/ し、カ しかしわたしは彼にとっていつも手をゆるめない、 きりと刻みこまれるまでは、物がなくて記憶によって、なに かを描くようなことは彼にやめさせるつもりだ。それは彼がそして危険のない竸争者となるだろう。それはわれわれの間 に嫉妬をおこさせないで、彼の仕事に興味を添えることにな 真実の物の代わりに奇妙な空想的な形を描くことになって、 釣合いに関する知識と自然の美に対する趣味を失う恐れがあろう。わたしは彼にならって鉛筆を手に取ることにする。は じめのうち、彼と同じくらい不器用に鉛筆を使うことにす るからだ。 こんなやり方では、子供は長い間なぐり書きをして、わける。たとえわたしがアベレスのような大家であっても、ヘぼ のわからないようなものばかりを書き、デッサン画家の描く画家にすぎないようにする。わたしは下男たちが壁に落書を - ような優美な輪郭や軽快な筆致をおぼえるにはひまがかかするように、一人の男を描くことから始めよう。左右の腕を 一本の線で、左右の脚を一本の線で書き、指は腕よりも太く り、絵画的な効果に対する鑑識眼や、デッサンに対するよい 趣味などはおそらくけっして身につけないだろう、という一」書くだろう。ずっと後になってから、われわれのどちらか とは、わたしにもよくわかっている。その代わり、彼は間違が、この不釣合に気がつくだろう。脚には厚味があってどの いなく、もっと正確な眼、もっとたしかな手、動物や植物や部分でも同じではなく、腕には身体と釣合った一定の長さが 自然の物体の間に存在する、大きさと形とのほんとうの比率ある、ということなどに気がつくだろう。このような進歩の 、わたしはせいぜい彼と並んで進むか、あるいは彼よりほ についての知識、そして遠近法の働きについてのいっそうす んの少しだけ先に進むことにするから、わたしに追いつくこ みやかな経験を習得するだろう。それこそまさに、わたしが させたいと思ったことで、わたしの意図は、子供が事物を模とも、また、しばしば追い越すことも、彼にはいつも容易な ことだろう。われわれはやがて絵具や絵筆を使うことになろ 写することよりも、むしろそれを認識することができるよう う。物体の色合と、その外観を形と同じように模写しようと にしたいということなのだ。彼はわたしに実物のアカンサス を見せてくれたほうがよく、柱頭の葉なんかそれほどうまく努めるだろう。われわれは色を塗り、色で描き、塗りたく る。けれども塗りたくる間にも、われわれは自然の観察をや 描けなくてもよい それにまた、こういう練習でも、他のどんな練習でも、わめないだろうし、この自然という先生の見ているところでな 二たしは自分の生徒にたった一人で、それを楽しませようとはければなにも書かないだろう。 われわれは自分たちの部屋のための装節のことで苦労して 思わない。わたしはたえす彼と楽しみをともにすることによ いたが、今やなにもかも見つかったわけだ。わたしはわれわ って、それをいっそう愉快なものにしてやりたいと思う。わ たしは彼にわたし以外の竸争者をもたせたいとは少しも望まれの絵を額縁に入れる。りつばなガラスで覆いをさせて、人
種の文学的誇張法を用いる。ここにも、パスカルに似た修辞人間を、一般の動物から本質的に区別する特性として、完 法がみとめられる。この表現形式は、しかし彼の思想の特質 能力、進歩、発展の可能性 (perfectibilité) をあげている。 にも関係しているようである。ここにルソー間題といわれ彼は他の啓蒙思想家のように、社会や文化がその内在的傾向一 る、言いふるされたルソーの矛盾の間題を詳しく論じようと とか法則とかによっておのずと一層高い状態に向かうという は思わなしがノ、 、、、、レノーの読者が一度は着するルソーの二面進歩の機械的な楽観説には組しなかったけれども、進歩の可 性について少しふれてみたい。それは端的には、『不平等起能を絶対的に否定したのではない。