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検索対象: 世界の大思想14 スミス 国富論<上>
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1. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

たことがないものから、地代をひきだすのを可能にした。 / 住居の材料はかならすしもつねに、衣料材料のようには、 1 ルヴェイおよび・ハルト海岸の森林は、国内でみいだしえな 非常にとおいところへ輸送することができないし、容易に外 国商業の対象となることもない。それらを生産する国で、そかった市場を、グレート・・フリテンのおおくの部分でみいだ れらが過剰であれば、世界の商業の現状においてさえ、地主し、それによって若干の地代を、それらの所有者に提供す る。 にとってそれらはなんの価値もないということが、しばしば 諸国の人口は、それらの国の生産物が衣服と住居をあたえ 発生する。ロンドンの近隣地方における、いい採石場は、か うる人々の数に比例してではなく、それが扶養しうる人々の なりの地代を提供するであろう。スコットランドとウェール ズのおおくの部分では、それはなにも提供しない。実をもた数に比例して、おおいのである。食物があたえられているば ぬ建築用材木は、人口がおおくてよく耕作された国では、おあいには、必要な衣服と住居をみつけることは容易である。 おきな価値をもち、それを生産する土地は、かなりの地代をけれども、後者が手中にあるとしても、食物をみつけること はしばしば困難でありうる。ブリテンの諸領土の若十の部分 提供する。しかし、北アメリカのおおくの部分では、地主は、 かれの大木の大部分をも「てい 0 てくれようというどんな人においてさえ、型家屋とよばれるものは、一人一日の労働 で建築しうる。もっとも簡単な種類の衣服である動物の皮 にも、おおいに感謝するであろう。スコットランドのハイラ ンドのある部分では、道路や水運がないために、木材のうちは、それらを使用できるようにしあげてととのえるのに、い で樹皮の部分だけしか、市場におくることができない。材木くらかおおくの労働を必要とする。けれどもそれらは、大量 は地上で、くさるにまかされている。住居の材料がそのようの労働を必要とはしない。未開野蛮な諸国民のあいだでは、 に過剰であるばあいには、利用される部分は、それをその用年全体の労働の百分の一、あるいはそれをわすかしかこえぬ 途に適合させるための労働と費用の、値うちしかない。それ部分で、国民の大部分を満足させる衣服と住居を、かれらに あたえるのに十分であろう。のこりの百分の九十九のすべて は地主に地代を提供しないし、地主は一般にそれの使用を、 そうしたいと要求するという労をとる人にはだれにでも、ゆで、かれらに食物をあたえるのにようやくたりるということ 、、、、しばしばである。 るすのである。しかし、もっと富裕な諸国民の需要は、とき しかし、土地の改良と耕作によって、一家族の労働が、二 どき、かれがそれに対して地代をえることを、可能にする。 ロンドンの諸街路の舗装は、スコットランドの海岸にある不家族の食物を供給しうるばあいには、その社会の半分の労働 毛の岩山の所有者たちが、これまではけっしてなにも提供しで、全体に食物を供給するのに十分になる。したがって、の

2. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

ねに最大のものである一部分は、そのしごとの企業者の資本回収し生産的労働者だけを維持するのにあてられた部分であ を回収し、他の部分は、かれの利潤を支はらって、この資本りながら、かれらの手にはいったときに、そのうちでかれら の所有者にたいする収入を、形づくるのである。 の必要生活資料をこえてあまりさえすれば、生産的な人手で ある国の土地と労働の年々の生産物のうちで、資本を回収あろうと不生産的な人手であろうと無差別に維持するのに使 する部分が、生産的な人手以外のものを維持するのに、直接用されうる部分によって、維持されるのである。こうして、大 に使用されることはけっしてない。それは、生産的労働だけ地主や富裕な商人だけでなく、ふつうの職人でさえも、かれ の賃金を支はらう。利潤としてであれ地代としてであれ、収の賃金が相当なものであれば、家庭の召使を維持することが 入を形づくるのに直接にあてられる部分は、生産的な人手で できる。あるいは、かれはときには、劇や人形劇をみにいく も不生産的な人手でも無差別に維持するであろう。 ことができ、そうすることによって、一群の不生産的労働者 人がかれの資財のどの部分を資本として使用するにせよ、 の維持にたいするかれの分前を提供しうる。あるいは、かれ かれはそれが利潤をともなって自分のところへ回収されるこ は若干の税を支はらうことができ、そうすることによって、 とを、つねに期待する。したがって、かれはそれを生産的な もっと名誉あり有用でもあるにはちがいないが、ひとしく不 て 人手だけを維持するのに使用するのであり、それは、かれに生産的な、もうひとつの群を維持するのをたすけることもで にたいして資本としての機能をはたしたのちに、これらの人手きる。しかしながら、年々の生産物のうちで、はじめに資本 使の収入を形づくる。かれがそれのうちのどの部分でも、なん の回収にあてられていたいかなる部分も、その生産的労働の らかの種類の不生産的な人手の維持に使用するならば、いっ全量すなわち、それが使用されたやりかたで活動させうるす でもその部分はその瞬間から、かれの資本からひきぬかれべてを、活動させてしまってからでなければ、けっして不生 性て、直接の消費のために留保されるかれの資財のなかにいれ産的な人手の維持にむけられはしない。職人はなされたしご 財られる。 とによって賃金をかせいでしまってからでなければ、そのい 資 かなる部分をも、このように使用することはできない。しか 不生産的労働者と、まったく労働をしない人々とは、すべ 二て収人によって維持されるのであって、すなわち、第一に、 も、その部分は、一般に、ちいさなものにすぎない。それは 年々の生産物のうちで、土地の地代としてか資財の利潤とし かれの余分の収入だけであって、生産的労働者がそれをたく て、ある特定の人々の収入を形づくるのに、はじめからあてさんもっことは、めったにない。けれども、かれらは一般に られている部分によって、あるいは第二に、はじめは資本をそれをいくらかもっているのであって、税の支はらいにおい

3. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

になることは、けっしてないが、ただ、公共のそれによって 活状態をよくしようと意図し希望する手段である。それは、 世間でもっともよくしられた、そしてもっとも明白な手段で貧乏になることは、ときどきある。公収入の、全体あるいは ほとんど全体が、たいていの国で不生産的な人手の維持に使 あり、かれらの財産を増殖するためのもっとも可能性のある 用される。そういう人々が、ひと数がおおく壮麗な宮廷、お 方法は、自分たちが規則的に年々にであれ、あるいはなにか 異常な機会にであれ獲得するものの、ある部分を貯蓄し蓄積おきな教会関係の機関、大艦隊や大陸軍を構成するのであっ することなのである。したがって、支出本能は、ほとんどすて、大艦隊や大陸軍は、平時にはなにも生産しないし、戦時 には戦争がつづいているあいだだけの自分たちの維持費をつ べての人々において若干のばあいに優勢であり、若干の人々 ぐないうるものさえ、なにも獲得しないのである。そういう においてはほとんどすべてのばあいに優勢であるとはいえ、 それでも大部分の人においては、かれらの生涯の全行程の平人々は、かれら自身ではなにも生産しないので、すべて、他 均をとれば、節約本能が、優位にたっというだけでなく、きの人々の労働の生産物によって維持される。だから、かれら が増大させられて不必要な数になれば、ある特定の年にかれ わめておおきな優位をしめるようにおもわれるのである。 らは、この生産物のうちの非常におおきな部分を消費してし ますい行動についていえば、慎重で成功した企業の数はど て まい、翌年にそれを再生産すべき生産的労働者を、維持する こでも、無分別で不成功な企業の数よりも、ずっとおおい に十分なものをのこさぬようになる。そこで翌年の生産物 にわれわれが、しばしばおこる破産について、いくら不平をい は、前年のそれよりすくないであろうし、そしてもし、同一 使うとしても、この不運におちいる不幸な人々は、商業および 他のあらゆる種類の事業に従事する人のすべての数の、きわの秩序の混乱がつづくとすれば、三年目のそれは、二年目よ 蓄 りもさらにすくなくなるであろう。人々の余分の収入の一部 めてちいさな部分をなすにすぎない。おそらく、千分の一を 性あまりこえないであろう。破産は、罪のない人にふりかかり分だけによって維持されるべき、それらの不生産的な人手が 財うる災難としては、おそらくもっともおおきく、もっとも屈人々の全収入のうちの非常におおきな部分を消費することに 資 辱的なものであろう。だから大部分の人は、それをさけるのなるであろうし、そうすることによって非常に多数の人々 が、かれらの資本、すなわち生産的労働の維持にあてられた 二に十分なだけの、注意をはらっているのである。たしかに、 第 それをさけない人もいくらかはいるが、絞首台をさけない人基金をくいつぶすことを余儀なくされるだろうから、そのけ つか、諸個人のあらゆる倹約とりつばな行動をもってして がいくらかはいるのと、おなじことなのである。 おおきな諸国民が、私的な浪費やまずい行動によって貧乏も、このはげしい、しかも強制されたくいつぶしのひきおこ

4. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

どまたはまったく、必要としないし、かれら自身のちいさな下が、年々リースに輸入され、その価格は、一足五ペンスな いし七ペンスである。シェトランド群島の小首都であるラー 保有地の耕作は、かれらの自由にゆだねられている時間をつ ウィックでは、ふつうの労働のふつうの価格は一日十ペンス こういう居住者たちが、現在よ かいきるには十分ではない。 だと断言されるのをわたくしはきいたことがある。おなじ群 りもたくさんいたときには、かれらのあまった時間をだれに たいしても、非常にわずかな報酬でよろこんであたえたし、他島でかれらは、一足一ギニイあるいはそれ以上の価値にな の労働者たちよりもひくい賃銀でしごとをしたと、いわれてる、梳毛毛糸の長靴下をあんでいるのである。 亜麻糸をつむぐのは、スコットランドでは、長靴下をあむ いる。むかしは、ヨーロツ。ハ全体にわたって、かれらはふつ のとほとんどおなじように、主として他の目的のためにやと うにみられたようである。そうでなければ、耕作が不十分で 住民はそれよりも不十分な国々では、大部分の地主と農業者われた、召使たちによっておこなわれる。これらの職業のど れかによって全生活をたてようとっとめる人々は、きわめて は、農村労働が一定の季節に必要とする異常な数の人手を、 調達しえなかったであろう。そういう労働者たちがかれらのと。ほしい生活費しか、かせがないのである。スコットランド 主人たちから、ときどきうけとる日また週の報酬は、あきらのたいていの部分では、一週に一一十ペンスをかせぐ女は、す ぐれたつむぎ手である。 かに、かれらの労働の価格の全体ではなかった。かれらのわ 富裕な国々では、市場は一般にきわめてひろいので、どの 良すかな保有物が、それのかなりの部分をなしていた。しかし るながら、ふるい時代の労働および食糧の価格をあつめ、両者ひとつの職業も、それに従事する人々の労働や資財の全体 を、使用するのに十分である。人々がひとつの業務によって がともにおどろくほどやすかったとのべてよろこんでいた、 がおおくの著作者によって、この日または週の報酬が、それの生活し、しかも同時に、他の業務からいくらかのちいさな利 益をひきだしているという、例は、主としてますしい国々に 生全体だとみなされていたようにおもわれる。 働そういう労働の生産物はしばしば、そうでないばあいにそ生じる。けれども、これと幾分おなじような種類のつぎの例 は、たいへん富裕な国の首都においても、みられるものであ れの性質にふさわしいであろうよりも、やすく市場にでる。 ツ。ハのどの都市でも、ロンドンほど家賃のたかい 一長靴下は、スコットランドのおおくの部分で、織機によってる。ヨーロ ところはないと、わたくしは信じるが、しかも、どの首都で どこでつくられるよりも、すっとやすくあまれる。それらは、 生計の主要部分を他のなにかの業務からひきだす、召使と労も、家具つきアパートメントがこれほどやすくかりられると ころを、わたくしはしらない。部屋代は、ロンドンでは、パ 働者のしごとなのである。千足をこえるシェトランドの長靴

5. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

の、ものであるにちがいない。だが、購買力、すなわちそれら用の、あらゆる節約は、まさに同一の種類の改良なのである。 の貨幣年金の全体がつぎつぎに支はらわれるにつれて、つぎ 固定資本の維持費におけるあらゆる節約が、どのようにし つぎにかわれうる財貨は、つねにそれらの年金と正確にひとてその社会の純収入の改良になるかということは、十分にあ しい価値のものであるにちがいないのであって、それらが支きらかであるし、部分的には、すでに説明されたことでもあ はらわれるさまざまな人々の収人が、そうであるにちがいな る。あらゆるしごとの、企業家の全資本は、必然的に、かれ いのと同様である。したがって、その収入が、それの価値よの固定資本と流動資本とにわかれる。かれの全資本がひきっ りもこれほどはるかにすくない額の、それらの金属片からな づき同一であれば、一方の部分がちいさければちいさいほど、 るということはありえないのであり、購買力、すなわちそれ他方の部分は必然的におおきくなるにちがいない。材料と労 らが手から手へ流動するにつれてつぎつぎとかわれうる財貨賃とを供給し、産業を活動させるのは、流動資本である。し から、なるのである。 たがって、固定資本の維持費における節約で、労働の生産力 それで、流通の大車輪であり、商業の偉大な用具である貨を減少させないものはすべて、勤労を活動させる基金を増大 幣は、他のすべての営業用具とおなじく、資本の一部分、し させるにちがいなく、したがって、土地と労働の年々の生産 かもきわめて貴重な部分をなすのではあるが、それがぞくす物、すなわちあらゆる社会の実質的な収入を、増大させるに ちがいないのである。 る社会の、収人のいかなる部分でもないのであり、そして、 それを構成する金属片は、その年々の流通の行程で、各人に 金銀貨の地位に紙幣をおきかえることは、きわめて費用の たいして、ほんらいかれに属すべき収入を、分配するのでは かかる商業用具のかわりに、それよりずっと費用がかからな あるが、それらじしんは、その収入のいかなる部分でもない いで、ときにはひとしく便利な、商業用具をおくことである。 のである。 流通は、設立するにも維持するにもふるい車輪より費用のか 第三に、そしてさいごに、固定資本を構成する営業上の機からない、あたらしい車輪によっていとなまれるようにな る。しかし、どのようにしてこの作業が遂行されるか、そし 械と用具などは、流動資本のうちで貨幣からなる部分に、さ らにつぎのように類似している。すなわち、それらの機械をて、どのようにしてそれが、その社会の総収入または純収人 を増加させることになるのかは、それほどあきらかだという 設置し維持する費用のうちで、労働の生産力を減少させない すべての節約が、その社会の純収人の改良であるのと同様わけではけっしてなく、したがって、さらにいくらかの説明 に、流動資本のうちで貨幣からなる部分をあつめ維持する費を必要とするかもしれない。

6. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

すしい人々に、非常におおきな不便、ときには非常におおきであろう。これらの金属はアメリカで、その紙幣のうちのあ るものが禁止されていらい、豊富さをましてきたといわれ な災厄さえも、もたらすであろう。 おそらく、この王国のどの部分においても五ポンドより少る。それらの紙幣がもうけられるまえには、おなじように、 額については、銀行券が発行されなかった方が、よかったで豊富さがまさっていたといわれる。 紙幣が商人と商人とのあいだの流通に、かなりよく制限さ あろう。そうすれば、紙幣は多分、この王国のどの部分にお いても、十ポンド以下の価値の銀行券が発行されていない口れるとしても、銀行および銀行業者は、その国の産業と商業 ンドンで、現在そうであるのとおなじ程度に、さまざまな商にたいして、全流通がほとんど紙幣でみたされていたときに かれらがあたえたのと、ほ、ほ同一の援助を、やはりあたえる 人のあいだの流通にかぎられるであろう。五ポンドというの は、王国のたいていの部分では、ロンドンの湯水のような金ことができたであろう。商人がそのときそのときの要求にこ づかいのただなかでの十ポンドにくらべて、購買する財貨のたえるために手もとに保有せざるをえない現金は、かれ自身 とかれが財貨をかう他の商人たちとのあいだの流通に、すべ 量はおそらく半分をわすかしかこえないにしても、貴重視さ てあてられることになっているのである。かれは、自分と消 れることは同等であり、一度につかいはたされることがめつ 費者たちとのあいだの流通のために、いささかも手もとに保 たにない点でも同等なのだからである。 っ ロンドンのように、紙幣が商人と商人とのあいだの流通有する必要はないのであ「て、消費者たちは、かれの顧客で にかなりよく制限されているところでは、つねに金銀が豊あり、かれらは現金をいささかでもかれからとるどころか それをかれにもたらすのである。だから、商人と商人とのあ 富だということは、注目されるべきである。スコットランド いだの流通に紙幣をかなりよく制限するであろうような金額 のように、またそれにもまさって北アメリカのように、紙幣 についてしか、紙幣の発行がゆるされなかったとしても、部 性が商人と消費者のあいだの流通のかなりの部分にまで、ひろ 財が 0 ているところでは、その国内商業の、ほとんどすべての分的には真正為替手形のわりびきによ 0 て、部分的にはキャ ッシュ・アカウントにもとづく貸しつけによって、銀行およ 通常の取引が、こうして紙幣によっていとなまれるので、そ び銀行業者はやはり、それらの商人たちの大部分を、そのと 二れは金銀をほとんどまったく、その国から追放する。十シリ 第 ングと五シリングの銀行券の禁止は、スコットランドにおけきそのときの要求におうじるためにかれらの資財のうちのあ 5 る金銀の欠乏を、いくらかすくったのだし、一一十シリング券るかなりの部分を、使用しないで現金で手もとに保有すると いう必要から、まぬかれさせることができたであろう。かれ が禁止されれば、おそらくさらにそれ以上に、すくったこと

7. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

いして、かれらが良好な穀作地にたいしてふつうにうけとる いえ、おそらくまだ、そうする余地をあたえるにはひくすぎ る。たしかに、その質が、イングランドの酪農の生産物の質のとおなじようによく、つぐなうのに、換言すれば、かれが にくらべておとっていることは、価格がおとっていることにそれに使用する資財を通常の利潤をともなって回収するの 完全に対応する。しかし、この質がおとっていることはおそに、十分でなければならない。各個別生産物の価格の、この らく、価格のこのひくさの原因であるよりも、むしろけつか上昇が、それをつくるのにあてられる土地の改良と耕作に、 である。質がすっとよかったとしても、市場にもってこられ先行しなければならないことはあきらかである。利得が、あ らゆる改良の目的であって、損失が必然的帰結となるべきど るものの大部分は、この国の現在の状況のもとでは、ずっと しい価格で処分されることはできないであろうと、わたくしんなものも、改良の名にあたいしえない。だが、価格が費用 はおもう。そして、現在の価格は、ずっといい質を生産するをけっして回収しえない生産物のために、土地を改良するこ のに必要な土地と労働の費用を、おそらくつぐなわないであとの、必然的帰結は損失であるにちがいない。その国の完全 な改良と耕作が、あらゆる公共的利益のなかで最大のもので ろう。価格の優越にもかかわらず、イングランドの大部分に わたって、酪農は、農業の一一大目的である穀物栽培や家畜飼あることは、きわめてたしかなのだが、もしそのとおりにな るとすれば、粗生産物のそれらのさまざまな種類のすべて 育よりも、利益のおおい土地使用であるとはみなされていな 、。したがって、スコットランドの大部分にわたって、それの、価格のこの上昇は、公共の災厄とみなされるかわりに、 あらゆる公共的利益のなかで最大のものの、必然的な先駆者 はイングランドとおなじ程度でさえ、有利では、ありえない であり従者であると、みなされるべきである。 のである。 それらすべての、さまざまな種類の粗生産物の、名目価格 あきらかに、どの国の土地でも、人間の勤労がそこでつく らざるをえないあらゆる生産物の価格が、完全な改良と耕作すなわち貨幣価格のこの上昇はまた、銀の価値のいかなる低 の費用をつぐなうだけのたかさに、ひとたびたっするまで下のけつかでもなく、それらのものの実質価格の上昇の、け つかであった。それらは、まえにくらべて、おおくの量の銀・ は、完全に耕作され改良されることはけっしてありえない。 にあたいするようになっただけでなく、おおくの量の労働と それをつぐなうためには、各個別生産物の価格が、第一に、 生活資料にあたいするようになったのである。それらを市場・ 良好な穀作地の地代をつぐなうに十分でなければならない。 その地代が、他の耕作された土地の大部分の地代を、規制すにもってくるのに、まえよりおおくの量の労働と生活資料が るのだからである。そして第二に、農業者の労働と費用にた かかるので、それらがそこにもってこられるときには、まえ

8. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

ては、かれらの数がおおいことが、かれらの分担のちいさい はらうのにあてられている。ところが、むかし、封建的な統 ことを、ある程度おぎないうるのである。したが「て、土地治がいきわた「ていたあいだは、その生産物のきわめてちい の地代と資財の利潤とがどこにおいても、不生産的な人手が さな部分が、耕作に使用された資本を回収するのに十分であ その生活維持費をひぎだす主要な源泉なのである。これは、 った。その資本は数頭のみじめな家畜からなっているのがふ 所有者が一般にもっとも物おしみしない、二種類の収入であつうで、それは、耕作されていない土地の自生的な生産物だ る。それらは、生産的か不生産的かの差別なく、双方の人手けで維持されるのであり、したがって、その自生的生産物の を維持しうる。けれども、それらは後者にたいしていくらか 一部分とみなされえた。それはまた、一般に、地主にそくす の偏愛をもっているようにおもわれる。ひとりの大領主の支るものであり、かれによって土地の占有者たちに前貸しされ 出は、一般に、勤勉な人々よりも怠惰な人々をおおく扶養すたのである。生産物ののこりのすべてはやはり、かれの土地 る。富裕な商人は、かれの資本によっては勤勉な人々だけをの地代としてであれ、このとるにたりぬ資本の利潤としてで 維持するのだが、しかもかれの支出によっては、すなわちかあれ、正当にかれに帰属した。土地の占有者たちは、一般 れの収人の使用によっては、その大領主とまさに同一の種類に、農奴であって、かれらの身がらも、動産もひとしくかれ のものを、扶養するのがふつうである。 の財産であった。農奴でない人々は、任意解除の借地人であ だから、生産的な人手と不生産的な人手との比率は、どこ り、かれらが支はらった地代は、名目的には役務免除地代を の国においても、年々の生産物のうちで、地中あるいは生産ほとんどこえるものではないことがたびたびであったけれど 的労働者の手中からでてくるとすぐ、資本の回収にあてられも、じっさいにはその土地の全生産物にたっした。かれの領 る部分と、地代としてであれ利潤としてであれ、収入を形づ主はいつでも、平時にはかれらの労働を、戦時にはかれらの くるのにあてられる部分との、比率に依存するところが非常軍役を支配することができた。かれらは、かれの家からとお におおきい。この比率は富裕な国においては、貧乏な国におくはなれて住んでいたけれども、その家のなかに住むかれの いてと、きわめてちがっている。 従者たちとひとしく、かれに依存していた。だがその土地の こうして、現在では、ヨーロッパの富裕な諸国において全生産物は、うたがいもなく、それが維持するすべての人々 は、その土地の生産物のうちの、きわめておおきな部分、しの労働と役務を自由に処理できる、かれに属する。ヨーロッ ばしば最大の部分が、富裕で独立の農業者の資本を回収する パの現状においては、地主のわけまえは、その土地の全生産 のにあてられ、他の部分が、かれの利潤と地主の地代とを支物の三分の一をこえることはまれであり、四分の一におよば

9. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

196 に放置され、少数のちらばった、なかばうえた家畜を生存さ さえも、それが生産しうるであろうところにくらべて、わす せておくのにちょうどたりるだけの、いくらかのみじめな牧 かしか生産しえなかったことはあきらかである。だが、この 草のほかには、ほとんどなにも生産しないであろう。この農方式がどれほど不利にみえようとも、それでも合邦まえには、 場は、それを完全に耕作するに必要とされるであろうところ家畜の低価格がそれをほとんど不可避にしたようにおもわれ にくらべれば、はるかに家畜がたりないとはいえ、きわめてる。もし、家畜の価格のおおきな上昇にもかかわらず、それ しばしば、それのじっさいの生産物にくらべれば、家畜がお がなおその国のかなりの部分にわたって優勢でありつづける おすぎるのである。しかしながら、この荒蕪地の一部分が、 とすれば、そのことはうたがいもなく、おおくの場所におい この劣悪なやりかたで、六年か七年にわたってずっと、放牧て無知と旧習への執着によるが、しかしたいていの場所にお につかわれたのちに、犁でたがやされるかもしれない。その いては、すぐれた方式の即時あるいは急速な樹立にたいし ばあい、それはおそらく質のわるいからす麦か、なにかほか て、ものごとの自然の行程が対置する不可避的な諸障碍によ の組悪な穀類の貧弱な収穫を一回か一一回うみだすであろう。 るのである。第一には、借地人たちの貧困に、すなわち、 それから、まったく枯渇してしまったために、まえとおなじ っそうおおくの家畜を維持することをかれらにとって有利に ようにふたたび、休耕され牧畜されなければならない。そし したであろう、その価格上昇が、かれらにとってそれの獲得 て、べつの部分が犁でたがやされて、おなじように枯渇し、 をいっそう困難にしたので、かれらの土地をもっと完全に耕 ふたたびその順序にしたがって、休耕されることになる。っ作するのに十分な家畜数を獲得する時間を、かれらがまだも まりこういうのが、合邦いぜんのスコットランドの、低地地 たなかったことに、よるのである。そして第二には、かれら 方の全体にわたっての、一般的な経営方式であった。たえすがこのいっそうおおい家畜を獲得することができたと想定し よく肥料をあたえられ、良好な状態におかれていた土地は、 ても、そのいっそうおおい家畜をただしく維持する状態に、 農場全体の三分の一あるいは四分の一をこえることはめった 自分たちの土地をおくための時間をまだもたなかったこと になく、ときにはそれの五分の一か六分の一にたっしなかっ に、よるのである。家畜の増加と土地の改良は、手をたずさ た。のこりはけっして肥料をあたえられることなく、その一 えて進行すべき、ふたつのことがらであり、そのうちの一方 定の部分が、それにもかかわらず順番に、規則ただしく耕作 が他方に、はるかにさきんじることは、どこにおいてもあり され枯渇させられたのである。この経営方式のもとでは、ス えないのである。家畜がいくらか増加しなければ、土地の改 コットランドの土地のうちで、すぐれた耕作が可能な部分で良はほとんどなにもありえないが、 しかし、家畜のかなりの

