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検索対象: 世界の大思想17 ルソー エミール
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1. 世界の大思想17 ルソー エミール

かろうか。」 て印象をうける。これがわたしの注意を強くひき、わたしが 承認しないではいられない第一の真理である。わたしは自分 そこで、真理に対する愛を唯一の哲学として心にいだき、 はんさ 役にも立たない煩瑣な議論をまぬがれさせてくれる平易で簡の存在について、ある特有の意識をもっているのだろうか。 単な規則を唯一の方法としてとり、わたしは、この規則にもそれとも、自分の存在をただ自分の感覚によって感じている とづいて、自分の関心をひく知識の再検討にとりかかった だけなのだろうか。これがわたしの第一の疑問であって、こ そのさい、自分の誠実な良心にかけて同意をこばむことのでれはいまのところ、わたしにはその解決が不可能なのであ きないような知識は、すべて自明なものとして承認し、このる。というのは、わたしは直接にか、または記憶によって、 第一の知識と必然的なつながりを持っとみえるものはすべてたえす感覚から印象をうけているので、「わたし」という感 真実なものとして承認することにきめ、また、その他の知識覚がそういう感覚以外のなにものかであるかどうか、また、 はすべて不確定の状態にとどめて、それらを否定も肯定もせその感覚から独立したものであるかどうかを、どうしてわた しに知るすべがあろうか。 ず、またそれらが実践上なんら有用なものを生まない場合 は、それらを解明するために心を悩ましたりしないことにき わたしのもろもろの感覚は、それらがわたしの存在をわた めておいた。 しに知覚させるのだから、わたしの内部で生起しているの ところで、わたしはいったい何ものであろうか。わたしは ど。しかし、それらの感覚は、、 しやおうなしにわたしに印象 どんな権利があって事物に判断を下すのか。またわたしの判をあたえるのだし、また、それらを生みたすこともそれらを 断を決定するものはなんであるか。もしその判断がわたしの消減させることも、わたしの関知するところではないのだか 受けた印象からいやおうなしに引き出されるものなら、こんら、それらの感覚の原困は、わたしの外にある。だから、わ な研究にしたがうことは骨折損になるばかりだ。そんな研究たしの内部にあるわたしの感覚と、わたしの外部にあるその はけっして行なわれないか、さもなければ、わたしがわざわ原因またはその対象とは、同じものではないことを、わたし ざその研究を指し図するように手を出さないでも、ひとりで は明白に理解する。 篇にそれは行なわれるだろう。そこで、わたしは、ます、自分 こうして、ただにわたしは存在するばかりでなく、、ま、 四の上に眠を向けて自分のもちいようとする道具を知り、まの存在も、すなわち、わたしの感覚の対象も存在する。そし 第た、どの程度まで信頼してそれを使用できるかを知らなくて て、たとえそれらの対象が観念にすぎない場合でも、やはり はならない。 そうした観念がわたしでないことは真実である。 ところで、わたしが自分の外部にあると感しるもので、わ わたしは存在している。そして、感官を持ち、それを介し

