危険 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想17 ルソー エミール
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1. 世界の大思想17 ルソー エミール

期を逸してしまっている。もうわたしの言うことは、彼の耳どんな点でこれからは彼が自力を恃むほかはないのかを、結 にはいらなくなっている。彼にとって、わたしという人間は局、彼がおかれている危機的な状況を、彼を取り巻いている うるさくて、憎らしく、片時も一緒にいたくない人間になる。 新たな危険を、そして、彼がその生まれはじめた欲望に身を 彼がわたしを厄介ばらいすることになるのも、さほど遠い先まかせる前に、心して自戒に努めさせすにはおかない、堅固 のことではないだろう。だから、わたしがとるべき理にかな な理由のすべてを、彼にはっきりと言ってやるべき時となっ った方針は、一つしかない。それは彼の行動については、彼たのである。 自身に責任をもたせることである。彼を保護してやるにして 成人を導いてゆくためには、あなた方が子供を導くために も、せいぜい思いがけもないあやまちにおちいらないように 行なってきたすべてのことと反対の考え方をしなければなら してやるだけにすること、そして、彼を取りまいている危険 ないということを忘れないでもらいたい。長い間、あれほど注 を、あからさまに彼に示してやることである。これまでは、 意を払って彼に隠してきたこの危険な秘密を彼に知らせるこ わたしは彼の無知を頼りにして彼を引き止めていたのだが、 とをためらってはならない。結局は彼がそれを知らなければ 今や明知によってこそ、彼を引き止めなければならない。 ならないものである以上、問題は彼がそれを他人から学んだ そういう新しい教えは重大なものだから、事柄を根本にさ り、自分で学んだりするのではなく、ただあなた方だけから学 かのぼって論じ直すのがふさわしい。今こそ、いわばわたしぶようにするということにある。これからは、彼はいやおう には彼に対する貸しがあることを示してやる時になったのでなしに戦わなければならなくなったのだから、不意打ちをく ある。彼とわたしの日課表を見せてやる時になったのだ。彼らいたくないのなら、彼は敵を知っておかなければならない。 が何者であり、わたしが何者であるのかを、わたしがしてき 自分でも知らないうちに、ただわけもなくそうした秘密に たことがどんなことであり、彼がしてきたことがどんなことついて物知りになっているらしい青年たちが、害毒を受けす なのかを、われわれがお互いの間にどんな義務を負っている にそうなったためしはけっしてない。そうした不謹慎な教育 のかを、彼の道徳的な関係のすべてを、彼が関わりをもった というものは、ちゃんとした目的がないので、なによりもま 約東のすべてを、人が彼と取りかわした約東のすべてを、そず、そうした教育を受ける者の想像を汚すことになり、彼ら の能力の進歩において彼がどこまで到達したのかを、彼はこをそうした教育を与える者の悪徳に染まりやすくする。それ れからどれだけの道のりを行かなければならないのかを、そばかりではなく、召使たちはそんなふうにして子供の心に取 こで出合うことになる困難を、それらの困難を乗り越えるべ り入って信用を手に入れ、子供の先生を陰気で堅苦しい人だ き方法を、どんな点でわたしはまだ彼を助けることができ、 と考えるように仕向けてしまう。そして彼らが内輪話で好ん

