こうした事情のもとで工場主と労働者とのあいだに妥協が にのせてやらねばならぬような小さい児童たちの血から、毎 ( 一七ニ ) 幻できたが、その妥協は、一八五〇年八月五日の新たな追加工日一〇時間すっ絹を紡ぎ出すことを妨げられはしなかった。 場条例において議会の確認をえた。「未成年者および婦人」 一八四四年の条例は、なるほど彼らから、一一歳未満の児童 については、 , 労働日が最初の五週日には一〇時間から一〇時を六時間半以上こき使う「自由」を「奪った」が、その代わ り彼らにたいし、一一歳ないし一三歳の児童を毎日一〇時間 間半に増加され、土曜日には七時間半に制限された。労働は 朝の六時から晩の六時までの時限におこなわれ、食事のためずつこき使う特権を保証し、しかも、他の工場児童のために の一時間半の休息は同時に、かつ一八四四年の諸規定にした規定された修学義務を免じた。こんどの口実は、「織物のし なやかさは指先の柔かさを必要とするが、その柔かさは幼い がって与えられねばならない、等々。かようにして、リレー 二七 0 ) とき工場にはいることによってのみ保証される」というので 制度がすっかり見られなくなった。児童労働については一八 あった。しなやかな指のために児童たちがすっかり屠られた 四四年の条例がなお有効であった。 一究冬期には、朝の七時から晩の七時までのあいだの時限に変えることが のであって、それはあたかも、南ロシアにおける有角家畜が できる。 皮と脂肪とのために屠られたのと同じである。ついに一八五 宅 0 「現行条例 ( 一八五〇年の ) は一つの妥協だったのであって、その妥協 で労働者たちは、労働時間を制限されている人々の労働の開始時間および終〇年には、一八四四年に与えられた特権が絹撚糸部門と絹捲 了時間を斉一にするという利益をえるために、一〇時間条例の恩恵を放棄し取部門とに制限されたが、しかしここでは、「自由 , を奪わ たのである。」 ( 「一八五二年四月三〇日の : : : 報告」、一四頁。 ) れた資本の損害賠償のために、一一歳ないし一三歳の児童の こんども以前と同じように、ある部類の工場主たちが。フロ労働時間が一〇時間から一〇時間半に増加された。その口実 レタリア児童にたいする特殊な領主権を確保した。それは絹は、「労働が絹工場においては他の工場におけるよりも容易 ( 一七四 ) 工場主たちであった。すでに一八三三年に彼らは威嚇的にわであり、また決してさほど健康に有害でない」ということに 「年齢のいかんをとわす児童を一日に めきたてていた、 あった。後にいたり、政府によってなされた医師の調査によ 一〇時間すっこき使う彼らの自由が奪われるならば、彼らの ると、その逆に「絹業地方における平均死亡率は例外的に高 工場は休止させられるであろう。」彼らは一三歳以上の少年 く、住民の婦人部分のあいだではランカシャーの綿業地方に ( 1 七五 ) を必要数だけ購入することは不可能である、と。彼らは、望おけるよりも高くさえあるーということが証明された 1 工場 むところの特権を強奪した。この口実は、その後の調査によ検査官たちが半年ごとに繰返して抗議しているにもかかわら ( 一七六 ) って全くの嘘だと分かったが、しかし彼らは、そのことによず、不正が今日にいたるまで続けられている 9 宅一「一八四四年九月三〇日の : : : 報告」、一三頁。 っては、一〇年間にわたり、仕事をさせるために腰掛けの上 つむ ( 一七三 ) ほふ 308
というが、それは、工場条例いがいの何ものかによってで 壊を援助するはすであった。その時期は巧妙にえらばれた 9 ( 一四四 ) 「一八四六ー四七年の恐ろしい恐慌の結果、多くの工場が操る。」しかるに工場主たちは、自分の意のままに労働者たち・ 業を短縮し、他の工場はまったく休業していたので、工場労をして語らせることに成功しなかったとき、彼らみずから新 聞紙や議会でますます大声に労働者たちの名で叫んだ。彼ら・ 働者たちの間ではひどい苦痛が支配的であった、ということ : 想いだされねばならない。かくして、多数の労働者はきわは、工場検査官たちをば、不幸な労働者を無慈悲にも自分た めて窮迫した状態にあり、借金のあるものが多かった。だかちの世界改造的気まぐれの儀牲に供する一種の Konvents ・ ら、彼らが、過去の欠損を埋めあわせ、おそらく借金を支払 k 。 m オ「。 , ~ 大革議会 ( 一七九一一ール五年 ) の委員一〕だと非難し た。この策略も失敗した。工場検査官レナード・ホーナー 、または家財を質屋から請けだし、または売った持物を補 は、自分みずから、また部下の副検査官たちの手によって、 充し、または自分自身および家族の衣類を新調するために、 力なり確実に ランカシャーの工場で多くの証人審問をおこなった。審問さ より長い労働時間を可とするであろうことは、、 予想できた。」工場主諸君は一〇 % の一般的な賃銀引下げにれた労働者のうち、約七〇 % は一〇時間、す「と少ない。 ( ー 9 ・ センテージの者は一一時間、まったく取るに足りない少数者 よって、この事情の自然的効果を高めようとした。これは、 ( 一四五 ) いわば、新しい自由貿易時代の除幕式として行なわれた。そはもとの一二時間がよいといった。 西一「一八四八年一〇月三一日の工場検査官報告」、一六頁。 れに続いて、労働日が一一時間に短縮されるや否や、さらに 一四三「私は、一週間に一〇シリング受取っていた人々が、一〇 % の一般的な 八 % だけの引下げが行なわれ、労働日が決定的に一〇時間 賃銀引下げのために一シリング引去られ、時間短縮のためさらに一シリング に短縮されるや否や、その一一倍だけの引下げが行なわれた。 六・ヘンス引去られ、合計二シリング六べンス引去られたが、それでも多数者 は一〇時間法案を固執した、ということを見いだした。」 ( 同上。 ) かくして、事情がなんとか許したばあいには、少なくとも二 ( 一四三 ) 一噐「私が歎願書に署名したとき、同時に私は、これは悪いことだといいま・ 五 % の賃銀引下げが行なわれた。かくも有利に準備されたチ 拒絶すれば解雇されただろう・ では、なぜ君は署名したか ? 日 ャンスのもとで、労働者たちのあいだで一八四七年の条例廃 からです。ーー・訴願者は実際に「抑圧』されていることを感じたが、それは・ けんどう 決して工場条例によってではなかった。」 ( 同上、一〇二頁。 ) 止のための煽動が始められた。そのさいには、詐欺・誘惑・ 労 一同上、一七頁。ホーナ 1 氏の管区では、かようにして、一八一工場に . および脅迫のいかなる手段も斥けられなかったが、すべてが おける一万二七〇人の成年男子労働者が審問された。彼らの陳述は、一八四・ 八無駄であった。労働者たちが「該条例による彼らの抑圧」に 八年一〇月に終る半年間についての報告書の附録にある。これらの証人審問・ 第 はほかの点でも貴重な資料を提供する。 ついて訴えねばならなかった半ダースの歎願書についていえ もう一つの「穏便な」策略は、成年男子労働者たちを一ニ ば、訴願者たち自身、口頭審問にさいし、彼らの署名が強制 されたものであることを明言した。「彼らは抑圧されている時間ないし一五時間労働させておいてから、この事実を、プ
一八六三年に枢密院は、イングランドの労働者階級のうちく、悲惨で健康破壊的な欠乏 ( これはすべて、資本家の「禁 最も粗食している部分の窮状にかんする調査を命じた。枢密慾」だ ! すなわち、彼の職工たちが単に露命をつなぐため に不可欠な生活手段の支払を禁慾することである ! ) をきた 院医官ドクトル・サイモンはこの仕事に、前述のドクトル・引 スミスを選任した。彼の調査は、一方では農業労働者に及す場合が多いに違いない。」 一究「公衆衛生、第六回報告、一八六三年」、ロンドン、一八六四年、一三頁。 び、他方では絹織物エ・縫物女エ・革手袋製造工・靴下製造 = 0 同上、一七頁。 エ・手袋製織エ・および靴工に及んでいる。この後述の諸部 一 = 同上、一三頁。 類は、靴下製造工をのぞけば、もつばら都市労働者である。 つぎの表は、前述の純都市労働者部類の営養状態と、ドク 各部類における最も健康で比較的よい境遇の家族が調査の基 トル・スミスによって仮定された最低限度、および、最困窮 準とされた。 時代における綿業労働者の営養限度との、関係を示すもので 一般的な結果として分かったところでは「調査された都市 ある。 