いには、前者は後者を、カがあると考え、後者に服従しやすの尊敬を減じる人びとである。なぜなら、それは、人びとの くなり、これは、後者の力をいっそう強大にするのである。 かれにたいする愛と恐怖ーー・・それは尊敬の根源であるーーと しかし、神は、目的をもたない。かれにたいするわれわれのをとりさるからである。 第五に、偉大さと力をあらわすものにおいてかれは有限で 崇拝は、われわれの義務から発するのであり、それは、弱者 が、よりカのある人びとにたいして、利益を期待したり、損ある、というのは、かれを尊敬していることではない。な、せ 害を恐怖したり、かれからすでに受けた利益に感謝したりすなら、神にわれわれがなしうるよりも小さいことを属せしめ るさいに、なすべきだと理性が命じる尊敬の諸規則によっ るのは、かれを尊敬する意志のしるしではないからであり、ま て、われわれの能力に応じて、定められるのである。 た、有限とは、それにたいして、さらにつけ加えることが容易 であるが故に、われわれがなしうるよりも小さいのである。 〈神への尊敬の属性〉自然の光が、神について、われわれに したがって、かれに形を属させるのは、尊敬していること いかなる崇拝を教えているかをしるために、まずわたくし ではない。あらゆる形は、有限だからである。 は、かれの諸属性からはじめようと思う。そこで、第一に、 われわれが、かれに実在を属させるべきであることは、明ら また、われわれが、かれについて、概念するとか構想する かである。というのは、神が存在しないと考える者はすべてとか、われわれの心のなかにかれを観念するとかいうのも、 尊敬しようという意志をもっことはできないからである。 尊敬していることではない。われわれが概念するものはすべ 第二に、世界あるいは世界の魂は神だ、といった哲学者たて、有限だからである。 ちは、神について不十分にしか語っていないのであり、かれ また、かれに、部分や全体性を属させるのも、尊敬している の実在を否認したのである。というのは、神というとき理解ことではない。それは、有限なものだけの属性だからである。 されるのは世界の原因であり、そして世界が神だというの また、かれが、あれやこれやの場所にいるというのも、尊 は、世界に原因がなく、すなわち、神がないということにな敬していることではない。場所をしめているものはすべて、 るからである。 限界づけられた、有限なものだからである。 また、かれが、動かされるとか静止しているとかいうのも 第三に、世界は創造されたのではなく、永遠なものだとい うのは、 ( 永遠なものは原因をもたないから ) 、神の存在を否尊敬していることではない。 これらの属性は、ともに、かれ 認するのである。 に場所を帰属させるものだからである。 第四に、 ( 自分たちが考える通りに ) 神に安楽を属させて、 また、一つ以上の神々が存在する、というのも尊敬してい ることではない。それは、かれらすべてが有限であることを かれが人類について配慮していないという人びとは、かれへ
もっとも、このような推察は、あらゆる条件を観察するこおいて、もっとも豊富な経験を有する者は、未来を予測する とが困難であるため、きわめてあやまりを犯しやすいのであためのしるしをもっとも多くもち、したがってもっとも思慮 るが、次のことは確かである。すなわち、ある人が過去のも分別にたけている。そして、多くの青年はおそらく反対意見 のごとについて他人より豊富な経験をもっていれば、それだをもつだろうが、その種の仕事に入ったばかりの者が、その けまた、かれは他人よりも思慮分別にたけ、それだけかれの生来のとっさの機知においてまさっていても、かれには太刀 予測がはずれることがまれであるということである。現在の打ちできないほどの思慮分別を、かれは有しているのであ みが自然のなかに存在し、過去のものごとは記憶のなかにのる。 み存在するが、きたらんとするものは、まったく存在してい しかしながら、人を動物から区別するのは慎慮ではない。 ない。未来は、過去の行為の帰結を現在の行為に適用した心わずか一歳で、一〇歳の子供よりも多くのことを観察し、自 フィクション の仮想にすぎないのであるから、未来についてのべること分らの利益になることをより慎重に追求する動物もいるから は、もっとも豊富な経験を有する者によってもっとも確実に である。 行なわれるが、それとても、十分に確実性があるわけではな 〈過去についての推察〉慎慮が、過去の経験から収約された 。