2. 世界の大思想17 ルソー エミール

になってやるといった程度のことにすぎず、それで事はすむも教育家でもほとんど同じようなことを口にするものだが、 と考えられる人がひとりならずあることだろう。ああ、人間 衒学者はそれを折りさえあれば口にするのに対して、教育家 の心情というものは、そんなことで導かれるものではないの はそれを言って効果があると確信がもてる時でなければ口に だ。人の言葉は言うべき時を計っておかなければ、なんの意しない。 味もないのだ。種を蒔く前には、土地を耕さなければならな 眠っているうちにさまよい歩き出す夢遊病者が、眠りなが 。美徳の種は、容易なことでは芽をふかないものである。 ら、とある崖っ縁を歩いているとき、突然目を覚まされたと そして、それを根づかせるには、長い手入れが必要なのだ。 したら、その崖下に落ちてしまうだろう。そんなふうに、わ 説教がもっとも無益なものとなるわけの一つは、見分けも選たしのエ ミールも、その無知という眠りのなかにいながら、 択もしないで、誰でもかまわずあらゆる人びとに説教をする 自分では気づかずにいる危険から免れているような状態にい ことにある。実にさまざまな気持で集ってきている、精神も るのだから、わたしがだしぬけに彼の目を覚まさせたりした 気質も年齢も性も身分も意見もまったく別々な多くの聴衆ら、彼はおしまいだ。まず、彼を崖から遠ざけてやることに に、同一の説教でもうまくゆくなどと、どうして考えること しよう。彼の目を覚まさせて、離れた所から彼に崖を見せて ができよう。すべての人びとを相手に語られるようなことがやるのは、それからの話だ。 自分の気持にびったりくるような人は、おそらく、そのうちに 読書、孤独、閑居、家に籠りがちなだらけた生活、女性や 二人とはいないだろう。それに、われわれの心の動きという 若い人たちとの交際。彼の年頃では、こうした小道を踏み分 ものは、実に定めないものであって、どんな人間でも、同じ けていくのは危険な仕事であって、彼は絶えず危難の際に立 話から同じ印象を受けるようなことは、おそらく、生涯に二 たされているのである。わたしは、まさにそうしたものとは 度とはないのである。燃えさかる官能が悟性を狂わせ、意志 別の感覚的な対象によって、彼の官能をだましてやることに をもっては抗しがたいカで荒れ狂うような時、それがおごそする。わたしは精気に別の流れ道をつけてやることによって、 かな知恵の教訓冫 ーこ耳を傾けるにふさわしい時であるかどうそれがたどりはじめていた流れ道の方向を変えてやるのだ。 か、考えてもみるがよい。だから、理性の時期においてさ骨の折れる仕事で、彼の肉体を鍛えてやることによって、彼 え、青年たちをまずそれが理解できるような状態にしてやっ をひきずってゆく想像力の活動を停止させてやるのだ。腕が てからでなければ、彼らにはけっして道理を説いてはならな さかんに働いている時には、想像力は休止する。肉体がひど 。無駄話に終わってしまう説話の大部分は、弟子の罪によ く疲れている時には、心はけっして燃えあがらない。一番迅 ってよりも先生の落度によってそうなるのである。衒学者で速で容易な予防法は、彼を危険区域から引き離すことである。

3. 世界の大思想17 ルソー エミール

ことなのだ。大事に育てられた子供のほうが、そうでない子のわざわいに対して備えてやらなければならない。というの 供たちよりも死ぬ率が高いことは、経験の教えるところであは、生命の価値は、生命が役に立っ年齢まで増していくもの る。限度を越えさえしなければ、子供の体力は用心して使わとすれば、幼年時代に若干の苦痛を省いてやって、理性の年 せないより使わせたほうが危険は少ない。だから、子供たち齢になった頃に苦痛をたくさんなめさせるとは、まことにば かげたことではないか。それが教師の教えることだろうか。 を、いつの日か耐えなければならぬ攻撃に対してきたえるが 人間の運命とはいついかなる時でも苦しむことである。自 よい。子供たちの身体を、季節や気候や自然のカの不順、餓 え、渇き、疲労に対して丈夫にしてやるがよい。彼らを冥府分の身を守るという心づかいそのものが、苦労と結びついて いる。幼年時代に肉体的苦痛しか知らなかった人は幸福だ。 の川につけるのだ。身体の習慣ができる前なら、思いのまま の習慣をなんの危険なくつけてやれる。だが、一度身体が固肉体の苦痛は他の苦痛にくらべれば、はるかに残酷でも苦し くもなく、そのためわれわれが生きることを断念するような まってしまうと、どんな変化も子供には危険となる。大人に は我慢できない変化でも、子供なら耐えるだろう。子供の筋こともはるかに稀だからである。痛風の苦しさにたえかねて 肉は軟らかくしなやかで、苦もなく与えられた曲がり方をす自殺する人はけっしていない。絶望をひき起すものは、ほと んど魂の苦痛だけだ。われわれは子供の境遇を憐れに思う るが、大人の筋肉は固いので、一度折り曲げられた方向は、 激しい力を加えないかぎりもう変えることはできない。だか が、実はわれわれの境遇こそ憐れむべきなのである。われわ ら子供はその生命と健康を危険にさらさなくても、頭健にすれの最大の苦痛の原因はわれわれ自身にあるのだ。 子供は生まれるとすぐに泣き声をあげる。子供の最初の幼 ることができる。さらにいくらかの危険があっても、ためら う必要はないだろう。それらの危険は人生にはかならすっき年期は、泣いてすごされる 3 人びとは時には子供をなだめよ ものの危険なのだから、一番不利でない時期にまわすよりほ うとして、ゆり動かしたりあやしたりすることもあれば、ま かに、やりようがないのではなかろうか。 た時にはだまらせようとして、おどしたりたたいたりするこ 子供は年を進めるにつれて、ますます価値を増してくる。 ともある。われわれは子供の気にいるようにしてみるかと思 子供自身の価値に、子供のために払われたさまざまな配慮の うと、われわれの気にいるようなことを子供に要求してみた 価値が加わる。自分の生命を失うということに対しては、死 りする。われわれが子供の気まぐれに従うか、子供をわれわ の感情が心の中に加わってくる。したがって子供の生命の保れの気まぐれに従わせるかする。つまり中間がなくて、子供 護を心がけるにあたっては、とりわけ未来のことを考えなけが命令するか、命令されるかしなければならない ' のだ。だか ればならない。子供が青年に達しないうちにこそ、青年時代ら子供の心に浮ぶ最初の観念は支配と隷属の観念である。子

