消費 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想14 スミス 国富論<上>
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1. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

オしカれが関係によって、保護されている。それのどんな部分も、生産 ちの消費とひきかえに背後になにものこしはしよ、。、 四年々貯蓄する部分は、利潤をめざしてただちに資本として使的な人手以外のなにかの維持に、あとになってかりにも使用 用されるのだから、おなじゃりかたで、しかもほぼ同時に消されるならば、それをこうして本来の使途からそらせて悪用 費されるのであるが、しかし、べつの一組の人々、すなわちする人にとって、あきらかな損失とならすにはおかない。 浪費家はそれを、つぎのようにして悪用する。すなわち、 かれらの年々の消費の価値を利潤とともに再生産する労働 かれの支出をかれの収入の範囲にかぎらぬことによって、か 者、製造業者、および手工業者によってなのである。かれの 収入が、かれに貨幣で支はらわれると想定しよう。かれがそれは自分の資本をくいつぶすのである。ある敬神的な財団の の全体を、費消してしまったならば、その全部で購入しえた収入を漬神的な諸目的に悪用する人のように、かれは、自分 の先祖の倹約が勤労の維持のためにいわば聖化しておいた基 だけの衣食住は、まえの一群の人々のあいだに分配されたで あろう。それの一部分を貯蓄するならば、その部分は利潤を金をもって、怠惰の賃金を支はらうのである。生産的労働の えるためにただちに資本として、かれ自身かだれか他の人に使用にあてられた基金を減少させることによって、かれは必 よって使用されるのだから、そうすることにより、それをも然的に、かれに依存する範囲内で、投下された対象に価値を って購買されうる衣食住は、必然的に後者のために留保されつけくわえる労働の量を減少させ、したがって、国全体の土 る。消費は同一であっても、消費者はちがうのである。 地と労働の年々の生産物の価値、その住民の真実の富と収人 倹約な人は、かれが年々貯蓄するものによって、その年まを、減少させる。ある人々の浪費が、他の人々の倹約によっ たはつぎの年についての、生産的な人手の数の追加分の維持てつぐなわれないならば、各浪費者の行動は、勤勉なものの パンをもって怠惰なものをやしなうことにより、かれ自身を 費を、提供するだけではなく、かれは、公共労役場の設立者 のように、将来のあらゆるときに同一数を維持するための永こじきにするだけでなく、かれの国をますしくすることにな 久基金を、設置するようなものである。この基金の永久的な わりあてと使途は、かならすしもつねに、なんらかの実定 浪費者の支出が、すべて国産商品についてなされ、そのい かなる部分も外国商品についてなされるのではないとして 法、なんらかの信託権や永久寄付行為によって、保護されて いるのではないことはたしかである。けれどもそれは、つねも、それが、その社会の生産的基金にあたえる効果は、同一 に、きわめて強力な原理、すなわち、それのいくらかのわけであろう。毎年、生産的な人手を維持すべきであったはす の、一定量の食物と衣服が、やはり、不生産的な人手の維持 まえが属するすべての個人の、わかりやすくあきらかな利害 る。

2. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

加量を、どこでもそれを入手しうるところで、購入するのに生産的労働の維持にあてられた基金を減少させることにな 四使用されるであろう。それらの金属の増大は、このばあいに る。そういう企画のどれにおいても、資本は生産的な人手だ は、公共の繁栄の結果であって原因ではないであろう。金銀けによって消費されるとはいえ、それでもそれらが使用され は、どこにおいても、おなじようにして購入される。金銀をる無分別なやりかたによっては、それらは自分たちの消費の 鉱山から市場にもたらすのに自分たちの労働または資財が使全価値を再生産しないのだから、そこではつねに、さもなけ 用されるすべての人々の、衣食住すなわち収入と生活資料れば社会の生産的な基金であったはすのものがいくらか減少 は、ベルーにおいても、イングランドにおいてもおなじようするにちがいない。 に、それらにたいして支はらわれる価格なのである。支はら たしかに、一大国民の境遇が、個々人の浪費やまずい行動 うためのこの価格をもっている国が、自分の必要とするこれ によっておおきな影響をうけうるということは、めったにお らの金属の量にながいあいだ不足するということは、けっし こるはずがない。ある人々の乱費や無思慮は、つねに他の人 てないであろうし、また、どの国も、それが必要としない量人の倹約とりつばな行動によって、相殺されてあまりがある をながく保持することは、けっしてないであろう。 のだからである。 それであるから、一国の真の富および収入がどのようなも 乱費についていえば、支出にかりたてる本能は、現在の のに存すると、われわれが想像しようとも、すなわち、平明享受にたいする情念なのであって、それは、ときには、はげ な道理が指示するとおもわれるとおりに、その土地と労働りしくて抑制がきわめて困難ではあるが、一般に瞬間的で偶発 年々の生産物の価値にあると想像するか、あるいは、世間で的なものにすぎない。けれども貯蓄にかりたてる本能は、わ 有力な偏見が想定するとおりに、そのなかで流通する貴金属れわれの生活状態を改良しようという欲求であり、それは、 の量にあると想像するかにかかわりなく、このことがらにつ 一般に平静で非情念的ではあるが、胎内からわれわれととも いてのどちらの見解においても、あらゆる浪費者は公共の敵にきて、われわれが墓穴にはいるまでけっしてはなれること であるとおもわれ、あらゆる倹約家は、公共の恩人であるとのない欲求なのである。その二つの瞬間をへだてる全期間に おもわれているのである。 おいて、どんな人でも自分の境遇について、どんな種類の変 ますい行動の諸効果は、しばしば、浪費のそれとおなじで更や改良をものそまぬほどに完全かっ十分に満足しき「てい ある。農業、鉱業、漁業、商業、あるいは製造業における、 るということは、一瞬間さえおそらくめったにないであろう。 あらゆる無分別で不成功な事業企画は、おなじようにして、 財産の増殖は、大部分の人々が、それによって自分たちの生 プリンシプル

3. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

マドリード、ヴィーンについていえるであろう。これらの三 て主として維持されている都会では、ローマ、ヴェルサイユ、 コンビエー ニュ、フォンテンプローにおいてのように、かれつの都市のうちて 、、。、リはとびぬけてもっとも勤労的である らは一般に怠惰で放縦で貧乏である。ルーアンとポルドーをが、しかしパリ自体が、。 , 、リに設立されているすべての製造 のぞくとすれば、フランスの高等法院所在都会のどこにも、 業の主要な市場なのであり、それ自体の消費が、それのいと なむすべての商業の主要目標なのである。ロンドン、リス + 商業も産業もほとんど存在しないし、下級階層の人々は主と ア、ケーベノ、 ッパのなかて 、 / ーフンは、おそらく、ヨーロ して、裁判所員とそこで訴訟をするためにくる人々の出費に 宮廷の恒常的所在地でありながらしかも同時に、商業的都市 よって、維持されているので、一般に怠惰で貧乏である。ル ーアンとポルド ーのおおきな商業は、まったくその位置のおとして、すなわちそれ自体の消費のためだけでなく他の諸都 かげであるようにおもわれる。ルーアンは必然的に、外国か市や諸国の消費のためにも商業をする都市として、みなすこ とのできるただ三つの都市であろう。三つはすべてその位置 らもフランスの沿海諸州からもパリという大都市の消費のた が、きわめて有利であって、自然にそれらを、遠隔地の消費 めにもたらされる、ほとんどすべての財貨の集散地である。 ボルドーは、おなじようにして、ガロンヌ河やそれに流入すにあてられる諸財貨のうちのおおきな部分の、集散地たるに る諸河川の岸でつくられる、ぶどう酒の集散地なのであっ適したものとしている。大収入が消費される都市で、その都 て、それらの河岸は、世界でもっともゆたかなぶどう酒産出市の消費にたいして供給すること以外のなにかの目的に、資 地方のひとつであるし、輸出に最適の、つまり海外諸国民の本を有利に使用することは、下級階層の人々がそのような資 このみにもっともよくあった、。 ふどう酒を生産するようにお本の使用のほかには生活維持費をひきだすものがない都市よ もわれる。このように有利な位置は、必然的に、大資本におりも、おそらくむすかしいであろう。大部分の人々が収人の 費消によって維持されるばあいには、かれらの怠惰が、資本 おきな使途を提供することによって、それをひきよせるし、 この資本の使用が、これら二つの都市の勤労の原因なのであの使用によって維持されるべき人々の勤労を腐敗させるとい る。このほかの、フランスの高等法院所在都会では、それら うことが、おそらくおこるであろうし、そして、かれらの怠 自体の消費にたいして供給するのに必要であるところよりも惰はそこで資本を使用することを、他のところより不利なも おおくの資本は、ほとんどまったく使用されていないように のとするのである。エディン・ハラでは、合邦以前には、商業 おもわれる。すなわち、これらのなかで使用されうる最少のも産業もわすかしかなかった。スコットランド議会がもはや 資本を、ほとんどこえないのである。おなじことが、パー そこに召集されなくなり、そこがスコットランドの主要な貴

4. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

ーニヤ人たち らによれば、家畜にあり、そのことは、エスパ 、あるいは浪費的な人は、貨幣に れ、不始末な、気前のいし 無関心だといわれる。富裕になるとは貨幣をえることであによればそれが金銀にあ 0 たのと、同様であ 0 た。ふたつの り、そして、富と貨幣は、ようするに、ふつうのことばにおうちで、タタール人の見解が、おそらく、真実にもっともち かかったであろう。 いてはあらゆる点で同義とみなされているのである。 リッチ ロック氏は、貨幣と他の動産のあいだの、ひとつの区別に 富裕な国とは、富裕な人とおなじように、貨幣が豊富な国 のことだと想定されるし、どこの国であれそこに金銀を蓄積気づいている。かれはつぎのようにいう。他のすべての動産 は、きわめて消費されやすい性質のものであって、そのため することは、それを富裕にするためのもっとも手がるな道だ に、それらからなる富はあまり信頼できないし、ある年にそ と想定される。アメリカの発見ののちしばらくのあいだ、エ ーニヤ人たちが、どこかの未知の海岸に到着したときれらを豊富にもつ国民が、なにも輸出しないのに、かれら自 身の浪費とぜいたくだけによって、翌年にはそれらがおおい の、さいしょの質問は、その近隣地方にいくらかの金か銀が に不足することも、ありうるほどなのである。反対に、貨幣 みつかるかどうか、ということであるのをつねとした。かれ はしつかりした友人であって、それは、手から手へわたって らがうけとる情報によって、かれらはそこに植民地をつくる いくではあろうが、それにもかかわらす、もしそれが国外に 値うちがあるかどうか、あるいは、その国が征服にあたいす いかないようにしておけるならば、ひじように浪費され消費 るかどうかを、判断した。フランス王によって、有名なジン ギス・カンの息子のひとりのところへ、大使として派遣されされやすいものではない。だから金銀は、かれによれば、一 た修道僧である、プラノ・カル。ヒノは、タタール人たちがし国民の動的富のうち、も 0 とも堅固で実体的な部分であり、 ばしばかれにむか「て、フランス王国には羊と牡牛がたくさそして、かれの考えでは、それらの金属を増加させること が、その理由で、その国民の政治経済学〔経済政策〕の大目的 んいるかどうかを、たすねるのがつねであった、といってい たるべきなのである。 ーニヤ人たちのそれと、おなじ る。かれらの質問は、エスパ 他の人々は、もし一国民が世界のすべてから分離されうる 目的をもっていた。かれらは、その国が征服するにあたいす ならば、そのなかでどれだけおおくの、あるいはどれだけす るほど富裕であるかどうかを、しりたがったのである。タタ くなくの貨幣が流通するかは、重要ではないだろうというこ ール人たちのあいだでは、貨幣の使用について一般的に無知 な、他のすべての牧畜国民のあいだでとおなじく、家畜が商業とを承認する。この貨幣を手段として流通させられた消費財 用具であり価値尺度なのである。したがって、富とは、かれは、多数の貨幣と交換されたり少数の貨幣と交換されたりす

5. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

よって、ただちに増大させられうるものではない。だから、 るのではあるが、われわれはそれが無償で国外におくられる それらの操作のあとで、それの流通のためには、百万で十分のだとか、それの所有者たちがそれを、海外諸国民への贈物 であろう。売買されるべき財貨は、正確にまえとおなじなのとするのだとか、想像してはならない。かれらは、どこか他 だから、それらを売買するには、同一量の貨幣で十分であろの外国あるいはかれら自身の国の消費にたいして供給するた う。流通の水路は、そういう表現をつかうことをゆるされるめに、それをあれこれの種類の外国の財貨と、交換するであ として、まえと正確に同一のままであるだろう。われわれは、 ろう。 百万がその水路をみたすに十分なものと、想定しておいた。 もしかれらがそれを、ある外国の消費に供給するために、 したがって、この額をこえてそれに注人されるものはすべて、他の外国で財貨をかうことに使用するならば、すなわちいわ そのなかをながれることができないで、あふれでるにちがい ゆる仲継貿易に使用するならば、かれらがあげる利潤はどん ない。百八十万ポンドが、それに注入される。だから、八十なものでもすべて、かれら自身の国の純収入への追加となる 万ポンドはあふれでるにちがいないのであって、この額が、 であろう。それは、ひとつのあたらしい営業をいとなむため その国の流通に使用されうるよりもおおいためである。しか に創出された、あたらしい基金のようなものであって、とい ピジネス しこの額は、国内では使用されえないにしても、なにもしな うのは、国内の事業はいまでは、紙幣によって取引されるの いでいることをゆるされるには、貴重すぎる。そこで、国内 だし、金銀はこのあたらしい事業のための基金に、転化され ではみいだしえない有利な業務をさがすために、それは国外るのだからである。 におくられるであろう。だが、紙幣は国外にいくことができ もしかれらがそれを、国内消費のための外国の財貨をかう ないのであって、なぜなら、それを発行した銀行から、また ことに、使用するならば、かれらは、第一に、なにも生産し それの支はらいを法によって強制しうる国から、とおくはな ない怠惰な人々によって消費されることになりがちな財貨、 れたところでは、それはふつうの支はらいにおいて、うけとすなわち外国のぶどう酒や絹などのようなものを、購入する られないであろうからである。したがって、金銀は、八十万かもしれないし、あるいは第二に、勤勉な人々の追加数を第 ポンドにたっするまで、国外におくられるであろうし、国内持し使用するために材料、道具、食料品の追加的なたくわえ 流通の水路は、従来それをみたしていた金属の百万のかわりを、購人するかもしれない。その勤勉な人々は、かれらの年 に、紙の百万によって、ひきつづきみたされるであろう。 年の消費の価値を、利潤をともなって再生産するのである。 しかし、それほど大量の金銀が、こうして国外におくられ それが第一のやりかたで使用されるかぎり、それは、乱費

6. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

る。借手はそれを、資本として利用してもいいし、直接消費のちなほど非常に数おおく発生することはありえないと、・われ 四ために留保された資財として利用してもいし もしかれが、 われは確信していいであろう。ふつうの慎慮をもっ金持のだ それを資本として利用するならば、かれは生産的労働者の維れかに、かれの資財の大部分をかしたのはつぎの二種類の人 持にそれを使用し、生産的労働者は利潤をそえてその価値を人のうちのどちらであるか、すなわちその資財を有用に使用 再生産する。このばあいにかれは、他のどんな収入源を手ばするとおもわれる人々か、それを怠惰に費消するとおもわれ なしたりくいつぶしたりすることもなしに、資本の回収と利 る人々かを、たずねるといい。 そうすればかれは、そういう 子の支はらいをともにおこないうる。もしかれがそれを、直質問をしたということで、あなたをわらうであろう。だ、 接の消費のために留保された資財として利用するならば、か ら、借手たちのなかでさえ、かれらは世界中に倹約でもっと れは浪費者の役割を演じるのであって、勤勉な人々の支持に も有名な人々ではないのだが、倹約勤勉な人々の数は、浪費 あてられていたものを怠惰な人々の維持につかいはたすので的で怠惰な人々の数をかなりこえているのである。 ある。このばあいにかれは、土地の所有権または地代という 資財をなにかきわめて有利なことに利用するという期待を ような、なにか他の収入源を、手ばなすかくいつぶすかしなけ かけられずに、ふつうに貸つけをうける唯一の人々は、抵当 カントリ・ジェントルメン れば、資本を回収することも利子を支はらうこともできない。 でかりる農村の郷士である。かれらでさえも、ただ費消す 利子つきで貸出される資財は、うたがいもなく、そのとき るためにかりることは、けっしてない。かれらがかりるもの そのときにおうじて、これらの双方のやりかたで使用される かりられるまえに費消されているのがふつうだと、 のだが、前者の方が後者よりもずっとおおい。費消するため ていいであろう。かれらはたいてい、商店主や商人が信用で にかりる人は、まもなく破減するであろうし、かれにかす人前貸ししてくれる財貨を、非常に大量に消費してしまったた はたいてい、自分のおろかさを後悔せざるをえなくなるであめに、その債務の支はらいのために利子つきでかりるよりし ろう。したがって、そういう目的のためにかりるのもかすの かたがなくなるのである。かりられた資本は、それらの商店 も、野卑な高利貸は間題外とすれば、すべてのばあいに双方主や商人の資本を補填するのであ「て、後者は農村の郷士た の側の利益に反するのであって、人々がそういう貸借のいずちがかれらの領土の地代のなかから補填しえなかったものな れをもするという事態が、とぎどき発生するにはちがいない のである。それはただしくいえば、費消するためにかりられ が、それでも、すべての人は自分の利益について関心を有するのではなくて、まえに費消されてしま「た資本を補填する るのだから、そういう事態が、われわれがときどき想像しが ために、かりられるのである。

7. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

外におくられる剰余についてさえ、その大部分は一般に、他うことは、けっしてありえない。人々が貨幣をほしがるの の外国の財貨の購買にあてられるのである。だから、金銀は、それ自身のためではなくて、かれらがそれによって購買 しうるもののためなのである。 が、それらを購買するのにあてられた諸財貨とひきかえに、 えられないにしても、その国民は破減しないであろう。それ 消費しうる諸商品は、まもなく消失させられるが、これに 反して金銀は、それらより耐久的な性質のものであり、この はたしかに、若干の損失と不便をこうむるかもしれないし、 貨幣にとってかわるのに必要な諸方策のうちのあるものを、 継続的な輸出がなかったならば、諸時代にわたってすっと蓄 とらざるをえなくなるかもしれない。しかし、その土地と労積されて、この国のほんとうの富の信じられない増大をひき 働の年々の生産物は、平常とおなじであるか、おなじにきわおこしたかもしれない、といわれる。だから、どこの国にと めてちかいであろう。なぜなら、おなじか、おなじにきわめ っても、そのような持続的な商品をそのような消減しやすい てちかい、消費しうる資本が、それの維持に使用されるであ商品と交換することを内容とする貿易にもまさって、不利益 ろうからである。そして、財貨は、貨幣が財貨をひきよせる なものはありえない、と主張される。しかしながらわれわれ ように手がるに、貨幣をかならずしもつねにひきよせるとは は、イングランドの金物とフランスのぶどう酒との交換を内 かぎらないが、ながいあいだには、諸財貨は貨幣を、貨幣が容とする貿易を、不利益だとはみなさない。それでも、金物 それらをひきよせるのにくらべてさえも、もっと必然的にひ はひじように耐久的な商品であって、もしこの継続的な輸出 きよせるのである。諸財貨は、貨幣を購買するほかに、おおがなかったならば、数時代にわたってすっと蓄積され、この国 くの目的に役だちうるが、貨幣は財貨を購買するほかには、 のなべ類の信じられない増大をひきおこしたかもしれない。 なんの目的にも役だちえない。したがって、貨幣は必然的に だが、すぐ心にうかぶのは、つぎのことである。すなわち、 財貨のあとをおうが、しかし財貨は、つねにあるいはかなら各国におけるそういう器具の数は、必然的に、そこにそれら ず、貨幣のあとをおうものではない。かう人は、かならすし にたいして存在する、用途によって限定されるということ、 もつねに、ふたたびうることを意図しているのではなく、しそこで通常消費される食物の調理に、必要であるよりもおお ばしば、使用あるいは消費することを意図している。ところくのなべ類をもつのは、ばかげているということ、そしてもし が、うる人はつねに、ふたたびかうことを意図しているので食物の量が増加することになれば、それにつれて容易に、なべ ある。前者はしばしば、かれのしごとの全体をしてしまった類の数は増加するであろうし、そのばあい食物の増加量の一 かもしれないが、他方は、その半分以上をしてしまったとい 部はそれらを購買するためか、それらをつくるのをしごとと

8. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

族と郷士の必要な居住地でなくなったとき、それはいくらかそれを若干の他人にかすことによって、その他人がいまいっ たことをするのを可能にするのである。一個人の資本が、か の商業と産業をもった都市になった。けれども、それはひき つづき今でも、スコットランドにおける主要な裁判所と、関れの年々の収入あるいは年々のかせぎのなかから、かれが貯 税局および消費税局などの所在地である。したがって、かな蓄するものによってのみ、増加させられうるように、一社会 りの収入がやはりひきつづいて、そこで費消される。商業との資本も、その社会を構成するすべての個人の資本と同一の 産業において、それははるかにグラーズゴウにおとるのであものであって、おなじゃりかたでのみ、増加させられうるの って、後者の住民は主として、資本の使用によって維持されである。 ている。あるおおきな村の住民が、製造業においてかなりの 勤労ではなくて節倹が、資本の増加の直接の原因である。 進歩をとげたのちに、かれらの近隣に大領主が邸宅をかまえ勤労はたしかに、節倹が蓄積するものを準備する。だが、勤 たことのけつか、怠惰で貧乏になったというのは、ときどき労がなにを獲得しようとも、節倹がそれを貯蓄し集積しなか みられたことである。 ったならば、資本はけっしておおきくならなかったであろ したがって、資本と収入との比率は、どこにおいても、勤う。 て 労と怠惰との比率を規制するようにおもわれる。資本が優勢 節倹は、生産的な人手の維持にあてられる基金を増加させ になところでは勤労が普及し、収入が優勢なところでは怠惰が ることによって、投下される対象の価値を増加させる労働を 使普及する。だから、資本のどんな増減でもとうぜんに、勤労もつ、それらの人手の数を増加させることになる。だからそ 厭のほんとうの量、生産的な人手の数、したがってその国の土れは、その国の土地と労働の年々の生産物の、交換価値を増 加させることになるのである。それは、年々の生産物に追加 地と労働の年々の生産物の交換価値、そのすべての住民のほ 的価値をあたえるところの、勤労の追加量を活動させるので 性んとうの富と収入を、増減させることになるのである。 財諸資本は、節倹によって増加させられ、浪費やますいやりある。 かたによって減少させられる。 年々に貯蓄されるものは、年々に費消されるものと、おな 一一人は、かれの収入のうちから貯蓄するものをすべて、かれじく規則的に、しかもほぼ同時に、消費されるのだが、それ は、ことなった一群の人々によって消費される。金持の収入 の資本につけくわえるわけであり、そしてそれを、生産的な のうちでかれが年々に費消する部分は、たいていのばあい 人手の数の追加分の維持に、自分で使用するか、あるいは、 怠惰な客や、家庭の召使によって消費され、かれらは自分た 利子をえるために、すなわち利潤のわけまえをえるために、 ジェントリ

9. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

の家屋やいなかの別荘の装飾に、有用なまたは装飾的な建物 を監視しその支出を抑制しようと主張するのは、最大の無礼 に、有用なまたは装飾的な家具に、書籍、彫像、絵画の収集 僭越である。かれらは、かれら自身がつねに、なんの例外も に投じたり、もっとつまらぬもの、すなわち宝石や装飾品や なく、その社会における最大の浪費者なのである。かれら さまざまな種類の精巧な小間物に投じたり、なによりもつま そうすれば、 は、自分たちの支出を十分に注意するがいい 私人の支出は私人にまかせておいてまちがいはないのであらぬこと、すなわち、ある大君主の寵臣で大臣であり数年ま えに死んだ人のように、おおきな衣裳戸棚をみごとな衣服で る。かれら自身のつかいすぎが国家を破減させないならば、 、つばいにするのに、投じることもできる。ひとしい財産を かれらの臣民のそれが破減させることは、けっしてないであ もっ二人が、一人は主としてあとのやりかたで、もう一人は ろう。 まえのやりかたで、かれらの収入をつかったとすると、主と 倹約が公共の資本を増加させ、浪費がそれを減少させるよ うに、支出がちょうど収入にひとしい人々の行動は、資本をして持続的な商品に支出した人の豪華さは、毎日の支出がっ 蓄積することもくいつぶすこともないから、それを増加させぎの日の支出の効果を支持したかめるのにいくらか寄与する もしなければ減少させもしない。けれども、若干の支出様式から、ひきつづいて増大したであろう。反対に、もう一人の 癶は、他の様式よりも、公共の富裕の成長に寄与するところが豪華さは、その時期のおわりにおいても、はじめよりおおき くはないであろう。前者はまた、その時期のおわりには、一一 「おおきいようにおもわれる。 齟ある個人の収入は、つぎのようなものごとのうちのどちら人のうちで富においてまさ「た人となるであろう。かれは、 にでも、つかうことができる。すなわち、直接に消費されなにかの種類の財貨のたくわえをも 0 ているであろうし、そ て、ある日の支出が他の日のそれを軽減も補助もしえないよれは、それにかか 0 たすべての費用の値うちはないかもしれ ないにしても、つねにいくらかの値うちをもつであろう。後 臨うな、ものにつかうか、もっと持続的で、したがって蓄積が の 可能で、毎日の支出が、翌日の支出を軽減するのも、その効者の支出については、なんの痕跡も名ごりものこらないであ ろうし、十年か一一十年の乱費の効果は、まったくそれが存在 果を補助したかめるのも意のままになるような、ものにつか しなかったかのごとくに、完全に無に帰するであろう。 うかである。たとえば、財産家はかれの収入を、気まえがよ 第 ある支出様式は、他の支出様式よりも、一個人の富裕にと くてぜいたくな食卓に、多数の家庭の召使の維持に、犬と馬 って有利であるように、一国民の富裕にとっても同様なので の大群の維持に、つかうこともできるし、あるいは、自分は つましい食卓と少数の従者で満足して、その大部分を、かれある。富裕な人の家屋、家具、衣服は、まもなく、下級およ

10. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

にちがいなく、それとともにそれらを流通させるのに使用さ に使用されるであろう。だから、毎年、そうでないばあいに その国の土地と労働の年々の生産物の価値であったはずのもれうる貨幣の量もまた、減少するにちがいない。しかし、生 産物のこの年々の減少によって国内流通から年々なげだされ のから、やはりいくらかの減少がおこったであろう。 この費用は、外国の財貨ではなく、金銀のいささかの輸出る貨幣は、なにもしないでいることはゆるされないであろ もひきおこさないのだから、従来と同一量の貨幣が国内にのう。だれであれ、それを所有する人の利害関心は、それが使 こるであろうと、たしかにいわれるかもしれない。だがもし用されることをもとめる。けれども、国内ではなににも使用 このようにして不生産的な人手によって消費された食物と衣されないので、それはあらゆる法律と禁止にもかかわらす、 国外におくられるであろうし、そして、国内でいくらか役に 服の量が、生産的な人手のあいだに分配されていたならば、 かれらはその消費の全価値を、利潤をそえて再生産したであたっかもしれぬような、消費しうる財貨を購買するのに使用 されるであろう。それの年々の輸出は、このようにしてしば ろう。このばあいにも、同一量の貨幣はやはり国内にのこっ らくは、ひきつづいて、その国の年々の消費に、その国自身 たであろうし、そのうえそこには、ひとしい価値の消費しう の年々の生産物の価値をこえて、あるものをつけくわえるで る財貨の、再生産がおこなわれたであろう。そこには、一つ て あろう。その国の繁栄の日々にその年々の生産物のなかから の価値のかわりに二つの価値があることになっただろう。 っ しかも、同一量の貨幣が、どこの国であれ年々の生産物の貯蓄されて、金銀を購買するのに使用されたものが、逆境に 用価値が減少しつつあるところに、ながくとどまることはありおけるその消費をささえるのに、ある短期間は寄与するであ ろう。金銀の輸出は、このばあいに、その国の衰退の原囚で えない。貨幣の唯一の用途は、消費しうる財貨を流通させる はなくて、結果なのであり、ある短期間はその衰退によるみ ことである。それを媒介として、食料品、材料、完成品が、 売買され、その本来の消費者に分配される。したがって、あじめさを緩和するものでさえありうるのである。 性 の る国で年々使用されうる貨幣の量は、そのなかで年々流通す 反対に、貨幣の量は、どこの国においても、年々の生産物 る、消費しうる財貨の価値によって、決定されるにちがいな の価値が増加するにつれて、自然に増加する。その社会のな これらの財貨は、その国自身の土地と労働の直接の生産かで年々流通する、消費しうる財貨の価値が、おおきくなる 第 物であるか、あるいは、その生産物のある部分をもって購入のだから、それらを流通させるために必要な貨幣の量もおお 9 されたものであるにちがいない。したがって、それらのものきくなるであろう。したがって、増加した生産物の一部分は とう、せんに、のこりのものを流通させるのに必要な金銀の追 の価値は、その生産物の価値が減少するにおうじて減少する