感覚 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想17 ルソー エミール
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1. 世界の大思想17 ルソー エミール

なる。嗅覚は一時は気分を活発にさせるが、結局は疲労させ 割をするということだ。実際、大が獲物を嗅ぎつけるよラ るのはそのためである。恋愛におけるその効果はかなり知ら に、自分の食事を嗅ぎ当てるように子供を育てたとしたら、 れている。化粧室の甘い香りは、人びとが考えるほど利目の多分子供の嗅覚を大と同じ程度に完全なものにすることがで 薄い罠ではない。そしてわたしは、愛人の胸にさした花の匂きようとわたしは考える。しかし、実のところ、嗅覚と味覚・ の関係を彼らに教えることは別として、嗅覚からはひじよう 、に胸をときめかしたこともない、賢いが感じの鈍い人を、 に有益な使用法を引き出せるとはわたしには思えない。自然 祝福すべきか憐れむべきかはわからないのである。 したがって、嗅覚は、ごく幼い時には、それほど活発に働 はわれわれにこの関係にいやおうなしに通じさせるように、 くはずがない。というのは、その頃は、情念にまだほとん ことさら心を配ったのだ。自然は味覚と嗅覚の器官を隣り合 ど刺激されたこともない想像力は、感動をうけいれる力がほわせにし、ロの中に両者をつなぐ直接の通路を設けて、その とんどないからであり、それにまだ経験も不十分なために、 結果われわれが匂いをかがないではなにも味わえないように ある感覚がわれわれに約東するものを、他の感官で予測するすることによって、味覚の働きを嗅覚の働きからほとんど離 ことはできないからである。こういう結果は、また、観察にれられないものにしたのである。わたしはただ、たとえば子・ よっても完全に確認されている。そして大多数の子供では、 供をだますために、苦い薬の味を快い香料で包んだりして、 この感覚はまだ鈍く、ほとんどぼんやりしていることはたし この自然の関係を変えないようにしてもらいたいと思う。と かである。それは、子供の感官は、大人の場合と同じくらい いうのは、その場合、二つの感覚の不一致は、あまりにも大 鋭敏でないからではなく、 おそらく大人よりも鋭敏であきすぎて、子供をだますことはできないからである。よく働 ろうが・ーー子供は感覚に他のどんな観念をも結びつけないのくほうの感官が他の感官の効果を吸収してしまうから、子供 で、喜びや苦しみの感情を容易に動かされないし、われわれはやはり嫌がって薬を飲むことに変りがないからである。こ のようにそれによって満足させられたり、傷つけられたりは の嫌悪感は、同時に彼を刺激するどちらの感覚にもひろが しないからである。この同じ考え方からはすれず、また男女る。そして弱いほうの感覚を感じると、想像力が彼にまた強 いほうの感覚を思い出させる。そうなれば、彼にとって、き 両性の比較解剖学の助けをかりなくても、なぜ一般に女性の 一一ほうが男性よりも匂いに強く刺激されるかという理由が、容わめて甘美な香りもいやな匂いにすぎなくなる。こういうふ うにしてわれわれの無分別な用心は、愉快な感覚を犠牲にし 第易に見いだされるとわたしは思う。 カナダの未開人は若い時から、嗅覚をひじように敏感にすて、不愉快な感覚の量をふやしているのだ。 つぎに続く数篇において、わたしは第六感ともいうべきも るので、大を持っていても狩に使おうとせす、自分で大の役

