子供たち - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想17 ルソー エミール
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1. 世界の大思想17 ルソー エミール

ず予防が容易でない誤りは、まるで子供たちがひとりでは話人にそのことを尋ねてみても、みんな同じような錯覚に陥っ ている。 せるようにならないとでも心配しているかのように、あまり なぜこんな錯覚に陥るかといえば、都会の子供たちは、五 急いで子供に話させようとすることである。そんなにさし出 がましいせつかちなやり方は、求めているのとまさに正反対歳か六歳まで部屋のなかで付き添いの女に見守られて育てら な結果をひき起すことになる。そのため子供たちはロをきくれ、自分のいうことを理解してもらうためにはロの中でもぐ もぐいうだけでよいからである。彼らがちょっとでも唇を動 ようになるのが遅れ、混乱した話し方をする。子供たちのい かせば、相手はすぐにそれを聞こうと骨折ってくれる。また うことにあまり注意しすぎると、子供たちははっきりと発音 して言葉をいう必要がなくなる。そして彼らはほとんど口を彼らはうまく言えない言葉を口授してもらう。そして同じ人 たちがたえずそばにいて子供のいうことに注意しているのだ 開こうとしないものだから、そのなかの多くのものは、一生 涯、発音の欠陥とあいまいな話し方を持ち続け、そのため彼から、子供たちがい 0 たことというよりは、むしろいおうと したことを推察してしまうのである。 らの話はほとんど理解できなくなってしまう。 田舎では事情はまったく違う。農家の婦人はたえず子供に わたしは長い間農民たちの間で暮らしたことがあるが、男 つききりになってはいない。子供は母親に聞いてもらう必要 でも女でも、女の子でも男の子でも、の発音の悪いのはま だ聞いたことがない。それはなぜであろうか。農民たちの発のあることを、非常にはっきりと大きな声でいうことをいや 音器官はわれわれのとは違った構造を持っているのだろうでも覚えなくてはならない。野良では、子供たちは父親から か。そうではなくて、違ったふうに訓練されているのだ。わも母親からも他の子供たちからも遠く離れて散らば 0 ている たしの部屋の窓の向こうに丘があって、その上には土地の子ので、自分の声が遠くにいる人にも聞えるように、また聞い てもらいたいと思う人たちからの距離に応じて、声の強さを 供たちが遊びに集まってくる。ここからかなり離れているの 加減するように練習する。これこそ真に発音を学ぶ方法であ にもかかわらす、彼らのいうことはわたしには完全に聞き分 って、注意深く聞いている付き添いの女の耳もとで、いくっ けられるし、彼らの話を聞きながらしばしばこの著作のため かの母音をどもりながらいってもだめである。だから農家の に、役にたっメモを取っている。毎日、わたしの耳は、彼ら の年についてわたしに思い違いをさせる。わたしには十歳の子供は人から尋ねられると、はずかしがって答えられないか も知れない。しかし口に出していうことは、はっきりと 子供の声が聞えるので眺めてみると、三歳か四歳の子供の背 う。ところが町の子供になると、子守の女が通訳を勤める必 丈と顔立ちが眼にうつるといったぐあいだ。こうした経験は わたしだけに限ったことではない。わたしに会いに来た町の要がある。そうでないと、子供がロのなかでもぐもぐいってい