2. 世界の大思想17 ルソー エミール

達した時までの進歩をたどってみれば、その人の知識には驚表象感覚を少しずつ形づくるためにも長い時間を必要とす る。しかし、それらの事物が拡がりを持ち、いわば子供の眠 くだろう。もしも人間の全知識を二つに分けて、一方をすべ ての人間に共通な知識、他方を学者特有の知識とすれば、後から遠ざかり、子供から見て大きさと形をとるようになるま 者は前者に比較してきわめてささやかなものであるはずだ。 では、感情的な感覚を繰り返すことで、子供たちは習慣のカ しかしわれわれは一般的な知識のことはほとんど考慮にいれに従うようになりはじめる。彼らの眼はたえず光の方向に向 ない。なぜならそうした知識は、気がっかないうちに、しかけられ、光が側面から来ると、無意識のうちにその方向に向 くことがわかる。だから、子供が斜視にならないように、つ も分別のつく年頃よりも前に得たものだからである。それに 学識というものは、差がついてはじめて目立つものであっ まり物を斜に眺める習慣をつけないように、注意して顔を光 て、代数の方程式のように、共通の量はゼロと見なされるか りのほうに向けてやらなければならない。それからまた、子・ らである。 供たちは早くから、暗闇に慣れるようにしなければならな 動物でさえ多くのことを習得する。動物には感覚がある。 そうでないと、彼らは、暗いところにいることがわかる だから、その用い方を学ばなければならない。また動物には とたちまち泣いたり叫んだりする。食物の量や睡眠の時間を 欲求がある。だから、それをみたすことを学ばなければならあまり正確にきめておくと、いつも定った間隔をおいてそれ ない。動物は食べたり、歩いたり、飛んだりすることを学ば らが必要になってくる。そしてやがて、欲望は必要からでは なければならない。生まれた時から足で立っている四足獣なくて、習慣から生じるようになる。というよりも、習慣に も、だからといって歩けるわけではない。彼らが歩きはじめよって、自然の欲求に一つの新しい欲求が加わることにな るのを見ると、まだ自信のない試みであることがわかる。籠る。これこそはあらかじめそうならないように心がけるべき・ ことなのである。 から逃げ出したカナリヤは、全然飛ぶことができない。今ま で飛んだことがないからだ。生命をもち感覚をもつものにと 子供につけさせておくべきただ一つの習慣は、どんな習慣 - っては、何もかも教育となる。植物が前進運動を行なうとすにもなじまないということである。どちらの腕にしても、一 篇れば、感覚をもち、知識を獲得する必要があろう。さもなけ方の腕でだけで子供を抱いてはいけない。一方の手だけを出 一ればその種属はやがて減びてしまうはずだ。 したりその手ばかりを使ったりしてはいけない。また同じ時・ 第子供たちの最初の感覚は、純粋に感情的なものである。彼刻に食べたり眠ったり行動したりしてもいけないし、昼でも らは快楽と苦痛だけしか知覚しない。歩くことも手でつかむ夜でもひとりでいられないような習慣をつけてもいけない。 こともできないのだから、彼らは外界の事物を示してくれる子供の身体を自然の習慣にまかせることで、また子供がいっ 、 0

3. 世界の大思想17 ルソー エミール

て許さない。 昆虫を解剖したということはないだろう。太陽の黒点を数え 自分で学ばなければならない彼は、自分の理性をもちいて たこともないだろう。顕微鏡とか望遠鏡とかいうものがどん というのは、世俗の意見にとら 他人の理性にはたよらない。 なものかも知らないだろう。あなた方の博学な生徒たちは、 彼の無知をあざ笑うことだろう。それも無理はないかもしれわれないためには、権威にとらわれてはならないからだ。そ してわれわれの誤りはたいていわれわれからというよりはむ よい。というのは、こういう道具を使うより先に、わたしは しろ他人から生じるものだ。こういう絶えまない訓練から 彼にそれを思いっかせるつもりでいるのだが、それはあなた 方も十分お察しのとおり、そうすぐにはうまくいかないだろ は、労働と疲労によって身体に与えられるたくましさと同じ うから。 ような強い精神力が生まれてくる。もう一つの利益は、自分 これがこの篇におけるわたしの方法すべてをつらぬく精神の力に応じてのみ進歩していくことである。精神も肉体と同 である。子供が小さな玉をひとつ、交叉した二本の指の間に じように、自分にもちこたえられるものしかもちこたえな ころがして、玉が二つあるように思ったら、玉が一つしかな 。悟性が事物を記憶にとどめる前にそれを自分のものにし いことを子供がなっとくするまでは、わたしはそれを見るこ ているなら、後で記憶から取りだすものは自分のものだ。と とを許さないだろう。 ころが、悟性が知らないうちに記憶をいつばいにしてみたと ころで、そこからは自分の身についたものはなに一つ取り出 わたしの生徒の精神がこれまでなしとげた進歩と、その進 歩をつづけてきた道すじをはっきりと示すには、これだけ説、せないことになってしまう。 ナ彼が , も一 明すれば十分だろう、とわたしは思う。だが、あなた方はた ールはわすかな知識しかもっていない。どが、 ぶん、わたしがあまりたくさんのことを彼の目の前にひろげつている知識は、ほんとうに自分のものになっている。彼は て見せたことに恐れをなしていることだろう。わたしが山の なに一つ生半可に知っているということがない。彼が知って いる、しかも十分知りぬいている教少ないことのうちで、 ような知識で彼の精神を押しつぶしてしまうのではないかと あなた方は心配している。とんでもないことである。わたしちばん重要なことは、自分がいまは知らないが、いずれは知 篇はそういうことを知るよりも知らないでいるようにと彼に教ることができることがたくさんあり、ほかの人たちは知って えているくらいだ。平坦にはちがいないが、長い、はてしも いるが、自分には一生知ることができそうにもないことがも っとたくさんあり、さらに、人間にはけっして知ることがで 第よい、歩きとおすのに暇のかかる学問への道を彼に示してい きないことがほかにも無数にあるということである。彼は普 るのだ。わたしは彼に最初の何歩かを踏み出させて、入口が それとわかるようにしてやるが、遠くまで行くことはけっし 遍的な精神をもっているが、それは知識によってではなく、