2. 世界の大思想17 ルソー エミール

のを養うことについて語る仕事が残「ている。それは災通なりの成熟がある。われわれはしばしば、でき上「た大人に ついて語られるのを聞いたことがある。しかしでき上った 感覚と呼ばれているのだが、それはすべての人間に共通だか らというよりはむしろ、それが他のさまざまな感覚のよく規子供というものを考えてみよう。この光景はわれわれにとっ 制された使用から生まれるからであり、また事物のあらゆるて、いっそう新しいものであろうし、おそらくまたそう楽し 外観を結合することによ「て、事物の本性をわれわれに教えくないものでもあるまい。 有限な存在者の存在はきわめて哀れな、限られたものであ てくれるからである。だからこの第六感は特別な器官を持た ない。それは頭脳の中に存在しているだけで、純粋に内面的るから、われわれがありのままの状態しか見ない時には、け っして感動することはない。現実の事物を飾るのは、空想だ。・ なその感覚は、知覚または観念と呼ばれている。われわれの だからもし想像力がわれわれの感覚にふれるものに、魅力を 知識の広さが計られるのは、まさにそれらの観念の数によっ てであり、精神の正しさを作りだすのは、それらの観念の明添えなければ、人びとがそれに感ずるむなしい快感は、その 確さ、明晰さであり、人間理性と呼ばれるものは、それらの感覚器官だけに限られ、心は相変らす冷たく動かない。秋の 観念を相互に比較する技術なのである。したがって、わたし財宝によって飾られた大地は、豊かな富をくり拡げ、人の眠 、くつを感嘆させる。しかしその感嘆には深く心を打つものがな が感覚的理性または子供の理性と呼んでいたものは、し 。それは感情からよりもむしろ反省から生まれている。春 かの感覚の結合により、単純な観念を形成することにある。 には、ほとんど裸の野原はまだ、何ものにも覆われていない そしてわたしが知的理性または人間理性と呼ぶものは、し し、森は木蔭をつくらず、緑の草もまだ芽を出したばかりで つかの単純な観念の結合により、複雑な観念を形成すること ある。しかも人の心はそれを見て感動する。自然がこのよう にある。 そこでわたしの方法が自然の方法であり、わたしがその適によみがえるのを見て、人びとは自分も生気をとり戻すよう 用を誤らなかったと仮定すれば、われわれはわれわれの生徒に感じる。喜びの影像がわれわれを取り巻いている。あの快 を連れて感覚の国々を通りぬけ、子供の理性の境界にまで達楽の道連れ、いつもあらゆる甘美な感情と結びつこうと待ち かまえているあの心地よい涙は、もうわれわれのまぶたに浮 したことになる。これを越えてわれわれが踏み出そうとして、 んでいる。しかし、ぶどうの収穫の光景が、どんなに活気が いる第一歩は、大人の一歩でなければならない。しかしこの 新しい道にはいる前に、われわれが通って来た道にしばらくあり、生き生きとして、楽しくても、人びとはいつもそれを 一瞥を投げてみよう。人生のそれそれの時期、それそれの状乾いた眠でながめているのだ。 どうしてこういう違いがあるのか。それは、想像力が春の・ 態には、それにふさわしい完成があり、それに固有な、それ

