思わ - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想17 ルソー エミール
614件見つかりました。

1. 世界の大思想17 ルソー エミール

んとうに好ましい男性に気に入られたいと思うのと、女性の従って規制しよう。そうすれば、女性は、女性にふさわしい まねをして、男性の名誉を汚すだけでなく、女性の名誉をも教育をうけることになろう。 汚している、あの軽薄才子どもの気に入られたいと思うのと 幼い女の子でも、ほとんど生まれたばかりなのに、身を飾 では、大違いである。自然も理性も、男性の中にある女性的るものを好む。かわいらしいだけでは満足しないで、かわい なものを女性に好ませることはできないし、また、女性も、 いと思われたいと思うのだ。彼女たちのちょっとしたしぐさ にも、もうそういうことに彼女たちが気をつかっていること そういう男性のやり方をまねて、男性に愛されようとっとめ がわかる。だから、ちょっとでも聞きわけができるようにな たりしてはならない。 だから、自分の性にふさわしい慎ましくて、落ちついた態度ると、そんなことをしたら人にこう思われますよ、といっ て、彼女たちを指導することができる。しかし同じような理 をすてて、女性がそういう軽はずみな男どもの態度をまねた りすれば、女性は自分の天職に従うどころか、それを棄てて由を男の子らにもち出すのは、軽率きわまるやり方で、それ が彼らに対して同じ効果があるなどということはまったくあ しまったことになる。彼女たちは、ひとから奪いとるつもり りえない。男の子たちは、自分の勝手がゆるされて、何かお でいる権利を、自分からすてることになるのだ。彼女たちは 言う、「こんなふうにでもしなければ、あたしたちは男の気もしろいことがありさえすれば、ひとが自分のことをどう思 に入られないんですもの。」それはうそである。ばかな男性うかなど、ほとんど気にしない。彼らをこの同じおきてに従 を愛するためにはばかな女性でなければならない。そういうわせるためには、ただ時と労力とをかけるよりほかはない。 こういう最初の教えが、どこから女の子たちの心に与えら 連中を惹きつけたいという欲望自体が、そんなことに熱中す る女の好みをよく示している。もし世の中にくだらない男がれるにしろ、それはたいへん有益な教えである。肉体はいわ いないとしたら、彼女はいそいでそういう男を作りだすに違ば魂よりも先に生まれるものだから、最初の訓育は、肉体の この順序は男女に共通である。し 訓練でなければならない。 いない。そして、彼女の浅はかさが男たちによって作りださ かし、その教育の目的は違っている。一方においては、その れる場合よりも、むしろ男たちの浅はかさが彼女によって作 りだされる場合のほうがはるかに多いものである。真の男性目的は体力を発達させることであり、他方においては、魅力 を増すことである。これらの特性は、それそれの性が独占的 を愛し、そしてそういう男性の気に入られたいと思う女性は、 にもっていなければならないというものではなく、ただ順位 その考えにふさわしい手段を用いる。女は、その本来の状態 からいって媚態を示すものである。しかしその媚態は、意図が逆になっているだけである。女は何をするにも優美にみえ るように、十分な力が必要である。男は何をするにも容易に に従って、形と対象とを変える。この意図を、自然の意図に

