の法を失ったのではない。 の容易さは人々が知っている。北方の諸民族がローマ帝国を 転覆するのに持った苦い困難、シャルルマンニュの幾多の戦 原注一参照「北方の旅」第八巻、「タルタル史」および神父デュ・アルド の「シナ』第四巻。 争と辛苦、ノルマン人の種々の冒険を知っている。破壊者た 原注二タルタリは一種の平坦な山のようなものである。 ちは絶えす破壊された。 訳注一デンマークと一六六〇年の反乱を指す。これは君主政に絶対的権力 をあたえた。 第五章アジアの北方民族とヨーロッパの北方民族 が征服した時、征服の結果は同一ではなか 第四章このことの結果 ったこと 上に述べたことは歴史上の事件と一致する。アジアは十三 ヨーロッパの北方民族は自由人としてヨーロッパを征服し 回征服された。十一回は北方民族により、二回は南方の民族 こ。アジアの北方民族は奴隷として征服し、一人の主人のた によって。古い時代にスキチャ人が三回征服した。つづいてナ めに勝利をえたにすぎぬ。その理由は、アジアの自然的征服 メディア人、古代ベルシャ人がそれぞれ一回。ギリシャ人、 アラビヤ人、ムガール人、トルコ人、タルタル人、。ヘルシャ者たるタルタル民族自身が奴隷となったからだ。この民族は しくつも帝国を作る 人およびアフガン人。わたしは上部アジアについてだけ話し絶えすアジアの南方において征服し、、 ているのであり、世界のこの部分の南部に残った地方に行な が、国民のうち国に残っている部分は一人の強大な支配者に われた侵略については何もいわない。 この地方は絶えず非常服従させられている。この支配者は南部において専制的であ に大きな革命に苦しんでいる。 るが、さらに北部でもそうなろうと欲し、被征服臣民にたい さらに征服者たちにたいしてもそう ロッパにおいては、これに反し、ギリシャ、フェニキする恣意的権力を長い、 ヤの植民地建設以来、四つの大変動しか知られていない。第しようと意図している。このことは今日かのシナ領タルタリ 一はローマ人の征服によって起こされ、第二はこの同じロー と呼ばれている広大な地方においてもっとも顕著である。皇 マ人を減ぼした野蛮人の氾濫により、第三はシャルルマンニ帝はこの地方をシナとほとんど同様に専制的に統治し、毎日 部帝の戦勝により、最後はノルマン人の侵入によって起こさ征服によってこれを拡張している。 ( 原注一 ) れた。そして、これをよく検査するならば、これらの変動に さらにシナの歴史には皇帝たちがタルタリにシナの値民を 第 おいてさえも、ヨーロッパのあらゆる部分に一般的にひろが送ったことを見ることができる。これらのシナ人はタ . ルタル っている一種の力を発見するであろう。ローマ人がヨーロッ 人となり、シナの宿敵となった。しかし、それはかれらがタ 。ハを征服するにあたり当面した困難と、アジアに侵入した時ルタリにシナ政体の精神をもたらすことをさまたげなかっ
は、理性がかれらを従属的にすることはありえなかったと人 間に教えたのであった。 征服を行なったタルタル国民の一部はしばしば自分もまた 原注一第五王朝の第五代の皇帝ヴェン帝のごとし。 放逐されて、その荒野に奴隷制の風土においてえた奴隷精神 原注二スキチャ人は三回アジアを征服し、そこから三回放逐された ( 「ユ を持ち帰った。シナの歴史はわれわれにその著しい例を示し スチヌス』第二篇第三章 ) 。 ( 原注二 ) ているが、われわれの古代史もまた同じである。 原注三これは、第二三篇第一一〇章において、棒についてのゲルマン人の考 え方についてわたしがいうことに反しはしない。かれらは、それがどのよう タルタル国民またはスキチャ国民の特質がアジアの諸帝国 な道具であっても、打っという恣意的な権力または行為を常に侮辱とみなし の特質と常に似ていたのはこのためである。これらの帝国の 訳注一スウェーデンの博物学者、一六三〇ー一七〇二。