身のものであっ 意味しない。というのは、そのさいには、スコラ学派におけ相て不正なものなのである。 〈法が作られても発表されなければ法ではない〉 8 ・法は命 るように、諸法のなかに多くの矛盾が生じることになるだろ うからである。〈サー ・エド〔ワード〕・クックのリトウルトン令であり、命令は、命令する者の意志の声や書面、その他の 注解九七葉の〉それはまた、 ( サー・エド〔ワード〕・クックそれについての十分な証拠による宣示または表明であるが、 がそうしているように ) 、長年にわたる研究、観察、経験によ このことから、われわれは、コモンーウエルスの命令は、そ
176 というのは、かれは、諸法を作ったり廃したりする権限 か、またなにが廃棄されるべきかについての判断は、法を作 をもっているので、かれがのぞむならば、自分を悩ましてい る者すなわち主権合議体か君主に属するのである。 る法を廃止し、新しい法を作ることによって、その法に服す〈自然の法と市民法は相互に他を含む〉 4 ・自然の法と市民 ることから免れうるからである。したがって、かれは、そう法は、相互に他を含み、その範囲をひとしくする。というの するまえから自由だったわけである。自分ののそむときに自 は、自然の法は、衡平、正義、報恩およびそれらにもとづく 由になりうるのならば、かれは、自由なのだからである。ま諸道徳に存するのであるが、それは、まったくの自然状態で た、いかなる人格にとっても、自分自身に拘東されることは は、 ( わたくしがまえに十五章の終りでのべたように ) 、本来 不可能なのである。というのは、拘東しうる者は免除するこ は、法ではなくて、人びとを平和と服従へ向わせる性質なの ともでき、それ故、自分だけに拘東される者は、拘東されな である。コモンーウエルスが、いったん設立されると、その いからである。 ときに、それは現実に法となるのであって、それまでは法で 〈慣習は時の力によってではなく、主権者の同意によって法はないのである。すなわち、そのばあいには、それは、コモ となるのである〉 3 ・長く続いた慣習が法の権威をえるばあンーウエルスの命令となるから、それ故にそれらはまた市民 、その権威を与えるのは時の長さではなく、主権者が沈黙法でもあるのである。というのは、人びとがそれらに服従す のうちに表明したかれの意志なのであり、 ( というのは、沈るよう義務づけるのは主権なのだからである。すなわち、私 黙はときに同意の証拠であるから ) 、そして、慣習は、主権人間の意見の相違があるなかで、なにが衡平であり、なにが 正義であり、なにが道徳であるかを宣し、それらを拘東的な 者がそれについて沈黙しているかぎりでのみ法なのである。 ものとするには、主権の命令が必要であり、それらに違犯す それ故にまた、主権者が、かれの現在の意志によってではな る者にたいしては罰則が定められるべきなのである。それ く、以前に作られた法にもとづく権利について疑問を抱くな らば、時の長さによってかれの権利が侵害されるべきではな故、これらの命令は、市民法の一部であり、したがって、自 然の法は、世界中のあらゆるコモンーウエルスにおいて、市 く、その問題は、衡平によって判定されるべきである。とい うのは、多数の不当な訴訟や不公平な判決が、万人の記憶を民法の一部なのである。それに対応して、市民法もまた自然 絶するほどの古い昔から、統制されないままに通用しているの命令の一部なのである。というのは、正義いいかえれば信 からである。そして、わが国の法律家たちは、合理的なもの約を履行することと各人にそれぞれのものを与えることと 以外の、いかなる慣習をも法とみなさず、悪しき慣習は廃棄は、自然の法の命令だからである。だが、コモンーウエルス されるべぎだとみなしている。だが、なにが合理的であるの各臣民は、 ( かれらが、共通の代表を作るために集合する