2. 世界の大思想17 ルソー エミール

れていない彼が、誰冫 こ依存することがあろう。彼には腕があうあるにいっそうふさわしい者だと信じるだろう。こういう 、健康があり、節度がある。欲望は僅かで、それを満たす手ことこそもっとも恐れなければならない誤りだ。なぜなら、 段もある。この上もない絶対的な自由のなかで育てられた彼この誤りは打ち破るのにもっとも困難なものだからである。 に考えられる最大の不幸は、隷属ということである。彼はあもしもこういう状態に留っていたとしたら、われわれがどん の惨めな国王たち、自分に服従するあらゆるものの奴隷であな心遣いをしても、それから彼の得たところはほとんどなか ったことになろう。そして、どちらかを選ばねばならないと る国王たちを憐れむ。むなしい名声に縛られたあのにせもの したら、傲慢から生まれる錯覚よりも偏見から生まれる錯覚 の賢者たちを憐れだと思う。また、自分の豪奢な生活のいけに のほうがまだましではないかどうか、わたしには問題だと思 えになっているあの富める愚者たちを憐れむ。楽しんでいる われるのだ。 ように見せかけるために、その全生涯を退屈なものにしてい るあの派手な放蕩者を憐れむ。彼は自分に害悪を加えてくる 偉大な人びとは、自分の優秀さに関してけっして思い違い ような敵をも憐れむだろう。なぜなら、彼は敵の悪意のうち などしていない。彼らはそれを見、それを感じてはいても、そ に、敵の不幸を見るだろうから。彼はこうつぶやくことだろれでも謙虚な態度を失わない。彼らは多くのものをもってい う、「この男はわたしを傷つける必要を感じることによって、 ればいるほど、自分になにが欠けているかをすべてなおいっ 自分の運命をわたしの運命に依存させてしまったのだ」と。 そうよく識っている。彼らはわれわれに対する優位を誇るよ もう一歩進もう。そうすればわれわれは目的に到達する。 りも、むしろ自分の惨めさを意識してへりくだっている。そ 自尊心〔利己心〕は有用ではあるが危険な道具である。この道して、人のもたない財産をひとり占めしていても、彼らはき 具はしばしば、それを使う者の手を傷つけ、悪いことを伴わわめて良識に富んでいるので、自分で作り上げたのでもない ルは人類の ずに善いことをすることはめったにない。工 賜物を自慢するようなことはしない。善人は自分の美徳を誇 なかでの自分の地位を考え、自分が非常に恵まれた位置にあることができる。その美徳は彼のものだからである。しか ることを知って、あなた方の理性の仕事を自分の理性の功に し、才人は何を誇りとするのか。ラシーヌはプラドンになら 帰し、幸運の結果を自分の功績のお蔭としたい気になるだろ ぬためになにをしたのか。ボワローはコタンにならぬために う。彼は心に思うだろう、「わたしは賢くてほかの者はみん なにをしたのか。 なばかなんだ」と。彼は彼らを憐れみつつ軽蔑するだろう。 ここではそれもまったく別の問題だ。いつも普通の階層に 自分を祝福しながら、自分をいっそう高く評価するだろう。 留っていることにしよう。わたしの生徒が卓絶した天分をも そして、自分が彼らよりも恵まれていると感じて、自分がそっている者とも愚鈍な悟性をもっている者とも仮定しなかっ ( 七ニ )