「アトランチカ』 人民は棒によって統治され、タルタル人は長い鞭によって統 によって、スカンジナヴィヤがプラトンのアトランチードであると主張して 治される。ヨーロッパの精神は常にこのような習俗に反対で あった。それであらゆる時代に、アジアの人民が刑罰と呼ん 訳注二 Jornandés または Jordanös 六世紀の司教で歴史家だった人。ゴ ( 原注三 ) だものをヨーロツ。ハの人民は侮辱と呼んだ。 ート人の伝統について参考となる編纂物を作り、また『ゲート人の起源と歴 史』を著わした。 タルタル人はギリシャ帝国を亡ぼして、被征服地に奴隷制 と専政を樹立した。ゴート人はローマ帝国を征服して、あ 第六章アジアの隷属制とヨーロツ。ハの自由の新た らゆるところに君主政と自由とを打ちたてた。 な自然学的原因 その著『アトランチカ』においてスカンジナヴィヤをほめ ( 沢注一 ) そやした有名なルドベックはこの地方に住む諸国民を世界の アジアではつねに大帝国が現われた。ヨーロッパではそれ すべての人民の上に立たしめるべき偉大なる特権について述は決して存続しえなかった。それはわれわれの知っているア ( 訳注こ べたかどうかわたしは知らないが、スカンジナヴィヤの諸国ジアはより大なる平原を持つからである。アジアは山と海に 民はヨーロッパの自由の源泉、すなわち、今日人類のうちにあよってより大きな部分にしきられ、より南方にくらいするか るほとんどすべての自由の源泉であった。 ら、その水源はより涸れやすく、山の雪はより少なく、水の ( 訳注一一 ) ( 原注一 ) ゴート人ジョルナンデスはヨーロッパの北部を人類の鍛冶集まりがより悪い河川は、より少なる障害をなしている。 場と呼んだ。わたしはむしろ南部で作られた鉄鎖を破る道具 アジアでは権力はつねに専制的であらざるをえぬ。なんと を作る鍛冶場と呼ぼう。ここでかの雄々しい諸国民が形成さ なれば隷属制がそこで極端でないとすれば、ただちに土地の れ、かれらはその国を出て暴君と奴隷を亡ぼし、自然は人間 性質が許すことのできぬ分割が行なわれるであろうから。 を平等に作ったのであるから、かれらの幸福のためのほか ヨーロッパでは、自然的分割が中位の大きさの国家を数多 こ 0
1 的第二部 一般的慣行とは反対に、アジアにおけるよりもヨーロッパ 第十一一章租税の大きさと自由との関係 において厳しいのは、没収刑に特有なことである。ヨーロッ 一般原則は次の通り。臣民の自由に比例して重い税を徴取 パにおいては、商品、時には船舶・車輛さえも没収される。 しうる。奴隷性が増大するにつれて、租税は緩和されざるを だが、アジアではそのどちらも行なわれない。それはヨーロ えない。今まで常にそうであった、今後も常にそうであろう。 ツ。 ( では商人は圧制から保護してくれる裁判官に頼ることが これは自然から引き出された原則であり、それは変わらな できるが、アジアでは専制的な裁判官自身が圧制者になるか われわれはどこの国にいっても、イギリスにも、オラン もしれないからである。商人はその商品を没収しようと決心 ダにも、それから自由が次第に低下して行くすべての国家、 した総督にたいして何をなしえようか。 トルコこ 冫いたるまで、においてそれを見出す。スイスはこの そういうわけだから、圧制自体が自制して、ある種の柔和 さをもって行動することを余儀なくされるのである。トルコ原則の例外であるように見える、それはこの国では全く租税 では商品の輸入にたいする入国税だけが課せられ、その後はを払わぬから。だがそれには人の知るように特殊な理山があ り、そしてその理由がわたしのいうことを確認しさえもす 全土が商人に開放される。虚偽の申告は没収も税金の増額も ( 原注一 ) る。この不毛な山地においては、食糧はきわめて高価であり、 ム もたらさぬ。シナでは商人でない人々の荷物は開かない。 