2. 世界の大思想17 ルソー エミール

この場合、権力という一一一口葉が、合法的な権力、したがつわれわれはその場合、事実と権利とを区別することになる 9 だからわれわれはこう尋ねよう。彼らは強制されたからでは て、その存在を負うている法に従っている権力とは違ったも のを意味しているのか。 なく、欲したからこそ、兄や、伯父や、あるいは親族の者に . 服従したのだから、このような社会は、必ず自分の意志によ こういうカの権利というものを認めず、自然の権利、つま り父親の権威を社会の原理として認めることにするなら、わる自由な結合体に帰着するのではないか、と。 れわれは次のようなことを研究しよう。その権威の及ぶ範囲 次に奴隷を設ける権利に移って、われわれはこういうこと はどのくらいか。それはどういうぐあいに自然の中に根拠をを調べよう。人間がなんの制限も、保留もせずに、どんな種 持っているのか、その権威には、子供の利益、子供の無力、 類の条件も設けずに、ほかの人間に自分を譲り渡すのが正当 父親が子供に対して抱く自然の愛情、こういうもの以外に別 なことであり得るのか、すなわち人間は、彼に自己保存の責 の根拠があるのだろうか、したがって、子供が無力でなくな 任を直接に負わせている自然の意志に反して、また、なにを り、その理性が成熟するようになれば、子供はなにが自己保しなければならないのか、なにをしてはならないのかを彼に 存に適するかの唯一の自然の判定者、したがって自分自身の 命じている良心と理性にそむいて、自分の一身、生命、理性、・ 主人となるのではないのか。そして、他のどんな人間から「自我」、自分の行動におけるいっさいの道徳性を放棄する、 も、自分の父親からさえも独立するのではないのか。という一言で言えば、死ぬ前に生存することをやめてもよいものな のは、父親が息子を愛することが確実な以上に、息子が自分のか。 自身を愛することは確実なことなのだから。 かりに隷属という行為になんらかの保留、なんらかの制限 があるとすれば、その場合、この行為はまさしく一つの契約 父親が死んだとき、子供たちは、父親ほど自然な愛着を自 なのであって、その契約においては、二人の契約者はその資 分たちに持っていない、長子あるいはだれか別の人に従わな ければならないものなのか。そして子孫から子孫へと、いっ格の点で、共通の上位者を持たないのだから、その契約の条・ 件については各自は依然として自分の利害の判定者であり、 もひとりの家長がいて、家族の者はみなその家長に服従しな したがって、この契約をとり決める場合にあたってどちらも ければならないのか。その場合には、どんなふうに、権威が 分割され得るのか。そして、どんな権利によって、地上全体自由なのであり、自分の権益が侵害されたと考えればすぐに いく人もいるこその契約を破棄することもできるのではないか。そういうこ ~ には、人類を統治する首長がひとりでなく、 とをわれわれは検討してみよう。 とになるのか、それを研究することになろう。 そこで、奴隷といえどもなんの保留もしないで主人に自分 諸国の人民は選択によって形成されたものと仮定すれば、

3. 世界の大思想17 ルソー エミール

1 物 故 ( イド卿から聞いた話であるが、彼の友人のひとりが三 に提供する。彼が弟子に教えることが人の目に容易に見えさ えすればよいので、それが役に立つかどうかはどうでもよ年間家を留守にした後、イタリアから帰「てきて、九歳から し。彼は見さかいもなく無差別にわんさと雑駁なものを弟子十歳になる息子の進歩ぶりを試験してみようと思「た。ある の記憶に詰めこむ。子供を試験することになると、彼にその夕方、家庭教師と子供と一緒に散歩に出かけて、学校の子供 組悪品を陳列させる。子供がそれを拡げてみせると、人は満たちが凧をあげて遊んでいる野原にや「てきた。父親は歩き ながら息子に向かっていった。「あそこに影のうつっている 足する。それから彼は荷物をしまって、行ってしまう。わた しの生徒はそんなにもの持ではない。彼は拡げて見せるよう凧はどこにあるのかね。」すると子供はためらわず、頭も上 な包みは持「ていないし、自分自身のほかにはなにも見せるげずに「街道の上です」とい「た。「そして実際、街道は太 ところで大人だ 0 て同じだが、子供は一目でそ陽とわれわれの間にあ「たのです」と ( イド卿はつけ加え ものがない こ。父親はこの言葉を聞くと息子を抱擁し、試験はそれで止 の人間がわかるなどというものではない。子供の性格を表わナ / めにして、なにもいわずに立ち去った。その翌日彼はその教 すいろいろな特徴を、いきなり一目でつかむことのできるよ うな観察者など、どこにいようか。いることはいるが、ほん師に俸給のほかに終身年金の証書を送 0 た。 その父親はなんというりつばな人だろう。そしてなんとり の僅かしかいない。十万人の父親のうち、その数に入る者は つばな息子が彼に約東されていたことか。この質問はまさに びとりもいないだろう。 その年蛉にふさわしい。そして返事はきわめて簡単である。 あまりたたみかけて質問をすると、誰でもうるさがってい しかしそれは、どんなに明確な子供の判断力を想像させるも やになってしまうものだ。子供たちはなおさらである。何分 とんな調馬師も乗りこなすことが のか考えていただきたい。。 かたてば、彼らの注意力は疲れ、しつつこい質問者の尋ねる できなかった名高い駿馬を、アリストテレスの弟子が飼い馴 ことをもう聞こうとはせず、いい加減な返事しかしなくな らしたのも、こんなふうだったのである。 る。こんなやり方で彼らを試験するのは、無益であり学者ぶ ったことである。す早くとらえた言葉の方が、長いおしゃべ りよりは、しばしば彼らの分別や才気をよく描いてみせるこ とがある。もっとも、この言葉が人に教えられたロうっしの ものであったり、偶然のものであったりしないように注意し なければならない。子供の判断力を評価するには、自分自身 でゆたかな判断力を持っていなくてはならない。