4. 世界の大思想17 ルソー エミール

を暗記しているかどうかはどうでもよいことで、地図があらあるのにやりきれなくなり、どれをとっておいたらよいかわ わしているものがよくわかり、地図をつくるのに必要な技術からなくなって、とうとうみんな捨てて手ぶらで帰ってしま う、そんな子供をみているような気がする。 について明確な観念をもってさえいればそれでよい。あなた 幼いころには時間も長かった。時間の用い方をあやまるこ がたの生徒の学識とわたしの生徒の無知、そのあいだにはす とを恐れて、われわれはひたすら時間をつぶすことばかり考 でにこれだけの違いがあることをよくごらんいただきたい。 あなたがたの生徒は地図を知っているが、わたしの生徒は地えた。今ではまったく反対で、およそ役に立つようなことな らば、すっかりしとげるには、時間が十分でない。情念が近く 図をつくるのだ。こうしてまた、彼の部屋に新しい飾り物が できたわけである。 までせまっていることを、そしてひとたび情念が扉をたたく わたしの教育の精神は、子供にたくさんのことを教えるこやいなや、あなたの弟子はもうほかのことには注意を払わな くなることを念頭においていなければならない。波風のたた とではなく、正確で明晰な観念のほかにはなに一つ子供の頭 の中へ入れさせないことだ、ということをいつも忘れないでない知性の時期はきわめて短く、たちまちに過ぎ去ってしま うものだし、ほかにもいろいろとしなければならないことも いただきたい。彼がなにひとっ知らないとしても、わたしは かまわない。ただ間違えさえしなければよいのだ。そしてわあるのだから、子供を物知りにすることさえできれば、それ たしが彼の頭の中へ真理を入れてやるのは、ただ、真理の代でよいと考えるのは愚かなことだ。子供に学問を教えること 学問を愛する趣味を与え、この趣味が が問題なのではなく、 わりに覚えこむかもしれない誤謬から彼を守ってやるためな もっと育ったときに、学問を学ぶための方法を教えることが のだ。理性と判断力はゆっくりやってくるが、偏見は大挙し 問題なのだ。これこそ確かに、あらゆるよい教育の根本原理 て押し寄せる。そういう偏見から彼を守ってやることが必要 なのだ。ところが、学問そのものを目的とするならば、あな たがたは底知れず、果てしもない、暗礁にみちた大海に乗り これはまた、一つのことに一貫して注意を向けるように、 出したようなものだ。あなたがたは二度とそこから抜け出すすこしずっ子供を慣らしていく時期でもある。しかし、そう 篇ことはできないだろう。知識愛にとりつかれた人が知識の魅 いう注意をうながすものは、けっして強制ではなく、いつも楽 三カに惹かれて、とめどもなくあれもこれもと追いもとめてい しみと欲求とでなければならない。それにいや気がさし、し 第るのをみると、わたしは、海辺で貝殻を拾い集め、持ちきれまいにはうんざりしてしまうというようなことにならないよ ないほど集めてはみたものの、ほかの貝殻にも目移りがし う大いに気をくばらなければならない。だから、いつも目を 8 て、投け捨ててはまた拾い、しまいには、あんまりたくさん放さないでいるがよい。そして、どんなことになっても、彼

