スドル・ハルがエス。 ーニヤを出発したとき、大スキ。ヒオ よびカス。ヒ海の北の諸国からつれてきた、スキタイあるいは 1 は、かれに対抗するものは、スキ。ヒオ自身の民兵よりもおと タタールの民兵は、ローマ人が第二カルタゴ戦争後に交戦し った民兵以外には、なにもないことをしった。かれはその民なければならなかった、もっとも強力な敵であった。。 ( ルテ 兵を征服して屈服させたし、しかもかれ自身の民兵は、戦争 ィアおよびゲルマンの民兵もまた、つねに評判のたかいもの の過程で、必然的に、すぐれた規律とすぐれた訓練をうけたであって、しかもいくつかの機会には、ローマの軍隊にたい 常備軍となった。その常備軍は、のちにアフリカにはこばれしてかなり顕著な優位をしめた。しかしながら、一般には、 , 刀 て、そこでは、それに敵対するものとしては、民兵のほかにそしてローマの軍隊がりつばに指揮されていたときには、 はであわなかった。カルタゴを防衛するために、 ハンラハルれらは、はるかに優越していたようにおもわれる。そして、 もしローマ人が / ノ 、、、。、レティアとゲルマニアのどちらをも、最 の常備軍をよびもどすことが必要となった。意気沮喪し、し ばしば敗北したアフリカの民兵が、それにくわわり、そし終的に征服しようとっとめなかったとすれば、それはおそら て、ザマの戦闘においては、、 く、これらの両野蛮国を、すでにおおきすぎるものであった ノンニ。ハルの部隊の大部分をな していた。その日のできごとが、二つの敵対共和国の運命を帝国に、つけくわえるだけの値うちがないと判断したからで 決定したのである。 ある。古代。 ( ルティア人は、スキタイ人あるいはタタール人 第二カルタゴ戦争のおわりから、ローマ共和国の没落まの系統の国民であったらしく、そして、かれらの祖先たちの で、ローマの軍隊はあらゆる点で、常備軍であった。かれら風習のおおくを、つねに保持していたらしい。古代ゲルマン の武器にたいして、マケドニアの常備軍よ、 。いくらか抵抗し人は、スキタイ人やタタール人と同様に、放浪する牧畜者の た。かれらの威勢の絶頂においてさえ、その小王国を屈服さ国民であって、かれらは、平和のときにしたがいつけていた のと同一の首長のもとで、戦争にいったのである。かれらの せるには、かれらは二つの大戦争と三つの大戦闘というぎせ 民兵は、スキタイ人あるいはタタール人の民兵とまさしく同 いをはらったのであり、もしそのさいごの王の臆病さがなか 一の種類のものであって、おそらく、かれらもまたスキタイ ったとしたら、征服はおそらくもっと困難だったであろう。 人やタタール人の子孫だったのであろう。 古代世界のすべての文明国民の、すなわちギリシャ、シリ ア、エジ。フトの民兵は、ローマの常備軍にたいして、よわよ おおくの、さまざまな原因が作用して、ローマの軍隊の規 わしい抵抗をしただけである。若干の野蛮国民の民兵の方律をゆるめた。その規律が極度にきびしかったことも、おそ が、はるかによく自己を防衛した。 ミトリダーテスが黒海おらく、それらの原因のひとつであった。かれらの威勢がつよ
196 体として優越していたからである。それらの古代の賢人の、 り、それらは同様によく目的をはたしたようにおもわれる。 しかし、ローマ人のあいだには、ギリシャ人の音楽教育に対かれらの祖先の諸制度への尊敬が、おそらくかれらの気持を みちびいて、おそらくひとつのふるい慣習にすぎないものの 応するものは、なにもなかった。それにもかかわらす、ロー なかに、おおくの政治的英知をみるようにしむけたのであろ マ人の道徳は公私双方の生活において、ギリシャ人のそれと ひとしいだけでなく、全体としてはそれよりかなりまさってう。その慣習というのは、それらの社会のもっとも初期の時 代から、それらの社会がかなりの程度の文明に到達したとき いたようにおもわれる。