その意味で、自然人は市 源論』と『エ、、 ール』によってルソーが確立した「自然」民を目的とした概念なのである。自然の善性はルソーの信念一 「自然状態」「自然人」の観念と主として『社会契約論」とそであるが、自然人の措定は、現代の堕落した国家社会に住む人 オム・シヴィル 間、即ち社会人のなかに、歴史的に形成されてきた人為的 の系列の作品に示された「社会契約」「社会状態」「市民」の な、虚偽な部分と、本質的な真正な部分、即ちかくあるべ 観念の間に、一種の断絶ないし二元的な対立を認めるかどう き、倫理的な理想の部分とを見分けるために、モラリスト・ か、それをどう解するかの間題であるが、形式的にはたしか ルソーにとって必然な仮説である。それは、「自然」が彼の にその事実は否定できない。しかし彼の思想の根本が「自 然」にあり、ます自然人の確立の後、その発展、完成として作品のいたるところでほとんど良心ないし、良心に導かれた 「社会契約」が、「市民」があることも確かである。その意味理性という意味で使われていることでもわかる。そうしてみ ると、『不平等論』における歴史的に実現した悪しき社会状 で「自然人」は「市民」の中核となるべきものである。彼の 「自然人」は、彼の体験と内省から生まれた直観であり、彼の態、ホッブズ的な自然状態は、人類の社会の形成過程の「初 思想の核といってもよい。ジャン・ヴァールは、哲学者の中期ーの段階を表わしているのに対して、『社会契約論』の社 核的観念ともいうべきものとしてベルグソンが規定した「哲会状態は、人間が主体的な意志によって作りだすべき目標と 学的直観」がルソーにはない、彼は二つの極をもった思想家しての理想を表わしているというべきであろう。その目標 は、前節でひいた『エ ル』のことばにあるように、人類 だといっている。ジャン・ヴァールのいう二つの極は、この 自然の概念に即していわれたことばではないが、わたしは が実際に到達できるものとは、彼は考えていない。しかしそ ート。ヒアは、人類が不断に目指すべき倫理 「自然」という中心思想の二面性として、この間題を考えた の目標は、そのユ 。「自然状態」は「社会状態」によって完成するように、 的要請なのだ。その意味でそれは人間の行動にとって必須な 後者は前者のなかに潜在している。『不平等論』のなかで、 「ノルム」ではあっても、幻想ではない。しかし、このノル ムはすべて人間と社会を構成するものの根拠を根本的に問う ルソーは理性を潜在的能力として規定し、幸福な動物である
りは、あなたは自分の判断に従っていてもよい。しかし恋愛ものとなろう。たとえ全世界がわたしたちを非難したとして をするようになったら、またお母さんにあなたの世話をまか も、それが何だろう。わたしたちは世間の賛同を求めている せるのだ。 のではない。わたしたちには、あなたの幸福だけで十分なの わたしはあなたに一つの約東を申し出たい。それはあなた に対するわたしたちの尊敬をあらわし、しかも、わたしたち の間に自然の秩序を確立するような約束だ。両親が娘の婿を 読者よ、こういう話が、あなた方の流儀に従って育てられ えらび、本人には形式的に相談するだけ、というのが世間の た娘たちに、どんな効果を与えるのかわたしは知らない。 ならわしだ。わたしたちは、お互いの間で、それとはまった フィーはといえば、ロに出して返事をすることはないかもし く反対のことをしよう。つまり、あなたがえらんで、わたしれない。恥ずかしさと感動のあまり、彼女は容易には彼女の たちが相談をうけることにしよう。ソフィー、あなたの権利気持を言い表わせないだろう。しかしわたしには確信があ を用いるがよい。自由に、賢明に用いなさい。あなたにふさ る。この話は、その後の一生を通じて彼女の心に刻みつけら わしい夫は、あなたがえらんだ人でなくてはならない。わたれていることだろう。そして、もし人間の決心というものに したちがえらんではいけない。