ガル帝国では、密輸は没収によってではなく税の倍加によっ人口は甚だ稠密だから、トルコ人が皇帝に支払う四倍も多く て罰せられる。アジアの都市に住むタルタルの諸君主は、通をスイス人は自然に支払っている。 アテネ人やローマ人のような支配者的人民はあらゆる租税 過する商品にたいしほとんど何も課さない。 日本では密貿易 から解放されることができる、それは臣属国民の上に君臨す の犯罪が死罪であるのは、外国とのあらゆる交通を禁止すべ ( 原注二 ) き理由があり、密貿易はこの国にと「て商業の法の違反であるからだ。そこでこの人民はその自由に比例して租税を払い はしない。それは、この点については人民ではなくて君主だ るよりも国家の安全のために作られた法にたいする違反だか らド ) 。 から。 だが一般原則は依然として変わらない。制限国家において 原注一「デュ・アルド』第二巻、第三七貢。 原注二外国と交通しないで貿易を行なおうと欲して、日本人は二国を選ん は、租税の重圧にたいして埋め合わせがある、それは自由で ( 原注こ だ。ヨー。 ' パの貿易のためにオラノダ、アジアの貿易のためにシナ。日本ある。専制国家においては自由にたいする代替物がある。そ 人は貿易商や船員を一種の牢屋に抑して、がまんができなくなるほど、か れは租税の軽徴である。 れらを不自由な目にあわせる。 ョロッパのある君主国においては、国政の性質上、他の 、 0 サルタン
間にはなんの関係もないので、ヨーロッパは互いに非常にち ドと同じく木が生えず、やぶがあるだけだ。シナとインドの がった風土の中に位置を占めているのであるのだが。しか 近くには一種の粟の生えるいくつかの地方があるが、小麦も シナのタルタリ地方でし、ここでは気候が南から北に進むにつれて、ほぼ各国の緯 米もそこではみのることができない。 は四十三度、四十四度、四十五度のところで、一年の中七八度に比例して、いっとはなしに寒くなって行くので、各国は カ月凍結しないところはほとんどない。そういうわけでこのその隣国とほとんど同様であり、その間に著しい相違はな 上に述べたとおり、温帯はきわめて広いということにな 地方は南フランスよりも暑いはずなのに、アイスランドと同く、 じくらい寒い。東洋海方面の四つか五つの都市と、政治上のるのだ。 これによって生ずる結果は、アジアにおいては強い国民が 理由でシナ人がシナの近くにたてたいくつかの都市を除く 弱い国民と相対し、好戦的で、勇敢な、活動的な人民が柔 と、都市は全くない。大タルタリの残りの部分にも、・フーシ 弱、怠隋、臆病な人民と直接に接触するということである。 ャリ、トルケスタン、カタイにある二三のものを除くと都会 だから一方は征服され、他方は征服者とならざるをえない。 は全くない。 この極端な寒冷の理由は硝石と砂でできている これに反して、ヨーロッパでは強い国が強い国と相対してい 硝石土の性質と、さらに、土地の高さに基づく。長城の北八 る。互いに隣接している国々がほぼ同様の勇気を持ってい 十里にあり、カヴァムヒューランの泉に近いある場所が北京 る。これがアジアの無力、ヨーロツ。 ( の強大、ヨーロツ。ハの 付近の海岸よりも三千歩だけ高いこと、そしてこの高さが、 自由、アジアの隷属性の大きな理由である。この原因にいま ほとんどすべてのアジアの大河がこの地方に源を発している にもかかわらず、ここは水が不足で、川や湖水の近くでなけまでに気づいた人があるかどうかわたしは知らない。アジア ( 原注一一 ) では自由が増大する場合がけっしておこらないのにたいし、 れば居住できぬことの原因であることをヴェルビースト師は ヨーロッパでは情况にしたがって自由が増大したり減少した 発見した。」 りするのはこれによる。 これらの事実を認めるならば、次のように推論できる。ア ロシャの貴族階級がその君主の一人によって隷属状態にお ジアは固有な意味における温帯をもたぬ。