3. 世界の大思想17 ルソー エミール

147 第二篇 た、大人にはすでにその身分、職業、住所がある。しかし運しば精神的なものを混入させる。だから、一般的にいえば、 人叩が子供になにを用意しているかは、誰が確実に知ることが 心のやさしい、それでいて快楽を好む人々、情熱的でほんと できよう。何事につけても、子供にあまりはっきり定った形うに感じやすい性格の人々は、他の感覚には動かされやすい 式を与えて、必要な場合にそれを変えるのにあまりつらい思 が、味覚に対してはかなり冷淡なのである。このことは味覚 いをさせないようにしよう。フランス人の料理人をどこへでを他の感覚より劣ったものとし、これに惹かれる傾向を軽蔑 ・もお伴に連れて行かなければ、彼は他の国に行くと飢え死にすべきものとしているらしいが、まさにそのことから、わた ・するとか、またフランス以外では誰も食べ方を知らないのだ しは逆にこう結論するだろう、子供たちを指導するのにもっ と他日、彼がロ走ったりするとか、そういうことのないよう ともふさわしい方法とは、ロを通じて彼らを導くことである にたい。ついでながらいうが、そんなことをいうのはふざと。食いしんぼうという動機は、とりわけ、虚栄心という動 けたほめ方だ。わたしならその反対に、食べ方を知らないの 機よりも好ましい。というのは、前者は自然の欲望であっ ・はフランス人だけだというだろう。というのは、彼らのロに て、感覚に直接つながっているが、後者は世俗の意見のつく 合う料理をつくるには、まったく持別な技術が必要なのだか りだしたものであって、人間の気まぐれとあらゆる種類の誤 ら。 りにおちいりやすいからである。食いしん坊は子供の頃の情 われわれのさまざまな感覚のなかで、味覚は一般にわれわ熱であるが、この情熱は他の情熱に対しては抵抗できない。 れの心にもっとも影響を及ぼす感覚である。だから、われわ 少しでも競争するものが現われれば、姿を消してしまう。い れは、ただわれわれのからだをとりまくだけの物質よりも、 や、まったく、子供はたちまち自分の食物のことなんか考え われわれの身体の一部となるべき物質をよく判断することに なくなってしまうだろう。そして心があまりいつばいになっ いっそうの関心を持っている。触覚や、聴覚や、視覚から見ていると、ロのほうはほとんど彼の関心をひかなくなるだろ れば、数多くのものがどうでもよいものだ。しかし味覚にと う。子供が大きくなると、無数の激しい感情が食いしん坊を って、どうでもよいものはほとんどない。 まぎらし、虚栄心をただかきたてることになろう。というの その上、この感官の働きは、まったく肉体的で、物質的で はこの虚栄心という情念が、ひとりで他の情念を利用して、つ ある。味覚は想像力に対してまったく働きかけないただ一つ いにはそれらを全部のみこんでしまうからだ。わたしは時折 り、こういう人たちをしらべてみたことがある。それはおい の感覚であり、少なくとも、それを感ずる場合に、想像力が 介入することがもっとも少ない感覚である。だがこれに反し しい食物を重要視して、限を覚ませばその日に食べるものの て、その他のすべての感官の印象には、模倣と想像とがしば ことを考え、そしてポリビオスが戦闘を叙述しているとき

4. 世界の大思想17 ルソー エミール

するだろうか。彼は必然にこの二つの対象を混同し、それら ば、それらの感官相互の間にはなんらの交流も起らないだう を同じものと取り違えるに違いあるまい。延長を表象する感うということ、〔したがって〕われわれが触れる物体と見る村 覚は延長を持たないと主張する学説においては、とくにそう象とが同一物であると知ることは、われわれにとって不可能 である。 になろうということである。そうなれば、われわれはけっし て自分の外部にはなにものをも感知しないことになるか、ま 比較すべき二つの感覚が知覚されるとき、それらの印象が たは、その同一性を認知すべき手段をわれわれがまったく持 つくられ、おのおのの対象が感知され、〔したがって〕その一一 たないような五つの感覚的な実体が、われわれにとって存在 つの対象が感知されるのだが、だからといって両者の関係は 感知されはしない。かりにこの関係についての判断が、一つすることになろう。 の感覚にすぎず、もつばらその対象からわたしの心に浮ぶも わたしの感覚を対照し、比較するわたしの精神のこの力を のとすれば、わたしの判断は、けっしてわたしをあざむくこ人が何とでも名づけてよいし、それを注意とも、省察とも、 とはなかろう。なぜといって、わたしが自分の感じるものを反省とも呼んでよいし、その他好きなように呼んでよい。い 感じるのに誤りようがないからである。 ずれにしても、その力がわたしの中にあって、外物の中にな、 いことはほんとうだ。その力をわたしが生みだすのは、対第 では、なぜわたしはこの二本の棒の関係について、とりわ がわたしに印象をあたえる機会にかぎられてはいるが、その け、その二本が平行していないとき、間違いをしでかすのか。 なぜ、わたしは、たとえば、実際は、小さい棒が大きいほうの力を生みだすのはわたしだけであることはほんとうなのだ。 四分の一にすぎないのに、三分の一であるなどというのだろわたしは感じたり、感じなかったりすることを自由にはでき・ ないけれども、自分の感じるものを検討することを加減する うか。なぜ感覚、 しいかえれば映像が、対象、いいかえればモ デルに一致しないことになるのか。それは、わたしが判断すことは自由にできるのだ。 るとき能動的だからであり、比較する作用が過ちやすいから だから、わたしはたんに感覚的で受動的な存在ではなく であり、また、比率を判定するわたしの悟性が、対象しか示 て、能動的で、知的な存在である。そして、哲学がこれにつ さない感覚の真実性に、自分の誤りを混人するからである。 いてなんといおうとも、わたしは思考する名誉を持っている 四 以上のほかになお一つの反省を加えてみたい。あなたがやとあえて自負する。しかし、わたしは、ただ、真理は事物の中 第 がてそれを考えるときになったら、きっとあなたはそれに驚にあって、事物を判定するわたしの精神の中にはないこと、 3 かされるに違いない。その反省とは、かりにわれわれがわれまた、事物についてわたしの下す判断の中に自分の考えをま われの感官を使用するにあたって純粋に受動的であるとすれじえることが少なければ少ないほど、ますます確実にわたし