しかし、あなたがお互いによ信用をおくことができるとするなら、それはまさしく、この く似合っているかという点で、思い違いをしていないかどう話が彼女にさせる決心、両親の尊敬に値する娘でありたいと か、また、そうとは知らずに、自分の望んでいることとは別 いう決心である、と。 のことをしているのではないか、そういうことを判断するの 最悪の場合を予想して、彼女に、長い間待っていることが はわたしたちの役目だ。生まれとか、財産とか、身分とか、 辛く感じられるような、多情な気質を与えてみよう。それで 世人の意見などは、わたしたちの理由のうちには、全然はい も、彼女の判断力、知識、趣味、繊細さ、そしてとくに子供 . らないだろう。りつばな男性で、その人柄があなたの気に入の頃から彼女の心を育んできたいろいろな感情が、彼女のは り、その性格があなたにふさわしい人をえらびなさい。そのげしい官能に対抗して、それに打ち克つだけのカ、少なくと 他の点がどうであろうとも、わたしたちはその人を婿としてもそれに長い間抵抗するだけの力を彼女に与えるだろうとわ 迎えよう。その人が働きのある人で、品行も正しく、また自 たしは主張する。両親を悲しませ、くだらない男の妻とな 分の家族を愛する人であるならば、その人の財産はいつでも り、不似合な結婚という不幸に身をさらすくらいなら、彼女 十分に豊かなものだろう。その人が美徳によって自分の身分はむしろ、独身の悲しみを抱きながら死んでゆくことだろ を高めているならば、その身分はいつまでも十分に輝かしい う。彼女の受けとった自由そのものが、彼女の魂をいっそう
サン・。ヒエール師は、国家の間に永久平和を維持するため っていた場合よりも、いっそう多くの不幸な人間を作り出 に、ヨーロッパのすべての国家を結合することを提案したこ 5 し、いっそう多くの人間に生命の犠牲を払わせている。また こういうこともわれわれは調べてみよう。社会制度のもとでとがあった。そういう結合は実現可能だっただろうか。たと えそれが確立されたと仮定しても、それが永続すると推測さ は、われわれはあまり多くの自由をもたらしすぎたのではな いか、それともあまり自由が失われすぎたのではないか。社れるものだったろうか。こういう研究は、直接に公法のあら 会は相互の間では自然の独立を持ちつづけているのに、法とゆる問題にわれわれを導いてゆき、それがまた、国制の法の 人間とに服従している個人は、自然と社会の二つの状態の弊諸問題を完全に解明することになるかも知れないのである。 最後にわれわれは、戦争の法に関する真の原理をうちた 害ばかりをこうむって、その利益は受けていないのではない か。だからたくさんの政治社会〔国家〕があるくらいなら、そて、そしてなぜグロテイウスもその他の人びとも間違った原 んなものが一つも世界にないほうがましなのではなかろう理しか与えなかったかを調べてみよう。 か。こういう混合状態こそ、この二つの状態の双方に属しな われわれがこういう議論をしている最中にも、良識をそな がら、そのどちらの状態をも確保できないで、「戦時に備え えたわたしの青年が、次のようなことを言ってわたしをさえ る余地も与えす、平和な時代の安全の余地も残さない」のでぎったとしても、わたしは驚きはすまい。「それではまるで ーないか。こういう部分的な、不完全な結合こそ、専制と戦わたしたちは人間ではなくて材木でわたしたちの建てものを 争とを生みだすのではないか。そして専制と戦争こそ、人類建てているみたいですね。ずいぶん正確に、一つ一つの部分 を規則通りに並べているではありませんか。」「その通りだ。 の最大の災厄ではないのか。 さらにわれわれは、こういう不都合をなくすために考え出友よ。だが、法は人間の情念では曲げられるものではないこ された一種の対策、つまり、それぞれの国家を国内にあってとと、われわれの間で問題になっていたのは、国制の法のほ は自主権を持たせておきながら、国外にあっては、あらゆるんとうの原理を確立することだったことを考えるがよい。 