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検索対象: 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン
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1. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

人間の本性なのであって、それはかれらが、自分自身の知カかぎり多くの人身を支配することである。そして、このこと は、かれ自身を保存するため必要なことにほかならず、一般 はすぐ手近にみているのに、他人のそれは遠くにみているか に許されていることなのである。人によっては、自己の安全 らなのである。しかしこれは、むしろ、人びとがその点で不 平等であるよりは平等であることを証明するものである。とのための必要を越えた征服を追求し、この征服行為における いうのは、各人が自分の持ち分に満足しているということ以 自己の力を眺めて喜びを感じる人もいるので、もしそうでな 上に、あることが平等に配分されている大きなしるしとなるければ謙虚な限界内で安楽を楽しんでいたような他の人たち ものは一般に存在しないからである。 も、侵害することによって自分たちの力を増大させることな 守勢に立つばかりでは、長く生存して行くことはできない 〈平等から不信が生じる〉この能力の平等から、われわれのく であろう。それ故、人びとにたいする支配をこのように増大 目標達成についての希望の平等性が生じる。それ故、だれか 一一人の人が同じことを意欲し、しかも双方がともにそれを享することも人の保存に必要なことであるから、かれに許され なければならないのである。 受することが不可能だとすると、かれらは敵となり、かれら の目標 ( それは主として、かれら自身の保存であるが、とき さらにまた、人びとは、かれらすべてを威圧しうる力がな には歓楽にすぎないばあいもある ) に至る途上で、互いに相 いところでは、仲間を作ることを喜ばず、 ( 逆にひじような 手を減ぼし、または屈服させようと努力する。ここから次の悲哀を感じるのである ) 。というのは、各人は、かれが自分 ことが生じてくる。すなわち、侵入者が相手の単独のカ以外についてするのと同じ程度に、かれの仲間がかれを評価して に恐るべきもののないばあいに、もし相手が植えつけ、種子 くれることを求めるからである。そして、自分が軽視されて をまき、快適な居所を作りあるいは占有すると、侵入者側は いるとか過小評価されているようなあらゆる素振りにでくわ おそらくこの結東した暴力によって、かれの労働の成果だけすと、自然に、自分を軽視する者には損害を与え、第三者に でなく、かれの生命または自由をも奪おうとすることであろ はそのみせしめによって、しいて、自分をよりいっそう高く う。そして、侵入者もまた同様な相手からの危険にさらされ評価させようと ( そしてこの努力は共通の第三の力が上にあ って、かれらを鎮圧してくれないようなばあいには、お互い ているのである。 の身の破減を招くに十分である ) できうるかぎり努力するの 〈不信から戦争が生じる〉この相互不信から自己を守るに である。 は、だれにとっても、先手を打っことほど適切な方法はな 、。すなわち、それは、かれがカや奸計によって、自分をお それ故、人間の本性のなかに、われわれは、争いの三つの びやかすほどに大きな他の力がないようになるまで、できる主要な原因をみいだすのである。第一は競争であり、第二は

2. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

りである。私人たちの欲求ではなくて、国家の意志と欲求で で、そのために人を祭壇に適しないようにするもの、とする のである。もしも、妻の使用が不禁欲であり、貞節に反する ある法が、尺度なのである。それでもやはり、この学説は、 いぜんとして用いられていて、人びとは、かれら自身の情念という理由で法がつくられたならば、すべての結婚は悪徳で によって、かれら自身および他の人びとの行為の善悪、コモある。もしもそれが、神にたいして聖化された人にとって、 ンーウエルス自体の行為の善悪、を判断するし、そしてだれあまりにも不純不潔なものごとであるならば、すべての人が も、かれ自身の目にそうみえたものでなければ、善とか悪とする、その他の自然で必然で日常的な行為は、それらのほう かよばないのである。ただ、修道士とたくはっ修道士は例外が不潔なのだから、はるかに人びとを祭司たるに値いしない であって、かれらは、誓約によって、かれらの上長にたいすものたらしめるはずである。 るまったくの服従へと、拘東されているのである。その服従 しかしながら、祭司の結婚を禁止する、このかくされた基 という 0 は、各臣民が、政治的主権者にたいしてなすよう 礎は、道徳哲学におけるような諸誤謬のうえにというように に、自然法によって拘束されていると、みすから考えるべき手軽におかれたものとは思われないし、また、聖パウロの知 ものなのである。そして、善についてのこの私的尺度は、公 恵からでた、結婚の状態よりも独身がまさっているとするこ 共国家にとって、空虚であるだけでなく有害な学説でもある とに、おかれたとも思われない。聖パウロは、あの迫害の時 のである。 代において、福音の説教者であり、ある国から他の国へ逃げ ることを強いられる人びとにとって、妻子の世話によって妨 〈そして合法的な結婚が不貞だということ〉聖職者にたいし て結婚を否定することの根拠として、貞節および禁欲を主張害されることがいかに具合の悪いことかを知っていた。その する人びとがしているように、結婚という行為が、貞節つま基礎は、のちの時代の法王と祭司たちの企図のうえにきすか り禁欲に矛盾するといい、 したがって、それらを道徳的な悪れたのであって、それは、かれらを聖職者、いいかえればこ とするのも、また空虚であやまった哲学である。というのは、 の世における神の王国の唯一の相続人たらしめようという企 たえす祭壇に侍し、聖餐式の運営に侍するそれらの神聖な階図である。そのためには、かれらから結婚の効用を取りあげ 部 層に、不断の貞節、禁欲、純潔の名のもとに女性からの不断ることが必要だったのである。なぜなら、われわれの救世主 が次のようにいっているからである。すなわち、かれの王国 の分離を要求するのは、教会の一制定物以外のなにものでも 第 がくるときには、神の子らは、めとらずめとられず、天国に ないことを、かれらは告白しているのだからである。そこで おける神の天使たちのようであるだろう、つまり、霊的であ かれらは、妻の合法的な使用を、貞節と禁欲の欠如とよび、 こうして結婚を、ひとつの罪、あるいは少なくとも不純不潔るだろうと。そこで、かれらが霊的という名辞を帯びたこと

3. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

かいうばあいである。ここから次のことが明らかとなる。すからである。そして、他人に忠告する権利を要求するのは、 なわち、命令する人は、そうすることによって、かれ自身のその人の企図をしろうという意志、またはかれ自身のために なにかほかの利益をえようという意志を示すものであり、そ 利益をのぞんでいるということである。というのは、かれが 命令した理由はかれ自身の意志のみであって、各人の意志のれは、 ( わたくしがまえにのべたように ) 、各人の意志の本米 本来の目的は、かれ自身にとってなんらかの利益だからであの目的なのである。 る。 次のこともまた、忠告の本質に必然的に属する。すなわ ち、どのような忠告を与えられるにせよ、それを求める者 忠告とは、人が、これをせよとかこれをするなとかいし は、それで非難したり処罰したりするのは公平ではない、と それによって、かれがそれをいう相手にもたらされる利益か いうことである。というのは、他人に忠告を求めることは、 ら、自分の理由を推論するばあいである。そして、ここから 明らかなことは、忠告を与える者は、かれがそれを与える相その人が最善と思うような忠告をするのを許すことになるか らである。したがって、主権者 ( 君主であれ合議体であれ ) 手の利益だけを、 ( かれの意図はなんであれ ) 、のぞんでいる ということである。 が忠告を求めたばあいに、忠告する者は、それがおおかたの それ故、忠告と命令とのあいだの一つの大きな差異は、命意見と一致していてもしていなくても、討議されている提案 令はその人自身の利益を志向し、忠告は他人の利益を志向すと一致していてもしていなくても、そのために処罰されるの る、ということである。そして、このことからもう一つの差は公平なことではないのである。というのは、もしも合議体 異が生じてくる。すなわち、人は、服従すべく信約したばあの意向が討議終了前にわかるならば、かれらは、それ以上に いのように、命令されたことを行なうよう義務づけられるこ 忠告を求めもせず、また提議もしないだろうからである。合 とはあるが、かれは、忠告された通りに行なうことは義務づ議体の意向とは、討議を決定し、あらゆる審議を終らせるこ けられない、ということである。というのは、それに従わな となのである。また、一般に、忠告を求める者は、その忠告 の本人であり、したがって、その忠告を処罰しえないのであ いことから生じる害は、かれ自身のものだからであり、また、 部 って、主権者のなしえないことは、他のいかなる者もなしえ もしもかれが、それに服従すると信約すれば、そのさいに は、その忠告は、命令の性質に転化しているからである。忠ないのである。しかし、もしも一人の臣民が他の臣民に、法 第 に反することをなすよう忠告するとすれば、その忠告が邪悪 告と命令の第三の差異は、いかなる人も、他人の忠告者とな る権利を要求しえないということである。というのは、かれな意図からでたか、ただ無知から生じたかにかかわりなく、 それは、コモンーウエルスによって処罰されうる。というの は、それによって自分自身に利益をのそんでいるのではない

4. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

ーシェの霊の部分をとってそれをそれらの七十人の長老のう るそれをあたえたということではない。なぜなら、それは、 かれがだれがわたくしをあなたがたのあいだでの、審判者あえにおいたのである。そのことによって理解されるのは、神 るいは分配者としたかといい、 べつの個所では、わたくしのがモーシェの霊をよわめたということではなく、それはかれ 王国はこの世のものではないといって、みすからひきうけるを安心させることではまったくなかったからである。そうで はなくて、かれらがことごとく、かれらの権威をかれからえた ことを拒否した、権力なのだからである。それで、人と人と ということであって、こうしたばあいにかれ〔べラルミーノ〕 のあいだの訴訟事件を審理し決定する権力をもたぬものは、 冫たくみに、解釈するのである。 は、その個所をほんとうこ、 まったくなんの管轄権をも、もっとはいえない。しかもな がユダヤ人のコモンーウエルスに しかしながら、モーシェ、、、 お、このことは、われわれの救世主がかれらに、世界のあら ゆる部分で説教する権力を、かれらがそこでかれら自身の合おいて完全な主権をもっていたことからすれば、かれらがか 法的な主権者によって禁止されなかったと想定して、あたえれらの権利を政治的主権者からえたことを、それがあらわし たということをさまたげるものではない。すなわち、われわているのはあきらかである。したがって、その個所が証明す るのは、どのキリスト教コモンーウエルスにおいても司教た れ自身の主権者にたいしては、キリスト自身とかれの使徒た ちが、さまざまな個所で、明言的に、あらゆるものごとにおちは、かれらの権威をその政治的主権者からえたのだという いて従順であるように命じたのだからである。 こと、そして法王からは、かれ自身の領土内でのみそうした 司教たちがかれらの管轄権を法王からうけるということのであって、ほかのどんな国の領土内においてもそうではな を、かれが証明しようとっとめた諸論拠は、 ( 法王が他の諸かった、ということである。 モナーキ 第二の論拠は、君主政治の本性からのものである。そこに 王侯の領地のなかでは、自分では管轄権をなにももたないこ おいては、あらゆる権威がひとりの人のなかにあり、かれか とからみて ) 、すべてむなしい。けれども、それらは反対に、 すべての司教が、管轄権をもつばあいはかれらの政治的主権らひきだされることによって、ほかの人びとのなかにある。 者たちからうけることを、証明しているので、わたくしはそそして、教会の統治は君主政治的であると、かれはいう。こ 部 のことはまた、キリスト教徒である君主たちにも役だっ。と れらについての詳述を、除外したいとおもわない。 いうのは、かれらはほんとうに、かれら自身の人民の、すな 第一は、民数紀一一章からのものであって、そこでは、モ 第 工が、イスラエルの国民にかんすることがらを運営するわちかれら自身の教会の ( 教会はキリスト教徒である一国民 と、おなじものであるから ) 、君主なのであるが、これに反 7 という、全部の負担にひとりでたえることは、不可能であっ して法王の権力は、かれが聖ペテロであったにしても、君主 たので、神はかれに、七十人の長老をえらぶことを命じ、モ

5. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

152 いはもしもそれが授与者によって認められたものであれば、 〈もしも債務が合議体の一人にたいするものであれば、その そのさいには、代表者が主権者なのであって、従属的団体の団体だけが義務づけられる〉しかしながら、もしも債務が合 みをあっかっている当面の間題をこえてしまうのである。そ議体の一人にたいするものであれば、合議体だけが、かれら の共同財産からの ( かれらがそれをいくらかでももっていれ れ故、代表者自身以外のいかなる成員も、このようにして借 ば ) 支払いを義務づけられるのである。すなわち、かれは技 りられた債務の支払いを義務づけられないのである。という のは、それを貸す者は、その団体のもっ証書や権限について 票の自由をもっているのだから、もしもかれが、金を借りる は局外者であって、約東によって義務づけられた者だけを自べきだという投票をするなら、かれは、それを支払うべき 分の債務者と解するからであり、代表者は、他のだれでもな だ、という投票をすることになる。また、もしもかれが、そ いかれ自身を、約東によって義務づけうるのだから、かれのれを借りるべきではないと投票したか、またはその場にいな みが債務者なのである。したがって、かれが、共同財産 ( そかったばあいでも、しかし、かれは、貸すことにおいて借り ういうものがいくらかでもあれば ) から、あるいは、 ( それるという投票をするのだから、かれは、自分の以前の投票と がなければ ) 、かれ自身の財産から、支払わなければならな矛盾することになり、あとのものに義務づけられて、借手で いのである。 もあり、貸手でもあるという状態になり、その結果、いかな もしもかれに、契約または科料による債務ができても、事る個人からも支払いを要求しえず、共同金庫からのみそうし 情は同じである。 うるのである。それがなければ、かれはなんの救済手段もも 〈それが合議体であるばあいには、同意した人びとだけが責 たす、かれ自身にたいしてしか苦情をいえないのである。か 任をもっ〉しかし、代表が合議体であり、債務が局外者にたれ自身は、この合議体の行為およびかれらの支払い手段の当 いする者であるばあいには、それを借りることに、またはそ事者であり、そして、強制されすに、しかも、かれ自身のお ろかさによって、自分の金を貸したのである。 れを支払うべきものとした契約に、または科料が課せられた 犯罪行為に投票したすべての人びとが、そしてか一れらだけ 〈政治体の命令にたいする抗議は、ときには合法的である が、この債務に責任があるのである。これらの人びとのおの が、主権にたいするものは決してそうではない〉このことか ら、次のことが明らかである。すなわち、主権に従属し臣従 おのは、投票において、その支払いを約東したからである。 すなわち、その借用行為の本人である者は、全債務の支払い する政治体においては、一個人が代表合議体の命令に公然と さえも義務づけられるのである。ただし、だれかが支払って抗議し、その反対意見を記録させたり、それにかんする証人 くれれば、かれは、免除されるのである。 を求めたりするのは、ときには合法的であるばかりでなく、

6. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

東を履行しない時代や場所において、ある人がそのようにす てはのべる必要もないし、この場所に適当でもない。 〈自然法を容易に検査しうる法則〉そして、これは、自然法るとすれば、それはかれ自身を他人の餌食とし、かれ自身の についての、あまりに精細な推理であって、すべての人の注確実な破減をもたらすことにほかならす、それは、自然の維〔 意の的とはなりえぬようにみえる。かれらの大部分は食をえ持を意図する、すべての自然法の基礎に反するからである。 また、他の人びとがかれにたいして同じ法を守るという、十・ るのにあまりに忙しく、他の者は怠惰なために理解しない。 しかし、すべての人を弁解の余地をなくすために、それら分な保証がありながら、みずからそれらの法を守らないのは、・ は、もっとも能力の低い人にもわかるように、やさしく要約さ平和を求めないで戦争を求めるのであり、その結果暴力によ ってかれの本性の破減を求めることになる。 れている。すなわち、おまえがおまえ自身にたいしてなされ 内面の法廷において拘東する法はすべて、その法に反する るのを欲しないようなものごとを、相手にたいしてしてはな らない、というのである。それはかれに、自然法を学ぶため事実によって違犯されうるのみならず、その法にしたがう事 には、ただ次のようにすればいし 、ことを示している。すなわ実によっても、人がそれを法に反すると考えるならば、違犯 . ち、他の人びとの諸行為とかれ自身のそれとをはかって比較される。なぜなら、このばあいには、かれの行為は法にした するときに、前者があまりに重いようにみえたならば、それがっているが、しかしかれの目的は法に反したのであり、そ らを秤の反対側におき、かれ自身のものを代りにそれらの場れは、義務が内面の法廷におけるものであるかぎり、違犯で 所において、かれ自身の情念や自愛心が、なにも重量を加えある。 ないようにせよというのである。そうすれば、これらの自然〈自然法は永遠である〉自然法は永遠不変である。すなわ 法のうち、一つとして、かれにとってきわめて合理的にみえち、不正義、忘恩、傲慢、自慢、不公平、えこひいき、およ びその他のものは、決して合法的とはなりえない。なぜなら ないものはないであろう。 ば、戦争が生命を維持し平和がそれを破壊するということ 〈自然法は、つねに良心を義務づけるが、結果については、 ただ保証があるときにのみ義務づけるにすぎない〉自然法は、決してありえないからである。 しいかえれば、それら 〈そして、しかもやさしい〉この〔同じ〕諸法は、ただ意欲 は、内面の法廷において義務づける。 は、それらが行なわれるべきだという意欲をもつように拘東と努力をーーわたくしはいつわらぬ不断の努力をさしている のだがーー義務づけるのであるから、この諸法は容易に守ら するのである。しかし、必すしもつねに、外部の法廷におい て、すなわち、自然法が行為に移されるように拘東するものれるのである。なぜなら、諸法は努力以外のものを要求しな いのだから、それらの法の履行に努力する者は、それらの法 ではない。なぜなら、他のだれも謙虚でも従順でもなく、約

7. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

教育によってぎわめて多様であり、またそれらは、われわれ 第一の点について、近来、盛んに引合いにだされる説に、 賢明さとは、書物を読むことによってではなく、人間を読むが真に事物を理解するようにはなかなかさせないものなのだ から、いつわりの、うその、ごまかしの、あるいはあやまっ ことによって獲得されるものであるというのがある。する こよって現在みられるような、けがれ、混乱させられ と、その結果、そうするよりほかには自分の賢明さを立証でた教説冫 た人の心の性格は、心を探求する者にだけ容易に読みとれる きない大半の人たちは、お互いに蔭で情け容赦なく非難し合 ことだからである。またわれわれは、人びとの諸行為から、 うことによって、自分が人間について読みとったと思うこと がらを示そうとし、それに多大の喜びを感じているのであときにはその意図を探り当てることもあるが、それらを、わ れわれ自身の行為と比較せす、事情を変化せしめうるすべて る。しかしまた、もう一つの古い格言ーーー汝自身を知れ があって、それによれば、人びとがその気になりさえすれば、 の条件を区別せすに、そうしようとするのは、暗号を解く鍵 真に、お互いを知りうるというのである。だが、この汝自身をしらずに暗号文を解読しようとするようなものである。そ を知れという意味は、それが現在用いられているような、権して、読もうとする人自身が善人であるか悪人であるかによ 力をもっている人びとの下の身分にたいする野蛮な状態を奨って、信じすぎたり疑いすぎたりして、大部分は判読をあや 励したり、身分の低い者の上の者にたいする生意気な振舞い まるのである。 を助長したりしようというのではなく、一人の人間の思考や しかし、人が他人を、その行為によってひじように完全に 情念は、他人のそれらと類似しているから、人がもし自分自 しるとしても、それはごく少数のかれの知人についてしか、 身をみつめて、自分が思考、判断、推理、希望、恐怖等々す かれの役に立たないのである。全国民を統治しようというほ るときに、どういうことをするか、またなににもとづいてそどの人は、かれ自身のなかに、あれやこれやの個々の人間を うするかを考察すれば、それによって、人は、同じばあいに ではなく、全人類を読みとらなければならない。それをする おける他のすべての人たちの思考や情念がどのようなもので ことが困難なことであり、どんな語学や学問を学ぶよりもむ あるかを研究できて知りうるであろう、ということなのであすかしくとも、わたくしが、自分の研究を整然と明快に書き る。ここでわたくしは、情念の類似性、すなわち、すべての記してしまえば、他の人に残された苦労はただ、かれもまた 人間において同一な意欲、恐怖、希望等々についていってい 自分自身のなかに同じことを見いださないかどうかをよく考 えてみることだけであろう。この種の学説には、これ以外の るのであって、情念の対象すなわち意欲、恐怖、希望される 等々のことがらの類似性についていっているのではない。と論証は不可能だからである。 いうのは、かかる情念の対象は、個人的資質や各自の受けた

8. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

305 第 3 部 〈地獄の拷問〉地獄の拷問は、ときには、マタイによる福音 かにたいして永遠の生を約束されているのを、よむわけでは 書八章一二節のように、なくことおよび歯ぎしりすることに ないからである。すなわち、聖パウロが ( コリント人への第一 よって、表現される。ときには、イザイア書六六章一一四節との手紙一五章四一一、四三節 ) 、どんな肉体をもって人びとがふた マルコによる福音書九章四四、四六、四八節のように、良心 たびおきあがるであろうかという質問にたいして、肉体は腐 の蛆によって、ときには、いま引用した個所においてそこで敗のなかにまかれ、腐敗せぬもののなかにおきあがる。それ は蛆は死なず火はきえないというように、またそのほかのおは、不名誉のなかにまかれ、栄光のなかにおきあがる。それ おくの個所のように、火によって、ときには、ダニエル書一 は弱さのなかにまかれ ( 力のなかにおきあがる、といってい 一一章一一節のように、し 璃と軽蔑によって、表現される。また地るが、栄光と力は、邪悪なものたちの肉体には、適用されえ のちりのなかにねむっているものたちのうちのおおくは、目 ないし、第二の死という名称も、一度しかけっして死ぬこと ざめるであろう、あるものは永遠の生命へ、そしてあるもの ができない人びとには、適用されえない。そして、比喩的な は恥と永遠の軽蔑へ。そのすべての個所は、比喩的に心のか 言葉においては、災厄にみちた永遠の生が永遠の死とよばれ てもいいとはいえ、そのことはとうてい、第二の死について なしみと不満足をえがこうとしているのであって、それは、 かれら自身の不信仰と不服従とをつうじてみすから失った、 は理解されえない。邪悪なものたちのために準備された火 は、永遠の火である。 永遠の至福を、他の人びとにおいてみることから、おこるの いいかえれば、だれも心身双方の拷間 である。そして、他の人びとにおけるそういう至福は、かれなしにはありえない状態が、復活ののちに永遠につづくであ ろう。その意味で、その火はけされえないであろうし、拷問 ら自身のじっさいの悲惨との比較によってしか、感じられな いのであるから、したがってかれらがうけるべき肉体的な苦は永遠であるだろう。しかし、そこから、つぎのことを推論 痛と災厄は、つぎのような人びとにとっておこりやすいものするのは不可能である。それは、その火のなかになげこまれ である。その人びとというのは、わるい残酷な統治者たちの るか、それらの拷問によってせめられるであろう人が、それ もとでくらすだけでなく、敵としてもまた、聖者たちの永遠らにたえて、抵抗して、そのために、永遠にやかれ拷問さ の王たる全能の神をもつ、人びとなのである。そして、これれ、しかもほろぼされもせず死にもしないであろう、という ことである。そして、永遠の火と拷問 ( そのなかに人びと らの肉体的な苦痛のなかには、邪悪なもののすべてにたいし て、第二の死がまた、かそえられるべきである。というの が、ひきつづいてつぎからつぎへと、永遠になげこまれるで は、聖書は普遍的な復活について明白であるにしても、それあろう ) を肯定するおおくの個所が、あるにしても、わたく でもわれわれは、神に見すてられたものたちのうちの、だれしは、そのなかにだれであれ個別的な人物の永遠の生がある

9. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

ていることであり、神にたいする反乱なのである。というの の箱舟のうえにいるケルビン、もう一つは、真ちゅうの蛇が は、神は、ユダヤ人の王であり、かれの代理人は、最初はモそれである。第二に、われわれが、神の足台を崇拝するよう ーシェであり、のちには祭司長であったから、もしも、人民に神に関係あるある被造物を崇拝すべく命じられている、若 が ( かれら自身の幻想をあらわす ) 映像を崇拝し、祈願する干の本文である。最後に、神聖なものを宗教的に崇拝するこ ことが許されるならば、もはや、かれらよ、 。いかなる類似物とを権威づけたような他の本文もある。しかし、わたくし もありえない真実の神にも、また、かれの第一の代理人モ ーは、これらの個所でいわれていることの真意をただしてみる シェや祭司長にも依存しなくなり、あらゆる人は、かれ自身まえに、まず、崇拝するということによって、なにが理解さ の欲求にしたがって、みすからを治める結果、コモンーウェれるべきなのか、また、映像や偶像ということによって、な ルスはまったく破壊され、統一の欠如のためにかれら自身も にが理解されるべきなのかを、ます説明しなければならな 崩壊するからである。それ故、神の第一の法は、アリエノ ス・デオスすなわち他民族の神々を、神と思うべきではな 〈崇拝とはなにか〉すでに、わたくしは、この論稿の第一一十 く、モーシ = と親しく語り、かれを通じて、かれらの平和章において、名誉をあたえるということは、ある人のもっ権 と、かれらの敵からの救済のためにかれらに諸法と諸指示を力を高く評価することであり、また、そのような価値は、か 与えた真の神だけを、神と思うべきだということであった。 れと他の人とを比較することによって測られる、とのべた。 そして、第二の法は、かれら自身の作りごとによって、崇拝 しかし、権力において神と比較されうべきものはなにもない するためのいかなる映像をも作るべきではない、ということ から、われわれは、無限よりも小さい価値によっては、神に であった。なぜならべつの王が隣国人によって設立されたも名誉をあたえるのでなくて、かれを恥ずかしめることになる のであれ、われわれ自身によって設立されたものであれ、か のである。かくて、名誉をあたえるとは、その本質において れに服従することは、一方の王を廃位するのとおなじことな は、正しくは心のなかのひそかな内面的なことなのである。 のである。 しかし、かれらの言葉や行為において外的にあらわれる人間・ 〈映像を支持するようにおもわれる一定の本文へのこたえ〉 の内的思考は、われわれが名誉をあたえているしるしなので 聖書のなかには、映像を設け、それらを崇拝すること、あるあり、これらが、崇拝、ラテン語ではクルトウスの名でよば いは、いやしくも神が崇拝されているところでは、映像が設れるものなのである。したがってそれに祈り、それによって けられるものだ、ということを支持するようにおもわれる個誓い、服従し、奉仕において精励丁重であること、要するに、・ 所がいくつかある。ます、一一つの例をあげると、一つは、神感情を害することをおそれ、よろこばせることを欲する気持