5. 世界の大思想17 ルソー エミール

わすこともきっとあるだろう。だが、情念に身を任せる者をなら、前者は社交界の習慣を構成している、年齢、身分、性 によって異なるあらゆる礼儀作法の理由というものを感得す 情念が惑わさない時があるだろうか。しかし、少なくとも、 る能力があるので、それらを原則に還元して、不測の場合に 彼が他人の情念によってだまされるようなことはけっしてな いだろう。他人を見るときは、彼は賢者の目で見、彼らの手それらを応用することができるのだが、これに対して後者は、 本に引きずられたり、それらの偏見に心を迷わされたりするそのお定まりの慣例だけが規則のすべてになっているので、 ことはないだろう。 それからはずれた場合に出あうと、途端にどぎまぎしてしま 学問の研究にふさわしい時期というものがあるように、世うのである。 フランスの娘たちは結婚させられるまでは、すべて修道院 の中の習慣を正しくつかむのにも、それに適した時期がある。 そうしたしきたりをあまりにも幼い時に覚える人は誰でも生でしつけられているが、彼女たちが結婚する時になって、彼 涯それに従っていながら、選択するということも、反省する女たちにとってまったく新しいああいう物腰をするのに苦労 、リの婦人たちは ということもないので、たとえ自信はあっても、自分のしてするようなことが見かけられるだろうか。。 , いることが十分には自分にわからないものだ。しかし、そのぎこちない、当惑したようすをするとか、子供の時から社交 習慣を学んで、しかもその理由を理解している者は、さらに界につれてゆかれなかったために社交界の習慣を知らないと 多くの見識をもってそれに従うので、その結果、もっと適切かといって、非難されるようなことがあるだろうか。そうい う偏見は社交界の人びと自身から生まれてくるのだ。彼らは に、そしてもっと優美にそれに従うことになる。なにも知ら ない十一一歳の子供をわたしに任せてくれれば、十五歳になっそういうくだらない知識以上に大切なものはなに一つ知らな いので、それを覚えるためには、どんなに早くから始めても たら、あなた方がほんの幼児の頃から教えてきた子供と同じ 早すぎることはないなどと、あやまって思いこんでいるので くらい知識のある子供にしてあなた方に返してやるだろう が、違うところはといえば、あなた方の子供の知識は、彼のある。 たしかに、あまりおくらせてもいけないということは真実 わたしの子供の知識は彼の判断 記憶のなかにあるだけだが、 篇力のなかにあるということだろう。これと同じように、一一十である。青年時代をずっと上流社会から離れて送った者は、 四歳の青年が世間〔社交界〕に紹介されることになったとしてその後に社交界に入っても、いつもどぎまぎした、さばけな いようすを示し、いつも場違いな話をし、泥くさくて不器用 第も、正しく導かれるなら、彼は一年後には、幼年の頃から社 交界で育てられてきた者よりも、も「と人ざわりのよい、そな態度をしていて、社交界で生活するのが習慣にな 0 ても、 してもっと正しい礼節をわきまえた青年になるたろう。なぜもはやそういうことから免れることができす、それから抜