かれらが私生活においてまさってい たことについては、われわれは、双方の国民を熟知している まで、中絶せずにつづいたものなのである。音楽と舞踊は、 ほとんどすべての野蛮国民の、おおきな娯楽であり、だれも ふたりの著者、すなわちポリビウスとハリカルナススのディ がその仲間をもてなすのにもふさわしいとみなされる、おお オニシウスの、明白な証言をもっている。そして、ギリシャ 史とローマ史の全体の調子は、ローマ人の公共道徳の優越をきな身だしなみである。今日では、アフリカ海岸の黒人たち のあいだでそうである。古代ケルト人のあいだで、古代スカ 立証する。抗争する諸党派のすぐれたおちつきと節度とは、 ンディナヴィア人のあいだで、そして、ホメロスからしりう 自由な人民の公共道徳におけるもっとも本質的な事情である るように、トロイ戦争に先行する時代の古代ギリシャ人のあ とおもわれる。ところが、ギリシャ人の諸党派は、ほとんど いだで、そうであった。。 キリシャの諸氏族が自分たちでちい つねに暴力的で流血的であり、これにたいして、ローマのど の党派においても、グラックス兄弟のときにいたるまで、血さな諸共和国を形成したときに、それらの身だしなみの研究 がながされたことは一度もなかった。そしてグラックス兄弟が、ながいあいだその人民の公共的でふつうの教育の、一部 のときからは、ローマ共和国は、じっさいには解体したもの分となったのはとうぜんである。 と、みなしていいのである。したがって、プラトーン、アリ わかい人々を、音楽あるいは軍事訓練において指導した教 ストテレース、ポリビウスというきわめて尊敬すべき権威に師たちは、ローマでも、またその法律と慣習がもっともよく もかかわらず、またモンテスキュウ氏がその・罹威を支持しょ しられているギリシャ共和国たる、アテナイにおいてさえ うとっとめた、きわめて巧妙な推論にもかかわらす、ギリシ も、国家によって支はらわれなかったようであり、任命さえ ヤ人の音楽教育がかれらの道徳を向上させるのにおおきな効されなかったようである。国家は、すべての自由市民が、戦 時にその防衛にあたるにふさわしくなっているべきこと、そ 果をもたなかったというのは、ほんとうらしくおもわれる。 なぜなら、そういう教育なしにも、ローマ人の道徳の方が全してその理由で軍事訓練を習得すべきことを、要求した。し
198 し、かれら自身の有用性についての意見が、学生たちをかれらはしばしば、ほとんどでたらめに、あるいは喧噪、党争、 らのところにひきつけえなかったならば、法律はだれをも、 党派心のおもむくままに、決定をした。不正な決定をしたと いう不名誉は、それが五百人、千人、あるいは千五百人 ( か かれらのところにいくように強制しなかったし、だれにたい しても、かれらのところにいったからといって報酬をあたえれらの裁判所のうちの若干は、こんなに多数からなってい た ) にわけられることになっていたばあい、だれかひとりに ることもなかった。教師たちは、かれらの生徒たちにたいし ひじようにおもく、かかることはありえなかった。ローマで て、なんの管轄権ももたなかったし、また、わかい人々が、 かれらの教育のなにかの部分を信託されている人々にたいし はこれに反し、主要な諸法廷は、ひとりの裁判官か少数の裁 て、その徳と能力の優越のためにもたずにはいられない、自 判官によって構成され、かれらの名声は、とくにかれらはっ 然的権威のほかにはなにも権威をもたなかった。 ねに公開で審議したために、どんな軽率なまたは不正な決定 によっても、ひじようにおおきな影響をうけないわけには、 ローマでは、民法の研究は、市民の大部分のというわけで かなかった。うたがわしい事件では、そういう法廷は、非難 ーないが、ある特定の諸家族の教育の一部となっていた。だ いくべきをさけたいという熱意から、おなじ法廷または他の法廷でか が、法律の知識をえようとおもうわかい人々には、 公共の学校がなかったし、自分たちの親類や友人で法律をしれら以前にその地位にあった裁判官の実例または判例のかげ にかくれようと、とうぜんに努力したであろう。