10. 世界の大思想13 ホップズ リヴァイアサン

315 第 3 部 に、神の人民にたいして王の権力をもっという主張につ ちにはその世つぎたちに、さだめられて、神にとって永久に て ) 、かれの証言は、一層うけいれられるべきではない。し 祭司の王国たるべきものとされた。 たがって、かれの権威は、他のすべての王侯の権威のよう この基本構造により、ひとつの王国が神の手にはいっこ。 に、人民の同意と、かれに服従するというかれらの約東と が、アブラハムの権利の継承者とし しかしながら、モーシェ て、イスラエル人を統治する権威を、かれは相続によってそに、もとづかなければならない。そして、それはそのとおり れを主張することができなかったので、もたなかったことかであった。すなわち、人民は ( 出エジプト記二〇章一八節 ) 、か らすれば、人民はいぜんとして、神がかれにはなしかけたこれらが雷と稲光とラッパのひびきと、山が煙っているのをみ たとき、感動して、とおくはなれてたった。そしてかれらは とを信じるかぎりでしか、かれを神の代行者と解するように は義務づけられなかったことが、あきらかである。そしてそモーシェにたいしていった、あなたがわれわれにかたって下 さい、そうすればわれわれはききましよう、しかし、われわ れゆえに、かれの権威は ( かれらが神とむすんだ約定にもか れをころさないために、神にわれわれとはなしをさせないで かわらず ) 、まだたんに、かれらがかれの神聖さについて、 下さい。ここにかれらの、服従の約東があった。そしてこれ かれの神との会合の現実性とかれの諸奇蹟の真実性とについ によってかれらは、神の命令としてかれがかれらに伝達する て、もった意見に依存した。その意見はかわりつつあるの ものにたいして、なんであろうとも服従するように、義務づ で、かれらはもはや、かれが神の名においてかれらにしめし たどんなものをも、神の法と解するように義務づけられはしけられたのであった。 〈モーシェは ( 神のもとで ) かれ自身の時代のすべてにわた なかったのである。したがってわれわれは、かれらがかれに 服従すべきだという義務の、ほかのどんな根拠があったかをつて、アーロンが祭司の地位をもっていたにかかわらず、ユ ダヤ人の主権者であった〉そして、信約が祭司の王国すなわ 考察しなければならない。すなわち、かれらを義務づけるこ とができたのは神の命令ではありえなかったのであって、なちアーロンに世襲される王国を、設立するにもかかわらす、 ぜなら、神は直接にかれらにかたらず、モーシ = 自身の媒介それは、モーシ = が死んだのちの継承について、理解される によ「てのみ、かたったのだからである。〈ョ ( ネによる福べきことである。なぜなら、だれであっても、コモンーウ = ルスの最初の建設者として ( それが王制であれ貴族制であ 音書五章三一節〉そして、われわれの救世主は、かれ自身に ついて、もしわたくしが自分自身について証言をするなられ民主制であれ ) 政治を整序し樹立したものは、必然的に、 かれがそれをしているあいだじゅう、人民にたいして主権を ば、わたくしの証言は真実ではない、といっている。まし カカれの時代 もっているにちがいない。しかも、モーシェ : 、、 て、モーシェがかれ自身について証言をするならば ( とく リシー