労働者部類のうち、ただ一つの部類では、窒素の供給が絶対 炭素の週平均窒素の週平均 男女両性 的最低限度・ーーそれ以下では飢餓病が生ずるーーを僅かに超 グレーン グレーン 二八、八七六 五つの都市的事業部門 過しているが、二つの部類では、窒素性食物ならびに炭素性 一、二九五 ランカシャーの失業工場労働者二九、二一 食物の供給が不足ーーーしかも、そのうちの一部類では甚だし 最低量、ーー男女同数としてのラ 、三三 0 二八、六 00 一 法く不足ーーーしており、また、調査された農業家族のうち五分 ンカシャー労働者のための提案 般の一以上は、炭素性食物の必要量以下しか受取らず、三分の = = 「公衆衛生、第六回報告、一八六三年」、ロンドン、一八六四年、附録、 の一以上は、窒素性食物の必要量以下しか受取らなかったので 二三二頁。 事原典ではコ一八、一一一一」となっている。五一六頁終りから三行の数宇 男 ( ・ハークシャー、オクスフォードシャーおよび 蓄あって、三ョ 訳者。 とあわない。ロシア語版、一九五三年、によって訂正した。 制サマーセットシャー ) では窒素性食物の最低量に足りないの 調査された工業労働者部類のうち、半分、すなわち所は 資が平均状態であった。」農業労働者のうちでは、連合王国中 ぜんぜんビールをのまず、二八 % はミルクをのまなかった。 章の最富裕地方たるイングランドのそれが最も組食であった。 一一農業労働者のうちで営養不足をきたしたのは、一般に主とし家族における流動食物の週平均は、縫物女工のもとでの七オ 第 て婦人と児童であった。けだし「男子は仕事をするために食ンスから、靴下製造工のもとでの二四オンスまでを動揺し た。ぜんぜんミルクをのまない者の多くはロンドンの縫物女 わねばならぬ」からである。調査された都市労働者部類のも とでは、不足がさらに甚だしかった。「彼らの粗食は甚だし工からなっていた。毎週の・ ( ン消費量は、縫物女工のもとで ( 一 0 ル ) 6S2
日で各労働者の平均週賃銀が一〇シリング一。ヘンス半、一八 : 、はっきり証明された。だがこの効果は、本来的工場では 疑わしいかに見えた。けだしこの場合には、機械の継続的で四四年四月一一〇日から六月一一九日までは、一一時間労働日で 斉一な運動への労働者の従属によって、すでに以前からきわ平均週賃銀が一〇シリング三ペンス半」であった。この場合 には一一時間で、以前に一二時間で生産されたよりも多く生 めて厳格な規律が創造されていたからである。したがって、 一八四四年に、一一一時間以下への労働日短縮が討議されたと産されたのであって、それはもつばら、労働者たちのより大 「彼ら きな斉一的勤勉と彼らの時間節約とのせいであった。労働者 き、工場主たちはほとんど異ロ同音に宣言した、 の監督たちは、さまざまな作業場で、職工たちが時間を無駄たちは同じ賃銀を受けとりながら一時間の自由な時間をえた が、資本家の方は、同じ分量の生産物と、一時間分の石炭・ にしないように監視した」、「労働者たちの側での油断なさと ガスなどの支出節約とをえた。同様な実験は、同等な結果を 注意ぶかさとの程度は、ほとんど高める余地がない」、また、 その他いっさいの事情、たとえば機械の歩調などを同等不変もって、ハロックス・ジャクスン合名会社の諸工場でも行な と前提すれば、「したがって、うまく経営されている工場でわれた。 一犬殊に、第六篇〔第一九章〕で展開される形態たる個数賃銀によって ? は、労働者たちの注意を高めることなどによって何か大した 一五九「一八六五年一〇月三一日の工場検査官報告』を見よ。 成果を期待するのは無理であろうーと。この主張はもろもろ 一大 0 「一八四四年および一八四五年四月三〇日に終る四半期の工場検査官 の実験によって打破された。・ガードナー氏は、プレスト 告」、二〇、二一頁。 同上、一九頁。個数賃銀はそのままだったので、週賃銀の額は生産物 ンにある彼の一一大工場で、一八四四年四月一一〇日いらい、毎 の分量によって定まった。 日、一二時間の代わりにもはや一一時間しか作業させなかっ 一空同上、一三頁。 た。ほぼ一年後に生じた結果によると、「同じ分量の生産物 一六三同上、二一頁。前述の実験では、精神的要素が著大な役割を演じた 9 「われわれは従来よりも意気ごん 労働者たちは工場検査官に説明した、 が同じ費用で得られ、そして全労働者が一一時間で、以前に で労働します。われわれは、夕方に早く帰れるという報酬のことを絶えず考・ 一二時間で稼いだのとちょうど同じ労賃を稼いだ。」精紡室 えています。それで全工場に、最年少の糸つなぎ工から最年長工にいたるま はつらっ および梳綿室における実験には、ここではふれない。