慣行や判例 っているとおもわれる人々の会合に、しばしばでかけてそれ にたいするこの注意が、必然的にローマ法を、それがわれわ をまなぶいがいに方法がなかった。つぎのことはおそらく、 のべておくねうちがあるであろう。すなわち、十二銅表の法れに伝えられてきたような規則正しい整然たる体系に、かた 律は、そのおおくがいくつかの古代ギリシャ共和国の法律かちづくったのであった。そして同様な注意は、そういう注意 がはらわれたほかのどの国の法律にも、同様な効果をもたら らうっしとられたものであるとはいえ、古代ギリシャのどの したのであった。ローマ人の人格がギリシャ人の人格よりす 共和国でも、法律が一科学にまで成長したことはけっしてな ホリビウスおよびハリカルナスス ぐれているということよ、。、 かったらしい、ということである。ローマでは、それは、きわ のディオニシウスがあのようにおおいに指摘しているのだ めてはやくから科学になっていて、法律がわかるという評判 が、それは、これらの著作者が原因としている諸事情のどれ をえた市民に、かなりの程度の名声をあたえた。古代ギリシ ヤの諸共和国、とくにアテナイでは、ふつうの法廷は、多数によるよりも、おそらくかれらの法廷の構成がすぐれていた の、したがって無秩序な人々の諸集団からなっていて、かれためだろう。ローマ人は、宣誓にたいするぬきんでた尊重に
かった時代、どんな敵もかれらに敵対しうるとおもわれなかある国民の民兵をやとって、他の国民の民兵に敵対させるこ とによってのみであった。西〔ローマ〕帝国の没落は、古代史 ったときには、かれらの重装甲は、不必要に重荷になるとし ておしのけられ、かれらの骨のおれる訓練は、不必要に面倒がなんらかのはっきりした、あるいは詳細な説明を保持して なものだとして閑却された。そのうえ、ローマの皇帝たちのきたかぎりでの、人類のことがらにおける第三の大革命であ る。それは、野蛮国民の民兵が文明国民のそれにたいしても もとでは、ローマの常備軍、とくにゲルマニアおよび。 ( ンノ つ、不可抗的な優越性によって、ひきおこされたのである。 ニアの国境を守備していた軍隊は、かれらの主人たちにとっ て危険なものとなった。その主人たちに対抗してかれらが、 その優越性は牧畜者の国民の民兵が農耕者、職人、製造業者 の国民の民兵にたいしてもつものである。民兵によってえら 自分たちの将軍をおしたてることが、よくあったのである。 かれらの手ごわさをすくなくするために、ある著者たちによれてきた勝利は、常備軍にたいするものではなくて、訓練と ればディオクレティアヌスが、他の著者たちによればコンス規律においてかれら自身におとる、他の民兵にたいするもの キリシャの民兵がベルシャ帝 であるのが、ふつうであった。、、 タンティススが、はじめてかれらを国境からひきあげて、さ 国のそれにたいしてえた勝利は、そういうものであったし、 まざまな地方都会に小集団として、ちらばらせたのであって、 国境においてはかれらはそれまでつねに、ふつうはそれぞれのちの時代にスイスの民兵が、オーストリア人およびブルゴ ーニュ人のそれにたいしてえた勝利もまた、そうであった。 二、三の軍団からなる大集団として、駐屯していたが、地方 西〔ローマ〕帝国の廃墟のうえに国をたてた、ゲルマンおよ 都会では、侵略を撃退するのに必要になったばあいのほか て びスキタイの国民の、軍事力は、かれらのあたらしい定住地 は、かれらがそこから移動させられることはめったになかっ こた。小集団で商工業都会に宿営し、それらの営舎から移動すにおいても、ひきつづきしばらくのあいだは、かれらのもと の国においてと、おなじ種類のものであった。それは、牧畜 収ることのまれな、兵士たちは、かれら自身が、商人、職人、 家製造業者になった。