3. 世界の大思想17 ルソー エミール

を出して、いくらか彼女に話しかける。時には彼女も答えて慎み深さを十分に承知している。だから、それほどの控え目 くれるが、そのために口を開くときには、必ず母親の目をちな態度も、彼を動揺させることはない。彼は自分がソフィー らりと見ずにはいない。彼女の態度のうちに、もっともはっ にそう悪い感じをもたれてはいないと思っている。彼は、子 きり感じられる変化は、わたしに対する態度である。彼女は供たちを結婚させるのは父親であることを知っている。ソフ ィーは両親の命令を待っているのだと彼は思って、それを促 わたしに今までよりもっと熱意のこもった敬意を示し、関心 レ す許可を彼女に求める。彼女はそれに反対しない。工 をもってわたしを眺め、親しみをこめてわたしに語りかけ、 わたしの気に入ることについて気を配っている。彼女が、わはわたしにその話をする。わたしは彼に代わってその話をき りだす。しかも彼のいる前で話す。ところが、ソフィーは自 たしに敏意をはらってくれていること、また彼女にとって、 ルを幸 わたしの尊敬をうけることが、どうでもいいことではないこ分ひとりだけの意志でどうにでもできること、エ とがわたしにはわかる。工、、 ールがわたしのことを彼女に話福にしようと思えば、彼女がそう望みさえすればよいという ルにとってなんという驚きだった ことを知ったとき、エ したことがわかる。まるで二人が共謀してわたしの心をつか ろう。彼にはもう彼女の行動がさつばりわからなくなってし もうとしているかのようだ。しかし、実際は、そんなことは まう。彼の自信はぐらっく。彼は不安になってくる。彼は自 まったくない ソフィー自身がそう簡単には征服されはしな いのだ。彼は、恐らくわたしのことで彼女の好意を必要とす分が、思っていたほど先に進んでいないのに気がつく。そ る以上に、彼女のことで、わたしの好意を必要とするだろして、その時にいたって、この上もなく深い愛が、彼女の心 う。かわいらしい組み合わせよ、 : ・わたしの若い友の感じをなびかせるために、この上もなく感動的な言葉を用いるこ とになる。 やすい心が、愛する人との最初の対談のうちに、わたしのこ ールはなにが自分の不利になっているかを推測できる とをいろいろと話題にしてくれたのだと思うと、わたしは自 分の苦労が報いられたことを感じてうれしくなる。彼の友情ようには育てられていない。もし誰かがそれを彼に言わなけ れば、彼は一生涯それを知ることはあるまい。それに、ソフ はわたしの骨折りにすっかり報いてくれたのである。 ィーも誇り高くて、それを彼に言うことはできない。他の女 訪間は度かさなる。われわれの若い一一人の間に交わされる 五会話は、だんだん繁くなる。恋に酔った = 、 ールは、もう幸性だったら喜んでしまうようなことが、彼女をおしとどめる 障害となっているのだ。彼女は両親の教えを忘れてはいな 第福に手が届いたと思っている。けれども、彼はまだ、ソフィ ルは豊かである。彼女はそれを知 。彼女は貧しく、エ ーの正式な証言を得ていない。彼女は彼の言葉に耳を傾けて いるだけで、まだなんにも言わないのだ。工 ルは彼女の っている。彼はどれほど彼女の尊敬をかちうる必要があるこ

4. 世界の大思想17 ルソー エミール

522 は興奮しないで、それがおさまるのを待つ。もしわたしがエ べてが有限であり、すべてが東の間のものである。そして、 ールに説いている節度というものを、わたし自身持ってい たとえわれわれを幸福にする状態がたえずつづいてゆくとし なかったとしたら、それを彼に説くなどということは、まっ ても、それを楽しむ習慣が、その味をわれわれに失わせてし ールはわたしをよく たくいい気なものだといってよい。工、、 まうだろう。外側ではなにも変らなくても、心は変る。幸福 知っているので、わたしがなにか悪いことを彼に求めるはず がわれわれから離れてゆくか、さもなければ、われわれが幸 : ないと信じているし、別れるという語に彼が与えている意福から離れてゆくのだ。 味で、ソフィーと別れるのはよくないことだということもよ あなたは時をはかってはいなかったけれども、あなたが夢 く知っている。だから結局わたしが説明するのを待ってい 中になっていた間にも時は流れていた。夏は終わり、冬が近 る。そこでわたしは話をつづける。 づいている。われわれのほうでは、そういうきびしい季節に ル。人間は、どんな境遇におかれると 「ねえ、愛するエミー なっても相変らず出かけてゆくことができるとしても、先方 しても、この三か月以来あなたが幸せだった以上に幸せであはそんなことをけっして許してはくれまい。われわれは、し ることができるとあなたは考えているのだろうか。もしそうやでも生活のし方を変えなければならない。今までのような 考えているとしたら、そのあやまりを棄てるがよい。人生のやり方はもう続けるわけこよ、 冫冫しかないのだ。待ち遠しそう 喜びを味わう前に、あなたは人生の幸福をくみつくしてしま な、あなたの目をみれば、あなたがそんな困難もたいして間 ったのだ。あなたが感じたものより先にはもうなにもないの題にしていないことがよくわかる。ソフィーの承諾とあなた だ。官能の喜びは一時的なものにすぎない。平常の心の状態自身の希望とが、雪をさける容易な方法を、彼女に会いにゆ はそういうものでは段々と低下してゆくばかりだ。あなたは くためにもう遠路を出かけなくてもすむような方法を、あな 現実に楽しめる以上のものを、期待によって楽しんできたの たに思いっかせている。それはたしかに便利な方法だ。しか だ。人が希望しているものを飾り立てる想像力は、現実にそし春になれば、雪は溶けるが、結婚はそのまま残る。どんな れを手に入れると、たちまち消えうせる。それ自身によって季節にもむく結婚を考えなければならない。 存在する唯一の存在をのそけば、存在しないもののほかには あなたはソフィーと結婚したいと思っている。だが、あな 美しいものはなにもない。もしあの状態が永久につづき得た たが彼女を知ってから、まだ五か月にもならない。あなたが とすれば、あなたは最高の幸福を見いだしたことになるだろ彼女との結婚を望んでいるのは、彼女があなたにふさわしい う。しかし、人間に関係のあるものは、すべて、人間の減びからではなくて、あなたの気に入ったからだ。それでは、愛は るべき運命の影響をとどめているのだ。人生にあっては、す二人がつり合うかどうかについてけっして見誤らないとか

