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検索対象: 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神
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1. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

ランがなく、グロがあるだけだと想像しよう。すなわち千フ ンダあての五十四グロの為替手形をわたしにあたえなければ ロランを持っている人は四万グロを持っことになる。以下同ならない。今や問題なのは五十四グロではなくて、五十四グ じ。さてオランダとの為替相場は他の国の各個の貨幣が何グ ロの手形である。したがって、正貨の稀少または豊富を判断・ 口に相当するかを知ることに存する。そしてフランスでは通するには、フランスにフランスあての五十四グロの手形が、 常三リーヴルのエキュー貨で計算するから、為替相場は三リ オランダあてのエキューよりも多いかどうかを知らねばな ーヴルのエキューは何グロに価するかと間うことであろう。 らない。もしオランダ人が振り出した手形がたくさんあり、 もし為替相場が五十四ならば、三リーヴルのエキ = ーは五十フランス人が振り出したエキーが少ない時は、正貨はフラ 四グロに価し、六十ならば、それは六十グロに価するであろ ンスで稀少であり、オランダでは豊富である。そこで為替は う。フランスで銀が稀少ならば、三リーヴルのエキューはよ騰り、わたしのエキューにたいし人は五十四グロより多くを り多くのグロに価するであろう。銀が豊富ならば、それはよあたえねばならない。さもなければわたしはそのエキューを り少ないグロに価するであろう。 あたえないであろう。そして逆の場合は逆の結果となる。 為替相場変動の原因になるこの稀少または豊富は、現実的 このように為替の変動は収支の勘定を形成し、それはたえ な稀少や豊富ではなく、相対的稀少や豊富である。たとえす決済されねばならない。そして債務を負っている国家は、 ば、オランダ人がフランスで資金を持っことを必要とする以為替によって他の国家に支払いができないことは、個人が両 上に、フランスがオランダに資金を持っ必要がある場合に替によって借金払いができないのと同じである。 は、正貨はフランスでは多いといわれ、オランダでは稀少だ 世界にフランス、スペイン、オランダの三国しかなく、ス といわれる。逆の場合には、結果も逆である。 ペインの多様な個人がフランスに銀十万マルクの債務を持 オランダとの為替相場が五十四と仮定しよう。もしフランち、フランスの多様な個人がスペインに十一万マルクの債務 スとオランダとがただ一つの都市をなしているとすれば、わを持ち、何かの事情によってスペインとフランスで、各人が れわれは一エキューの貨幣の受渡しの時にするようにするで 突然その正貨を引き上げようと欲したと仮定すれば、為替相 あろう。すなわちフランス人はそのポケットから三リーヴル 場はどうなるであろうか。この両国民は相互に十万マルクの 四を出すであろう、そしてオランダ人はかれの懐中から五十四金額を支払ったことになる。だがフランスはまだスペインに グロを出すであろう。しかし、 パリとアムステルダムの間に 一万マルクの借りがあり、スペイン人はフランスにたいし一 は距離があるので、わたしの三リーヴルのエキュー貨の代わ万マルクの手形を持つが、フランスはスペインにたいして全 りにオランダにある五十四グロをわたしにあたえる人はオラ然手形を持たぬであろう。

2. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

もしオランダがフランスにたいしてこれと反対の場合にあ得をする。債務者としては損をすることはよくわかる。たと 差引高としてフランスに一万フランの借りがあるとすれえば、フランスがオランダに一定額のグロを借りているとす ば、フランスはスペインに二通りの方法で支払いをすることれば、フランスのエキューのグロにたいする価値が少なけれ ば少ないほど、支払いのためにより多くのエキューが必要で ができるであろう。すなわち、あるいはオランダの債務者に たいする一万マルクの手形をスペインの債権者にあたえるこあろう。これに反し、フランスが一定額のグロの債権者であ るとすれば、エキューのグロにたいする価値が少なければ少 とにより、あるいはまた、銀一万マルクの正貨をス。ヘインに ないほど、フランスはより多くのエキューを受け取るであろ 送ることによって。 その結果として、一国が他国にある金額の貨幣を送る必要う。国家はさらに買手としては損をする。なぜなら同量の商 がある場合、そのことの性質上、そこへ貨幣を連搬しても、 品を買うためには、つねに同額のグロを必要とするが、為替 が下がれば、フランスの各エキューにたいしてあたえられる 為替手形を買っても、どちらでもよいことになる。この二つ の支払方法の利、不利はもつばら現在の状況による。正貨でグロは少なくなるからだ。同じ理由によって、国家は売手と ( 原注二 ) 送られた貨幣とオランダあての同額の手形と、どちらがこのしては得をする。わたしは、以前にわたしの商品を売った時 と同額のグロでわたしの商品をオランダで売る。すると五十 瞬間においてオランダにおいてより多くのグロをあたえるか グロで一エキューを手に入れられる時のほうが、同じエキュ をしらべなければならない。 ーを得るために五十四グロを必要とする時よりも、より多く フランスにおける同じ品位、同じ重量の貨幣がオランダで 同じ重量、同じ品位の貨幣をあたえる場合、為替は平価であのエキ「一ーをわたしはフランスで得るであろう。以上すべて のことの反対が他の国家におこるであろう。オランダが一定 るといわれる。貨幣の現状においては、平価はエキューにた いしほぼ五十四グロである。為替が五十四グロより上であれ額のエキ「一ーの債務者ならば、この国は得をする。債権者な は、それは高いといわれ、以下である場合には低いといわれらば、損をする。売手ならば、損をする、買手ならば得をす る。 る。 この間題をまだ続ける必要がある。為替が平価以下の場 為替相場の一定の事情の下において、国家が得をするか損 をするかを知るためには、その国を債務者として、債権者と合、たとえばそれが五十四でなくて五十であるならば、フラ して、売手として、買手として考察しなければならない。為ンスは為替で五万四千エキ、ーをオランダに送っても、五万 替が平価より低い時にはその国は債務者としては損をし、債エキューの商品を買うにすぎず、他方において、オランダ は、フランスに五万エキューの為替を送って、五万四千エキ・ 権者としては得をする。買手としては損をし、売手としては

3. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

= ーの商品を買うようになるはすである。その結果、五十四とするであろう。そこでフランス商人とオランダ商人の間に 分の一の差、すなわち、フランスにとって七分の一以上の損一種の損失の交流が行なわれるであろう。そして国家は知ら が生じるであろう。そのようなわけで為替が平価の場合にくぬ間に均衡を取り戻しているであろう。だから為替の下落 は、心配の種となったすべての不都合を生じはしないであろ らべて七分の一だけ多くの貨幣または商品をオランダに送ら ねばなるまい。このような債務はいっそう為替を下げるであう。 為替が平価より低い場合、商人はその財産を減らすことな ろうから、害悪は絶えず増大し、フランスは結局、破産する であろう。まるでこのようなことが本当におこるように見えしに、その資金を外国に送ることができる。なぜなら、資金 る。だが実際はそうではない。それは、わたしが他の個所でを送ってくる時、損をした分を取り戻せるから。しかし、帰 ( 原注三 ) ってくることのできない正貨のみを外国に送る君主はいつも すでに打ち立てた原理、すなわち国家はつねに均衡に向か 、その弁済手段をうるという原理によるのである。そこで損をする。 商人たちがある国で大きな取引をする時、その国の為替は 国家はその支払能力に比例して借りるにすぎず、売るに応じ て買うにすぎない。だから、上の例をとれば、フランスで為必ずあがる。それはかれらがそこで多くの契約を行ない、多 くの商品を買い、それを支払うために外国あてに為替手形を 替が五十四から五十に下がれば、オランダ人は、従来千エキュ ーの商品を買い、五万四千グロを支払っていたが、フランス振り出すことによる。 君主がその国家の中でごっそりと金をかき集めると、貨幣 人が同意するとすれば、もはや五万エキューしか支払わない はそこで現実的には少なく、相対的には多くなるであろう。 であろう。しかしフランスの商品はいつの間にか騰貴し、利 たとえば、もしこの国が外国で多くの商品の支払いをしなけ 潤はフランス人とオランダ人の間で分けられるであろう。な ればならぬとすれば、貨幣は稀少であるけれども、為替は下 ぜなら、商人は儲けうる時には、容易に利潤を分けるから。 そこでフランス人とオランダ人の間に一種の利潤の交流が行がるであろう。 すべての市場の為替はつねに一定の比例にしたがう傾向が なわれるであろう。同様に、フランス人は、為替が五十四で 部あった時には、オランダの商品を五万四千グロ買って、四千ある。それは自然のなりゆきである。アイルランドからイン グランドにたいする為替相場が平価より低く、イングランド 四エキューで支払っていたが、同じ商品を買うために、フラン 第 スのエキーで五十四分の四だけ余計に付け加えることを余からオランダへの為替相場もまた平価より低いとすれば、ア 四儀なくされるであろう。しかしフランスの商人は、その受けイルランドのオランダにたいする為替相場はさらにい 0 そう る損失を知っているから、オランダの商品をより安く買おう低いであろう、すなわち、アイルランドのイングランドにた

4. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

460 ると宣言した。 らに、フランスでは被告はその証人を提出せず、弁疏事情 皇帝たちの動機についてわたしのいうことはきわめて真実 ( 『 a デ」 ustificatifs) といわれるものを認めることがきわめ であって、自殺した者の財産は、自殺の原因となった犯罪が てまれであるが、イギリスではあらゆる方面からの証言が受 没収を伴うものでなかった場合には、これを没収しないこと理されるというべきである。このフランスの三つの法はきわ にかれらが同意したほどだ。 めてまとまった、条理のとおった一つの体系をなしている。 イギリスの三つの法もそれに劣らずまとまって条理のとおっ 第十章相反するように見える法が時としては同じ た体系をつくっている。犯罪者にたいする拷問を許さぬ『イ 精神に由来すること ギリス法』は、被告からその犯罪の自白を引きだす望みが僅 人を裁判所に召喚するためには今日ではその人の自宅に行 かしかない。だから第三者の証言をあらゆる方面から求め、 く。しかしこれはローマでは行なわれえなかった。 死刑の恐怖のために証人の元気を失わさせるようなことはあ 判に召喚することは暴力的行為であり、一種の身体強制 えてしない。『フランス法』は、今一つ余分の手段翁 ) を持 のようなものであった。それで、今日民事上の負債のために っているから、証人をおびやかすことをそれほど恐れない。 敗訴の言い渡しを受けた人をその自宅で身体強制をしに行く それどころか、理性はかれらをおびやかすことを要求してい ことができぬように、裁判に召喚するために、人の家に行く る。『フランス法』は一方の証人のいうことしか聞かぬ。そ ことはできなかった。 れは原告官の提出する証人である。そして被告の運命はかれ 『ローマ法』もわれわれの法も、各市民は避難所として自己らの証言のみにかかっている。 の家を持ち、そこではなんらの暴力も受くべきではないとい ところが、イギリスでは両方の証人を認め、事件はいわば う原理を等しく認めている。 かれらの間で争われる。ここでは偽証の危険はより少ない。 被告はここでは偽証にたいする方策を持っている、これに反 第十一章いかなる方法で二つの異なる法が比較さ し『フランス法』はそれを少しもあたえていない。したがっ れうるか てこれらの法のどちらの体系がより条理に合しているかを判 フランスでは偽証者にたいする罰は死刑だが、イギリスで断するためには、これらの法の一つずつを比較すべきではな はそうでない この二つの法のどちらがよいかを判断するた く、これらの法を総体として採り上げて、全体をいっしょに めには、フランスでは犯罪者にたいする拷問が行なわれる 比較しなければならぬ。 が、イギリスではそうでないことを付言すべきだ。そしてさ

5. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

相手の抵抗はこちらの勝利となる。少しの辛抱で、相手は無貴重である。なぜなら、それはアンジューの古い慣習と、当 条件降服する。 時行なわれた聖ルイの法令と、最後にフランス古法制で当時 聖ルイは、フランス法制に嫌気をささしめんとして、当時行なわれたものを包含しているからだ。 この著作とデフォンテーヌ、ポーマノワールの著作との相 の法律家に知らしめるため『ローマ法』の書物を翻訳させ た。デフォンテーヌは、われわれの持っ最初の法律実務の著違は、ここでは立法者のように命令的なことばで話している 作者であるが、これらの『ローマ法』を大いに用いた。かれことだ。そして、それはそうあってよかった。なぜならそれ ( 訳注一 ) の著作は、いわば、フランスの古法制、聖ルイの法または法は成文慣習と法との編簒物であったから。 令とローマ法の成果だ。 : ホーマノワールはローマ法はあまり この編纂物には内的欠陥があった。これは水陸両棲的法典 用いなかったが、かれはフランス古法制を聖ルイの諸規定にを形成し、そこに『フランス法』と『ローマ法』のごった煮 調和させた。 ができた。まったく関係のない、しばしば矛盾するものを結 これら二つの著作、とりわけデフォンテーヌのそれと同じ びつけたのだ。 精神で、だれか大法官が今日『律令集』と呼ばれている法制 評定衆のフランス法廷、ほかの裁判所への上訴のない判 の著作をつくったのだとわたしは信ずる。この著書の扉に決、「わたしは有罪と宣告する」とか、「わたしは無罪を宣 は、それがパ ォルレアンと藩の法廷の慣行にしたがってする」とかいうことばによる宣告の仕方はローマの民衆的裁 つくられたと書かれ、序文には、この書には王国全土とア 判とよく似ていたことをわたしは知っている。しかし人はこ ンジ、ーと藩の法廷の慣行が取りあっかわれているといわれの古法制をあまり用いなかった。人はむしろ、その後皇帝た ている。ポーマノワールとデフォンテーヌの著作がクレルモ ちによって行なわれた法制を用いた。そしてこの編纂におい ンとヴェルマンドワの両伯爵領のためにつくられたように、 てもそれをいたるところで、フランス法制を規正し、制限 この著作はパリ、 ォルレアンとアンジ = ーのためにつくられし、矯正し、拡張するために用いている。 たことは明らかだ。そしてポーマノワ 1 ルによると多くの聖 原注一この扉と序文ほど不分明なものはない。まず、これは。ハリ、オルレ アンと藩の法廷の慣行であり、次に、これは王国のすべての世俗的法廷とフ 部ルイの法が藩の法廷に侵透したらしいから、編纂者がかれの ランスの裁判区の慣行であり、次にこれは王国全土とアンジューと藩の法廷 六著作が藩の法廷にもまた関係しているといったのは一理があ ( 原注一 ) の慣行なのだ。 る。 訳注一この章は始めの諸版ではここで終わり、次の二節は第三九の始め にあった。 この著作を作った者が聖ルイの法と『律令集』といっしょ に国の慣習を編纂したことは明らかだ。この著作はきわめて

6. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

的 ( ものに動じない ) 気質と、あえてこんな表現をもちいる単純王とコンラッドの後を継いだ皇帝アンリ一世との間に結 ばれた一つの協定を持つ。これはポンの約定と呼ばれる。二 とすれば、かれらの精神の不動性がフランス国民の移り気な 気質よりも、より長い間、封地を自然的傾向によるかのごと人の君主はライン河の中央におかれた船にでかけて、たがい に永久の友情を誓った。かれらはかなり優れた折衷策 (mez ・ くに一家の中に永久化せしめた、物の処分方法に抵抗したの zotermine) を採用した。シャルルは西フランス王の称号を であろう。 とり、アンリは東フランス王の称号をとった。シャルルはゲ それのみならず、ドイツ王国はノルマン人およびサラセン ルマニヤ王と約定したのであって、皇帝と約定したのではな 人の行なった一種特別の戦争によって、フランス王国のよう っこ 0 、刀ュ / に荒廃され、いわば絶減されはしなかった。ドイツにはフラ ンスよりも富が少なく、略奪すべき都市が少なく、荒しまわ 第三十一一章いかにしてフランスの王位がユーグ・ るべき海岸が少なく、渡るべき沼沢が多く、分け入るべき森 カペ家に移ったか 林が多かった。所領がつねに絶減にひんしていなかったドイ 封地の世襲および複封地の一般的成立が国家統治 (gouve ・ ツの諸君主は家臣を必要とすることがより少なかった、換言 rnement politique) を消減させ、封建政を形成した。かって すればかれらに依存することがより少なかった。だから恐ら ヴァッサル く、もしもドイツ皇帝たちが戴冠式にローマに行くことを余国王が持っていた数知れぬ従士の大群の代わりに、もはや国 儀なくされたり、イタリヤに継続的な遠征を行なうことを余王は数名の家臣を持ったにすぎす、他の者はそれらの家臣に 儀なくされなかったとすれば、封地はかれらの国ではより長従属した。国王はもはやほとんど直接的権力を持たなかっ た。多くの他の権力、しかも非常に強大な権力の手を通じな くその原初的性質を保持したことであろう。 ければならない権力は停滞するかその目的地に届かぬうちに 第三十一章いかにして帝国がシャルルマンニュ家 消減した。こんなにえらい家臣たちはもはや服従しなかっ の外に移ったか た。しかも服従せぬために、その陪臣 (arriére ・ vassal) を利 部 シャルル禿頭王の血統を排けて、すでにゲルマン王ルイの用しさえもした。国王は直轄領を奪われ、ランスとランの両 六庶系に移っていた帝国は、九一二年にはフランコニヤ公爵コ市に沺塞して、かれらの意のままになった。木は枝を張りす 第ンラッドの選挙により、さらに他人の家に移った。フランス ぎた、それで梢が枯れた。王国は今日のドイツ帝国のよう に君臨し、ほとんど村落の争奪もできなかった家系は、さらに に、所領なしになった。王位がもっとも強大な家臣の一人に いっそう帝国を争う力を持たなかった。われわれはシャルルあたえられた。 ル・サンプル

7. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

れた。 主が選んだ者にのみ移転した。このように封地は子たちの間 『封地の書』の同じ個所にはつぎのように付言されている、 から領主が行なう一種の選択によってあたえられたのだ。 本篇の第一七章において、第二王統においては、王位はどそしてその著者たちは皇帝フレデリック一世の時代に住んで いたことを想起すべきだ。「むかしの法律家の変わらぬ意見 うしてある点では選挙的であり、ある点では世襲的であった は、封地の同列親の相続は同父母兄弟を越えては伝わらな のかを、わたしは説明した。王位は世襲的であった、国王は 、というのであった。現代では、新法によって直系ではそ 必ずこの王統のうちから取られたから。それはさらに世襲的 であった、王の子たちが継承したのだから。王位は選挙的でれを無限におよぼしたように、それを七等親にまでおよぼし てしまったのだけれども。」このようにしてコンラッドの法 あった、人民は子たちの間から選んだのだから。ものごとは は少しずつ拡張されたのだ。 つねに漸を追って進むものなのであり、ある政法は必ずほか これらすべてのことを前提とすれば、フランス史の一読た の一つの政法と関係を持つものであるから、人たちは封地の 相続について王位の継承についてしたがったのと同じ精神にけで封地の永久性はドイツにおけるよりもフランスにおいて より早く確立したことがわかるであろう。一〇二四年に皇帝 したがった。このようなわけで、封地は、相続権によって コンラッド二世が統治しはじめた時、ドイツにおける事態は も、選挙権によっても、子たちに移転した。それで、どの封 まだ、八七七年に死んだシャルル禿頭王の治下におけるフラ 地も、王位と同じく、選挙的でありながら世襲的であった。 ンスと同様であった。しかしフランスではシャルル禿頭王の 領主の一身における封地相続者選択のこの権利は、『封地 ( 訳注一 ) 甚だしい変化が生じたので、シャルル単純王は の書』の著者たちの時代、すなわち、皇帝フレデリック一世治世いらい、 帝国にたいするかれの否定すべからざる権利を外国の一王家 の治世には残存していなかった。 訳注一フレデリック・・ハル・ハロッサ ( 一一五二ー一一九〇 ) 。 と争う力がなかった。そして、最後に、ユーグ・カべの時代 には、当時の王家はあらゆる所領を奪われて、王位をささえ 第三十章同じ題目のつづき ることさえできなかった。 シャルル禿頭王の精神薄弱がフランス王国に同じ薄弱さを 「封地の書』によれば、皇帝コンラッドがローマに出発した 時、かれに仕えていた家臣たちは、子に移転する封地が孫にあたえた。だが、かれの兄弟ゲルマン王ルイとかれを相続し もまた移転しうるよう、また、正当な相続人なしに死んだ人た人たちのある者はより偉大な素質を持っていたので、かれ らの国家の力はより長く持続した。 の兄弟はかれらの共通の父に属していた封地を相続しうるよ どういったらよいか知らぬが、恐らくドイツ国民の粘液質 うに法をつくることをかれに請願した。これは聞きとどけら ル・サンプル

8. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

466 スになってしまう。 て約東されるとは。、、 カカる行為が神の僕の名において命令さ 訳注四 dro 一 tde 一 e またはたんに ré a 一 e フィリップ・オーギュスト王 れるとは。これはいずれも名誉の観念、道徳の観念、宗教の 以来、フランス王が、司教・大司教の地位が空席の場合、その管轄区の歳人 観念を等しくくつがえすものだ。 を徴収し、またその管轄の下にある司祭等を任命する権利。この国王の権利 をルイ十四世が拡大してローマ法王庁といろいろ紛議を生じた。 いかなる至善なものを考えだして、それを口実にしても、 ( 訳注も ) 訳注五この駄洒落は、く / リ大司教という高貴な地位にいた下等な坊主 de 悪くもないことを禁じなければならぬことはまれである Harlay の言に基づくらしい。かれは「 régale の権は帝王の冠の丸さに結び 法にはある種の清浄さが必要である。人間の邪悪を罰する ついている。 ( 御馳走する権利は金貨の丸さに結びついている。 ) 」と主張し ためにつくられているのだから、自らも最大の潔白を持つべ 訳注六 Davila (Enrico Caterino). イタリヤの歴史家、有名な D こ g ミ、・ きだ。西ゴート人の法の中には次のようなばかげた請願が見 ミ F 、ミミ . 1630. ( フランス内乱史 ) の著者。本章にとりあげて うけられる。この請願によって、ユダヤ人は豚そのものを食わ いるのはこの書の第九六頁。 訳注七再婚を禁ずるキリスト教を諷す。キリスト教的至善の考えからする ぬという条件のもとに、豚で料理されたあらゆるものをユダ と、再婚は最後の審判のときに二重結婚と同じ結果になるから悪いという。 ヤ人に否応なしに食わせようというのである。これははなは だ残酷なことであった。ユダヤ人をかれらの法に反する法に 第十七章法の悪い作り方 服従させたのであり、ユダヤ人の法の中で、かれらを識別す ローマ皇帝はわれわれの君主と同じく、かれらの意志を、 る表徴となりうるもの以外は保有せしめなかったのである。 原注一 ( 一六七〇年の ) 。この勅令の議事録の中に、このために持った諸勅令 (décret) と布ルロ (édit) によって表明した。だが、ロ 理由が見いだされる。 ( 訳注 ) ordonnance crimir 】 elle. フランス王の法令に マ皇帝は裁判官や私人に、その争訟について書面をもってか 三つある。ォルドンナンスは全国に下したもの、デクレは特殊的なもの。デ れらに質問することを許した。そしてかれらの返事は勅答 クララシオンは、前一一者の説明。ォルドンナンスに有名なものが幾多あり、 一六七〇年のは、」 用事訴訟に関するもので、刑事訴訟令という。 (rescrits) と呼ばれた。このようなことは、われわれの君主 原注二この法は一七〇二年十一月十八日発布のもの。 は行なわない。 ローマ法王の教令 (décrétale) は本来、勅答 訳注一 Novellae constitutiones Just のこと。フランスではたんに Novel- である。これは悪い種類の立法であることは明らかだ。この les という。先にユスチニアヌス帝はその法典 Digesta を編纂せしめたが、 さらに Novellae をつくってこれをおぎなった。 ようなやり方で法の助力を求める者は立法者にとって悪い案 訳注二三九五ー四三三の西口ーマ皇帝。 内人だ。事実はつねにゆがめられて陳述される。ュリウス・ 訳注三 Cas royaux ・従来の邦訳は「王の事件」 ( 王の裁判権に専属する事 カビトリヌスはいう、トラヤヌスはしばしばこの種の勅答を 件 ) とあるが、正確には元来藩主の裁判権に属した訴訟事件にして、国王の あたえるのを拒否した。それは、ある決定、しかもしばしば 裁判権に移されたもの。しだいに国王が奪ったものであるから「いつも国王 の判事が裁判した事件」なる辞句をつけ加えれば、全文がほとんどナンセン特殊な恩恵があらゆる場合に拡張解釈されるのを避けるため ォルドナンス こ 0