そして、結果が、われわれの予測に合致するときは、そ未来についての仮定であるように、過去のものごとについて れは慎慮と呼ばれるけれども、しかし、それ自体は仮定にすの仮定が、 ( 未来のではなく ) 、同じく過去の他のものごとか ぎないのである。なぜならば、きたらんとするものごとの予らとってこられることもある。というのは、繁栄していた国 見は神慮であって、意志によって生じさせる神自体にのみ属家が、いかなる過程と段階とを経て、まず内乱に陥り、続い するからである。予言は、神からのみ、そして超自然的に生て減亡するに至ったかを目撃したことのある者は、他の国の 減亡のさまをみて、そこでもまた同様な戦争があり諸過程が じる。最良の予言者は、当然最良の推測者であり、そして、 最良の推測者は、かれが推測することがらについてもっともあったことを推測するだろうからである。しかし、この推察 は、未来の推察とほとんど同じように不確実なものである。 精通し研究した者である。かれは、推測のためのしるしをも いずれのばあいも経験のみにもとづくものだからである。 っとも多く有しているからである。 生まれつき人間に植えつけられていて、したがってそれを 〈しるし〉しるしとは帰結の前提事象であり、類似の帰結が まえにすでに観察されているばあいには、反対に前提の帰結働かせるには、人間と生まれて五感を使用して生きることた である。そして、これらの観察が多くなされていればいるほけですなような人間の心の作用をわたくしはこのほかに思い だすことはできない。わたくしがこれからのべようとする、 ど、しるしの不確実性は減少する。それ故、ある種の仕事に
のであるから、軽信はかれらにうそをつかせるようにする。 うなものであるかは構想しえないし、火をみることができる したがって、それ自体は悪意のない無知も人をしてうそを信者がもっているような観念を心のなかに浮かべることもでき じさせ、またそれをいわせ、またときには、それを発明させ ないのである。と同じように、この世の目にみえるものとそ ることができるのである。 れらの感嘆すべき秩序とから、人はそれらのものの原因、す 〈未来にたいする配慮から生じるしろうとする好奇心〉未来なわち人びとが神と呼ぶものが存在することは考えうる。だ にたいする懸念は、人びとにものごとの諸原因を探求する気が、かれは、神についての観念や映像を心のなかに浮かべる を起こさせる。というのは、原因をしっているばあいには、 ことはできないのである。 現在の状態を自分にもっとも都合のよいように、よりよく処 また、ものごとの自然的諸原因の探求を、ほとんどあるい 理することができるようにするからである。 は、まったく行なわない人びとも、かれらに大いに益するカ 〈同じものから生じる自然的宗教〉好奇心、すなわち、諸原や害を加える力を有するものがなんであるかについての無知 因についての知識への愛は、人を結果についての考察から原それ自体からでた恐怖によって、さまざまな種類のみえない 因の探求へ、そしてさらにその原因の原因の探求へとひきっ力を想定して勝手にそう思い込み、そして、かれら自身の構 ける。そして、ついには、かれは必然的に次の思考に到達す想したものを畏敬するようになり、また困ったときにはそれ るにちがいない。すなわち、それに先行する原因がなく、永らに助けを乞い、同じく、期待通りの成功をおさめたときに 遠のある原因ーーそれを人びとは神と呼ぶがーーが存在する は感謝することによって、かれら自身の想像によって作られ ということである。したがって、自然的諸原因についてのな たものを、自分たちの神々とするのである。こうして、次の にか深遠な探求を行なえば、それによって一つの永遠の神の ことが生じる。すなわち、無数のさまざまな想像から、人び 存在を信ずるようにならざるをえないのである。もっとも、 とは無数の種類の神々をこの世に作りだしたのである。目に かれらは神の本性に一致するようないかなる神の観念をも心 みえないものごとにたいするこの恐怖は、各人が自分のばあ いには宗教と呼び、他の人びとが自分とはちがった力を崇拝 に浮かべることができないのである。というのは、ある人が し恐怖するばあいには迷信と呼ぶものの自然的な種子なので 生まれつきめくらであって、人びとが火によって暖をとるこ とについて語るのをきき、そして、かれ自身それによって暖ある。 まるようにされたとき、かれは容易に、人びとが火と呼び、 そして、この宗教の種子は、多くの人びとによって維持さ かれが感じる熱の原因であるなにかがそこに存在することはれてきたのであった。それらの人びとのうちのある者は、そ 考えかっ確認することができる。が、かれは、それがどのよ うすることによって、それに栄養と衣裳を与えて法を形づく