5. 世界の大思想17 ルソー エミール

が知っているのは必然の鎖だけです。わたしは生まれたときもしわたしに情念というものがなかったら、わたしは、人間 からこの鎖に耐えることを学んできたのですし、死ぬまでその状態でありながら、神そのもののように独立していること でしよう。現にあるものだけしか欲していないわたしとして れに耐えるつもりです。なぜなら、わたしは人間だからで は、運命にあらがう必要などけっしてないからです。とにかく す。それに、なぜ自由になったときに、それに耐えられない ことがありましよう。奴隷になってもやはりそれに耐えなけわたしにとって東縛となるものはただ一つしかありません。 ればならないのですし、その上奴隷の鎖にもつながれなけれその東縛だけを、わたしは一生負いつづけるつもりですが、 わたしはそれを誇りに思うことができます。さあ、わたしに ばならないのですから。 ソフィーをわたしてください。そうすればわたしは自由にな 地上におけるわたしの身分など、わたしにとってどうだっ るのです。」 てよいのです。またどこに自分がいるかもどうでもよいこと 君の口から、人間にふさわしい言葉を聞 「愛するエミ です。人間のいるところであれば、どこでもわたしは兄弟た ちの家にいるのです。人間がいないところであればどこでぎ、君の心に、人間らしい感情があることを知って、わたし も、わたしは自分の家にいるのです。独立していられ、金持はたいへん満足に思う。そういう極端な無欲も、君の年齢で はわたしに好ましくないことではない。君が子供を持つよ でいられるかぎりは、わたしは生きてゆくための財産を持っ て、生きてゆくでしよう。財産にわたしが東縛されるように うになったら、その気持もうすらいできて、その頃では君 なったら、わたしはなんの苦もなく財産をすてましよう。わは、一家のよい父親なり、ひとりの賢明な人間がまさにそう たしには働くための腕があるのです。だからわたしは生きて でなくてはならないような者になることだろう。君が旅行に ゆきます。もう働く腕が利かなくなったら、誰かが養ってく出るまえから、その結果がどうなるかはわたしにわかってい た。われわれのいろいろな社会制度をつぶさに見て、君がそ れれば生きてゆくし、見すてられれば死ぬだけのことです。 見すてられなくても、やつばりわたしは死ぬはすです。死はれらに対して、不当な信頼を寄せるようなことはよもやある 貧しさの罰ではなくて、自然の掟なのですから。いつなんど まいと思っていた。法の保護のもとに自由を熱望しても、そ き死がやってきても、わたしはびくともしません。生きるたれはむなしい。法律 ! どこに法律があるのか。また、どこ でそんなものが尊重されているのか。いたるところで、法の名 めの準備をしているわたしに、急に死がおそいかかるなどと いうことはけっしてないはずです。わたしが生きたという事のもとに、個人の利益と人間の情念しか支配していないこと 実を、死はどうすることもできないのです。 を君は知った。しかし、自然と秩序の永遠の掟が存在してい おとうさん。わたしはこんなふうに決心しているのです。 る。それは、賢者にとっては、実定法のかわりをしているの