4. 世界の大思想17 ルソー エミール

73 第四篇 の思い出、われわれが身につけた観念は、われわれに隠れ寥 険になるのだ。なぜならば、もう千回も述べてきたことだが、 まで追いすがってきて、われわれの意にそむいて、それらの 官能はただ想像によってのみ目覚めるものなのだから。官能 対象そのものよりもさらに誘惑的なイメージで隠れ家をいっ の欲求というものは厳密に言えば肉体の欲求ではないのだ。 ばいにし、孤独がいつもそこにひとりでいる者にとって有益 というのも、それをほんとうの欲求だとするのは正しくない からである。煽情的な対象がついぞわれわれの目を打っことであるのと同じ程度に、今度は孤独というものを、そこにそ うしたイメージを宿らせている者にとって有害なものにして がなかったとしたら、恥すかしい考えがついぞわれわれの精 しまうのである。 神に入りこむことがなかったとしたら、おそらくは、このい わゆる欲求なるものがわれわれに感じられたることはついに だから、青年はよく注意して見守ってやらなければならな なかったにちがいない。そして、誘惑も努力も〔誘惑を退けた い。彼は爾余のいっさいのものからは自分で身を守ることも という〕手柄もなしにわれわれはいつまでも純潔でいたことできようが、彼を自分から守ってやるのはあなた方の務め だろう。ある種の状況や、ある種の光景が青年の血のなか だ。昼も夜も彼を独りにさせておいてはいけない。少なくと に、なにか知らぬひそかな釀酵を喚び起すが、容易にはしすも、彼の部屋で寝てやるようにすることだ。彼が睡魔に襲わ めがたい。しずめても、すぐにまた生まれてくるこの最初のれてからはじめて床に入り、目が覚めたら即座に床を離れる 不安の原因は、青年自身にもわからないのだ。わたしとしてようにさせてやることだ。もはやそうしたことで甘んじては は、この重大な危機と、その近いまた遠い原因について熟慮 いられなくなったら、直ちに本能を警戒することだ。本能と すればするほど、人気のないところで、書物もなく、知識も いうものは、それだけが働いているかぎりは良いものだが、 教えられず、女性にも会わずに育てられる孤立した人間がい しかし、本能は人間がつくりだしたものに掛かり合うように . るとしたら、この人は何歳になっていても、童貞のままで死なると、もう信用できないものになる。本能はそこなっては ぬだろうということがし 、よいよ確信されてくるのである。 ならないが、規制しなければならないものなのだ。そして、 しかし、ここではその種の未開人のことが間題なのではなそのことは恐らく本能を殺してしまうこと以上にむずかしい 。ひとりの人間をその同胞の間で、そして社会のために育 ことなのだ。本能があなた方の生徒に自分の官能をごまか し、それを満足させる機会の埋め合わせをすることを覚えさ てようとする場合には、彼をいつまでもそういう願わしい無 せるようなことがあったら、それは非常に危険なことになる 知の中で育てることは不可能であるし、不適当でさえある。 そして、知恵にとっていちばん悪いことは、中途半端に物をだろう。ひとたびそうした危険な埋め合わせを知ったら、彼 知っているということである。われわれの目にうつった対象はもうだめになってしまうのだ。その時から、彼はいつも精