4. 世界の大思想17 ルソー エミール

やせた狼と太った犬の寓話では、子供は、作者が教えるつ ねに作者の意図とは反対のあてはめ方をすることにあなた方 もりでいる節制の教訓ではなくて、放縦な態度を学ぶ。わた は気づくだろう。すなわち子供たちは、作者が改めさせたり 予防してやったりしようとしている欠点について反省するどしはいつも従順であれと説教されていたある女の子がこの寓 ころか、他人の欠点を利用するというような悪徳をとかく好話を読まされて悲しくなり、ひどく泣いているのを見たこと むようになるのだ。さきの寓話では、子供はからすをあざ笑があるが、わたしはそれをけっして忘れないだろう。その女 の子の涙の原因は容易には知れなかったが、ようやくわかっ うが、みんな狐が好きになる。つぎの寓話では、あなた方は た。かわいそうにその子は東縛されているのがいやでたまら 子供に蝉を反省の種に示したつもりでいる。ところがけっし てそういうふうにはならない。子供は蟻のほうをえらぶだろなかったのだ。彼女は首輪で首すじがすり切れているような う。人はだれでも謙遜するのはきらいだ。だから子供たちは感じがしていたのだ。そして狼になれないのが悲しくて泣い アムール・プロプル ていたのだ。 いつもはなやかな役割をひきうける。それは自尊心が行な こんなわけで、さきに引用した最初の寓話の教訓は、子供 う選択で、きわめて自然な選択なのだ。ところでこれは子供 にとっては何というおそろしい教訓だろうか。あらゆる怪物にとっては、もっともいやしいへつらいの教えであり、第二 のうちでもっともいとわしいものは、欲ばりで情知らずの、 の寓話は不人情の教え、第三のは不正の教え、第四のはあて 相手が自分になにを要求しているかも、自分がなにを拒絶すこすりの教え、第五のは独立の教えである。この最後の教訓・ るかも心得ているような子供だ。蟻はもっとひどいことをすはわたしの生徒には余計なものだが、だからといってあなた る。拒絶したうえに相手をからかうことを、子供たちに教え方の生徒にも適当なものとはいえない。あなた方は生徒にた ているのだ。 がいに矛盾する教訓を授けていたのではあなた方の世話から・ ライオンが登場人物として出てくるすべての寓話では、ふ いったいどんな成果を期待できようか。しかしそれは別とし つうそれが一番華々しい役割を演じているので、子供は必すても、わたしにとって寓話に反対するために役立っこういう ライオンの役を買って出る。そしてなにかの分配に主役をつ教訓はすべて、おそらくそれと同じように寓話を守り続ける 篇とめる時には、自分のお手本をよく見習って、彼はなにもか ための理由をも提供しているだろう。社会では言葉の上の道 二も手にいれようと大いに気を配る。しかし蚊がライオンを倒徳と実践上の道徳とが必要である。ところがこの二つの道徳 第す場合は、事情が変わってくる。今度は子供はもうライオン は少しも似ていないのだ。前者は教理間答の中にあって、人 ではなく、蚊になる。彼は堂々と攻撃できない人たちを、 びとはそのままにして手をふれない。後者は子供用としては つか針で刺し殺すことを学ぶのである。 ラ・フォンテーヌの寓話の中にあり、母親用としてはそのコ