6. 世界の大思想17 ルソー エミール

供はもうだめだと思うだろう。ところがわたしが冷静にして死ぬかと思い、一滴の血を見たとたんに気絶するようになる , のだ。 いるのを見れば、彼もやがて冷静を取り戻し、痛みを感じな くなれば、もうなおったものと思うだろう。人が勇気をもっ 教訓好きで学者ぶる癖のあるわれわれは、子供たちが自分 べきことの教訓を最初に学び、軽い苦痛を恐れすに耐えて、 ひとりのほうがはるかによく学べるようなことを子供に教え 大きな苦痛に耐えることを次第に学んでゆくのは、この年頃ようとし、われわれでなければ教えられないようなことを忘一 のことである。 れているのがつねである。子供に歩くことを教えこもうと骨 わたしは、エ ルが怪我をしないようにと注意してやる折るぐらいばかげたことがあろうか。乳母が怠けたために、 どころか、彼が決して怪我をせず、苦痛も知らずに成長する大きくなっても歩けなかった人間がいたとでもいうのだろう か。その反対に、歩き方を間違って教わったために、一生涯 としたら、かえって残念に思うだろう。苦しむということは 彼がまず第一に学ぶべきことであり、将来彼がもっとも知る正しく歩けない人たちが、なんとたくさん見かけられること、 、刀 必要のあることである。子供がからだが小さくて弱いのは、 工 このような重要な教訓を危険なく学ぶためにほかならないよ ルには怪我よけの頭巾も、歩行器も、乳母車も、手引 うに思われる。子供はばったり倒れても、足を折りはしな きの紐もいらないだろう。あるいは少なくとも、彼がたがい 。棒で自分を打っても、腕を折りはしない よく切れる刃ちがいに足を出すことができるようになったら、舗装した所 物をつかんでも、にぎりしめることはほとんどないから、深でだけ彼を支えてやることにする。そしてそういう場所は、 い傷を負うようなことはない。放任された子供が、自分で命 急いで通りすぎさせるだけにする。部屋の汚れた空気の中に をなくしたり、不具になったり、ひどい怪我をしたりしたと うずくまらせたりしないで、毎日彼を草原の中へ連れていく いう例を私は聞いたことがない。もっとも、無分別にも子供とよい。そこで彼は走りまわり、跳びまわり、一日に百度も を高いところにおき去りにしたり、火のそばにひとりきりに転んでもよい。それは結構なことだ。おかげで早く立ち上が ることを覚えるだろう。たくさん怪我をしても、自由だとい したり、子供の手のとどくところに危険な道具をおき忘れた う満足感はそれを償ってくれる。わたしの生徒はたびたび打 篇りすれば、話はまた別であるが。子供を苦痛から守るために 一一徹底的に武装させようとして、子供の周りに道具を山と積みち傷をするだろう。その代わりに、彼はいつも陽気でいるだ ) ろう。あなた方の生徒はそれほど怪我をしないとしても、 第上げることについては何といったらよいか。あげくのはては つもさからわれ、いつも東縛され、いつも悲しそうである。 大きくなると、そんな子供は勇気も経験もなくて、苦痛には まったく抵抗力がなく、ほんのちょっと針で突っつかれてもそういう生徒のほうが得をするかどうかは疑わしいと思う。 、 0