市民的性格が軍事的性格に優越するよう者および農耕者の民兵であって、戦時には、平時にかれらが 国 になり、こうしてローマの常備軍は、しだいに堕落して、腐服従しつけているのと同一の首長たちの、指揮のもとに戦場 に参加した。したがってそれは、かなりよく訓練されていた 五敗し、放任され、規律のない、民兵となった。それは、その 第 ごまもなく西〔ローマ〕帝国を侵略したゲルマンとスキタイのし、かなりよく規律をあたえられていた。しかしながら、技 民兵の攻撃に、抵抗できなかったのである。皇帝たちがしば術と産業がすすむにつれて、首長たちの権威はしだいにおと ろえたし、人民の大部分は、軍事訓練にさく時間の余裕が、 らくのあいだ自己を防衛しえたのは、それらの国民のうちの
じようにして、かれら自身の重要性がそれにおうじて上昇し はその重要性が、ふるい統治が再建されればいつでも、消減 Ⅱたと感じている。アメリカにおける支配的党派のほとんどすすべきことを予見していた。われわれの諸植民地は、かれら べての個人は、現在、かれ自身の想像のなかで、かれがまえを統一に同意するようにうごかすことができぬかぎり、すべ に一度でもしめたことのある地位にまさるだけでなく、かれての母国のうちで最良のものにたいしても、。 ( リ の都市が最 がしめたいと一度でも期待したことのある地位にもまさる、 良の国王のひとりにたいしてしたのとおなじ頑強さをもっ ひとつの地位をしめている。そして、あるあたらしい野心の て、自分たちを防衛することはほぼ確実である。 リプレゼンテーション 対象が、かれあるいはかれの指導者たちに提供されないかぎ 代表〔代議制〕の観念は、古代にはしられていなかった。 り、かれが人間の通常の精神をもっているならば、かれはそひとつの国家の国民が、他のそれにおける市民身分の権利を の地位を防衛するために死ぬであろう。 許容されたばあいには、かれらは、一団となってやってき われわれはいま、カトリック同盟のおおくの小事件につい て、後者の国民とともに投票し討論するよりほかに、その権 ての説明を、興味をもってよむのだが、それらは、発生のと 利を行使する手段をもたなかった。イタリアの住民たちの大 きにはおそらく、ひじように重要なニューズとはみなされな部分に、ローマの市民たちの特権を許容したことは、ローマ かっただろうと、〔査問院〕長官エノーはのべている。しかし共和国を完全に破減させた。ローマ市民であるものとそうで ながら、その当時の各人は、自分がある重要性をもっている ないものとを区別することは、もはや可能ではなくなった。 と想像したのだと、かれはいうのである。そして、その時代どの種族も、それ自身の成員たちをしることができなかっ からわれわれにったわっている無数の回想記は、その大部分た。どんな種類の賤民でも、国民の諸集会にひきいれられる が、自分たちが重要な役者だったとひそかにおもっている諸ことができたし、ほんものの市民をおいだして、共和国のこ 事件を、記録し誇張するのによろこびを感じた人々によって、 とがらを、まるでかれら自身がそういう市民であるかのよう かかれた。あのときに、 リの都市がいかに頑強に自己を防にして決定することができたのである。しかし、アメリカが 衛したか、フランスの諸国王のうち最良で、のちにはもっと五十人か六十人のあたらしい代表を議会におくることになっ も愛されたものヘ服従するよりも、なしろ、なんとおそろし たとしても、下院の門衛が、議員であるものとないものとを い飢餓にそれはたえたか、ということはよくしられている。 区別するのに、し 、くらかでもおおきな困難を感じることはあ 市民の大部分、あるいはかれらの大部分を統治した人々は、 りえないであろう。だから、ローマの国家構造が必然的に、 自分たちの重要性を防衛してたたかったのであって、かれら ローマとイタリアの同盟諸国との統一によって、破減させら