については、われわれは、それ以上、それを味わい吟味しょ 真理は、のちにかれらが自然を超えるものを探し求めるさい には、しばしばかえ「てつますきとなるようなものだからでうという意欲をもちえないからである。しかし、嫌悪は、わ ある。またスコラ学派は、行こうとし動こうとするたんなるれわれを害したことがわかっているものごとにたいしてだけ でなく、害するか害さないかわれわれにわからないものごと 欲求のうちには、現実に運動が存在することをまったく認め にたいしても、抱かれるのである。 ないが、それでも、なんらかの運動を認めざるをえないか 〈軽視〉われわれが意欲も嫌悪もしないものごとは、軽視す ら、かれらはそれを比喩的運動と呼ぶのである。しかし、語 は比喩的と呼ばれてもさしつかえないだろうが、物体と運動るといわれる。軽視とは、一定のものごとの働きかけに動か 心の不動の状態、あるいは心の頑固な不従順にほ はて一つま 冫いかないから、これは背理的な言葉にすぎないものされない、、 かならず、それは、心がすでに他の一層強力な対象によって である。 別様に動かされているか、それらのものごとにかんする経験 - 〈愛・憎〉人びとが意欲するものは、愛するともいわれ、か れらが嫌悪するものは、憎むといわれる。であるから、意欲が欠如していることから生じるのである。 そして、人間の体質は絶えず変化しているから、まったく と愛とは、意欲というときには、われわれはつねに対象の不 在を、愛というときには、もっとも普通には、そのものの存同一のものごとも、つねにかれのうちに同一の欲求嫌悪をひ き起こすことはできず、ましてや、ほとんどまったく同一の 在をあらわすという点を除き、同じことなのである。同様に またわれわれは、嫌悪というときには対象の不在を、憎悪と対象についての意欲において、あらゆる人が一致することは 不可能である。 いうときにはその存在をあらわすのである。 〈善・悪〉しかし、ある人の欲求や意欲の対象がなんであ 欲求と嫌悪のうちにあるものは、たとえば、食物の欲求、 排泄や胃の負担を軽くしようとする ( それはまた、もっと適れ、それは、かれとしては善と考えるものであり、また、か 切には人びとがその体内に感じているあるものへの嫌悪と呼れの憎悪や嫌悪の対象は悪、その軽視の対象は、つまらぬ、 問題にならぬものと考えるものなのである。つまり、これら んでよい ) 、その他若干のそう多くはない欲求のように、人間 に生まれながらにそなわっているものがある。それ以外のもの善悪および軽視すべきという語は、つねにそれを使用する のは、個々のものごとへの欲求であって、経験から、そして人間との関連において用いられるのであって、純然たるかっ 絶対的に、そうであるようなものはなく、また、対象自体の またそれらのものが自分や他人にどういう効果をもたらすか をしることから生じる。なぜなら、われわれがまったくしら性質からひきだされる善悪の一般的規準というようなものも ない。ただ、そのような一般的規準は、 ( コモンーウエルス ないものごと、あるいは、存在すると信じていないものごと
22 ] 第 2 部 罰の脅威によっても維持されえないのだから、それだけますをたてるための基礎すなわち理性の諸原理を、かれらがまた ます、熱心に正しく教えられる必要があるのである。という一度もそのようによくたてられた家をみたことがないからと のは、反乱 ( およびそのようなすべての主権の本質的権利へ いって否認するのと同じように、あやまっている。時間と の抵抗 ) を禁止する市民法は、 ( 市民法としては ) なんら義勤労が、日々、新しい知識を生みだすのである。そして、す 務づけうるものではなく、ただ、誠実の違犯を禁じる自然のぐれた建築技術は、 ( 貧弱なものではあ 0 たが ) 、人類が建築 法によってのみ義務づけうるものなのであり、人びとがもし しはじめてからずっとのちに、諸材料の性質やさまざまの形 も、その自然的義務をしらなければ、かれらは、主権者が作状や大きさの効果について長らく研究した、勤勉な人びとに るいかなる法についての権利をもしりえないし、また、かれよって観察されて、理性の諸原理からひきだされたが、それ らは、処罰についても、それを敵対的な行為とのみ考え、自 と同様に、人びとが、不完全で無秩序にもどりやすいもので 分たちが十分に力があると思うときには、かれらは、それをはあるが、コモンーウエルスを構成しはじめてからずっとの 敵対行為によって回避しようと努めるからである。 