7. 世界の大思想17 ルソー エミール

139 第二篇 相接する角が一一直角に等しいことを証明するために、人は・ ルに幾何学を教えようなどとい 。わたしとしては、エ うつもりはないのだ。彼のほうがわたしに幾何学を教えてく円を描く。わたしはそれとはまったく逆に、エ れることだろう。わたしが比率を求めるとすれば、彼がそれずはじめにそのことを円によって気づかせるようにする。そ を見いだしてくれるだろう。つまりわたしが、彼に発見させれから彼にこういう。「かりにこの円と直線とを取り除いた るような求め方をするからだ。たとえば、一つの円を描くのとして、これらの角が大きさを変えることになるだろうか。」 に、コン。 ( スを使わないで、一つの軸を中心に廻る糸の尖端等々。 人びとは図形を正確にかくことをなおざりにして、それを につけた針で描くだろう。そうしてから、わたしが半径をた ルはわたしを笑って、 正確なものと想定し、証明に熱中する。われわれの間では、 、、、、に比べてみようとすると、エ いつもびんと張った同じ糸が、等しくない距離を描くような 反対に、証明ということはけっして間題にならないだろう。 ことはありえないということを、わたしに理解させるだろわれわれのもっとも重要な仕事は、まっすぐな、正しい、均等 な線を引くことであり、完璧な正方形を描くことであり、ま もし六十度の角を測ろうと思えば、わたしはその角の頂点ん円い円を描くことであろう。図形が正確かどうかを吟味す から、一つの弧ではなくて完全な円を描く。子供に対してるために、われわれはそのあらゆる感覚的な性質によって、 は、けっしてなにひとつわかったことにして省いてはならなその図形を検討するだろう。そうすれば、毎日新しい性質を いからだ。わたしはこの角の二辺にはさまれた円の部分が、円発見する機会がえられるだろう。われわれは直径で円を折り 周の六分の一であるのを見いだす。その後で、わたしは同じ曲げて二つの半円を作り、また対角線で折り曲げて、正方形 頂点から、もう一つ、も 0 と大きな円を描く。そしてこの第の半分を二つ作ることにしよう。われわれは二つの図形をく らべて、どちらの図形の縁がほかのよりいっそう正確に一致 二の弧も、その円周の六分の一であるのを見いだす。わたし は第三の同心円を描き、それについても同じようなことを試しているか、したが 0 てい「そうよくできているのかしらべ すことになる。わたしは新たな円を描いてはそれを続けてゆてみよう。われわれはこういうふうに等分することが、平行 ルが、わたしの愚かさにいやになっ四辺形や梯形の場合でも、いつでも起るべきことかどうかな くと、ついにはエミー どを議論するだろう。時には実際にためしてみる前に、それ て、同じ角にはさまれる弧は大きくても小さくてもみな、い つもその円周の六分の一であることをわたしに教えてくれが成功するかどうかの予測を試みるだろう。その理由を見い だすことに努力したりするだろう。等々。 る、といったことになる。こんなふうにして、われわれは間 わたしの生徒にとっては、幾何学とは、定規とコンパスと もなく分度器を使えるようになる。