そしてここでは非 としいれられたが、そこには南方の風土ではけっして見受け 常に寒い風土にある場所がただちに非常に暑い風土にある地 られぬ短気の特長が相変わらず見受けられる。そこには数日 方、すなわち、トルコ、。 ヘルシャ、インド、シナ、朝鮮と日 間樹立された貴族政体をわれわれは見なかったろうか。北方 本に接している。 ( 訳注一 ) の他の一王国はその法を失ったが、われわれは風土を信頼す これに反し、ヨーロッパでは温帯がきわめて広い。スペイ ン、イタリヤの風土とノルウェー、 スウェーデンの風土とのることができる。その王国はけ「して恢復できないようにそ
241 第三部 作っており、そこでは法による統治が国家の維持と相容れぬ 第八章帝国の首府について ものではなく、それどころか、この統治は国家にきわめて好 われわれが述べきたったところから生する結論の一つは大 都合であって、法なくしてはその国家は衰退し、他のすべて 君主にとってその帝国の中枢を正しく選ぶことがたいせつだ の国家に劣るようになる。 ということだ。それを南部に置く君主は北部を失う危険にあ これこそ自山の精神を構成したものだ。それは各部分を、 う。北部にそれを置く者は容易に南部を保つであろう。わた 法と自国商業の利益による以外には、征服され、外的権力に しは個々の場合については述べない。機械にも学理の結果を 服従することをきわめて困難にしている。 これに反し、アジアには隷属の精神が支配し、それはここ変えたりさまたげる摩擦があり、政治にもそれがある。 をはなれたことがない。それでこの地方のすべての歴史にお いて、自由な魂を示す唯一の痕跡をも見いだすことはできな 。そこには隷属の英雄行為が見られるのみだ。 原注一水は集まらぬうちに、または集まってから消えるか蒸発してしま 訳注一ヨーロッパよりも。 第七章アフリカとアメリカについて アジアおよびヨーロツ。ハについてわたしのいいうることは 以上のとおりである。アフリカはアジアの南部の風土と同じ 風土にあり、同じ隷属制の下にある。亡ぼされ、あらためて ( 原注一 ) ヨーロッパとアフリカの諸国民によって植民されたアメリカ は今日ではその固有の特性をほとんど示しえない。だが、そ の昔の歴史についてわれわれの知ることはわれわれの原理に びたりと合っている。 原注一アメリカの小蛮族はメキシコや。ヘル 1 の大帝国よりもはるかに服従 させるのが困難で、ス・ヘイン人から lndios bravos と呼ばれる。
すること 第三章多妻制は扶養費に依存す ること大なること : 第四章多妻制について、その種 種なる事情 : 第五章マラノ ・、ールのある法の根 ・一三九 第六章多妻制それ自体について : ・一三 0 第七章多妻制の場合における待 遇の平等について : ・ 第八章女子と男子の分離につい 第九章家政と国政との関係 : ・ 第十章東洋の道徳原理・ : 第十一章多妻制と関係なき家内隷 属について : 第十一一章自然法的羞恥心について : ・一一三三 第十三章嫉妬心について : ・ 第十四章東洋における家政につい ・一一三四 第十五章協議離婚と一方的離婚に 第十六章ローマにおける一方的離 婚と協議離婚について : ・ 第十七篇政治的奴隷制の法は風 土の性質といかに関係 ・一三七 するか 第一章政治的奴隷制について : 第一一章勇気に関する民族の相違 : ・ = 三七 第三章アジアの風土について : ・一一三九 第四章このことの結果 : 第五章アジアの北方民族とヨー ロツ。 ( の北方民族が征服 した時、征服の結果は同 一ではなかったこと : 第六章アジアの隷属制とヨーロ ッパの自由の新たな自然 学的原因・ : 第七章アフリカとアメリカにつ ・一一三四 ・一一三五 ・一一三九 ・一一四 0