5. 世界の大思想17 ルソー エミール

の生徒に種痘を免除してやる根拠は、あなた方の生徒にはま乗るし、落ちないように身を支え、必要に応じて十分に乗り 1 ったくあてはまらないからだ。あなた方の教育は、生徒がやこなすのだ。ところが水中では泳げなければ溺れてしまうし、 がて天然痘にかかる時期に、それから逃れられないように彼泳ぎを学んでおかなければ泳けるものではない。要するに、 らを育てているようなものだ。もしも偶然にまかせて天然痘馬に乗らなければ生命の危険をおかすことになるというわけ にかからせるとしたら、生徒たちはおそらくそのために死ん でもあるまいし、また一方、人がしばしばさらされている危 でしまうだろう。わたしの見るところでは、さまざまな国で険から、誰も確実にまぬがれるともきまっていない。工、 種痘が必要になればなるほど、人びとはそれに反対している ルは水の中にいるときでも、地上にいるときと同じになるた が、その理由は容易にわかる。だからわたしはエミー ルのたろう。どんな原素の中でも、彼を生きられるようにしたいも めに、この問題をわざわざ論じようなどとは思わない。彼は のだ。かりに人間が空中を飛ぶすべを学べるとしたら、わた 時と場所と状況によって、種痘を受けたり受けなかったりすしはエミー ルを鷲にしてやりたい。もし火に耐えることがで ることになろう。それは彼にとってほとんど、どちらでもよ きるとしたら、いもりにしてやりたい。 いことなのだ。もし彼が種痘をうけるとすれば、われわれは 子供が泳ぎを習っているうちに、溺れはしないかと人は心 彼の病気をあらかじめ予知するとか、知るとかいう有利さが配する。泳ぎを習 0 ているうちに溺れようと、習わなかった あろう。それもよいことだ。けれども彼が自然に天然痘にか ために溺れようと、それはいずれにしてもあなた方が悪いの かるとすれば、われわれは彼を医者にかけないですむように だ。われわれを向こうみずにするのは、虚栄心だけだ。誰に . したことになろうし、そのほうがさらによいことなのだ。 も見られていないのに向こう見ずになる者はいよい。しかし 特権的な教育は、それを受けた人たちを、庶民から区別す工、、 ールはたとえ世界中の人から見られても、そんなことは ることに努めるだけで、いつももっとも普通の、それだから ないだろう。練習の効果は危険のあるなしには関係しないの こそもっとも有益な訓育よりも、もっとも費用のかかる訓育 だから、彼は父親の庭園の用水堀で、ヘレス卍ント海峡を横 のほうを好んでいる。そんなわけで、手をかけて教育された断することを学ぶだろう。だが危険にあわてないことを心得 若者たちは、みんなひじように多くの費用がかかるというの ておくために、危険そのものに慣れなければいけない。 これ で、乗馬を習う。しかし彼らのうちほとんど誰ひとりとして はわたしがついさきほどのべた、習い覚えることの本質的な 泳ぎを学ばない。それにはまったく費用がかからす、職人だ部分である。その上彼の体力に応じて危険の度合いをはか ってどんな人にも劣らないくらいよく泳げるからである。し り、いつも彼と危険をともにするように心がけているわたし かし馬術の教習所に通ったことがなくても、旅行者なら馬に は、自分の身の安全のためになすべき配慮に合わせて、彼の・