6. 世界の大思想17 ルソー エミール

幾何学において彼が示す進歩は、あなた方が彼の知性の発 この少数の知識のうちから、さらにまた、それを理解する にはあらかじめ悟性がすっかりでき上っていなければならな達程度を吟味するもの、正確に測る尺度となるかもしれな 。しかし、有用なものとそうでないものとが彼に見分けら いような真理は除かなければならない。子供には理解できな い人間関係についての知識を前提とするもの、それ自体としれるようになったら、理論的な研究を彼にさせるにはいろい ては真理でも、未経験な子供の心に、ほかの問題についてまろ手心と工夫をこらす必要がある。たとえば、二つの直線の ちがった考え方を抱かせるようなものは、除かなければなら比例中項をもとめさせるとしたら、まず与えられた長方形と 等しい面積の正方形をみつける必要があるようにしむけるが よい。二つの比例中項を求めることになっているとしたら、 そうなるとわたしたちは、存在する事物にくらべればまこ とに小さな圏の中に閉じこめられてしまうことになる。しか まず一一重の立方体の体積を作る問題に彼に興味をもたせるよ うにしなければなるまい、といったようなことだ。善と悪と し、こんな小さな圏でも、子供の精神の尺度ではかれば、な んと広大な領域を形づくっていることか。人間悟性の暗闇を区別する道徳的観念に、われわれが段階を追って近づいて これまでのところわれわれ よ、あなたのヴェールにあえて手を触れようとした者はなん いくさまをみていただきたい。 という身の程知らずだったか。わたしたちのむなしい学問の は、必然の法則以外には法則というものを知らなかった。こ ために、この不幸な少年の周囲にはなんと多くの深淵がみるれからは有用なものに注意をはらうことにしよう。われわれ にとってふさわしいもの、ためになるものを論ずるのももう みる掘られていくことか。ああ、この危険な小道に彼をいざ とばり ない、彼の目の前に自然の聖なる幕を引き上げようとする者すぐだ。 同一の本能が人間のさまざまな能力を刺激する。のびてい よ、恐れおののくがよい。まず彼の頭と君の頭とを十分に確 こうとするからだの活動について知識をもとめようとする精 かめておくがよい。彼か君かどちらか、おそらくは二人と も、目を廻すかもしれないことを覚悟するがよい。まことし神の活動があらわれる。最初のうちは子供はただからだを動 かしているだけだが、やがて好奇心が芽ばえてくる。そしてこ やかな嘘のいざないを、高慢心の人を酔わせる毒気を恐れる 篇 の好奇心はうまく導かれるなら、われわれが今到達した時期 がよい。無知はけっして悪を生みだしたことがなく、誤謬だ の原動力となる。とはいえ、自然から生まれる傾向と世俗の けがいまわしいものだということ、人が道をあやまるのはな 第にか知らないからではなく、知っているつもりになるからだ 意見から生まれる傾向とをはっきり区別しておこう。物知り ということ、これを忘れてはならない。たえず心にとめておと思われたいという欲望にもとづいているだけの知識欲もあ かなくてはならない。 るし、また近くのものでも遠くにあるものでも、すべて興味を