8. 世界の大思想17 ルソー エミール

こと、そういうことを学ぶがよい。そうすれば、君は、運命 ている。精神力を鍛える必要を説きながら、わたしが彼にそ がどうあろうとも幸福になり、情念を感じていても賢明にな ういうきびしい鍛練をうけさせようとしているのだと予感し れるだろう。そうすれば、はかない幸福を所有することのなている。そして外科医がこちらへやってくるのを見て震えあ がっている怪我人のように、彼はもう自分の傷口の上に、苦 かにさえ、なにものにも乱されない逸楽を見いだすことにな ろう。君はそういう幸福にとらわれないで、幸福をわがもの痛を与える手、しかし傷口が腐敗するのを防いでくれる救い にすることになり、なにもかもその手から逃れ去ってしまうの手を感じるような気がしている。 人間は、失うことを知っているものしか享受できないという 不安な、落ち着かない気持になり、わたしが結局どういう ことがわかるだろう。たしかに君は架空の快楽という幻想をことを言いたいのか知りたがった彼は、返事はしないで、た いだくことはなかろうが、それから生まれる苦悩を味わうこ だ恐る恐るわたしに問いかける。「どうしろとおっしやるの ともないだろう。君はこの交換によって大いに得をするだろですか」とほとんど震えながら、目をあげることもできずに う。というのは、そういう苦悩は頻繁に、また現実に感じら彼は言う。「なにをしなければならないかといえば、」とわた しはきつばりした口調で答える。「ソフィーと別れなければ れるものだが、その快楽のほうはごく稀にしか感じられず、 いけないということだ。」「なにを言うんです、」と彼は夢中 しかもむなしいものだからである。非常にたくさんある、人 を迷わす世の臆見を克服した君は、さらに、人生に非常に大になって叫ぶ。「ソフィーと別れるんですって ! あのひと きな価値を認める臆見をも克服することになろう。君は生涯と別れ、あのひとをだまし、裏切者になり、べてん師になり、 を安らかに過ごし、なんの恐れもいだかすに生涯を終えるだ嘘つきになるんですって。」「とんでもない、」とわたしは彼 ルは、このわたし ろう。君はすべてのものから離脱してゆくように、生命からのことばをさえぎって口を出す。「エ しいような人間になることを も離脱してゆくであろう。ほかの人たちが、恐怖にとらわれから、そんな名前で呼ばれても、 学べとでもいわれはしないかと心配しているのだろうか。」 て、自分はこの世を去ると同時に存在しなくなるのだと考え 彼は前と同じように激しい調子で言いつづける。「いし ようとも、この世のむなしさを知っている君は、これからが あなたからも、ほかの人からもそんなことは教わりません。 篇始まりだと考えるだろう。死は、悪人の生の終わりであり、 あなたがなんと思おうと、わたしはあなたの作ったものをま 五正しい人の生の始まりなのだ。」 ルは注意深く、しかしいくらか不安を感じながら、 もりきることができます。そんな名前で呼ばれてもいい者に わたしのいうことに耳を傾けている。こういう前置きのあと ならないでいられます。」 で、なにか不吉な結論が出てくるのではないかと彼は心配し わたしはこの最初の激怒を予期していた。わたしは自分で

9. 世界の大思想17 ルソー エミール

ば、あらゆる種類の危険が自分を待ち構えているようなっ かにつけて勝手の悪いものである。世人の間にあって、でき ぶしに、人がそれほど気を人れることはありえないのであるだけ自由を持ち続けるために、わたしはどんな身分の人び る。運命の女神のごひいきで虚栄心を養う人は、もっとはる とのなかでも、そここそが自分の場所だと見えるような、そ かに妙味のある対象でそうしたごひいきを求めることができして、どんな身分にいても目立たないような身なりをしてい るのだし、ささやかな賭事の場合でも、大がかりな賭事の場たいと思うだろう。気取ることもなく、別人のようになるこ ともなく、居酒屋では庶民的に 合と同じようにそういうごひいきは示されるものなのだ。賭 、。、レ・ロワイヤルでは上品 の趣味は貪欲と倦怠の申し子であって、虚ろな頭と心にしか に見えるようでありたいものだ。そうなれば、挙動がいっそ 宿らないものである。それにわたしにはそんな埋め合わせをう自在になるので、いつもあらゆる身分の人びとの楽しみを しないですませるだけの感情と知識があると思っている。思 自分の手のとどく所に置くことになる。袖口に刺繍をした人 索家が賭事に大いに嬉々としているような姿はめったに見うびとに対しては扉を閉じ、レースをつけていなければどんな けられない。賭事は思索する習慣を中断させるか、さもなけ人も迎え入れない婦人たちがいるそうだが、そんならわたし れば、そうした習慣を見こみの薄い実行手段のほうに向けさ は別の所に行って一日を過すことにするだろう。しかし、そ せることになる。だから、学間の趣味が生む利点の一つ、恐うした婦人たちが若くて美人でもあるようだったら、わたし らく唯一の利点は、こういう意地汚い情念をいくばくかは減も時にはレースをつけて、せめて夜だけでもそこで過すこと があるかもしれない。 殺するということにある。こうして人は賭事に没頭するより は、賭事の効用を証明しようとこころみることのほうをいっ 相互の愛着、趣味の一致、性格の相応、そうしたものだけ そう好むようになるだろう。わたしはといえば、賭事をする がわたしの交際の絆となるであろう。わたしは人間として人 人たちの間では、それを止めさせるように努力するだろう とつぎあい、金持としてつきあうのではない。わたしは交際 が、彼らに勝って金を取り上げることよりは、彼らが損をすの魅力が利害関係によって毒されるようなことにはとても耐 るのを眺めて、彼らをばかにしてやることのほうがずっと楽えられないだろう。わたしの富裕さが、わたしになおそこば 篇しく思うだろう。 くの人情を残してくれているようだったら、わたしは自分の 四 わたしは私生活においても、世間づき合いにおいても、変奉仕と親切を遠くに広げもするだろうが、わたしは自分の周 らないであろう。わたしは自分の身代がいたるところでゆっ りに社交の場を持ちたいとは思っても、宮廷を持ちたいとは 3 たりした気持にさせ、しかもけっして不平等を感じさせない 思わないだろうし、友人たちを作りたいとは思っても、とり ようであってほしいと望むことだろう。人目を引く衣装は何まきを作りたいとは思わないだろう。わたしは自分の会食者