不正な攻撃者に対して防衛させる、同盟とか連合とかによるれでわれわれの礎石はおかれたのだから、さあ、その上に人 間が建てたものを調べてみるがよい。あなたはすばらしいも 対策を調べてみよう。どんなふうにしてしつかりした連合的 な社会結合体を確立することができるか、なにがそれを永続のを見るだろう。」 そこでわたしは彼に「テレマック』を読ませ、旅をつづけ 的なものにすることができるか、国家主権を損なわないでど させる。われわれは恵まれたサレントウムの都を、そして、 の程度まで、連盟の権利を拡張することができるかを研究し 数々の不幸にあって賢明になった善良なイドメネウスを探し てみよう。 ( 一二三 )
れを子供にとって楽しいものにしてやることができる。こう 熱心な哲学者よ、わたしにはもうあなたの想像力が燃え上して、われわれは無人島というものを実現させることになる がるのが見える。だが早まらないでいただきたい。そういうのだが、これはわたしにとってはまず比較の対象になる。そ ういう状態は、なるほど、社会的な人間の状態ではない。これ 状況は見いだされているのだ。しかも、あなたが自分で描い はどうやらエ ルの状態となるものでもなさそうである。 てみせるよりはるかにでき栄えもよく、少なくとも、いっそう しかし、そういう状態をもとにしてこそ、彼は、他のすべて 真実味と単純さをこめて描かれている、といってもあなたに たいして失礼にはあたるまい。われわれには是非とも本が必の状態を評価しなければならないのだ。偏見に打ち勝ち、事 要だというなら、わたしの考えでは、自然教育のもっともよ物の真の依存関係にもとづいて判断を整理するいちばん確か な方法は、孤立した人間の地位に身をおいて考えてみること くできた概論を提供する本が一冊は存在する。この本はわた しのエ であり、また、なにごとにつけても、そういう人間が自分の ルが読む最初の本になるだろう。この本が長い間 利害を考えて自分で判断を下すのと同じように判断すること 彼の書棚を飾るただ一冊の本となるだろうし、それはまたい つまでもそこに特別の地位を占めるだろう。それは、自然科である。 この物語は、その枝葉末節をすべてとり払ってみると、島 学に関するわれわれの話がすべてその注解となるにすぎない ようなテキストになるだろう。それは、われわれが進歩をつ の近くでロビンソンが難破するところからはじまり、彼を枚 い出しにきた船の到着で終わっているが、これは、いまここ づけている間、われわれの判断力の程度をためすものとなる で間題にしている時期の間、エ ルを楽しませもすれば、ま だろう。そして、われわれの趣味がそこなわれないかぎり、 た教えもするものとなるだろう。わたしは、彼をこの本に夢 それを読むことはいつまでもわれわれにとって楽しいものと やかた 、つ中にさせたいと思う。彼がたえず自分の館や山羊や農場のこ なるだろう。それでは、そのすばらしい本というのは、し とを考え、同じような場合に知っていなければならないこと どんな本なのか。アリストテレスか、。フリニウスか ビュフォン、 はみな、本の中ではなく、事物に即して詳しく学び、自分が 力いや、、ロビンソン・クルーソー、、こ。 島にたったひとりで住み、仲間の助けも借りす、どんな技ロビンソンになったつもりで、毛皮を身にまとい、大きな帽 術をふるう道具もなく、しかも生きながらえ、身をまもるだ子をかぶり、大きな刀をさし、パラソルだけは必要でないか けの備えをし、さらに、幸福な暮らしともいうべきものさえら除くとしても、挿絵にあるのと同じような奇妙ないでたち これこそあらゆる年齢をした自分の姿を思い描く、というふうであったらよいと思 手に入れたロビンソン・クルーソー う。あれこれのものがなくなったらどうしたらいいかと心配 の人たちにとって興味のある対象だし、いろいろな方法でこ