6. 世界の大思想17 ルソー エミール

ニュはモロッコのある王について、「どんな人間もこれほど な遊びにおいても、他の場合では涙をポロポロ流さないでは 我慢できないようなことを、不平もいわずに、笑いながらで死の中に深く生きたものはなかった」といったが、まさにこ ういう人についてこそそういってもよかっただろう。しつ、 、刀 さえ我慢するものなのだ。長い絶食、打ち傷、やけど、あら ゆる種類の疲労も、若い未開人たちの楽しみごとになる。苦りして変らぬ心と力強い態度は、他の美徳と同じように、子 しみそのものにも、その苦味を取り除くことのできる調味料供の時に習い覚えなくてはならないことである。しかしそれ らの美徳は、ただその名前を子供に覚えさせて教えられるも が、そなわっている証拠だ。しかしそういうご馳走をつくる 芸当が、すべての先生にできるわけではないし、またおそらのではない。子供たちがその何物かを知らなくても、それら く顔をしかめずに、それを味わうことが、すべての生徒にでを味わわせることによって教えこむのである。 しかし死ぬことといえば、天然痘の危険について、われわ きるわけでもなかろう。ここでわたしがうつかりしている と、またもや例外の中に迷いこんでしまうことになる。 れの生徒をどう扱ったらよいか。幼年のうちに種痘してやっ それにしても、我慢のならないことは、人間が苦痛や、人たらよいか。それとも自然に種痘にかかるのを待ったらよい か。第一のやり方は、われわれの習慣には一致していて、生 類共通の不幸や、事故や、生命の危険や、さらには死に屈服 してしまうことである。人間をそれらすべての観念に慣れさ命がそれほど貴重でない年頃に危険をおかして、生命がもっ せれば慣れさせるほど、苦しみの上にさらにそれを耐え忍ぶとも貴重な時期を危険から守るわけである。もっとも正しく というやり切れない気持をつけ加えるあの厄介な敏感症か処理された種痘を、危険と呼ぶことができるとしてのことで ら、それだけ人間は癒されることになるだろう。そして自分あるが。 におそいかかるかも知れない苦痛に人間を慣れさせてしまえ しかし第一一のやり方のほうが、われわれの一般的な原則に ば、モンテーニュがいったらしいように、それだけ苦痛から いっそうかなっている。それは自然が自分だけですることを 未知という針の先を取り去り、それとともに人間の魂をなに好み、人間が干渉しようとするやいなや、すぐに手を引いて ものにも傷つけられない、堅固なものにすることができょ しまう世話を、なにごとにつけても自然にまかせることであ う。彼の肉体は鎧となって、生身に打ちこまれるかも知れな る。自然の人間はつねに準備ができている。だから、この自 、あらゆる矢を防ぐことになるだろう。死期が近づいても然という先生に種痘をさせることにしよう。この先生はわれ 第 それは死ではないのだから、彼はそれを死とはほとんど感じわれよりはうまくその時機を選ぶだろう。 1 なくなる。彼はいわば死ぬことはないだろう。生きているか だからといって、わたしが種痘を非難しているのだと結論 死んでいるかで、ただそれだけのことだろう。同じモンテー したりしないでいただきたい。なぜといって、わたしが自分