ちに、 ( 外的暴力によるばあいをのそいて ) 、その構成を永続 〈絶対主権のための理性の諸原理は存在しないと人びとが反的たらしめるための理性の諸原理が、勤勉な省察によって発 対すること〉ある人びとが、正義とは実体のない言葉にすぎ見されるであろう。そして、わたくしがこの論究においての べてきたのは、これらのことだったのである。それが、それ ないといし 、また人が、カや技術によって自分自身に獲得する らを利用する権力をもつ人びとの、目にとまらなかったりあ ものはすべて、 ( 戦争状態においてだけでなく、コモンーウ るいはかれらによって無視されたり、そうでなかったりする エルスにおいてもまた ) かれのものである、というのをわた ことについては、さしあたって、わたくしは、特別の関心を くしはきいたことがあるが、これが、あやまりであることは ほとんどもたない。しかし、わたくしのこれらのものが、そ すでにのべておいた。これと同様にまた、主権を絶対的なも のたらしめる本質的諸権利を支持する基礎すなわち理性の諸ういう理性の諸原理ではないとしても、それでもわたくしは、 原理は、存在しないと主張する人びともある。もしもそれらそれらが聖書の権威からでた諸原理であることを確信する。 が存在するならば、それらは、どこかでみつけられたものでそのことをわたくしは、信約による神の特殊な人民たるユダ あろうが、しかるに、われわれは、それらの権利が承認されヤ人にたいする神の王国 ( モーシェによって支配される ) に ついてのちにのべるさいに明らかにしよう。 たり拒否されたりしたコモンーウエルスはどこにもなかった ことをしっている、というのである。このばあい、かれらの 〈大衆には能力がないとする反対〉しかしながら、かれらは 論証は、アメリカの野蛮人が、材料が続くかぎり存続する家さらに、たとえその原理が正しくても、一般人民はそれらを
イ 39 第 4 部 い〉にもかかわらす、逆の教義すなわち、無形の霊が存在すに、かれら自身の狡知を信頼したときに、これらの超自然的な る、という教義が、これまで教会で、ひじように優勢であっ神の力が、ふたたび、かれらから取り去られたのであろう。 たため、魔よけ ( すなわち、じゅ文によって悪鬼を追いだす〈異邦人のやりかたのもう一つの遺物すなわち映像〔偶像〕崇 式 ) が作られたほどであった。そして、 ( まれにしかまたわす拝は、教会内に残されたのであって、もちこまれたものでは ない〉異邦人のやりかたのもう一つの遺物、映像崇拝は、旧 かしかおこなわれなかったけれども ) 、それでもまだ完全に は、やめさせられてはいないのである。初期の教会において約のモーシェによっても、新約のキリストによっても、作られ は、悪魔にとりつかれた人が多くいて、狂人やそれに似た奇たものではないし、なおまた、異邦人によってもちこまれた ものでもなく、人びとが、それらの〔偶像の〕名称をキリスト 妙な病人が少なかったのに、近頃では、狂人が多く、悪魔に とりつかれた人が少ないと、きいたり、みたりするが、これに与えてしまったのちに、かれらのあいだに残されたもので は、自然界が変化したからではなくて、名称がかわったからあった。われわれの救世主が説教する以前には、人びとの感 覚器官上に外的物体が刻印したことによって生じた脳内に残 なのである。では、どうしてこれまで、使徒たち、またその る幻影を、神々として崇拝するのが、異邦人の一般的な宗教 後しばらくは教会の牧者たちが、これらの奇妙な病人をなお したーー現在では、かれらがそのようなことをしているのをであった。それらは、ふつうに観念、幻想、幻覚、空想とよば れているものであって、それらを生じさせる外的物体を表現 みないが というようなことがあるのだろうか。同様に、 なぜその頃、信仰深い人がなしたすべてのこと、すなわち、 し、かれらのなかに実体があるわけではなく、それは、ちょ・ ( マルコによる福音書一六章、一七、〔八節〕 ) にみられる、キリス うど、夢のなかで、事物がわれわれのまえに立っているかの ようにおもわれるのとおなじである。そして、このことから、 トの名によって悪鬼を追いだし、新しい言葉を語り、害をう けることなく蛇をにぎり、また毒をのみ、病人に手をつけて聖パウロは、われわれは、偶像は無であることをしって、 る、〔コリント人への第一の手紙八章四節〕といっているのであ なおすなどをなすべき力が、あらゆる真の信仰者に、現在な いのだろうか。