の、息もつまるような照り返しにあえいだこともなくて、ど 。そして、彼の好奇心が十分そちらに向いているのがわか 祐うして晴れた朝のすがすがしい大気を味わうことができょ ってから、なにか簡単な質間をして、彼が自分で問題を解決 . う。かぐわしい花、身も心もとろかす緑の野、しっとりとしする方向にむけてやるがよい めりをおびた朝露が、芝草を踏むときのあのふんわりとやわ 今の場合でいえば、昇る太陽を彼と一緒にゆっくりとなが らかな心地が、どうして感官を魅惑することができようか。 め、その方角の山々や近くにあるほかのものに注意を向けさ 恋と快楽の色をまだ知らないのに、どうして小鳥たちの歌せ、それらについてなんでも気ままなおしゃべりをさせてお 声がたまらない感情を呼び起すことができよう。今日の一日 いてから、しばらくは夢みる人のように沈黙をまもり、そし をみたすことのできるさまざまな歓喜を想像力によって思い てこう言ってやるがよい。たしかきのうの夕方には、太陽は 描くこともできないのに、明けはなれてゆく上天気をどんなあそこに沈み、けさはあそこに昇ったと思うのだが、どうし 歓喜をもって迎えることができようか。さらにまた、たとえてそんなことが起るんだろう。それ以上のことをなにも言っ 自然の美しい景観に接したとて、何者の手によってかくも美てはいけない。彼がなにか質間をしても答えてはいけない。 しく自然が飾られているのかも知らないで、どうして感動すほかの話をしているがよい。彼の勝手にさせておけばよいの だ。大丈夫、彼はそのことを考えるようになるだろう。 ることができよう。 子供に注意ぶかくなるくせをつけさせ、なにか感覚に訴え 子供には理解できないような話を子供にしてはならない。 る真理をはっきり感じとらせるためには、彼がそれを発見す 叙述、雄弁、比喩、詩。みんないけない。感情や趣味はいまの ところ問題ではない これからもやはり明快に、単純に、冷るまでの間いく日かは、不安のうちにすごさせることがぜひ 静にふるまうがよい。違った調子で語らなければならない時とも必要である。そういうふうにしてもまだこの真理を十分 のみこめないようなら、それをもっとはっきりさせてやる方・ はいやでもはやくやってくるだろう。 われわれの格率の精神によって育てられ、道具はすべて自法がある。つまり問題をひっくり返してやることだ。太陽は - 分のうちからひき出し、自分の手におえないということがわ沈んでしまってからどうして昇ってくるのか、彼はそれを知 かったあとでなければけっして他人の助けを借りないように らないとしても、少なくとも、昇ってから落ちるまでのこと なら知っている。それは見てさえいればわかることだ。だか しつけられている彼は、なにか目新しいものにであったとき ら、はじめの質問をあとの質間によって説明してやるがよ はいつでも、長いことものも言わずにためっすがめっしてい 。あなたがたの生徒が完全な白痴ならばともかくとして、 る。彼は考えぶかく、やたらと人に質問することはない。折 これが宇 こんなはっきりした類似がわからないはすはない。 りをみはからって彼に実物を見せてやるだけにとどめるがよ
人たちには非常に有害なそういう光景を見せたりするようなわらず、間違った女子教育にもかかわらず、多くの人々がい まだに何ものにもまどわされない判断力を持ちつづけていう ことはしてもらいたくないものだ。けれども、そういうこと とするなら、その判断力がこれから適切な教育によって養わ になったとしたら、その娘は悪い教育をうけていることにな るか、あるいはその娘にとってそういう光景はたいして危険れた場合、あるいはもっと正確に言うなら、それが悪い教育 なものにならないか、どちらかだとわたしは言おう。よい趣によって損われなかった場合、どうなることだろう。という 味と、分別と、まじめな事柄に対する好みとを持っていれのは、すべては常に自然の感情を保持するか、回復するかに . ば、それらの光景は、それに魅惑されてしまう人たちから見かかっているのだから。だからといって、あなた方の長った でらしいお説教で娘たちを退屈させたり、あなた方のひからび たほどには魅力のあるものとは考えられないのだ。