5. 世界の大思想17 ルソー エミール

な楽しみごとは考えていなかったのだ。 ちきれるまで食べるだろう。われわれの食欲が度はずれにな 嗅覚の味覚に対する関係は、視覚の触覚に対する関係と同 るのは、自然の規則とは別の規則を食欲にあてはめようとす るからにほかならない。だから、われわれはたえず調整した じである。嗅覚は味覚の先まわりをし、これこれの物質が味 り、命令したり、つけ加えたり、ヘらしたりするなど、手に 覚にどういう影響を与えるはずであるかを予告する。そし 秤を持たなければなにもしない。しかしこの秤はわれわれの て、あらかじめ受ける印象にしたがって、その物質を求めさ 気まぐれを尺度にしていて、われわれの胃を尺度としてはい せたり、避けさせたりすゑ未開人はわれわれの嗅覚とは全 ない。今度もやはり実例に戻って話そう。農家ではパン箱と然違ったふうに刺激される嗅覚をもち、良い匂いと悪い匂い 果物箱はいつも開けっ放しである。それでいて、子供たちをまったく違ったふうに判断する、ということを聞いたこと も、大人と同じように、消化不良がどういうことかを知らな がある。わたしとしてはその話は信じてよいと思う。匂いそ いのである。 れ自体は弱い感覚である。それは感覚よりも想像を揺り動か し、それが与えるものよりはむしろ、それが期待せるものに それにしても、わたしの方法ではありえないことだと思う が、もしも子供が食べすぎるようなことがあれば、彼の好みよって影響を及。ほす。そうだとすれば、生活の仕方によって 他の人の味覚とはまったく違ってしまった、ある人びとの味 に合った遊びでもってその気をそらすのはたいへんやさしい 覚は、味について、したがってその味を予告する匂いについ ことだから、彼にはそれとは気づかれないで、空腹で疲れは てさせることだってできるだろう。これほど確実で容易な方ても、まったく反対の判断をその人びとに行なわせるに違い だったん ない。韃靼人は死んだ馬の悪臭を放っ足の匂いをかぐと、わ 法が、どうしてすべての教師に見逃されているのだろう。へ しやこ が国の狩人がなかば腐った鵬鴣の匂いをかいだ時と同じくら ロドトスの語るところによれば、極度の食糧不足に追いつめ い愉快な気持にならずにはいない。 られたリディア人たちは、飢えをまぎらし、幾日も食うこと ( 四も ) を考えないで過せるような、いろいろな遊びやその他の気晴 花壇の花の匂いを感じるというような、どうでもよい感覚 は、あまり歩きすぎて散歩が好きになれない人や、十分に働 しを発明しようと思いついたという。あなた方の学識豊かな 教師たちは、おそらくこの一節を百回も読んだことがあるだ かないので休息が楽しみになれない人には、わからないはず である。いつも空腹でいる人たちは、なにも食べ物を予告し ろうが、それを子供たちに応用できるとは気がっかなかった のだ。彼らのある者はおそらく、子供というものはわざわざない良い香りなどには、たいして嬉しくなれないだろう。 進んで食事をやめて、学課を勉強しに行くものではないとい 嗅覚は想像力の感覚である。それは神経にいっそう強い調 うかも知れない。先生、あなたのいう通りだ。わたしはそん子を与えるのだから、当然におおいに頭脳を刺激することに .