そして、すべてのこれらのことが、他の言葉る。かれは、金属や石や木でできた映像がまったくないと考 ではなく、イエスの名においてのみ、というのもまた問題で えていたのではなくて、人びとが映像において、うやまい ギフト ある。教会に、これらの異常な資質が与えられたのは、おそおそれ、神性をもつものと考えているものは、たんなる作り らく、人びとが、全面的にキリストを信頼し、その至福をか ごとであり、場所も住居も連動も存在もなく、頭脳の運動に れの王国の再来にのみ求めた期間中のみであったろう。したすぎないと考えていたのであった。そして、神聖な名誉をと がって、人びとが、権威や財力を求め、この世の王国のためもなうこれらの崇拝は、聖書のなかでは、偶像崇拝とよばれ
うに義務づけられたのであり、それは、いつでもかれが、王にたいする裁判官あるいは分配者にしたのか、というばあ 国をひきとりたもうときには、そうなるのである。それに対 および ( ヨハネによる福音書一二章四七節 ) わたくしはこの 応して、われわれの救世主が、 ( ヨハネによる福音書一八章三六世をさばくためにではなく、この世をすくうためにきたのだ 節 ) わたくしの王国はこの世のものではない、と明言して というばあい、かれはおなじことをしているのである。そし る。ところで、聖書が、二つの世界しか、すなわち、いま存て、それでもわれわれの救世主は、きたるべき世で王および 在し、審判の日まで ( だからそれは、最後の日ともよばれ裁判官となりうるように、この世にきたのであって、かれ る ) 存続するであろう、この世界と、審判の日ののちに、あは、メシアすなわちキリスト、すなわち、神の油をぬられた ししかえれ たらしい天とあたらしい地とが存在するであろうときに、存祭司にして主権的予言者であったからである。 在するであろうあの世界との、二つしかあげていないことか ば、かれは、予言者モーシ工と、モーシェを継承した祭司長 らすれば、キリストの王国は、普遍的復活までは、はじまら たちと、祭司たちを継承した王たちとにあった、すべての権 ないはずである。そして、われわれの救世主がいうのは、そ力をもつべきであった、ということである。それで聖ョ ( ネ のことである ( マタイによる福音書一六章二七節 ) 。人の子が、か は、明言している ( 五章二二節 ) 。父はいかなる人をもさばか れの父の栄光のうちに、かれの天使たちとともにくるであろず、すべてのさばきをその子にゆだねた。そしてこのこと う、そのときかれは、各人にたいしてのしごとにおうじて、 は、わたくしはこの世をさばくためにきたのではない、 むくいをあたえるであろう。各人に、各人のしごとにおうじ うあの別の個所と矛盾しない。なぜなら、これは現在の世界 てむくいをあたえることは、王の職務を執行することであについていわれ、他方はきたるべき世についていわれている り、このことは、かれが、その父の栄光のうちにかれの天使のだからである。キリストの再来にあたって、つぎのように いわれるばあいとも、同様である ( マタイによる福音書一九章 たちとともにくるまで、ないのである。われわれの救世主が 二八節 ) 。再生においてわたくしにしたがってきたあなたがた ( マタイによる福音書一一三章二節 ) 律法学者と。 ( リサイ人とは、 モーシェの席にすわっている。したがって、かれらがあなた は、人の子がかれの栄光の王座につであろうときには、お : こに、おこなえと命じることは、なんであってもすべて、 なじく十二の王座について、イスラエルの十二氏族をさばく であろう。 まもりおこないなさい、というばあい、かれは、そのときに おける王の権力を、かれが自分にではなくかれらに、帰属さ 〈キリストがきた目的は、神の王国についての信約を更新す せていることを、明白に宣言しているのである。かれが ( ル ることであり、選民たちがそれをうけいれるように説得する 力による福音書一二章一四節 ) 、わたくしをだれが、あなたがた ことであって、そのことがかれの職務の第二の部分であっ