けだし で、澄溂たる陽気な精神がみなぎっており、われわれはお互にうんと助け あうことができます」と。 ( 同上。 ) それは、機械の速度の増加 ( 一一 % の ) と結びついていたから 労働日の短縮は、さしあたり、労働凝縮の主観的条件、す である。これに反し、きわめて相異なる種類の、かるい模様 つきの新流行品まで織られた製織部では、客観的生産諸条件なわち、与えられた時間内により多くの力を流動させる労働 者の能力を創造するのであるが、この労働日の短縮が法律に にはまったく何らの変化も生じなかった。その結果は、 「一八四四年一月六日から四月一一〇日までは、一一一時間労働よって強制されるや否や、資本家の手にある機械は、同じ時 ( 一五れ )
やっと一八三三年のーー木棉工場、羊毛工場、亜麻工場、 を成年労働日の最大限まで拡大する必然性を生する、という および絹工場を包括するーーエ場条例いらい、近代的産業に点にある。成年の労働を制限しないで、 もしこれを制限一 とって標準労働日が始まる。一八三三年から一八六四年まですれば、予防しようとするこの弊害よりも大きな弊害が生す のイギリスの工場立法の歴史以上に、資本の精神をよく特徴るであろう、 この弊害を救治する唯一の手段は、一一組の づけるものはない , 児童を使用する計画だと思われる」〔「中央委員会会議、第一回報】 一八三三年の条例の宣言によれば、普通の工場労働日は朝告」、一八三三年六月二八日、五三頁〕と。かくして、リレー制度 の五時半に始まって晩の八時半に終るべきものとされ、そし ( ご S ミ of 代 2 リレーという一一一一口 ~ 茱は、一央でも。 て一五時間というこの限度内では、未成年者 ( すなわち一三 フランス語でも、駅々で郵便馬車の馬をかえることを意味す 歳ないし一八歳の人々 ) を一日のうちどんな時間に使用して る ) という名称のもとで、たとえば朝の五時半から午後一時・ かえうま も、一個同一の未成年者を一日のうちに一二時間以上労働さ半までは九歳ないし一三歳の一組の児童が換馬され、午後一 せなければ、ある種の特定の場合をのぞいて、合法的とされ時半から晩の八時半まではもう一組の児童が換馬されるとい る。この条例の第六節の規定では、「かように労働時間を制 うふうにして、この「計画」が実施された。 限された各人は一日のうちに少なくとも一時間半の食事時間 工場主諸君が、過去一三年間に議会を通過した児童労働に を与えられるべきもの」となっている。九歳未満の児童の使かんする一切の条例をもっとも鉄面皮に無視したことの報酬 用は、後にのべる例外はあるが禁止され、九歳ないし一三歳として、今やまた、彼らに苦言が遠まわしに呈された。議会 の児童の労働は一日八時間に制限された。夜間労働、すなわの規定したところでは、一八三四年三月一日以後一一歳未満 ち、この条例によれば晩の八時半から朝の五時半までの労働の児童は、一八三五年三月一日以後一二歳未満の児童は、一八 は、九歳ないし一八歳の人々のすべてについて禁止された。 三六年三月一日以後一三歳未満の児童は、工場において八時・ というのである。「資本ーにと一 立法者たちは、成年労働力を吸取する資本の自由ーーまた 間以上労働してはならない ! ってかくも寛大な「自由主義」は、ファー博士、サー・ << ・ は、彼らの名づける「労働の自由」ーーを侵害する気は毛頭 カーライル、サー・・プローディ、サー・ O ・ベル、ガス なかったのであって、彼らは、工場条例のこうした身の毛も リ氏など、要するにロンドンのもっとも著名な医師たちが 八よだつような結果を防止するために独自な制度を案出したほ どである。 下院における彼らの証言で、遅滞は危険だ ! とすでに宣言 していたので、ますます賞讃に値するものであった。ファー 一八三三年六月一一五日の中央委員会会議の第一回報告書に 「現行工場制度の大きな弊害は、それが児童労働博士はさらに幾らか不作法にいった、 「生じうべきあら喞
