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検索対象: 世界の大思想18 マルクス 資本論1
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1. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

たろうか ? 地代や小屋代はどうなるだろうか ? 小借地農業者は外の小屋に住んでいる。一方は死んだ機械であり、他方は こらく や小楽な家主や土地所有者はどうなるだろうか ? 最上の工場労働者生きた機械である。死んだ機械は毎日損傷して価値を減する・ を輸出して、最も生産的な資本および富の一部分の価値を減少させる ばかりでなく、その実存するものの大部分は、たえざる技術 ことによって国民を貧弱ならしめるこうした計画以上に、この国のす 的進歩によって不断に甚だしく陳腐化するのであって、わず べての階級にとって自殺的な計画が、いったいありうるだろうか ? 」 ひきゅうじゅっしゃ か数か月で新式機械ととりかえる方が有利なほどである。こ - 「私は、被救恤者の道徳的価値をちゃんと維持するための特定の強制 れに反して生きた機械は、それが長く存続すればするほど、 労働をともなう特殊な法律的取締りのもとで、綿業地方における救貧 るいせき 当局に附属する特別委員会によ 0 て管理されるような、二年間またはそれが代々の熟練を自らのうちに累積すればするほど、ます ・ : 最良ます改良される。『タイムズ』紙は大工場主に答えて、なか 三年間にわたる五〇〇万ないし六 0 〇万の公債を勧告する。 の労働者を放棄すること、および、一地方全体における尨大な掃蕩的んずく次ぎのようにいった。 移住と価値および資本の減損とによって残余の労働者を頽廃させ意気 「・ポッター氏は、綿業主の並ならぬ絶対的な重要さに感動して、眄 沮喪させること以上に、土地所有者や雇主にとって悪い・ことがありえ この階級を維持しその職業を永遠化するために、五〇万の労働者階級 ようか ? 」と。 を彼らの意志に反して道徳的な一大救貧院に閉じこめようとするので 高労賃を引下げることが必要なばあいには、普通の事情のもとでは、同じ ある。この産業は維持するに値するか ? とポッター氏は質問する。 資本が別な音を出すということが想いだされる。そのばあいには、「雇主た しかり、あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を ち」は異ロ同音に宣言する ( 本巻三四〇頁注一八八を見よ ) 、 「工場労働整備しておくことは仕がいのあることであるか ? とポッター氏はふ ちゅ・つらよ 者たちは、彼らの労働は事実上きわめて低級な種類の熟練労働であるという しんしやく たたび質問する。ここでわれわれは躊躇する。彼はそれを絶対的財産 こと、彼らの労働ほど得やすい労働はなく、また、その質を斟酌すればこれ として取扱うつもりではないと断言するところを見ると、ポッター氏 ほど報酬のよい労働はないということ、ほとんど経験のない者をちょっと指 が機械というのは人間機械のことである。あからさまにいえば、われ 導することによってかくも短期間にかくも豊富に供給されうる労働はないと われは、人間機械を整備しておくこと、すなわち必要な時までそれを いうことを、しつかり記憶しておるべきである。雇主の機械は ( これは、い 産 生 ま聞いた話では、一二か月のうちに有利に置換えられ改良されうるのだが ) 閉じこめて油を塗りこんでおくことは、「仕がいのある」ことだとは 事実上、生産事業において労働者の労働および熟練 ( これは、今の話では、 思わないし、可能だとさえも思わない。人間機械というものは、い 単 三〇年間では置換えられえないものである ) よりも遙かに重要な役割を演ず ら油を塗ったり磨いたりしても、働かせないでおくと鏞びるという属、 るのであって、かの労働および熟練は六か月の教育によって教授され、どん 章 性がある。のみならす、人間機械は、一見すれば分かるように、わが な農僕でも学びうるものであるーと。 大都市では、独りでに馬力をかけて破裂したり暴れまわったりするこ 第木綿工場主たちの選ばれた機関であるポッターは、一一種の とができる。ポッター氏のいうように、労働者を再生産するには比較 . 「機械ーを区別しており、それらはいすれも資本家に属する 的に長い時間を要するかもしれないが、技師と貨幣とがあれば、われ われはたえす勤勉で屈強な労働者を見いだし、それによって、われわ・ が、そのうち一方は彼の工場内にあり、他方は夜と日曜日に

2. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

1 第一三章機械と大工業 体系が完全に組織されている今日でさえも、壮年期をすぎた 労働者のあいだで : : : 自動的体系のための有用な助手を見い ( 一八九 ) だすことはほとんど不可能である。」工 ' 場法典ーーこれにお いて資本は、ほかの場合ではブルジョア階級によって甚だし く愛好される権力分割および一そう愛好される代議制度なし の、自分の労働者にたいする自分の専制支配を私法的かっ独 裁的に定式化しているーーは、大規模な協業および共同的労 働手段、ことに機械の使用とともに必要となるところの、労 働過程の社会的規制の資本制的戯画にすぎない。奴隷酷使者 えんまらよう の鞭のかわりに、監督の閻魔帳が現われる。もちろん、いっ さいの処罰は罰金と賃銀控除とに帰着するのであって、工場 リュクルゴスは前九世紀 リ = クルゴスたち〔 〕の立法者的聰明は、で ころのスパルタの立法者 きるなら、彼らの法律にたいする違反の方が、その遵守より ( 一九 0 ) も一そう得になるように仕組むのである。 一ューア「マニュファクチュアの哲学」、一五頁。アークライトの伝記を 知るひとは、この天才的理髪師の頭上に「高貴な」などという言葉を投げか けないであろう。一八世紀のすべての大発明家のうち、彼は疑いもなく、他 人の発明の最大の盗びとであり、最も下等な奴であった。 一九 0 「・フルジョアジーがプロレタリアートを縛りつけている奴隷状態が、エ ここでは、法律的にも事実 場制度でのように明白に現われるところはない。 的にも、いっさいの自由がなくなっている。労働者は朝の五時半に工場に出 なければならない。彼は、二、三分間も遅刻すれば罰をうけ、一〇分間も遅 刻すれば、朝飯の終るまで入場を許されず、しかも一日の賃銀の四分の一を ・ : 暴虐の鐘が彼を 失う。彼は指揮どおりに、飲み食い睡らねばならない。・ 寝床からよび起こし、朝飯や昼飯から彼をよび立てる。では、ひとたび工場 にはいると、どんなエ合か ? ここでは、工場主が絶対的立法者である。彼 は、欲するままに工場規則を制定する。彼は好きなように、自分の法典を変 更したり追加したりする。そして、彼が馬鹿げきった規則を設けても、裁判 むら 所は労働者に宣告する、 お前は自由意志でこの契約を結んだのだから、 いまやお前はそれを守らねばならぬ、と。 : これらの労働者は九歳のとき、 しもと から死にいたるまで、精神的および肉体的な笞のもとで生活すべく宣告され ている。」・エンゲルス「労働階級の状態」、二一七頁以下〔ディーツ版 「・全集」第二巻、三九八頁以下〕。 ) 「裁判所の宣告」がどんなものであ - るかを、二つの例をあげて説明しよう。一方の事件は、一八六六年末のシェ フィールドでのことである。ある労働者が、二年契約でそこのある金属工場・ もんらやく に雇われていた。工場主との悶着の結果、彼は工場を去って、どんな事情 があろうとその工場主のためにはもう働きたくないと断言した。彼は、契約・ 、 : ルこ 2 ) い 違背のかどで告訴されて、二か月の禁錮刑を宣告された。 ( 工場主が契約に 違背しても、彼は民法上で訴訟されうるたけであり、賠償金を払わせられる・ 恐れがあるだけである。 ) 二か月の刑に服したのち、同じ工場主が彼を元の 契約に従って工場に帰ってくるようにと招いた。労働者は拒絶した。契約違一 背の罪をすでにつぐなったというのである。工場主はあらためて告訴し、裁 判所はあらためて有罪の宣告を下したが、ただし、判事の一人シー氏は公然 と、これを法律上の奇怪事だと非難して、これでは人はその全生涯中、一個 同一の過失または犯罪のために繰返して罰せられる恐れがあるとした。この 判決は「偉大な無給者」たる地方の治安判事たちによって下されたのではな く、ロンドンで最高裁判所の一つによって下されたのである。 ( 第四版への 注。こんなことは今ではなくなった。わずか二、三のばあい たとえば公・ をのぞけば、いまやイギリスでは、契約違背にさい 共ガス事業のばあい しては労働者が雇主と同等視され、民法上で訴訟されうるにすぎない。 ・エンゲルス。 ) ーーー第二の事件は一八六三年一一月末、ウイルトシャーで のことである。ウエストべリー・リーのリオワーズ・ミルにおける製布業者 ハラップなる者に雇われていた約三〇人の蒸気織機女工がストライキを起こ した。というわけは、同じハラップが、女工たちの朝の遅刻について賃銀を 控除するーーしかも二分間に六ペンス、三分間に一シリング、一 0 分間に一 シリング六ペンス控除するという、ありがたい仕きたりをもっていたからで ある。それだと、一時間につき九シリング、一日につき四ポンド一〇シリング の割であるが、彼女たちの年平均賃銀は、一週間につき、一〇シリングない ′ラップはまた、工場時間をふき し一二シリング以上にの・ほることはない。、 鳴らすために少年を雇っていたが、その少年はしばしば朝の六時以前に笛を 鳴らすのであって、その鳴り終るまでに女工たちがきていないと、門が閉ざ

3. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

から解放するからである。労働過程であるばかりでなく同時働者の労働および熟練よりもはるかに重要な役割を演するの に資本の増殖過程であるかぎりでの、すべての資本制的生産であって、かの労働および熟練は六か月の教育によって教授 にとっては、労働者が労働条件を使用するのでなく逆に労働され、どんな農僕でも学びうるものである」と。 一尖・エンゲルス「労働階級の状態」、二一七頁〔ティーツ版・ 条件が労働者を使用するということが共通しているが、しか 集」第二巻、三九八頁〕。まったく平儿な楽観主義的自由貿易論者のモリナ しこの顛倒は、機械をまって初めて技術的・感覚的な現実性 リ氏でさえいう、 「ひとは、毎日一五時間ずつ機構の斉一な運動を見張 を受けとる。労働手段は、自動装置に転化することによって、 るばあいには、同じ時間だけ彼の肉体的力を作用させるばあいよりも、急速 に自己を消耗する。この見張り労働は、あまり長時間にわたらなければ精神 労働過程そのものの間、労働者にたいし資本として、生きた にたいする有益な訓練として役だちうるであろうが、結局はその過度のため 労働力を支配し吸取する死んだ労働として、対応する。生産 に、心身をともに破壊する」と。 (t ・ド・モリナリ「経済学研究」、。ハリ 過程の精神的カ能が手労働から分離するということ、および、 一八四六年〔四九頁〕。 ) 一・エンゲルス、同上、一一一六頁〔ディーツ版三九七頁〕。 このカ能が労働にたいする資本の権力に転化するということ 一公「紡績業主および工場主の防衛基金。委員会の報告」、マンチェスター は、すでに以前に示唆したように、機械を基礎として建てあ 一八五四年、一七頁。自分の「生きた」自動装置を喪失する恐れが生ずるや げられた大工業において完成される。内容の空虚な個々の機 否や「雇主」は異なった着をあける、ということは後に述べるであろう。 〔本巻四五四頁および注一四をみよ。〕 械労働者の細目的熟練は、機械体系中に体化されていて機械 労働手段の斉一な歩調への労働者の技術的隷属と、男女両 体系とともに「雇主ーの権力をなす科学や尨大な自然力や社 会的集団労働にくらべれば、とるにたらぬ附随物として見る性および種々さまざまな年齢の個々人からなる労働体の独自 かげもなくなる。だからこの雇主は、ーー彼の脳髄では、機的構成とは、兵営的な規律を生みだすのであって、この規律 ゅちゃく 械と彼の機械独占とが不可分離に癒着しているので、ーーー紛は、発達して完全な工場体制となり、すでに以前に述べた監 争を生じたばあいには「職工」たちに軽蔑的な態度で呼びか督労働を、つまり、同時に手労働者と労働監者とへの ける、 「工場労働者たちは、彼らの労働は事実上きわめ産業兵卒と産業下士とへのーーー労働者分割を、完全に発展さ て低級な種類の熟練労働であるということ、彼らの労働ほどせる。「自動的工場における主要な困難は、 : : : 人々をして しんしやく 得やすい労働はなく、また、その質を斟酌すればこれほど報労働における不規則な習慣をやめさせて、彼らを大自動装置 酬のよい労働はないということ、ほとんど経験のないものを の不変的な規則正しさに一致させるために必要な、規律 : ・ ちょっと指導することによってかくも短期間にかくも豊富に にあった。だが、自動的体系の要求および速度に適合する規 供給されうる労働はないということを、し 0 かり記憶してお律法典を考案して有効に実施することは、〈ルクレスにふさ るべきである。雇主の機械は、事実上、生産事業において労わしい事業、すなわちアークライトの高貴な仕事であった ! 4

4. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

して行なわれるのではない。そしてその場合でさえも、彼ら に長く大規模につづくならば、かの諸商品の生産に従事する 労働者たちの移動が生ずる。これまで必要生活手段を生産しの前途の見込みのいかに乏しいことよ ! 分業によ 0 て不具 ていた資本の一部分はほかの形態で再生産される。市場価格にされているので、この哀れな連中は、彼らのもとの労働範 の下落中および資本の移動中は、必要生活手段の生産に従事囲以外ではほとんど無価値であって、少数の低級な、したが って絶えず氾濫していて賃銀の低い労働部門でしか、ロが見 する労働者たちも彼らの賃銀の一部分から「遊離」される。 いだせない。さらに、各産業部門は年々あらたな人間の流れ だから、弁護論者諸君は、機械は労働者を生活手段から遊離 させることによって同時に後者を前者の雇傭のための資本にを吸引するのであって、この流れは各産業部門にたいし、そ の規則正しい補充や増大のための必要人員を提供する。これ 転化するということを証明するどころか、その逆に、保証っ きの需要供給法則をもって、機械はそれが採用される生産部まで一定の産業部門で就業していた労働者の一部分を機械が 門でのみならず採用されない生産部門でも労働者を街頭に投遊離させるばあい、右の補充員も新たに配分されて他の労働 諸部門で吸収されるのであるが、最初の儀牲者の方は過渡期 出すということを証明するのである。 わいきよく 経済学的楽観主義によって歪曲された現実の事実は、こう中に大部分が零落して減びてしまう。 である。 機械によって駆逐される労働者たちは作業場か = 一五この点について、一リカ 1 ド学徒は・・セイの愚論に反対してい 「分業が発達している場合には、労働者たちの熟練は彼らが腕をみ ら労働市場に投出され、そこで、すでに資本制的搾取のため ・、いたその特殊部門でしか用途がない。彼らじしんは一種の機械である。だ おうむ に自由に利用されうる状態にある労働力の数を増加させる。 から、事物はその水準を見いだす傾向ありと鸚鵡のようにしゃべっても、絶 ここでは、労働者階級のための補償だといわれる機械のこう 対になんの役にもたたない。われわれは、見渡したところ、事物は長いあ いだその水準を見いだしえないということ、たとえ見いだしても、その水準 した作用が、労働者にとっては反対に最も恐ろしい禍患だと は過程の初めにおけるよりも低くなっているということを、認めざるをえな 工いうことは、第七篇で明らかにされるであろう。ここでは、 い」と。 ( 「需要の本性 : : : にかんする諸原理の研究」、ロンドン、一八二一 一産業部門から投出さ とつぎのことだけをいっておこう、 年、七二頁。 ) 機れた労働者たちも、たしかに他の何らかの産業部門で職を求 機械自体は生活手段からの労働者の「遊離ーに責任がない 章めることはできる。もし彼らが職を見いだし、かくして、彼 一らとともに遊離された生活手段と彼らとの間の縁がふたたびということは、疑いない事実である。機械は、それがとらえ 結ばれるとすれば、この結合は、投資口を求める新追加資本る部門における生産物を低廉化させ増加させるのであ 0 て、 他の産業部門で生産される生活手段の分量をさしあたり変化 を媒介として行なわれるのであって、けっして、すでに以前 させない。だから社会は、機械の採用以後にも、ー・年生産 から機能していて今では機械に転形されている資本を媒介と

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lllßシスモンディの蓄積分析の大きな欠陥は、彼が「収入の資本への転・ は、投下資本の填補に必要な分量をこえる追加的生産Ⅱおよ 態」という空語でよい気になってしまって、この操作の物質的諸条件を探穽 び生活手段の製造に充当されていなければならない。 していないことである。 いえば、剰余価値は、それを体化する剰余生産物がすでに新 資本の物象的諸成分を含むがゆえにのみ、資本に転化されう そこで、われわれの例にたち帰ろう。それは、アブラハム・ るのである。 がイサクを生み、イサクがヤコブを生み、云々というむかし 一 = ここでは輸出貿易ー・ーすなわち、それに媒介されて一国民が奢侈品を 話である。一万ポンドの本源的資本が一一〇〇〇ポンドの剰余・ 生産 " または生活手段に転態し、またその逆のことをもなしうる輸出貿易を価値を生み、これが資本化される。一一〇〇〇ポンドの新資本 捨象する。研究の対象をその純粋性において、攪乱的な附随的諸事情から自 が四〇〇ポンドの剰余価値を生む。これが再び資本化ーーっ 由にとらえるためには、われわれはここでは、全商業世界を一国と見なし、 まり、第一一の追加資本に転化されて、八〇ポンドの新剰余価 また、資本制的生産がいたるところに確立してあらゆる産業部門を征服した ものと前提しなければならない。 値を生む、等々。 さて、これらの成分を事実上資本として機能させるために ここではわれわれは、資本家によって消耗される剰余価値 . は、資本家階級は労働の追加分を要する。すでに就業してい 部分を度外視する。また、追加資本が本源的資本に附加され る労働者の搾取が外延的にも内包的にも増加されえないとするか、それとも、別にされて自立的に価値増殖を営ませられ れば、追加労働力が編入されねばならない。 このことにつし るか それを蓄積したのと同じ資本家がそれを利用する ては、資本制的生産の機構がやはりすでに配慮ずみである。 か、それとも、彼がそれを他の資本家に移譲するかというこ のけだし、この機構は労働者階級を、労賃に依存する階級とし とも、さしあたりわれわれの興味をひかない。われわれの忘」 本て再生産するのであるが、彼らの普通の賃銀は、彼らの生活れてならぬことは、ただ、新たに形成された諸資本とあい並 の維持のみならず彼らの増殖をも保証するに足るからである。 んで、本源的資本もひきつづき自己を再生産し剰余価値を生 娵資本は、労働者階級によって様々な年齢で年々提供されるこ産するということ、および、同じことは蓄積されたどの資本 の追加労働力を、年生産のうちにすでに含まれている追加生についても、それによって生みだされた追加資本との連関に 章産手段と合体させさえすればよいのであって、それで、剰余おいていえるということ、だけである。 本源的資本は一万ポンドの投下によって形成された。その 二価値の資本への転化は完了である。具体的に考察すれば、蓄 第 積は、累進的規模での資本の再生産に帰着する。単純再生産所有者はこれを何所からえたか ? 彼じしんの労働および彼 の先祖の労働によってだ ! と、経済学の代表者たちは異ロ . の循環が変化して、シスモンディの表現をかりれば、一つの らせん 螺旋に転化する。 同音に答える。そして彼らの仮定は、事実上、商品生産の諸」 ( ニ一 ) 610