とを余儀なくさせる、あの自然の法から、続いて第三の自然に平等に信約の履行を強制し、かつまた、人びとが相互の契 法が生じてくる。すなわち、人びとは結ばれた信約を履行す約によって、かれらが放棄する普遍的権利の代りに獲得する べきだというのであって、それがなければ信約は無駄であ所有権を、確保すべきなんらかの強制力がなければならな そのような力は、コモンーウエルスの樹立以前には存在 り、空虚な一一 = ロ葉にすぎず、そして、すべての人のすべてのも のごとにたいする権利は残っているから、われわれはいぜんしない。そして、このことは、正義についてのスコラ学派の 通常の定義からも推論されうる。すなわち、かれらのいうと として、戦争状態にあることになる。 ころでは、正義とは各人に各自のものを与えようとする不断 〈正義、不正義とはなにか〉そして、正義のみなもとは、こ の意志である。したがって、各自のものがないばあい、すな の自然法に存する。なぜなら、信約がまだなされていなかっ たところでは、いかなる権利も譲渡されていなかったわけでわち所有権が存在しないところには、不正義は存在しないし、 あり、あらゆる人はあらゆるものにたいして権利をもっておまた強制力が樹立されていないところ、すなわちコモンーウ エルスが存在しないところでは、すべての人びとは、すべて り、したがって、そのさいには、いかなる行為も不正義では のものにたいして権利を有するのだから所有権も存在しない ありえないからである。 のである。そこで、コモンーウエルスが存在しないところで しかし、信約がなされると、それを破ることは不正とな このようにして、正義の本質 は、なにごとも不正ではない。 る。かくて不正義の定義は、信約の不履行にほかならないの は、有効な信約を守ることに存するが、信約の有効性は、人 である。そして、不正でないものはすべて正しいのである。 〈正義と所有権は、コモンーウエルスの設立とともに、はじびとにそれを守らせるのに十分な、社会的権力の設立によっ てのみはじまり、それと同時に所有権もまた、はじまるので まる〉しかし、相互の信頼による信約は、いすれかの側に、 不履行にたいする恐れがあるばあいには ( 前章でのべたようある。 〈正義は理性に反しない〉おろかな者は、正義というものは に ) 、無効であるから、正義の根源は信約をすることにある ときにはロにだしてもいっ ないのだと、心のなかでいい とはいえ、かかる恐れの原因が除去されぬうちは、実際には た。そのさい、かれはまじめになって次のように論じる。す 部そこには不正義はありえないのである。そして、そのような 恐れの原因を除去することは、人びとが戦争という自然状態なわち、各人の保存と満足とは、各人みすからの配慮にゆだ 第にあるあいだは、なされえないのである。それ故、正義およねられているのだから、各人が、それに役立っと考えたこと び不正という名辞が、存在しうるためには、人びとが信約破をしてはならないという理由は、どこにもない。したがっ 棄から期待する利益よりもいっそう大きな罰により、かれらて、信約をしようとしまいと、またそれを守ろうと守るまい 、 0
459 第 4 部 かのようこ、 ~ いうのである。さらに、臣民たちが、かれらのも境界画定的ではなくて定義的なのだという区別にたいする 国の主権へ依存することを減少させるのに役だつような、そかれらの信用を支持するように追いつめられる。それらの用 の他のきわめて多くのことをいうのである。なぜなら、もし語は、ただの言葉であり、このばあいはなにもあらわさな も人が、服従がかれのなかに注ぎ込まれたり吹き込まれたり いのだから、それらの空しさをかくしうるように、ラテン語 することを期待するならば、だれが法に服従しようと努力すでしかいわれないのである。というのは、あるものの境界画 るであろうか。あるいは、神をつくりうる祭司にたいして、 定とは、それの場所の決定または定義にほかならす、そこ だれがむしろかれの主権者にたいしてよりも、いな神自身に で、区別についての二つの用語は、同一なのである。そし て、とくに、人間の本質、 ( かれらのいうところでは ) かれ たいしてよりも、服従しようとしないであろうか。あるい は、幽霊を恐怖しているものが、それらをかれから追い払うの魂がそうなのだが、それについては、かれらは、そのすべ 聖水をつくりうる人びとにたいして、大きな尊敬を払おうとてがかれの小指のなかにあり、そして、そのすべてが、かれ しないであろうか。そして、このことは、アリストテレース の身体の ( どんな小さなものでも ) 他のすべての部分にある の本質存在と本質とから教会にもち込まれている諸誤謬の一 のであって、しかも全身のなかには、それらの部分のどれで 例として十分であろう。かれは、おそらく、それが虚偽の哲もひとつにある以上の魂は存在しないのだ、ということを断 学であることを知っていたのだが、それを、かれらの宗教に定する。