5. 世界の大思想17 ルソー エミール

番よい乳母というのは、つねに産科医に一番たくさん金をの不調和は体液の不調和と同じように、乳を悪くすることが ルの乳母ありうる。その上肉体にだけ気を取られることは、ものの一 くれた乳母のことである。だから、わたしはエミー を求めて、産科医に相談したりしないだろう。わたしは自分面しか見ないことだ。乳がよくても乳母が悪いこともあり得 で注意して選ぶつもりだ。その点については、わたしは多る。よい性格はよい体質と同様に大切なことである。邪悪な 女性を選べば、乳呑児にその邪悪さが伝染するとはいわない 分、外科医みたいに雄弁をふるって議論なぞしないだろう。 が、そのために苦しむだろうといっておこう。乳母は子供に しかし間違いなくわたしの方が誠実であり、またわたしの熱 対して乳とともに、熱意と忍耐とやさしさと清潔とを必要と 意のほうが彼の貪欲よりも、わたしを誤らせることは少ない する世話を与える義務があるのではなかろうか。もしも乳母 、、ころう。 が食いしんぼうだったり、不節制だったりすれば、たちまち この選択はそれほど深い秘訣ではない。選択の標準はすで 、乳の時期にもその乳は悪くなってしまうだろう。また、怠慢だったり、怒 に知られている。しかし乳の質と同じように りつ。ほかったりすれば、身を守ることも不平を訴えることも う少し注意を払うべきかどうかは、わたくしはわからない 新しい乳はまったく水つ。ほい。それは生まれたての子供の腸できない憐れな子供は、彼女の意のままにされてどうなるだ ろうか。ことのいかんを問わず、悪人というものはよいこと にある濃い胎便の残りを掃除するための、いわば食欲増進の 飲物であるはずだ。母乳は少しずつ濃さを増していって、そには、なんの役にも立たないのである。 乳呑児は養育者〔教師〕のほかに教師をもってはいけない れを消化できるほど前よりも強くなった子供のために、 ように、乳母のほかに養育する女がいてはならない。それだ そう実質的な栄養を提供する。あらゆる動物の牝の場合、自 然が乳呑児の年齢に応じて乳の濃さを変えるというのは、たけに乳母の選択はますます重要である。これはわれわれほど 理屈つ。ほくはないが、もっと賢明だった古代人たちの習慣で しかに意味のないことではない。 だから、生まれたばかりの子供には、最近お産をした乳母ある。乳母は女の子に乳を与えた後も子供から離れなかっ た。古代の演劇で、聴き役女の大部分が乳母なのはそのため が必要だろう。これは面倒なことだ。それはわたしも知って 篇 いる。しかし自然の秩序からはすれるやいなや、うまくやろである。つぎつぎにちがった人たちの手に渡る子供が、よい 一うとすれば、何事によらず面倒が起る。たった一つの手軽な教育をうけるなどということは不可能である。人が変るたび ごとに子供はひそかに比較をする。それはともすれば養育す 第便法は、下手にやることだ。それがまた誰でも選ぶやり方な のだ。 る人に対する尊敬を失わせ、したがってその人たちの権威を 乳母は身心とも健康な者でなくてはならないだろう。情念も失わせがちになる。もし一度でも子供が、自分と同じ程度