7. 世界の大思想17 ルソー エミール

196 彼の天分が目ざしている対象へ向かって第一歩を踏みださ外へ出ることができた。われわれは大空にかけあがった。大 せ、自然の働きを助けるために、切りひらいてやらなければ地を測定した。自然の法則を学びとった。つまり、われわれ は島ぜんたいをくまなく歩きまわったのだ。いまやわれわれ ならない進路をわれわれに示すことができるように子供をし はふたたび自分のところへ帰る。いつのまにやら、われわれ てやることになるのだ。 は家のすぐ近くまで戻ってきてしまった。さあ家にはいろう こういう、限られてはいるが、正確な知識の連鎖から得ら というときになって、われわれをおどして家を奪ってしまお れるもう一つの利益は、知識をその相互のつながりによっ て、その関連によって子供に示し、どの知識もみなそれそれうと待ちかまえている敵が、まだそこを占領していないとし たら、こんな幸せなことはない。 にふさわしい地位において子供に評価させ、多くの人が自分 の育てようとしている才能を過重評価し、自分がかえりみな 周りにあるすべてのものを観察したあとで、われわれには かった才能を過小評価する偏見を彼にふせいでやることであなにをすることが残っているだろう。われわれが自分の物に る。全体の秩序を十分によく見ている者は、それぞれの部分することのでぎるすべてのものをわれわれの役に立つように 変えるこであり、われわれの好奇心を利用して安楽な暮らし が占むべき地位を知っている。一部分を十分によく見てい のために役立てることである。これまでわれわれはあらゆる て、それを知りつくしている者は、学問のある人にはなれる かもしれない。だが前者は分別のある人になる。そしてあな種類の道具を貯えてきたが、どれが自分に必要になるかは知 た方も覚えているとおり、われわれが獲得しようと思ってい らなかった。もしかしたら、われわれの道具は、われわれ自 るのは、学問というよりはむしろ判断力なのだ。 身にとっては無用のもので、他人の役に立つものかもしれな 。そしてたぶん、われわれのほうでも、他人の道具を必要 いすれにしても、わたしの方法はわたしの例とは別個のも とするかもしれない。 こうしてわれわれはみな、そういう交 のだ。それは、年齢の違いによって人間の能力をはかること 換によって得をすることがわかるだろう。しかし、交換を行 と、その能力にふさわしい職業を選ぶことにもとづいてい なうためには、おたがいの必要とするものを知らなければな る。ほかにももっとうまくいきそうな方法はたやすく見いだ らない。他人がもっているもので自分の役に立つものと、そ せると思うが、もしそれが人類に、年齢に、性にあまりうま くあてはまらないとしたら、同じような成功を納めるかどうのかわりに他人に提供できるものとをめいめいが知っていな ければならない。かりに十人の人がいて、それそれ十種類の か疑わしいと思う。 この第二の時期にとりかかるにあたって、われわれは、欲必要をもっているとしよう。各人は自分の必要なものを手に 望よりも力のほうがあり余っていることを利用して、自分の入れるためには、それそれ十種類の仕事をしなければならな

8. 世界の大思想17 ルソー エミール

216 それを獲得する能力によって言えることなのだ。それは開放はせず、ただ自分の関心をひく関係によって知ろうとする 9 的な聰明な精神、なにをするにも準備ができていて、モンテ 自分の外部にあるものは自分との関連によってのみ評価す ーニュが言っているように、教養があるとはいえないにしてる。しかしその評価は厳密で確実である。気まぐれやしきた も、少なくとも教養をあたえられうる精神である。彼がなに りというものはそこには全然はいってこない。彼は自分にと ごとをするにつけても「なんの役にたっか」を、そして、な って役にたつものほどよけいに重くみる。そして、こういう にごとを信じるにつけても「なぜか」を見いだすことができ評価の仕方からけっしてはずれることがないから、彼は世俗・ るなら、それでわたしは十分だ。というのは、もう一度言うの意見には全然とらわれない。 が、わたしの目的は彼に学間を与えることではなくて、必要 工 ルはよく働き、節制をまもり、辛抱強く、健気で勇 があればそれを獲得することを教え、学間の価値を正確に評気にみちている。彼の想像力はけっして燃えあがることがな 価させ、なによりもまず真実を愛させることにあるからだ。 いから、危険を拡大して見せるようなことはない。彼は苦痛・ こういう方法をとると、進歩はあまりはかばかしくないが、 というものをほとんど感じないし、平然とそれに耐えること 一歩でもむだ足を踏むことはないし、後戻りしなければなら ができる。なぜなら、彼は運命に逆らうことを少しも学ばな なくなるということもない。 かったからだ。死ということについては、それがどういうこ おきて 工 ルは自然についての知識、しかも純粋に物体的な知となのかまだよく知らない。しかし、必然の掟に対しては逆 らわずに従うことに慣れているので、死ななければならない 識しかもっていない。彼は歴史という名詞さえ知らないし、 ときには、呻いたり、もがいたりすることもなく、死んでし . 形而上学とか倫理学とかがどういうものかも知らない。人間 と事物との基本的な関係は知っているが、人間対人間の倫理 くだろう。それが誰もがみな恐れているこの瞬間に自然から 的な関係についてはなんにも知らない。観念を一般化するこ許されているせいいつばいのことなのだ。自由に生き、人間 とはほとんどできないし、抽象をおこなうこともほとんどで的なものにあまり執着しないこと、それが死ぬことを学ぶい きない。ある種の物体のあいだに共通の性質をみとめはするちばんよい方法だ。 一言でいえば、エ、、 ールは自分自身に関係のある徳はすべ が、その性質自体について考えることはしない。彼は幾何学 の図形の助けをかりて抽象的な空間を知っている。代数学の てもっている。社会的な徳ももっためには、それを必要とす 記号の助けをかりて抽象的な量を知っている。これらの図形る関係を知るということだけが残されている。彼に欠けてい や記号はそういう抽象を行なう支えであり、彼の感官はそれるものは、ただ、 / 彼の精神がすぐにも受けいれようとしてい によりかかっている。彼は事物をその本性によって知ろうと る知識だけなのだ。