パリ た教訓を彼女たちに話してきかせたりする必要はけっしてな は、田舎から思慮のない娘たちがやってきて、たちまちパリ 。男にとっても女にとってもお説教は、あらゆるよい教育〔 風に馴染んでしまい、半年の間ちやほやされて、あとは一生の 間けなされる例は、よくみかけられる。しかしこういう馬鹿を台無しにするものだ。退屈な教訓は、それを与える人たち さわぎに嫌気がさし、人のうらやむ境遇とくらべてみて自分をも、その人たちの言ういっさいのことがらをも、きらわせ の境遇に満足して、田舎へ戻ってゆく娘たちもあることに気るだけのことだ。若い女性に向かって話す場合には、彼女た づいている者がいるだろうか。夫にパリへつれてきてもらっ ちに義務を恐れさせたり、自然によって課せられているくび . た若い妻が、妻をよろこばせようとして、 ( リに住みついてきをいっそう重くしたりするような必要はない。彼女たち もよいと思っている夫の考えを自分から変えさせ、やって来そういう義務を説明する時には、正確でわかりやすくなけれ たときよりもいそいそと帰り仕度をしながら、出発の日の前 ばならない。また、義務をはたすのはつらいことだと思いこ ませてはならない。不機嫌な顔をしてはいけないし、偉そう・ 夜、感慨深げに「ねえ、あたしたちのあばらやに帰りましょ う。ここのお屋敷で暮らすよりもそのほうがよっ。ほどしあわな顔をしてもいけなし 、。心に伝えられるべきものは、すべて せですわ。」と言うのを、わたしは幾度見たことだろう。世心から発するはずである。道徳に関する教義問答は、宗教の 間には偶像の前にひざを曲げたことがなく、そのばかげた信教義間答と同じように簡単明瞭でなければならない。たた 仰を軽蔑している実直な人々がまだどれだけいるかを人は知同じように荘重な調子である必要はない。他ならぬ義務のな かにこそ、彼女たちの喜びの源と権利の拠り所があるという らないでいる。騒ぎたてられる女はばかな女だけだ。かしこ ことを、示してやるがよい。愛されるために愛すること、し い女は少しもセンセーションをまき起さない。 もし一般的な頽廃にもかかわらず、普遍的な偏見にもかかあわせになるために愛すべき人間になること、服従してもう
あっかいを受けているかを知っているのだろうか。ほんの少て何か不便なことが起っただろうか。人間の子供たちのほう しさわぎたてただけでも、子供は古着の包みみたいに釘にひ がからだが重い。それはそうだ。だが、それに比例して、子供 つかけられてしまう。そして乳母がゆるゆると用をはたして たちのほうが弱い。彼らはやっと身体を動かせる程度だとい いる間、あわれな幼児はこうして釘づけにされているのだ。 うのに、どうして自分の身を不具にすることがあるだろうか。 こんな状態にいるのを見かけた子供たちの顔は、みな紫色をもしもあおむけに寝かしておいたら、伹の子のようにけっし て身を起すことができずに、その姿勢で死んでしまうだろう。 していた。胸は強く圧迫されて、血液の循環は不自由にな 子供に乳を与えるのをやめてしまっただけでは満足せす、 り、血は頭にのぼっていた。そしてその我慢を強いられた子 は、たいへんおとなしいと思われていたのだが、実は泣くカ婦人たちは子供を作ろうともしなくなった。この結果は当然 もなかったのだ。わたしは何時間くらい子供をこんな状態に生まれるべくして生まれたのである。母親という状態が厄 して、死なさないですむものかは知らない。しかしそう長く介になると、たちまちその状態から完全にぬけ出す方法を見 つける。彼女たちはできたものを無駄にしては、相変らずま そうしていられるかどうかは疑間だ。産衣のもっとも便利な たそれを初めからやり直す。そして人類をふやすために与え 点の一つとはこれなのだとわたしは思う。 自由にしておくと、子供は、姿勢が悪くなり、手足の順調られている魅力を、人類の害になるほうへと転ずるのであ る。