の四をなすであろう。」 ( 「一八五八年四月三〇日の工場検査官報告」、九頁。 ) 応しないような賃銀引下げには反抗するからである。「労働・ 労働の生産性が変動するにつれて、同じ生産物量によって者は原料の価格や製品の価格を注意ぶかく見張っており、か 表示される労働時間が変動する。そこで、個数賃銀も変動す くしてその雇主の利潤を正確に見積ることができる。」資本 る。けだし、個数賃銀は一定労働時間の価格表現だからであは当然ながら、こうした要求を、賃労働の本性にかんする大〕 きな見当違いとして片づける。資本は、産業の進歩に課税し る。われわれの前例では、一二時間に二四個生産されたが、 ようとするこうした越権をどなりつけ、労働の生産性は労働・ 一二時間の価値生産物は六シリング、労働力の日価値は三シ 者には総じて何の係わりもないことだと、あからさまに宣言 . リング、一労働時間の価格は三ペンスであって、一個あたり の賃銀は一ペンスであった。一個のうちには労働時間がする。 吸収されていた。い まもし、たとえば労働の生産性が二倍に 六 0 「彼の紡績機械の生産力は正確に度量されるのであって、その機械をも・ ってなされた労働にたいする支払の率は、その機械の生産力の増加につれて なった結果、同じ労働日により、一一四個でなく四八個生産さ 減少する、 同じ割合でではないとしても。」 ( ューア「マニュファクチュ れるとすれば、そしてその他のすべての事情は不変だとすれ アの哲学」、三一七頁。 ) この最後の弁護論的な言いまわしは、ユーア自身が、 ば、個数賃銀は一ペンスから % ペンスに低下する。けだし ふたたび取消している。たとえば、ミュール紡績機を長くすれば、その延長】 の結果は追加労働だということは彼の認めるところである。だから労働は、 各一個は、もはや労働時間でなく労働時間しか表示しな それの生産力が増大するのと同じ割合では減少しない。さらに、 「こ いからである。 24 >< 1 ペンスは三シリングであり、 48 X ド 増加によって機械の生産力が五分の一だけ高められるであろう。そうなれ べンスも三シリングである。 しいかえれば、個数賃銀は、同 ば、紡績工は、なされた労働にたいして以前と同じ率では支払われないであ ( 六 0 ) ろうが、その率は五分の一の比率では減少しないであろうから、改良によっ じ時間内に生産される個数が増加するーーっまり、同じ一個 て、彼の貨幣収入は、どの与えられた労働時間数についても増加するであう に費される労働時間が減少するーーのと同じ割合で引下げら う」ーーが、だがしかし、 「以上の記述は修正を要する。 : : : 紡績工は そのかぎりでは純粋 銀れる。個数賃銀のこうした変動は、 彼の追加六べンスのうちから、少年補助工に幾らかより多く支払わねばな ぬのであるが、しかもそのうえ、成年工の一部は駆逐される」 ( 同上、〔三ニ・ 賃に名目的であるがーー資本家と労働者との絶えざる闘争をひ 〇、〕三二一頁 ) ということは、けっして労賃を騰貴させる傾向をもつもの 個きおこす。けだし、それは、資本家がこれを口実として労働弸 ではない。 章の価格を現実に引下げるからであるか、さもなければ、労働 査・フォーセット「イギリス労働者の経済状態」、ケンプリッヂおよび・ ロンドン、一八六五年、一七八〔ー九〕頁。 一の生産性の増大には労働の強度の増大が伴なっているからで 第 杢一八六一年一〇月一一六日付のロンドンの「スタンダード」紙には、ジ ある。あるいはまた、労働者が、彼に支払われるのは彼の生 ン・プライト商会がロッチデールの治安判事にたいし、「絨緞製織労働組倉 産物であって彼の労働力ではないかのごとき個数賃銀の仮象 の代表者を脅喝のゆえに告訴」した訴訟にかんする報道がある。「プライト を本当だと思い、したがって、商品の販売価格の引下けが照 商会は、さきに、従来ならば一六〇ャードの絨緞を生産するに要しただけっ ( 六三 )
110 まったく知らない諸関係を内蔵している。しかし、ついでに通せざるをえない量に限定されるべきだということ、これで 述べておくが、ほんらいの紙幣が流通手段としての貨幣の機ある。さて、なるほど、流通部面によって吸収されうる金の 能から生するのと同じように、信用貨幣は、支払手段として分量は、特定の平均水準をたえす上下に動揺する。だが、流 の貨幣の機能のうちにその自然発生的な根源をもっている。 通しつつある媒介物の分量は、ある与えられた国では、経験 的に確定される特定の最小限以下に減少することは決してな 金中国の財政官〔銭法侍郎〕王茂蔭は、中国の帝国紙幣を兌換銀行券に転 化することを内密の目的とする計画を、天子の閲に供しようと思いついた。 。この最低分量がたえずその構成部分をかえるーーすなわ 一八五四年四月の紙幣委員会の報告では、彼が手ひどくやつつけられてい ち、つねに違った金片から成りたっーーーということは、もち る。