9. 世界の大思想16 モンテスキュー 法の精神

を焼かせた。帝は妻にいった。「わたしは皇帝だ。それなの拡がらない。 訳注一インドのポルトガル植民地の首都。 におまえはわたしをガリー船の船頭にする。もしもわたしが 貧しい人々の仕事までもやるならば、かれらは何によって暮 第二十一章君主政における貴族の商業について らしを立てうるであろうか。」帝は次の文句を付け加えるこ とができたことであろう。もしもわたしが独占をやれば、だ 君主政において貴族が商業を営むことは、商業の精神に反 ( 訳注こ れが阻止することができようか。だれが私の義務を履行する する。皇帝ホノリウスおよびテオドーズいわく、「それは都 ことを強制するだろうか。わたしが営むこの商売を、廷臣た市にと「て有害となろう。しかも、商人と庶民との間の売買 ちもやりたがるであろう。かれらはわたしよりもさらに貪欲の自由を奪うことになろう」と。 で、さらに不正であろう。人民は私の正義にたいして信頼を 貴族が商業を営むことは君主政の精神に反する。イギリス 持つ。わたしの富裕にたいしてはなんらの信頼も持たぬ。人において貴族に商業を許した慣行はこの国の君主政体を弱め ( 訳注二 ) 民の貧困の原因であるこんなに多くの税金は、わたしの貧困 るのに最も貢献した事物の一つである。 の確実な証拠だ、と。 訳注一前者 ( 三九五ー四二三 ) は後者 ( 三七九ー三九五 ) の子。 訳注一ビザンチンの皇帝、八二九ー八四一一。 訳注二モンテスキューの友人にして先輩、サン・。ヒエール神父はフランス の富国策として貴族がイギリスのごとく商業に従事すべきことを主張した。 第一一十章同じ題目のつづき 第二十一一章個人的考察 ポルトガル人とカスチリヤ人が東インドで支配力を持って ある国々で行なわれているところに感じて、フランスでも いた時、商業は非常に儲けの多い部門を持っていたので、か 貴族に商業をなすのを奨励する法があるべきだと考える人た れらの君主たちはその部門を手に収めることを忘れなかっ ( 訳注こ 。だが、そのおかげで世界のこの部分におけるかれらの植ちがある。それは商業にと「てなんの利益にもならないで、 フランス貴族を亡ぼす手段となるであろう。この国の慣行は 民地を荒廃させた。 ( 訳注一 ) きわめて賢明である。ここでは商人は貴族ではないが、貴族 ゴアの副王はある個人たちに排外的の特権をあたえてい 四た。このような連中を人民は全然信用しない。それで商業になりえる。かれらは貴族の現実的不便をもたないが、貴族 の身分をえる希望を持っている。かれらはその職業から外へ 第は、それを委される人が絶えず変わるため、中断される。だ ( 訳注一 ) 進出するには、それにいそしむか、それを名誉をもって行な れもこの商業を育てていこうとは考えす、後継者に無傷で引 ( 訳注三 ) うよりもより確実な方法はない。そしてこれは通常能力と結 き継がせようとも思わない。利潤は個人の懐に入り、ほかに