を捨てて別の妻を持ち、一夫多妻制が採用されることはきわ めて明白である。 温暖地方では、婦人の魅力がよりよく保存され、かの女ら 第十六篇家内奴隷制の法はいかに風土の の結婚適齢期がより遅く、齢がより長じてから子供を持つか 性質と関係するか ら、夫の老衰はいわばかの女らのそれにしたがうのである。 しかもそこでは婦人が結婚するとき、より多くの理性と知識 を持っているから、それがたんにかの女らがより長く生きて 第一章家内隷属制について きたという理由だけからにもせよ、両性の間に一種の平等 奴隷は家の中にあるよりもむしろ家のために設けられてい が、したがって一妻の法が自然的に生ずるはすであった。 る。それでわたしはかれらの隷属制をある国々における婦人 寒冷地方では、ほとんど必要的な強い飲料の使用が、男性 の隷属制と区別して、後者を固有な意味における家内隷属制の間に不節制を生ぜしめる。女性はつねに身を守らねばなら と呼ぼうと思う。 ぬから、この点について自然的謹慎を持っており、したがっ て男性よりも理性の利器を持つ。 第二章南方の諸国においては両性間に自然的不平 男性をカと理性によって特色づけた自然はその権力にこの 等が存すること 力とこの理性の限界以外の限界をあたえなかった。自然は女 ( 原注一 ) 性には魅力をあたえ、その勢力はこの魅力とともに終減すべ 暑い風土においては婦人は八、九、十歳で妙齢となる。か きものとした。しかるに熱帯地方では、この魅力は生涯の初 くてそこでは少年期と結婚とはほとんどっねに同行する。か の女らは二十歳で老年になる。したがってかの女たちにおい 期においてのみで、決して一生涯存するものではない。 かくのごとく一妻しか認めない法はアジアの風土の特性よ ては理性が美と共に存することは決してない。美が支配権を 要求するとき、理性はそれを拒絶せしめる。理性が支配権をりもヨーロ ッパの風土の特性により多く関連する。これが回 獲得しうるようなときには美はもはやなくなっている。婦人教がアジアではあのように容易に確立され、ヨーロッパに拡 は従属的状態にあらざるをえない。なんとなれば美が青春期まるにはあのような困難に出会ったこと、キリスト教がヨー においてさえかの女らにあたえなかった支配権を理性は老年ロッパで維持され、アジアでは減びたこと、最後に、回教徒 期においてかの女らに獲得せしめることはできぬからであはシナであれほど発展し、キリスト教徒はあれほど発展せぬ る。したがって男性が宗教の反対を受けぬ場合には、その妻ことの理由の一つである。人間的道理というものは、かの無
229 第 上原因に常に従属し、それはその欲するところをすべて行な ヨーロッパの各地で行なっている計算にしたがえば、そこ ( 原注一 ) 欲するすべてのものをもちいるのである。 には女児より男児が余計に生まれる。これに反し、アジアお ヴァレンチ = アヌス帝はかれに特有なある理由によ 0 て帝よびアフリカの報告は男児よりもはるかに多くの女児が生ま 国内に一夫多妻制を許した。かかるわれわれの風土に反するれるといっている。したがってヨーロ ッパにおける一妻制の 法はテオドシウス、アルカジウス、ホノリウスによって廃さ 法と、アジア、アフリカの多妻性の法とは、風土と特定の関 れた。 連を持っているのだ。 原注一マホメットは Cadhisja が五歳のときに結婚し、八歳のときに同衾 アジアでも寒い風土においては、ヨーロ ッパと同じく、女旧ル した。アラビヤ、インドの暑い国々では、娘は八歳で妙齢となり、翌年子を 生む。 Prideaux 「マホメット伝」。アルジェ王国では、九、十、十一歳で子 より男児が余計に生まれる。ラマ僧はいう、これがかれらの ( 原注二 ) を生な婦人が見うけられる。 (Å)gier de 日 ass デ「アルジェ王国史』第六一 国では妻に多数の夫を持っことを許す法の根拠である、と。 ( 訳注一 ) しかしながら、不均衡が甚だしくて多妻制の法または多夫 訳注一 LabouIaye によると、「 Cadhisja がマホメットと結婚したのは四 制の法を採用する必要のある国が多く存するとはわたしは考 十歳であった。