6. 世界の大思想17 ルソー エミール

232 て想像の火がともされたとき、彼ははじめて同じような人間 いほかの子供と違う点は、ただ彼は興味を感じているよう のうちに自分を感じ、彼らの嘆きに心を動かされ、彼らの苦にみせかけようとはしないこと、彼らのようにうそをつかな しみに心を痛めるようになる。そうなってこそ、悩める人類 いということだけだ。 の悲しい光景がこれまで味わったこともない感動を彼の心に 工 ルは感覚を持っ存在についてあまり考えたことはな 呼び起すことになるのだ。 いから、悩むとか、死ぬとかとはどういうことかについて たとえあなた方の子供について、こういう時期を認めるこ は、後になって知ることになる。嘆く声、悲しみ叫ぶ声が彼 とがむずかしいとしても、あなた方は誰をも責めるわけには の心の底を動かしはじめる。流血の光景を見れば眼をそむけ ゆくまい。あなた方は彼らにあまりに早くから感情をよそおるようになる。息絶えなんとする動物の痙攣は、そういう新 うことを教えているし、あまりに早くから感情の言葉を学ば しい心の動きがどうして起ってくるのかわからないうちか せているので、彼らはいつも同じ調子で語って、あなた方に ら、なんともいえない苦悶を彼に感じさせることになる。も 教わったことをあなた方に対して逆用し、いつうそをいうのし彼が鈍感で野蛮なままだったとしたら、そういう苦悶を感 をやめて自分の言葉を実感しはじめるのかを見分ける手段をじないだろう。もっと多くの知識をさずけられていたとした あなた方にひとつも与えないのだ。ところが、わたしのエミ ら、彼はその苦悶の源を知るに違いない。彼はすでにいろい ールを見るがよい。わたしが彼をこれまで導いてきた時期に ろな観念を比べてみたことがあるのだから、なにも感じない は、彼は感じたこともうそをついたこともない。愛するとは わけこよ、 冫し力なしが、自分の感じていることを理解できるに どういうことかを知らないうちは、彼は誰にも「わたしはあはまだ不十分なのだ。 なたを深く愛します」と言ったことはない。父親や母親やあ こうしてあわれみの心が生まれてくる。これは、自然の秩 るいは病気で寝ている教師の部屋へはいるときに、どんな態序によれば最初に人間の心を動かす感情であゑ子供が感じ 度でなくてはならないかなど、彼は命じられたことはない。 やすく憐れみ深くなるには、子供は自分が悩んだことを悩 また、自分の感じてもいない悲しみをよそおう技巧を教えらみ、自分が感じた苦痛を感じ、自分も感じるかもしれないも のとしてその観念を持っていなければならない他の苦痛を感 れたこともない。誰が死んだときにも、空涙を流したことは じている、自分と同じような存在があることを知らなければ ない。それは死ぬとはどういうことか知らないからだ。彼が 心情において、無感覚であれば、態度でも同じように無感覚ならない。実際、もしわれわれが自分の外に身を移し、苦し である。ほかのどの子供もそうであるように、自分のこと以んでいる動物と同化するということがなければ、いわば自分 の存在を捨ててその動物の存在に変るのでなければ、どうし 外のいっさいのことに無関心なので、誰にも興味を感じな