ない。反対に、ジュネーヴにおいて、スイスのプロテスタン 神父ポレーが、フランスにおいて人々がこれまでもったかぎ ト諸州において、ドイツのプロテスタント諸国において、ホ りで、よむにあたいする著作をかいた唯一の教授であった。 ラントにおいて、スコットランドにおいて、スヴェーデンに あのようにおおくのすぐれた文筆家をうみだしてきた国で、 おいて、ダンマークにおいて、それらの国がうみだしたもっ かれらのうちでかろうじてひとりしか、大学の教授でなかっ いくらか奇妙にみえるにちがいない。有名ともすぐれた文筆家たちは、たしかにすべてではないが圧倒 たということは、 なガッサンディは、かれの生涯の初期において、エクスの大的大部分が、大学教授であった。それらの国では、諸大学は たえず教会から、そのもっともすぐれた文筆家たちを、ひき 学の教授であった。かれの天才がひかりはじめたとき、かれ は、教会にはいることによって、はるかに平穏で快適な生計ぬいているのである。 おそらく、つぎのことは、指摘しておくにあたいするであ を、研究をすすめるのに都合のいい地位とともに、容易にみ いだしうると、人にいわれた。それでかれは、ただちにそのろう。すなわち、もしわれわれが詩人と少数の演説家と少 すすめにしたがったのである。ドウ・ヴォルテール氏の叙述数の歴史家をのぞくならば、そのほかのすぐれた文筆家の圧 キリシャでもローマでも、公私いずれかの、 は、フランスだけでなく、他のすべてのローマ・カソリック倒的大部分は、、、 教国にあてはめることができると、わたくしは信じる。それ一般に哲学か修辞学かの、教師であったらしい、ということ である。この指摘は、リュシアスとイソクラテースの時代、 らの諸国のどれにおいても、すぐれた文筆家が大学の教授で 。フラトーンとアリストテーレスの時代から、プリュタルコス あるのをわれわれがみることは、おそらく法律と医学につい て ての職業をのぞけば、きわめてまれであり、それらの職業とエ。ヒクテートスの時代、スエトニウスとクインティリアー・ っ ヌスの時代にいたるまで、ほんとうであったことが、わかる・ は、教会がそこからひきぬく可能性が、あまりない職業なの であろう。公共の教師であったことを、われわれが確実性を 収である。ローマ教会についでは、イングランド教会が、キリ スト教界において、とびぬけて富裕で寄付財産のおおい、教も 0 てし 0 ていない人々のうちの、何人かは、私的な指導教 . 国 師であったようにおもわれる。ポリュビウスが、スキ。ヒオ・ 会である。したがって、イングランドでは、教会がたえず、 エミリアヌスの私的な指導教師であったことを、われわれは 五諸大学からその最良最有能な成員のすべてを、ひきぬいてい 第 る。それで、すぐれた文筆家としてヨーロツ。 ( でしられ、ぬしっている。 ( リカルナススのディオ = シウスは、マルクス およびクイントウス・キケロの子どもたちの指導教師であっ 四きんでている、学寮の老指導教師は、どのローマ・カソリッ たと、信じるべき若干のもっともな理由がある。科学のな ク教国においてともおなじく、そこではまれにしかみつから
づけることを困難にした。したがって土地をもたぬ市民たちれない。したがって、ローマの植民地は、われわれが、設立 されたもの自体の性質を考察しても、あるいはそれをつくる は、年々の選挙における候補者たちのほどこしのほかに、ほ とんどなんの生活手段ももたなかった。護民官たちは、富者動機を考察しても、ギリシャの植民地とまったくちがったも 名門にたいして人民をわきたたせようという考えをもったとのであった。それにおうじて、原語でそれらのちがった設立 きは、人民にむかしの土地分配をおもいださせ、この種の私物をあらわすことばは、ひじようにちがった意味をもってい プランテーション 有財産を制限した法律が、その共和国の基本法なのだと説明る。ラテン語 ( コロニア ) はたんに農園を意味する。ギ した。