6. 世界の大思想17 ルソー エミール

なしで乳を飲むことができるのである。乳が分離したり凝固こみ、生まれたばかりのからだに強く影響して、けっして消 したりするのを心配する人がいる。だがそれはばかげたことえることのない刻印を残す。したが「てわたしは、農村の女 性を都会に連れてきて部屋に閉じこめ、そこで子供を養育さ だ。乳は胃のなかでかならず凝固することがわかっているか せるという意見には賛成できない。彼女が都会の悪い空気を らだ。そうなってこそ乳は、子供や動物の仔を養えるだけの、 吸うよりも、子供が田舎へ行ってよい空気を吸うほうがよい 実質的な食物となるのである。乳が少しも凝固しなければ、 と思う。子供はその新しい母の境遇をうけいれ、その田舎家 それはからだのなかを通過するだけであって、栄養にはなら この教師 に住み、教師もそこまで子供についてゆくがよい ないだろう。いろいろな方法で乳をうすめたり、さまざまな は金でやとわれた人間ではなく、父親の友人であることを読 吸収剤を用いてもむだである。乳を飲む子供ならみなチーズ を消化する。例外なしにそうだ。胃は乳を凝固させるように者はよく覚えておられるだろう。しかしその友人が見あたら ない場合、田舎へ移ることも容易でない場合、あなたがした 実にうまくできているので、凝乳酵素が仔牛の胃で作られる いとすすめることも何一つできない場合、その代わりにどう ほどである。 だから、わたしは、乳母の平常の食物を変えないで、同じすればよいのか、と人はいうだろう。わたしがすでにい「た ように、あなたが今しているようにすればいいのだ。それに ものをもっと豊かに、もっとよく選んで与えれば十分だと思 対して忠告する必要はない。 う。肉なしの料理が便秘を起すのは、食物の本来の性質によ 人間は蟻のように積み重なって生きるようにはつくられて るものではない。食物が不健康になるのは、ただ調理法のせ いない。それどころか、自分の耕すべき土地の上に散在する いである。あなた方の料理法を改革なさい。ソースやフライ ようにつくられている。密集すればするほど、人間は堕落 ノターや塩や乳製品に火を通してはい を用いてはいけなし する。身体の虚弱と精神の悪徳とは、あまり多勢の人間が群 けない。水でゆでた野菜は熱いままで食卓に運ばれてから、 がり集ることの必然の結果なのである。あらゆる動物のうち 味をつけるべきである。肉なしの料理は乳母に便秘を起させ で、人間は群をなして生活することが、もっともやりにくい るどころか、豊かでもっとも良質の乳を提供する。子供には 動物である。羊のようにぎっしり詰めこまれると、人間はほ 篇植物性の食べものがもっともよいと認められているのに、乳 一母には動物性の食事がも「ともよいなどということがあり得んの僅かな時の間に全部減びてしまうだろう。人間の吐く息 は仲間の人間たちにとっては命とりである。このことは比喩 第ようか。それでは矛盾している。 とくに生まれて最初の数年間は、空気が子供の体質に影響的な意味ばかりでなく本来の意味でも真実である。 都会は人類を呑みこむ深淵である。数世代の後には、いく を及。ほす。空気はどの気孔からも繊細で柔らかな皮膚にしみ 、 0 ヾ、