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較にならぬほど長くかかる・苦しい・困難な過程である。前 とづくものであり、他方は、他人の労働の搾取にもとづくも の場合には、少数の横奪者による人民大衆の収奪が行なわれのである。後者は前者の正反対物をなすばかりでなく、前者 たが、後の場合には、人民大衆による少数の横奪者の収奪が の墳墓の上にのみ生長することを、経済学は忘れている。 ( ニ五二 ) 行なわれる。 経済学の故郷たる西ヨーロツ。ハでは、本源的蓄積の過程が = 五 = 「産業的進歩ーー・フルジョアジーを自己の無意志・無抵抗な担い手とす多かれ少なかれ完成されている。資本制的支配体制が、ここ る産業的進歩は、竸争による労働者たちの孤立化の代わりに、提携による彼 では、国民的生産ぜんたいをすでに直接的に征服している らの革命的結合を生・せしめる。だから、大工業の発展につれて、プルジョア か、または、諸関係が未発展なところでは、そのかたわらに ジーの足もとから、彼らがその上で生産しかっ生産物を取得する基礎そのも のが、さらわれる。彼らは何よりも先ず、彼らじしんの墓掘人を生産する。存続しつつある・衰微しつつある・時代おくれの生産様式に眄 ・ : 今日プル 彼らの減亡とプロレタリア 1 トの勝利は等しく不可避である。 属する・諸社会層を、少なくとも間接的に統制している。こ ジョアジーに対立するすべての階級のうち、プロレタリアートだけが現実に うした既成の資本世界にたいし、経済学者は、諸事実が彼の 革命的な階級である。その他の諸階級は、大工業とともに衰徴し、減亡する しっそう躍起 イデオロギーを声たかく面罵すればするほど、、 が、プロレタリアートは、大工業の固有独自の産物である。中間諸身分 小産業家、小商人、手工業者、農民、これらはすべて、中間諸身分としての になり夢中になって、先資本制的世界の法律観念および所有 彼らの生存を減亡から守るために、・フルジョアジーと闘争する。彼らは反動 観念を適用する。 的である。すなわち彼らは、歴史の車輪を逆に廻そうとする。」 ( カール・マ 植民地では趣きが異なる。資本制的支配体制は、ここでは ルクスおよび・エンゲルス「共産党宣一 = ロ』、ロンドン、一八四八年、九、 一一頁。〔ディーツ版・全集』第四巻、四七二、四七四頁。〕 ) 到るところで、生産者ーーすなわち、自分じしんの労働条件。 の所有者として、自分の労働により、資本家をでなく自分じ しんを富ませている生産者の妨害にぶつかる。この二つの正 . 反対な経済体制の矛盾が、ここでは、それらの闘争において 第二五章近代的植民論 実践的に自らを実証する。資本家が母国の権力によって後援 されている所では、彼は、自己労働にもとづく生産Ⅱおよび 一一五三ここで取扱われるのは、現実の植民地、すなわち、自由な移民によっ 取得様式を、暴力的に一掃しようとする。資本の追従屋たる・ て拓殖される処女地である。合衆国は、経済的にいえば、いまなおヨーロッ パの植民地である。そのほか、奴隷制度の止揚によって事情が一変した旧植経済学者をして、母国にあっては資本制的生産様式を理論的 栽地も、ここで取扱われる。 にそれ自身の反対物であるかのように説明させる利益、 経済学は、原則的にひじように相異なる一一種類の私的所有その同じ利益が、植民地にあっては、彼をして「事態をあけ を混同するのであって、その一方は、生産者の自己労働にもすけに語らせ」、両生産様式の対立を声たかく宣言させる。