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210 負っている。だがあなたは、社会のためにいったいなにをし じて、どういうところまでわれわれが到達したのか、できる ているのですか。」それに対してごりつばな教師ならなんと だけ正確に見ることにしよう。 答えるだろうか。わたしにはわからない。おそらく彼は、お われわれの生徒ははじめ感覚しかもっていなかったが、い ろかにも子供にむかって、わたしはあなたの面倒をみてい までは観念をもっている。彼は感じるだけだったが、いまで る、とでも言うだろう。わたしはどうかといえば、仕事場と は判断する。というのは、続いて起るか同時に起るかするい くつかの感覚の比較から、そしてそれについてくだす判断か いうものが窮地をきりぬけさせてくれる。「そう、エ それはすばらしい質問だ。わたしは、あなたが自分で満足のら、わたしが観念と名づける、一種の混成感覚または複合感 覚が生まれてくるからである。 いく答えができるようになったら、わたしのほうでも答えて ・あげることを約東します。それまでは、わたしは、あなたや 観念をどんなふうにして形づくるかによって、人間精神に どんな性格を与えるかがきまってくる。現実の諸関係だけに 貧しい人たちに余分なもちものをあげることにしましよう。 もとづいて観念を形づくる精神は、堅実な精神である。表面 そうして、一週間ごとに机を一つとか腰かけを一つとか作っ て、まったくのろくでなしにならないように心がけましょ的な関係に満足している精神は浅薄な精神である。いろいろ な関係をありのままに見る精神は正しい精神である。それら を見そこなう精神は間違った精神である。現実性も外観もも こうしてわれわれはわれわれ自身のところへ戻ってきた。 たない架空の関係をつくりだす者は気ちがいである、比較を いまやわれわれの子供は、子供でなくなろうとしており、自 しない者はばか者である。観念を比較し、関係をみいだす能 分という個人に立ち返ったのだ。彼はいまや、自分を事物に むすびつけている必然の力を、これまでよりもずっと身にし力が多いか少ないかによって、人々の才気が多いとか少ない みて感じている。まずはじめに彼の身体と感官を訓練したあとかがきまってくる、等々。 単純な観念とは比較された感覚にすぎない。単純な感覚の とで、われわれは彼の精神と判断力を訓練した。やがてわれ われは、彼の手足の使いかたと能力の使いかたを一つにむすうちにも、わたしが単純な観念と名づける複合感覚の場合と 同じように判断はある。感覚においては、判断はまったく受 びつけた。彼を行動し、思考する存在につくりあげたのだ。 人間として完成させるためには、人を愛する感じやすい存在動的で、それは人が感じているものを感じているというこ とを確認する。知覚あるいは観念においては、判断は能動的 に彼をすること、つまり、感情によって理性を完成させるこ である。それは感官によって決定されないいろいろな関係を とだけが残されている。しかしそういう新しい事態にはいっ ていく前に、われわれが抜け出そうとしている状態に目を投近づけ、比較し、決定する。違いといえばこれだけだが、そ