7. 世界の大思想17 ルソー エミール

す。それから少しずつ、ピストルのおくりを用いないで、 たりしてみて、その熱さ、寒さ、硬さ、柔らかさ、重さ、軽 さな弾薬をこめる。つぎにもっと大きな弾薬をこめる。こう さを感じ、その大きさや形や、あらゆる感覚的な性質を感す してついにわたしは彼を、小銃の音、花火の音、大砲の音、 ることを学ぶのである。 もっとも恐しい爆発音にも慣れさせてしまう。 われわれは運動によってはじめて、われわれ以外の物が存 雷鳴がものすごくて、聴覚器官が実際に傷つけられでもし在することを学ぶ。そして拡がり〔延長〕の観念も、われわれ ない限り、子供はめったに雷を恐がらないということに、わ自身の運動によって、はじめて獲得するのである。子供がす たしは気がついている。あるいは雷が時には人を傷つけたり ぐ手に触れる物でも、百歩先にある物でも、無差別につかも 殺したりする場合もあるということを知った時、はじめてそうとして手を出すのは、子供に拡がり〔延長〕の観念がないか うした恐怖心が起ってくるのだ。理性によって子供たちが怖らである。そういう彼の努力は、あなたには支配欲の徴候に がりはじめた時には、習慣によって彼らを安心させてやるが見える。彼が物に向かってこちらへこいと命令しているか よい。ゆっくりとしかも慎重に漸進的にやっていけば、大人またはあなたにそれを持ってこいと命令しているように思わ でも子供でも、どんなことにも大胆にすることができる。 れる。ところがそれはまったくちがう。それはたんに彼がま 記憶も想像もまだ不活発な状態にある人生のはじめでは、 ず脳で、つぎに眼で見るその同じ物体が、今度は腕の先に見 子供は現に自分の感官にうったえるものにしか注意を払わな えて、彼には自分のとどき得る拡がりしか、想像できないと 、。彼の感覚は彼の知識の基本的な材料であるから、それを いうだけのことである。したがって彼に距離を判断すること 適当な順序で与えてやれば、他日同じ順序でそれを彼の悟性を教えてやるために、彼をしばしば散歩させ、一つの場所か に提供できるように記憶を準備させることになる。しかし子ら他の場所へ移動させ、場所の変化を彼に感じさせるように 供は自分の感覚にしか注意を払わないのだから、最初はそれ気をつけてやるとよい。彼が距離を認識しはじめたなら、そ らの感覚と、その感覚をひき起す物体との間の関係を、彼に の時には方法を変えなければならない。そして彼の気の向く はっきりと示してやるだけでよい。子供は何にでもさわり、 ようにではなく、もつばらあなたの気の向くようにだけ、彼 篇何でもいじりたがるものだから、そうした落ちつきのなさにを連れて行ってやる必要がある。というのは、彼がもう感覚 一逆らってはいけない。子供はそれによって、きわめて必要な によって迷わされなくなると、彼の努力の動機が変化するか らである。しかもこの変化は注目すべきものであって、説明 第修業の仕方を暗示される。こんなふうにして子供は、いろ ろな物体を眺めたり、触れたり、耳で聞いたり、とりわけ視を必要とする。 覚と触覚を比較したり、指で触れて起った感覚を眠で評価し 欲望を満たすために他人の助けが必要な時には、欲望から

8. 世界の大思想17 ルソー エミール

グベルナトル 国の要求する条件を満足させる市民となる基礎をきずくこと水先案内ないし指導者にほかならない。 でなければならない。それは、『エ ル」がその第五篇で、 こうしてルソーは、自然のなかで工、、 ールの「教育」を始 単に独立した家庭人だけでなく、市民となるための教育をもめるが、その出発に際して彼が強調する原則は、子供の特 って終っていることでも明らかであろう。しかし、ここでル 質、本性を知ることである。ルソーが子供の発見者といわれ ソーが普遍的人間の教育を強調するのは、直接には、「社会契る最大の理由は、子供時代、つまり幼少年期に関する、従米 約」による社会でなくて、現実のフランスの絶対主義社会に に比を見ない明確な科学的な概念を樹立したことにある。こ ) おける人間のためであり、前にのべたように社会の改革を可れはモラリスト・ルソーにあって、人間の自由とか、人格の 能にする前提を作るためである。この本が貴族を作る目的と尊厳とかという倫理的な思想と結びついていることは勿論で は正反対の目的をもっているにもかかわらず、ルソ ーがエ、、 はあるが、彼がいわば子供の科学的概念をしつかりとっか ールを貴族の孤児にしたこと、その生徒と完全な相互的な信み、子供に対する教育技術を開拓したことに、「子供の発見」〕 頼関係にある理想的な教師をこれに配して、堕落した社会の の意味があるのだ。それには、彼がロックとともに教育思想 悪の要素が集中されている都会をはなれて、清純な自然性に の上でも深い影響をうけたコンディャック (Etienne Bonnot ゆたかな田園のなかで教育させたことも、それと関連した意 de CondiIIac, 1714 ー 80 ) の感覚論 (Traité des sensations 、、 味をもっている。シュノンソー夫人の依頼もあるけれども、 1754 ) による一種の心理・実験的な方法とその適用が貢献し ルソーのいう教育をうける必要があるのは、エ ルのようている。コンディャックの『感覚論』の理論は、たしかに に、本来、社交界という極度に人為的な環境、社会の悪習に ール』の感官の発達をたどる方法を示唆しているよう・ とりまかれた貴族階級の子弟なのである。ほとんど逆説的な に思われる。感覚論はルソーの道徳論の支えにもなっている が、感覚の経験を重要視する立場は、ルソーの場合、自然に 意味をふくめないで、彼は、堕落の惧れの少い、自然状態に 近い生活を営む農民は、この種の教育を必要としない、彼ら対する信頼がその前提となって成立している。コンディャッ は自然のなかで独力でりつばに人間に成長する、自己教育すクの有名な彫像の比喩ーー・五感が一つすっ彫像に与えられて 題 る、と言い切っている。したがってここでの教育は、いわゆ完全な感官をそなえた人間になる過程は、ジマックなどの指 る社会のために行なわれる教育とはなんの共通点もなく、子摘するように、『エ ル』の第一篇から第三篇までとられ 解供の自然性の順調な発展を保護することで、書物も、教室もている感覚の発達過程の分析の原型を供しているかもしれな 用いられないし、学友もいないし、これというカリキュラムも 。われわれは社会的影響によってあやまった観念をもつけ ない。教師は知識を教える人でなく、言葉の語源的な意味で、 れども、自然に従った感覚の経験によって、襯念をつくり直

