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検索対象: 世界の大思想15 スミス 国富論<下>
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1. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

152 らひきぬかれることができる。かれは、その期間になされるのばあいにうけとるなにかの給料あるいは支はらいによって べきしごとが、老人、女性、子どもによって、まさしく十分ではなかった。 もっと進歩した社会の状態においては、ふたつのちがった に実施されうると、信頼する。だから、かれは、それほど短 期間の戦闘には、支はらいなしで服務することを、いやがら原因の作用で、戦場に参加する人々がかれら自身の費用で自 己を維持することが、まったく不可能になった。それらの二 ないし、そして、しばしば、主権者または国家にとっては、 かれを戦場で維持するには、かれをそれに適するようにする 原因とは、製造業の発展と、戦争技術の改良である。 のとおなじく、ほとんど費用がかからない。古代ギリシャの 農耕者が遠征に使用されるにしても、それが種子まきのの さまざまな国のすべての、市民たちはこのようなやりかたちにはじまって、収穫のまえにおわるとするならば、かれの で、第二ベルシャ戦争のあとまで、服務していたらしく、ペ業務の中絶は、かならずしもつねに、かれの収入のとるにた ロポンネーソスの人民は、。ヘロポンネーソス戦争のあとま りるほどの減少を、ひきおこしはしないであろう。かれの労 で、そうであったらしい。ペロポンネーソスの人たちは、夏働が介入しないでも、なされるべきのこりのしごとの大部分 には戦場をはなれて、収穫のため故郷へかえるのがふつうでを、自然がおこなう。しかし、ある職人が、たとえば鍛冶屋 あったと、トウキディデスがのべている。ローマの人民は、 や大工や織布工が、かれのしごと場をはなれる瞬間に、かれ かれらの王たちのもとで、また共和国のはじめの時期のあい の収入の唯一の源泉は完全に枯渇する。自然は、かれのため だ、おなじゃりかたで服務した。ウェイイの包囲のときにな になにもしないし、かれがすべてを、かれ自身のためにおこ なうのである。したがって、かれが公共の防衛のために、戦 ってはじめて、故郷にとどまった人々が、戦争にいった人々 を維持するために、なにかの貢納をするようになったのであ場に参加するばあいには、かれは自己を維持する収入をもた ないのだから、かれは必然的に公共によって維持されざるを る。ローマ帝国の廃墟のうえにたてられたヨーロ ッパの諸王 えない。ところが、住民のうちのおおきな部分が職人および 国では、封建法と正当によばれるものが確立されるまえも、 確立されてしばらくあとも、ともに、大領主たちは、かれら製造業者である国では、戦争にいく人々のおおきな部分が、 これらの階級からひきだされざるをえないし、したがって、 の直接の従者たちのすべてをもって、かれら自身の費用にお いて、国王に奉仕するのがつねであった。かれらは戦場におかれらがその任務に使用されているかぎり、公共によって維 いて、故郷においてとおなじようにして、自分たちをかれら持されざるをえない。 戦争の技術もまた、しだいに成長してきわめて手のこんだ 自身の収入によって維持したのであって、国王からその特定

2. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

ば、それは右にのべた地代の半分、いやほとんど確実に四分 いてそれが分配される、さまざまな階級の人々のあいだでい の一をも、とても提供しえないだろう。現在、グレート・ プとなまれるはずの一定の生活と支出様式において、維持しえ リテンの王領地は、それが私人の所有地であるばあいに、お たであろう人口だけ、すくないであろう。 そらくそこからひきだしうるであろう地代の四分の一をも、 ヨーロッパでは現在、その公収入の大部分を国家の所有し 提供していないのである。もしも王領地がもっとひろけれている土地の地代からえている文明国は一つもないが、それ ば、おそらくその管理はもっとわるいだろう。 でもいまだに、ヨーロッパのすべての大君主国には、王権に フォレスト 人民のおおきな集団が土地からひきだす収入は、地代に比属する大領地がたくさんある。それはたいてい猟場なのだ が、なかには数マイルにわたって一本の木さえみることので 例するのではなく、土地の生産物に比例する。各国の土地の 年々の全生産物は、種子として保留されるものをのぞけば、 きない猟場もあって、これはまったく、生産物についても人 ツ。、の 人民のおおきな集団によって年々消費されるか、かれらが消口についても、国土の荒廃と損失でしかない。 費するほかのなにかと交換される。ほかの仕方でなら上昇し大君主国はすべて、その王領地を売却すれば、巨額の貨幣を たであろう土地の生産物を、それよりひくくおさえておくよ つくりだすことができよう。そしてこれを公債の支はらいに うなことがらは、土地所有者の収入を減少させる以上に、人あてれば、それまで王権が王領地からえていたよりもはるか 民のおおきな集団の収入を減少させる。土地の地代、すなわに大きな収入を、担保にしないですむであろう。ひじように ち土地所有者のものになる生産物部分は、グレート・ブリテ よく改良されよく耕作されて、うるときに、その土地から無 て ンのどこででも、全生産物の三分の一をこえていると想定さ理なくとれるかぎりのおおきな地代をうんでいる土地が、通 にれることは、めったにない。ある耕作状態のもとで土地が年常、収益三十年分の価格で売れるような国においては、改良 にイングランド正貨千万の地代を提供し、他の状態のもとでも耕作もされてもおらず地代もひくい王領地などは、四十、 の は二千万の地代を提供するとすれば、どちらのばあいも地代五十、あるいは六十年分の収益の価格で売れると予想しても 家 国 よかろう。王権はただちに、この巨額の売価が担保から解放 は生産物の三分の一とみなされるから、土地所有者の収入は 一方のばあいには他方のばあいより年に千万少ないだけであするはすの収入を、享受しうるだろう。数年ののちには、王 第 ろうが、このばあい、人民のおおきな集団の収人は、種子と権はきっと、別の収人をも享受することになろう。王領地が して必要なものだけを別にして、年に三千万も少ないだろ私有財産になれば、土地は数年のあいだに、よく改良され耕 う。一国の人口も、この年に三千万が、つねに種子を差しひ作されるであろう。土地の生産物の増大は、国民の収入と消

3. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

ろう。しかし、かれらの貨幣を前貸しすることにより、かれ慢だからおなじ身分のものと結婚せず、また高貴な婦人はか 3 らが、永久年金ではなく、かれら自身のであると他の人々のれらと結婚することを軽蔑する。それゆえかれらは、しばし それであるとをとわず終身年金しか購入しえないのだとすれば独身で生きることを決意するし、そして自分自身の家族も、 かれらがかならずしもつねにみとめることのあまりすきでな ば、かれらは、かならずしもつねに、それら年金を利潤をえ い縁者の家族にたいする顧慮も、もたないから、かれらは、 てうれるとはかぎらないであろう。かれら自身の生命にたい 自分の生涯を華麗に生きることだけをのぞみ、かれらの財産 する年金を、かれらはつねに損して売るであろう。なぜな が生命とともにおわることを、かならずしもいとうものでは ら、年齢と健康状態とが自分自身とほぼおなじ他人の生命に ない。そのうえ、結婚に反対であるか、あるいは、かれらか たいする年金にたいして、自分自身の生命にたいする年金に たいしてつけるのとおなじ価格を、だれもつけないだろうかそうすることを生活状態が不適当あるいは不都合にするよう な、富裕な人々の数は、イングランドよりもフランスにおい らである。実際、第三者の生命にたいする年金は、うたがい てはるかにおおきい。子孫にたいする配慮をほとんどあるい もなく、買手と売手とにとって等しい価値がある。しかしそ はまったくもたないこのような人々にとって、かれらの資本 の真の価値は、それがあたえられる瞬間から減少しはじめ、 を収人と交換すること以上に好都合なものはありえないので それが存続するかぎりますますそうしつづける。それゆえ、 それは、真実価値がつねに同一、あるいはきわめて同一にちあって、その収入は、かれらがのそむ期間だけ、存続するの であり、それ以上にではない。 かいと考えられうる永久年金ほど、便利な移動可能な資財と なることはできない。 平時における近代政府の大部分の通常の支出は、通常の収 フランスにおいては、政府の位置は、おおきな商業都市に、入と等しいか、ほ。ほ等しいから、戦争になると、かれらは、 はないから、商人は、政府に貨幣を貸しつける人々の、あま支出の増加に比例して収入を増加させることを、このまない りおおきな部分をなすものではない。財政にたすさわる人し、またできない。租税のひじように巨額かっ突然の増加に 人、徴税請負人、徴税請負でない租税の収納者、宮廷銀行業よりすぐに戦争を嫌悪する人々の感情を害することのおそれ 者などが、あらゆる公共の緊急事のさいにかれらの貨幣を貸から、かれらは、このまないのである。またかれらは、必要 とされる収入を徴収するのにいかなる租税がじゅうぶんであ しつける人々の大部分である。このような人々は、ふつう、 るかをよくしらないことから、できないのである。借入の便 いやしいうまれだが、ひじように富裕な、そしてしばしばひ じように自尊心のたかい人たちである。かれらはあまりに高 宜が、この恐怖と無能力とがさもなければひきおこしたとお

4. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

らない。そこから俸給やそのほかのできごとの管理上の経費 かんしてもまったくあてはまるのであって、この重い税は、 一もし重商的体系がおおくのばあいに、収入の手段ではなくてとして二八七、九〇〇ポンドを控除すると、その年の関税の 純収入は、結局一「四五五、五〇〇ポンドとなる。管理上の 独占の手段として課税をもちいることをわれわれにおしえな かったならば、けっして課されることはありえなかったもの経費は、このようにして、関税の総収入にたいして五から六 0 、 ーセントのあいだの額になるのだし、また、総収入のうち、 である。 国内農産物や製造品の輸出にたいしてしばしばあたえられ奨励金やはらいもどし金として支はらわれるものを控除した る奨励金や、大部分の外国製品の再輸出にたいして支はらわあとにのこっている額にたいしては、十パーセント以上のも れるはらいもどし金は、おおくの不正行為をひきおこし、公共のになる。 輸人されるほとんどあらゆる財貨に、重税が課されるの 収入にとっては、ほかのものにくらべてはるかに有害な一種 の密輸をひきおこした。奨励金あるいははらいもどし金を獲で、わが国の輸入商人は、できるだけ密輸入を多くし、通関 得するために、よくしられているように、財貨が船積みされ手続をするのをすくなくしようとする。反対にわが国の輸出 て出航するが、すぐあとでひそかに、その国のあるべつのとこ商人は、自分たちの輸出量以上に通関手続をする。そうする のは、虚栄からのばあいもあり、税を支はらわない財貨で大 ろでふたたび陸あげされることがときどきある。奨励金やは 商人とみとめられたいためのばあいもあり、また、奨励金あ らいもどし金の大部分は不正手段でえられたものなのだが、 るいははらいもどし金をえるためのばあいもある。このよう その奨励金やはらいもどし金がひきおこした関税収入の使い なさまざまなごまかしのけつか、わが国の輸出は、税関の帳 こみはひじようにおおきい。一七五五年一月五日でおわった 会計年度における関税の総収入額は、五、〇六八、〇〇〇ポン簿では、おおきく輸入にまさっているようにみえる。これは、 いわゆる貿易の収支で国民的繁栄をはかる政治家にとって ドにのぼる。この収入から支はらわれた奨励金は、一六七、 しいようのないほどの慰めとなる。 八〇〇ポンドの額になった。もっともこの年には、穀物にた いする奨励金はなかったけれども。はらいもどし証明書や輸 輸入された財貨はすべて、特別の例外はのそいて、またそ 出認可証にたいして支はらわれるはらいもどし金は、一一、 うした例外はたいしておおくないのだが、 若干の関税が課せ どんな財貨を輸入しても、もしそれ 五六、八〇〇ポンドの額になる。奨励金とはらいもどし金をられなければならない。 あわせると一「三二四、六〇〇ポンドの額になる。こうした が税率表にのっていないものであれば、それは、輸人業者の宣 控除のけつか、関税収入は二、七四三、四〇〇ポンドにしかな誓にしたがって、すなわち、ほとんど五つの上納金あるいは

5. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

の産業を、ほんのわずかでさえ増大させることなく、反対に う。もし利潤がおとるならば、商業的使用が土地の改良か 減少させて、そうするのである。 ら、資本をひきぬくであろう。したがって、商業利潤率をひ 独占は、その国の資本がある特定のときにどんな規模であぎあげるものはなんでも、改良の利潤の優位を減少させる るにしても、それが、独占のないばあいに維持するであろう か、劣位を増大させるかするのであり、はじめのばあいに ほどおおくの生産的労働の量を、維持することをさまたげる は、資本が改良におもむくのをさまたげ、あとのばあいに し、また、それが、独占のないばあいに提供するであろうほ は、資本をそれからひきぬく。だが、改良しようという気持 どおおくの収入を、勤労する住民に提供するのをさまたげる。 をおさえることによって、独占は必然的に、収入のもうひと ところで、資本は収入からの節約によってのみ増大させられつのおおきな根源的なみなもとである土地の地代の自然的な うるのだから、独占は、それがないばあいに資本が提供した増大をおくらせる。独占は利潤率をあげることによって、ま であろうほどおおくの収入を、提供するのをさまたげること た、市場利子率を、そうでなかったらなったであろうより によって、必然的に資本が、それがないばあいに増大するほ も、必然的にたかくしておく。だが、提供する地代に比例す ど急速に増大するのを、さまたげ、そしてそのけつか、資本る土地の価格、すなわち、土地にたいしてふつうに支はらわ が、さらに一層おおきな量の生産的労働を維持し、さらに一 れる何年分かの収益相当価格は、利子率が上昇すれば必然的 て 層おおきな収人をその国の勤労する住民たちに提供するの に下落し、利子率が下落すれば必然的に上昇する。だから、 にを、さまたげる。そこで、収入のひとつのおおきな源泉であ独占は、地主の利益を、ふたつのちがったやりかたで、きす しつでも、それがないば 觴る労働の賃銀を、独占は必然的に、、 つけるのであって、第一には、かれの地代の自然的増大をお 輯あいより、ゆたかさのすくないものとしたにちがいない。 くらせることによって、第二には、かれの土地が提供する地 マーカンタイル 学 済 商業利潤率をひきあげることによって、独占は土地を改代に比例して、かれが自分の土地とひきかえに手にいれるで 治良しようという気をおこさせない。改良の利潤は、土地がじあろう価格の、自然的増大をおくらせることによって、そう っさいに生産しているものと、一定の資本の適用によってそするのである。 四の土地が生産するようになりうるものとの、差に依存する。 たしかに独占は、商業利潤率をたかめはするし、それによ 第 もしこの差が、ひとしい資本から、どんな商業的使用におい って、われわれの商人たちのもうけを、いくらか増加させは てひきだしうるよりも、おおきな利潤を提供するならば、土する。しかし、それは資本の自然的増大をさまたげるので、 地の改良は、あらゆる商業的使用から資本をひきぬくであろその国の住民たちが資財の利潤からひきたす収入の、総額を

6. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

個々の関税を、国家に最大の収入をもたらしそうなあれこれゆる地域からの輸入が、あらゆる可能な利益をえて、いとな の仕方で、時におうじて上下させるならば、課税はつねに収まれうるだろう。こうした商品には、すべての生活必需品と 入の手段であって独占の手段としては用いられないから、す製造業のすべての原料が含まれるだろう。生活必需品の自山 くなくとも現在の関税の純収人とおなじくらいの収入が、ご輸入が国内市場の必需品の平均貨幣価格をひきさげるかぎり では、それは労働の貨幣価格をひきさげ、しかもその実質的 く一般的に利用され消費されているごく少数の種類の財貨の な報酬をすこしもへらしはしないだろう。貨幣価値は、それ 輸入品にたいする関税からひきだされないことはなさそうに が購買する生活必需品量に比例している。生活必需品の価値 おもわれる。また、このようにして関税は、消費税とおなじ は、それらとひきかえにえられる貨幣量から、まったく独立 ていどの単純性、確定性、正確性をもつものとすることもで している。労働の貨幣価格の下落は、すべての国産製造品の きたであろう。現在、外国産財貨の再輸出について、それは のちに再び陸あげされて国内で消費されているのに、そうし 比例的価格下落を必然的にともない、そのためこれらはすべ たものにたいするはらいもどし金のためにうける収入の損失ての外国市場でいくらか有利になるであろう。若干の製造品 - は、この制度にすればまったく節減されるだろう。ここから の価格は、原料の自由輸入のおかげで、右の比率以上の割合・ でひきさげられるであろう。もし生糸が支那やインドスタン もたらされる節減はそれだけで相当なものであるだろうが、 から無税で輸入されうるならば、イングランドの絹織物製造 もしこの節減に、国内生産物の輸出にたいしてだされたあら ゆる奨励金の廃止を加えるならば、すなわちこれらの奨励金業者はフランスやイタリアよりもすっと安い値段でうること て ができよう。外国の絹織物やビロードの輸入を禁止する必要 . が実際に、いぜんに前ばらいされたある消費税のはらいもど にし金とはならなかったあらゆるばあいにそうするならば、関はなくなってしまうだろう。われわれ自身の職人たちの商品 がやすいことは、かれらに、国内市場の確保だけでなく外国 収税の純収入は、このような変更をしたのちでも、変史いぜん の の収入に十分等しいだろうということだけは、まったくうた市場の大規模な支配を保証するであろう。関税をかけられる 家 国 がいえないだろう。 商品の貿易でさえも、いまよりすっと有利にいとなまれるで 篇 もしこのような制度の改革によって公共収入がすこしも損あろう。もしこれらの商品が公設倉庫から外国へ輸出するた 第 失をうけないならば、この国の貿易と製造業は、きっと相当めに搬出されるばあいには、税はすべて免除されるから、そ おおきな利益をうけるだろう。圧倒的多数の無税の商品の貿の商品の貿易は完全に自由であろう。あらゆる種類の財貨の 易は完全に自由になり、世界のあらゆる地域への輸出とあら 仲継貿易業も、この方式のもとで最大限の利益をうけるだる

7. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

の六か月のあいだに消費され生産されたものの価値は、十ポ 反対に、手工業者、製造業者、商人の労働は、とうぜん、な い。たしかに、この価 ~ 胆 ンドにではなく、一一十ポンドにひとし 卩にかのそういう販売可能な商品に、自己を固定し現する。 この理由にもとづいて、わたくしは、生産的および不生産的のうちの十ポンド以上は、どの瞬間においても存在したこと 労働をとりあっかう章において、手工業者、製造業者、商人がなか 0 たかもしれない、ということはありう手る。だが、 を、生産的労働者のなかに、家庭の召使を不妊的あるいは不工業者によって消費された十ポンドの値うちの穀物その他の 必需品が、もし、兵士または家庭の召使によって消費されて 生産的な労働者のなかに、分類しておいたのである。 第三に、どんな想定にもとづいても、手工業者、製造業しま「たとすれば、年生産物のうちでその六か月のおわりに 存在した部分の価値は、じっさいに手工業者の労働のけつか 者、商人の労働が、その社会の実質的な収入を増大させない ということは、不適当だとおもわれる。たとえば、われわれそうであるよりも、十ポンドすくなか「たであろう。だか ら、手工業者が生産するものの価値が、どの一瞬誾において が、この体系において想定されているらしいところにしたが も、かれが消費する価値よりおおきいと、想定されるべきで って、この階級の、日々の、月々の、年々の消費の価値が、 はないにしても、しかもなお、どの瞬間においても、市場に それの日々の、月々の、年々の生産の価値に正確にひとしい おける財貨のじっさいに存在する価値は、かれが生産するも と想定するとしても、それでもなお、そのことから、それの 労働が、実質的な収入、すなわちその社会の土地と労働の年ののけつか、そうでないばあいよりもおおきいのである。 この体系の支持者たちが、手工業者、製造業者、商人の消 年の生産物の、実質価値に、なにもくわえないということに 費は、かれらが生産するものの価値にひとしいと、主張する はならないであろう。たとえば、収穫後の最初の六か月に、 ばあい、支持者たちはおそらく、かれらの収入、あるいはか 十ポンドの値うちのしごとを実施する職人は、同時に十ポン . しし学ー トの値うちの穀物その他の必需品を消費するにしても、それれらの消費にあてられた基金が、それにひとしいと、 いだけなのであろう。だが、もしかれらが、もっと正確に自 でもほんとうに十ポンドの価値を、その社会の土地と労働の 年々の生産物に追加するのである。かれが十ポンドの値うち己を表現して、この階級の収入はかれらが生産したものの価 の穀物その他の必需品という、半年の収入を消費していたあ値にひとしいと、主張しさえしたならばそれだけで、この収 入のなかからとうぜん節約されるであろうものは、必然的に いだに、かれはひとしい価値のしごとを生産したのであって、 それはかれ自身またはだれか他の人物のために、ひとしい半その社会のほんとうの富をおおかれすくなかれ増大させるに 年の収入を購買することができるのである。したが「て、こちがいないということが、読者の心にすぐにうかんだであろ

8. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

教区の牧師、あるいは自分の領地で生活している、財産の は、市場価格がかわるたびにかわる評価が、あるいはつぎの すくない郷士は、時にはおそらく、牧師は十分の一税を、郷ような固定的な評価か、そのいすれかにしたがって課されう る。すなわち、市場の事情がどんなであっても、たとえば一 士は地代を、現物でうけとることがいくらか有利であるとし ブッシェルの小麦はつねに同一の貨幣価格で評価されるので るであろう。集められる量も集める地域もひじようにちいさ いので、牧師も郷士もともに、自分たちがうけとるべきものある。前者の方法で徴収される租税の収税額は、耕作の改良 のどんな部分についても、それらの徴収と処分とを自分たちと怠慢に対応した、土地の現実の生産物量の変動におうじて 自身で監督することができる。首府で生活している財産のおのみ、変動するだけであろう。後者の方法で徴収される租税 おきい郷士は、もし遠隔の地方にある領地の地代がこのようの収税額は、土地の生産物の変動だけでなく、貴金属の価値 に現物でかれに支はらわれることになると、かれの差配や代の変動と同一名目の鋳貨にふくまれる貴金属量の時代によ る変動との、双方におうじて、変動するだろう。まえの収 理人の怠慢によっておおきな損失をうけ、かれらのごまかし によって、さらにおおきな損失をうけるという、危険がある税額は、土地の現実の生産物の価値にたいして、つねに同じ だろう。収税人の不正と掠奪による主権者の損失は、必然的割合をたもつだろう。あとの収税額は、この価値にたいして、 にはるかにおおきいであろう。もっとも不注意な私人の使用さまざまな時代に、ひじようにちがった割合をもつだろう。 人でも、もっとも注意ぶかい王侯の使用人にくらべれば、お もし土地生産物の一定部分かあるいはその一定部分の価格 そらく主人の監督をよくうけているだろう。現物で支はらわのかわりに、一定額の貨幣が、すべての税や十分の一税の完 れる公収入は、徴税人のしごとぶりがわるいためおおきな損全な代償として支はらわれることになれば、このばあいには、 失をこうむり、そのために国民から徴収された税のほんの小 租税はイングランドの地租と正確に同一の性質のものにな 部分しかとうてい王侯の金庫にはいらないほどであろう。し る。それは地代とともに変動しない。それは改良をすすめも かし支那の公収入のうち若干の部分は、このやりかたで支は しないしおくらせもしない。他のすべての十分の一税のかわ らわれるといわれている。支那の官吏たちゃその他収税人た りに代納金といわれるものを支はらっている教区の大部分で ちは、うたがいもなく、貨幣によるどんな支はらいよりもは は、十分の一税はこの種の税である。べンガルのマホメット るかに悪用しやすいこの支はらい慣行をつづけるのが、自分政府の統治のあいだは、生産物の五分の一を現物で支はらう たちに有利であることがわかるであろう。 かわりに、代納金のようなもので、きわめてひかえめだといわ ザミンダリー 土地の生産物にたいする税のうち貨幣で徴収されるものれるものが、その国の大部分の地域すなわち大部分の領地 モードウス

9. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

るさいの適切な基金としてでなく、貸主にたいする追加奨励ほとんどっねに、もっともはやく公収入の解放をもたらすと 金として、あたえられたのである。 おもわれるものよりも、このまれる。 フランスにおいては、イングランドよりもはるかにおおき 終身年金は、ばあいにより、ふたつのことなる方法で、す なわちそれそれの生命にたいしてか、あるいはおおくの生命な部分の公債が、終身年金である。一七六四年にポルドー高 にたいしてかのいずれかにより、あたえられてきたのであっ等法院により国王に提出された記録によれば、フランスの全 公債は、二十四億リーヴルとみつもられ、そのうち、終身年 て、あとの方法は、フランスでは、発明者の名により、トン チンとよばれる。年金がそれそれの生命にたいしてあたえら金があたえられた元本は、三億、すなわち全公債の八分の一 れるばあいには、すべての年金受領者の死は、公収入の負担にの・ほると考えられている。年金自体は、年三千万、すなわ を軽減するものであって、その影響は、かれの年金額だけでち全負債の推定利子額一億二千万の四分の一にの。ほると、計 ある。年金がトンチンによりあたえられるばあいには、公収算されている。これらの算定が正確でないことは、わたくし 入の解放は、一団のうちに含まれるすべての年金受領者の死はひじようによくしっているが、きわめて尊敬すべき団体に まで、はじまらないのである。年金受領者は、ときとして一一より真実にちかいものとして提出されたのであるから、それ 十名あるいは三十名からなり、生存者は、さきに死ぬすべてらは、そのようなものとみなしうると、わたくしは考える。 のものの年金を継承し、最後の生存者は一団全体の年金を継それそれの借りいれ方法におけるこの相違をひきおこすもの は、フランスとイングランドとのふたつの政府における、公 承する。同額の収入にもとづけば、個別終身年金よりもトン チンによる方が、つねによりおおくの貨幣が調達されること収入の解放にたいする配慮の程度の差ではない。それはまっ にができる。生残者権をともなう年金は、同額の個別終身年金たく、貸主の見解および利害の差から生じるのである。 イングランドにおいては、政府の位置は、世界におけるも 収よりも実際にはねうちがおおきく、あらゆる富くじの成功が 家基礎をおいている原理である、すべての人間が自分自身の幸っともおおきな商業都市にあるから、商人は一般に、貨幣を 運について当然にいだく自信から、このような年金は一般政府に貸しつける人々である。それを貸しつけることによっ に、ほんとうのねうち以上でうれるのである。年金をあたえ て、かれらは、かれらの商業上の資本を減少させるつもりは 五 第 ることにより貨幣を調達することが政府の慣行である諸国に なく、逆に増大させるつもりなのである。そして、かれら おいては、トンチンがこの理由から、一般に個別終身年金よ は、もしあたらしい借入にたいする応募への参加分を若干の 利潤をえてうるつもりでなければ、けっして応募しないであ りもこのまれる。もっともおおくの貨幣を調達する手段が、