人民は土地をえようとさわぎだし、そして、富者名門 リシャ語 ( アポイキア ) は、反対に、住居の分離、家庭から はかれらの土地のどんな部分をも人民にわたすまいと、完全の出発、家のそとへでることを、意味する。だが、ローマの に意を決していたと、われわれは信じていい。 そこで、人民植民地がおおくの点でギリシャのそれとちがっていたにして も、それらの設立をうながした利害関心は、ひとしくわかり をあるていど満足させるために、かれらはしばしば、あたら しい植民団をおくりだすことを提案した。しかしながら、征やすくはっきりしていた。ふたつの制度はともに、その起源 服者たるローマは、そういうばあいにさえ、その市民たちをを、抵抗しがたい必要か、明白明瞭な効用から、ひきだした。 アメリカと西インドにおけるヨーロッパの諸植民地の設立 おいだして、ひろい世界中を、どこに定着すべきかもしらな て は、必要から生じたものではない。そして、それらから帰結 いで、いわば財産さがしをさせるという、必要はなかった。 っ ローマはかれらに、一般にイタリアの征服された諸属州の土としてでてきた効用は、たいへんおおきかったとはいえ、そ 系地をわりあてた。そこでは、その共和国の領土内であったたれはまったく前者ほど明白明瞭ではない。それは、それらが はじめに設立されるにあたって、理解されなかったし、その åめに、かれらはけっして独立の国家をなにも形成しえず、せ 済いぜいのところ、一種の自治体にすぎなかった。その自治体設立の動機でもなく、設立をひきおこした発見の動機でもな 経 かった。そして、その効用の性質、規模、限界は、おそらく は、それ自身の統治のための地方条例を制定する権力をもっ 治 政 今日でも、よく理解されていない てはいたが、つねに母都市の監督、司法権、立法権に服してい 十四、十五世紀のあいだに、ヴェネッィア人は、香料やそ 四た。この種の植民団をおくりだすことは、人民にある満足を 第 の他の東インドの財貨について、ひじように有利な商業をい あたえただけでなく、しばしばまた、あたらしく征服された ッパの他の諸国民のあいだに、 属州に一種の守備隊を設置することにもなった。その属州のとなんだ。かれらは、ヨーロ 従順さは、そうしなければうたがわしいものであったかもしそれらをうりさばいたのである。かれらは、その当時マメリ
しないだけの注意をもっていた。それは、まったくながくは たく平和であったのではないにせよ、非常に重大などんな戦 げしい闘争ののちに、古代ギリシャの主要な諸共和国の、勇争にも、この期間に従事したことはなかった。それで、かれ 敢でよく訓練された民兵を、うちゃぶり屈服させたのだし、 らの軍事規律はおおいにゆるんだのだと、ふつうにいわれて そののちに、きわめてわずかな闘争をもって、大ベルシャ帝 、る。ハンニ・ハルがトレビア、トラシュメヌス、カンナェで 国の柔弱化した、訓練のよくない民兵を、そうしたのであであったローマの軍隊は、常備軍に対抗する民兵であった。 る。ギリシャの諸共和国の没落、およびベルシャ帝国の没落この事情は、おそらく他のどんな事情よりも有力に、それら は、常備軍があらゆる種類の民兵にたいしてもつ、不可抗的の戦闘の状態を決定したであろう。 な優越性の、けつかであった。それは、人類にかんすること ハンニ。ハルが、エス。 ニヤをはなれるときそこにのこし がらのうちで、歴史がなにかはっきりした、あるいは詳細な た常備軍は、それに対抗するためにローマ人がおくった民兵 説明をのこしておいた、第一のおおきな革命である。 にたいして、同様な優越性をもっていた。そして数年のうち カルタゴの没落と、これにつづく口ー「、の興隆は、その第に、かれの〔義〕弟の ( スドル・ ( ルの指揮下に、かれらをほと 二のものである。それらの、二つの有名な共和国の運命におんどまったくその国からおいはらった。 