彼が竹の鞭でさんざんに打たれもしたか否かは報告されていないが。報 ろん、この最低分量の範囲や、流通部面におけるその絶えま 「本委員会は、彼の計画を綿密 告の終りにはつぎのように書いてある、 に吟味して、それはすべて商人の利益を目的とするものであり、皇帝にとっ ない馳駆には、なんの影響もない 9 だからそれは、紙製の象 て有利なものは何もない、ということを見いだした」と。 ( 「在北京ロシア帝 徴によって置換えられうる。それに反し、もし今日、すべて 国公使館の中国にかんする諸研究。・アーベル博士および・・メクレ の流通水路がその貨幣吸収能力の限度いつばいまで紙幣で充 ンプルグによるロシア語からの翻訳。』第一巻、ベルリン、一八五八年、四 たされるならば、それらの水路は、商品流通の動揺によって 七一ー八頁。 ) 通流による金鋳貨のたえざる磨損については、イングランド銀 はんらん 行の「総裁」が証人として、「上院委員会」 ( 「銀行条例」にかんする ) でつ 明日は氾濫をきたすことがありうる。限度がすっかり失われ ぎのようにいう、 「毎年、 Souveraine ( これは政治的なそれ〔君主〕 てしまう。ところで、紙幣がその限度、すなわち〔紙幣で代理さ でなく、 Pfd. St. 〔一ポンド金鋳貨〕の名称たる Sovereign 〔ソヴリン〕の れなければ〕流通しえたはすの同じ称呼の金鋳貨の量をこえて こと ) の新しいのがあまりに軽くなる。ある年には量目充分として通過した ものが、磨損によって、翌年には量目に不足をきたすほどに減損する」と。 も、紙幣はーー・一般的な信用失墜の危険を度外視すれば ( 上院委員会、一八四八年、第四二九号。 ) 商品世界の内部では、やはり、その内在的諸法則によって規 一ポンド、五ポンド、などというような貨幣称呼の印刷さ定された・したがってまたそれだけが代表されうる・金量だ れている紙券が、国家によって外部から流通過程に投げいれけを表示する。紙券の分量が、たとえば一オンスずつの金の かわりに二オンスずつの金を表示する〔流通すべき金の二倍量 られる。それが同じ称呼の金の額のかわりに現実に流通する を代表する〕ならば、事実的には、たとえば一ポンドは、まぼ かぎりは、それの運動において反映するのは貨幣通流そのも のの諸法則にほかならない。紙幣流通の独自な法則は、金に四分の一オンスの金のかわりにほぼ八分の一オンスの金の貨 たいする紙幣の代表関係からのみ生じうる。そしてこの法則幣称呼となる。その効果は、あたかも金が価格の尺度として は、たんに、紙幣の発行は、それによって象徴的に表示されの機能において変更されたばあいと同じである。かくして、 る金 ( または銀 ) が〔紙幣によ 0 て代理されなければ〕現実に流以前には一ポンドの価格で表現された同じ価値が、いまや二 ( 八三 )
しろその親たちから保護することを要するということは、不員の構成は、なるほど、労働者が生産過程のために存在して 幸にして諸証言の全体からみて明らかである。」一般的には生産過程が労働者のために存在するのではないところの、そ 児童労働・特殊的には家内労働・の無制限な搾取の制度は、 れの自然発生的で野蛮な・資本制的な・形態においては、荒 「親たちがその年若くて柔軟な子女のうえに、恣意的で有害廃および奴隷状態の禍源であるとはいえ、適当な諸関係のも な権力を制御も統制もなく行使することによって維持ーされとでは、逆に、人類発展の源泉に急変するに違いな、。 三一 0 なお、家内労働の大部分は小さい作業場で行なわれるのであって、そ ・ : 児童を幾ばくかの週賃銀を打出すための純粋な機 のことは、われわれがレース・マニュファクチュアおよび麦藁細工業で見た 械たらしめる絶対権を親たちにもたせてはならぬ。 : 児童 とおりであり、また殊に、シェフィールドや・ ハーミンガムなどの金属マニュ および少年少女は、彼らの肉体力を早くから破壊し、彼らを ファクチュアについても詳しく証明されうるところである。 三 = 「児童労働調査委員会、第五回報告」、別付二五頁、第一六二号。および 道徳的および知的生物たる度合において低下させるような、 第二回報告、別付三八頁、第二八五、二八九号、別付三五頁、第一九一号。 親権の濫用にたいする立法部の保護を求める権利がある」 三一 = 「工場労働は、家内労働と同じように いなおそらくそれ以上に、純 と。