神がこのような背理によって奉仕されると、だれが 一致しこれを補強するものとして書いたのであって、ソーク考えることができようか。それなのに、これらのすべては、 身体から分離された非形体的な魂の実在を信じようとする人 ラテースとおなじ運命になることをおそれたからである。 びとにとって、信じなければならないことなのである。 ひとたび、この分離された本質という誤謬におちいると、 かれらはそれによって必然的にそれに付随する他の多くの背 そして、どうして非形体的な実体が苦痛をもっことができ 理にまき込まれる。というのは、かれらがこれらの形相を現るか、地獄や煉獄の火で苦しめられることができるかを説明 実的なものとしてもつであろうことからすれば、かれらはそすべきところにくると、どうして火が魂をやくことができる かは知られえないということしか、なにもかれらは答えない れらに、ある場所をわりあてざるをえない。しかし、かれら は、それらを量のあらゆる次元をもたぬ非形体的なものとみのである。 なすのであって、しかもすべての人びとは場所が次元であっ さらに、運動は場所の変化であり、非形体的な実体は、場昭 てい形体的なものによってしか満たされないことを知ってい 所をもちえないのに、かれらは、魂がここから身体なしに、 るのであるから、かれらは、それらがまったくどこにおいて天国や地獄や煉獄にいけるということ、また、人びとの幽霊
414 かえるときである。それのみならす、神は、異邦人にたいし張され、 ( 聖書では、政治的主権者たちのほかにはそれを与 ても、改宗と悔い改めというおなじ条件のもとに、かれの統えていないのに ) 、自然の光をけすほど熱情的に争論される 治下にはいり、そのしあわせを享受するよう招いたのであこ 冫いたり、人びとが自分はだれに服従を約束しておいたのか る。また、神は、その子をこの世におくることを約東したのわからなくなるほどの、おおきな暗黒を、かれらの理解力の であって、それはかれの死によってすべての人びとの罪がっ なかにひきおこすのである。 ぐなわれるためであり、また、かれの教義によってかれら〈そして、法王がキリストの総代行者であるということ〉法 を、かれの再来にあたってかれを受けいれるように準備する王は、現在の教会 ( それは、福音においてわれわれがそこへ ためであった。この再来はまだ存在しないので、神の王国むけられている、キリストの王国と想定されている ) におけ は、まだきていないのである。それでわれわれは、現在で るキリストの総代行者である、というこの主張から、キリス は、われわれの政治的主権者のほかは、約東によって、いか ト教徒の王は、司教からその王冠をうけなければならない、 なる他の王の支配下にあるのでもない。ただ、キリスト教徒という教義が生じる。それは、あたかも、王が、その称号の のみは、かれの再来にあたって受けいれてもらえるという約なかの神の恩寵によってという条項をこの儀式からひきだす 東をすでにもっているというかぎりでは、恩寵の王国にいる かのごとくであり、また、この世での神の普遍的代行者の権 のである。 威によって王冠をさずけられるばあいにのみ、かれは神の恩 〈たとえば、神の王国が現在の教会であるということ〉現在恵によって王とされるかのごとくであり、さらに、その主権 者がだれであれ、全司教は、聖別されるさいに、法王への絶 の教会はキリストの王国である、というこのあやまりから、 次のような帰結がでてくることになる。すなわち、 ( 現在で対的服従の誓いをたてるのであるかのごとくである。このこ は天にいる ) われわれの救世主が、そのロをかりて、語り、 との帰結は、法王インノチェント三世の下で開催された第四 法をあたえるところの、また、かれの人格を全キリスト教徒ラテラノ会議の次のような教義である。王が、法王の警告を にたいして代表するところの、一人の人または合議体がある うけても、自国の異端者を追放せす、そのために破門されて も、一年以内に満足すべき措置をとらないならば、かれの臣 べきだ、あるいは、キリスト教世界のさまざまな部分にたい して、同じことをするさまざまな人びとや合議体があるべき民たちは、かれらの服従のきすなを解除されること ( 第三 だ、というのである。このキリストの下での王権は、普遍的章、異端者について ) である。ここで、異端というのは、ロ ーマの教会がその信奉を禁じてしまったすべての見解のこと には、法王によって、また個々のコモンーウエルスにおいて は、その場所の牧者の合議体によって、自己のものとして主と、理解されている。そして、この手段によって、しばしば