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びつける。こうして触覚はあらゆる感官のうちで、外部の物す繰り返される刺激に注意を向けるうちに、そのあらゆる変 化を容易に判断する力を獲得するようになる。この差違は、 体がわれわれの身体に及ぼす印象を一番よく教えてくれるも のだから、もっとも頻繁に使用され、またわれわれの自己保存楽器の使用に、はっきりあらわれる。チ = ロやコントラス やさらにはヴァイオリンの、かたい、傷つけるような感触 に必要な知識をもっとも直接的に与えてくれるものである。 は、指をいっそうしなやかにしながらも指先を固くする。ク 触覚を働かせれば視覚を補うことになるように、それはま ラヴサンの柔らかくて滑らかな接触は指を同じようにしなや たある点まで、聴覚を補うことができないものでもあるま い。なぜかというに、音はそれを発する物体に、手で触れれかにするが、同時にますます敏感にする。だから、この点で ば感じられる振動をひき起すからだ。チ = ロの胴体に手をおは、クラヴサンのほうが好ましい。 皮膚が空気の影響に慣れ、その変化に耐えられるようにな いてみれば、眠や耳の助けをかりなくても、木部の振動の仕 ることは大切である。なぜといって、自分以外のすべてのも 方だけで、その出す音が低いか高いか、またそれが第一絃か のを護ってやるものは皮膚だからである。それを別にすれ ら出ているか、低音の絃から出ているかを区別することがで ば、わたしは手が同じ仕事にばかり奴隷のように使われて、 きる。このちがいがわかるように感覚を訓練すれば、時がた つにつれて、そういうことに敏感になって、ついには指で全こわばってしまうのは望ましくないと思うし、また手の皮膚 がほとんど骨のようになったために、その触れる物体がなん 曲を聞くことができるようになることは疑いないと思う。さ てこう考えて見れば、耳の聞えない人に音楽で話をすることであるかを知らせ、触れるものの種類によ「て、時として暗 が容易にできるようになることは明らかだ。というのは音調闇の中でわれわれをいろいろなふうに震えおののかせる、あ の微妙な感じを失ってしまうのも好ましくないと思う。 と拍子とは、音節と声と同様に、規則的な組合せを行なうこ なぜわたしの生徒はいつも足の下に、牛の皮を着けるよう とができるのだから、同じように話の要素としても、考える に強制されなければならないのか。必要な時には、彼自身の ことが可能だからである。 触覚を鈍らせ、ますます鈍化させる用い方がある。またそ足の皮が靴の裏と同じ用をつとめることに、どんな不都合が れとは反対に、触覚を鋭くし、ますます鋭敏に、繊細にするあるのか。この部分では皮膚の敏感さはけっしてなんの役に 用い方もある。前者は固い物体のたえまない刺激に、多くのも立たないし、しばしば非常に有害になりうることは明らか 、かたくして、自である。冬のさ中、真夜中に、自分たちの町で敵のために起 運動と力とを加えて、皮膚のきめを荒くし されたジュネーヴの人たちは、靴よりも先に銃を見つけたの 然の感じをなくさせる。後者は軽く頻繁に触れることによっ てその同じ自然の感じに変化を与え、その結果、精神はたえだった。もし彼らのうち誰ひとりとして裸足では歩けなかっ

9. 世界の大思想17 ルソー エミール

621 解説 た文学者であったことは、彼の理論的作品にすら明らかに見とからも理解できる。「告白』や手紙のなかでルソー自身み とめているように、彼の読書は、第一に、多くは母が残した られるが、それとともに鋭い倫理感覚をそなえたモラリスト 前世紀の空想的、伝奇的で感傷的な恋愛小説、スキ、デリや だったことも、なによりも彼の主要作品が証明している。こ ラ・カルプルネードなどを父と一緒に夜を徹してまで読なこ の二面を、ロマン的なルソーとローマ的 ( 英雄的 ) なルソーと とから始まった。幼い彼に歌を聞かせて音楽の世界を知らせ に区別したシャンツ (). Schinz) の古典的な定義があるが、 た叔母も、彼の感受性を養ったけれども、この早熟な感情教育 この二つの傾向はルソー自ら『告白』のなかで指摘している ように、幼年時代に始まっている。それは、幼少年時代の早のため、現実世界の外にいつも美しい幻想の世界を夢みる習 熟な性格形成にあずかった読書に、二種類の方向があったこ慣がいっそう早く身についてしまった。彼には内に向かう、 女性的な受動的な夢想、内面的な感 覚や情緒のなかにひたり、没人する 内攻性と、外に向かう、活動勺よ、 者英雄的なきびしい精神とがあるが、 ジその ~ 明芽はもうこの頃から現れてい た。同じ頃に、ルソーはラ・ブリュイ 原ペ たのエールやフォントネルや、とりわけ ら冒。フルタルコスに読みふけっていた。 これも彼のもう一つの夢想、ヒロイ に第ックな共和国の美徳の夢をはぐくむ 」 - / 、 ~ 、 ~ 初 = と」な「た。とりわけ少年時代」 。フルタルコスの「英雄伝」と『倫理 ルペ 一論集』に親しんだことは、ある意味 工 6 で決定的であった。想像力のゆたか な少年ルソーが、国家論や政治論に 興味をもつようになったのは、血肉 をそなえた古代スパルタやローマの