だが、親権の濫用が、資本による未成熟労働力の直接ま 粋で卓越したものでありうる。」 ( 「一八六五年一〇月三一日の工場検査官報 告」、一二七頁。 ) たは間接の搾取を創造したのではなく、むしろ逆に資本制的 工場条例を、機械経営の最初の産物たる紡績業および織物 搾取様式こそ、親権を、それに照応する経済的基礎を止揚す ることによって、一つの濫用たらしめたのである。さて、資業のための例外法規から、すべての社会的生産にかんする法 本主義制度の内部での旧来の家族制度の解体がいかに恐ろし律に一般化する必要は、すでに見たように、大工業の歴史的 く厭わしく見えようと、大工業は、それが家政の領域の彼方な発展径路から生するのであって、マニュファクチュア・手 なる社会的に組織された生産過程において婦人、少年少女お工業・および家内労働の伝来的姿態は、大工業の背後で完全 工よび児童に割当てる決定的役割をもって、家族および両性関に変革される。すなわち、マニュファクチュア場はたえず工 係のより高度な形態のための新たな経済的基礎を創造する。 場に転化され、手工業はたえすマニュファクチュアに転化さ 機家族のキリスト教的・ゲルマン的形態を絶対的なものと考えれ、そして最後に、手工業と家内労働との部面は、驚くほど 章ることは、古代ローマ的形態、または古代ギリシャ的形態、 比較的短時間に、資本制的搾取のものすごい残忍行為が自由 一または東洋的形態ーーこれらは、ともあれ、相互に一つの歴に演ぜられる苦難場に変わる。最後に決定を与えるのは二つ 史的な発展系列をなすーーを絶対的なものと考えるのと同様の事情であって、その第一は、資本は、社会面の個々の点で・ に、もちろん愚かなことである。同じように明らかなことだのみ国家統制をこうむるばあいには、他の点でますます放 が、両性および種々さまざまな年齢の個人からなる結合労働 にその埋合せをするという、たえずくりかえされる経験であ
一八六二年に約一二万九〇〇〇人であった。そのうち、 一八六二年二月 一一日の議会報告によれば、 工場条例の支配下にあったのは四〇六三人 にすぎなかった。 この自然発生的に行なわれる産業革命は、婦人・少年少女 および児童たちが労働しているすべての産業部門への、工場 条例の拡張によって、人為的に促進される。労働日のー・ーー長 さ、休息、始業ーおよび終業時間についてのーー強制的取締 り、児童の交代度、一定の年齢に充たないすべての児童の ( ニ七六 ) 採用禁止などは、一方では、機械を増加すること、および、 動力としての蒸気をもって筋肉に代えることを、必要にす繝 る。他方では、時間で失うだけのものを空間で獲得するため に、共同的に利用される生産手段ーーー炉、建築物などー」の 拡張が行なわれる。すなわち一言でいえば、生産手段のより 大きい集積と、それに照応する労働者のより大きい密集とが 生する。工場条例をもって脅かされた各マニュファクチュア 場が熱心にくりかえした主要異議は、事実上では、事業を旧 来の規模で継続するにはより大きい資本投下が必要だという ことである。だが、マニュファクチュアと家内労働とのあい だの中間諸形態および家内労働そのものについていえば、そ れらの形態の地盤は、労働日および児童労働の制限とともに 沈没する。低廉な労働力の無制限の搾取が、それらの形態の 竸争能力の唯一の基礎をなす。 毛六かくして、たとえば製陶業では、「グラスゴーの・フリテン製陶所」を経 営するコクレン商会は報告していう、 「われわれの生産量を維持するた めに、われわれは、不熟練労働によって操縦される機械を広汎に利用するこ とにしたが、日々の経験によれば、旧来の方法による場合よりも多量に生産 ( ニ七七 ) できることは確かである」と。 ( 「一八六五年一〇月三一日の工場検査官報 告」、一三頁。 ) 「工場条例の結果は、機械がもっと採用されるようになると いうことである。」 ( 同上、一三、一四頁。 ) ろくろ = 毛かくして工場条例の実施後、製陶業では、手廻し轆轤の代わりに動力 轆轤が甚だしく増加した。 工場経営のーー殊にそれが労働日の取締りをうける場合の ーー本質的条件は、結果の正常的確実性、すなわち、与えら れた時間内に一定量の商品または所期の有用的効果を生産す ることである。労働日が取締られるばあいの法定の休息は、 さらに、生産過程中にある製品を傷めることなく作業を突然 かっ周期的に停止させるということを内蔵する。