ける、さまざまなことはすべて、同一の原因によってきわめ ハンニ・ハルは、本国から不十分な補給しかうけなかった。 てよく説明することができる。 ローマの民兵は、ひきつづき戦場にあったので、戦争の進行 第一カルタゴ戦争のおわりから第二カルタゴ戦争のはじめ過程で、すぐれた規律とすぐれた訓練をあたえられた常備軍 て まで、カルタゴの軍隊は、ひきつづいて戦場にあって、あい になった。それで、ハンニ・ハルの優越性は、日に日に減少し ついで指揮をとった三人の偉大な将軍、すなわちハンミカル ていった。 ( スドル・、ルは、かれがエス。 / ニヤで指揮して 収とその女婿のハスドル・ハルと息子のハンニ・ハルのもとで、は いた常備軍のすべて、あるいはほとんどすべてをひきいて、 家じめはかれら自身の反乱奴隷の懲罰に、のちにはアフリカのイタリアにおけるかれの兄をたすけにいくことが必要だと、 反乱諸国民の鎮定に、さいごにはエスパ ーニヤの大王国の征判断した。かれの進軍の途中で、かれは、案内人たちによっ 五服に、使用されたのである。ハンニ・ハルがエス。 ( ーニヤからて道をまよわされたといわれる。そして、かれがしらない地 第 イタリアへひきいていった軍隊は、必然的に、それらのさま方で、いかなる点でもかれ自身の常備軍にひとし、 しかある ざまな戦争において、しだいに常備軍の正確な規律へと形成 いはまさっている、べつの常備軍によって、不意におそわ されてきたにちがいない。その当時のローマ人たちは、まつれ、完全に敗北した。 ( 四 )
え、それでも、前者にたいしてなにか直接の、あるいは意図との調整と分配においてであれ、もっとも重要な改良のすべ 的な奨励をあたえたというよりも、むしろあとの諸業務を阻ては、自由人たちによって発見されてきた。ひとりのどれい 止したようにおもわれる。ギリシャの古代諸国家のうちのい が、この種のなにかの改良を、提案するとしよう。そうする くつかのものにおいて、外国貿易はまったく禁止されたし、 とかれの主人は、その提案を怠惰のあらわれ、そして主人の 他のいくつかのものにおいて、手工業者と製造業者の業務は、費用においてかれ自身の労働を節約しようという欲求のあら 人体のつよさとすばしこさとに有害だとみなされた。それにわれと、みなすことにひじようになりがちであろう。あわれ よって人体が、かれらの軍事的および体育的な訓練が人体の などれいは、報酬のかわりに、おそらくたいへんなののしり なかに形成しようと努力した諸習癖を、おこないえなくなるをうけるであろうし、なにかの処罰をうけるかもしれない。 からであり、そうなることによって人体が、戦争の苦難にた したがって、どれいによっていとなまれる製造業においては、 え危険にたちむかう能力を、おおかれすくなかれうしなうか 自由人によっていとなまれるそれよりも、一般におおくの量 らである。そういう生業は、どれいにのみふさわしいものと の労働が、おなじ量のしごとを遂行するのに、使用されたに みなされ、その国家の自由人はそれらをおこなうことを禁止ちがいない。その理由で、前者のしごとは、一般に後者のそ 、。ハンガリーの諸鉱山は、 された。そういう禁止がなかった諸国家においても、ローマれよりもたかかったにちがいなし て やアテナイにおいてのように、国民のおおきな集団は、じじそれらの近隣のトルコの諸鉱山にくらべて、豊富であるわけ ではないが、つねにすくない費用で、したがっておおきな利 につ上、現在ふつうに都会の下層の種類の住民によっておこな 体われている、すべての営業から除外された。そういう営業潤をもって、経営されてきたと、モンテスキュウ氏はのべて 諸 いる。トルコの諸鉱山はどれいをつかって経営されていて、 の は、アテナイとローマでは、すべて、富裕な人々のどれいた 学 トルコ人がかって使用するのをおも 済ちによってしめられていて、このどれいたちは、それをかれそれらのどれいの腕が、 いついた唯一の機械なのである。