9. 世界の大思想17 ルソー エミール

いだろう。 庫を作ってやるように努めなければならない。 この方法はた そうだ、自然は子供の頭脳に、どんな種類の印象でも受けしかに小さな天才を作りあげたりはしないし、養育係や家庭 教師を華々しくみせたりはしない。しかしこの方法は、思慮 とれるような柔軟性を与えているが、それは国王の名前や、 日付や紋章学・天文学・地理学の用語など、すべて子供の年にとむ、頑健な人間、肉体も悟性も健康な人間、若い時に人 びとに賞めそやされることはないが、大人になれは尊敬され 齢ではなんの意味もない言葉、またあらゆる年齢の人にもな る人間を作りあげる。 んの役にも立たない言葉を、子供の頭の中に刻みこむためで 工 ルは何ひとつ、寓話さえも暗記しないだろう。どん はない。ところが人びとはそういう言葉でもって、子供のみ なに素朴で魅力にとんでいようと、ラ・フォンテーヌの寓話 じめで不毛な幼年期をおしつぶしているのだ。実は、子供が 考えることができ、子供の役に立つあらゆる観念、彼の幸福 さえも暗記しないだろう。というのは歴史の言葉が歴史でな いのと同じように、寓話の言葉は寓話ではないからである。 に関係があって、他日、彼の義務について教えてくれるはず のあらゆる観念が、早くから消すことのできない文字で子供どうして人びとは寓話を子供の倫理学だなどと呼ぶほどめく らになれるのだろうか。寓話が子供を喜ばせながら子供を の頭に刻まれ、一生の間子供が自分の存在と能力にふさわし いようにふるまうことに役立っためなのである。 誤らせていること、子供が嘘にひかれて真実をとり逃してい 書物で学ばなくても、子供が持ちうる種類の記憶は、それること、そして子供のために教訓を楽しくしてやろうとし て、かえって子供が教訓をひきだすのをさまたげているこ だからといってなにもすることがないというわけではない。 と、こういうことを人びとは考えてもいないのだ。寓話は大 子供は見るもの聞くものすべてに刺激され、それを覚えてい 人にとっては教訓となりうる。しかし子供にはなまの真理を る。彼は大人たちの行為や話を、心のうちに記憶しておく。 いわなければならない。真理にヴェールをかけると、子供は そして彼を取り巻くすべてのものは一冊の書物となり、その もうわざわざそのヴェールをとりのけようとはしないもの 書物の中では彼は、自分の判断力が記憶を利用できるように なるまで、無意識のうちにたえす記憶を豊かにしているので ある。その対象を選択し、子供が知りうることをたえず彼に 子供はみなラ・フォンテーヌの寓話を習わされるけれど 見せてやり、子供が知らないでいなければならないことは彼も、一人としてそれを理解する子供はいない。かりに理解す に隠しておく、ここにこそ子供の精神に記憶というこの最初るとしたら、なおさら困ったことになろう。というのは、こ の寓話の教訓にはいろいろなものが混っているし、子供の年 の能力を養う真の技術が存在すゑまたそれによって、若い 間の教育と、一生のあらゆる時期の行動とに役立っ知識の倉齢とはひどく釣り合わないものなので、子供たちを徳に導く ( 三二 )

