労働 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想14 スミス 国富論<上>
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1. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

ようにおもわれる。しかしながら、たいていのところでは 霜がつよいときも天気があれているときも、しごとができな ( というのは、普遍的にそうなのではないからだが ) 、かれの いし、そうでないあらゆるばあいに、かれの雇用は、かれの 一日の賃銀の方がいくらかひくい。かれの業務は、その顧客 顧客のときどきのもとめに依存する。したがってかれは、し のときどきの要求に、おおいに依存するとはいえ石工ほど完 ばしばなにも業務をもたぬことに、なりがちである。そこで、 かれが使用されているあいだにかせぐものは、かれがぶらぶ全にではなく、天候によってさまたげられがちでもない。 らしているあいだ、かれを維持しなければならぬだけでな 一般に恒常的な業務を提供する諸営業が、ある特定のとこ く、そのように不安定な状態を考えることから、ときどきおろで、たまたまそうでないということになると、その職人た こらざるをえない焦躁と失望の瞬間について、いくらかのっちの賃銀はつねに、ふつうの労働の賃銀にたいする通常の比一 ぐないをしなければならない。したがって、製造業者の大部率よりも、かなりたかくなる。ロンドンでは、ほとんどすべ 分のかせぎの推定が、ふつうの労働者の一日の賃銀とほぼ同てのやとい手工業者は、他のところにおける日やとい労働者 一の水準にあるところでは、石工や煉瓦つみ工のそれは一般たちとおなじようにして、かれらの親方たちによって、その に、それらの賃銀の一倍半ないし二倍である。ふつうの労働 日その日、その週その週に、やとわれたり解雇されたりしが 者が週に四、五シリングをかせぐところでは、石工や煉瓦っちである。したがって、ふつうの労働の賃銀が十八ペンスと み工は、しばしば七、八シリングをかせぐ。前者が六シリン推定されうるのに、最下層の手工業者であるやとい仕立職人 グをかせぐところでは、後者はしばしば九、十シリングをか は、そこでは半クラウン〔三十ペンス〕をかせぐのである。小 せぐ。そして、ロンドンのように、前者が九、十シリングを都会およびいなかの村では、やとい仕立職人の賃銀は、ふつ かせぐところでは、後者は十五ないし十八シリングをかせぐ うの労働のそれにかろうじてひとしいことが、しばしばであ のがふつうである。けれども、どんな種類の技倆労働でも、 るが、ロンドンでは、かれらは、何週間も業務がないことが、 石工と煉瓦つみ工のそれよりも習得がやさしいものは、ない とくに夏のあいだには、たびたびなのである。 ようにおもわれる。ロンドンの椅子かつぎは、夏のあいだは、 業務が恒常的でないことが、しごとのつらさ、不愉快さ、 ときどき煉瓦つみ工として使用されるといわれる。だから、 きたなさとむすびつくばあいは、それはときどき、もっとも それらの職人の高賃銀は、かれらの技倆の報酬であるよりふつうの労働の賃銀を、もっとも技倆のある手工業者のそれ は、かれらの業務の不定性にたいするつぐないなのである。 よりも、たかいものにする。出来高でしごとをする炭坑夫は、・ 家大工は、石工よりもむしろ精巧で巧妙な営業をいとなむ ニューカスルでは、ふつうの労働の賃銀の約二倍をかせぐの

2. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

め、どれだけ上昇したかをたしかめる困難もおおきいのであどにおおきいところは、おそらく、ほとんどどこにもないで る。一六一四年に、歩兵ひとりの給与は、現在と同一で、一あろうが、あるところではおおく、あるところではすくなく、 日八ペンスであった。それがはじめにさだめられたときは、 増大したのである。注意しなければならないのは、労働の価 とうぜんそれは、歩兵がふつうにそこからひきだされる人々格が、どこにおいても、きわめて正確にはたしかめられえな の階層、すなわちふつうの労働者の、通常の賃銀によって規 いということであって、同一の場所で同一種類の労働にたい 制されたであろう。チャールズ二世のときにかいた大法官へ してしばしばちがった価格が、職人たちの能力のちがいだけ イルズは、父と母と、なにかをなしうるふたりの子どもと、 におうじてではなく、親方たちが寛大か苛酷かにもおうじ なにもできぬふたりの子どもとの六人からなる、労働者の一 て、支はらわれるのである。賃銀が法律によって規制されな 家族の、必要経費を、週に十シリングすなわち年に二十六ポ いところでは、われわれが決定すると称しうるのは、せいぜ ンドと推定している。かれらがもし、かれらの労働によって いなにがもっとも通常のものであるかということであり、経 これだけをかせぎえなければ、かれらは乞食かぬすみによっ 験は、法律がしばしばそうすると称したにもかかわらす、け てそれをうめあわせなければならないと、かれは想定する。 っしてまともにはそれを規定しえなかったことを、示すよう かれは、きわめて注意ぶかくこの問題を研究したようであにおもわれるのである。 る。一六八八年に、デヴィナント博士がその政治算術の腕前 労働の実質的な報酬、それが労働者にあたえうる生活の必 改をあのように賞讃したグレゴリ・キング氏は、労働者および 需品および便宜品の実質的な量は、現在の世紀の過程で、お け通勤召使の通常の所得を、一家族について年に十五ポンドだそらくその貨幣価格よりも、さらにおおきな比率で増大し と推定したのであって、その家族をかれは、平均して三人半た。穀類がいくらかやすくなっただけでなく、勤労貧民が快 産からなると想定していたのである。したがってかれの計算適で健全な各種の食物をつくりだす、その他のおおくのもの の は、ヘイルズ判事のそれと、みかけはちがうけれども、根柢も、おおいにやすくなった。たとえば、馬鈴薯は現在では、 ではほとんど照応している。両者ともに、そういう家族の週王国の大部分にわたって、それが三、四十年まえにつねにそ 篇経費を、ひとりあたり約一一十ペンスと、想定している。そう うであった価格の、半分もしない。かぶ、にんじん、キャベ 第いう家族の金銭上の所得も費用も、そのときいらい、王国の ツについてもおなじことがいえるであろう。それらはまえに しまではふつうに、 大部分にわたって、いちじるしく増大した。現在の労働の賃は、手鋤でしかっくられなかったのに、、 銀についての、若干の誇張された説明がさいきん公表したほ 馬犁によってつくられるのである。すべての種類の青果物も

3. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

作業のなかには、二時間のやさしいしごとよりも、おおくの肉屋がその牛肉や羊肉を、パンまたはビールと交換するため 労働があるかもしれないし、習得に十年の労働がかかる職業に、。 ( ン屋や酒屋にもっていくことは、めったになく、かれ における一時間の精励のなかには、通常の明白な業務におけは、それらを市場にもっていって、そこで貨幣と交換し、そ る一月の勤勉よりも、おおくの労働があるかもしれない。だれからその貨幣をパンまたはビールと交換する。それらとひ が、つらさについても創意についても、なにか正確な尺度をきかえにかれが手にいれる貨幣の量は、やはり、、かれがあと みつけることは、容易ではない。異種労働のさまざまな生産で購買しうるパンとビールの量を規制する。だから、かれに 物を相互に交換するにあたっては、たしかに、双方についてとっては、それらのものの価値を、かれが直接にそれらと交 いくらかの手加減がおこなわれるのがふつうである。けれど換する商品である、貨幣の量によって評価する方が、かれが も、それは、なにも正確な尺度によってではないが、市場の他の一商品の媒介によってのみそれらと交換しうる商品た かけ引きや値ぎりによって、正確ではなくても日常生活のし る、パンやビールの量によってするよりも、自然で明白なの ごとをやっていくには十分な種類の、大ざっぱな等しさにしである。そして、かれの食肉は三、四ポンドのパンまたは 弓いビールのねうちがあるというよりも、 たがって、調整されるのである。 三、四クオートの そのうえ、各商品は、労働とよりも、他の諸商品と、交換むしろそれは一ポンドで三ペンスか四ペンスの値うちがある 、のである。そこで、各商品の交換価値は、 され、したがって比較されることがおおい。だから、それのという方が、いし 改交換価値を評価するのに、それが購買しうる労働の量によるそれと交換に入手しうる労働か他のどんな商品かの量によっ けよりも、ある他の商品の量による方が自然である。人々の大てよりも、貨幣の量によって評価されることが、おおいとい 部分もまた、労働量の意味するところよりも、ある特定の商うわけである。 産品の量の意味するところを、よく理解する。一方ははっきり けれども、金銀は、他のあらゆる商品とおなじく、それの のした、手でさわれる物体であるのに、他方は、抽象的な概念価値がかわるのであって、ときにはやすくときにはたかく、 みであって、十分にわかりやすくされうるとはいえ、前者ほど購買がときには容易でときには困難である。それらのある特 篇まったく自然で明白なものではない。 定量が購買または支配しうる労働の量、あるいはそれが交換 第しかし、物々交換が消減して、貨幣が商業の共通用具とな される他の諸財貨の量は、つねに、そういう交換がおこなわ ったとき、すべての個々の商品は、他のどんな商品と交換されるときにたまたましられている諸鉱山の、豊度または貧度 れるよりも貨幣と交換されることの方が、おおいのである。 に依存する。アメリカの豊富な諸鉱山の発見は、十六世紀に、

4. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

おこったようにおもわれる。この分離もまた、最高度の産業あまり完全にきつばりと分離しえないという、このことが、 と改良とを享受する諸国において、一般にもっともおしすすおそらく、この技術〔農業〕における労働生産力の改良が、 められる。社会の未開状態において、ひとりの人のしごとで製造業における改良と、歩調をかならすしもつねにあわせえ あるものは、改良された状態においては、数人のしごとであないことの、理由であろう。たしかに、もっとも富裕な諸国 るのが通例である。あらゆる改良された社会において、農業民は、一般に、製造業においてとおなじく農業においても、 者は一般に農業者以外のなにものでもなく、製造業者は製造 かれらの隣国のすべてにまさっているのだが、しかしかれら 業者以外のなにものでもない。なにかひとつの完成した製造は、後者における優越によってよりも、前者における優越に 品を生産するのに必要な、労働もまた、ほとんどっねに、多数よって、ぬきんでているのがふつうである。かれらの土地は の人手に分割されている。亜麻織物と毛織物との製造業のそ一般に、隣国よりよくたがやされているし、そして、投下さ れぞれの部門において、亜麻や羊毛の生産者から、亜麻織物れる労働と費用がおおいので、土地のひろさと自然的肥沃度 の漂白工とのし工にいたり、あるいは毛織物の染色工と仕上の割合には、生産もおおい。だが、生産におけるこの優越が、 工にいたるまで、なんとおおくの職業が使用されていること労働と費用の優越の割合より、はるかにおおいことはまれで だろうか。たしかに、農業というものの性質は、製造業ほどある。農業においては、富裕な国の労働が、貧乏な国の労働 おおくの労働細分をゆるさないし、また、ひとつのしごとをよりも、つねにはるかに生産的だとはかぎらない。あるいは、 他のしごとから、製造業ほど完全に分離することをゆるさな すくなくともそれが、製造業においてふつうにそうであるよ 。大工の職業がふつうにかじ屋のそれから分離しているよ うに、はるかに生産的であるということは、けっしてないの うには、牧畜業者のしごとを穀物農業者のそれから分離するである。富裕な国の穀物は、したがって、同程度の品質にお ことはできない。紡績工は、ほとんどっねに、織布工とはま いて、つねに貧乏な国のそれよりもやすく、市場にでるとは ったくべつの人間であるが、すきでたがやし、まぐわでたが かぎらないのである。同程度の品質ならば、フランスの富裕 やし、種をまき、穀物をかりとるのは、しばしば同一人なのと改良が優越しているにもかかわらず、ポーランドの穀物 である。これらのさまざまな種類の労働の機会は、一年のさ は、フランスのそれとおなじくやすい。フランスの富裕と改 まざまな季節につれてめぐってくるので、ひとりの人が、そ良はおそらくイングランドにおとるであろうが、フランスの れらのうちのどれかひとつに、つねに従事することは不可能 穀物は、穀産諸州においては、イングランドの穀物と、つ である。農業に従事するさまざまな労働の部門のすべてを、 たくおなじようにいいし、たいていの年には価格もほとんど

5. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

目次 凡例・ : 序論およびこの著作の輪郭・ : 第一篇労働の生産力における改良の諸原因について、および労働 の生産物が国民のさまざまな階層のあいだに自然に分配さ れる順序について 第一章分業について・ 第二章分業をひきおこす原理について 第三章分業は市場の範囲によって制限されるということ : 第四章貨幣の起源と用途について 第五章諸商品の実質価格および名目価格について、あるいは、それ らの労働価格とそれらの貨幣価格について 第六章諸商品の価格の構成諸部分について・ 第七章諸商品の自然価格および市場価格について 第八章労働の賃銀について : ・ 第九章資財の利潤について : ・ : 四五

6. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

理由は、わたくしがあとで説明する機会をもつであろうだ が、大都会とその近隣における労働の賃銀は、しばしば、数 第四に、労働の価格の変動は、場所的にも時間的にも、食 マイルはなれたところよりも、四分の一ないし五分の一、二料品価格の変動に対応しないだけでなく、しばしばまったく 十ないし二十五パーセントたかい。一日十八。ヘンスというの反対である。 が、ロンドンおよびその近隣の、労働のふつうの価格とみな ふつうの人々の食物である穀類は、スコットランドでは、 されうる。数マイルはなれると、それは十四、五ペンスにさ イングランドでよりもたかく、スコットランドはそこからほ がる。十ペンスが、エディン・ハラおよびその近隣における、 とんど毎年、大量の供給をうける。しかし、イングランドの - それの価格とみなされうる。数マイルはなれると、それは八 穀物は、それがもちこまれる国であるスコットランドでは、 。ヘンスにさがり、これがスコットランドの低地地方の大部分それがもちだされる国であるイングランドでよりも、たかく をつうじての、ふつうの労働の通常価格なのであって、このうられるにちがいない。しかも、それはスコットランドでは、 地方では、それはイングランドより変化がかなりすくない。 同一の市場にきてそれと竸争するスコットランドの穀物より・ 価格のこのようなちがいは、 かならすしもつねに人をある教も、その品質に比しては、たかくはうれない。穀類の品質は、 区から他の教区にうっすにたりるものではないようにおもわそれが製粉所でうみだす穀粉やひきわりの量に、主として依 れるが、それは必然的に、もっともかさばる諸商品でさえ存するのだし、この点でイングランドの穀類はスコットラン 改も、一教区から他教区へというだけでなく、王国の一端から、 ドのそれよりも、はるかにすぐれていて、たとえ見かけにお いて、あるいは容積のわりには、しばしばたかいとしても、 けほとんど世界の一端から、他端への、大輸送をひきおこすの 一般に、じっさいにおいて、あるいはその品質のわりには、 にであって、その輸送の程度は、まもなく諸価格をもっと同一 産水準にちかづけるほどであろう。人間本性の軽薄さとうつり または重量のわりにおいてさえ、やすいほどなのである。こ の気についていろいろといわれてきたにせよ、経験からあきられと反対に、労働の価格は、イングランドにおいては、スコ したがってもし労働貧塒 ットランドにおいてよりもたかい。 ヴかにしられることは、人間というものはあらゆる種類の荷物 篇のなかで、もっとも輸送が困難だということである。したが が、連合王国の一方の部分でかれらの家族を維持しうるなら 第って、労働貧民が、この王国のなかで、労働の価格が最低で ば、他方の部分ではゆたかであるにちがいない。オー ある諸部分において、かれらの家族を維持しうるとすれば、 ルが、スコットランドのふつうの人々に、かれらの食事の最・ それが最高のところでは、かれらはゆたかであるにちがいな大で最良の部分を提供しているのは、たしかであるし、その

7. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

くの量の食物と交換されたであろう。一方の国においては他大させる。まず原料をもってくるのに、そしてのちに完成し 方の国においてよりも、すべてのよけいなもののうちの最大た製造品を市場にもっていくのに、よりおおくの労働がかか のものであるダイヤモンドの、貨幣価格は、いくらかひくか り、したがってよりおおくの貨幣がかかるのだ。支那とイン ったであろうし、すべての必需品のうちで第一のものである ドスタンでは、内陸航行のひろさと多様性が、この労働の大 食物のそれは、おおいにひくかったであろう。だが、労働の部分をはぶき、そのけつかこの貨幣の大部分をはぶき、そう 実質賃銀、すなわち労働者にあたえられる生活必需品の実質することによって、かれらの製造品の大部分の実質価格と名 的な量は、すでにのべておいたが、インドのうちの二大市場目価格とをともに、さらにひくくひきさげるのである。これ ハカ気りイー たる支那においてもインドスタンにおいても、ヨーロ ッパのらすべての理由にもとづいて、貴金属は、ヨーロノ 大部分にわたってそうであるよりも、ひくいのである。労働 ンドにはこぶのがつねにきわめて有利であったし、そしてな 者の賃銀がそこにおいて購買する食物の量の方が、ちいさい おつづいてそうである、一商品なのである。そこにおいてそ れよりいい価格をもたらす商品、すなわち、ヨーロツ。 ( でそ であろうし、そして食物の貨幣価格は、インドでの方がヨー こおいて、イ ( よりすっとひくいのだから、労働の貨幣価格はそこでれがあたいする労働および諸商品の量との比率冫 ンドでそれよりも多量の労働および諸商品を購買または支配 は二重の理由でひくいのである。すなわち、それが購買する する、そういう商品は、どんなものにせよめったにない。そ 良であろう食物の量がちいさいことと、その食物の価格がひく るいこととの、双方の理由によってである。しかしながら、技こへ銀をはこぶ方が、金をはこぶよりも有利である。なぜな お術や勤労がひとしい国々においては、製造品の大部分の貨幣らば、支那で、またインドのうちのその他の諸市場の大部分 で、純銀と純金のあいだの比率は、十対一ぐらいにすぎない カ価格は、労働の貨幣価格に比例するであろう。そして、製造 のに、ヨーロッパでは十四または十五対一ぐらいなのだから 生業の技術と勤労において支那とインドスタンは、ヨーロツ。、 である。支那で、またインドのうちの他の諸市場の大部分 働よりおとってはいるものの、そのどの部分よりもずっとおと 労 っているとはおもわれない。だから、製造品の大部分の貨幣で、十オンスの銀は一オンスの金を購買するであろう。ヨー 一価格は、とうぜんに、それらの大帝国においては、ヨーロッパ ロッパでは、それは十四ないし十五オンスを必要とする。し 第 のどこにおいてよりも、はるかにひくいであろう。さらに、 たがって、インドへ航行するヨーロッパの船舶の大部分の、 3 ョロツ。 ( の大部分にわたって、陸上輸送の費用が、たいて積荷のなかで、銀は一般にもっとも価値ある品物のひとつで いの製造品の実質価格と名目価格とをともに、ひじように増あった。それは、マニラへ航行するアカプルコの船舶のなか ( 三ニ )

8. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

どまたはまったく、必要としないし、かれら自身のちいさな下が、年々リースに輸入され、その価格は、一足五ペンスな いし七ペンスである。シェトランド群島の小首都であるラー 保有地の耕作は、かれらの自由にゆだねられている時間をつ ウィックでは、ふつうの労働のふつうの価格は一日十ペンス こういう居住者たちが、現在よ かいきるには十分ではない。 だと断言されるのをわたくしはきいたことがある。おなじ群 りもたくさんいたときには、かれらのあまった時間をだれに たいしても、非常にわずかな報酬でよろこんであたえたし、他島でかれらは、一足一ギニイあるいはそれ以上の価値にな の労働者たちよりもひくい賃銀でしごとをしたと、いわれてる、梳毛毛糸の長靴下をあんでいるのである。 亜麻糸をつむぐのは、スコットランドでは、長靴下をあむ いる。むかしは、ヨーロツ。ハ全体にわたって、かれらはふつ のとほとんどおなじように、主として他の目的のためにやと うにみられたようである。そうでなければ、耕作が不十分で 住民はそれよりも不十分な国々では、大部分の地主と農業者われた、召使たちによっておこなわれる。これらの職業のど れかによって全生活をたてようとっとめる人々は、きわめて は、農村労働が一定の季節に必要とする異常な数の人手を、 調達しえなかったであろう。そういう労働者たちがかれらのと。ほしい生活費しか、かせがないのである。スコットランド 主人たちから、ときどきうけとる日また週の報酬は、あきらのたいていの部分では、一週に一一十ペンスをかせぐ女は、す ぐれたつむぎ手である。 かに、かれらの労働の価格の全体ではなかった。かれらのわ 富裕な国々では、市場は一般にきわめてひろいので、どの 良すかな保有物が、それのかなりの部分をなしていた。しかし るながら、ふるい時代の労働および食糧の価格をあつめ、両者ひとつの職業も、それに従事する人々の労働や資財の全体 を、使用するのに十分である。人々がひとつの業務によって がともにおどろくほどやすかったとのべてよろこんでいた、 がおおくの著作者によって、この日または週の報酬が、それの生活し、しかも同時に、他の業務からいくらかのちいさな利 益をひきだしているという、例は、主としてますしい国々に 生全体だとみなされていたようにおもわれる。 働そういう労働の生産物はしばしば、そうでないばあいにそ生じる。けれども、これと幾分おなじような種類のつぎの例 は、たいへん富裕な国の首都においても、みられるものであ れの性質にふさわしいであろうよりも、やすく市場にでる。 ツ。ハのどの都市でも、ロンドンほど家賃のたかい 一長靴下は、スコットランドのおおくの部分で、織機によってる。ヨーロ ところはないと、わたくしは信じるが、しかも、どの首都で どこでつくられるよりも、すっとやすくあまれる。それらは、 生計の主要部分を他のなにかの業務からひきだす、召使と労も、家具つきアパートメントがこれほどやすくかりられると ころを、わたくしはしらない。部屋代は、ロンドンでは、パ 働者のしごとなのである。千足をこえるシェトランドの長靴

9. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

原料の購買と、自分の製品を市場にはこびうるまでのあい 自分の領地の一部で農業経営をおこなう郷士は、耕作の 費用を支はらったのちに、地主の地代と農業者の利潤の双方だの、自己の維持との、双方をするのに十分な資財をもった を、もうけるはずである。ところが、かれは自分のもうけの独立の製造業者は、親方のもとでしごとをする雇い職人の賃 全体を、利潤とよびがちであり、こうしてすくなくとも日常銀と、かれの製品の販売によって親方があげる利潤との、双 のことばにおいては、地代と利潤とを混同する。われわれの方をもうけるはすである。それなのに、かれのもうけの全体 は、ふつうには利潤とよばれ、このばあいにもまた、賃銀は 北アメリカと西インドの植民農園主たちの、大部分は、この 状況におかれている。かれらの大部分は、自分の領地で農業利潤と混同されるのである。 経営をおこなうのであって、したがってわれわれは、植民農 自分の庭園で、自分の手で栽培する園芸家は、かれの一身 園の地代についてきくことはめったになく、それの利潤につ に、地主、農業者、労働者の三つの別々の性格を統合してい いてしばしばきくのである。 る。したがって、かれの生産物は、第一のものの地代と、第 ふつうの農業者たちが、その農場の一般的操作を指揮する二のものの利潤と、第三のものの賃銀とを、かれに支はらう はすである。それなのに、ふつうには、全体がかれの労働の ために、監督者を使用することはほとんどない。一般にはか かせぎだと考えられている。地代と利潤とは、ともに、この れらは、そのうえ、すきで耕すもの、まぐわで耕すものなど ばあいには、賃銀と混同されているのである。 として、自分たちの手をくだしておおくのしごとをするので 文明国では、その交換価値が労働だけから生じる商品は、 改ある。したがって、収穫のうちで地代を支はらったのちにの けこるものは、耕作に使用されたかれらの資財を、通常の利潤わすかしかなく、地代と利潤が、圧倒的大部分の商品の交換 にをともなって回収するだけでなく、労働者と監督者の双方と価値に、おおきく寄与しているのであるから、その国の労働 の年々の生産物はつねに、その生産物を産出し調製し市場に 産してのかれらにとうぜん支はらわれるべき賃銀を、支はらう のものでもなければならない。それなのに、地代支はらいと資はこぶのに使用されたよりも、はるかに多量の労働を、購買 または支配するにたりるであろう。もしこの社会が、年々に 労財維持とののちにのこるものは、すべて利潤とよばれる。だ 篇があきらかに、賃銀がその一部分をなしているのだ。農業者それが購買しうる労働のすべてを、年々に使用するとすれ ば、労働量は毎年おおいに増大するであろうから、それそれ は、これらの賃銀を節約することによって、必然的にそれだ の後続の年の生産物は、そのまえの年のそれよりも、ずっと けをもうけるにちがいない。だから、賃銀は、このばあいに おおきな価値をもつであろう。けれども、年々の全生産物 は利潤と混同されるのである。 ジェントルマン ジャーニマン

10. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

からであり、そして、利潤はつねに資本にたいしてある比率 的または究極的に、地代、労働および利潤という、おなじ三 をもつにちがいないのである。 つの部分に分解するのである。 しかしながら、もっとも改良された社会においても、つね 麦粉またはひきわり麦の価格においては、われわれは、穀 物の価格に、粉屋の利潤とかれの召使の賃銀とを、つけくわに、ある少数の商品はその価格が、労働の賃銀と資財の利潤 えなければならなし 、。パンの価格においては、。 ( ン屋の利潤というふたつの部分だけに分解し、それよりも少数のものは、 とかれの召使の賃銀とを、そして、双方の価格において、穀その価格がまったく労働の賃銀からなる。たとえば海の魚の 物を農業者の家から粉屋の家へ、粉屋の家から。 ( ン屋の家価格において、一部分は漁夫の労働を、他の部分は漁業に使 へ、輸送する労働を、その労働の賃銀を前ばらいする人々の用された資本の利潤を支はらう。地代がいくらかでもそれの 利潤といっしょに、つけくわえなければならない。 一部をなすことは、わたくしがあとで示すように、ときには 亜麻の価格は、穀物のそれと同一の三部分に分解する。亜あるが、きわめてまれなのである。河川漁業においては、す くなくともヨーロッパの大部分にわたって、そうではない。 麻織物の価格においては、われわれは、この価格に、亜麻仕 あげ工、紡績工、織布工、漂白工などの賃銀を、かれらのそ鮭漁業は、地代を支はらうのであり、そして地代は、土地の れそれの使用者の利潤といっしょに、つけくわえなければな地代とよぶのは適当ではありえないにしても、賃銀や利潤と ならんで、鮭の価格の一部分をなす。スコットランドの若干 らない。 改個々の商品のどれでも、製造工程がくわわればくわわるほ の地方では、少数のまずしい人々が、ふつうにスコットラン ど、その価格のうちで賃銀と利潤に分解する部分は、地代に ド石の名でしられているあの色のまざりあった石を、海岸そ 分解する部分に比しておおきくなる。製造工程がすすむにつ いにあつめるのを職業としている。石細工人がかれらに支は 産れて、利潤の数がふえるだけでなく、あとの段階の利潤はすらう価格は、まったくかれらの労働の賃銀であって、地代も の . べてその前段階の利潤よりもおおきいのであって、そのわけ 利潤も、それのどのような部分にもならないのである。 労は、あとの段階の利潤がひきだされる資本の方が、つねにお だが、それそれの商品の価格全体は、やはり、究極的には、 篇おきいにちがいないからである。たとえば、織布工を使用すこれら三つの部分のうちのあれかこれか、あるいはすべて に、分解するにちがいない。というのは、土地の地代と、そ 第る資本は、紡績工を使用する資本よりも、おおきいにちがい ない。なぜなら、それは、後者の資本をその利潤とともに回れを産出し製造し市場にもたらすのに使用された全労働の価 収するだけでなく、そのうえ織布工の賃銀をも支はらうのだ格とを、支はらったのちにのこる価格の部分は、なんであれ