ハンガリー人の鉱山は、自 治らの主人たちの便益のためにおこない、主人たちの富と権力 と保護は、貧乏な自由人が、富裕な人のどれいたちと竸争す由人をつかって経営されていて、かれらはかなりの機械装置 四ることになったばあいに、かれのしごとの市場をみつけるこを使用し、それによってかれらは自分たちの労働を、容易にし 第 とをほとんど不可能にした。しかしながら、どれいたちが創省略するのである。ギリシャ人やローマ人の時代の製造品の 恥意にとんでいることは、きわめてまれである。そして、機械価格についてしられている、きわめてわずかなことから、上 装置においてであれ、労働を容易にし省略するような、しご等な種類のものが極端に高価であったと、おもわれるであろ
するにあたって主要な負担をひきうけてきたローマの同盟者方法が、着手されないかぎり、またアメリカの指導的な人々 たちが、ローマ市民のすべての特権を許容されるべきことをの重要性を保持し野心を満足させるには、これより明白なも ソーシャル 要求した。これが拒否されて、同盟国戦争がおこった。その のはないとおもわれるのだが、かれらがいっか自発的に、われ 戦争の過程で、ローマはそれらの特権を、かれらの大部分にわれに服従するであろうということは、あまりありそうもな たいして、つぎつぎと、そしてかれらがその総連合から脱退 。そしてわれわれは、かれらをそうするように強するた するにおうじて、あたえたのである。グレート・ブリテンの めに、ながされなければならない血が、その一滴一滴が、わ 議会は、諸植民地に課税することを主張し、かれらは、自分たれわれの同胞市民である人々の血か、われわれが同胞市民と ちが代表をもたない議会によって、課税されることを拒否すしたい人々の血かであるということを、考慮すべきである。 る。もしそれそれの植民地に、それがこの総連合を脱退する ものごとが到達してしまった状態において、われわれの諸植 ばあいに、グレート・ブリテンが、帝国の公収入に貢献する民地はカだけで容易に征服されるであろうと、ひそかにおも 割合にふさわしい数の代表を、本国におけるその同胞臣民と っている人々は、たいへんな低能である。自分たちの大陸会 おなじ課税をうけることの帰結として、またおなじ貿易の自議とよんでいるものの諸決議を、現在、左右している人々は、 由をゆるされることの代償として、ゆるすとし、その代表の この瞬間において、おそらくヨーロッパにおける最高の臣民 て 数は、のちになってその貢献の割合が増加するであろうにつ たちでさえめったに感じない程度の、重要性を自分たちがも にれて、増加されるべきものとすれば、各植民地の指導的な人っていると感じている。商店業者、小商人、弁護士から、か 体人にたいして、重要性を獲得するあたらしい方法、野心のあれらは政治家、立法者となったのであり、ひとつの広大な帝 たらしく、もっとかがやかしい対象が、提供されるであろ国のあたらしい統治形態を、つくりだすことにあたっている 学 済う。植民地の党派のけちくさい富くじと、よんでいいような のであって、その帝国は、世界にいままで存在したかぎりで 治もののなかでえられるはすの、わすかな額のあたりくじをめ は、もっともおおきくもっともおそるべきもののひとつにな 政 るであろうと、かれらはひそかにおもっているし、しかもま ざしてだらだらやるかわりに、かれらはそのばあいには、人々 四が自然に、自分自身の能力と幸運についてもっ仮定のために、 ったく、そうなる可能性がひじようにつよいようである。大 第 ブリテンの政治のおおきな国営富くじの車輪からときどきで陸会議のすぐしたでさまざまなやりかたで活動している、お てくる、おおあたりのうちのあるものをひきあてようという、 そらく五百のさまざまな人々、また、それらの五百人のし 希望をもっことができるだろう。この方法か、なにかほかのたで活動している、おそらく五十万の人々は、すべて、おな トレーズメン