預言者があいてがわずか六歳のとき結婚したのは Ayesha である。」 えない。それは単に多妻制または多夫制がある国々では他の 国々よりも自然に反することがより少ないという意味にすぎ 第三章多妻は扶養費に依存すること大なること 一夫多妻制が一たび確立された国々においては、妻の多数 。ハンタムには男一人にたいして女十人あるという報告がか であるか否かは夫の富に依存すること大であるとはいえ、国りに真であるとすれば、それは多妻制のきわめて特別な場合 家の中に一夫多妻制を設けしめるものは富であるとはいえなであろうとわたしは認める。 貧困も、未開人について述べるときにわたしはいうが、 以上すべてにおいてわたしはこれらの慣行を是認するので これと同一の効果を生じうるのである。 はなく、その理由を述べるのである。 多妻制は強大な国民においては奢侈というより大きな奢侈 原注一 Arbutnot 氏は、イギリスでは男児の数は女児のそれを越えるのを 見た。だがそれによってすべての風土においても同様だと結論したのは誤り の誘因である。熱帯的風土においては、欲望が少ない。その である。 ため妻子を養うのに金がかからない。だからそこではより多 原注二デュ・アルド「シナについての覚え書』第四巻第四頁。 くの女房を持っことができるのだ。 第五章マラノ ・、ールのある法の根拠 第四章多妻について、その種々なる事情 、 0
307 第四 ( 原注一 ) ( 訳注二 ) 原注五かれはそれらの施設の管理にある程度参加していた。 を企てたのだから、かれらを攻撃しなかった。ポントスの諸 原注六「フェストス・アヴィエヌス』参照。「プリニウスによればこのヒミ 王はそれらの植民地の多くを占領したが、かれらからその国 ( 原注一一 ) ルコンはハノンと同時に派遣されたようである。そしてアガトークルの時代 政を奪わなかったように見える。 にハノンとヒミルコンという、どちらもカルタゴ人の頭目である人物の名が ポントス諸王の勢力はこれらのギリシャ植民地を服従させ 見えるので、ドッドウエル氏はそれらは同じ人物であろう、当時カルタゴは ( 原注三 ) 繁栄していたからますますそうであろうと考えた。氏の「ハノンの周航につ ミトリダテスはいたるところで軍隊 るとたちまち増大した。 ( 原注四 ) いての論究』参照。」 ( 訳補、括弧中の原文は始めの諸版たけにある。 ) を傭い、うけた損害をたえす補填し、労働者、船舶、兵器を 原注七かれはそのためにカルタゴの元老院から褒賞された。 手に入れ、同盟国を獲得し、ローマ人の同盟国および自身す 原注八カルタゴ人に従属している部分において。 ( 原注五 ) 訳注一この書き出しは始めの諸版にはない。 ら買収し、アジアとヨーロッパの蛮民を傭い入れ、長い間戦 訳注二古人が世界の西端に置いた島の名であるが、該当するものがわかっ 争を行ない、したがってその軍隊を訓練することができた。 ていない かれはその軍隊を武装し、ローマ人の戦争技術を教えこみ、 訳注一二カルタゴの信実 (foi punique) は今でも不義不信を意味する。 訳注四古ベルーの都市。その銀鉱は名高い ローマの脱走兵で大軍団を作ることができた。最後に、かれ 訳注五ギリシャ語力ッシテロス ( 錫 ) から出た地名。この金属がここには はいくども大損害を受け、大失敗をやったが、なお亡びない 豊富にあった。 ことができた。もしも逆境にあって偉大な君主が作り上げた 訳注六シリー (ScyIIy) イギリス海峡にあり、コーンウォール海岸に面 した島。 ものを、繁栄の時に好色で野蛮な国王が破壊してしまわなか ( 訳注 1 ) ったならば、かれはけっして減びなかったであろう。 