人々 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想15 スミス 国富論<下>
229件見つかりました。

1. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

う。その間に、人々は、もっともたえがたい租税のあるもの消費税は、人々の数および税率に比して、イングランドにお から、すなわち生活必需品あるいは製造業の原材料にたいしけるよりも徴収がすくない。麦芽にたいする税率は、品質の て課せられている諸租税から、すくわれるであろう。こうし相違が考えられるためにことなっている。消費税のこれら特 て労働貧民は、よりよく生活し、よりやすく仕事をし、かれ定の部門においては、密売買はどちらがおおいということは らの財貨をよりやすく市場におくることを可能とされるであないと、わたくしはおもう。醸造所にたいする税と関税の大 ろう。かれらの財貨のやすさは、それらにたいする、またし部分とは、課税商品の消費のよりちいさいことだけでなく、 たがってそれらをつくりだす人々の労働にたいする需要を増密売買の容易さがよりおおきいことのために、それぞれの国 大させるであろう。労働にたいする需要のこの増加は、・労働 における人々の数に比して、イングランドよりもスコットラ 貧民の、数を増大させ境遇を改善するであろう。かれらの消 ンドにおいて徴収額はすくない。アイアランドにおいては、 費は増大するであろうし、またそれとともに、租税が存続す下層階級の人々はスコットランドにおけるよりもなおますし ることをゆるされるかれらの消費諸物品すべてから生じる収く、また国のおおくの部分がほとんど人口が稀薄である。そ 入も、増大するであろう。 れゆえ、アイアランドにおいては、課税商品の消費は、人々 しかしながら、この租税制度から生じる収入は、その制度の数に比して、スコットランドにおけるよりもなおすくなく、 また密売買の容易さはほとんどおなじである ? アメリカおよ のもとにおかれる人々の数に比例してただちに増大するとは かぎらないであろう。いぜんには慣行としてなかった諸負担び西インドにおいては、白人は、最下層でさえ、イングラン て のもとにおかれる帝国の諸属州にたいして、しばらくは、 ドにおけるおなじ階層の人たちよりよい境遇にあり、また かれらが通常享受しているすべての奢侈品の消費は、おそ におおきな寛容が当然であろうし、また同一の租税ができるか らくはるかにおおきい。大陸における南部諸植民地および 収ぎり正確にどこででも課せられるようになるばあいでさえ、 ーよ、人々の数に比例した収入をかならずしもどこでも西インド諸島の住民の大部分をしめている黒人は、どれい状 家諸属廾ー うむとはかぎらないであろう。まずしい国では、関税と消費態にあるから、なるほど、疑いもなく、スコットランドある いはアイアランドのいずれかにおけるもっともまずしい人々 五税とをかけられる主要商品の消費は、ひじようにちいさいし、 第 よりわるい境遇にある。しかしながら、われわれは、そのた 人口のすくない国では、密売買の機会がひじようにおおきい めに、かれらの食物はよりわるいとか、あるいは適度の税を スコットランドの下層階級の人々における麦芽酒の消費は、 . ひじようにちいさく、また麦芽、ビール、エールにたいする課せられる諸商品のかれらの消費は、イングランドにおける

2. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

え、それでも、前者にたいしてなにか直接の、あるいは意図との調整と分配においてであれ、もっとも重要な改良のすべ 的な奨励をあたえたというよりも、むしろあとの諸業務を阻ては、自由人たちによって発見されてきた。ひとりのどれい 止したようにおもわれる。ギリシャの古代諸国家のうちのい が、この種のなにかの改良を、提案するとしよう。そうする くつかのものにおいて、外国貿易はまったく禁止されたし、 とかれの主人は、その提案を怠惰のあらわれ、そして主人の 他のいくつかのものにおいて、手工業者と製造業者の業務は、費用においてかれ自身の労働を節約しようという欲求のあら 人体のつよさとすばしこさとに有害だとみなされた。それにわれと、みなすことにひじようになりがちであろう。あわれ よって人体が、かれらの軍事的および体育的な訓練が人体の などれいは、報酬のかわりに、おそらくたいへんなののしり なかに形成しようと努力した諸習癖を、おこないえなくなるをうけるであろうし、なにかの処罰をうけるかもしれない。 からであり、そうなることによって人体が、戦争の苦難にた したがって、どれいによっていとなまれる製造業においては、 え危険にたちむかう能力を、おおかれすくなかれうしなうか 自由人によっていとなまれるそれよりも、一般におおくの量 らである。そういう生業は、どれいにのみふさわしいものと の労働が、おなじ量のしごとを遂行するのに、使用されたに みなされ、その国家の自由人はそれらをおこなうことを禁止ちがいない。その理由で、前者のしごとは、一般に後者のそ 、。ハンガリーの諸鉱山は、 された。そういう禁止がなかった諸国家においても、ローマれよりもたかかったにちがいなし て やアテナイにおいてのように、国民のおおきな集団は、じじそれらの近隣のトルコの諸鉱山にくらべて、豊富であるわけ ではないが、つねにすくない費用で、したがっておおきな利 につ上、現在ふつうに都会の下層の種類の住民によっておこな 体われている、すべての営業から除外された。そういう営業潤をもって、経営されてきたと、モンテスキュウ氏はのべて 諸 いる。トルコの諸鉱山はどれいをつかって経営されていて、 の は、アテナイとローマでは、すべて、富裕な人々のどれいた 学 トルコ人がかって使用するのをおも 済ちによってしめられていて、このどれいたちは、それをかれそれらのどれいの腕が、 いついた唯一の機械なのである。ハンガリー人の鉱山は、自 治らの主人たちの便益のためにおこない、主人たちの富と権力 と保護は、貧乏な自由人が、富裕な人のどれいたちと竸争す由人をつかって経営されていて、かれらはかなりの機械装置 四ることになったばあいに、かれのしごとの市場をみつけるこを使用し、それによってかれらは自分たちの労働を、容易にし 第 とをほとんど不可能にした。しかしながら、どれいたちが創省略するのである。ギリシャ人やローマ人の時代の製造品の 恥意にとんでいることは、きわめてまれである。そして、機械価格についてしられている、きわめてわずかなことから、上 装置においてであれ、労働を容易にし省略するような、しご等な種類のものが極端に高価であったと、おもわれるであろ

3. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

8 いなもののようにおもわれ、費用のかかる奢侈の方が、かれ 増大させるよりもむしろ減少させることになる。おおきな資 の境遇のゆたかさにふさわしいようにおもわれる。だが、お 本にたいするちいさな利潤の方が、一般に、ちいさな資本に たいするおおきな利潤よりも、おおきな収入を提供する。独おきな商業資本の所有者たちは、必然的に、あらゆる国民の 産業全体の、指導者であり指揮者である。そして、かれらの 占は、利潤の率をひきあげるが、しかしそれは利潤の額が、 それがないばあいにたかまったであろうところまで、たかま実例は、他のどんな人々の階層のそれよりもはるかにおおき な影響を、あらゆる国民のうちの勤労的な部分の全体の、生活 るのをさまたげる。 態度にたいしてもっている。職人は、もしかれを使用するも 収人のすべての根源的なみなもと、すなわち、労働の利 のが細心で倹約であるならば、やはりそうなることが、きわ 潤、土地の地代、および資財の利潤を、独占は、それがない ばあいになったであろうよりも、豊富さのすくないものとすめてありがちである。しかし、もし主人がしまりがなく無秩 る。一国における一小階層の人々の、ちいさな利益を促進す序であれば、自分の製品を主人が指示する模範にしたがって かたちづくる、召使〔使用人〕は、かれの生活をもまた、主 るために、それは、その国の他のすべての階層の人々の利益、 および他のすべての国のすべての人々の利益を、きすつける人がかれにしめす実例におうじてかたちづくるであろう。こ のである。 うして、蓄積は、蓄積をする性向がほんらいはもっともおお い人々の手で、阻止され、そして、生産的労働の維持にあて 通常の利潤率をひきあげることによってのみ、独占は、あ られた基金は、ほんらいはそれをもっともよく増加させるべ るひとつの特定階層の人々にとって有利であることを、じっ さいに明したのだし、あるいは証明することができたはずき人々の収入から、なんの増加をもうけないのである。その なのである。だが、高利潤率の必然的けつかとしてすでにの国の資本は、増大するどころか、徐々に縮小していく。そし べておいたような、その国一般にたいするあらゆるわるい効て、そこで維持される生産的労働の量は、日に日にすくなく なっていく。カディスとリスボアの商人たちの、途方もない 果にくわえて、ひとつの、おそらくこれらすべてをいっしょ ーニヤとポルトガルの資本を、増加させてきた にしたよりも致命的な、しかもわれわれがもし経験から判断利潤が、エスパ していいならば、それと不可分にむすびついている、わるい だろうか。それらの利潤が、そのふたつの乞食のような国の、 効果がある。高利潤率は、どこにおいても、べつの状況では貧困を軽減してきたであろうか。産業を促進してきたであろ 商人にとって自然な性格である、倹約を、破壊させるように うか。そのふたつの貿易都市の商人の支出の調子は、それら おもわれる。利潤がたかいばあいには、あの謹厳な徳はよけの途方もない利潤が、その国の資本一般を増加させるどころ サーヴァント

4. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

にかんする精神は、なおさらそうである。その行政は必然的て完全におろかなことは、ありえない。すなわち、一万マイ ルはなれたところにあり、したがってほとんどまったく目の 肥に、商人たちの会議によって構成されるのであって、その職 業は、うたがいもなくきわめて尊敬されはするが、しかし、 とどかない、一大営業所の事務員たちが、かれらの主人たち からの一片の命令で、かれら自身の計算でどんな事業をする 世界のどこの国においても、自然に国民を畏怖させる種類の 権威をともなうものではなく、かれらの自発的な従順を獲得ことも、ただちにやめ、ひと財産つくろうというあらゆる希 する力をもつものではない。そういう会議は、かれらがとも望を、そのための手段を自己の手中にもちながら永久に放棄 なっていく軍事力によってのみ、従順さを獲得できるのであし、その主人たちがかれらにあたえる穏当な俸給で、満足す り、したがってかれらの統治は、必然的に軍事的かっ専制的るだろうと、期待することである。しかもその俸給は、穏当 である。しかしながら、かれらのほんらいの事業は、商人の であることはそのとおりだが、その会社の営業のほんとうの それである。それは、かれらの主人たちの計算において、か 利潤が提供しうるかぎりのおおきなものであるのがふつうだ れらにゆだねられたヨーロッパの財貨をうり、ひきかえにヨ から、増加することはめったにありえないのだ。そのような ーロッパ市場むけのインドの財貨を、かうことである。それ状況において、会社の使用人たちがかれら自身の計算で営業 は、一方をできるだけたかくうり、 他方をできるだけやすくするのを禁止することは、高級使用人たちが、かれらの主人 かうことであって、したがって、かれらが店をだしているそ たちの命令を実施するというロ実で、下級使用人たちのうち の特定の市場から、あらゆる競争相手をできるだけ排除するで不幸にもかれらの機嫌をそこねてしまった人々を、抑圧す ことである。だから、この行政の精神は、会社の営業にかんることを可能にする以外には、ほとんど効果をもちえない。 するかぎり、指揮の精神とおなじである。それは、統治を独使用人たちは、とうぜんに、かれら自身の私的な営業のため 占の利害関心に奉仕させることになりやすく、したがって、 にも、会社の公的な営業のためのものとおなじ独占を、樹立 その国の剰余生産物のうちの、すくなくともいくつかの部分しようとっとめる。もしかれらが、したいとおもうであろう の、自然的増加を、その会社の需要におうじるのにようやく とおりに行動することをゆるされるならば、かれらは自分た たりるところで阻止することに、なりやすい ちがとりあっかうものとしてえらんだ諸品目についての営業 そのうえ、行政府の全成員は、かれら自身の計算でおおかを、他のすべての人々にたいしてまったく禁止することによ って、この独占を公然かっ直接に樹立するであろう。そして れすくなかれ営業をするのであり、かれらがそうするのを禁 止しても効果がない。つぎのような期待をもつのにもまさっ これがおそらく、それを樹立する最善の、もっとも抑圧的で

5. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

れるのであって、理由は、かれらが最初の主人からはなれた 体系について、裁判の規律ある運営についての、ある見解を、 身につけてはこぶのであって、かれらはとうぜん、同種のあのと、同一である。労働の気まえのいい報酬は、結婚を奨励 るものを、あたらしい定住地に樹立する。しかし、未開野蛮する。子どもたちは幼少の年ごろのあいだ、十分に栄養をあ の諸国民のあいだでは、法律と統治が、技術を保護するに必たえられ、適切な配慮をうける。そしてかれらが成長したと 要なかぎりで樹立されてしまったあとは、法律と統治の自然きは、かれらの労働の価値はその生活維持費を、はるかにう 的進歩は、技術の自然的進歩よりもさらにおそい。おのおのわまわる。成年にたっしたときは、労働の高価格と土地の低 の植民者は、かれがとうてい耕作しえないほどおおきな土地価格が、かれらの父たちがまえにしたのとおなじゃりかたで、 を手にいれる。かれは支はらうべき地代をもたないし、なに生計をたてることをかれらにとって可能にする。 かの税もめったにない。その生産物をかれとわかちあう地主 他の国々では、地代と利潤が賃銀をくいつくし、ふたつの はいないし、主権者のわけまえは、とるにたりないのがふつ上層階級の人々が、下層階級を抑圧する。だが、新植民地で うである。かれは生産物をできるだけおおきなものとする、 は、ふたつの上層階級の利害関心がかれらを強制して、下層 あらゆる動機をもっているのであって、その生産物はこうし 階級をもっと寛大に人道的にとりあっかわせる。すくなくと て、ほとんど完全にかれのものとなる。だが、かれの土地は も、その下層階級がどれいの状態におかれていないところで は、そうである。最大の自然的肥沃度をもっ荒蕪地が、とる ふつう、たいへん広大であって、そのためにかれは、自分自 身のすべての勤労と、かれがやとうことができるすべての他にたりない額で手にはいる。つねに企業者でもある所有者 人の勤労をもってしても、その土地が生産しうるものの十分が、それらの土地の改良から期待する収入の増加は、かれの の一をそれに生産させることを、めったになしえないほどで利潤を構成するのであって、それは、こういう事情のもとで ある。したがってかれは、あらゆる方面から労働者をあつめ は、ひじようにおおきいのがふつうである。しかしこのおお ること、かれらにたいしてもっとも気まえのいい賃銀をあた きな利潤は、その土地の開墾と耕作に他の人々の労働を使用 えることに、熱意をもつ。だがそれらの気まえのいい賃銀することなしには、えられないのだし、しかも、新植民地に おいてふつうにおこる、広大な土地と少数の人民との不均衡 は、土地の豊富および低廉とむすびついて、まもなくそれら の労働者がかれをはなれ、みずから地主になっておなじく気は、この労働をえることを、かれにとって困難にする。そこ でかれは、賃銀については文句をいわないで、どんな価格で まえよく他の労働者たちに報酬をあたえるように、するので もよろこんで労働を使用する。労働の高賃銀は、人口増加を ある。そういう労働者たちもまた、まもなくかれらからはな

6. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

前者は、一般民衆によって賞讃され尊敬されるのがふつうであ かれはまったくスミスとファーガスンの精神において、アメ 後者は、たいてい、だれよりもまさって、いわゆる上流人士 リカの諸種族の包括的な概観をあたえる。「人々が結合して によって、尊重され採用されている」。 社会をつくったときの、かれらのはたらきについてのあらゆ マルクスもまた、「ドイツ・イデオロギー」で第一の移行の る研究において、まず注意すべき目標は、かれらの生存様式 原因を人口の増大と規定する。 である」 ( 二版、一七七八年、一巻三二四 ) 。あるいは、かれら 四メざこ c ま ~ 8 of the ミ h GO ミミミ e ミ f きミ はさらに、社会のそれぞれの形態がそれに特有の徳性、愛 、、 e Se 、、 ~ e ミ e 、 Of 、、 e Saxons ~ B 、 4 宀、 0 、 e cces 0 着、幸福をうみだすという事実を、強調する。『カール五世 of 、。ご e 、望ミミ 1787. これは、拡大され、十七世紀 ートスンは、封 の治世』一七六九年の第一巻において、ロ。ハ がとりいれられて、死後に、一八〇三年に四巻で出版された。。ハ ードンは、全体としてファーガスンとミラーの「思索的、歴史建体制を、スミスとミラーに類似した線にそって素描してい を、ほとんど尊重していないが、この本においてミラ 1 は、みずて、つねに生産様式と財産分配から、はじめている。かれ から憲政史の創始者の一人であることを示していると、見なすの は、「野蛮時代からの財産の性質の変化」と題する節をおき、 である。 ( 〔 Peardon), The T ミミ E ミ ~ H ミ。 c ミそのなかで、封建的保有の性質とそれのゆるやかな変容とを ヾ ~ 、 g. 1933. ) 検討し、そしてつぎのように要約する。「ある特定の時期に、 財産がどんな状態であったかをあきらかにすれば、われわれ ウィリアム・ロ ヾートスン この学派になんらかの意味で属する、他のおおくの著作者は、正確に、王あるいは貴族によってちょうどそのときに所 のなかで、この論文の紙数のうちであげることができるの有されていた権力の程度を、決定しうるー ( 一巻二二一 l) 。 この歴史学派の全体が、どのように十九世紀において見う ハートスンだけである。永年にわたってエディン・ハラ しなわれるかは、きわめて注目すべきことである。サン・シ 大学の学長であって、かれはファーガスンをよくしっていた し、かれにおうところをみとめていた。ロ。 ( ートスンの歴史モンはファーガスンをしっていたし、たかく評価した。マル クスはかれを、数回、引用した。ジェイムズ 叙述は、かれの主要な諸著作において、あたらしい見解の影 ル』五六ー五七をみよ ) 、 響をとくに示すものではないが、それがもっともよくみとめを賞讃し ( ・べイン「ジ , イムズ・ミ ジョン・ステュア ート・ミルは、かれ自身を、ヒューム、ス られるのは、アメリカおよびカール五世についてのかれの著 ミス、およびファーガスンというこの「高貴な哲学の学派」 作の序文において、また、かれのスコットランド史の、一般 すなわち「十八世紀でもっともすすんでいた人々ーの、後継 的な接近態度においてである。『アメリカ史』の第一巻で、

7. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

「しかしながら、もしわれわれがこの問題をもっとたちいっ もほぼ需要とつりあうということは、つねにたしかである。 て考察するならば、僧職者の、この利害関心ある精励は、あ 「しかしながら、一国において有用であり必要でさえあるの に、どの個人にもなにも利点や快楽をもたらさない、若干のらゆる賢明な立法者が阻止につとめるであろうものだという 職業もまた存在する。そして、最高権力は、それらの専門的ことが、わかるであろう。なぜならば、真実の宗教をのぞく 職業を保有する人々にかんして、その行動をかえざるをえなあらゆる宗教において、それは高度に危険であるし、それは 。最高権力はそれらのものを存続させるために、それらに真実の宗教にたいしても、迷信とおろかさと欺瞞のつよい混 合物をそそぎこんでこれを邪道におちいらせる、自然的傾向 たいして公共的な奨励をあたえなければならないし、それは、 さえもっているのだからである。それぞれの霊的なしごとに それらがとうぜんこうむるであろう閑却を、ふせぐための配 慮をしなければならない。その専門的職業に特別の名誉を付たずさわるものはすべて、かれの信奉者たちの目に自分をい っそう高貴で神聖にみせるために、他のすべての宗派につい 与することによってであれ、諸階層のながい従属関係ときび てのもっともはげしい嫌悪をかれらはそそぎこなであろう しい依存関係とを樹立することによってであれ、ほかのなに し、かれの聴衆のおとろえた献身を、なにかあたらしいもの かの手段によってであれ、そうしなければならないのである。 によってかきたてようと、たえず努力するであろう。おしえ 財政、艦隊、行政に使用されている人々は、この種の人間の こまれる教義のなかの、真理、道徳、品位には、なんの顧慮 例である。 もはらわれないであろう。人体の無秩序な感情にもっともよ 「一見したところ、聖職者は第一の種類にそくし、かれらに く適合する、あらゆる信条が採用されるであろう。顧客たち いたいする奨励は、法律家や医者にたいするものとおなじく、 につぎのような個々人の気まえのよさにまかせておいても安全は、民衆の情念と軽信とにはたらきかけるあたらしい勤勉と 収であると、とうぜんおもわれるかもしれない。その個々人と手ぎわによって、あらゆる秘密の宗教集会にひきつけられる 家は、かれらの教義に帰依する人々であり、かれらの霊的な奉であろう。そして、さいごになって市民的為政者は、僧侶の 国 ための定収入をださなかったという、かれの節約と称するも 仕や援助から利益またはなぐさめをえる人々である。かれら、 五の勤勉と戒心とは、うたがいもなく、そのような追加的な動のにたいして、自分がたかく支はらったことをしるであろう。 第 機によって刺激されるであろう。そしてその専門的職業におそして、じっさいには、かれが霊の案内者たちとなしうるも っとも上品で有利な妥協は、買収によってかれらを怠惰にす 8 けるかれらの技倆は、人民の精神を支配する手ぎわと同様に、 ることだと、しるであろう。買収は、かれらの専門的職業に 日々に増大させられるにちがいない。

8. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

下層の人々のそれにくらべてさえすくないとか、想像してはあきらかにひじように簡単で容易な変更のけつか、関税と消 ならないのである。かれらがよくはたらくために、かれらの費税とは、もっとも人口の稀薄な地方においても、現在もっ とも稠密な地方であげているのと同程度の、その消費に比例 主人の役畜がそうされることがかれの利益であるのとおなじ やりかたで、かれらが十分に食糧をあたえられ、良好な気分した収入を、おそらくあげるであろう。 アメリカ人は、金貨あるいは銀貨をもたないと、なるほど にされることが、かれの利益である。したがって黒人は、ほ いわれる。その国の国内商業は紙幣によりいとなまれ、そし とんどどこででも、白人召使と同様に、ラム酒と糖蜜ビール 」カてときとしてかれらのなかにはいってくる金および銀は、わ あるいはとうひビールの追加手当をもらっており、この自日 手当は、それら諸物品が適度の税をかけられるべきであるとれわれからうけとる諸商品のかわりにグレート・ブリテンに しても、おそらくとりあげられることはないであろう。それおくられる、と。しかし、金および銀なしでは、租税を支は らうことができないと、つけくわえられる。われわれはすで ゆえ、課税商品の消費は、住民の数に比して、おそらくアメ リカおよび西インドにおいてはブリテン帝国のいかなる地方に、かれらのもっているすべての金および銀を、入手してい る。かれらがもたないものをかれらからひきだすことが、ど ともおなじであろう。密売買の機会は、なるほど、はるかに うしてできるだろうか。 おおきいだろう。アメリカは、国のひろさに比して、スコッ アメリカにおける現在の金貨および銀貨の稀少は、その国 トランドあるいはアイアランドのいずれよりも人口が稀薄だ の貧困のけつかでも、その国民がそれら金属を購買する能力 からである。しかしながら、もし現在麦芽および麦芽酒にた いするちがった税により徴収されている諸収入が、麦芽にたをもたないことのけつかでもない。労働の賃銀がイングラン ドよりもはるかにたかく、食糧の価格がはるかにやすい国で いする単一の税により課せられることになるとすれば、消費 は、国民の大部分は、もしそうするのがかれらにとって必要 税のもっとも重要な部門における密売買の機会は、ほとんど まったく除去されるであろう。そして関税が、ほとんどすべもしくは便宜であるならば、より多量の〔金および銀〕を購買 てのさまざまな輸人商品に課せられるのでなく、もっとも一する資力をたしかにもっているにちがいない。それゆえそれ 般的に使用され消費される少数のものにかぎられるとすれらの金属の稀少性は、選択のけつかであ「て、必然のけつか ば、またそれらの関税の賦課が消費税法にしたがうとすれではないにちがいない。 金貨および銀貨が必要もしくは便宜であるのは、国内ある ば、密売買の機会はそんなに完全に除去されないとしても、 いは国外の取引をおこなうためである。 きわめていちじるしく減少するであろう。それらふたつの、

9. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

被害をうけ、そのため臨時支出をまねいた。そうしたばあい の信用の破減と事業の失敗とがあまりにもたびたびおこると いうことをかれらはしっているからである。そうした事業に に人々は集会をひらき、各人が所有している財産をひじよう まったく関係のないまじめで倹約な人々は、そうした隠匿が に正直にのべ、それによって課税されたという。チューリヒ の法律は、必要なばあいに、すべての人はその収入に比例し必要であるとはおもわないものである。 て課税され、かれはその額を神に誓って宣言すべきことを、 ホラントでは、故オラニエ公が都市総統職についた直後、 ーセントの税つまりいわゆる五 命じている。かれらは自分たち市民どうしのうちだれかが裏すべての市民の総資産に一一バ 切るだろうとはおもわないという。・ハ ーゼルでは国家の主要十分の一ペ = イ税が課された。すべての市民は自己査定し な収入は輸出品にかかる少額の関税からあがったものであて、ハンブルクとおなじ仕方で、この税を支はらった。しか る。市民全体が、法律にしたがって賦課されるすべての税をもその税はひじように信頼をもって支はらわれたと一般にみ 三か月ごとに支はらうと神に宣誓する。すべての商人はもちなされていた。当時人々は、この新しい政府を大暴動によっ ろんすべての宿屋の主人さえもが、領土の内外で販売した商て自分たちでうちたてたばかりであったので、その政府にた 品の勘定を自分たちでするのをまかされている。かれらは、 いしておおきな愛着をもっていたのである。この税は、非常 三か月の終わりごとにこの計算書を、その下のところに税額時に国家を救うために、ただ一度支はらわれることにな 0 て の計算をつけて、会計官吏のところにおくるのである。右に 、こ。じっさいこれはあまりに重くて、ながくつづけること のべた信頼から、収入が損失をうけるなどとはうたがわれな ーセント以上に ・はできなかった。市場利子率がめったに三。ハ て ーセントの税は、ふつう資財からひき ならない国では、二パ っ * 前掲書 tome 一 . p. 163. 18 , 171. だされる最大純収人一ポンドにつき十三シリング四ペンスの ーセントの税を、多少とも資本にくいこ 収こうしたスイスの諸州においては、すべての市民に自分の額になる。この二パ 家財産額を神に誓って公に宣言する義務をおわせることがむずむことなしに、支はらいうる人は、ほとんどいないであろう。 かしいとはおもわれないにちがいないとおもわれる。ハン・フ 非常時においては、人々は、ひじような愛国的情熱からおお 五ルクではそれはひしように困難だとおもわれるだろう。商人きな努力をし、国家救済のために自分の資本の一部さえ手放 第 たちは危険な取り引き事業に従事するのに、自分たちの財産すだろう。だがかれらが相当ながい時期にわたってそうしつ づけることは不可能である。そしてたとえそういうことがで 事情のほんとうの状態をさらけださねばならないことに、 きたとしても、そうした税はすぐに、国家を維持することが つもふるえるおもいをしているのである。そのけつかかれら 、 0

10. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

れたにしても、ブリテンの国家構造がグレート・・フリテンとであろう。 その諸値民地との統一によってきずつけられるであろうとい 海のむこうがわの人々は、かれらが統治の中心からとおい うことは、最少の可能性さえもないのである。反対にその国ことが、かれらをおおくの抑圧にさらしはしないかとおそれ 家構造は、それによって完全なものとなるであろうし、それな て、る。どが、 : 一 な議会におけるかれらの代表は、はじめからか しには不完全なもののようにおもわれる。帝国のあらゆる部 なりの数であるべきであり、かれらをあらゆる抑圧から容易 分のことがらについて、討議し決定する集会は、適切な情報に保護することができるであろう。距離は、選挙人にたいす をえるために、それのあらゆる部分からの代表をもつべきで る代表の依存性を、おおいによわめるものではありえないだ あるにちがいない。しかしながら、この統一が、容易に実現ろうし、代表はいぜんとして、議会におけるかれの席と、それ されうるとか、実施にあたって諸困難、しかもおおきな諸困 からかれがひきだすすべての帰結を、選挙人の好意におうも 難がおこることはあるまいとか、わたくしはあえていわない。 のであることを、感じるであろう。したがって、代表が、立法 だが、わたくしは、克服しえないとおもわれる困難について、府の一員としてのあらゆる権威をもって、帝国のそれらの僻 ひとつもまだきいたことがない。主要な困難はおそらく、も遠の諸部分において、文官か武官のだれかがおかすであろう のごとの本性からではなく、大西洋のこちら側とむこう側とあらゆる不法行為について、非難することによって、その好 て の双方の国民の、先人見と意見から、生じるのである。 意をそだてるのは、かれにとって利益であろう。そのうえ、 にわれわれは、海のこちら側で、アメリカの代表の数がおお統治の中心からのアメリカの距離がとおいことは、その国の 系 いことが、国家構造の均衡をくつがえしはしよ、 オしか、そして国民がひそかにおもっているかもしれぬし、それにはいくら か理由らしいものもあるのだが、ひじようにながくつづくも の一方では王権の影響力を、他方では民主主義の力を、増大さ 学 済せすぎはしないかと、おそれている。しかし、もしアメリカ のではないであろう。富と人口と改良とにおけるその国のこ 治の代表の数が、アメリカでの課税の成果に比例するものとすれまでの進歩のはやさは、一世紀をほとんどこえぬうちに、 れば、操縦されるべき人々の数は操縦すべき手段に、操縦の おそらくアメリカでの課税の成果がブリテンのそれをこえる であろうほどなのであった。そうなると、帝国の中心はとう 四手段は操縦されるべき人々の数に、正確に比例して増大する 第 であろう。国家構造のうちの王政的部分と民主主義的部分とぜんに、その帝国のうちで、全体の一般的な防衛と支持にも っとも貢献する部分へ、移動するであろう。 は、統一ののちにも、それいぜんに相互の関係においてそう であったのと正確同一の程度の、相対的な力をもちつづける アメリカの発見と、喜望岬経由の東インド航路の発見と