10. 世界の大思想17 ルソー エミール

226 がある。それが、子供を危険な好奇心から遠ざけるほんとう 子供は、大人と同じような欲望を持っているわけではない の話し方だ。なんでも率直に話してやれば、まだ自分に言わ けれども、大人と同じように、感官に不快を与える不潔なこ ないでいることがあるのではないかと子供に疑いをもたせな とをしかねないので、この免がれがたい性向だけからでも、子 くてもすむ。組野な一一 = ロ葉にそれにふさわしい不快な観念を結 供もやはり身だしなみをよくするしつけを与えられてよい びつければ、想像の火はたちまち消されてしまう。つまり、 自然の意向に従うことだ。自然は、秘められた快楽の器官とそういう言葉を口にしたり、そういう観念を思い浮べたりす 不愉快な欲求の器官とを同じ場所に置くことによって、大人ることを子供に禁じはしないけれども、子供は知らないうち には節度、子供には清潔というふうに、時に応じて別の観念 にそういうものを想起することに嫌悪を覚えるようになる。 でもって、違った時期にも同じような心づかいをすることをこういう素朴な自由は、自分の心からそれを引き出して、 われわれに思いっかせている。 つも言うべきことを言い、しかもいつも自分の感じた通りに 子供に純真さを持ちつづけさせるよい方法としては、わた言う人びとを、どれほど多くの困惑から救ってくれることだ ろう。 しはただ一つしかないと思う。それは、子供のまわりにいる すべての人が、子供の純真さを尊重し、愛することである。 「子供はどうしてできるのだろうー子供の心にごく自然に生 そうしなければ、子供に対してどんなに慎しみ深い態度をと まれてくる厄介な疑問だが、これに不謹慎に答えるか思慮深 ろうとっとめても、その態度にはいずれ矛盾が起るものだ。 く答えるかによって、子供の一生の性行と健康が決定される ちょっとした微笑、眼くばせ、うつかり見せた身振りが、大こともある。子供をだますことにならないでそれを切り抜け 人が隠そうとしていたことを子供にすっかり話してしまう。 るために母親が思いつく一番簡単な方法は、子供を黙らせる 子供がそういうことを知るには、大人が隠したがっていると ことである。どうでもいい質問については、早くから子供を いうことがわかるだけで十分なのだ。上品な人たちがおたがそういうふうにしつけておいたとしたら、そして急にそうい いの間で使う微妙な言い廻しや言葉づかいは、子供たちが持う変わった態度に出たことになにか秘密があるのではないか と子供が疑いを起さないとしたら、それもけっこうなこと つはずのない知識を前提としたものだが、子供のいるところ ではまったく場違いなのだ。しかし、子供の単純さをほんと だ。しかし母親はそれだけですませることはめったにない。 うに尊重していれば、子供に話すときは、彼らにふさわしい 「それは結婚した人の秘密です。」と母親は子供に言い聞かせ 単純な一一一口葉づかいが容易にできるものだ。無邪気な者にふさ るだろう。「小さな男の子がそんなことを知りたがるもので はありません。」これが母親を窮地から救い出すたいへんう わしい、また無邪気な者を喜ばせるような素朴な言葉づかい