ーーーーミトリタテス 第十一一章デロス島 このようにローマ人がその強大の絶頂に達し、自分自身の ほかには恐るべきものをもたぬように見えていた時、カルタ コリントがローマ人により亡ぼされた時、商人たちはデロ スに退いた。宗教と諸人民の崇拝がこの島を安全な場所とみゴの占領、フィリツ。フ、アンティオクス、ベルセウスの敗北 がすでに決定していた世界の覇権をミトリダテスが再び争わ なさせていた。それだけでなく、アフリカの減亡とギリシャ んとした。いまだかってこれほど災い多き戦争はなかった。 の衰微いらい、より重要となったイタリヤとアジアの貿易に 双方ともに強大な力を持ち、互いに勝利をうるので、ギリシ とってこの地はきわめて好位置を占めていた。 ヤとアジアの諸人民は、あるいはミトリダテスの味方とし きわめて昔からギリシャ人は、われわれがすでに述べたよ マルマラ テロスはこの共同 うに、プロポンチド ( ) と黒海へ植民を送 0 た。これらて、あるいはかれの敵として亡ぼされた。。 海の古名 の植民地はベルシャ人の下で、かれらの法と自由とを保持しの不幸に包まれた。商業はどこでも倒れた。商業が亡びたの ていた。アレキサンドルは、野蛮人にたいしてのみその遠征はきわめて当然であった。人民たちが亡んだのであるから。
今日ではもはや広大な森林にすぎず、その人民は日々に減 第四章古人の商業と現代のそれとの主たる相違 少し、トルコやベルシャに小口で売られるために自由を守っ ( 訳注こ 世界は時々異なる情勢におかれ、それが商業の姿を変え ているにすぎないコルキスを見れば、この地方がローマ時代 には都市で充満し、そこに商業が世界の全国民を招いていた た。今日ではヨーロッパの商業は主として北から南へ行なわ とはけっしてだれもいわないであろう。この地方には面影を れる。この場合、気候の相違が人民相互間に商品にたいする 大きな需要をおこさせている。たとえば、北に運ばれる南のしのぶべき記念物が少しも見当らぬ。その跡をプリニウスや ストラ、ポンの書にしのぶのみである。 飲料は古人がほとんど持たなかった一種の商業を作ってい 商業史は人民交流の歴史である。さまざまなるかれらの減 る。そのため昔は小麦の枡で計られた船の積量は、今日では 酒樽で計られる。 亡、人煙と荒廃の満潮・干潮がその最大事件を形成する。 訳注一コルキス (Colchis) 小アジアの一地方。ギリシャの英雄たちがアル われわれの知る古代の商業は地中海の一港から他の一港に ゴ号に乗って金の羊毛皮を求めに行ったと伝えられる。 行なわれ、ほとんど全部が南部に局限されていた。ところで 同一風土の人民たちは国内にほとんど同一の物を持っている 第六章古人の商業について から、風土の異なる人民たちほどに互いの間に交易の必要を ( 原注一 ) 持たなかった。ヨーロッパの商業はそれゆえ、昔は今ほど範 セミラミスの莫大な財宝は一日にして獲得されうるもので 囲が広くなかった。 なかったが、それはアッシリヤ人が後に他の諸国民に掠奪さ このことはわれわれのインド地方の商業についてわたしのれたように、かれら自身もほかの富裕な国民を掠奪したとわ 述べたことと矛盾しない。風土の極度の相違は相互の需要をれわれに信じさせる。 無とするからである。 商業の効果は富であり、富の帰結は奢侈であり、奢侈の結 果は技芸の完成である。セミラミスの時代に見いだされる完 第五章その他の相違 成度に到達した技芸はすでに大商業の確立をわれわれに示し ている。 商業は、ある時は征服者に破壊されたり、ある時は君主に よって阻害されたりして、地球上を駆けまわり、圧迫される アジアの諸帝国においては奢侈の大商業があった。奢侈の ところから逃れ、息をつけるところで休息する。それは、か歴史は商業史の華麗な部分をなすであろう。古代ベルシャ人 っては荒野と海と岩石しかなかったところに今日栄えてお の奢侈はメジア人のそれであった。メジア人の奢侈がアッシ り、昔栄えたところは、今は無人の境である。 リヤ人のそれであったように。