10. 世界の大思想17 ルソー エミール

しくない理由で言いくるめられることのほうが、われわれに揺れているのが見える。われわれが水に運動をあたえるだけ 幻とってははるかに恥かしいことと思われるだろう。「わたし で、こんなふうに棒を折ったり、柔らかくしたり、溶かした りすることができるのだろうか。 にはわからない。」これはわれわれ一一人にたいへんびったり する言葉で、われわれはしばしばそれを繰り返しているか 四、水を流すと、水嵩がヘるにつれて棒が少しずつまっす ら、そう言ったところで彼もわたしもすこしもつらいとは思 ぐになってくるのが見える。事実を明らかにし、屈折現象を わなくなっている。しかし、思わず彼がああいううかつな答見いだすには、これでもう十分すぎるのではなかろうか。だ えをしたとしても、あるいは例の「わたしにはわからない」 から視覚がわれわれをだますというのは正しくない。われわ という便利な一言葉でそれをまぬがれたとしても、わたしの答れが視覚のせいにしている誤りを正すには、視覚しか必要と えはきまっている。「それではしらべてみましよう。」 しないのだから。 水の中に半分ひたっているその棒は垂直の位置に固定され かりに子供が頭がわるくて、こういう実験の結果をはっき ている。それが見かけのとおり折れているのかどうかを知る り感じることができないとしよう。そういう場合には、視覚 には、それを水中から引き出したり、あるいはそれに手を触を助けるために触覚の応援をもとめなければならない。棒を れてみたりする前にしておかなければならないことがどんな水から引き出さないで、そのままの位置におき、棒を端から に多いことだろう。 端まで子供に手でさわらせるがよい。彼は棒の角度というも のを少しも感じないだろう。だから棒は折れてはいないの . 一、まずわれわれが棒のまわりを廻ってみると、廻るにつ れて棒の折れぐあいも変ってくることがわかる。だから、折だ。 れぐあいを変えてみせるのはわれわれの目だけだということ そこには判断だけではなくて、本式の推論がある、とあな になるわけだが、視線が物体を動かすということはない。 た方は言うだろう。そのとおりだ。しかし精神が観念にまで 到達すると、判断はすべて推論になるということがあなた方 一「われわれは水の外に出ている棒の端からまっすぐにの ぞいてみる。すると棒はもう折れ曲がっていないで、われわにはわからないのだろうか。すべての感覚の意識は一つの命 れの目に近いほうの端はきっかりともう一方の端を見えない 題であり、判断である。だから、ある感覚を別の感覚に比較 ように隠してしまう。われわれの目が棒をまっすぐにしたのするようになれば、それは推論を行なっていることになる。 判断する術と推論する術は厳密に同一のものだ。 工 三、われわれは水の表面を掻き廻してみる。すると、棒は ルはけっして光学を知ることがないだろう。そうで いくつにも折れて見え、ジグザグに動き、水が波動につれて ないなら、この棒をめぐって学んでもらいたいと思う。彼は、 ( 六三 )