7. 世界の大思想17 ルソー エミール

225 第四篇 に、しいて答えなくてもよい問題は、それを質問する者をだれることになると予想される状況などによって大きく支配さ ますことを必要としない。 うその答えをするよりは、黙らせれる。ここで大切なのは、なにごとも偶然に任せないことだ。 たほうがよい。どうでもよいような事柄については、子供をもし十六歳になるまで性の違いということについて子供にな にも知らせずにおくことに自信がもてなければ、十歳までに 黙るという掟に従わせるように心がけていれば、子供はそう それを教えてやるように心がけるがよい。 いう掟に馴れて、別に意外とも思わなくなるだろう。結局、 もし答えてやろうと決心したときには、できるだけ率直に答 事物をそのほんとうの名称で呼ぶのを避けて、子供に対し え、いわくありげなようすをしたり、困ったふうをしたり、 てわざと上品すぎる言葉を使ったり、子供にはすぐ気づかれ 微笑を浮べたりしないことである。子供の好奇心は、刺激すてしまうのに、遠まわしのもって廻った表現をするのをわた るより満足させてやったほうがはるかに危険が少ない。 しは好まない。醇風美俗は、こういう事柄にかけては、いっ もきわめて単純、率直なものである。ところが、悪徳によっ 答えはいつでもまじめで、簡潔で、きつばりとしたもので て汚された想像力は、耳を敏感にし、たえず表現に無理な凝 なくてはならない。けっしてためらったようすを見せてはな り方をする。組野な言葉を使っても、たいしたことにならな らない。なお、言うまでもなく、答えは真実を告げなくては 、。みだらな観念こそ遠ざけるべきである。 ならない。大人にうそをつくことが危険だということを子供 に教えようとすると、大人のほうでも、子供にうそをいうこ 羞恥心は人間にとって自然なものであるにしても、子供が とがいっそう危険なことだと感じないではいられない。教師生まれつき持っているものではない。羞恥心は悪を知っては : たった一つでもうそをついたことが生徒にわかれば、それじめて生まれるものだ。ところで、子供は悪については知ら までの教育の成果はすべて永久に台なしになろう。 ないし、また知るはすもないのに、その知識の結果であるこ の感情をどうして持っことがあろう。子供に羞恥心をもてと ある種の事柄については完全に無知であるということが、 かりつばな行ないをせよとかと教えることは、恥すべきこ 子供にとって多分一番ふさわしいことかも知れない。しか し、いつまでも隠しておくわけこよ、 冫。し力ないことは、早くか と、不徳義なことが世の中に行なわれていることを教えるこ とになり、そういうことを知りたいというひそかな欲望を起 ら教えたほうがよい。どうしても好奇心が目覚めないように するか、それとも、危険が避けられなくなる年頃に達しない させることになる。子供は晩かれ早かれその望みを達する。 うちに、好奇心を満足させてやるか、どちらかにしなければそして想像力に触れる最初の火花は、官能の燃え上る速度を ならない。 この点において、生徒に対するあなた方の扱い方確実に早める。顔を赤らめる者は誰でも、すでに罪を犯して は、生徒の個人的な境遇、彼を取り巻く社会、将来彼がおか いるのだ。ほんとうに純真な者は恥すべきところはなにもな

8. 世界の大思想17 ルソー エミール

上のことである。というのは、この技術はわれわれに手当をら、その時には、医者は彼を殺す以上に悪いことは何もでき 命じることによってわれわれを社会から引き離し、恐怖を与ないからである。 医者がこういう手おくれを抜け目なく利用するということ えることによって義務から遠ざけるからである。われわれは は、わたしもよく知っている。子供が死ねは、医者を呼ぶの 危険を知るからこそ、危険を恐れるのだ。自分を不死身と思 う者は、何物をも怖れない。危険に対してアキレウスを武装がおそすぎたからだというわけだし、子供が助かれば医者が させたために、詩人は彼の勇気を値打のないものにしてしまそれを救ってくれたことになるだろう。それもよかろう。医 った。同じ代償を払えば誰でも彼に代わってアキレウスにな者は得意になるがよい。だが、何をおいても、どたん場にな らなければ、医者を呼ばないようにしたい。 れたであろう。 ほんとうに勇気のある人物を見つけたいと思うなら、医者 子供は自分で病気をなおすすべを知らないのだから、病気 この技術は医 の全然いないところ、人びとに病気の結果が知られていない の時どうしているかを知らなければならない。 ところ、ほとんど死など考えられないところを探すがよい。 術の代わりになり、しばしばはるかによい効果を生んで 自然のままでは人間は毅然として耐え忍ぶことを知り、心静る。それが自然の技術である。動物は病気の時、だまって我 かに死んでゆく。人間の心を堕落させ、死に方を忘れさせる 慢して、じっとしている。ところで、人間ほど無気力な動物 のは、処方を下す医師と、訓戒をたれる哲学者と、説教をすは見あたらない。病気には助かったはずの、とくに時さえた る神父たちなのである。 てば治ったはすの人が、焦慮と恐怖と不安のために、とりわ わたしには、そういう人たちをいっさい必要としない生徒け薬のために、どれほど多く殺されたことだろう。動物はも を与えてもらいたい。でなければお断わりだ。わたしは自分っと自然にかなった生き方をしているのだから、当然われわ の仕事を、他人にこわされたくない。わたしはひとりで教育れのようには病気にかかりやすくないのだ、というだろう。 をしたい。そテでなければ手を出したくない。生涯の一部をところでその生き方こそまさに、わたしが生徒にさせたいと 医学の研究にすごした賢人口ックは、予防のためにも軽い病思っている生き方なのである。そうすればわたしの生徒も、 篇気のためにもけっして子供に薬を飲ませないようにと熱心に動物と同じ利益を得るに違いない 医学のうちただ一つ役に立っ部門は衛生学である。しかも 一すすめている。わたしはさらに進んではっきりといおう。自 第分のためにはけっして医者を呼ばないのだから、わたしの = 衛生学は学間というよりはむしろ美徳といったほうがよい。 ールの命が、明らかに危険な状態にならないかぎりは、わ節制と労働の二つは人間の真の医者である。すなわち労働は たしは彼のためにけっして医者を呼ばないつもりだ。なせな食欲を促進し、節は行きすぎを制止する。