10. 世界の大思想17 ルソー エミール

でつくり出さなければいけない。かりにも彼の頭の中に理性て、目に光と色とを反射するさまを見せてくれる。小鳥たち のら のかわりに権威をうえつけようものなら、彼はもはや理性をも集まってきて声を合わせ、一斉に生命の父に挨拶を送る。 はたらかさなくなってしまう。もはや他人の意見にもてあそこんなとき黙っている鳥は一羽もいない。小鳥たちのさえす りはまだ心もとないが、一日の他の時刻にくらべれば、もっ ばれるだけになってしまうだろう。 あなたがたがこの子に地理を教えようと思ったとする。そとゆるやかでもっとやさしく、安らかな眠りから覚めたばか して彼のために地球儀、天球儀、地図をもってきてやろうとすりのものうさを感じさせる。こうしたものすべてが力を合わ・ る。なんと道具ばかりではないか。なぜみながみな代用品で せて、魂にまでしみとおるかと思われるさわやかな印象を なければならないのか。なぜはじめに実物を見せてはやらな 官に伝えてくる。これこそどんな人でもうっとりせずには、 いのか。そうすれば、あなたがたがなんの話をしているかと られない恍惚のひとときであり、これほど壮大な、美しい いうことくらいは、子供にもわかるだろうに ! 甘美な光景には、たれひとりとして心を動かされずにはいら、 ある晴れた日の夕方、みわたすかぎりの地平線に、タ陽の沈れない。 んで行くさまが手にとるように見える場所を選んで散歩に行 自分が味わっている感動に胸いつばいになっている教師 ぎ、太陽が沈む地点のめじるしになるものをよく見ておく。 は、その感動を子供に伝えたいと思う。彼は自分が心を動か されている感覚に子供の注意を向けさせればそれで子供の心 翌日、太陽が昇る前に、新鮮な空気を吸いに同じ場所へもど ってみる。太陽は先ぶれの光芒を放って、はやくも日の出のを動かすことができると思っている。そんなばかげたことが ま近いことを告げている。朝焼けがひろがり、東の空は燃えあろうか。自然の光景が息づいているのは人の心の中なの だ。その光景を見るためには、それを感じていなければなら・ たっかと思われる。その輝くさまをみて、日の出にはまだ間 よ、。子供にもいろいろな対象はわかるが、それらをたがい があるのに人は太陽が現われるのを、いまかいまかと待ってオし に結びつけている関係はわからないし、それらが相和して奏 . いる。さあ太陽が姿をみせる。明るみがほんの一点、稲妻の ようにはしったかと思うと、みるみる空いつばいにみちあふ でる甘美なハーモニーを聴きとることはできない。すべてこ - れる。闇のとばりは消え落ちる。人が自分の居場所をそれと のような感覚から同時に生じてくる錯綜した印象を感じとる には、経験と感情とが必要だが、子供はそういう経験を積ん 気づくころには、あたりはいつのまにか美しく照り映えてい 第る。緑の野原は夜のうちに新しい生気をとりもどした。野面でもいないし、そういう感情を味わったこともないのだ。草 こんじ込 も生えない野原を長いことさまよったこともなく、焼けつく は生まれ出る日の光に照らされ、最初の光線を浴びて金色に 染まり、その上を光りかがやく朝露が網の目のようにおおっ ような砂に足の裏を焼かれたこともなく、また炎天下の岩屮