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ほかのものは放棄された。なぜなら諸種の変化が数世紀にわ たっておこったが、これらの特権はこれらの変化と相容れる ことができなかったのだ。 第四十四章証人による証拠について 慣行以外に他の規則を持たなかった裁判官は発生する各問 題において通常、証人によってそれを取り調べた。 決闘裁判が段々行なわれなくなったので、人々は文書によ る査問を行なった。しかし文書によって書きとめられた口頭 証拠はけっして口頭証拠以上のものではない。それはたんに 訴訟費用を増加するだけであった。そこでかかる査問の大部 ( 原注一 ) 分を無用とするような規定をつくった。公の帳簿が種々作製 され、そこに爵位・年齢・正嫡・婚姻等、大部分の事実が証 明されていた。文書は買収しにくい証人である。慣習法が文 書によって編纂された。これはいずれもまことに合理的であ った、すなわちビエールがポールのせがれであるかどうか は、長い査問によってこの事実を証明しようとするよりも、 洗礼登記簿でしらべて見るほうが容易である。ある地方に非 常に多数の慣行がある場合には、個々人に各慣行を証明する ように強制するよりも、それらを全部一つの法典に書き入れ るほうが容易である。最後に、百リーヴルを超える債務につ いては、文書による証拠の端緒なき限り、証人による証拠の ォルドナンス ( 訳注一 ) 受理を禁ずる有名な勅令がつくられた。 原注一年齢と血族関係の証明の仕方については、「律令集」第一篇第七一 章、第七二章参照。 訳注一これはシャルル九世の治世に一五六六年つくられたムーランの勅令 である。 第四十五章フランスの慣習法について 既述のごとく、フランスは不文の慣習法によって支配さ れ、しかして各藩領の特殊な慣行が市民法を形成していた。 ( 原注一 ) ホーマノワーレ : 、 各藩領は、 : ノ力しうごとく、各々その市民法を 持っていた。しかもこの法たるやきわめて特殊なものであっ て、この時代の知識しかも大知識とみなすべきこの著者は、 フランス王国の全土を通じてあらゆる点で、同一の法に支配 されている二つの藩領があろうとは信じないといっている。 このような驚くべき多様性には主たる一つの起源がある が、今一つの起源もある。第一の起源については、地方的慣 ( 訳山一 ) 習法の章においてわたしがそれについて述べたことを想起し ていただきたい。第二の起源については、決闘裁判における 種々なる事件のなかにそれを発見できる。決闘により継続的 におこる偶発事件は当然新たな慣行をみちびくべきであるか ら。 これらの慣習法は老人たちの記憶の中に保持されていた。 しかし徐々に法律や、書かれた慣習法が形成された。 日第三王統の始まりにおいて、国王は先にわたしがその ことを説明したような仕方で、個別的な特許状を、また、一 般的な特許状をさえあたえた。フィリツ。フ・オーギュスト王 エタブリスマン の規則集や聖ルイのつくった規則集がそれである。同様に、 ヴァッサル 大家臣はその配下の諸領主と協力して、かれらの公爵領また