9. 世界の大思想17 ルソー エミール

想の教師を『エミ ール』で描くことになったとしてもふしぎ司祭の信仰告白ーは、この部分の権成ある校訂版を刊行した , 冫十 / し 6 よよ、。ルソーは一七五二年以来、教育についての思索を断マソン ( p. ・ M. Masson, éd 三 on critique de Profession de fo 二 片的に書きつづけ、それを後に『エ、、 ール』のなかに挿入し ', 1914 ) によれば、決定的な形をなったのは、一七五 たが、ほんとうに著作の計画を立てたのは、一七五七年の末五年末か、一七五八年の初めで、元来『エ、、 ール』の一部と 頃までである。現存する『エ、、 ール』の自筆原稿は三つあっ して書かれたものでないということだが、これを『エ ル」の本質的な一部として書かれたとみるラヴィエ (). Ra ・ て、ファー・フル原稿とジマックの名づける最初の原稿は、前 にふれたように一七五八年末頃に書き始められ、書き直し、 vier, Education de l'homme nouveau. 1941 ) や前記ジマッ クの説もある。 訂正などの多い乱雑な草稿だが、他の二つは入念な写稿で、 内容的に最初のものと甚だしく違っている。最初の草稿は今 こうして一七六〇年、原稿完成後、ルソーは原稿を保護者 日ジャンⅡジャック・ルソー協会に保管され、第二の原稿は リュクサンブール夫人に預けた。 / 。 彼よすでに出版の危険性を リの議会図書館に、第三のコアンデ原稿といわれるもの 心配して、国外 ( オランダ ) で印刷することを主張したが、 は、ジュネーヴ図書館に保管されている。この最後のもの夫人は検閲についてことのほか楽観していた。アンシクロペ ディストに同情を示し、ルソーにも好感をよせていた司法官 が、初版にもっとも近く、これが基本となる原稿である。 1 も、レノ マルゼルブーー当時出版・検閲も監督していた 『告白』によれば、一七五九年五月にリ、クサンブール元帥 ーがもっとも危険を感じていた「信仰告白」を人類の承認を のモンモランシーの邸内で、最後の第五篇を書きあげたこと になっているが、ジマックは、全篇の原稿を「完成ーしたの得るにふさわしいなどと確言したので、ルソーとしては危懼 は、一七六〇年の十月初めとみている。初版にあってコアンを申し立てる理由もなくなったが、彼はなお国外出版を主張 していた。そして、結局、三人の出版者デュシェーヌ、デ デ稿に欠けているものは、ルソーが ( コアンデ ) 原稿を渡し ネオームの間の複雑な商取引の結果、出版は たあとで、印刷屋に別々に送ったものらしく、「序文」も校 ほぼ同時にパリとオランダで行なわれることになった。。ハ 正につけ加えたようである。フォルメーに関する注などは、 あとでデュ ・ペールー版 ( 一七八〇ー二年 ) になって加えられ版はデ = シェーヌの手でオランダの出版者ネオームの名で一 た。今野一雄氏の御教示によれば、初版以後追加された注七六一一年五月二十日に発行された。オランダ版の版元も、同 じネオームであった。パリ版 ( デュシェーヌ版 ) には、八つ折 は、十九個所もある。 ( 例えば、本書原注、二、四、五、七、一 九、三三、四一、四六、五〇、五一、五二、六〇、六一、 六三、七り版と十一一折り版があり、ふつう。 ( リ版が初版とみなされて 一、七四、七五、八八など ) また、第四篇の「サヴォアの助任 いるが、初版の決定にはいまだに問題があるようである。そ ュ