この風習はほかにもある人口減少の原因に加わって、ヨ な発育をそこなうような運動をすると主張する人がある。こ ーロツ。 ( の近い将来の運命をわれわれに予告している。ヨー れこそはわれわれのにせの知恵からくるくだらない理屈のひ ロッパが生み出す学間、芸術、哲学および風俗のため、ヨー とつで、どんな実験によってもいまだに確かめられたことの ロッパはまもなく砂漠となるであろう。そこには野獣たちが ないものである。われわれよりも良識に富んだ民族の間で は、多くの子供が手足を完全に自由にして育てられている住むようになるだろうが、だからといって住民が大いに変化 したということにはなるまい が、その中に一人として傷ついたり不具になったりする者は わたしは時折り、若い婦人たちが自分の子を自分の乳で育 見かけられない。子供たちは運動が危険になるほどはげしい てたがるようなふりをしたりして小細工をやるのを見たこと 勢いで運動に熱中することはできないだろう。そして彼らが はげしい姿勢をとれば、ぐに苦痛を感じて警戒しだし、そがある。彼女たちはそんな気まぐれはおやめなさいと、ひとに いわせるすべを心得ている。巧みに夫や医者や、とくに母親 の姿勢を変えてしまうものだ。 たちに干渉させるのだ。妻が子供に乳を与えることにあえて われわれはまだ犬や猫の子に産衣を着せようと考えついた ことはない。だが、これを怠けていたために、犬や猫にとっ賛成するような夫は、男としては破減である。彼は妻を捨て ( 七 )
て、それにつれていっそうつかみにくくなってきていること なるのにふさわしい美しい人々ではない。ローマ人の容貌さ も認めなければならない。人種が混り合い、民族が融合して えも、その性質と同じように、特徴が変ってしまった。もと ゆくにつれて、かっては一目でつよく注意をひいたほどの国もとダッタン地方から出てきたベルシア人も、サーカシア人 民間の相違も、次第に消え失せてゆくことがわかる。昔は、 との混血によって、日ごとにその本来の醜さを失っている。 それぞれの国民はもっと自国のなかに閉じこもっていた。民ヨーロッパ人はもうガリア人でも、ゲルマ = ア人でも、イベ 族と民族との間に、交流も、旅行も、共通の利害も、相反す リア人でも、アロプロゲス人でもない。彼らはみんな、顔の る利害も、政治的、社会的交渉も少なかったし、商議と呼ば 点では、さまざまに変質し、習俗の点では、なおいっそう退 れる、あの王様どうしのいざこざも、駐在大使とか、常任公化したスキティア人にすぎない。 使とかもなかった。遠洋航海もまれであった。遠隔の地域と そういうわけで、古代における人種の区別や、大気と土地 の貿易も少なか「た。僅かながらあ「たとしても、それは君のいろいろな性質は、諸民族の間に気質、容貌、習俗、性格 主自身が外国人を使ってやるか、あるいは、さげすまれて、 を、はつぎりと刻みつけていたのだが、今日ではそういうも 誰にも範を示すことにならない連中、少しも諸国民を接近さ のはそれほど明確には認められない。今日では、ヨーロッパ せもしない連中のすることであった。今ではヨーロッパとア の不安定な状態が、どんな自然的要因にもその刻印をしるす ジアとの司こ、、 ド冫カってガリアとスペインとの間にあったより 時を与えず、森は伐り倒され、沼地は干拓され、土地は、前 も百倍も多くの交渉がある。ヨーロツ。 ( だけでも、今日の全ほどはよく耕されてはいないがもっと一様に耕されていて、 世界よりも、もっとばらばらな状態であった。 もはや外形的にさえ、かってのような土地と土地、国と国と そのうえにまた、古代の民族は大部分、自分たちを、土着の間の差異を残してはいないのだ。 の民族、つまり自分の国土に生い育った民族とみなして、久 こういうことを考えてみれば、おそらく、ヘロドトスやク しい昔からそこに住みついていたので、彼らの祖先がそこに テシアスやプリニウスが、さまざまな国の人間を、今日われ 定着した遠い時代の記憶も失っていたし、また風土が彼らにわれには見られない独自の特徴や、はっきりした差異を持っ 永続的な影響を与えるだけの年月もたっていた。