9. 世界の大思想17 ルソー エミール

162 体じゅうにひろが 0 てこそ、筋肉には堅実さ、活動性、調んなことにもちいるだろうか。必要があれば役に立っ仕事に もちいようとっとめるだろう。いわば、現在の彼にありあま 子、弾力性を与えることができ、こうして真の力が生まれる っているものを未来にふりむけるのだ。たくましい子供が弱 のだ、と人びとは言うだろう。これこそ書斎哲学というも い大人のために貯えるのだ。しかし、彼は盗難のおそれのあ だ。しかしわたしは経験にうったえる。あなたがたの領地の いなかでは、大きな男の子たちが、父親とそっくりに、土地る金庫の中にも、離れたところにある納屋のうちにも品物を をたがやし、掘りかえし、鋤をとり、ぶどう酒を樽につめ、車貯えはしないだろう。自分が手に入れたものを本当に自分の こわね を引張「ているのがみうけられる。声音でそれとわからなけものとするために、彼は、腕の中、頭の中、つまり自分自身 の中にそれをしまっておくだろう。だからいまこそ勤労、教 れば、彼らは大人とまちがえられそうだ。われわれの都会で 訓、研究の時節だというわけだが、これはわたしが勝手に選 も、鍜冶屋、刃物師、蹄鉄工などの少年工たちは親方とほと んだものではなく、自然そのものがそれを示しているのだと んど同じくらいたくましく、もし適当な時期に訓練されたな いうことに注意していただきたい。 らば、腕前でもおさおさ劣らないことだろう。両者には違い 人間の知性には限界がある。そして一人の人間があらゆる があるが、わたしもその違いはみとめるけれども、くどいよ ことを知ることができないばかりでなく、他の人間が知って うだが、その違いは大人のはげしい欲望と子供のかぎられた いるわずかばかりのことさえ満足には知ることができない。 欲望との違いよりははるかに小さい。それに、これは肉体的 な力にかぎったことではなく、それを補ったり導いたりするそれぞれのまちがった命題に矛盾する命題は真実なのだか ら、真理の数も誤謬の数と同じく無限である。だから、学ぶ 精神の力や範囲についても言えることである。 のに適当な時期を選ばなければならないように、なにを教え 個人が欲するよりも多くのことができるこの時期は、その るかについても選択を行なわなければならない。わたしたち 個人が絶対的に最大の力をもっ時期ではないが、まえにも言 ったように、相対的に最大の力をもっ時期である。それは彼の手にとどく知識のうちにもまちがったものもあれば、役に 立たないものもあり、あるいはそれをもっている者を増長さ の生涯でもっとも大切な時期、たった一度しかおとすれない いっそせるだけのものもある。本当にわたしたちの幸福に役立っ少 時期だ。きわめて短い時期、つぎに見られるように、 うじようすに使わなければならないだけになおさら短い時期数の知識だけが、賢明な人の、したがって人がゆくゆくは賢 明な人に仕立て上けようと思っている子供の、研究の対象と なのだ。 それでは、現在ありあまっているにしても別の時期になれなるにふさわしい。なんでもあるものを知るというのではな 、有益なものだけを知ることが必要なのだ。 ば足りなくなるこの余分な能力と体力とを、彼はいったいど