10. 世界の大思想14 スミス 国富論<上>

からであり、そして、利潤はつねに資本にたいしてある比率 的または究極的に、地代、労働および利潤という、おなじ三 をもつにちがいないのである。 つの部分に分解するのである。 しかしながら、もっとも改良された社会においても、つね 麦粉またはひきわり麦の価格においては、われわれは、穀 物の価格に、粉屋の利潤とかれの召使の賃銀とを、つけくわに、ある少数の商品はその価格が、労働の賃銀と資財の利潤 えなければならなし 、。パンの価格においては、。 ( ン屋の利潤というふたつの部分だけに分解し、それよりも少数のものは、 とかれの召使の賃銀とを、そして、双方の価格において、穀その価格がまったく労働の賃銀からなる。たとえば海の魚の 物を農業者の家から粉屋の家へ、粉屋の家から。 ( ン屋の家価格において、一部分は漁夫の労働を、他の部分は漁業に使 へ、輸送する労働を、その労働の賃銀を前ばらいする人々の用された資本の利潤を支はらう。地代がいくらかでもそれの 利潤といっしょに、つけくわえなければならない。 一部をなすことは、わたくしがあとで示すように、ときには 亜麻の価格は、穀物のそれと同一の三部分に分解する。亜あるが、きわめてまれなのである。河川漁業においては、す くなくともヨーロッパの大部分にわたって、そうではない。 麻織物の価格においては、われわれは、この価格に、亜麻仕 あげ工、紡績工、織布工、漂白工などの賃銀を、かれらのそ鮭漁業は、地代を支はらうのであり、そして地代は、土地の れそれの使用者の利潤といっしょに、つけくわえなければな地代とよぶのは適当ではありえないにしても、賃銀や利潤と ならんで、鮭の価格の一部分をなす。スコットランドの若干 らない。 改個々の商品のどれでも、製造工程がくわわればくわわるほ の地方では、少数のまずしい人々が、ふつうにスコットラン ど、その価格のうちで賃銀と利潤に分解する部分は、地代に ド石の名でしられているあの色のまざりあった石を、海岸そ 分解する部分に比しておおきくなる。製造工程がすすむにつ いにあつめるのを職業としている。石細工人がかれらに支は 産れて、利潤の数がふえるだけでなく、あとの段階の利潤はすらう価格は、まったくかれらの労働の賃銀であって、地代も の . べてその前段階の利潤よりもおおきいのであって、そのわけ 利潤も、それのどのような部分にもならないのである。 労は、あとの段階の利潤がひきだされる資本の方が、つねにお だが、それそれの商品の価格全体は、やはり、究極的には、 篇おきいにちがいないからである。たとえば、織布工を使用すこれら三つの部分のうちのあれかこれか、あるいはすべて に、分解するにちがいない。というのは、土地の地代と、そ 第る資本は、紡績工を使用する資本よりも、おおきいにちがい ない。なぜなら、それは、後者の資本をその利潤とともに回れを産出し製造し市場にもたらすのに使用された全労働の価 収するだけでなく、そのうえ織布工の賃銀をも支はらうのだ格とを、支はらったのちにのこる価格の部分は、なんであれ