10. 世界の大思想15 スミス 国富論<下>

172 けれども、さまざまな原因から、主としてその国民を他の は、どの法廷においても、裁判官の俸給よりも、ずっとおお 諸国民の侵略にたいして防衛する費用の、継続的な増大か きな額にたっする。それらの俸給が国王によって支はらわれ ら、主権者の私的な領地が、主権の費用をまかなうには、まているという事情は、どこにおいても、訴訟に必要な費用を ったく不十分になってしまったときに、そして、人民がかれあまり減少させうるものではない。しかし、裁判官が当事者 からどんなおくりものも料金も、うけとることを禁止された ら自身の安全のために、さまざまな種類の租税によって、こ の費用に貢献することが必要になってしまったときに、裁判のは、費用を減少させるためよりも、裁判の腐敗をふせぐた の運営にたいするどんなおくりものも、いかなる口実のもとめであった。 においても、主権者によってであれ、かれの代官で代行者た 裁判官の職務は、それ自体でたいへん名誉あるものである ため、人々は、たいへんわずかな収益しかともなわなくて る裁判官によってであれ、うけとられるべきではないという 、、、、非常にひろく条件として約東されたもののようであも、よろこんでそれをひきうける。それより下級の治安判事 る。それらのおくりものは、効果ある規制と確定をおこなうの職務は、おおくのめんどうをともない、たいていのばあい はなにも収益がないにもかかわらす、われわれの郷士たちの よりも、まったく廃止することの方が、容易にできると、想 定されたらしい。一定の俸給が裁判官にたいしてさだめら大部分にとって、野心の対象なのである。上下すべてのさま ざまな裁判官の俸給は、裁判の運営と執行との全費用をあわ れ、それは、ふるい裁判収益におけるかれらのわけまえがど エコノミー せて、それがたいへんりつばな節約をもっておこなわれてい んなものであったにせよ、それの喪失をかれらにたいしてつ ぐなうものと、考えられた。租税が主権者にたいして、かれないところでさえ、どの文明国においても、統治の費用全体 のうちのきわめてとるにたりない部分をなすにすぎない の損失をつぐなう以上のものだったからである。このとき、 裁判は無償で運営されるといわれた。 裁判の全費用は、法廷手数料をもってまかなうことも、容 しかしながら、裁判は、じっさいにはどこの国でも、けっ易にできたであろう。そして、そうすれば、裁判の運営を、 して無償で連営されはしなかった。すくなくとも、法律家と腐敗のどんな実際的な危険にもさらすことなく、公収入を、 弁護士は、つねに訴訟当事者によって支はらいをうけなけれおそらくちいさいものにすぎないにしても一定の負担から、 ばならないし、そしてもしそうでなければ、かれらはその義まったくまぬがれさせることができたであろう。主権者のよ 務を、現在じっさいに遂行しているよりも、さらにわるく遂うに強力な人物が、法廷手数料のわけまえにあすかり、かれ 行したであろう。法律家と弁護士に年々支はらわれる料金の収入のかなりの部分をそれからひきだすことになるはあい