ところが、 ものとして描いたからといって、性急に彼らを嘲笑すること われわれの間では、ローマ人の侵入のあとで、も 0 と近い時もなくなるだろう。それらの民族の中に、昔と同じ容貌を認 代の蛮人の移動が、すべてを混ぜあわせ、すべてを溶けあわめるためには、昔の人と同じ人を見つけなければなるまい。彼 せてしま「た。今日のフランス人はもうかってのような金髪らがもとと同じ人間であるためには、なにものも彼らを変え で色白の長身ではない。、、 キリシャ人はもう、美術のモデルに なかったことにならなければなるまい。もしこれまでに存在
したためにその力を消耗させたりしないように心がけなけれく、偶然に依存しており、偶然のおかげで後者〔天分のない者リ は、自分の能力にふさわしいなんらかの観念を手にいれるこ ばいけない。その若い頭脳が熱してきたら、ついに沸騰しは じめたことがわかったならば、まずそれを自由に釀酵させてともあるが、前者〔天分のある人〕はいつでもどこでも変わら - おくがよい。けっしてそれを刺激してはいけない。すべて蒸ないのである。小カトーは子供の頃、家庭ではまるで馬鹿の 発してしまう恐れがあるから。そして最初の精気が蒸発してようみえた。無ロで強情な子というのが、彼に関する判断の しまったら、残りの精気は、年月がたつにつれてすべて活力すべてであった。スラの家の控えの間で叔父がはじめて彼の のある熱となり、真の力と転するまで、それを保存し圧縮し人物を認めたのである。もし小カト ーがその控えの間には、 らなかったとしたら、おそらく彼は理性の時期になるまで組 ておくべきなのだ。そうしないと、あなた方は時間と心づか いとをむだにし、あなた方自身の仕事をだいなしにしてしま暴な人間として通っただろう。もしカエサルが生きていなか ったとしたら、そのいまわしい天才を見抜き、その将来の計 うことになる。そしてこの燃え立ちやすい蒸気に慎しみもな く酔っぱらったあげく、残るものといえば気の抜けたし、ほり画をすべてっとに予見したこのカトーも、人びとからおそら かすだけだということになる。 くいつまでも妄想家扱いにされたことだろう。あまり性急に 軽はすみな子供から俗悪な大人が生まれる。わたしはこれ子供を判断する者は、なんと誤りに陥りやすいことだろう。 ほど普遍的で確実な意見をほかに知らない。子供の中のほんそんな人びとはしばしば子供よりずっと子供なのだ。光栄に もわたしに友情を示してくれた人が、かなり年をとってから とうの愚かしさと、強い精神の前ぶれである表面だけの、 も、家族でも友人たちの間でも、偏狭な人と考えられている・ つわりの愚かしさとを見分けることぐらいむずかしいことは のを見ている。そのすぐれた頭脳は静かに成熟していたの この二つの極端がかくも似た徴候を示しているのは、 だ。突然、その人は哲学者としての才能を示すことになった はじめは奇妙に思われるが、しかしそれは当然なのである。 が、わたしは、後世の人が今世紀のもっともすぐれた理論家、 なぜなら、人間がまだなんら真の観念を持たない年齢では、 もっとも深遠な形而上学者と伍する名誉ある高い位置を、彼 天分にめぐまれた人とめぐまれない人の相違は、後者が誤っ に与えることを疑わないのである。 篇た観念ばかり受けいれるのに対して、前者は誤った観念しか 子供の時代を尊重するがよい。そしてよいほうにせよ悪い ニ見あたらないところから、どんな観念をも受けいれないとい ほうにせよ、急いでそれに批判をくだしてはならない。伊ク 第う点にある。そこで一方はなにをする能もなく、他方にむく ものはなんにもないという点では、二人とも鈍物に似ている的なものにたいしては、長い間時間をかけてそれがおのすか 2 ら明らかになり、証明され、確認されるのを待って、はじめ のである。この両者を区別しうる徴候は、ただ一つしかな