10. 世界の大思想17 ルソー エミール

ば、テティスはその息子を不死身にしようとして、冥府の川 のりつばな母親たちに約東してもよい。あなた方は夫からは いつも変らぬ頼もしい愛着を受け、子供たちからは真に息子に投げこんだという。この寓意は見事で明白だ。わたしの いう残酷な母親たちは、そんなことはしない。彼女たちは らしい愛情を注がれ、世間の人からは尊敬され、事故も余病 も伴わない幸福な出産をし、根づよいたくましい健康を保子供を柔弱におとしいれて、将来、苦しませるための用意を ち、そしていずれは自分の娘たちからは見ならわれ、他人のしているようなものである。そして子供たちが大きくな 0 た 娘たちからはお手本として引き合いに出されるよろこびを味ら必ず悩まされる、ありとあらゆる苦痛に気孔を開いてやる のだ。 わうだろう。そういうことを約東してもよい 自然を観察するがよい。そして自然の示す道にしたがうが 母親がいなくなれば、子供もいなくなる。両者の間では、 義務は相互的である。もしも一方がそれをいい加減に行なえよい。自然はたえず子供たちをきたえる。あらゆる種類の試 ば、他方もそれを怠るだろう。子供は母親を愛さなければな練によ「て、子供の体質を丈夫にする。自然は早くから子供 らないということを知る前に、愛していなければならない。血たちに、苦労と苦痛がなんであるかを教える。すなわち歯が 肉の声も習慣と配慮とによ 0 て強められなければ、最初の数生える時には熱を出し、鋭い腹痛はけいれんを起させ、長い 咳はのどをつまらせ、虫には苦しめられ、多血症は血液を腐 年で消えてしまい、愛情はいわば生まれる前に死んでしまう。 敗させ、さまざまな酵母が体内に釀酵して、悪性の吹出物を こうしてわれわれは第一歩から、自然の外に出てしまう。 さらに反対の道から自然の外にとび出すことがある。それ作る。最初の幼年期はほとんど病気と危険ばかりの時期であ り、生まれてくる子供の半数は八歳までに死んでしまう。こ は母親の配慮を怠るのではなくて、極端に世話をやきすぎる の試練がすむと、子供は力を身につけたことになる。そして 場合である。つまり、そんな母親は子供を偶像あっかいに し、子供の弱さを本人に感じさせまいとして、かえ 0 て弱さ彼が生命力を使えるようになるや否や、生命の根源はい「そ うしつかりしてくる。 をつのらせ、かばいそだてる。また、子供を自然の法則から これが自然の法則である。あなた方はなぜそれに逆らうの まぬがれさせようと望んで、つらい苦しいことから子供を遠 篇ざけるが、その時、彼女は一時いくらかの不快から子供を守だろう。あなた方は自分では自然を矯正しようと考えなが 一「てや 0 た代わりに、将来どれ程の事故と危険とを子供の身ら、かえ 0 て自然の仕事を破壊し、自然の配慮の効果を邪 第に積み重ねることになるのか、そしてまた、いつまでも幼時のしているのがわからないのだろうか。自然が内側からするこ 弱さを長引かせて、大人にな 0 た時に苦労させるのが、どれとを外側から行なうのは、あなた方によれば危険を倍加する 程愚昧な用心であるかを考えもしないのである。神話によれことだというが、実はその逆で、危険をうまくさけ、弱める スチュクス