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らゆる著述に見られるということを、報道することもできたであろう。手工 著述「租税にかんする考察」、ロンドン、一七六五年、のうちにも見られる。 業と区別されるマニュファクチ、アの出現とともに、児童の搾取がーーーこれ 話にもならぬ統計的儷舌家たるポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアス は、以前からある程度まで農民たちのあいだに実存しており、そして農村民 は「ハムレット」にでる人物であって僥舌な廷臣〕も、同じ考え方である。 くびき に加えられる軛が苛酷となればなるほどますます甚だしくなるのであるが、 労働者を弁護する人々のうちで秀れているのは、「貨幣万能論」、ロンドン、 その形跡を現わすということは正しい。資本の傾向は紛れもないが、事 一七三四年、におけるジェーコプ・ヴァンダリント、「食糧の現在の高価の 実そのものは両頭児の誕生と同じようにまだ例外的である。だからこそ、そ 諸原因の研究」、ロンドン、一七六七年、における神学博士ナサニエル・フォ うした事実は特に注意すべく驚嘆に値するものとして、予感に充ちた「商業 ースター師、プライス博士、および殊にまた、「一般商工業辞典」への補遺、 の友たち」によって、当代および後代のために「有頂天」になって記録さ ならびに「イギリスの商業的利益の説明および改善」、第二版、ロンドン、 れ、その真似を勧められたのである。スコットランド生れの追従屋で美辞麗 一七五五年、におけるポスルスウェイトである。事実そのものは、同時代の 句屋たる同じマコーレーはいう、 「今日では、聞くといえば退歩のみで ほかの多数の著述家たち、なかんずくジョサイア・タッカーによって確認さ れている。 あり、見るといえば進歩のみである」と。何という眼だろう、ことに何とい う耳だろう ! ポスルスウェイトはなかんすく次ぎのようにいう、 「労働者が 生活するに充分なだけを五日間で受取りうるならば、彼はまる六日間 一八世紀の大部分を通じて、大工業の時代にいたるまで、 も労働しようとはしないという、余りにも多くの人々のロにのばる陳 イギリスの資本は、労働力の一週間分の価値を支払うことに 广しいぐさを注意することなしには、私はこのささやかな陳述を終 よって、労働者たちーーといっても農業労働者は例外ーー・ーの るわけにゆかない。右の事情から、彼らは、手工業者およびマニ = フ まる一週間を占領することには、まだ成功していなかった。 アクチュア労働者をして余儀なく週に六日間休ます労働させるために 彼らが四日分の賃銀でまる一週間生活しえたという事情は、 は、租税その他の何らかの手段で必要生活手段をさえ騰貴させる必要 労働者たちにとっては、ほかの二日も資本家のために労働すがある、と結論する。失礼ながら私は、この王国の労働者たちの永続 的奴隷状態のために戦うこれらの偉大な政治家とは意見を異にする。 る充分な理由とは思われなかった。イギリスの経済学者の一 わがま一ま 彼らは、 all work and noplay ( 働いてばかりいて遊ばないと馬鹿に ことわぎ 派は資本のためにこの我儘をこっぴどく非難したが、ほかの なる ) という諺を忘れている。これまでイギリス商品に一般的な信 一派は労働者たちを弁護した。われわれは、たとえば、ポス 用と名声を与えてきたイギリスの手工業者やマニュファクチュア労働 彼の商業辞典は、その当時、今日マカロッ 働ルスウェイト 者の独創性と熟練は、イギリス人の誇りとするところではないか ? 労クおよびマクグレガーの同種著作が好評なのと同じ好評を博 これはいかなる事情のお蔭であったか ? おそらく、わが労働者たち うつ と、さきに引用した『産業および商業にかんする一 章した が思い思いに鬱を散ずる仕方様式いがいの何もののお蔭でもないであ ろう。彼らが毎週まる六日間同じ仕事をたえず反復しながら年中はた 第論』の著者との論戦を聞いてみよう。 らきとおすことを強制されるならば、そのことは、彼らの独創性を鈍く 一 = 一労働者を非難する人々のうちで最も手きびしいのは、本文にあげた「産 し、彼らを活にし老練ならしめる代わりに愚鈍ならしめはしないで 業および商業にかんする一論、ーーー課税にかんする諸考察を含む」、ロンド ン、一七七〇年、の匿名著者である。彼の意見は、すでにそれ以前に、彼の あろうか、そしてわが労働者たらは、かかる永続的奴隷状態の結果と 286

8. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

Ⅷ け加わる。 進んで、すべてのーーーまたは、ともあれ多数のー・ー生産物が だから、貨幣を資本に転化するためには、貨幣所有者は自商品の形態をとるのはいかなる事情のもとでであるか、とい うことを探究したとすれば、それは、まったく独自なーー資 由な労働者を商品市場に見いださねばならぬのであって、こ こに自由というのは、自由な人格として自分の労働力を自分本制的なーー生産様式の基礎上でのみ生ずるということが、 の商品として処分するという、また他方では、売るべき他の見いだされたであろう。だが、こうした研究は商品の分析と 商品をもたす、自分の労働力の実現に必要ないっさいの物象は縁遠いことであった。ほとんど大部分の生産物が直接に自 から引離されている・自由である・という、二重の意味にお己需要に向けられていて商品に転化されていなくても、つま いてである。 り、社会的生産過程がまだなかなかその全体的な広さおよび 何ゆえに、 この自由な労働者が流通部面において貨幣所有深さにおいて交換価値に支配されていなくても、商品生産お 者に対応するかという問題は、労働市場を商品市場の特殊的よび商品交換は生じうる。商品としての生産物の表示は、使 これは直接的な交換取引〔物 一部門として見いだす貨幣所有者には興味がない。またそれ用価値と交換価値との分離 は、しばらくは、われわれにも興味がない。貨幣所有者が実物交換〕においてはじめて始まる がすでに完成されてい 践的に事実にかじりつくのと同じように、われわれは、理論 るほどまでに発展した社会内分業を条件とする。だが、こう 的に事実にかじりつく。だが、一つ明白なことがある。自然した発展段階は、歴史的に甚だしく相異なるもろもろの経済 は、一方のがわに貨幣Ⅱまたは商品所有者を、他方のがわに的社会構造に共通のものである。 この関係は あるいは、われわれが貨幣を考察するならば、それは、商 単なる自己労働力所有者を、産みだしはしない。 品交換の特定高度を前提とする。特殊的な貨幣諸形態ーーた 自然史的関係ではなく、また、すべての歴史的時代に共通な 社会的関係でもない。それは明らかに、むしろ、先行した歴んなる商品等価、または流通手段、または支払手段・蓄蔵貨 史的発展の成果であり、幾多の経済的変革のーー社会的生産幣および世界貨幣ーー は、そのいずれかの機能の相異なる範 の全一連の古い諸構造の減亡のーー産物である。 囲と相対的優越とに応じて、社会的生産過程のきわめて相異 われわれが前に考察した経済的諸範疇もまた、それらの歴なる諸段階を示唆する。とはいえ、経験によれば、これらす 史的痕跡をおびている。商品としての生産物の定在のうちに べての貨幣形態が形成されるためには、商品流通の比較的微 は、一定の歴史的諸条件が包みこまれている。商品となるた 弱な発展で充分である。資本については趣きが異なる。それ めには、生産物は、生産者自身にとっての直接的生活維持手の歴史的な実存諸条件は、商品流通および貨幣流通とともに 段としてでなく生産されることを要する。もしわれわれが、 は決して定在しない。資本は、生産Ⅱおよび生活手段の所有

9. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

本源的蓄積の歴史において歴史的に画期的なものといえら農奴であった宰〔差配人〕が、自由な借地農業者によって ば、資本家階級の自己形成に槓杆として役だっすべての変革駆逐されていた。農業上の賃労働者は、一部分は、自分の余 がそうであるが、わけても、人間大衆が突然かっ暴力的に彼暇を大土地所有者のもとでの労働によって利用した農民から らの生活維持手段からひき離されて、無一物な。フロレタリア成りたち、一部分は、相対的にも絶対的にも数の少ない自立 として労働市場に放りだされる瞬間がそうである。農村生産する本来の賃労働者階級から成りたっていた。後者も事実的 者・農民・からの土地収奪は全過程の基礎をなす。この収奪には、同時に自営農民であった。というわけは、彼らはその の歴史は、国が異なれば異なる色彩をおび、また、順序を異賃銀のほかに、四エーカーまたはそれ以上の耕地と小屋とを にし歴史的時代を異にするさまざまな段階を通過する。それ分与されていたからである。のみならず、彼らは本来の農民 はイギリスでのみ古典的形態をとるのであって、だからわれとともに共同地の用益権を享有したのであるが、この共同地 ( 一八九 ) は、彼らの家畜の放牧場であると同時に、彼らに燃料たる薪 われはイギリスを例にとるのである。 一 ^ 九資本制的生産が最も早く発展したイタリーでは、農奴制諸関係の解消や泥炭などをも提供した。ヨーロッパのどの国でも、封建制 も最も早く行なわれた。ここでは農奴が、土地にたいする何らの時効的権利 的生産は、できるだけ多数の臣下のあいだへの土地の分割に も確保しない前に解放された。だから、彼の解放はただちに彼を無一物なプ よって特徴づけられている。封建領主の権力は、どの主権者 ロレタリアに転化したが、そのうえにこのプロレタリアは、すでにローマ時 代からつづいてきたたいていの都市では、新たな主人がちゃんと出来ている の権力とも同じように、彼の地代帳の長さにではなく、臣民 のを見いだした。一五世紀末いらいの世界市場革命が北イタリーの商業的優 の数にもとづくのであって、この数は自営農民の数によって ( 一九二 ) 越をくつがえしたとき、反対の方向に運動がおこった。都市労働者が大量的 積 定まった。だからイギリスの土地は、ノルマン人による征服 に農村へ駆逐され、そしてそこで、園芸方式で経営される小規模耕作に未曾 蓄 有の隆盛をもたらした。 的 後には巨大な・ハロン領に分割され、その中にはただ一つで九 源 本 〇〇もの旧アングロサクソン貴族領を包括するものもしばし る ゅ つばいあっ 第二節農村民からの土地の収奪 ばあったとはいえ、そこには小さい農民経営がい て、ただ、ここかしこに比較的大きい領主直営農場が点在し 章イギリスでは農奴制が、一四世紀の終頃にはすでに事実上ていただけである。かような事情は、一五世紀を特色づける ( 一九 0 ) 二消減していた。人口の大多数は、当時には、また一五世紀には 都市の繁栄とあいまって、かの大法官フォーテスキューがそ 第 さらにいっそう、自由で自営の農民ーー・・・・彼らの所有がいかな の著『イギリス法の讃美」で雄弁に描写しているような人民 3 る封建的看板によって隠蔽されていようともーーから成りた的富を可能にしたが、しかし資本的富を排除した。 っていた。比較的大きい領主直営農場では、以前にはみずか 一九 0 「自分の手で自分じしんの畑を耕して、つつましい身上を楽しんでいた ( 一九一 )

10. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

あってもいけません。私は自分の子供にも、授業に変化を与えるために労働 クチュア場や工場だけででも使用されうるものたらしめる何 や遊戯をやらせたいと思います」と。 ( 「児童労働調査委員会、第五回報告」、 らかの労働を修業することなく長年にわたって搾取されると 八二頁、第三六号。 ) いう、おそるべき事実のうちに現われる。たとえば、イギリ き 0 シ 1 ニョア「議事報告」、〔六五、〕六六頁。特定の高度に達した大工業 スの印刷所では、従来は、旧式マニュファクチュアや手工業 は、物質的生産様式および社会的生産諸関係の変革によって頭脳をも変革す るということは、一八六三年の Z ・・シーニョアの演説を一八三三年の彼 の制度に適応した、容易な労働から内容豊富な労働への徒弟 の工場条例反対演説と比較しても、また、前述の大会の意見を、つぎの事実 たちの移行が行なわれた。彼らは、一人前の印刷工となるま ー・ーすなわち、イギリスの特定の農村地方では貧乏な親はいまなお餓とい でに、ある課程を修了した。読み書きができるということが う刑罰によって、子供を教育することを禁止されているという事実と比較し ても、はっきり分かる。かくして、たとえばスネル氏がサマーセットシャー 彼らのすべてにとって要件であった。ところが、印刷機とと の日常的慣習として報告するところでは、もし貧乏人が教区の救恤を仰ぐな もに一切の事情が変化した。印刷機には二種の労働者が使用 らば、彼はその子供を退学させることを余儀なくされる。フェルタムの牧師 ワラストン氏も、「子供を学校にやったがゆえに ! 」いっさいの補助を拒絶 されるのであって、機械の見張りをする成年工一人、他はた された幾つかの家族のばあいについて語っている。 いてい一一歳ないし一七歳の少年ェであり、この少年工たち すでに見たように、大工業はマ = = ファクチ = ア的分業の仕事は、もつばら、印刷用紙を機械にさしこんだり、印刷 された紙を機械から取りだすことである。彼らは、殊にロン そのもとでは一人の人間全体が生涯にわたって一つの細 ドンでは、週のうち幾日間かは一四時間、一五時間、一六時 目作業にしばりつけられるーーを技術的に止揚するのである が、同時に、大工業の資本制的形態はかの分業をいっそう怪 間ずつ中断なく、そしてしばしば食事と睡眠とのためのわす 異なものに再生産するのであって、こうした再生産は、本来 か二時間の休みがあるだけで引きつづき三六時間、この苦役 的工場では、労働者を部分機械の自己意識ある附属物に転化 をする ! 彼らの一大部分は字が読めない。そして彼らは、 工することによ「て行なわれ、その他の所では、部分的には機概して、ま「たく野蛮化された・常規を逸した人間である。 大 械および機械労働の散在的使用により、部分的には分業の新「彼らにその労働をなす能力をえさせるためには、なんらの たな基礎としての婦人労働・児童労働および不熟練労働の採種類の知的訓育も要しない。彼らは、熟練を要する機会がほ 章用によ「て行なわれる。「 = = ファクチ = ア的分業と大工業とんどなく、判断を要する機会はなおさらない。彼らの賃銀 一の本質とのあいだの矛盾は、暴力的に自己を主張する。それは、少年としては幾らか高いが、彼らじしんが成長するのに 第は、なかんずく、近代的な工場やマ = = ファクチ = ア場では比例して増加するわけではなく、また大多数の者は、機械見 7 たらく児童たちの一大部分は、きわめて幼少時から極めて簡張工という収入がよくて責任の大きい地位にのぼる見込みが ない。というのは、機械一台につき見張工は一人にすぎない 単な作業にかたく縛りつけられ、後年彼らを同じマニュファ