この、結果 の確実性と作業の中断可能性は、純粋に機械的な工場では、 たとえば製陶業・漂白業・染色業・製パン業・たいていの金 属工業などのように化学的および物理学的な過程がある役割 を演する工場でよりも、もちろん容易に達成されうる。無制 限な労働日、夜間労働、および自由な人間浪費の旧習のもと では、生産上のあらゆる自然発生的障碍が、やがて永久的な 「自然的制限」だと見なされる。毒薬が害虫を根絶するとい っても、工場条例がこうした「自然的制限」を根絶するほど 確実にはゆかない。製陶業の諸君ほど大声に「不可能」を叫 んだ者はないが、一八六四年には彼らに工場条例が強制され て、すべての不可能事がすでに一六か月後には消減した。工 場条例によってもたらされた「蒸発による代わりに圧力によ 0 てスリップ〔調合された陶器材料に水 〕を造形する改良方法、な まの製品を乾燥させるための炉の新構造などは、製陶技術上 はなはだ重要な出来事であって、前世紀には見られない製陶
( ニ》 一八六〇年 : ・ 八人中一人 一八六一年 : : : 八人中一人 (<) 近代的家内労働 = 夭「児童労働調査委員会、第二回報告」、別付一一二頁、第一六六号。 いまや、いわゆる家内労働に眼を転じよう。大工業の背景 肺病率のこうした増進は、きわめて楽天的な進歩論者や、 に設けられたこの資本の搾取部面と、その驚くべき状態とを へ、そん 想いうかべるためには、たとえば、イギリスの若干の僻村で嘘でかためたドイツの自由貿易行商人にとっても、充分に違 営まれているような、外見的には全く牧歌風な釘製造業を考 ( ニ五七 ) 一八六一年の工場条例は、イギリスでは通例そうだが機械 察されたい。 ここでは、レース製造業および麦藁細工業のう ち、まだまったく機械によっては経営されていない部門、まで行なわれるかぎりでの、本来のレース製造を取締るもので しかも、労働者たちがマ たは、機械経営やマニュファクチア経営と競争してもいなある。われわれがここで簡単に ニュファクチュア場・問屋・などに集中される限りにおいて い部門からの、二、三の例で充分である。 ではなく、彼らがいわゆる家内労働者たるかぎりでのみ ここで問題にするのは、機械で製造される切断釘とは異なる打ち釘で ある。「児童労働調査委員会、第三回報告」、別付一一、一九頁、第一二五ー 顧慮する部門は、 ( 一 ) 、仕上げ ( 機械で製造されたレースの 一三〇号。五三頁、第一一号。一一四頁、第四八七号。一三七頁、第六七四 最後の仕上げであって、さらに多数の副部門をふくむ一部 号を見よ。 門 ) と、 ( 一 l) 、レース編みとの二つの部門に分かれる。 イギリスのレース生産において就業する一五万人のうち、 レースの仕上げは、いわゆる「女親方の家」でか、さもな 一八六一年の工場条例の支配下にあるのは約一万人である。 ければ、単独または子供といっしょの婦人たちによって、そ のこり一四万人のほとんど大多数は、婦人と、男女の ( 男は の私宅で、家内労働として営まれる。「女親方の家ーを経営 わずかしかいないが ) 未成年者および児童である。この「安 している女たちそれ自身が貧乏である。仕事場は彼女たちの 業価な」搾取材料の健康状態は、ノッティンガムの一般施療院 私宅の一部である。彼女たちは、工場主や問屋の持主などか 灯の医師トウルーマン博士によるつぎの表をみればわかる。各 ら注文を受けとり、じぶんの部屋の広さや仕事の需要の変動 六八六人の患者ーーレース製造女ェで、たいてい一七歳から に応じて、婦人や少女や児童を使用する。就業女工の数は、 二四歳のあいだ , ーーのうち、肺病のものは次ぎのごとくであ 若干の仕事場では一一〇人から四〇人までの変動があり、その 他の仕事場では一〇人から一一〇人までの変動がある。児童が 一八五二年 : : : 四五人中一人 一八五六年 : : : 一五人中一人 第 一八五三年 : : : 二八人中一人 一八五七年・ : : ・一三人中一人仕事をはじめる最低年齢は、平均では六歳であるが、五歳未 一八五四年・ : 一七人中一人 一八五八年 : : : 一五人中一人満のばあいも多い。普通の労働時間は朝の八時から晩の八時 一八五五年・ 一八人中一人 一八五九年 : : : 九人中一人までつづき、食事時間が一時間半あるが、その食事は不規則