10. 世界の大思想17 ルソー エミール

心をけっしてかきたてず、他人を支配することや他人の不幸る。そして、あらゆる惨めな人びとに対して関心をいだいて いる彼にとっては、彼らの不幸を終わらせる手段は、けっし 2 に喜びを求めるようなことをさせなかった教育の結果であ る。彼は人が苦しんでいるのを見れば、自分も苦しむ。それてどうでもよいようなものではない。だから、彼の年齢に さわしいやり方でこういう素質を活用するためには、われわ は自然の感情である。青年が冷酷になり、感覚をもっ生きも のが苦しんでいるのを見てよろこぶようになるのは、虚栄心れはなにをなすべきであろうか。彼の心遣いと知識を規す ること、そしてそれらを増大させるために彼の熱意を利用す がよみがえってきて、自分は知恵のおかげで、あるいは並すぐ ることである。 れているために、そういう苦しみを免かれているのだと彼に 思わせるときである。こういう性向を免かれている者は、そ わたしは飽きることなく次のことを繰り返し言おう、青年 に対する教訓はすべて、ことばよりもむしろ行動で示せ、 の性向の所産である悪徳に陥ることはあり得ないだろう。だ と。青年は経験が教えることのできるようなことは、なにひ からエ ルは平和を愛している。幸福のイメージが彼を喜 とっ書物のなかで学んではならない、と。話の種がなにもな ばせる。そして、彼が幸福をもたらすことに貢献できるとき いのに話す練習を彼らにさせるとは、だれかになにかを納得 には、それは幸福をともに味わうための手段がさらに一つふ させるという興味がまったくないのに、学校の腰掛けの上一 えたことにもなる。わたしは、彼が不幸な人びとを見たとき、 彼らに対して、癒してやれる不幸にただ同情するだけで満足で、情念の言語の力強さと人を説得する術のあらゆる力とを するような、あのむなしい冷酷な憐憫の情しかいだかないだ彼らに感じさせるつもりでいるとは、なんという馬鹿げた計 レトリック ろうとは思わなかった。彼は積極的な慈善心によって、彼が画だろう。雄弁術のあらゆる教訓も、自分の利益になるよう なその用法のわからない者には、単なるおしゃべりとしか思 もっと冷酷な心をもっていたらけっして得られなかったよう を、あるいはもっとずっと後になってからでないと得われないものだ。 ( ンニ。 ( ルが自分の兵士たちにアル。フス越 な知識 えを決心させるためにどんなふうにふるまったかを知ること られないような知識を、はやくから手に入れる。友人の間に 不和な状態があるのを見れば、彼は彼らを和解させようとすなど、学校の生徒になんのかかわりがあるのか。そんな壮大 る。悲嘆に暮れている人びとを見れば、彼らの苦しみの理由な演説をもち出したりしないで、生徒に体を与える気持に . を間いただす。二人の人間が互いに憎み合っているのを見れ生徒監をならせるには、どういうふうにふるまったらよいか ば、彼らの反目の原因を知ろうとする。虐げられた人が権力を話してやれば、生徒はきっとあなた方の規則にもっと注意 - 者や金持の迫害に会って苦しんでいるのを見れば、その迫害深くなることは確信してよろしい レトリック もしもあらゆる情念がすでに発達している青年に雄弁術を がどんなことを楯にとってなされているのかをさぐってみ